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2006年3月20日 (月曜日)

魔弾戦記リュウケンドー 第11話

やればできる子なんです。

川崎郷太という演出家の過去の仕事、そしてその人となりを識る者なら、ウルトラマンティガの衝撃が一昔前の出来事になった今、彼の名を識らないすべての者 に対してこう言いたい気持ちだろう。だから、清水厚の際と同様、今回もまたリュウケンドーのエピソードより、それを演出した川崎郷太という演出家につい て、個人的な昔話を交えて話をしたいと思う。

あえて年寄り風を吹かすなら、本当にあれから一〇年が経とうとしているのだなぁ、という感慨がある。今の大学生なら当時は小中学生、高校生なら幼児である。顧みて自分が学生の頃、一〇年前のトクサツ番組をどう視ていたのか、実感を伴った記憶はない。

オレの学生時代でいうなら、一〇年前のウルトラといえば「帰ってきたウルトラマン」だった。該番組において、世に「一一月の傑作群」として識られる傑作エピソード群の中でも在日差別の問題に切り込んだ衝撃作「怪獣使いと少年」を演出した東條昭平は、その一〇年後には、紆余曲折を経て東映で「太陽戦隊サンバルカン」や「大戦隊ゴーグルV」などを手がけていた。

もちろん、今の観点でいえば該エピソードのテーマ性は、脚本の上原正三が抱いていた疎外される者の怨念の文脈上のものであって、それがたまたま鬼軍曹・東條昭平の濃い演出観と相まって独特の熱さが成立したものにすぎない。そのやりすぎなまでの汗臭さそのものは、ウルトラであれジャンボーグであれ戦隊であれ、東條演出に一貫して視られる肉体的な特質であって、そこにテーマ性を論じる余地はない。

じっさい学生当時のオレは、超古代文明パワーと新体操技というワケのわからない取り合わせで戦う色物ヒーロー集団の番組の監督何某が、子どもの頃に観てよくわからないながら衝撃を受けた「怪獣使いと少年」の監督と同一人物であると識っても、どうという印象も受けなかった。その当時のオレにとって、リアルタイムの東條昭平は東映特撮の一監督であって、「怪獣使い」の監督というのは後から識らされたただの昔話だったからである。

おそらく今の若い特ヲタにとって、川崎郷太という演出家は、オレの時代の東條昭平のようなポジションにあるのかもしれない。無論、演出家としての各々の性格はまったく違うが、リュウケンドーの一監督として初めて川崎郷太を識った者には、ウルトラマンティガにおける川崎演出の衝撃は実感のない昔話でしかないだろう。

東條昭平その人が東映に移っても円谷の東條昭平と同一人物で在り続けた、「怪獣使いと少年」の演出が本質的には東映特撮における東條演出と変わりがなかったのとは違って、ティガやダイナにおける川崎演出は、ウルトラを離れたあとの川崎演出とはまったくの別物である。

東條昭平が己の演出スタイルにマッチした怨念に満ちた上原の脚本を得て伝説的なエピソードを残したのとは違い、川崎郷太は自身の手になる脚本による「うたかたの…」というエピソードで、平成に蘇ったウルトラに衝撃をもたらした。この脚本自体は、本人も認めている通り、テクニック的に未熟な部分もあり、いわゆるウェルメイドな物語として衝撃的だったのではない。

該エピソードの衝撃は、ウルトラマンティガという作品における人間観のリアリティ、引いてはTV特撮番組全般におけるそれを根本的に変えてしまった、その事実が衝撃的だったのである。簡単にいってしまえば、ティガの川崎演出は、TV特撮が何ら特殊な映像ジャンルではなく、ただのドラマだという事実を視聴者に思い知らせたのである。

おそらく、平成ライダーや実写版セーラームーンを識っている今の特ヲタが該エピソードを観てもさして目新しさを感じないだろう。ティガの川崎演出によってTV特撮に持ち込まれたドラマのリアリティは、形を変えてこれらの番組にも受け継がれている。

もっといえば、実写版セーラームーンを牛縄的なアプローチで解析する可能性を拓いた演出家こそが川崎郷太だったのである。ティガ以前には、TV特撮番組をドラマの文法で解析することは困難だったのだし、無理矢理文芸の観点からアプローチしても、それは作り手の意図から遊離した受け手の一方的な「誤読の芸」にしかならなかった。

TV特撮は、長らく幼児層を主要視聴層として延命してきたジャンルであるがゆえに、それをドラマの観点から視る場合、過剰に明示的であるという特徴があった。つまり、TV特撮一般におけるドラマとは、だれもが視るとおりの明示的なストーリー要素それ自体でしかなかった。子どもの納得の範疇でしかドラマが存在しなかったということである。

子どもの納得の範疇でしか叙述しないということも、一種、子ども番組としての誠意の在り方ではあるだろう。だが、その制限要素に拘る限り、それがドラマとして骨抜きのものにならざるを得ないのは明らかである。なぜなら、ドラマとは、引いては文芸作品とは、人の生きる現実と世界のまねびであり、子どもの納得という不自由かつ最大公約数的な手枷は、そのまねびの徹底を著しく阻碍するからである。

ウルトラマンティガという番組も、実際には子どもの納得の範疇で作られた子ども番組という枠組みでスタートした。第一話から順を追って観ていけば、それなりに凝った謎の要素があったりヲタク趣味に走った部分はあるものの、当初はごく普通のトクサツ番組という以上のものではなかったことがわかるだろう。

ティガの伝説はまさに第二八話「うたかたの…」によってもたらされたのである。今の視点でこのエピソードを振り返る場合、この挿話が既存エピソード群を批評的に視る観点に基づく、一種の二次創作的な手法を採用していることがわかる。すでにここに至るまでに二クールのエピソード群が存在したわけだが、「うたかたの…」の人物観はこの二クールのエピソード群で結果として描かれた既存要素を「踏まえた」もしくはその積み重ねに「踏み込んだ」ものとなっている。

だから、「うたかたの…」のもたらした意義を幾許かでも理解したいと望むなら、第一話から順に観てほしい。二クールの積み重ねの上に該エピソードがいきなりノーマークで登場した衝撃を、是非味わってみてほしい。引いては、「うたかたの…」以前の川崎ローテのエピソードにも抜かりなく目を配っておいてほしい。今や本人の証言で明らかになっている舞台裏から視た場合、「うたかたの…」以前の諸エピソードの裏面にすでにその胚胎があったからである。

川崎郷太は後半でメインライター的なポジションを務めた小中千昭との確執の因となったガゾートという怪獣の存在に拘りを見せ、すでに一度原脚本で新怪獣と指定されていた怪獣を自身の判断でガゾートに変更し再登場させたことがあったが、このエピソードでも三度ガゾートを登場させ、その設定を巧く使って防衛隊の全力決戦という大規模な危機的状況を現出させた。

その一方で、人類には理解不能な動機に基づいてひたすら市街地を蹂躙しながら進行する強力な昆虫怪獣ジョバリエの脅威を二段構えで設定し、防衛隊全滅の危機という卑怯なまでに昂ぶるシチュエーションを設定した。このエピソードは、そのような大状況が問答無用で冒頭に置かれ、決戦前夜の緊迫した群像ドラマから始まるのである。

一体の怪獣でもあり無数の小動物クリッターの群体でもあるガゾートの種としての抹殺を巡り、防衛チーム内部で激しい議論が交わされ、各々の人物は各自の立ち位置に基づいた微妙に異なる立場から相互に対立するのである。

今でこそメインキャラ全員が各自の立ち位置を露わに対立する作劇は珍しいものではなくなったが、一〇年前はそうではなかった。精々主人公とライバルが対立して、チーム内が二派に分かれるとかライバルがチームを離れるとか、その程度のものだった。要するに、主流に対する反主流的な二項対立が精々だったわけである。

だが「うたかたの…」の作劇がもたらした画期は、全滅の危機を孕む全面作戦決行前夜という緊迫したシチュエーションにおいて、メインキャラクター全員が微妙に異なる独自の立ち位置を露わにするというものであった。

当然、放映直後のファンダムは賛否両論喧しい反応を見せた。何が問題となったのかといえば、「キャラクターの連続性」を奈辺に視るかという部分が主要な論点となったのである。「あんなのボクのレナじゃない」とか「アタシのヤズミはあんな奴じゃない」というような意見が頻出する一方、その非連続的な描写を各キャラクターの内面に深く踏み込んだものとして評価する意見も多かった。

川崎脚本の仕掛けとしては、「全面作戦決行前夜」という特殊な状況設定がその非連続的な内面表出の契機となるという目論みがあったわけだが、そのような状況においても従来のキャラ描写との一貫性を図るべしという観点と、その契機において表面的な描写からさらに踏み込んだ内面を描いたことを評価する観点があったわけである。

ただし、後者においても一定の問題意識はあったわけで、それはつまり、設定書に書いてあるような曖昧かつ表面的な人物描写に限られるなら、ある程度のブレを孕みながらも複数の書き手の間で人物観が共有されているわけだが、川崎郷太という特定の一監督の思惑に基づく一エピソードでここまで突出して内面に踏み込んでしまったら、他の書き手もそれを前提にせざるを得ないという、いわば作り手内部の仁義の問題である。

ウルトラマンティガという作品が特撮史上の伝説となったのは、このエピソードに内在するこのような問題点が、ある種ポジティブな連鎖をもたらした結果なのであり、ティガの伝説において川崎郷太の名が常にクローズアップされるのは、その喧嘩を始めたのが川崎郷太だからなのである。

おそらく小中千昭という喧嘩上等の特殊脚本家との確執、最初のガゾートのエピソードにおける違和感が動機となって、川崎郷太はただ一人で番組全体を相手取る喧嘩を始めてしまったのである。

ティガという番組において川崎郷太という一監督が「うたかたの…」という作品を作ってしまったことの真の意味を悟ってしまったなら、矜恃のあるクリエイターはその喧嘩を受けて立たないわけにはいかなくなってしまったのだ。

さらに決定的な要素となったのは、このメインキャラ同士の対立が、このエピソード内で決着が附かなかったということである。子どもの納得の範疇でいうなら、エピソード内で意見の対立があった場合、「どちらが正しいのか」という語り手の断定が必須なのである。にも関わらず、川崎郷太の脚本は、登場人物たちに言うだけ言わせておいて、何も結論めいた意見を断定しなかったのである。

これを川崎脚本の瑕瑾と断ずるのは易しい。二次創作的な手法において、「こいつならこういう場面でこういう立場をとるだろうな」という想像を無責任に書き散らしただけという言い方もできるからである。しかし、結論を断定しないことそれ自体が川崎脚本の狙いだったのだとオレは思う。この対立で俎上に乗せられた各自の見解は、小手先の作劇で解決できるものではないウルトラの自己言及であり、構造的に抱える矛盾であり言ってみれば禁じ手だったからである。つまり、ここで描かれた対立は、安直な結論が存在しない、絶対的な対立だったのである。

そのようなコミュニケーションの途絶、人は常に一人の個人であるにすぎない、意見の対立が真の意味における融和には決着しないという、ある種トミノ的な人間観・現実観がこのエピソードの基調となっていて、人間同士の相互理解の途絶というドラマ要素の背景には、種の繁栄が人類の存在と相容れないために絶対的な脅威となるガゾートや、その動機がまったく理解不能な昆虫怪獣ジョバリエという、まさに理解の途絶した敵が問答無用で迫ってくるという危機状況が設定されている。

このような相互理解の困難という問題設定に対して、ティガに変身したダイゴは戦いの意味を自問する。答えのないその自問のただ中で、ダイゴ=ティガはみんなを護るために迷いを振り切って怪獣を爆殺する。

怪獣はなぜ現れるのか、怪獣にも生きる権利はある、人類に無条件の生存権などない、そのような得手勝手な問題設定を振り切って、主人公は人々を護るため、人々への想いのゆえ、「敵」を粉砕するのである。たしかに数々の問題提起に対して、何一つ結論は出ていないのである。

人と人との対立もまた何ら調停されることはない。ガゾートを構成するクリッターという種族は宇宙に去ったが、クリッターの側に立って人類のエゴを高みから批判するレナの「思想」は、そのクリッターによって恋人を殺されたマユミの憎悪に対して何ら力を持たない。みんなが武器を棄てれば怪獣は現れないなどというマユミの「心情」は、眼前に存在するクリッターの脅威に対して何の力も持たない。また、レナの「思想」もマユミの「心情」も理解しないヤズミの「理屈」は、この事件に潜む問題設定のいっさいと無関係な、大人から吹き込まれた建前でしかない。

だが、そのような対立がやりっぱなしで放置された末に、物語はヤズミとマユミの握り合った手と手という感動的な絵で締めくくられる。つまり、川崎郷太の思惑では、この混乱に満ちたストーリーはこの一枚の絵によってドラマとして完結しているのである。

抹香臭い言い方をすれば、人と人とは絶対不二の局面において必ず意見の対立を孕んでいるのであって、完全な相互理解などあり得ない、それは事実である。だが、たとえば意見の対立のただ中にあってどの見解にも積極的に与しないダイゴは、人々への想いのゆえに敵を粉砕するのだし、対立を抱えたままに調停されなかったヤズミとマユミは、惨憺たる戦禍の巷において握り合った泥まみれの手と手で和解を果たすのである。

このドラマで提示されているのは、問題提起そのものではなかったのだし、人と人とはわかりあえないという悲観的な結論でもなかったのである。ある一つの危機的局面において、人の数だけ思惑の違いはあるのだし、その対立自体をすり合わせることが物語の目的なのではないのである。

特定の局面において各々のキャラクターがどのような思惑を抱えているのかを描出すること、対立のダイナミズムを描出することこそが群像劇なのだし、人と人との対立を調停するのは思惑の一致ではなく、誰かに対する想いであったり労りに満ちた触れ合いであったりという、一種の生の実感なのだということだ。

その意味で、「うたかたの…」という一エピソードは、ウルトラというシリーズに潜む数々の問題点を剔抉して提示したが、それ自体が主眼ではなかったのだし、そこから何かがこぼれ出す問題提起編ではなく、それ自体完結したドラマなのだということだ。

それは同時に、平成に蘇ったウルトラという容れ物に対して、このようなドラマの在り方を突き附ける行為に他ならなかった。子どもの納得を逸脱した話法において、ドラマとしての感興を追求する方向性の要求だった。それはある意味、第一期ウルトラにも通底する作品としての在り方だ。子ども番組のドラマ性は、子どもの納得という限定要素を受け容れることで去勢されてしまう。子どもにもわかる明示的な筋立てをいかに巧みに作り上げるかという技術論になってしまう。

特撮史における川崎郷太の存在意義とは、技術論でしかなかったTV特撮番組のドラマ性を、もう一度文芸論の観点に投げ返したことにあるのである。翻ってウルトラという容れ物が存続する意義もまた、このような奇貨が得られる可能性を常に秘めていることなのである。

そして、前述の懸念通り、ウルトラマンティガという一個のTV番組製作の現場においては、「うたかたの…」という一エピソードは無視できない大前提となってしまった。この番組における伝説の最たるものは、一個一個のエピソードの出来不出来といより、この製作現場における作り手の意識の連鎖と変遷なのである。

たとえば「怪獣との共存は不可能なのか」という問題提起を額面通りに受け取り、それを子どもの納得の範疇で再話したのが「怪獣動物園」というエピソードだが、これはさすがに放映当時から叩かれた。「小さくて可愛ければ危険性はない」というナイーブな認識が、問題の根本解決に何ら力を持たなかったからである。

「大きくて敵対的」という怪獣を怪獣としてあらしめる構成要件を前提から覆しても、何ら問題を解決したことにはならないのである。ただし、このエピソードは「うたかたの…」の翌々週に放映されているので、直截の影響があるかどうかは微妙である。だが事実としてこのエピソードは「うたかたの…」の「後に」放映されたために、その問題提起の延長上で判断され、その生ぬるい認識が叩かれたのである。

さらにその「怪獣との共存」という問題意識はウルトラマンガイアでもメインテーマとして強調され、それに続くウルトラマンコスモスの怪獣保護・サンクチュアリにおける動物園的管理という発想に結び附く。「うたかたの…」の呪縛が、いかに平成ウルトラのその後に影響を与えたかがわかるだろう。

所詮「うたかたの…」の問題提起を額面通りに受け取ること自体に、ある種の危うさがあるわけで、それらは解決不能のジレンマとして突き附けられた要素であり、物語内でそれを解決すること自体には何ら意味がないのであるが、該エピソードの衝撃は作り手の間でもさまざまなレベルで受け止められたということなのだろう。

さらに、そのようなすれ違いはこのジャンルに対して一見識を持つ特殊脚本家、他ならぬ喧嘩を売られた相手にもあったのである。

先頃ウルトラマンマックスで放映された小中千昭脚本の一エピソードのタイトルを記憶しているだろうか。「怪獣は何故現れるのか」。これは、直截「うたかたの…」で提示された問題なのである。小中千昭にとって、ティガにおける川崎郷太との衝突は拭いがたい刻印を残したのである。

先に挙げた「怪獣との共存」というテーマについても、ウルトラマンガイアのメインライターを務めたのは小中千昭であり、「共存」思想の確立に大きく関与している。つまり、ウルトラにおける小中千昭の在り方は徹底的に川崎郷太の影響下にあるのだ。

無論、「うたかたの…」で提示された諸問題はウルトラに関心を持つマニアなら誰でも一度は考えたことだろう。小中千昭としても、「そんなことくらいオレだって考えていた」というのが正直なところで、これを川崎郷太の影響という言い方をするのは、少し不公平で意地悪ではある(笑)。

だが、「セカンド・コンタクト」で小中千昭と衝突し、その後「幻の疾走」「うたかたの…」とガゾートおよびクリッターに拘った川崎郷太が売った喧嘩を、小中千昭は買わないわけに行かなかった。

「セカンド・コンタクト」のラストで、無数のクリッターとなって昇天するガゾートを見たレナに「きれい…」と言わせることに拘った小中千昭に対してあくまで喰い下がった川崎郷太は、「うたかたの…」におけるレナを、マユミの恋人を殺した「敵」である怪獣を擁護する、どこか無神経な理想主義者として描くことで人物像の「整合」を図ると同時に、小中脚本に対する「報復」を果たした。

小中千昭の「セカンド・コンタクト」における拘りもまた理解できる。航空機を襲って大勢の人々を殺した怪物であり、「人喰い」という直接的な凶悪さも表現する一方で、それが昇天する姿が「きれい」であるという転倒した取り合わせの美意識、これが小中千昭の拘った「お話としての」味である。それをセンス・オブ・ワンダーと表現してもいいだろう。なぜなら、小中千昭はホラーやSFというジャンルに特化した「特殊脚本家」をもって自認する書き手だからである。

それに対して川崎郷太は、大勢の人々の死、怪獣に貪り喰われる恐怖、そのような実感に重きをおいて、そんな怪獣の本質を無視して「きれい」と呟く女は、人の生きる現実を直視していない無神経な女としか思えなかったのである。人を殺す化け物、人を喰う猛獣の表面的な美しさにしか目の届かない愚かな女としか思えなかったのだ。

それは、トクサツだろうがSFだろうがホラーだろうがひとしなみに「ドラマ」として視る観点からの結論であり、小中千昭の特異な立ち位置とは絶対的に相容れない。

平成ウルトラにおけるアンヌ隊員という役どころのレナではあるが、「ノンマルトの使者」において、「真市君は人間なんでしょう。人間が人間のことを考えるのは当たり前じゃない。海底は人間にとって貴重な資源なのよ」と突然物騒なことを言い出したアンヌとは極性が逆である。

人間である以上、人間視点で大状況をとらえざるを得ないのは仕方がない。問答無用で敵対関係に置かれた二者関係の一方に属する限り、それを鳥瞰する視点に立って、どちらが良い悪いを断罪するのは、その脅威に対抗して何かをすべき立場の人間が考えることではない。

当事者意識の薄いレナの人類批判は、レナがまだ人間社会に対する責任を明確に引き受ける大人の立場にない若い世代であることで、二者対立を調停する知恵を生み出す可能性の契機としてギリギリ許容されるものでしかないのだし、イルマ隊長やホリイ隊員の現実的な姿勢もまた、二項対立を止揚する第三の選択肢を生み出し得ないという限定を前提としたものである以上、無謬の結論ではあり得ない。

レナと大人たちの立ち位置の違いは、大人たちは自分たちの選択が無謬ではあり得ないと自覚しながら、自身の置かれた立ち位置に伴う責任を引き受け、あえて過ちを犯すだけの覚悟があるということである。レナは自分の理想こそが正しいと確信しており、その理想の背後に解決不能の憎悪や哀しみがあることに想いが至っていない。要するに、レナの考え方は未熟で青臭く、過ちを犯したくないという潔癖さ、他者の過ちを断罪する若さゆえの傲慢さを具えている。

だが、大人たちはそれを一概に非現実的な理想論と切り捨てない。大人たちが置かれた二者対立のジレンマを打開する第三の選択肢を生み出す原動力こそ、レナの理想論のような傲慢で無神経で潔癖な若い力だからである。過ちと識りつつあえて自己責任で何かを為す覚悟を固めた大人には、そんな若さを否定する権利などないのである。

「うたかたの…」前半の重苦しい群像ドラマは、おそらく「セカンド・コンタクト」のラストで「きれい…」と呟いたレナの人物像への疑問から誕生したのである。武上脚本の「幻の疾走」の登場怪獣をガゾートに変更した川崎郷太の意図は、多分に思い附きの域を出ないのだろうが、それによってレナがシンパシーを抱くクリッターがマユミの大事な人を殺すという因縁が生起する。クリッターおよびガゾートを軸にする限り、レナとマユミの立ち位置は絶対的に相容れないものとなる。ここに苛烈な人間ドラマが生起する契機があるのである。

ガゾート三部作を締めくくるかたちで「うたかたの…」が誕生したのはゆえないことではない。小中千昭にとっては「奇妙な味」のホラーSFでしかなかった「セカンド・コンタクト」から転がり出す物語を、川崎郷太は強引な力業で骨太な人間ドラマに仕立て上げたのだ。

小中千昭が「特殊脚本家」としての在り方において、川崎郷太の提示した普遍的な人間ドラマの感動に対抗することは可能なのか。川崎郷太が小中千昭に売った喧嘩の本質はそれである。ジャンルの特性に拘る小中に対する、ジャンルを超越した人間ドラマに拘る川崎郷太の挑発が「うたかたの…」というエピソードなのである。小中の拘るジャンルの個別性は、普遍的な人間ドラマに対抗し得るテーゼなのか、それが問われているのである。

無論、「うたかたの…」の脚本としての完成度と小中脚本のそれを比べても無意味である。川崎郷太が未熟を自認しながらも自身の手で脚本を起こしたのは、自分が演出する限りにおいては十分ドラマとして成立し得るという成算があったからであり、このような内実を託せる他の書き手が存在しなかったからである。

じっさい、該エピソードを視る限り、後半の「TAKE ME HIGHER」のメロオケを伴う一連の爽快な流れが、前半の若干晦渋なドラマのもたらすストレスを払拭し、ドラマとしてのケツを持っている。この一連のシーンは何度見直しても燃える。主題歌を用いた盛り上がりという意味では特撮史上屈指の名シーンである。映像作品の演出家としての技倆が脚本の完成度を超えて一本のドラマとしての完成度を成立させてしまったのだ。

小中千昭が、「そんなことくらいオレだって考えていた」問題提起に拘るのは、それが「うたかたの…」という人間ドラマにとってどうでもいい要素だったからだろう。特殊脚本家である小中千昭が、川崎郷太の人間ドラマに人間ドラマでもって対抗するのはナンセンスである。自身の立ち位置を堅持したうえで川崎郷太の人間ドラマを凌駕するのでなければ、「うたかたの…」で売られた喧嘩に勝ったことにはならないのである。

その喧嘩に勝たないことには、「セカンド・コンタクト」で川崎郷太の論難に抗して貫いた自身の拘りが、くだらない趣味性でしかないということになってしまう。これは引けない。

きっかけは些細な行き違いでしかなかったのだ。だが、その些細な行き違いを契機として、川崎郷太はまさに川崎節としか言い様のない、映像の生理とドラマツルギーの結び附きに基づく感動的な人間ドラマの語り口を確立したのである。

その語り口は、彼の旧い知己である長谷川圭一の自信作である「拝啓ウルトラマン様」でも遺憾なく発揮されている。おそらくウルトラマンティガという番組における人間ドラマの完成形こそがこの「拝啓ウルトラマン様」というエピソードだろう。長谷川圭一がその後のウルトラにどんな悪影響を与えたとしても(笑)、他ならぬ川崎郷太にこのホンを託したということだけで、特撮史上に残る貢献を果たしたといっていい。

だが、平成ウルトラの黎明において忘れがたい名前となった川崎郷太は、ティガに続くウルトラマンダイナで二本のエピソードを演出した後、ウルトラおよび円谷との関係が途切れている。

このときに川崎郷太がダイナで担当した二本のエピソードもまた、「うたかたの…」がドタバタコメディの「オビコを見た!」とセットのローテーションであったように、ドタバタパロディ編である「うたかたの空夢」としっとりした傑作ジュブナイル「ぼくたちの地球が見たい」のセットであった。しかも、オビコで脚本を担当した太田愛と再び組み、今度は自身の脚本の「空夢」がドタバタ編で、太田脚本の「ぼく地球」が感動編と、心憎い逆転が図られている。

だから、オレたちがウルトラで見た最後の川崎演出は、宇宙で育った子どもたちがまだ視ぬ故郷を目指して冒険するという「ジュブナイル」であり、子どもの納得の範疇で語られたウェルメイドな子ども向け番組だったのである。

子どもの納得の範疇で語られる番組の性格を逸脱した骨太の人間ドラマを提示した演出家は、その番組枠から去るに当たって、まさに子ども向けの良質なドラマの傑作を骨太な人間ドラマとして残したのである。

小中千昭がその後もウルトラに関わり続け、川崎郷太の売った終わりのない喧嘩を続ける中、川崎郷太本人はどうやら円谷首脳との感情的な行き違いによって、おそらく永遠にウルトラとは訣別した。

職業人としての駆け引きの術を識る小中千昭は、川崎郷太のように首脳陣と感情的に衝突することなく、メインライターなきティガにおいて、最終回の感動の三部作を書くことによって、何とか川崎郷太に一矢を報いることができた。平成三部作の掉尾を飾るウルトラマンガイアのメインライターをも務めた。

川崎郷太と組んで不朽の傑作「拝啓ウルトラマン様」を残した長谷川圭一は、ダイナのメインライターを経て、今や右田昌万と並んで(笑)円谷の主力脚本家の立場を獲得している。小中千昭の好意によって「THE ビッグオー」で研鑽を積み、それなりの実力も身に着けた。ウルトラマンネクサスでは商業的に惨敗を喫したが、その試み自体は評価に値するだろう。

ティガの当時は作劇のロジックの欠如で散々叩かれた———つか、オレ自身が積極的に叩いたわけだが(笑)———太田愛は、どうやら「鉄腕アトム」の経験で海外プロデューサーから散々ロジックの欠如を詰られたらしく、往事の作劇術の欠陥も改善され、今や押しも押されもせぬ円谷の看板脚本家の一人である。

つまり、ティガの伝説に関わった人材の中で、没落したのは川崎郷太だけなのだ。

どうやら川崎郷太は現場受けのいい監督であるようだが、言ってみれば、彼もまた高寺成紀と通底する不遇の人材ではあるのである。円谷首脳がどれだけ話の通じない人間なのかはさておき、あえて忍びがたきを忍んでそこに残り、ウルトラを続けるという選択肢もあったはずなのだが、本人がすでにウルトラに対して興味を失った以上、それはかなわぬ夢である。

オレの識っている川崎郷太というのはそういう男だった。

その後ウルトラを離れた川崎郷太は、「天才てれびくん」の演出や「スターぼうず」、「時空警察ヴェッカーD0-2」などを経て、どこをどうしていたのやら、少し前のインタビューによれば林民夫と組んで新作映画「タンホイザーゲートの向こうで」の企画を練っていたらしいが、それも結局途絶して、今は「たまたま声をかけられたから」リュウケンドーの演出家の一人としてローテ入りしたということになるのだろう。

ヴェッカーやリュウケンドーでしか川崎演出を識らない人は、一〇年前に川崎郷太という名前が特ヲタにみさせた夢を識らない。辛うじて「オビコ」や「うたかたの空夢」で見せたサムいコメディ演出の片鱗が滲み出ているだけのことで、ティガやダイナの頃の川崎演出の冴えは、今もって視られない。

それは当たり前の話であって、ヴェッカーもリュウケンドーも川崎郷太が心からやりたいと望んでいるジャンルではない。ダイナの二本を最後に円谷を去った川崎郷太は、結局のところ興味を失ったウルトラの縮小再生産のような仕事で喰い繋いでいるということになるだろうか。

川崎郷太という男は、今もって不遇である。

この男が不遇なうちは、すべての特ヲタもまた不遇なのである。

だからもう一度声を大にして言っておきたいことがある。

川崎郷太は、やればできる子なんです。

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