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2006年3月24日 (金曜日)

スマスマの一コーナー終了に寄せて

何とか最後まで二〇パーを割らずに終えて、辛くも「香取慎吾にハズレなしの神話」を視聴率面では実証したかたちになったが、正直、何がウケたのかさっぱり わからない。一生懸命考えてもまったくわからない。そもそも周囲にこの番組を愉しみに観ていた者など一人もいないし、この番組を褒めている生の声など聞い たことがない。

すでにこの番組に西遊記というモチーフ本来のおもしろさを求めてはいけないことは、世に謂う大鬧天宮(斉天大聖大いに天宮を鬧す)のくだりがいっさいなかったり、最終回で三蔵が三弟子を呼ぶ際の肩書が道教世界の天宮を前提にした役職で明らかにドラマのローカル設定と矛盾していたり、七二般の地さつの変化術を一度も使わなかったり、一万三千五百斤もの如意金箍棒を悟空以外が簡単に持てたり、至るところに「ユウジ、原作知らないな」と思わせるヌルさが溢れていることからもわかる。

じっさい、脚本の坂元裕二がちゃんと原作を精読したかどうかというのは、かなり微妙だと思う。元々坂元裕二脚本のドラマに感銘を受けたことなど今まで一度たりともないわけだが、今回のはさすがにちょっとひどすぎないか。CX上層部が関与するコンセプト自体に問題があったのだと思うが、脚本として実体化されたドラマの文芸的側面はさらにひどい。

まず大前提として、これが岩波版や平凡社版の中国古典小説である「西遊記」に忠実なドラマでないことは仕方がない。あの大長編を連続一〇話内外のドラマにまとめることなど不可能であって、日テレ制作の一九七八年版も二六話というヴォリュームがあったからこそ、それなりの体裁を保てたのである。そもそも「月九で西遊記」という一報を耳にしたとき、どのようなアレンジを施して月九にアダプトするのかという部分に最も興味を覚えたくらいなのだから、原典そのままでないのはそれほど問題ではない。

だが、蓋を開けてみて呆れたのは、その肝心のアダプトの仕方の志の低さである。

これがたとえばドラゴンボールやスタージンガー、最遊記や悟空道のようなアダプテーションであったなら、それはそれとして認めざるを得ないだろう。一六世紀に成立した古典小説をモチーフにしてそれにどのようなオリジナリティを加えようが、それは健全な現代の作家性というものである。外国の大切な文学ソースである以上、一応の倫理としては原典に対する敬意の有無が問題にはなるだろうが、それだって受け手がどう感じるか、借用された原作の地元国民がどう思うかという印象論の問題でしかない。

だが、この番組の問題点はそこにはない。そもそもこの番組では、一般に呉承恩作とされる(異説あり)中国四大奇書の「西遊記」を原作に謳ってはいないのである。嘘だと思うならEDのクレジットをチェックしてみればいいが、どこにも原作のクレジットはないのである。要するに大多数の人間が漠然と「西遊記」と感じているイメージを元にしてはいるが、ハナから原典に当たるつもりなどはないのである。

だとすれば、むしろ原典からの離れ具合、付加されたオリジナリティのほうが関心の対象となるのだが、結論からいってこの番組に語るべき意味のあるオリジナリティなどはない。原作がクレジットされていないのは、単に版権者を明示する必要がない古典原作だからという慣習上の理由にすぎないだろう。

オリジナルキャラである凛凛は手塚アニメ「悟空の大冒険」の竜子のキャラを安易に拝借したものだし、大枠の設定は紛れもなく原典の西遊記そのものであって、この番組が原典の西遊記の物語に新たに附け加えた要素は何一つない。

それより何より問題なのは、この番組のイメージの源泉が、直截原典にはないどころか一般的に共有されている西遊記イメージでもなく、西遊記モチーフのアニメや劇画などの二次的なソースですらない、日テレの一九七八年版のうろ覚えの記憶だということである。要するにこの番組は、つくり手がむかし観ていた日テレ版を何となく雑にCX風にナニしただけの代物なのだ。

この志の低さはいただけない。

本来、実写ドラマで西遊記をやるという場合、かなり気合いを入れてかからねばお話にならないはずである。志怪小説の極北である西遊記を実写で演ずるのであるから、特撮も時代の最先端の技術をふんだんに用いる必要がある。唐代の中国をリアルに感じさせるためには豪華なセットや衣裳、ロケーション撮影も不可欠だ。じっさい、日テレ版西遊記は今の目で視ると特撮がチャチかったりロケが富士山麓やお茶の水の湯島聖堂に限られたり、かなりしょっぱい部分もあるが、あの時代なりの意欲作だったのである。

一九七八年の堺版は開局二五周年記念作品の気概が横溢した意欲作だし、一九九三年版の本木版だって最先端の特撮と海外ロケで堺版を豪華にリニューアルした開局四〇周年記念のスペシャルドラマである……まあ、翌年放映した新・西遊記については、あえてコメントを差し控えちゃうけど(笑)、それだって自局の資産である西遊記をどのようにアレンジしようが、それは日テレの自由だしな。

今回のCX版のセコいところは、それなりのバジェットを投じているとはいえ、他局である日テレが進取の精神で切り拓いた局のコンテンツ資産とも謂うべき題材の成果だけを安易に頂戴する泥棒精神にある。最終回で臆面もなく「初代」孫悟空役者の堺正章を登場させる図々しさには、心から底から呆れた。これが日テレのリメイク作品ならともかく、他局のCXが堺正章を初代と奉るのは、日テレ版の方法論を安易にパクったことを自ら認めるようなものではないか。

無論、日本で一番有名な孫悟空役者に対するリスペクトそれ自体がいけないというわけではないし、新春かくし芸大会などを通じた堺個人との附き合いもあったのだろうが、他局のCXが西遊記を一から始める以上、堺悟空の知名度にはあえて一顧だに与えないくらいの気概があって然るべきではなかったか。

日テレがあのようなアプローチをしたのならウチはこうだ、未だ一般的には堺悟空のイメージが強いのなら、ウチでは香取悟空が初代だということを見せ附けてやる、CXの西遊記をオリジナルとして世に知らしめてみせる、というような意地も気概も感じられない、さもしい企画意図が剰りにも突出している。

冒頭から再三「原作に準拠していない」ということを繰り返しているが、エピソードづくりのノウハウが、完全に日テレ版の記憶に基づく手癖でできているのである。言ってみれば、取材も勉強もしないアマチュア作家の西遊記風中華ファンタジーを見せられているような不快感を感じるのである。

日テレ版と一口に謂っても、堺版だけでも比較的原典に忠実な第一シーズンとオリジナルエピソードで間を繋いだだけの第二シーズンでは大分肌合いが違うし、本木版のテイストはかなり切り口を変えているのだが、この辺を深く研究した節すらもなく、何となく曖昧な「日テレの西遊記」という括りに追随しているようにしか見えない。

話数に余裕があった堺版はしっかり大鬧天宮を描いているので斉天大聖だの天蓬元帥だのと名乗っても違和感はないのだが、本木版はスペシャルドラマとはいえたった三時間の尺でしかないので、道教的なバックグラウンドを棄て三弟子の設定も人間が妖怪化したものという、全体的にはなんちゃって中華ファンタジーとせざるを得なかった。

CX版は、この辺の振れ幅をしっかり考証せずに曖昧なイメージで「日テレ版ってたしかこうだったよな」的な曖昧なアプローチで、原典ではなく日テレ版を大まかな典拠としてなぞるといういい加減な方法論でつくられているように見える。全体的に「ああそういえば日テレの西遊記にこんな話があったねぇ」というような曖昧な約束事をふまえてエピソードをつくっている、この辺がどうにも安い。言ってみれば、元ネタも識らずにエヴァのサブタイから安直にタイトルをパクった某ヒット小説くらい安い。きちんとした文芸人のやり方ではない。

日テレ版のほうは、原典からエピソードを拾って当時の感覚なりの現代化を施した結果として日テレ版独自の下世話な手癖が成立しているのである。それなのにCX版のほうは、原典からエピソードを拾った形跡もなければ、日テレ版のエピソード構築法を徹底的に研究して独自のアレンジを加えたわけでもない。うろ覚えで手癖を偸んだらこうなるだろうという至極不潔な距離感で日テレの方法論をいただいているのである。大雷音寺の解釈が違うとか、そんなものはオリジナリティではない、単に書き手が違うから言いたいことも違ったというだけのことにすぎない。

その結果として、日テレ版の「いいとこどり」になっていればそれなりに見られるものになったと思うのだが、実際には面倒なプロセスを悉く避けたため日テレ版からの引き算にしかなっていない辺りが全然ダメだ。

たとえば三蔵が徒歩であったのは、最終回の「自分の脚で云々」の講釈は建前で、毎週馬を交えた撮影をこなせるほどスケジュールが管理できない、深津絵里が馬に乗れないもしくは落馬の危険をクリアできないといった理由だろうし、せっかくJAEの喜多川務をアクション監督に据えても、肝心の主演の香取に擬闘を附ける時間がないというのがアクション不振の原因だろう。

最終回に出演した堺正章が香取慎吾から如意金箍棒を奪い取り得意の棒術を華麗に披露する一くさりは、堺版のアクションに香取版が屈服した象徴のような迷場面で、よくもまあこれをOAしたものである。堺の生得の器用さもあるだろうが、棒術アクションの修練に費やした絶対的な時間が違う。いくら勘の良い香取が他の仕事の合間に懸命に練習したとしても、一年みっちり本格的な殺陣をやった堺にかなうわけがない。いっそ、こんな条件で比べられる香取が気の毒になるくらいである。

また、一〇話前後という中途半端な話数のため大鬧天宮を省かざるを得ず、そのために沙悟浄が混世魔王の手下だったとか猪八戒が猪から一匹だけ生まれた豚だとか、世界観を矮小化する本木版的な方法論をとらざるを得なかった。

さらに、悟空が原典とも日テレ版とも違って三番弟子とされているのは、悟空を一番弟子にした場合、その後に猪八戒と沙悟浄の弟子入りも描かざるを得ないが、すでにその二人が弟子入りしていれば主役の悟空の入門を描くだけで済むという尺の都合だろう。悟空のほうが格下の弟子だという設定はその後まったく活かされていない。

だいたい、日テレ版で三蔵法師を女優が演じたのは一種の癖玉であって、原作どおりの設定だとレギュラーが男「だけ」になってむさ苦しいというのと、慕われ護られる立場の存在が野郎だとホモ臭いから、いっそお姫様にしちまえという計算あってのことだろうが、それはそもそも原典の設定要素を妄りに変えないという大前提ゆえの苦肉の策である。

だがCX版のほうは、わざわざ凛凛というオリジナルキャラを持ってくることで女不足はクリアできているのに、そのうえさらに三蔵法師を当たり前のように女優に演じさせるのは、日テレ版を「原典」と仰ぐ卑屈な姿勢の顕れ以外の何ものでもないだろう。

日テレ版における堺悟空の夏目三蔵に対する想いにエロティックなニュアンスが混じるのは、伝統的に女っ気のない日テレ版においては一種倒錯的な隠し味になっていたが、いくらでも原典を逸脱し得る枠組みのCX版でもそれを無反省に踏襲した結果、本来なら「なまか(笑)」としてのサッパリした友情の線をねらうべきところに妙な濁りが生じて、凛凛との淡い関係と対比ができていない。しかも劇中でハッキリと三蔵法師を男性と言い切っていないので、てっきりオレは「CXの三蔵はホントに女なのか」と早合点したくらいである(笑)。

どうせなら、沙悟浄なり猪八戒なりを女にして、正面切って悟空を凛凛と取り合わせたほうがまだしも月九らしくてマシだった(笑)。登場人物全員美少女という西遊記劇画もあるくらいなのだから、これほど原典を蔑ろにするドラマで、原典準拠から始まった日テレ版の伝統を踏まえる必要など毫もなかったのである。

さらに、この手の活劇で最もやってはいけないのは身の丈に合わない説教で〆ることだが、悟空自体の凄みやキャラクターの強さ、本質的に大切なことをわかっている頼れる奴というキャラクターをちゃんと描けていないのに、最初の最初から暴れん坊将軍張りに敵地に乗り込んで物凄く雄弁に長々と説教させるというフォーマットが、ドラマの話法としてダメダメである。

しかも、最前陳べたようにアクションがまったくダメなうえに、悟空が弱すぎて威勢良く切った啖呵のケツを持てていない。かといって、弱い悟空がガッツと根性で敵を圧倒するという描写でもない、まるっきりコントの呼吸のコミカルな殺陣になってしまっている。

力み返った香取慎吾の生汗やモニター越しにもアリアリとわかる紅潮した顔しか記憶に残らず、これをテレビで流していいのかという感しか覚えない。月九ならではのアレンジというのがこの口先ばかりの説教だというのなら、初めからつくる必要などない。男ならペラペラとよく回る舌先三寸じゃなくて、拳で真実を語れ

剰え、本木版からでも一〇年経っているのに、まったく特撮が進歩していない。むしろなるべく特撮を使わなくて済むような消極的な設定で済ませている。先に触れた変化術の設定無視もそうだし、悟空のトレードマークともいえるきん(角+力)斗雲も看板に偽りありの羽根型サーフボードという手抜きぶり。最終話近くなってようやく大がかりなCGが出て来たと思ったら、番組のデザインラインとはまったく違うどこかで見たような絵面のモンスターの大群であった(笑)。

アップルのサイトでこの辺の事情の一半が語られているが、要は素材撮影から放映までのスケジュールがタイトでCG合成の時間がとれない、結果的にCG頼りのビジュアルインパクトは最小限になったということらしいのだが、低予算かつ短納期であれだけのものを見せられる東映特撮を見慣れていると、ノウハウや経験の積み重ねがないという事情はあるにしても、俄には信じられない話である。

つまるところ、せっかく日テレ以外の局で一から西遊記を始めるというのに、コンセプトワークがまったくなっていない。月九で香取主演で無理を押して西遊記をでっち上げるための現実的都合以外にオリジナル要素がまったくない。CXの看板ドラマ枠という矜恃すらもない。三冠を争うライバル局の日テレと正面から競う気概もない。CXがドラマ制作力に欠けていた月曜ドラマランドの時代に逆戻りした観すらある。

一言でいえば、CXの恥さらしだ。元々ドラマ枠の弱かったCXがトレンディドラマや世にも奇妙系の成功で獲得したCXならではのドラマの話法や積み重ねた歴史に泥を塗る行為だ。天下の月九でこれをやるのか、大多班。

月九を育てた大多亮が後ろに控えていながら、スタッフ全体ユルユルのこの体たらくはどうだろう。出演を引き受けしょっぱいメイクと衣装で長時間拘束された俳優たちが気の毒にすら感じられる。CXドラマ史全体でいえば、リアルタイムの社会問題を被害者の苦痛はどこ吹く風でノホホンと扱った「ウソコイ」、在日問題を韓流ノリの口実として扱った「東京湾景」に次ぐ「なかったことにしてください」ドラマだと思う。

例えとしては現実的ではないかもしれないが、主演俳優を香取より一段落としても身体能力が高く多少の怪我ならノープロブレムの海筋肉王系にして、アクションの尺を長くとるとか、撮影を若干前倒しにして白組辺りのバリバリのVFXで変幻自在なビジュアルインパクトをねらうとか、あるいは局内部でも賛否が分かれるような無理矢理な設定改変でまさに「西遊記で月九」をそのままにキャッチーなテイストをねらうとか、何か一つでも飛び抜けた要素があれば、それが日テレ版の安易なエピゴーネンであろうとも何某かの存在意義はあったかもしれない。

たとえCXのスタッフがどれほど意気込んでも、ある意味、三度もドラマ化実績のある日テレ版の影響から逃れることなどできないのである。結果的に影響は免れないとしても、無批判かつ無神経に既存パターンをいただくのと、意欲的なチャレンジをして結果として及ばないのとではまったく見え方が違う。「ここならウチは日テレに勝てる」という意欲がまるで見られないのである。

月九名物の豪華なキャスティングという意味でも、毎回のゲスト出演者も「豪華」の意味をはき違えたような人選だし、どうも「仇役」という扱いなのか「ゲスト」という扱いなのかが揺らいだ形跡がある。そもそも、よく考えてみればレギュラー陣の顔ぶれすらも日テレのドラマでいくらでも見られるレベルの人々である。

いったいCXは「月九で西遊記」という一見チャレンジングな企画で何をやりたかったのか。これ自体がダメダメでも、月九という硬直した枠にオサレな現代劇以外の弾けたコスチュームプレイのラインを確保したというのなら評価できるのだが、比較的地味な華流古装片ブーム(ブームなんてあったのかよ)に安易に乗っかっただけだとしたら、逆にこの種のラインの芽を潰すことにならないか。

華流古装片がアタマの片隅にでもあったのだとしたら、まだしもチャン・イーモウだのアン・リー辺りのモダン古装片の丸パクドラマであったほうが見られただろうし、日本で今さら西遊記をつくる意味もある。ある意味、そのほうが日テレ版の方法論をパクるよりも一種意欲的ですらあるだろう。

おそろしいことに、この番組は堂々と中華圏で同時放映されていたそうなのだが、ある意味、韓国を抱き込んでつくった豪快なパクリドラマをネタ元の地元国に売り込もうとした某局の周年記念ドラマと同じくらいチャレンジングな振る舞いである。そんなとこだけチャレンジしてどうするんだと他人事ながら心配になる。

幸いにして中華圏でも「ドラゴンボールは我が国の誇る文化資産」と言い切るお国柄のせいか、日本が西遊記を制作することに対しては寛容な受け取り方をしているらしい。一歩間違うと国辱物だが、中華圏ではどこの国でつくられても西遊記である限り自国の文化資産ということになるので、この辺が問題になることはないようだ(笑)。

つまりだな。CX版西遊記は、自局のドラマの水準を大多亮以前の月曜ドラマランド時代のレベルまで逆行させただけではなく、文化全体の時代性を日本が中国の文化的属国であった平安期頃まで逆行させたということなのだな。

どっとはらい。

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