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2006年3月15日 (水曜日)

轟々戦隊ボウケンジャー Task.4

新戦隊もスタートからほぼ一カ月を経過したので、この辺りで一度ざっくりと概観してみたいと思う。まあ、そろそろトクサツの話もしないと、ブログの性格的に何だかまとまりにも欠けるしな(笑)。

前回触れた「味方側のミスが敵を覚醒させる」という点については、ネガティブシンジケートにおけるゴードム文明のウェイトが相対的に低いので、「戦いの総体の中の一つの失態」「まあこんなコトも一度くらいはあるわね」的な辺りに落ち着いたといえるだろう。この辺については、第一話時点で判断するのは早計だったということだな。

メインキャラクター五人については、さくら姉さんエピまで出揃う次週まで待ったほうがよかったのかもしれないが、次回予告を視る限り過去話というわけでもなさそうなので、とりあえず時期的にキリのいいところで一度括っておこう。

結論から先にいえば、どうもここまでの四人の描き方についてはかなり不安を覚えたというのが正直なところである。

ブラック伊能真墨については「認めねーぜ」キャラとしてTask.1でフィーチャーされたものの、ブラックをダシにして3+2というチーム内の色分けを描くのが狙いだったわけだから、あれが本格的な紹介エピソードかというと若干微妙ではある。これ以上の過去話がないとすれば、ある意味伊能はチーム内で最もナイーブな若いキャラクターということになるが、そういう位置附けでいいのかどうか、今のところ判断が附かない。

立ち位置的には彼が対抗心を燃やすリーダー明石というよりも、Task.3で仄めかされたブルー最上蒼太の若き日の姿とオーバーラップするところがある。トレジャーハンター一般が辿る若さの倨傲といってしまえばそれまでだが、おそらく憧れと裏腹の対抗心を抱く対象である明石ではなく、互いに関心を持っていない最上とのイメージ上の繋がりが強いというのは、ちょっと平仄が合わない感じではある。

Task.3における最上の懺悔を前提にすれば、伊能もまた「まだ間に合う」位置にある者の一人と位置附けられてしまうわけだが、トレジャーハンターとしておもしろおかしく暮らしたいというTask.1における伊能の姿勢は、かつて国際エージェントとして束の間のスリルに酔いしれた最上の心性と似通っている。二人に共通するのは、自身の行為の結果に対する想像力の欠如であり、自己中心的視点に基づく享楽的姿勢である。

この意味で、Task.3の山谷は伊能であってもよかった———というか、チーム内の熱い対立図式というものを狙うなら、このような過去を持つ最上が諫めるべきは、むしろ、自身の過ちを想起させる伊能であったほうがドラマチックだっただろうし、一種父権的な存在として明石を見詰める伊能をさらに最上が見守るという視線の構造があったならイメージ上の繋がりのよじれも物語に深みを与えたと思うのだが、Task.2以降の伊能は単なる「愛すべきツッパリ兄ちゃん」という域を出ていないし、最上が伊能を取り立てて意識しているふうにも見えない。

また、当初トリックスターと目された伊能は、Task.1で自身の前に越えるべき壁として立ちはだかった明石に対する対抗心ですっかり真人間になってしまったという印象で、これまで目立った失敗もしていない。

Task.1時点の印象でいうなら、伊能のようなとんがった姿勢の人物のスタンドプレーで生じる軋轢を梃子にしてチーム内の人間模様が描かれるような図式を想像したのだが、ここまでの四話を視る限りでは、お行儀良く一人ずつ人物紹介しています、伊能の順番はもう終わりました、という以上の作劇ではない。

さらにいえば、その最上の懺悔に接したときにはかなり引いたというのが正直なところで、「企業が崩壊」「国家が消滅」って何だよ(笑)。それも、已むに已まれず使命感から行った行為の誤りを悟ったというのならともかく、スリルに酔いしれて自身の行為の結果を顧みなかったというのは、まあ普通の意味ではたしかに「間に合わない」。

そこをボカして言っていたなら、ギリギリ戦隊のリアリティなら「まあ、あんまり深く考えるな、戦隊なんだから」で済んだといえなくもないのだが、「企業を崩壊させ国家すら消滅させ多くの人を悲しませた」というリアリティのセリフで語られてしまうと、それはつまり、多大な人命の損失に直接の責任を負っているということになる。

これはちょっとシャレにならない。その種の悲劇は、現在地球上で起こっている事件の中でも最高位の残酷な現実だからである。そのリアリティのセリフが想起させるのは、たとえばAKアサルトライフルを構えた少年の姿であったり、たとえば地雷で脚を喪った幼子の姿であったり、たとえば突如爆炎に包まれる繁華な駅舎の映像であったり、たとえば蝋細工のように燃え尽きて大量の血と肉を覆い隠した巨大なビルの崩壊だったりするのである。

子どもたちは、こんなひどいことをするのは、いったいどんな悪い人たちなのだろうと考える。そのような子どもたちに向かって、そんなひどいことをするのは、結果に対する想像力が欠如したおもしろ半分の人たちなのだ、君たちはそんな人間になってはいけないよ、と語ることにも意味はあるだろう。自分たちが楽しむことで苦しむ者がいることを、意図的に考えないようにしている人たちがいるからこういうことが起こるのだということも、世界の真実の一つではある。

だが、子どもたちのヒーローがそんな人間の一人だというのはどうなのか。それがいけないというわけではない。ただ、それはとてもデリケートな扱いを要する事柄なのだがそれを理解していながらあえてそうしたのか、その辺が今ひとつ信用できない。過去の過ちに疵附いたトラウマを抱える人物像としての重みを出すためだけに採用された設定なら、娯楽物語それ自体が抱える倫理の呪縛を識らない愚かな思い附きだろう。

最上の苦悩という個人視点の設定の背後に、数万人の人命がかかった他者の苦悩があり、それが否応ないリアリティで受け手に迫ってくるという認識が語り手側にないのなら、語り手自身の認識の在り方が自己中心的で想像力に欠けている。それは「ただのお話」として軽々に扱ってはならない、非常にアクチュアルな要素なのである。

このような設定を持つ人物の扱い如何によっては、ヒーロー物語としては不潔なものにならざるを得ない。ダーティーな過去を持つ人物によって演じられる物語だからというわけではない。ダーティーな過去を扱う基本的な世界認識に清潔さがないからである。

スーパー戦隊という大枠の物語構造のリアリティ、それが具える倫理観でいえば、このような血塗られた過去は当人の死を持ってしか精算されないのであるが、一方で過去の清算としてのヒーローの死を許容しない狭量さもこのリアリティには付随する。典型的なダブルバインドである。

最上蒼太はタイムファイヤー滝沢直人ではないのである。ヒーローチーム内の出来る大人としての優男キャラなのである。これを殺すためには、シリーズ全体を通じた周到な描写上の仕掛けが必要なのである。たった一言の懺悔話を伏線にして終盤で最上を殺すなら、それは唐突の謗りを免れないだろう。それとも、そのような全体設計に基づいて今後とも陰に日向に最上を翳りある死の宿命を抱えた人物として描き通す計画でもあるというのか。それはちょっと真に受けられない。

そういう意味では、最上蒼太の今後の扱いには大変興味がある。少なく見積もって数万人単位の人命に責任を持つ「間に合わなかった」人間としての悔恨が今現在の彼の人物像にどのように活きているのか、そのような過去を前提に生きる彼の今は常にそのような基準で視られるのであり、これがリアルタイムの人物造形に対して釣り合う過去設定なのかどうかは甚だ疑問である。

これまでの描写を視る限りは、最上蒼太が許されざる者としての絶望と悔恨から再生を目指す物語が始まる兆しなどはいっさいない。「軽そうに見えて、実は苦労してるんだねぇ」レベルの修飾要素として認識されているのなら、オレはそんなことを考えた人間を軽蔑する。ただし、この時点でそれを判断するのはもちろん早計だろうから、楽しみに見守らせていただくこととはするがな(笑)。

後先にはなるが、Task.2で語られたイエロー間宮菜月の過去なき過去というのも、少し先行きが不安ではある。経験則でいうなら、欠落した記憶というのは想起されることでさらなる欠落を呼ぶための仕掛けである。喪われた記憶を巡るドラマというのは、十中八九まで「想い出さなければよかった」という悔恨に決着するのだ。

なぜなら、物語登場時点で記憶を喪っている人物は、記憶を喪う前の当人とはまったく別人であるからで、オレたち視聴者にとって基準となるのは、記憶を喪ったあとの人物のほうであるからだ。だとすれば、「想い出された記憶」というのはオレたちが識っている既知の人物に対して、未知の人物が無理矢理関係を迫ってくる事態である。

たとえば映画「トータルリコール」の結末で明かされた主人公の真の姿は、ニセの記憶を植え附けられたあとに獲得された人格にとっては醜悪な敵でしかなかった。それゆえ作品内の現在における人格が、あたかもそれがまったくの他者であるかのように過去の人格を敵として相手取る戦いを演じるという、奇妙な結末を迎えるのである。

畢竟するところ、物語において記憶を喪った人間というのは、たった今新しく生まれた人物なのである。新しく生き直された人生において、過去など実感を伴わない因果が関係を迫ってくる不当な呪いでしかない。

つまり、間宮菜月は今現在の自身の拠り所となる過去の記憶、全き連続性を伴う自分史をなくしているばかりではなく、記憶の想起に伴って自身の過去の因果と向き合わねばならない宿命を原理的に抱えている。またしてもここで、現在の欠落と過去の因果というネガティブなテーマが立ち上がってくるのである。

さらにTask.4で描かれた明石の過去もまた、普通一般のリアリティでいえば取り返しの附かない痍である。かつて仲間を助けられなかった過去の辛さを、今現在の仲間を救うことで克服するという筋道は、少なくともオレの感覚ではリアリティを持たない。

作中で描かれたような状況で親しい者を喪った場合、その痍を癒すためのセオリーなどは存在しない。「救えなかった」という結果を前提にするなら、「救えたはず」の筋道はいくらでも思い附くからである。何とかの後知恵というとおり、後から考えればいくらでもやりようはあるのである。何らかのミスによって取り返しの附かない結果が招来された場合、「ああすればよかった」「こうすればよかった」という悔恨から知的な操作で脱却することは不可能である。

あらゆる側面から検討して自身に疚しいところなし、以上、この件はオシマイ、という結論には絶対にならないのである。知恵と想像力を持つ人間なら、当人視点における過去の悲劇とは、畢竟するところ自身が為すべきことを十全に為さなかったという悔恨に決着するのだ。人間とは困難に直面した際に「何かができるはずだ」と考える生き物である。だからこそ、過去の悲劇を想起する際にも、「何かができたはずだ」と思い悩む生き物なのである。

普通一般のミスなら、後知恵で「ああすればよかった」「こうすればよかった」と煩悶したとしても、「この次に挽回すればいい」。だが、掛け替えのない何ものかの損失が前提となる場合、「この次」など存在しないのである。残るのは、「救えたはずなのに救えなかった」という残酷な事実だけである。この辺の機微については、以前セラムンのAct.16のレビューで詳しく論じていることではあるが、人がある行為を振り返る際に最も力を持つのは結果としての事実である。残酷な事実を基点に内省が持たれる以上、人の悔恨を原理的に救済するセオリーなどはないのである。

このような悔恨から脱却するには、悔やむだけ悔やんだ挙げ句、理も非もなく己の心にケジメを附けるしかない。人はそのようにしないと生きていけないから何の根拠もなくそうするのであって、原理的に克服可能だからではないのだ。苦しむことも、苦しむ時間も、要領良くショートカットするわけにはいかないのである。いくら苦しんでも十分ではない苦しみに対して、苦しむだけ苦しんだ挙げ句、ある日あるとき無根拠に豁然とケジメを附けるのである。

だが、Task.4の作劇はまさしく「この次挽回すればいい」という見え方になっている。たしかに、過去の仲間と今の仲間が明石の中で等価だというのはその通りだが、「だから」明石にとって今の仲間を救うことが「この次の挽回」になるというのは筋が違うと思う。明石の苦悩を救済し得る「挽回」とは、過去に喪った仲間たち「その人」を救うことでしか成立しないが、そんなのは時間を操る魔法でもない限り実現不能である。

今現在の仲間を救い得たということが、救い得なかった過去の克服に力を持つというのなら、明石という人間は冷酷なまでに単純な人間である。シチュエーションが相同であること、仲間として等価であること、これは過去の状況「そのもの」ではないのだし、今の仲間は過去の仲間と「同じ人」では決してない。相同であること、等価であることと代替可能であることは自ずから別なのであり、それに気附かない人間は愚かで単純だとしか言い様がない。

そのような意味において、オレ個人の現時点での「脳内補完」として、「今現在の仲間を救い得たことによる救済」というドラマは存在しないことにした(笑)。

明石はこの後も過去の悪夢に魘され続けるのだろうし、今回のドラマはその悔恨の克服に決定的な役割を果たしたわけではない。「少なくとも」今の仲間は救い得た、同じような状況に接して「今回は」悔恨を覚えずに済んだというささやかな満足により、明石の現在は少しだけ優しいものになった、その辺りに留めておくのが精神衛生によさそうである。

さらに気の利いた「脳内補完」を試みるなら、今回のストーリーの芯になっている相互信頼というテーマを拠り所にするのはどうだろう。今回のストーリーの落としどころが明石と他の隊員の相互信頼となっているのは、過去の悲劇に「約束」という要素が付随しているためではないか、明石の悔恨の核にあるのは「必ず助けに戻る」という約束を守れなかったことではないか、このように解釈することも可能である。

残された二人の信頼に応えることができなかった。死んでいった仲間たちは約束を果たせなかった自分を恨んでいたのではないか。このような想いが明石の苦悩の核になっているのだとすれば、今の仲間たちが明石を信頼して氷河の底で待っていたこと、それに応えるかたちで明石が仲間たちを信頼するに至ったこと、これらのストーリーに一応の辻褄は合う。

もちろん、オレは本気でそんなことを言っているわけではない(笑)。明石の苦悩が死んでいった仲間たちの想いにあるとすれば、それは大分安っぽい話になる。このような状況において、一人生き残った者の悔恨が約束の履行や仲間との信頼に関するものであるというのは、明らかに平仄が合わない。死んでいった者たちの気持ちがどうあれ、自分一人が生き残り大切な仲間を死なせたという事実に変わりはないからである。

ハッキリいえば、今回のエピソードは落としどころがよじれているのである。

明石の心情を意図的に浅く描いて、「あいつらはオレを恨んでいたに違いない」とでも言わせればそれなりに辻褄は合っただろうが、そこまで無理をして「てにをは」の違う筋道を強引に結び附けるのは為にする作劇でしかない。

表面上こぎれいにまとまっているようには見えるが、すでに今回のエピソードは不釣り合いに重い過去設定が、戦隊のリアリティでは回収できない可能性を匂わせている。

全体的にいうなら、主要メンバーそれぞれに近年の戦隊に似つかわしくない重い過去を背負わせ、人物像の重みを出すにはそれなりの計算とフォロー、シリーズの全体設計というものが必要とされるのであるが、そのような認識がつくり手の側にあるのか、責任をとってくれるのか、個人的な感触としては甚だ不安に思っている。

重みのある人間ドラマというのは、ただ単に重い要素で修飾すれば成立するというものではない。重い要素を安直に扱うことで、かえって軽いドラマよりも軽佻な印象に繋がるものである。まだまだ始まったばかりのこの番組が、そのような愚かな道を辿らないことを切に願うものである。

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