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2006年2月17日 (金曜日)

仮面ライダーカブト 02

続いて第二話の問題点だが、これはやはり喫煙問題に尽きるだろう。

案の定ネットでも喧しい論議の対象となっているようだが、オレの意見としてもあれはやはりおかしい。自分自身喫煙者だということもあるのだが、公的に悪習と規定されている喫煙を悪者に仕立てればそれで足れりという油断が、本当になかったかどうかを是非問いたいものだ。

まず、大前提として「灰皿があったんだから吸ってもいいということだろう」というガイジン客の言い分は全面的に揺るぎなく正しい。彼らの喫煙で迷惑する客がいるのだとすれば、それは全面的に店の側の責任であって、店の側の人間が無礼な態度で注意するというのはどう考えても間違っている。

灰皿が「あった」ということは、卓上にデフォで灰皿を置いていたということであるが、いくらビストロ形式でもいやしくも厨房への繋ぎをフランス語で伝えるようなそれなりのフレンチレストランなら、それは店側がまったく無前提に客の喫煙を許容しているという「サイン」である。

なぜなら、フレンチにおいては食事・飲酒と喫煙はまったく分けて考えられているからであって、最初から灰皿を置いているような店は普通ない。喫煙を許容する店でも、コース料理なら食事が終わる前に喫煙するのはマナー違反であるから、最初から灰皿を置くようなことはしない。食後に喫煙する場合はウェイターを呼んで灰皿を要求するというアクションが必要である。

「灰皿を要求する」というアクションが加わることで、店側が客の喫煙をコントロールできることになり、周囲に妊婦や子どもがいるとしたら、やんわりと喫煙を遠慮してもらうというふうに、店の側から客にアプローチできるわけである。

それゆえ、デフォで灰皿が置いてあるということは、店の側が客の喫煙をいっさいコントロールしないというサインになってしまうのである。そしてそれは、いついかなる場合でも客の喫煙によって他の客が迷惑しないよう、店の側が店舗設計や席毎の間隔を配慮しているという保証となる。

おおむねフレンチにおけるホスピタリティというのはこのようなものであって、つまり、ちゃんとしたフレンチの店なら、客が喫煙の是非を判断する必要はないのである。

近年では、予め喫煙か非喫煙かを客に問うのは飲食業界においては最早常識であって、そのうえで喫煙者も非喫煙者も互いを意識することなく食事を楽しめるよう配慮するのが当たり前の「もてなし」である。分煙する余裕のない店なら全席禁煙にすればいいだけの話だし、分煙できないくせに喫煙を許容するのであれば、それは徹頭徹尾店側の事情であって、客が第一義的に斟酌すべき事柄ではない。剰え、周囲に気を遣わなかったからといって真っ先に客が非難される謂われはない。

一般にフレンチレストランの料金が高いのは、そうしたホスピタリティが料金に含まれているからである。料理店はただ客に喰い物をあてがう場ではなく、マナーに従って振る舞う限り、たいせつな客として「もてなし」を受け、寛ぎを得られる場なのである。そのようなフレンチのホスピタリティ精神は、町場の小さなビストロだからといってとくに変わるわけではない。

ことにビストロスタイルのレストランは、気軽に料理や酒を味わいながら会話を楽しむ場でもある。喫煙に関しても本格的なフレンチよりも縛りは緩いのであるから、店の側が喫煙者と非喫煙者の分別を保証すべきなのであって、喫煙・分煙に関して客が気を遣わねばならないというのでは、この種の料理店として失格である。

さらにあの場の状況からいっても、喫煙者の団体のすぐ隣に子ども連れがいることがすでに店としてダメダメである。ビストロといえどもフレンチレストランにおいては、ちゃんとマナーが守れるのか他の客に迷惑をかけることはないのかが保証されない子どものほうが隔離対象なのだ。大人の喫煙客のすぐ近くに子ども連れの席を設えるということ自体、店側が客に目が届いていない証拠なのだし、その結果一方の客が迷惑を蒙っているのなら、そのように席次をセッティングした店側が責任を負うべきなのだ。

きちんとした店なら、気心の知れた御近所さんでもない限り子どもの入店を歓迎することはないし、子どもを入れる場合には大人の客の邪魔にならないように気を遣い、待たせてでも少し離れた席に就かせるものだ。翻って、それが子どもを大人の客から守ることにもなる。

断っておくが、これはオレの脳内の理想的なフレンチレストランがそうなのではなく、一般的なフレンチレストランにおけるアベレージの接客態度の基準である。そうでない店もあるにはあるが、それは単に三流店の烙印を押されるというだけである。

今回のケースは、店の側が許容した喫煙によって、店の側が喫煙者の近くに席をとった子どもが迷惑を蒙っているのに、店の側の人間が喫煙者に無礼を働いたというケースなのである。剰え、いきり立ったガイジン客を別の客が暴力で追い払う様を、店主らしき女性は「よくぞやってくれました」とばかりにほくそ笑んで傍観しているのである。これはもう、この女性を劣悪な飲食業者として描く意図でもない限り、大きな間違いである。

主人公三人が日常的に集う場所として設定されている店である以上、この店は龍騎におけるアトリのようなポジションの場だということだし、この女性は角替和枝のようなポジションの人物だということだから、ダメな店主として描くつもりはないはずであり、ならばこの描写はやはり失敗なのだ。

喫煙が他の客の迷惑になっていることを認識しているなら、まずこの女性が責任者として応対に出て、店の側の不手際を詫びたうえで、喫煙を遠慮していただくようお願いすべきだったのである。

どれ一つをとっても店側の不手際でしかない事柄に対して、店側の人間が客に無礼を働いたのを咎めもせず、かといって客を取りなしもせず、その客が悪いかのように顔を顰めてみせるだけで、剰え横合いから客だかどうだかもわからない見ず知らずの男が割って入って暴力で客を追い払ったことを、この女性は歓迎すべきことだと考えているわけである。

オレから見たら、悪いのはこの女性ただ一人であって、ガイジン客でも子どもでも僕女でもない。コミュニケーション不全でまともに会話もできない行儀の悪い女を接客に出している段階で、こんな店は失格である。フレンチでたいせつなのは喰い物の味だけではない、給仕の接客マナーもまた優るとも劣らぬ重要な要素なのである。

そもそも、こういう悶着が起こらずに客が気持ち好く食事を楽しむことができるように心を砕くのが彼女の責任なのであり、それはガイジン客に対しても子ども客に対しても公平にいえることである。客は料理店において平等に王侯貴族として扱われるべきなのだ。

このような悶着が起こるのは、そもそもこの女性が客に対していっさい気を遣わずにただ単に喰い物をあてがっているからである。オレがこの場に居合わせたら、間違いなく二度とこの店には来ない。そのうえで、まちBBSにこの店の悪口を書き込むだろう(木亥火暴!!)。

さらに悪いのは、主人公である天道が僕女の肩をもってガイジン客を恥知らずと罵ることである。広い意味でいえば弱者に対する思い遣りから発した行為とはいえ、僕女の行為はガイジン客にとってみれば理不尽な暴力でしかないのだし、お金を払っているお客様に対する言葉遣いではない。動機がどうあれ、行動として僕女は決定的に間違っているのである。

百歩譲って天道がガイジン客を追い払ったことには「変人だから」と目を瞑ってもいいが、僕女の無礼な行為について天道がまったく叱責しないのはいただけない。第一話において、お喋りを楽しんでいただけの露天商をあれだけこっぴどく叱りつけたこの男が、である。

いかに一般的な尺度から視て天道が変人であっても、この番組の正義は天道が一身に体現しているのだ。天道が批判しない以上、この物語においては僕女の客に対する暴言や暴力は正しいことになってしまう。天道自身は、言ってみればこの物語における荒ぶる神なのだから(笑)、その時々の気分でいかにそれが理不尽であろうともガイジン客の思い遣りのなさを指弾して暴力を働いてもギリギリ許されるが、主人公である天道以外の人間の過ちに対しては健全な批判を行わなければいけない。それは、この種の主人公は物語における一視同仁の神なのだから、他人に対して「だけ」は公平かつ妥当でなければならないからである(木亥火暴!!)。

ガイジン客を追い払ったあと、天道が僕女の行動なり店側の姿勢なりを批判すれば、翻って天道の理不尽な暴力も「変人だから」「神だから(笑)」で許容される目もあったのである。「客(天道)をおまえ呼ばわりするな」と言わせるくらいなら、「あんな客(ガイジン)でも客は客だ」とでも言わせるほうが、筋としては間違っていてもよっぽど気が利いている。

ガイジン客も僕女ももろともに裁くことによって、辛うじて天道という荒ぶる暴力神は成立するのである。この物語において全き正しさは天道の主観にしかないという行き方も、アリはアリだ。社会的な意味での「行動の倫理」「調停の倫理」に囚われることはないが、個々人の心奥に踏み込んだ「内面の倫理」を厳しく問う神の視点の人物として描く方向性も、この種のタイプの「強い主人公」ならば、アリはアリなのである。

そのようなタイプの「強い主人公」を描くには、彼の言動に力強い妥当性をもつロジックが貫かれていなければならない。

しかし、現状では、単に一つの描写として不自然であるばかりではなく、天道の体現するこの番組の正義もまた独り善がりで考えの足りないものであるというふうに見えてしまう。なまじいに「灰皿があるということは」というセリフを言わせ、「ルールが禁じていなければ何をしてもいいのか」的な問題提起に踏み込んでいるだけに、失敗の影響が大きくなってしまうのだ。

そのテーマを扱うのなら、この状況設定は徹頭徹尾間違っている。他者の痛みに配慮することが、問答無用で個々人の自発的な意志に求められているような状況を無理なく設定しなければ、それはただの眼高手低である。それくらいなら、全席禁煙の店なのにガイジン客が傍若無人にルールを無視して煙草を吸い始めた、というくらいベタな状況設定に留めるべきだったのだ。

そのようなベタのもう一段上を狙う欲があるのなら、詰めて詰めてグウの音も出ないくらい設定を詰めるべきなのである。先のゼクトルーパーの件もそうなのだが、上を狙う欲がありながら、もう一歩詰め切れていないもどかしさを、ここまでの二話で共通して感じてしまった。これは大きな不安要素である。

では、ここまで徹頭徹尾状況設定が間違っているのはなぜなのか。その具体的理由を類推してみよう。

こういうふうにイメージしてみたらどうだろう。ここは小粋で明るいビストロではなく、終戦後に焼け跡ですいとんの屋台を引っ張ってたオッチャンが汗水垂らして貯めた金で開いたラードの煤だらけの小汚いラーメン屋で、カウンターの向こうでは、半ズボンの頃から炒飯の鍋を振ってた二代目がくわえ煙草でスポーツ新聞を拡げている。

そういう店で、外国人労働者が三人くらい丸テーブルに座ってて、不味そうな素ラーメンを喰ったあとしきりとハイライトをふかしながら辺り構わぬ大声で母国語の会話を交わしている。で、そのすぐ隣の丸テーブルでは、生活に疲れたオバチャンが洟を垂らしたガキといっしょに、やっぱり不味そうな素ラーメンを啜っているわけだ。

こういう場において、昨日からバイトで雇われた中国からの留学生が、外国人労働者たちの灰皿に水をぶっかけて「子ども、煙そうにしてる」と片言で怒ったとしたら、多分この場の芝居は成立してしまうのである(木亥火暴!!)。

だれも古くからある町場のラーメン屋に真剣勝負のホスピタリティなんか求めはしないし、それはそれで構わないのである。町場の小汚いラーメン屋にはそれなりの存在意義があるのであり、その埒内ではいろいろとホスピタリティにも不具合がある。子どもの頃から知ってるラーメン屋のオッチャンに無理を言っても仕方ない、そのような性格の場所において王侯貴族のようなもてなしを期待するのは間違っている。だからこそ客同士が気を遣い合うことが重要なのである。

こういう構えの店が、こんにちのような世知辛い世相下でも何とかやっていけるものかどうかは知らないが、大人の日本人の大多数が煙草を吸っていたような時代からあるちっぽけな料理店に対して、分煙しろの喫煙者を排除しろのと言ったとしても立ち行かないのだし、世の中の情勢が変わったからといってこういう店が立ち行かなくなってもいいということではない。それもまた、昭和の光景の生き残りである。見苦しいからといって軽々に排除していいというものではない。

地域の人情と店主の顔でヌルい接客の場が辛くも成立しているような、そのような事情を前提にして初めて客の側が喫煙を配慮するという事態がアクチュアルな問題となる。すなわち、これが徹頭徹尾店の不手際であるということは大前提であっても、それに無理もない理由があるかないか、そのような不手際が許容され得る環境なのかどうか、ホスピタリティとは別種の存在意義が成立しているかどうかが分岐点なのだ。

現在の豊かな世相を前提として昨日今日開店したような小綺麗なフレンチ系統のレストランで、そのまま当てはまるような問題ではないのである。

小汚いラーメン屋や外国人労働者を不当に差別するわけではないが、今回の問題はどうしても、このような今では風化しつつあるケースを丸々舞台だけ小綺麗なビストロに置き換えて安易に考えただけというふうに思えてしまう。

この失態もまた、米村脚本の責任か石田演出の責任かは特定できない。しかし、その辺の真相を知っている関係者には、このような失態を犯すことは、物語の送り手として恥ずかしいことなのだという意識だけは持ってもらいたいのである。

つまり、いやしくも物語文芸に携わる人間なら、大して豊かな暮らしではなくても、衣食についてはそれなりに金を遣うべきだというのは、こういう場面で恥をかくからなのである(木亥火暴!!)。物語の送り手が衣食の部分で地金を晒すのは、オレの感覚では非常にみっともないことなのである。

衣服を通じた自己イメージの演出と食の快楽というのは、人の現実において大きな実感と幸福の拠り所なのだし、そこに金を遣わないということは、人生の大きな楽しみについて投資を怠っているということである。それでも想像力や取材で補えるだけの才覚があるのなら、事実においてどうだろうが構わない。だが、こういうふうな失態を犯すのなら、物書きや映像作家としての根本的な感性を厳しく問われるということだ。

近所のラーメン屋で外国人労働者を見て思い附いたような筋立てを、ガワだけフレンチに入れ替えて描くのは、いやしくもプロの表現者として恥ずかしいことなのである。

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