三人娘が教えてくれる
あなたは人前で「すぐりふみえ」をつい「ふぐりすみえ」と言ってしまって、相手の頬を赧らめてしまったことはないだろうか。
オレはある。
というわけで、トリノ五輪真っ直中でセイザーXの放映が「五輪ダイジェスト」というしょっぱい特番で飛んだりしているわけだが、他種目にはいっさい興味がないのに女子フィギュアスケートだけは連日固唾を飲んで見守っていたりするのである。理由は説明するまでもないだろうが、着膨れデフォの冬季スポーツの中で唯一フィギュアスケートだけが露出度の高いコスチュームプレイの要素があるからである(木亥火暴!!)。
たとえば人が何かを愛好する場合、さまざまな要素の複合として何となく好きだというのが大方のケースであって、「オレは○○のこれこれこういう側面が好きだ!」と明快に言い切れる人というのは珍しい。個人的には、その手の言説はその場の言い取り次第だと考えているので、それが当人の心的な現実を何程か言い当てたものではあるとしても、基本的に全面的には真に受けない。
そして、その愛好の核になっている心的な要素というのは、人によって振れ幅が無限に異なるのだろうし、Aというジャンルを愛好する人間がBというジャンルもまた愛好する場合、ABの両ジャンルの間に何かが共通項として介在するのか、それともそれぞれまったく隔絶した別の要素に惹かれているのかというのは、理論で説明できるほど画然と整理できるものではないと思う。
ただ、オレの場合、どうもフィギュアスケートや新体操など、演技的な側面を持つ女子スポーツ一般については、何となく特撮ヒロインのような興味を覚えているのではないかという気がする。これを逆にいうならば、オレが特撮ヒーロー番組を試聴する動機のかなり大きな部分を、「肌も露わなコスチュームの女性が美しいアクションを演じる」という下世話な要素が占めているということになる。
オレって下世話な人間だなぁ、やっぱり水着エピソードを毛嫌いしている某Pとは感性が相容れないかもしれない(木亥火暴!!)。
あと、日本期待の三人娘がオーディションで発掘してもこれほどにはならないだろうと思われるほどおもろい顔揃いなのが見た目に楽しい(木亥火暴!!)。
氷上で演技を行う場面においては皆それぞれ独特の演技上の表情を持っているのだが、一度リンクを降りて素の表情に戻ると、花形恵子が声を当てるジュサブロー人形みたいだったり喋り方がミスター・エドそっくりだったり亜州の血統の複雑さを感じさせるような縄文顔だったりと、みんな飛び道具のようなおもろい顔揃いなのに、それぞれ世間一般的には「可愛い」と目されCMに重用されているのが興味深い。
柔道のママ金のヒト辺りは、多分見た目のイメージ的には「おばあちゃん予備軍」的な受け容れられ方をしているのだろうし、綜合警備保障のCMでホイッスルを吹いているスノウマンのようなヒトを何某かのジャンルの有名人だと見分けるのは難しいが、三人娘の場合は明らかに一種のアイドルとして扱われている。この違いは何だろうか。
フィギュアスケートや新体操のように演技性の要素があって評価基準に人間の主観が入るスポーツでは、圧倒的にスタイルの良い美形が有利である。同レベルの演技なら手足の長い美人が演じたほうが綺麗に見えるのは当たり前である。某有名選手は「ち・で・ぶ」の三重苦ゆえに普通なら絶対この分野で芽が出ないはずの人材だったのが、飛点の高いジャンプ一発を武器に勝ち上がっていったのはよく識られている事実である。
このように堂々と美醜差別を前提とするスポーツにおいて、女性が「可愛い」というのがどういうことなのか、三人娘を見ているとハタと腑に落ちるのである。タレント並の審美眼で視るなら、いくら主観的な印象が可愛くてもこの種の造形的なおもろさはイロモノにしかならないのであるが、ことフィギュアの世界でいうなら、容姿の要素は従にすぎず、あくまで演技スキルが主となるのであるし、評価基準における審美性というのはあくまで主観的なものなのだから、造形的におもろくても主観的に可愛ければいいのである。
もちろん、タレントレベルの美形でスポーツの才能も同程度に兼ね備えていればそれがベストなのは言うまでもない。一時代前にミキティのポジションにあった八木沼純子辺りはそのレベルと言ってもいいだろうが、そんな万に一つの偶然ばかりが起こるものではない。
たまたまスポーツの才能に恵まれそれを基準に選抜された人材の顔のおもろさというのは、スポーツ一般を視ていればわかるが、そのおもろさの中で可愛いということはどういうことなのか、これを軽々に「φが小さいからこの程度でも」と表現するのは妥当なのかは、三人娘があらためて教えてくれることである(笑)。
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