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2006年3月 5日 (日曜日)

バートン二題

ティム・バートンは基本的に好きな映画作家なのだが、コンビニで見かけて買っておいた最新作のDVDを、昨日になってようやく観た。「コープス・ブライド」と「チャーリーとチョコレート工場」の二本だが、二本とも劇場公開時に観ていないので、これが初見である。

では、好きといっても「小屋に足を運ぶほど好きでもない」のかといえば、そんなこともない。個人的な話になるが、この辺について少し注釈を試みよう。

唐突だが、第一にオレは閉暗所恐怖症である。

その傾向は年を経るに従って強固になりまさり、若い頃は平気だったことも段々に困難になってきている。映画館で映画を観るということもその一つで、これには頻尿というウィークポイントも大きいのだが、とにかく暗い映画館で見知らぬ人々に囲まれ身動きもならず二時間集中するということができない。

さらに唐突だが、第二にオレはここ数年洋画を観なくなった。

どんなかたちであれ、映像作品に興味と関心を持つのであれば、若い頃は好き嫌いせずに「素養として」「系統的」「網羅的」に映画を観る必要がある。それには疑問の余地がないので、世間並みの意味で「若い」と言われる年代にはそれなりに洋画も観たが、どうも個人的嗜好として外国の現代劇にはいっさい興味がないということがわかった。興味を持てたのはSFや西部劇、サンダル物やファンタジーの類で、要するに文芸的なタームとしてのコスチュームプレイのみである。

基本的に外国人の生活様態に興味がない。だから、今は網羅的に洋画を観ることは放棄している。「好きな映像作家」「好きなジャンル」の作品しか観ない。オレもいい年になったので、洋画についてはこれ以上「お勉強」する余裕がないから「楽しむ」レベルに見切ろうということだ。したがって、オレは洋画通ではない。

第三に結論だが、今世紀に入ってから、オレは殆ど映画館で洋画を観たことがない。

数少ない例外は、すべて他人との附き合いである。その数少ない例外の大半において、オレは通路側に席をとり、上映中に最低一回は不浄に立っている(木亥火暴!!)。これではちゃんと映画を観たことにならないだろう。

だから、一応観るほどの価値があるだろうと踏んだ洋画はDVDで観ている。これなら麦酒を呑みながら観ていて小用を催しても一時停止すればいいのだし、煙草を吸いながら観ていても誰からも文句を言われる筋合いはない。引っ懸かったところがあれば巻き戻して確認することもできる。入れ替えもないから何回観ようと自由である。

どんな作品でも基本的にDVDによる個人視聴がメインなので、リスペクトのある作品については、きちんと商品を買うようにしている。殊に邦画の期待作については、無理を押して小屋で観て、DVDが出たら豪華版を買う。これは一種、直接的な接点と責任を持つ邦画界の現状において、興行的成功に対する個人的な願掛けの類であり、リスペクトの表現としての苦行の類である(笑)。

ティム・バートンに関しては、そもそも本国で興行的にペイして他国でも一定のシェアを確保している作家なのだから、いくら好きでも、苦行を冒してまでオレが何某かの願を掛けたり、リスペクトを表現する必要は認めない。さらには、「好き」ではあるが、ティム・バートンが世界の映画界において必要欠くべからざる人材であるとは思わないし、バートンが存在しなくても世界の映画界は同じような発展を辿ると思う。バートンの不在で困るのはバートンの「ファン」だけである。

ティム・バートンという映画作家は、映画界という社会的な拡がりを前提にするなら、バートン「以前」「以後」という画期を画するような存在ではないし、逆説的にいえばそのような存在ではないということのみが社会的な意味を持っているというのがオレのバートン観である。

バートン映画を愛する人々がバートン映画を愛する理由とは、それがバートン映画以外の何ものでもないからであり、それにはそれ以上の意味などない。それを突き詰めるなら、人が人を愛する理由を社会的な視点から探るのと同じことであり、オレ個人としてはそのようなアプローチに意味があるとは思えない。

だからオレは、ティム・バートン作品のファンだからティム・バートン作品を観るのであって、それは批評的意義とはまったく無関係な、極個人的な愛もしくは好意の問題なのである。

というわけで、ようやく作品そのものに触れるわけだが、ここでオレの極個人的な愛や好意を語ったところで意味はないだろう……というのをオチにしてここでコメンタリーを終えてもいいわけだが(木亥火暴!!)、まあそこまでの悪ふざけはしない。

このようなチャンネルにおいて映像作品を話題にする以上、そこで言及可能なのは批評的な側面の問題だけだろう。このブログが日常的雑感の垂れ流しであるとしても、萌えの喃語の垂れ流しでだけはない以上、なぜオレがバートン作品を好むのか、どこがどのように好きなのか、それを語ってもしょうがない。

批評的な視点に基づいていうなら、この二本とも特別な美点を具えた傑作というわけではないだろう。ある時点においてバートンがたまたま作った二本の映画という以上でも以下でもない。

「チャーリーとチョコレート工場」についていうなら、格別劇的な緩急を具えた原作ではない以上、前半の主要な流れである四人の子どもを退場させる反復的な挿話の構造が平板で、若干退屈を覚えた。畸人であるはずのウィリー・ウォンカも、選れてバートン映画的な人物であるだけに、バートン映画を見慣れている観客にとって際立った変人には見えない。要するにこんなキャラクターばかり登場するのがバートン映画なのであるのだから(木亥火暴!!)。

反復という挿話構造でストーリーを見せる場合、重要なのは個別の挿話の輪郭である。これがクッキリしていない限り、同じような事態がのべったり平板に続くような印象になってしまう。先行する「夢のチョコレート工場」も原作も識らないので、これがこの原作固有のエピソードなのかどうかは識らないが、二回ほど見返してみてもチャーリーを除く四人の子どもたちが「いやな子ども」とされている理由が、一つのキーワードに収斂するほど輪郭がクッキリしているとは思えなかった。

大雑把には、「食いしん坊」「競争好き」「わがまま」「理屈屋」というふうに読めるし、それぞれのキーワードとなる「いやな」部分が原因でひどい目に遭う、ウォンカがわざと「してはいけないよ」と禁止したことをあえてして罠に嵌る、という挿話構造になっているのはわかるのだが、そこがもっさりしていて、そのようなハッキリした輪郭を持つエピソードとして明確に言い切っていないので、反復のリズムとしては活きていないように思えた。

こういう部分のリズム感が悪いのは、この種の構造を持つ物語としては決定的な弱点といえるだろう。そもそもこの映画は童話を原作に持っているわけだが、童話を映画化する場合に重要なのは、バートン映画的な混濁・混淆の感覚というよりは、ある種の明晰さ、明快に言い切る感覚なのだろうと思う。その意味では、ティム・バートンと童話の取り合わせというのは、一見好相性のようでいて実はそうではないのかもしれない。

ウィリー・ウォンカの厭味なまでの皓い歯が父親との関係の伏線となっているとか、他のバートン作品に比べればとにかくベタな表現に徹しているような部分もあるにはあるのだが、元々バートンの映画的な話法は、構造を明確化し何かを一義的に言い切ることには向いていない。

映画的な感銘は受けるが、ちょっとどう受け取ったらいいのか俄には決しかねるような表現、全体としてどのような意味の物語が語られたのか判然としないような微妙な語り口が持ち味なのだから、その持ち味のゆえに元々の物語のわかりやすい構造がボヤけてしまっているように感じられた。

多分、この映画が魅力的だとしたら、それは原作が具える物語構造がどうあれ、個別の作品としての設計がどうあれ、やはり結果としてバートン映画でしかないものになっているからだろう。

「でしかないもの」であるにもかかわらず、どうやらこの映画はそれなりにヒットしたらしい。それはやはり、バートン映画「でしかない」この映画が普遍的にチャーミングな部分を持っているからだろう。

この映画はバートン映画のトレードマーク的な存在(実際にはそれほどでもないが)であるジョニー・デップ演じる畸人・ウィリー・ウォンカ対糞生意気な子どもたちの映画である。デップという役者の魅力については今更語るまでもないが、それとタメを張る子役の選出には、相変わらず目が感じられる。金持ちVS勝ち組志向の生意気ガールズはやっぱり誰がどう視ても単純に可愛いし、チョコレートで口の汚れたデブを選ぶのが惚れ惚れするほど上手い(木亥火暴!!)。

それぞれの父兄の軽視の仕方、それほど厭らしくはないがステレオタイプの大人の描き方、理屈抜きに年寄りを好ましく描く視点、ウンパ・ルンパという異形の存在を窮めて純粋に面白がって描くスタンスの清潔さ、ウォンカという畸人の子どもでも大人でもない中途半端な畸型的在り方、これらはいつものバートン節である。

この映画に童話的な魅力があるとしたら、それはバートンという人に普遍的な子どもの目があるからである。大人が子どもに語る明晰な物語が童話なのだとしたら、この映画はウィリー・ウォンカと近縁の目を持つ人間がそれを子どもと対等な視点から再話したような模糊とした味わいがある。

「コープス・ブライド」という作品にも、「チョコレート工場」と類似のことがいえるだろう。バートン直々のストップモーションアニメ作品ということで、誰もが「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」の再来を予期したことだろうが、カルト作品としての完結度からいえば、「ナイトメア」に一歩及ばないだろう。

「ナイトメア」から説き起こすのは若干遠回りだが、この作品は「ハロウィンの国」という有無を言わさぬ大前提から始まるおとぎ話である。いうならば、子どもの空想の国である。「ハロウィンの国」の近所には「クリスマスの国」があったりする。

ハロウィンにせよクリスマスにせよ、それは場所を示す概念ではなく時間を示す概念である。時間と空間の概念が微妙にねじれて接合し、それぞれがおとぎの国として存在するという、そもそもこの映画個別のローカルルールが大前提の物語である。

そのようなあまりに突飛なローカルルールを前提にする以上、「一年中ハロウィンであるというのはどういうことか」「普通の世界における時間的な意味でのハロウィンとどういう関係を持つのか」という理念的な考証をするのは無意味である。これはおとぎ話であり、一種の詭弁によって成立する神話、神聖喜劇だからである。

サンタクロースに扮したジャック・スケリントンが、ハロウィン・タウンから不気味なプレゼントを満載した橇に乗って現実の世界の時間的な意味におけるクリスマスに現れても、それは別に矛盾を形成するわけではない。

ところが「コープス・ブライド」の場合、生者の世界と死者の世界という、「ナイトメア」とはリアリティレベルの異なる世界設定となっているため、これが純粋なおとぎ話として視られるかという辺りに疑問が残る。

舞台となっているのは「ノーウェア、エニウェア」のおとぎ話の世界ではなく、あくまで現実のビクトリアンエイジである。生者と死者の世界というのも、すでに個別のローカリティによって確立された既存の前提条件として存在する。「ローカリティ」の意味が少し違ってくるのである。現実のビクトリアンエイジの英国という「ローカリティ=地域要件」を採用しているのだから、「コープス・ブライド」という作品個別の「ローカリティ=個別要件」とは次元を異にするタームとなる。

つまり、普通の意味でビクトリアンエイジの英国で受容されていたような死生観を世界設定として採用するなら無説明で済むが、この作品の世界観である「小さな村の地下に死者の国がある」という設定はこの作品個別の世界設定であって、それは作品内で説明を要するということである。

このような性格が、「必要にして最低限の映像しか撮影されない」ストップモーションアニメというメディアの経済性にはそぐわない。実際、この映画はストーリーを構成する要素しか映像化されていないタイトな映像作品である。

ストップモーションアニメとは、莫大な手間と時間を要する作品形態であるため、とりあえず必要かもしれない絵を網羅的に押さえておいてポストプロダクションで切ったり貼ったりして縮めるという、普通一般のハリウッド映画のやり方で作られるメディアではないのである。

世界観が説明を要する場合、それを観客に説明するためだけに余分な絵が必要になる。それは実写作品とは違って、説明的な台詞を喋っている役者をただ撮るというだけの手間ではない。その分パペットを根気よく動かして一枚一枚撮影していかねばならないのである。だから、ストップモーションアニメでは、絵の経済性というものがかなり重要な要素となる。同じ時間をかけるなら、物語要素として必要不可欠で見せる芝居として成立するような絵を作りたいと望むのが作家の生理だろう。

ストップモーションアニメは、セルアニメと同様、予め絵をすべて決めてからそれをパペットによって再現し、気に入らなかったら修正していくものである。実写と違って、「ちょっと押さえておく」ということができない、セルアニメのように「描けばそれでおしまい」でもない、CGのように「部分的に使い回しが利く」わけでもない表現手法であるだけに、厳しく経済感覚が問われるのである。

この作品で最も説明的な要素はブライド遭難の経緯を語る一連の台詞だが、それはボーン・ジャングルズのミュージックナンバーという見せ場を兼ねている。のべったり登場人物が説明台詞を喋るという絵面はいわゆる「口パク」でおもしろくないし、一種無駄な絵である。

だが、事実として「コープス・ブライド」の世界は、万人が共有する異界概念をベースにしているのでない以上、観客にそれを説明する描写要素が必須なのである。

比較的短い作品であるので何度か繰り返し観てみたのだが、要するにこの作品における死者の世界とは「個別の村の地下にその村個別の死者の世界がある」「死者の世界にいる死者は死体そのものではない」「生者の世界と死者の世界の往来は自由ではない」というローカルルールがあるらしい。

だが、物語の発端において、主人公ヴィクターは墓地の畔の樹下に埋まったブライドの死体そのものの指にリングをはめ、結婚の誓言をしてしまったがゆえに、生きながらにして死者の国に迷い込む。これがすでにローカルルール破りである。

まず、それぞれの世界におけるヴィクターとブライドの、肉体と魂魄の区別が曖昧である。ヴィクターがプロポーズしたブライドは殺害現場の浅い土の下に埋まった現実の死体であるが、それとは別の魂魄的なブライドが死者の国にかなり以前からいたらしい。だとすれば、殺害現場から橋の上までヴィクターを追いかけてきたブライドはどちらのブライドなのか。

さらに、橋の上で失神したヴィクターが目を覚ますと死者の国にブライドと共にいるわけだが、このヴィクターは肉体を持ったまま死者の国に来てしまったのか。街の布令役が語る噂によれば、ヴィクターは「黒髪の美女と共に闇に消えた」らしい。この布令役は観客以外識り得ない情報をも語っているから、メタ的な意味でのコロス役と視ていいだろうが、だとすれば、ヴィクターはやっぱり身体ごと死者の国に消えたのである。

では、そのヴィクターといっしょにいるブライドはどちらのブライドなのか。地上の世界にある現実の死体はどうなったのか。死体のブライドは、どこで死者の国のブライドと入れ替わったのか。そもそもヴィクターとブライドの冥界行はどのようにして起こったのか。これがサッパリわからないのだ。というか、意図的に曖昧に描いている。これが意図的な曖昧化によって克服可能な問題かというと、オレは違うと思う。

さらには、死者の世界に墜ちたヴィクターとブライドは、なぜか自由に生者の国に戻ることができないということが判明する。ならば、生者の国から現実の死体として生身の人間を死者の国に連れてきたこと自体がそもそもおかしいわけだが、それが戻れないというのはなおさらおかしい。

そのために二人は長老の許へ行き魔術によって生者の世界に一旦戻るのだが、それはあくまで「短期旅行にうってつけ」の魔術にすぎず、「ホップスコッチ」の呪文によって「元の場所」に戻るという邯鄲の枕のような一時的な呪法にすぎない。つまり、原理的にヴィクターは、死者の国に属する者と区分されているのである。これがわからない。むしろ生者であるヴィクターが死者の国にいること自体がルールの侵犯なのである。

ただ、これ自体はヴィクター自身が死者に対して結婚の誓言を交わすという、いわゆる日本的な文脈における言の咎を犯しているための呪いということでどうにか解釈が附かないこともない。キリスト教圏における結婚の誓言の厳粛性から考えれば、リハーサルとはいえ、その言葉自体によって何らかの拘束力が発生するという思想的裏附けを視ることもできる。

だが、ストーリーの進行に連れて、さらにこの解釈も破綻する。結婚の誓言に「死が二人を分かつまで」という付帯条件が附く以上、この誓言自体が無効であるという解釈が劇中の事実として突き附けられるのである。そこで提案されるのが「死者の国のワインを呑むこと」であるというのは、一瞬「黄泉戸喫」的な共食思想を期待させるが、それが単純に「毒を煽って死ぬ」という意味しかないことで落胆させられる。

さらにこの落胆は、唐突に雄弁になったヴィクターが「結婚式は上の階で行う」と聴衆を煽って地上界への進軍を煽動することでちゃぶ台返しの混乱に変わる。死者が生者の国へ行くのは、魔術でも用いない限り不可能だったのではなかったのか。それなのに、そんなことは忘れられたかのように何事もなく死者の国の面々は全員生者の国に繰り出すのである。

そのどんちゃん騒ぎの混乱の中で、一種「黄泉がえり」を思わせる死者と生者の交わりがあるわけだが、前半でブライドがヴィクターの愛犬だったスクラップスを連れてくることで、どうやらこの死者の国は地上の村の死者に限定されるものであることが仄めかされている。

そして最後のサプライズとして、自身の直接の殺害者が罰され、ヴィクターの愛によって妄執から解放されたブライドは、ヴィクター・ヴィクトリアの見守る中、無数の蝶に身を変じて「成仏」してしまうのである。

してみると、死者の国とはキリスト教圏でいうところの煉獄のような存在なのか。そのような見方も可能だろうが、死者が神父を押し退けてズカズカと教会に入り込み死者と生者の結婚式に列席する不真面目さ、そして妄執から解脱した死者が蝶の姿に変わり、月を目指して上昇するという異教的なイメージから、キリスト教的な世界観を感得することは難しい。

何より、この流れにおいて妄執から解放されたブライドが「成仏」するということは、死者の国の住人は何らかの妄執を抱えた亡者であるということになる。この作品の世界においては、死者は死者の世界に安住することなく解脱して「成仏」することが本来であるということになってしまう。

そこでこの作品の根本的なイメージである「生者の国よりカラフルで活気に溢れる自由気儘な死者の国」というイメージが崩れてしまう。ブライドが内面に苦悩を抱えていたように、陽気な死者たちもまた何らかの妄執に囚われる者たちなのか。そう思うと、何となく裏切られたような白けた余韻が残る。

以上を纏めるなら、表立って演じられるメロドラマ部分はよく出来ているが、肝心の世界観の部分で練り込みが足りない、恣意的なご都合主義が目立つ脚本ということになるだろう。具体的に説明せずとも、一貫して整合する論理に貫かれていたなら、劇場で一回観るだけでは不親切な表現でも、DVDを買って二回、三回と観るうちに諒解可能な世界観になったはずなのである。

パペットのフェティッシュな魅力を前面に打ち出したこの種の作品の場合、そのような行き方もあったはずなのである。それがつくづく惜しまれる部分である。この部分の練り込みが足りないために、観れば観るほど世界観の矛盾が気になってしまうのだ。

また、メロドラマ部分についても、たとえば表題の「コープス・ブライド」という概念をよく考えてみる必要があっただろう。要するにコープス・ブライドというのは「花嫁衣装を着た死体」という「キャラクター」なのである。その意味では「豆腐小僧」とか「ろくろ首」と同種の存在なのである。キャラクターとしての妖怪については、京極妖怪観の集大成である「豆腐小僧道中双六」を読んでいただくとして、コープス・ブライドはキャラクターとしての意匠が前面に出る抽象的な存在なのである。

そのキャラクターの元々の個人としての来歴を掘り下げるならエミリー某という人間としての素性があって、というのがコープス・ブライドという存在の階層である。だが、現状の映画では、ブライド=エミリーという等号が屹立している。実際にエミリーを殺した伯爵が出てきて、現在進行形のヴィクトリアに対する伯爵の悪行がエミリーという個人の因縁話の直接的な連続上に位置してしまう。

だが、「コープス・ブライドというキャラクター」として考えるなら、それは旧い伝説中の人物だったほうがよかったのではないか。実際に彼女を殺した色悪はとうにこの世を去っていて、殺害者当人に対する復讐では最早ブライドの解脱はかなわない、という位相のズレがあってこそ、「コープス・ブライドというキャラクター」の哀しみが普遍的なものになるのではなかったか。

ヴィクトリアに結婚を迫る伯爵は、エミリーを殺した色悪と「同種の」人間でさえあればよかったのであって、当人であるというのは興ざめなのではないか。最早直接にはかなわぬ個人的な復讐と憎しみを昇華し、自身の境涯とヴィクトリアのそれを重ね合わせ利他的な善の行いとして為すことでエミリーという個人の解脱が得られるという展開であったなら、このような煮え切らなさは感じなかっただろう。

そういう意味では、独創的なストップモーションアニメとしてのフェティッシュな魅力は具えているが、純粋に物語として視るならば、かなり練り込みの甘さが目立つ惜しい作品であると思う。

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