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2006年3月30日 (木曜日)

ウルトラマンマックス 第39話

共白髪ですか。偕老同穴ですか。目出度いなぁ。

前回「ウルトラバラエティーショー」と表現したマックスだが、予想通りというか、大トリを務めるのは平成ウルトラの歴史の生き証人、ご存じ「特殊脚本家」の小中千昭であり、さすがに「ウルトラマンマックスとはどんな番組であったのか」という勘所を外してはいない。

ここでざっと平成ウルトラの歴史を振り返るなら、ティガから始まる平成三部作の終了後、一旦仕切り直して映画と連動させたウルトラマンコスモスが予想外のヒットを飛ばすも、主演俳優絡みのスキャンダルで妙なアヤが附き、不透明なかたちで決着せざるを得なかった。その後、完全新生を目指してウルトラマンノアから始まるNプロジェクトを立ち上げてはみたものの、ネクサスの商業的失敗によってこれも不本意なかたちで頓挫した。

ある意味で、ウルトラマンマックスという番組は、原型を留めないまでの梃子入れを喰らったウルトラマンネクサスの亡霊という言い方もできるだろう。これまで何度か示唆した通り、ウルトラマンネクサスという番組それ自体がおもしろかったとはお世辞にもいえないものの、オレ個人としてはその試みについては好意的な印象を抱いている。いずれ機会があれば、このウルトラの奇怪な蛭子について一項を設けて語ってみたいと思うが、今はその事象面に限って話を進めよう。

その蛭子の存在を流し去ったことを忘れるために始められた祭りとしての番組は、作品としての明確な輪郭を持たない、文字通りお祭り騒ぎの場でしかなかった。ネクサスのように、コンセプトありき、テーマ性ありき、作品世界ありきの作り方というよりは、「ウルトラをお題に何か一本」的なユルい括りのシリーズであった。

当初は何ら目新しいところもない消化試合的な番組というネガティブな印象も覚えたのだが、慣れてくるとこういう路線もアリかと思うようになった。要するに、幼児向けのトクサツ番組というのはこういうのがアベレージなのだし、その一方で幼児と共に視聴する大人の層に対しては、同窓会ネタや人気怪獣の再登場、萌えキャラアンドロイドやツンデレラブコメで手当する、これはこれで文句を附けるべきものでもないような気がしてきたのである。

何もウルトラだからといって大上段に振りかぶったテーマ性やドラマ性でアピールすることだけがよしとされるわけでもない。ぶっちゃけ、見終わったあとに何の余韻も残らないし、セイザーXが始まる頃にはすっかり内容を忘れていたりするのだが(笑)、それが悪いというわけでもないだろう。

比較的多くの人材が参加する番組となったわけだが、これだけバラつきのあるスタッフ配置では作品イメージの緊密な統一を望んでも仕方ないわけだし、いきおい設定書の記述の範疇でしか世界観や人物が描かれないというのも、こういう作り方をする以上妥当な方向性だろう。そういう意味でいえば、この番組のいちばん評価できるポイントというのは、過剰にティガの影を背負っていないニュートラルなウルトラであるというところに求められるべきだろうか。

以前リンクしたインタビューにおいて川崎郷太も発言しているが、セブンコンプレックスという影を背負って作られたウルトラマンティガという作品が、早くもそれ以後の平成ウルトラに対してティガコンプレックスとでもいうべき影響を与えているという指摘はある程度妥当だろう。このインタビューは彼がヴェッカーに関わっていた頃のものだから、精々コスモスの時点までの現状を指したものだが、その後につくられたネクサスが一種ティガ後半のテーマ性を濃厚にコンデンスしたものであるということは否定できないだろう。

ティガがその後の平成ウルトラに与えた影響は、おそらくコスモスに至ってようやく円谷首脳が望むようなかたちに方向附けできたのだとオレは考えているが、そこから仕切り直したNプロジェクトの本丸であるウルトラマンネクサスは、要するに元々のティガですら具えていた留保をいっさい取っ払ってまでティガ的なるものを突き詰めた陰鬱なウルトラであった。いわば、ようやくコスモスで振り払ったティガの影が反動的なまでに濃縮されて帰ってきたようなものである。

これはどうも、ティガから世に出た長谷川圭一や太田愛をはじめとするビッグオー組のライター陣を中心に、自分たちの手で「原点」としてのウルトラマンティガをさらに純化したかたちでリメイクしたいと望んだものではないかと思うのだが、その気持ちはわからないでもないものの、やはりTVシリーズのビジネスとしては無理があったということだろう。また、ウルトラというシリーズの枠組みが本来持つ可能性を展開する場面においては、ティガを「原点」視することには、やはり一種の危険性があるということだろうと思う。

その打ち切りを受けたウルトラマンマックスは、これまで平成ウルトラで培った手癖だけでつくられているようなユルい作品ではあったが、シリーズを重ねることで事実として蓄積された平成ウルトラの外面的な型のようなものだけを採用することで、その裏面で延々と引きずられてきたウルトラマンティガの影とでもいうべき精神性をうまく振り捨てていると思うのだ。これには金子修介や三池崇、梶研吾をはじめとする外部の人材を積極的に採用したことが吉と出た半面もあるだろう。

今回脚本を書いた小中千昭や太田愛などのティガに関わった書き手たちも、マックスにおいてはむしろ「ウルトラQ〜dark fantasy〜」のときのようなニュートラルなスタンスで臨んでいるように思える。

以前リュウケンドーに関するコメントで「怪獣は何故現れるのか」というエピソードを川崎郷太の影響の埒内で語ったことがあるが、内容面では小中千昭の一つ節であるメタフィクション的な業界物というお馴染みの形式だったし、「勇気を胸に」や「奪われたマックススパーク」などのエピソードは、セブンや初代マンのエピソードにオマージュを捧げたような内容だった。太田愛に至っては、ご町内物、(青)少年物、老人物という太田愛のお得意パターンを満遍なく一巡しただけである。

いってみれば、平成ウルトラに対するつくり手の思い入れが薄いシリーズとして終始したわけだが、ネクサスまでの成り行きを考えれば、そこから仕切り直すにはそのくらい突き放したスタンスがちょうどよかったという言い方もできるだろう。

このような認識においてこの最終回の前後編を視る場合、小中千昭の仕事は実に妥当なものだったという印象を覚える。本来、軸となるような中心的イメージを持たないマックスという番組において、最終回らしい最終回をつくるのは難しい。これまで、各話のイメージに統一感がない、悪い言い方をすれば行き当たりばったりの作り方をされてきたわけだから、最終回だって行き当たりばったりに作ってもどこからも文句は出ないと思うのだが、欲をいえばその前提においても「マックスに相応しい最終回」とはどんなものかを視てみたい気もする。

そういう意味では、前編を観た段階では「マックスのくせに(笑)」ちょっと状況設定が大袈裟ではないかと思ったのだが、よく考えてみれば風味附け程度の似非臭い文明批評は初期のエピソードの特徴として揶揄されてきた要素なのだし、全体的なストーリーがセブンの「ノンマルトの使者」の枠組みを借りている辺りは、マックスらしいと同時に小中千昭らしい部分でもある。

さらにまた、前編ラストから後編冒頭でミズキが死線をさまよう流れには、セブン最終回におけるダンとアンヌの会話がエコーしているし、巨大な敵に特攻したマックスが磔刑に処されたあと、DASHの面々の活躍で復活する筋立てには、誰しもガッツ星人のエピソードを想起するだろう。さらに、そこには石化したティガを人々の光が救済するティガ最終回のイメージもオーバーラップされている。

平成ウルトラに対する目配せでいえば、DASHによるマックス救出作戦のバックボーンとなる光のエネルギーの解釈や扱い方はティガのキリエル編を想起させるものがあるし、記念写真で〆る落とし方はダイナのラストを偲ばせるものがある。マックスが地球を去るに当たってカイトと会話を交わすのは、元々マックスが流暢に喋る人間くさいウルトラマンだったこともあるが、平成ウルトラにおいてはコスモスとムサシの別れの場面を想起させるだろう。

要するに、第一期でいえば小中千昭のオレウルトラだけに主にセブンへのオマージュということになるだろうし、その後の平成ウルトラの歴史にも目配せしつつ、ウルトラバラエティーショーこれにて一巻の終わりとござい、という落とし方なのである。

初代ウルトラマンのラストで語られた「ウルトラマン去りし後の地球はオレたち人間に任せてくれ」というメッセージもこれ以上ないほど強調されており、ぶっちゃけていえばあの頼りないDASHがマックス抜きで地球を護れるなんて誰も本気にはしないわけだが(笑)、エピローグとして半世紀後の世界を描き、「護り抜いた」という結果を見せることでダメを押し、同時にマックスの作品世界を完全に完結させ、ゼノンとかそっち方面へ展開する色気を振り捨てるというやり方は、考え方として妥当である。

所詮マックスはお祭り騒ぎのバラエティーショーなのだから、この作品世界をこれ以上引っ張られても困るのである(笑)。これはこれとしてスッパリ終わらせるというのは、円谷の判断としても正しいだろう。一種、東宝が新世紀ゴジラシリーズにおいて、作品ごとの世界観の連続性を原則的に排除したように、またガンダムシリーズが一旦宇宙世紀を離れたように(いやまあ、黒歴史以前の話ね)、シリーズ中興の場面では一度は世界観の連続に恬淡とした態度を貫き、バラエティーの振れ幅を広げるのも意味のある姿勢である。

また、小中千昭はティガの最終回で「みんながウルトラマンになれる」という可能性に拘ったが、正直、オレ的には仮面ライダーになることに憧れはあってもウルトラマンになることに憧れがあった子どもではないので、この辺の感覚はまったく理解できなかった。しかし、マックスにおけるカイトの「オレ『も』マックスなんだ」というアレンジは共感可能だし、試みとしておもしろかったと思う。

実体としては「最終回における変身アイテム抜きの変身」というアリガチなパターンに過ぎないのではあるが、パターン利用において重要なのは、その理由附けの新しさなのである。設定がどうのこうのということではなく、オレ「も」マックスなんだというのは、ティガにおけるダイゴとティガの関係性とは別の視点からウルトラマンと人間体の関係を捉えていて、ちょっとおもしろいロジックだと思った。

ティガのようにパワードスーツ的な設定ではなく、最初の最初から流暢に人語を発する人間くさいキャラクターとして設定されているマックスは、人間トウマ・カイトと別の人格であることがハッキリ印象附けられている。その別人格を宿して一朝事あらばウルトラマンに「変身」するカイトとマックスの関係とはどのようなものなのか、その辺をこの番組では中心的な課題としては描いていない。

それゆえに、マックスが絶体絶命のピンチに陥った場面でカイトを分離するという成り行きは自然に見えるし、「M78星雲に帰るエネルギーも使い果たしてしまった」「だから」カイトを分離するという流れには、マックスとカイトの友情のような絆が濃厚に顕れている。そこからカイト自身が先頭に立ってマックスの窮地を救うために動くという、ちょっと目新しいイメージに繋がるのだし、衆人環視の中でマックスと合体し、仲間たちがマックス=カイトという事実を踏まえて彼の戦いを応援するというセブン的な展開にも繋がる。

クライマックスの決戦は、そういう意味でセブン的でありながらも、カイトとマックスが友情の下に共闘しているという新しい見え方を提示していて、借り物ではないこの番組独自の大詰めを演出しているといえるだろう。

さらに、前編では悲恋的な臭いをプンプン演出しながら、後編では復活したミズキを抱いての変身や偕老同穴のその後を描くなど、カイトとミズキのツンデレラブコメに完全にケリを附けたのも妥当なやり方である。ある意味、カイトとミズキの関係にはダイナにおけるアスカとリョウの関係がオーバーラップする部分があるが、結果的にアスカとリョウは結ばれる気配を見せながらも別々の道を歩むこととなった。

マックスのエピローグには妙にダイナの雰囲気が漂っているようなところがあるが、それはデッキ上での記念写真という表面的な道具立て以外にも、目出度く結ばれて共白髪まで幸福な日々を過ごしたカイトとミズキの姿に、在り得たかもしれないアスカとリョウの姿を重ねて視てしまう部分があるからではないかとも思う。

個人的にはウルトラマンダイナという番組をそれほど好きではなかったし、描き方それ自体はそれほど良くなかったと思うが、アスカ・シンという主人公もリョウ隊員というヒロインも、それぞれつるの剛史や斉藤りさという役者の肉体性もあって、決して嫌いなキャラクターではなかった。

主人公アスカ・シンが「必ず戻ってくる」と仲間に約束しながら、結局は何だかよくわからない「より高次な宇宙」へ行ったきりお父さんといっしょにボーっと飛んでいるという落とし所に納得がいかなかったということもあり、アスカとリョウが互いに想い合いながらも結ばれなかった結末には釈然としなかった覚えがある。

それは、現世の仲間との絆を振り捨ててまで、「死後の世界」を思わせる「高次元な世界」の住人となることに意味があるのかという疑問と裏腹の不満であった。主役カップルが結ばれなかったから不満だったというより、愛や友情という人情と秤にかけるかたちで「より高次なステージへ進化」的なワケのわからないアリガタイ対比物を持ってきた辺りに反撥を感じたのである。

そういう意味では、ベタベタなラブコメに辟易しながらも、これまでストレートな両想いとして描かれて続けてきたカイトとミズキが、平成のダンとアンヌとして見せ場をもらったうえで結ばれるという結末は、ダイナの恋人たちを「いつまでも幸せに暮らしました」というベタベタなハッピーエンドで描き直した感があって妙な感慨を覚えた。

その一方で、物語上何ら重要な役柄ではなかったにもかかわらず、制作サイドから妙に依怙贔屓されていたエリーの使い方にも巧みなところを見せ、エリーのAIの自己成長という比較的どうでもいい要素を巧くエピソードに絡ませ、エピローグでちょっと感動的な使い方をしている。

この辺はやはり特殊脚本家を自称するだけあって、さすがにSF的な感動のツボを心得ているなぁと感じさせるし、これまで「ほらほら萌えるでしょ〜?」的なわざとらしさを感じたエリーの描き方ではあったが、半世紀後の世界をエピローグに持ってくるアイディアと併せて「年をとらない永遠の少女」と捉え直すのは、少女物のジャンルでも定評ある小中千昭ならではの勘の良さだ。

さらにまた、「永遠の少女」として捉え直されたエリーがカイトとミズキの孫を見送り「いつまでも待っている」と告げることによって、カイトたちのみならずその子や孫の世代に至るまでの関係性を仄めかし、ウルトラマンマックスの作品世界の中で時を超えて人々を見守り続ける永遠の少女という幻想的なイメージが生起する。

全体として、ウルトラバラエティーショーに相応しい「ウルトラというイメージに関するウルトラ」の最終回という満足度の高いエピソードに仕上がっていると思う。もちろん、これがバラエティーショーでしかない以上、濃厚なドラマ性の積み重ねがもたらす怒濤の最終章という手応えはないが、ウルトラマンマックスという番組をどう終わらせるかという課題に対する、理想的な解答の一つだったと思う。

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