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2006年2月22日 (水曜日)

批評と合目的性

リンク: Intel ベース Mac か…� - A Study around Super Heroes.

このエントリーの趣旨には概ね同意する。皮肉も込めてではあるが(笑)。

PC歴は白倉に及ぶべくもないが、同じマカーとして表向きの記事内容にも思うところはある一方、どうしたって裏を邪推されるような書きぶりなのがわかっていながら公開したということは、まあ、そのとおりの意味だということなのだろう(笑)。

白倉の具体的な真意が奈辺にあるかは識らないが、ダメなものをダメと言う権利は絶対的に受け手に保証されている。単に、ダメだから望みどおりのものを作れと「要求」を出す権利など企業外部にはないというだけの話である。

ジョブス復帰とMacらしい製品のリリースというのはあくまで企業内部の裁量に属することであって、企業外部から「要求」できることではないということだ。ジョブスという個別のカリスマやMacintoshという個別のプロダクトに執着する限り、望みどおりの企業判断を下してもらえるようおとなしくいい子にしてゲイツマンセーを連呼するしかない。それは合目的性の問題であって、批評的な問題ではない。

毅然とした態度で批判を貫くなら、MacらしくないMacintoshなど見限ればいいのだし、スティーブ・ジョブスの抜けたAppleなど支持しなければいいのである。その結果としてMacintoshがこの世から消え失せジョブスがわれわれの前から去ったとしても、それと「等価な何ものか」は出現し得るのであるとの強固な信念を持ち、Macintosh的なるプロダクト、ジョブス的なる人材を喪った世界を批判し続けるべきなのである。

Macintoshなりジョブスなりを掛け替えのない一回性の強い何ものかとして執着するからこそ絶対的な弱みが生起するのだ。Macintoshエヴァンジェリストなりジョブス信者なりという固有の立場に執着する限り、批評行為を棄て合目的的に振る舞うしかなくなるのである。

そこにMacintosh「のような」プロダクト、ジョブス「のような」人材という等価項を立てれば、いざとなれば斬るという真剣勝負のフリーハンドが得られるはずなのだ。筋論で批判するという姿勢は、そのような覚悟を決めるということであり、Macintoshそれそのものが消え失せる哀しみに耐える姿勢を堅持することである。

しかし、Macintoshやジョブスの支持層というのは、大半が熱狂的なファンであって、批評的視点における客観的有用性のゆえに支持しているわけではない。Macintoshというプロダクトは、マカーにとって客観的有用性を超えた一種掛け替えのないイデアなのである。それゆえこの喩えは企業のプロダクト一般に接する消費者全般の姿勢をカバーしたものではない。

あくまでこの比喩は、特定のプロダクトおよび人材という一回性の強い概念を絶対視し執着する一部消費者についてのアナロジーに留まるのであり、その固有の立場においては合目的性をプライオリティに据えるべきなのであって、批評的姿勢、企業糾弾的姿勢とは絶対的に相容れないという趣旨の比喩なのである。

あえてMacintoshが例に挙げられているのは、Macintosh信者は文字通り「信者」であるからである。信者であるがゆえの痴愚をも自嘲しつつそれが体現するイデアに傾倒するという贅沢な妄執を自身に許した存在なのだから、ハードウェア批評一般とはそもそも前提の異なる立場なのである。

対するに、批評行為とは、批評対象を自身の価値観を基にして相対的に視る視点を前提にするものである。その意味合いにおいては、批評者が批評対象を愛しているか否かというのは、批評動機に関係するのみであって批評行為そのものとはいっさい関係ない。揺るぎない基準とは評者自身の価値観であって、個別のプロダクトや人材そのものではないからだ。

セラムンのレビューにおいて何度か繰り返した見解ではあるが、批評行為の客観的効用とは将来生まれる「かもしれない」セラムン「のような」作品に益することであって、すでに作られてしまった当の番組をどうにかすることではない。現状に対する「要求」ではなく、将来に対する「願い」を動機として行われる行為なのである。

逆にいえば、批評行為のフリーハンドは、批評対象に対する絶対的執着から離れた境地においてしか得られない。だとすれば、すべての批評者は、批評を行う場面においてはそのプロダクト個別の「ファン」ではあり得ないのである。

批評行為が後出しジャンケンでしかない以上、批評の言説がもしプロダクトに反映されるとしても、それは「未だ作られていないプロダクト」においてでしかない。ダメなプロダクトそれ自体を修正し、理想のプロダクトと交換する力など批評行為にはないのである。これは批評行為一般が原理的に抱える限界であり、絶対的な遅延である。

だからこそ、愛をもって批判を行う者は、その何かが生まれ変わった新しい姿をも愛せる度量を持つべきだ。未来の見知らぬ何ものかが、過去の愛しい何ものかの生まれ変わりであることを見抜く目を持つべきだ。時計を巻き戻すことは誰にもできないのだし、個別の事象は唯一度しか起こらないのであると腹をくくるべきなのだ。

自分の愛したものの屍の上に咲く新しい花はもっと美しいと信じるべきなのだ。

何度裏切られようとも、そのような想いが連綿とかたちを変えて輪廻を繰り返していくのだと信じる事、おそらく批評とは、そのような切実な「願い」という動機に基づいて行われるものなのである。

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