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2006年2月17日 (金曜日)

最初の話題は当然これだ

やはり最初の話題は白倉でキ・マ・リだろう(木亥火暴!!)。

あちらのレビューがきっかけになって、これまで一人のクリエイターとしてマトモに意識することのなかった白倉伸一郎なる人物の言動について、いろいろな情報に接する機会が増えた。

これまでは精々製作発表の短いコメンタリーや番組終了後の視聴者への謝辞など、公的発話を要約したものしか目にしたことはなかったが、彼の著書やブログ、 雑誌のインタビューなどを精読するようになって、当初漠然と描いていた人物像からかなりシフトしてきたことは事実である。

シャンゼやアギトの頃のイメージとしては、どちらかといえば井上敏樹の個性のほうが強い印象を残していて、作品に対する白倉の関与を過小評価していたきらいがあり、彼の発言も視聴者の期待を煽るだけの無責任なハッタリと視ていた。引いては、職掌柄その言動を鵜呑みにできない不正直な人物という偏見を抱いていたことは事実である。

要は、まったく興味のない人物だったのである(笑)。

実際、著書やブログで思想を語る場面における白倉は、やはり詭弁の人という印象は免れないし、あえて偉そうな人物批判をするなら、何かを掘り下げて語るにはどの分野についても「勉強不足」な面は否めない。これについては追々この場でつまびらかに検証していく予定ではあるが、何かについて深く語る際に必要な基本的手続を識らないとしか思えない不手際な部分が多々ある。

そうした欠落が、結果として彼の言説に「我田引水」「牽強付会」の詭弁というイメージを植え附け、レトリックを駆使する信用ならない人物というパブリックイメージの醸成を招いたのではないか。

だが、前任者の企画の踏襲という不本意な形で復帰したライダー枠で、今度こそ白倉ネイティブの企画として満を持して放つ新番組「仮面ライダーカブト」に関しては、たしかに「喧嘩上等」「(他の番組に)負ける気がしない」と威勢の良いハッタリをブチ上げたものの、そのような印象的なキャッチフレーズ以外の発言を詳細に視ていくと、どちらかといえば作業者寄りのコンクリートな発言が目立つ。

というか、過去に遡ってインタビュー等の発言を子細に視ていく限り、白倉のP的な場面での発話と作業者的な場面での発話は、当たり前のことであるがかなり性格が違う。東映特撮におけるプロデューサー職には、ビジネス面の執行者という側面以上に、製作面における作業者としての側面が色濃くある。当初はここに思いが及んでいなかったために、Pとしての派手でトリッキーな発言にばかり意識がいっていたのである。しかし、作業者としての白倉は、どうやらオレの印象ではかなり正直かつ実直に作業実態を語っている。

その意味で最近興味深かったのは、彼にとって昨年最大のトピックスに当たるであろう「仮面ライダー響鬼」での経験について、朝日ソノラマ刊「キャラクターブック 鬼の肖像」のインタビューで語っている内容であった。

この番組の落とし所については、オレ個人も番組開始当初の時点で「明日夢弟子入りの可能性は五分五分」と視ていただけに、最終的に明日夢が鬼の途を選ばないという選択それ自体は当然と視ている。その「五分五分」の内訳についても、劇的必然性のレベルで五分五分なのではなく、実現可能性の問題としてそう考えていたのである。

劇的必然性のレベルでは、白倉の考察とほぼ同様の理由に基づいて明日夢の弟子入りには否定的な見方をしていた。白倉は響鬼後半のストーリーラインを構想するに当たって「成長とはどういうことか」「鬼になるということはどういうことか」を排除法で考察し、鬼になるということは一つの職業選択であり、職業選択それ自体は成長とイコールではないという結論を下す。

つまり、デフォルトで与えられた安達明日夢というキャラクターの成長が鬼になることとイコールには成り得ないという結論に辿り着いたわけで、これにはオレも広い意味で同感である。

スーパーヒーローになるばかりが成長ではない。ヒーローにならなくても立派な大人はたくさんいるのだし、少年の成長をヒーローになることとイコールとして描いてしまうと、平凡でも立派な大人になるという成長の在り方を否定するような見え方になってしまう。他人より「優れた」「特別な」何かになることが成長であるという安直な見誤りを招いてしまう。

だから、少年の成長物語におけるゴールが「スーパーヒーローになる」であるのは、非常にデリケートな問題を孕んでいるのである。「なる」という達成を描きながらも、衆に優れた英雄になれたから尊いのではないということも同時に強調しなければならない。ある意味、これは作劇の経済からするとコスト対効果比の薄い選択肢であるといえるだろう。ヒーローになるという晴れがましさを前面に謳いながら、同時にその晴れがましさを意味的に相殺するエクスキューズも入れなければならないからである。

むしろ、スーパーヒーローに憧れる子どもの成長とは、普遍的な意味においては、ヒーローそれ自体になることではなく、普通の立派な大人になることなのである。スーパーヒーロータイムの視聴者であるすべての子どもたちが衆に優れた英雄になれるわけでないことは当然であるが、それを見て育つことで平凡でも立派な大人になることは、スーパーヒーローそのものになることよりも出て意味のある成長といえるだろう。

安達明日夢の成長物語を描く場合に最もあり得る作劇とは、そのような構造を劇中でなぞることである。これによって、「子どもたちが特撮ヒーロー番組を観る」という事象そのものに対してメタ的に言及することが可能となり、さらにはメイン視聴者である子どもたちに対するメッセージとして、圧し附けではない作り手の想いを物語に込めることが可能となる。

その前提においては、ヒビキという一人の大人は、たまたま鬼というスーパーヒーローであっただけのことで、明日夢がヒビキから何かを学ぶとしたら、一人の大人としての普遍的な在り様であるべきであり、鬼としての職業的スキルや超人的な能力それ自体ではない。

明日夢がヒビキの背を慕って成長することは、当然鬼という職業を選択することとイコールではあり得ないのである。一人の大人としての在り様を学ぶことと、そのうえで大人を目指す自分が何を為すのか、どのような職業を選択するのか、というのは完全に別問題なのである。

「仮面ライダー響鬼」のような道具立てで少年の成長物語を描く場合、明日夢が鬼にならないという結論は、それこそ白倉が言うように「機械的に決まってしまう」「響鬼ってそういう話」なのである。「明日夢独自の物語」ではない「普遍的な少年の成長物語」との白倉の言はそのような意味であると思う。

ではなぜオレが当初実現可能性として弟子入りも五分であり得ると考えていたのかといえば、それが理想的な「男の子の夢」だからである。憧れのヒーローに弟子入りして、自分も超人になる。これは男の子にとって非常に魅力的な夢なのである。少年ライダー隊や少年探偵団というのは、ヒーローに憧れる子どもたちが、ヒーローに弟子入りして活躍する同年代の少年少女の姿に感情移入することで、ヒーロー予備軍としての可能性を実感する物語でもあるのだ。

つまり明日夢の弟子入りが五分五分というのは、劇的必然性をとるか視聴者の夢をとるかという、位相の違う二つのゴールの二者択一があり得たということである。そして、シリーズの先行きを舵取りするプロデューサーが高寺である以上、視聴者の夢という選択肢も五分であり得るのではないか、とオレは考えていた。高寺の心性には、自分自身の子どもの頃の夢を叶えるために特撮に携わっているような部分が多分にあると思うからである。

しかし、結局高寺は明日夢弟子入りに対して否定的な結論を下す。少年の成長物語である以上、その結論はある種当然の約束事なのである。逆にいえば、明日夢弟子入りを前提として現代的かつオーセンティックな成長物語を語るのは一種の力業なのであって、その力業を完遂するだけの斬新な智恵が高寺には浮かばなかったというだけのことなのかもしれない。

この辺の事情をきちんと公に説明しなかったために、「トッチーの演技力に目が眩んで中学生日記にした」「高寺のいつもの無定見」と叩かれる羽目になるわけだが、簡単に弟子入りさせるわけにはいかないということがわかっているだけ、まだ健全な勘働きが残っていたと視るべきだろう。

ところが、周知のとおりの経緯で高寺が更迭され、白倉が彼の後を襲うという成り行きとなり、当初高寺の引いた青図がどの程度実現されるのかが不透明となってきた……まあ、そんなものがあったとすればの話だが(笑)。

正直なところ、オレは白倉のシリーズ構成なら、明日夢は結局ヒビキに弟子入りして鬼の途を選ぶのだろうと踏んでいた。幼年誌全プレDVDにおける明日夢の変身やシリーズ最後半における弟子入りの流れを見て、「ほらな、やっぱり」的にとらえていたので、土壇場になって明日夢がヒビキの許を去るという流れには少々意外な感を受けた。

なぜなら、成長物語のツボがわかっていれば、明日夢が無批判にヒビキの後継者となるわけにはいかないというのは、あまりにわかりきった落とし所だからである。その、あまりにわかりきった落とし所を白倉が肯ったということそれ自体がオレにとって意外だったのである。

ある意味、白倉の大好きな「予想を裏切る意外な展開」と「メイン視聴者の期待に応える」という一見相反する要素を両立させる選択肢こそ「明日夢弟子入り→鬼の一員に」という落とし所だったはずなのである。さらにそれは、成長物語という幻想を無効化する一手となるはずであり、白倉と井上は人間の現実における「成長」という幻想を信じていないはずではなかったか。

結果的に明日夢が「でもしか」で有耶無耶のうちに鬼の途を選んだとしても、そして何となく決まってしまった鬼の途で切磋琢磨して優秀な鬼になるのだとしても、それは一種人間の現実としてリアルだという言い方もできる。

人間の職業選択の瞬間における現実として、それは非常にリアルなのである。人間は大した必然性もなく職業を選び、たまたま努力が酬われれば優秀な職業人となり得るのだし、そこには劇的必然性など介在しない。そこに働くのは、もっと別の力学なのである。そして白倉と井上が平成ライダーで確立した劇的リアリティというのは、本質的にそのようなレベルにおけるリアリティ、「人間のアクチュアルな現実には劇的必然性など介在しない」を前提とした飛び道具的なリアリティなのである。

しかし最終的に白倉は「明日夢が鬼の途を選ばない」という、成長物語としては真っ当でわかりきった結論を支持し、逆にそれが意外なものに見えるための仕掛けを施している。桐谷という対比キャラクターの導入である。目指すものを持たない明日夢が、目指したわけでもないのに結果として鬼になるという結論が劇的必然性の観点から排除されるなら、最初から強烈に鬼を志向するキャラクターを対比として設定すればいい。桐谷の成長物語としてなら、鬼になることと少年の成長が重なる目もあるのである。

最終回において、明日夢ではなく桐谷が変身するのは、一種妥当な選択肢ではある。過酷な肉体鍛錬や精神修養によって人を超えた存在となる鬼は、強烈に求めるからこそ万に一つ得られる成果であって、「でもしか」で選び得る選択肢ではない。強烈にそれを求めること、それこそが大前提であって、そのような強烈な動機を持たない明日夢は、どこまで行っても鬼になれるはずなどはない。それが劇的必然性というものである。

鬼になるという落とし所が決まっているとすれば、それは強烈な動機の行き着く先にあるものであって、明日夢の成長物語は実はその一歩手前の段階なのである。安達明日夢の成長とは、何もない空っぽの子どもが、何かを求め始めるまでの物語である。一般的には「自分探し」と表現されるのだろうが、強烈に心の赴く何ものをも持たない子どもが、世界に対して関心を獲得し積極的に関与していくまでを描くのがこの種の物語の骨格である。

「たまたま鬼である」ヒビキが導き手となって明日夢という「普遍的な少年」の成長を促す構造を持つ物語においては、成長した明日夢がそのまま鬼になるのでは、世界に対して関心を獲得した子どもが自発的な意志として何かを選び取ったという見え方にはならない。導き手であるヒビキが用意したレールにそのまま乗ったように見えてしまうのである。それゆえ、安達明日夢は世界に対する関心を獲得した瞬間に、鬼「以外の」何かを自力で見出す必要があるのである。

そして、鬼になる、スーパーヒーローになる、という選択肢は、一種非凡な生き方なのであり、安達明日夢の住む日常的かつ「普遍的」な世界とは対極にあるものである。桐谷京介の描写それ自体が成功しているか否かは別として、桐谷というキャラクターが明日夢とは違う世界、平和な日常よりも内面の修羅が強調される世界、すなわち「桐谷独自の物語」を生きるキャラクターであることは間違いない。彼を投入することで、少年が成長して鬼という特別な物語を生きる姿と、普遍的な成長を獲得する姿を対比して描くことが可能となる。

すなわち、安達明日夢という少年は「仮面ライダー響鬼」という物語の普遍的な部分において成長し、桐谷京介という少年は「仮面ライダー響鬼」という物語の個別的な部分において成長するのである。このバランスにおいて、安達明日夢が主人公であり、桐谷京介がその対比物であるという構造上の弁別もまた成立する。

桐谷という新キャラクターの投入を作劇要素レベルで考えるなら、それは決して間違ってはいないのである。それも一つの可能性としてアリだ。

ただし、このような構造の物語を、井上敏樹の作風では効果的に描くことができないのである。明日夢の対比物として投入された桐谷というキャラクターを嫌う視聴者が多いというのは、簡単にいえば井上流人物描写の弱点である。

いろいろと留保は附くのだが、井上流の人物描写は「可愛げ」を醸し出すのには向いていない。桐谷京介にも「運動音痴」「マザコン」という可愛げの要素は付加されているにもかかわらず、実際問題として可愛くない。

桐谷を可愛いと思えるのは、井上敏樹固有の作風に惚れているいわゆる井上信者といわれる人種だけだろう。広く一般的に劇中人物の可愛げを醸し出すためには、それを描くための資質が必要なのである。その点井上敏樹は、ふてぶてしい人物や奇矯な人物など、強烈な輪郭を持つキャラクターを劇画的な極太の描線で描くことには長けていても、可愛いげのある人物を繊細な描線で描くことには体質的に向いていない。

桐谷京介という途中参加のキーパーソンに必要だったのは、主人公安達明日夢のそれに互すだけのウェイトをもつ「可愛げ」だったのではないかとオレは考えている。実際の描写として、桐谷京介は主人公の影というほどのウェイトを持つことができなかったのではないか。いつまでも主人公の引き立て役、しつこく登場するゲストキャラという程度の重みしか持たなかったのではないか。それを感情レベルで表現するなら、桐谷京介が可愛くないからであり、大多数の視聴者から視て「要らない子」「おじゃま虫」だったからである。

要するに、彼が後半を通して安達明日夢と同レベルの重みを持つキャラクターであるという事実を、視聴者が真に受けられなかったのである。視聴者がそのようなウェイトを真に受けるためには、視聴者の側に「桐谷京介という人物がこの物語の中に存在してほしい」と願うニーズがなければならない。可愛げの欠落を批判するのは、つまり桐谷の人物描写がこのような視聴者のニーズを醸成することに失敗しているということだ。

残された限りある話数の中で描くしかなかったという事情を差し引いても、桐谷京介は魅力的な人物ではない。彼をそれなりに普遍的な魅力を持つ人物として描けていれば、白倉の目論見ももう少し奏功していたのではないだろうか。

もちろんこれは「たられば」の類の話である。現実問題としてあのときの白倉には井上以外頼れる人材はいなかったのだし、このような非常事態に際して曲がりなりにも物語を軟着陸させられるだけの力量を持った作家は、白倉人脈の中では井上しかいなかっただろう。ベテラン脚本家の井上敏樹もオールラウンダーではない。おそらくこのような肌合いの物語は、あまり得手とするところではないはずであるが、得手不得手に関わらずやるしかなかったのである。

そして、言ってしまえば「仮面ライダー響鬼」という番組の最大の悲劇は、このような構造の物語が要求する肌合いに最適な書き手に恵まれなかったということであり、高寺体制下でも白倉体制下でもそうした事情は同じである。

大石については論外であるが、きだつよしは基本的に「ヒーローに憧れるボンクラが懸命に足掻く過程でいつしか本物のヒーローになってしまう話」を原点に持つだけに、明日夢弟子入りのストーリーラインを前提とした人選であって、ヒーローへの憧れを昇華できた大人の視点からの普遍的な成長物語を書くのに向いていない。

幼児的な憧れを持て余した畸型的な大人が、自分なりに懸命に正直に生きることによって特殊な存在意義を獲得する、落ちこぼれというアウトサイダーの存在論的価値が特殊な事件を契機として劇的に反転するという、特殊なタイプの作劇に対して動機を持つ書き手だったのである。

明日夢弟子入りがどの時点で放棄された筋道かにもよるが、最初の最初から高寺ときだつよしは作劇の動機において対立的な位置附けにあったのである。先の言い回しでいえば、おそらくきだは仮面ライダー響鬼という作品固有の成長物語のほうにより関心を持っていたのではないかと思う。明日夢弟子入りの線が放棄された瞬間に、きだつよしがメインで書く意味はほぼ消失していたと視るべきだろう。

つまり、この番組においては、だれ一人として本来この物語が持つべき語り口に向いた書き手は存在しなかった、それこそが根本的な悲劇だったといえるだろう。

とまれ、この番組とそれに纏わる諸々の事象について語るべき事柄はまだまだあるのだろうが、今回はひとまずこの辺にしておこう。

最初の話題に戻ると、オレが「鬼の肖像」の白倉インタビューで興味を覚えたのは、事実関係の部分というよりそれを語る白倉の言葉それ自体である。この言葉を視る限り、響鬼という番組を継承するに当たって、可能な限り前任者の意志を酌んだという白倉の言葉に嘘はなかったとオレには思える。

それは、そのために白倉が踏んだ手順に飛躍や胡麻化しが視られないからであり、まず高寺体制下の二九話の構造的読解から入っている辺りに説得力があるからである。さらに、先に引いた「機械的に決まる」「響鬼ってそういう話」という言葉は、従来の白倉的作劇観からは出てこないものである。

オレが「失はれた週末」で展開している白倉批判は、「機械的に決まる」「そういう話」という言葉に代表される作劇の構造的呪縛に対して剰りに白倉がナイーブであることを軸にしている。そのような物語の呪縛に対して軽率に反旗を翻したために破壊された物語構造に関する言説である。

引いては、あるジャンルを語る場面において絶対的に論者を縛る伝統的文脈という客観的に共有された条件附けや拘束要素に無自覚に論理を積み重ねるからこそ、白倉の思想は我田引水の牽強付会に堕すのであり、オレの白倉批判の根本はそこにあった。

だが、そのような過去の白倉観は、最近の白倉の言動を視る限り少し修正の必要がありそうだ。少なくとも555までの平成ライダーを生み出した過去の白倉伸一郎の思想的欠落がそこにあったとしても、あれからいろいろなことがあった。

セラムンや響鬼における経験は、前提を共有している井上とのタッグ主導の作風から離れて、他者の個性が支配する場においていかに他者に寄り添い他者の価値を引き出しながら作品を製作していくのかという、プロデューサーとしての根源的なスキルを問われる場だったのだろう。その経験を通じて白倉も成長したのだと思いたい。

たしかに「成長という幻想」に絶対的な実体などはないが、人間が生きていくうえでプラグマティックに意味のある思考の枠組みであるからこそ、これまで物語のテーマとして長らく生き延びてきたのである。「美少女戦士セーラームーン」という孤高の傑作シリーズを必然として生み出した人材の成長を予感すること。それが素直に嬉しい。

新番組「仮面ライダーカブト」に関する白倉の発言も、そのような白倉観の延長で視てよさそうである。彼のいわゆる「揺るぎない強さ」「シリーズ最高峰を目指す」という言葉は、従来の平成ライダーに顕著な「視聴者はこう読むからこう外す」的な小手先のシリーズ構成術を捨て、ある種のオーソドックス=王道を志向する意志の顕れではないかと好意的に解釈している次第である。

読まれていたからどうだというのだ、何がどうあれこうでなければならないのだ、というくらい問答無用の強さをもったストーリーラインが欲しい。また、新しい人材であり力量的にも未知数である米村をパイロットに据える度胸、多少作業プロセスがガタついてもとにかく新しいことを始めようという意欲を素直に真に受けてみたいと思う。

すでに終わってしまった事柄ではあり、総体的にいうなら「仮面ライダー響鬼」という番組は前半後半通して失敗作としか言い様のないものなのだろうが、この経験を通じて白倉は貴重な何かを学んだのではないかと期待したい。

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