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2006年3月 8日 (水曜日)

高寺騒動に視るリスクマネジメント

このブログにおいては、過去にも何度か高寺騒動に触れているが、その都度論じたいと思いつつも主題からの甚だしい逸脱を嫌って先送りしてきた問題がある。今回はそれを主題として独立した一項を立て、かなり長いものとはなるが、その観点からあらためて高寺騒動を振り返ってみたいと思う。

その問題とは、他でもないリスクマネジメントの問題であり、さらにコーポレートガバナンスの問題であり、アカウンタビリティの問題、引いては企業のコーズ=大義の問題であって、つまるところ企業論の観点からの諸問題である。

以下、ビジネス誌のような馴染みのないタームが頻出して些か退屈させるとは思うが、しばらくお附き合い願いたい。

高寺更迭という企業人事それ自体に対するオレの考えはすでに陳べた。それが映像文芸としての作品それ自体に与えた影響についてもすでに考えを陳べた。しかし、ネットで火の点いたいわゆる高寺騒動の問題点は、人事自体の是非やそれが作品に与える影響の問題の中にはないというのがオレの考え方である。

いかに異例の事態とはいえ、プロデューサー交替自体は制作プロセスにおけるトラブル解決のための一便法であるにすぎないのだし、実際に制作続行が危ぶまれるような何らかの進行上のトラブルがあったのであれば高寺更迭という選択肢に疚しいところはないはずである。

一年間のTVシリーズ制作を完遂するという制作会社としての第一要件が危殆に瀕している以上、その危機を回避するために高寺を更迭することには名分が立つのだし、その処置のゆえに若干番組のテイストが変わったとしてもそれは已むを得ない。さらには、高寺から白倉へ交替したことによる文芸面の影響は、第三者的な視点に立つなら「テイストが変わった」という以上でも以下でもない、文芸としての観点では価値的な高低はさほど存在しない、という意見もすでに陳べたとおりである。

そのような観点においては、高寺体制下の響鬼を「奪還」すべく奮闘している諸氏には気の毒だが、そんなのは個人の嗜好に基づく「要望」の域を出ないのだし、それは企業の好意に縋る「お願い」の域を出ないのだよ、という意見もすでに明らかにした。

ならば、東映サイドの振る舞いには何の問題もないのか、ネットで徒に騒ぎ立てている輩だけが悪いのか、そもそもその騒動自体の規模が無視して差し支えない程度のものである以上、高寺「騒動」など存在しなかったも同然なのか。

これは違うと思う。

今回の高寺騒動は、「幸運にも」ネットで一部の熱狂的ファンが騒いだだけで、それに大勢が同調することなく終わったというにすぎない。その「幸運」の所以というのも、一重に高寺の後を襲った白倉に昇り調子の勢いと知謀があったからにすぎない。すでに高寺のマネジメント能力に対する疑問の声が、クウガの頃から話題になっていたという事情も大きいだろう。

とにかく、結果として高寺騒動の主体となった層が属する人的拡がりの中においては、これが高寺の自業自得であろうという「憶測」が支配的なムードとなっており、白倉が一種のホワイトナイトを演じたという認識が定着していたため、ネガティブキャンペーンが拡大することはなかった。しかし、事実関係がどうあれ、この問題は一歩間違えば番組枠の存亡に関わる大きなリスクに発展した可能性があったとオレは視る。

そのような大きなリスクを内包しているにも関わらず、特撮ファンダムという曖昧かつ小さな関心層は、白倉伸一郎という名と顔を持った一個人のトリックプレイによって、この事態の核心にある問題を直視することなく終わったのである。

それはつまり、この事態に関して、東映という企業は公的なアクションを何ら起こしていないという事実である。後任者の白倉がいろいろ思わせぶりな発言を繰り返していたために見過ごされがちではあるが、白倉はあくまで私人として意見を陳べただけであり東映という企業は何も情報開示のアクションを起こしていない。

白倉がこの事態に際して仕掛けたトリックプレイとは、白倉個人のブログにおいて時間限定で裏事情を開示し、転載禁止を「お願い」した上で削除することによって「確度の高い噂を流す」という、決して綺麗なものではなかった。このトリックが上手く働いたことは、この際に削除されたログを転載した者がほとんどいなかった、ググルで検索しても削除部分の原文がまったく出てこない、という一事だけを視ても明らかだろう。

この削除された原文で白倉が提示していたのは、「制作続行が危ぶまれる現状においてあえて悪役を演じてでも、可能な限り前任者の遺志を継ぎ、可能な限り現行スタッフをサルベージするのが後任Pの役目」という浪花節の「ストーリー」であった。ある意味で、特撮ファンダムの大勢はこの美しいストーリーに「乗った」のである。

ここには白倉という一個人の高度な政治感覚が顕れている。公式に開示することは避けるが、「たまたまこの時間に私のひとりごとを聞いてくれたあなただけに」打ち明け話をする、危機に瀕している前任者以下スタッフたちを救うために、不退転の決意で自己犠牲を敢行するつもりだから見守ってほしい、これは私とあなただけの秘密だよ———このような読者にとって快いストーリーが、あの削除された原文には提示されている。

この削除された原文がほとんどネットに出回らなかったのは、このストーリーが読み手にとって、あまりにも快いからである。「私とあなたの間だけの内緒話」という白倉との隠微な「約束」を果たすことが、偶然その時間にブログを覗いた数少ない読み手に特権的な満足を与えてくれるからである。そして、白倉が「打ち明けた」密やかなストーリーに「乗る」ことがその特権的な読み手である自身の立ち位置を保証するのである。

こうして原情報に接し得た特権的な読み手を中心として、「白倉ホワイトナイト説」が確度の高い既成事実として流布されることになる。誰もが公平に参照可能なソースが今や存在しないにも関わらず、である。

この場合の要諦となるのは、白倉のブログを常時ヲチしている関心層のマッスは実際にはそんなに少なくもないしそんなに多くもない、ネットでそれなりの発言スキルを持つ情報通が多く、風説流布にちょうど良い規模だった、という部分にある。

高寺騒動の当事者である白倉が時間限定で真相を明かし、その後削除したという説得力のある状況設定、さらに原文を目撃した「証人」が少なからぬ人数に上るという事実の重み、目撃者たちが当人の自己責任で語る「原文それ自体ではない」心情的に美化された「証言」、このような段階を踏んで、「証拠を残さずに風説を流布する」という白倉のトリックは完成する。

繰り返して言うが、これは決して綺麗な行いではない。

その真意や動機の是非は措くとしても、これは紛う事なき情報操作のトリックである。内容がどうあれ行為の問題として、白倉は浪花節のストーリーで読み手を誘導し、その内容自体に関しては責任を問われないかたちで、意図的にソースのない風説を流したのであり、つまるところ恣意的にネットを悪用した与論操作である。綺麗か穢いかという観点に照らしていえば、明白に穢い手段である。

ただまあ、基本的に情報操作には善も悪もないし、綺麗も穢いもない。

白倉が仕掛けた「美しいストーリー」に「乗った」人々はイノセントな子羊ではない。騙されたわけでもない。あくまで大人の分別と知性を持っていて然るべき人間であり、自己責任でその美しいストーリーを生きたいと望んだ人間であるにすぎない。事実として未成年である可能性もあるが、建前上そのような大人としての責任を負わない限り、ネットで情報を発信する資格などないはずである。

自発的な意志で白倉の「内緒話」を「証言」した以上、風説流布の主体となった人間に一義的な責任が生じるのは当たり前なのだし、それをあえてするだけの確信が「目撃者たち」にはある。白倉の仕掛けはそのような大前提を目的に目論まれたトリックなのである。

乗った人間が大多数であり、白倉の意図する通りの状況が醸成された以上、これは単に白倉の情報操作が奏功したというだけの話である。オレの見解を受け容れた上で、白倉を穢いペテンを弄する詐欺師だと視るのも勝手だし、そんなの自分的には織り込み済みとして達観するのはもっと自由である。

では、白倉の情報操作それ自体にも問題がないのだとすれば、いったいオレは何を問題視しているのか。

先ほど明言した通り、このような情報開示が白倉伸一郎という名と顔を持った一個人の私的なトリックプレイとして「のみ」演じられたという事実が問題なのである。

高寺更迭という事実に対して東映という企業がどのように関与しているのかという筋道を、あらためて整理して考えてみよう。

高寺成紀という人材は、匿名の一企業人ではない。ものを作る人間といっても、一台のトヨタ車のドアヒンジを取り附けた無名の作業者と同じ立場の人間ではない。顔のない企業という法人格の中の匿名の労働力の一部というわけではない。

トヨタという企業がドアヒンジを取り附ける作業者を一名解雇したからといって、それを一々トヨタ車ユーザーに報告しなければならない筋合いはない。これは当たり前の話である。別段工場労働者を軽んじていっているわけではなく、当該作業者の手によってドアヒンジが取り附けられたという事実は、一台のトヨタ車の購買者視点における価値を決定する要件ではないし、それゆえ当該作業者は名と顔を持つ一個人として企業活動に関与しているわけではないということである。

最もシビアな開示情報である有価証券報告書やアニュアルレポートにおいても、作業者は匿名の数値としてしか顕れない。何千人レイオフしましたとか、従業者の増減は以下の通りですというふうに、数表中の数値としてしか扱われないのである。要するに彼らは企業活動に対して、匿名の労働力の一部として関与しているからである。

高寺や白倉はそうではない。高寺成紀という名前はオープニングのスタッフクレジットの最後に明示され、東映サイドの代表者として数々の媒体で番組関心層に対し情報提供をしているのだし、その情報提供において自らが番組制作において最高の決定権を持つ人間の一人であると取られて当然の言動を貫いている。これについて、東映サイドから積極的に異論の表明は出ていない。

それゆえ、少なくともその情報に接する人間にとっては、このような考え方を持ちこのような言動をとる人間が采配を揮う番組であるという事実が、番組の価値を大きく左右する要件となる。

高寺成紀という名と顔を持つ一個人が責任者であるという事実は、視聴者にとって大きな関心事なのであり、これは白倉でも日笠でも塚田でも同じことだ。ゆえに、東映特撮におけるプロデューサー職は企業内の匿名の労働力ではあり得ない。企業と企業が拡がりを占める社会の接点であり、名と顔を持った一個人でもある。

仮面ライダー響鬼という番組は、高寺成紀という名と顔を持った一個人が製作するという条件を前提に視聴者に諒解された企業活動なのである。その企業活動が危殆に瀕してしまうという危機的状況が出来した場合、高寺が東映という企業に属する企業人である以上、更迭するも続投させるもたしかに東映の経営判断と自由裁量に任されている。

ただし、視聴者に無説明で「自社内部の人事問題」と突っ張るのは筋違いである。高寺の名前に拘るのは一部のマニア層だけで、大多数の視聴者は気にしないというマッスの側面から物を言うのも筋違いである。これは、原理的に企業が負っているアカウンタビリティに関する問題なのである。

TV番組のスタッフクレジットというのは、当該番組における各々のパートの責任階層の開示である。単に「こいつが作ってるんだよ」という顕彰的な意味しかないのなら、視聴者にとっては不要な情報の圧し附けであり、OP映像を汚すノイズにすぎないが、事実としてそうではない。

役者の名前が出ているのは、この役柄は何の何某という人間が演じているので、当該の役柄についての演技面での責任はこの人間にあるのですよ、という情報の開示である。脚本家や監督についても同様であり、文芸、アクション、VFX、それぞれ皆同様に、各パートの業務内容について多少でもリテラシーがあるならば、誰がどのような責任においてこの番組に関与しているのか、その上でその個別業務の価値的評価はどうなのかを判断し得ることになっている。

プロデューサーも同様であり、番組全体についての全責任を負うのがプロデューサーとしての何の何某です、という情報の開示である。東映の業態に詳しい人間なら、作品の文芸的側面におけるプロデューサーの影響力が強いことも、十分責任階層の判断材料となるだろう。

その責任者のクレジットが、ある日ある時何の前布令もなく変わっていた、という事態について、さらにその上位責任者がだんまりを通せるはずがない。東映特撮においては東映内部の人材というのはプロデューサーだけであり、東映という企業の責任において名と顔を持つ一個人としての側面を持つプロデューサーを責任者に任命しているはずなのである。

だとすれば、製作進行上の何らかのトラブルを理由にして責任者を交替させるということになったのであれば、それを執行したのは企業としての東映である。初期条件として提示した責任階層に異動があるのであれば、東映という企業が組織としてその間の事情をステークホルダーに開示するのが責務というものだろう。これは決して「一私企業内部の人事問題」、「だから」開示義務がないということにはなり得ない。

企業が社会に対して名と顔を明かして送り込んだ一個人、それがプロデューサーのはずである。決して匿名の一企業人ではない。企業の代表者として、名と顔を持つ一個人として社会に応対することを命じられた人材こそがプロデューサーである。本来的には、その一個人としての人材が不始末をしでかして交替させられるのであれば、その人材の登用について上位責任を持つ企業という組織には、交替人事に至った理由を社会に対して開示する責務があるはずである。

このだんまりの真意として、東映が高寺を庇ったのか蜥蜴の尻尾として切り捨てたのかは不明である。東映という企業組織としての公式な情報開示がいっさいなかった以上、視聴者には高寺を更迭した東映の処置が是であるか非であるか判断する材料がいっさい与えられていない。

企業内部の人事問題であるとはいえ、不当人事を敢行する大義なき企業であるかどうかという問題は、企業ブランドの存在基盤に関わる重要な問題である。社会には大義なき企業を忌避する権利があるのであり、企業には原理的に自社の大義=存在を許容されるべき妥当な理由を社会に対して証明する義務があり、それを判断する材料を公正に開示する義務があるのである。

にも関わらず、そのような認識もなく「ウチの人間をどうしようとウチの勝手だろう」とでも言わぬばかりの沈黙を東映は通したのだ。

これは企業のアティテュードとして無責任である。

何ら企業としての説明がなかった以上、視聴者が東映という企業をどう視るかはどうぞご随意に、という意味になるが、それは視聴者の東映という企業ブランドへの信頼に対する責任放棄である。あなたがウチの会社をどう視ようと構いませんというのは、東映特撮を好んで視聴する関心層を蔑ろにする態度である。

しかも実際には、この件について不審を抱く層のマッスが、全体として東映の企業基盤を脅かすほどの規模ではない、という事実を見越してとっている機会主義的な態度であるにすぎない。これがたとえば映画興収や番組視聴率に直結するリスク要素と視てとれば、掌を返すようにある程度の公式発表があっただろう。

つまり、リスクをその程度に見積もって履行すべき義務を怠ったのである。相手が小勢と侮ってやるべきことを無視したのである。

これはとんでもない間違いだとオレは思う。番組をどのように作るか、どのようなものにするかという局面においては、マッスを見積もりマイノリティを切り捨てるのは当然であるが、このような局面において多寡を論じて筋論を無視するのは、不公正であるという以上に、リスクマネジメントとして間違っている。

高寺騒動が局部的な騒擾に終わって大きな拡がりを持たなかったのは、単に白倉という一個人が一企業内の個人として上手く立ち回ったからにすぎない。それすら含めて東映の企業としての対処だったというのであれば、東映という企業には大義が存在しない。白倉に火消し役としての意識があったのかどうか、それが企業人としての業務の一環であったのかどうか、それは関係ない。

事実として白倉が行った情報操作は、言ってみればペテンであり、白倉という一個人に対する同調者を募る行為に他ならない。これが東映の企業としてのアティテュードであるならば、東映は企業という組織が管掌すべき開示責任を一個人に圧し附け、企業としての公式開示という白紙委任状も与えないまま、一個人の情報操作によって事態を収拾したということになる。

これは穢い。大義がないというばかりではなく、積極的な大衆操作の詐術で事態収拾を図っている。これでは白倉が東映の秘密工作員的なポジションであって、いざとなれば白倉をも切り捨てるというスパイ大作戦も真っ青の非理非情な企業論理である。死して屍拾う者なし、当局はいっさい関知しないからそのつもりで。なお、このログは自動的に消滅する。ぷしゅー(木亥火暴!!)。

だが、オレはむしろ、それは穿ちすぎであって、東映は単にだんまりを通し批判の矢面に口止めした白倉を突き出すだけのつもりだったのだろうと視ている。白倉がトリックを仕掛けたのは、一種ババを引かされた企業内部の個人としての緊急避難的な意味合いだったのだろうと考えている。

白倉のトリックが、公人としてではなく私人としてのチャンネルを通じて綱渡り的に演じられたものだというのは疑いようもない。それまで散々「反ブログ論」などで個人的な情報リーク批判を展開していながら、結局白倉の苦し紛れのトリックは、その個人的な情報リークのグレイゾーンの恣意的な利用そのものだった。そこまで追いつめられていたと視るべきだろう。

もしかしたら東映には、守秘義務のガイドラインはあっても、明確な処罰規定がないのかもしれない。また、「公人としては」だんまりを通すとしても、私的なチャンネルを通じての釈明までは内々の黙許を取り附けていたのかもしれない。そうでもなければ、手足を縛って猿轡を噛ませた上で血に飢えた暴徒の前に生け贄を差し出すようなものではないか(木亥火暴!!)。個人裁量による事態収拾までは黙認されていたと視るのが妥当だろうと思う。

たまたま白倉のトリックが図に当たったから良かったようなものの、現在のエンタテイメント業界においては、この種の小さなリスクがマネジメントの失敗によって本来あるべきレベルを超えて拡大した事例は枚挙に暇がない。

たとえば昨今の洋画シーンでは、戸田奈津子問題が業界人の予想を遙かに上回る影響力を持ち、実際に戸田奈津子が大作映画を手がける比率が減少しているという「成果」が得られるに至った。これはつまり、これまで業界人の意識内部で神格化されていた戸田字幕の「上手さ」に、無名の一般観客たちがNOを表明し、客観的な検証によって戸田字幕の疎漏が続々と暴き立てられた一連の騒動を指す。

戸田にシンパシーを抱く著名人が擁護の論陣を張ったにも関わらず、それらの著名人が持っていると視られる影響力は事態の収拾にまったく功を奏さなかった。戸田字幕問題の積極的なヲッチャーであるオレの友人の一人はそれをして「ネガティブキャンペーンは声が大きい」と表現したが、まったくその通りである。

このキャンペーンに同調する者は、堪能な英語力を持つ者なら逐語的に訳文を徹底検証し、ビジネス文書作成に通じた者は、直截映画監督自身に親しくメールを送って状況を報告している。まさに犬馬の労を厭わず労力を集積したのである。その結果、監督直々の要請で字幕と原文をクロスチェックさせるという事態に至って、全面的に字幕が改訂され、あるいは次回作から戸田字幕を排除させた例もある。

戸田字幕問題が大きな影響力を持つに至った最も重要な要諦とは、「昔のように英語が判るのが一握りの特権階層だけではなくなった」という事情が大きいだろう。ややもすると、英文読解能力的には無名の一般観客のほうが高い場合すらある。

今は戸田奈津子の最盛期のように、海外渡航が制限されていた時代ではない。帰国子女といわれるバイリンガル層も増えている。商社マンや外資系企業人などは、厳しい検定を勝ち抜いてネイティブスピーカーと大きな責任の伴う実務利益を賭けて渡り合うことによって、活きた英語を身に着けている。海外渡航経験自体がほとんどない(まったくない?)戸田奈津子よりも英語能力が高い人、海外事情に精通している人、特定語彙のアクチュアルなニュアンスをリアルタイムで把握している人が、今や陋巷の市井人の中にゴロゴロしているのである。

その上で、「大家」の仕事を無批判に奉るばかりではなく、知的作業の効率が衰退して然るべき高齢の「一作業者」の仕事を客観的に検証しようという意欲を持つ新しい映画人口も拡大している。「字幕:戸田奈津子」というクレジットに、若き日々の追憶や、センチメンタルな思い入れを伴わない層が今や大勢となっている。

さらには、そのような底辺の人口が拡大の一途を辿る中で、いくら英会話ができても、それが「日常会話には堪能でもプロ的な視点に基づく文芸的批評が可能なリテラシーを具えていない」層だという臆断は、希望的観測に基づくお笑い種でしかない。そもそも戸田字幕を問題にし始めたのは、一般観客というより映画に関する知識が比較的豊富な映画フリークたちなのである。

そういう意味では、戸田奈津子批判や字幕検証を「業界事情をよく識りもしない素人の戯言」的な見地から切り捨てようとした著名人たちのスタンスは厳しく批判されて然るべきだろう。膨大な数に上る新作映画の字幕作成が、一個人によって独占もしくは寡占されている状況自体がいびつなものであるという認識がない上に、戸田人脈に属さない字幕作成者たちを、個別の検証抜きで軒並み「一定要件を満たさない低スキルの業者」と切って捨てることになるからである。

次に大きな要諦は、戸田批判に与する人間は一種いびつな業界構造自体に対しても疑義を呈しているわけだが、それに対する反論の趣旨が「大作の字幕を作成できるスキルを持っているのは戸田奈津子だけ」という、およそ汎職業概念的に現実的でない主張一色だったという事実である。

この論理に基づくなら、それなりに寡占状況であるとはいえ大勢存在する映画監督よりも、ましてや有象無象を含めて星の数ほどいる映画評論家よりも、字幕作成のスキルは難しいのであるということになってしまう。「一人しかいない」というのは、絶対無二であるということだ。何をどう言い繕ったところで、これほどいびつな職業状況を正当化できる説得力のある論理など存在しない。

その主張が説得力に欠けるため、業界全体に護送船団的な癒着構造があるのではないかという疑惑を強化する結果に終わり、さらに業界の体質に対する不信を掻き立てるという悪循環に陥った。これがお粗末窮まる戸田奈津子問題というものの全貌である。

おそらくこの問題も、業界全体が緊張感を持って対処すれば戸田奈津子個人の名誉問題にまでは発展しなかったはずだ。戸田奈津子問題を論じるサイトでは、客観的に妥当な条件附きで戸田奈津子の翻訳能力に一定の評価を与えている論者も多い。「何でもかんでも戸田字幕」といういびつな状況こそが問題であったのに、業界は挙げて素人の批判を高圧的に圧殺しようという態度一色に傾いた。

映画評論家という「権威」が積極的な広報者として「判りもしない素人が何を言うか」という十年一日の如きお題目を並べたことが、火に油を注ぐ結果となったのである。この件において当該論旨に基づいて戸田擁護の論陣を張った評論家は、自身の振る舞いが結果的に個人としての戸田奈津子の妥当な名誉や業績までも泥に擲ったのだという認識を持つべきだ。

事此処に至ってようやく戸田下ろしが現実的な趨勢となっても遅いのである。

大家といわれる脚本家や映画監督ですら大勢存在する業界において、たった一人の人間がある職域を独占している状況がいびつならざるはずはないのである。たとえ現実に、大作映画の字幕を作成できるスキルを持つのがそのたった一人の人間だけだとしても、「だから」ある職域を一個人が独占しても構わないということにはならないのだ。

特定個人によってある職域が独占されている状況が是であるか非であるかを社会が判断する機会が恒常的に損なわれているからである。そこにあるのは、当事者による一方的な自己正当化の意見にすぎない。比較の対象があってこそ、「やっぱり戸田字幕はピカイチ」という論旨が妥当か妥当でないかという客観的な判断が可能となるのであって、独占されているということそれ自体がすでに不当な状況なのである。

そのような妥当かつ常識的な認識もなく、批判勢力のリテラシーを無根拠に貶め、当該職域における「その他大勢」を、客観的な根拠も示さずに「低スキル」と切って棄てる傲慢な態度によって、戸田奈津子の仕事全般が徹底的かつ無慈悲な批判に晒され、一種禁治産者的な辱めを受けるまで状況が是正されなかったという頑迷な現状を招来したのは、他ならぬ業界人であり戸田を一方的に擁護した著名人たちである。

これは元々「個別の作品の字幕が気に入らない」という、パイの規模から言えば小さな関心層による小さなリスクであったにすぎない。それを「高圧的に圧殺を図る」という間違った対処の仕方で扱ったがゆえに、マジョリティとマイノリティの利害という範疇を離れて「小さな声の論旨の妥当性」がものを言う事態を招来し、結果的に大きな声、大きなリスクに育て上げてしまったのである。

さらに最近ホットなネガティブキャンペーンの事例としては———識り合いに「声の大きな」中華迷が一人いるためネタ元に偏りはあるが(笑)———TBSの周年記念ドラマである「輪舞曲」の「盗作」問題、またジェット・リーの新作映画「SPIRIT」におけるエンディングテーマ差し替え騒動がある。

これらの問題については現在進行形ということもあって詳説を控えるが、いずれの問題もリスクを過小評価してわざわざ大きなリスクに育て上げているという共通項を持っている。ネタ元が中華迷ということもあるが、「中華圏の国内市場への影響力は小さい」すなわち中華迷の意見を「小さな声」と視るという侮りがなかったかも厳しく問われるべきであろう。いずれの事例においても、ファンの意見に「聞こえないフリ」をしたりその場凌ぎの言い訳を繰り返すという不誠実な対応によってネガティブキャンペーンに燃料を投下するという愚挙を犯している。

ネットにおけるネガティブキャンペーンは、企業側の真摯な対応姿勢のアピールによってある程度穏便な解決が可能である、という過去事例の知恵がまったく活かされていないのである。

所詮、バタ臭いアメリカ渡りのキャンペーン手法と雖も、その主体となるのは涙もろい人情肌の日本人なのである。誠実に対応しようという姿勢の見える義人をなおも悪し様に罵るほど割り切った攻撃的な人間はさほど多くないのである。腹を割って話せば判るという、選れて日本人的な双方向対話によってのみ事態が収拾可能なのである。

それなのに、どの業界におけるどの企業も、十年一日の如く、判で押したように、災難が我が身に降り懸かってから姑息な対応や責任逃れで墓穴を掘り、騒ぎを徒に大きくしている。東芝事件が「小さな声」に潜む企業リスクを暴き立ててから一〇年近く経っているのに、未だにどの企業も当事者となった瞬間に一〇年前の東芝になって、見飽きた醜態を晒してしまう。

何がどう間違っているのか。

白倉も含めて、このようなキャンペーンに直面した企業人は、それらの問題を「ネット問題」として括ってしまう。ここが間違っているのだ。ネットは手法にすぎない、本質的な部分は企業論の範疇の問題であり、リスクマネジメントの問題なのである。

企業は、株主やお得意に対してちゃんと説明できれば自由裁量で好き勝手をしてもいいというわけではないのだし、株主とお得意以外には何も説明しなくてもいいというわけでもない。

企業の事業活動について、ネットを端緒として大きなリスクが突発するのは、ネットに原因があるのではない。ネットをいくら考察しても、無意味なのである。そのリスクはネットが発生する以前から、原理的には企業の目の前に突き附けられていたのである。単に、社会には企業内部を監視する有効な手段がなかったし、企業姿勢の是非について不特定多数から不特定多数へ向けて情報を発信する現実的な手段がなかったというだけの話である。

それゆえに、マスコミの社説や読者欄への投稿など、広報手段を持つ者が取捨選択した情報のみが企業に対して影響力を持つという生ぬるいモラトリアム状況が持続しただけの話である。無論、マスコミに対して広告出稿というアドバンテージを持つ企業にあえて楯突くには、消費者側の利害ばかりではなく社会正義の要請という大きな圧力を背景にする必要がある。

ネットが実現したのは、そのような寡占的な情報の流通構造を破壊して情報発信手段を万人に解放したことである。さらに、2ちゃんを肇とする巨大掲示板というカテゴリーは、特定の問題に対する爆発的なマンパワーの集積を可能にした。いわゆる「祭り」と呼ばれる狂躁的な事態こそが2ちゃんねる的な場の持つポテンシャルの最大のメリットであり、同時に危険性でもある。

「祭り」は専門的で高度なスキルやねばり強い労力の集積が必要とされる作業を瞬間的に成し遂げる爆発的な力を持っている、ただそれだけなのであって、白倉的な文脈における「超越力」と同様、善でも悪でもない巨大な力である。それを批判的に語るのは、話者自身に疚しいことや不安があるからでしかない。

これはつまり、ニーズに対して実現手段が与えられただけの話なのだ。

ネットや匿名巨大掲示板群を百万年論じたところで、企業にとって益などはない。それが実現したのは、常に今まで企業の鼻先に突き附けられていたが誰も真剣に考えなかった問題なのである。そのリスクは大昔からあったのである。それが証拠に、ネットから火の点いたネガティブキャンペーンで、当事者に対して一方的に不当な騒動はそれほど多くない。それは原理的にそうあるべきものなのである。

無論、無責任な噂や遺憾な結果を招来した事例もあるが、むしろそれは社会対個人という側面におけるアティテュードの問題であって、これもまたその本質はネットにあるのではない。対企業という視点でいえば、これまで現実に大きな影響力を持ったネットの騒動というのはおおむね企業側に非のある事柄ばかりである。その追求の過程において追求者自身の倫理もまた問われるのは、ネット固有の問題ではなくこうした運動全般に共通する問題である。

なにゆえ本来「小さな声」「小さなリスク」でしかないはずのマイノリティの言葉が、ネットという実現手段を介して「大きな声」「大きなリスク」に成長するのか。それはネットという公開手段によって、大勢に占める利害関係者の比率ではなく、小さな声の論旨の妥当性そのものが中心的な問題となるからである。それが表しているのは、紛れもなく公共正義の感覚であり、問題となるのは企業のコーズ=大義の問題なのである。

どんなに数少ない人々であろうとも、マイノリティであるがゆえに弱者として不当に扱われてはならないという公共正義の感覚が目先の利害を超えて喚起され、無関係な他者の義憤を煽り、大同団結のポテンシャルを生むのである。だからこそ、現代の企業には相手をマイノリティと侮ることのない陰日向のない公正な振る舞い、コーズ=大義に基づいた公正な姿勢が要求されるのだ。

手段としてのネットをどうにかすればいいなどという小手先の話ではないのである。

要は、手段としてのネットが爆発的に効率化しただけの話であって、何ら目新しい事柄が起こっているわけでもないのだ。企業は利益追求一方ではなく、社会に対する存在意義を獲得し、それを自己責任で証明しなければならない、そのような大昔からあるお題目が現実的なものになっただけの話である。

本来強制力のなかった理念的ルールが、手段を得て実効力を具えるに至ったというだけのことだ。それを「ネット論」というカテゴリーに括ることは問題を一方的な視点から矮小化し、不当で嘆かわしい攻撃的風潮が脅威となっている現状において、いかに企業が自己を防衛するか、という観点に問題をすり替えることだ。

そうではない。ネットのネガティブキャンペーン事例が示唆する時代の要請とは、企業がいかなる中傷や攻撃に晒されても胸を張って自社の大義を主張できるよう、陰日向なく襟を正す姿勢の必要性である。

かなり寄り道してしまったが、ここで話題を高寺騒動に戻そう。

オレがこの騒動について危惧するのは、いかなる動機に基づいたのかは識らず、本来は社会に対し企業として堂々と開示すべき筋合いの事柄について、東映という企業がリスクを不当に低く見積もって、一個人の小刀細工で胡麻化したことだ。

今回は上手く行った。白倉GJ! だがそれでいいのか。

高寺の失態について処分を保留することも、処分理由を表沙汰にすることもできない何らかの現実的な事情があった。それは一種、社会正義の観点に照らして激しく胡散臭い見え方である。

高寺更迭という人事それ自体については、それを是とする材料も非とする材料も持ち合わせない以上、白倉の流した噂を否定することはオレにはできない。また、公平に白倉を擁護するとすれば、このトリックにおいて白倉が貫いた態度こそ、「腹を割って真摯に話す」という姿勢であろうと思う。つまり白倉は、ネットのネガティブキャンペーンを収集するために必須の要件が何であるかを認識していたのである。

だが、それを判断する材料を外部に与えなかったという一事をもって、オレは東映という企業の大義が信用できない。

直観的には無理もない事情があったのだろうと考えるし、この東映の処置によって何か大きな不正が出来したとも考えない。しかし、その振る舞いは潜在的に小さなリスクを大きなリスクに変える愚を含んでいる。

高寺騒動が大きな拡がりを持たなかったのは、運が良かったということ、白倉が上手く立ち回ったということ、さらには東映の姿勢を糾弾するに足る大きな実利的不正が存在しなかったこと、これらの要素がうまい具合に絡み合ったというだけだ。

視聴者には、東映の振る舞いを価値評価する材料が与えられて然るべき権利がある。それを胡麻化したのは、何をどう言い繕ったところで大義に悖る振る舞いであり、大袈裟にいえば社会に対する裏切りだ。

これを、当事者である白倉は認識しているのか。

この騒動を突き詰めて考えれば、まず第一にコーポレートガバナンスの問題になるはずなのだし、ガバナンスの失敗が招来した事態についてのアカウンタビリティの問題にもなってくる。ネガティブ情報の開示に関するリスク・ベネフィット比の問題でもあり、当然企業リスクのマネジメントの問題にもなる。

さらには、それらの総合として東映が目指すべき企業ブランドの問題にもなるのだし、引いては、企業のコーズ=大義の問題である。決着するところ大本の問題とは、東映という正義のヒーローについての映像作品を量産する企業の、それ自体の大義の問題だということになるのだ。

目先の都合で大義を枉げる不公正な企業の作る「正義の味方」物語、それを信用できるのか、自分の子どもに見せられるのか、という問題にもなるのである。

先ほど陳べた通り、大多数の視聴者は東映という企業名にも高寺何某というプロデューサーの名にも拘らないというのは、この場合いっさい問題にならない。

考えてもみたまえ。これまでネットのネガティブキャンペーンにおいて採り上げられた問題を、あなた方は事前に意識していただろうか。意識し、考察した上で、問題とするに当たらないと判断して閑却していたのか。そうではないだろう。それが問題であるとは気附きもしなかった、そう認識するには情報が足りなかった、関心がなかった、それだけのことだったのではないのか。

繰り返すが、ネットのネガティブキャンペーンが招来する事態とは、マジョリティとマイノリティの利害の対立を超えた論旨の妥当性の問題、社会正義の感覚なのである。

一旦事が起これば、爆発的に集積されたマンパワーによって企業の事業活動が容赦なく批判・検証され、非専門家に明示するためのツールが整備され、データが収集されて、必要とされる情報が徹底的に集積される。これまで東映やプロデューサー個人を意識していたかどうかなどいっさい関係ない、そのキャンペーンが一定の拡がりを持った段階で初めてそれを意識し関心を抱いた者であっても、与えられた情報の範疇において、論旨の妥当性に基づいて判断を下すことは、当たり前の知性と判断力を持つ人間には可能なのである。

ネットが可能にするのは、ある問題を価値評価する際に必要とされる情報に対するユニヴァーサルアクセスなのである。社会正義の問題がアクチュアルとなるのは、そのような情報が公平かつ即座にアクセス可能であり、判断の妥当性と透明性が担保されるからである。

「今」「ここに」あるリスクが無視できるほど僅少に見えようとも、それを視ている者が少ないからといって不公正に取り扱ってはならないのである。逆にいえば、真っ正直に振る舞ったとしても誰も見てはくれない、正直者がバカを見るだけの世の中ではなくなってきているのである。

自らの企業活動が対象とする人々に対して真摯に誠実に対応するという、人間の自然な本然に叶う行いが何の実も結ばない、むしろ騙し欺く悖徳の行いこそが企業利益に合致するという歪んだ社会構造が、少しずつ是正されてきていると考えるべきだろう。

たしかにオレは、高寺騒動に関しては無理もない事情に基づいて無理もない事態が実現したのだと考える。それに対して過度な要望を主張するのは益のない行為だとも思う。しかし、この事態に関して東映の企業としての開示責任がいっさい追及されていない、それどころか東映に開示を要求するのは無理筋だという風潮に傾いているのは筋としておかしいと思う。

同情すべき余地があるのと筋を外していることは別なのである。たとえそれを明らかにすることによって高寺に二度と再起の目がなくなるのであっても、それとこれとは別の問題なのである。だとすれば、利害関係者全員が納得可能で苛烈な処断を伴わない公式説明を熟慮して作文すべきだったのだ。

オレが上記の立論で陳べている情報開示とは、言葉通りの意味で正直に「真実」を話すということとイコールではない。企業の説明として納得可能な、コンクリートな言質をステークホルダーに与えるということである。企業が一から十まで本音を明かせるものではないし、明かすべきでもない。個人として正直なことと企業として正直なことは、自ずから次元が異なるのである。それは現時点で開示可能な限りの情報を明かし、利害関係者全員が納得した説明を公開し一般社会をも納得させ、それにまつわる批判や責任のいっさいをしっかり受け止めるということである。

一度公開したステートメントに対して批判を受けたら「あれは違ってました、本当はこうでした」と前言をフラフラと翻し、その場その場で都合の良い後附けの説明を加えることこそが企業の「嘘」なのである。一度自社内部で採択した公式見解を堅持し、そのストーリーにおけるメリットもデメリットも諸共に引き受けることこそ企業にとっての正直な態度なのである。

残念ながら、一部トップランナー企業や外資系企業以外ではこのような企業姿勢が現実的に必要なものだという認識は薄い。不特定多数のマッスを直截相手にしないBトゥB企業などはとくに後進的なものである。そして、映画会社というのは伝統的に旧弊な企業体質である上に、BトゥBの代表的な業態である。まだまだマクロな社会の趨勢が、現実的な影響力をもたらす時期とはいえないだろう。

今のところ東映の開示責任を追及する声は、オレを含めて「小さな声」でしかないし、今のところおそらくそれを追求する社会的な必然性はまだまだ薄いのだろう。これをどの程度の潜在的リスクと受け取るかは、白倉たちの世代の見識如何にかかっている。

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