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2006年4月11日 (火曜日)

仮面ライダーカブト 11

井上はともかく、どうしちゃったんだ、田崎。

そんなにガメラの現場がイヤだったのかよ、田崎。

こんなのボクのカブトじゃないやい。

まあ、ベタではあるが初見の感想はマジでそんな感じで、これまでのカブトを肯定的に観ていた視聴者の反応もおおむねそんなものだったろう。オレが謎の組織 に薬品を嗅がされて昏倒していた間に、いつの間にかカブトは29話まで消化していて、識らない間にプロデューサーでも更迭されていたのかとすら思ったのだ が、まあそんなことが二年も続けて起こるはずがない。

それに、初見のショックから立ち直って冷静に再見してみると、これはこれで何の問題もないような気がしてきた。まあ、好きか嫌いかでいえば嫌いだが、この タイミングでこのようなエピソードが登場した意味を考えると、平成ライダーという器に対してこれまで考えてきたいろいろなことが思い起こされるのである。

それは、特撮番組一般に対する視聴者のアティテュードの問題にもなるだろうし、特撮番組一般の在り方の問題にもなるだろう。今回はこの辺の問題を少し掘り下げて考えてみたいと思う。

まず、今回の井上脚本エピソードとこれまでの米村脚本エピソードのどこが違うのか、それを脚本面から考えてみよう。端的に言って、書き手の芸風が違う。キャラが違う。当たり前のことだがそれに尽きるだろう。

ネットの反応をざっと視ると、今回登場した風間大介のキャラクターに対して最も拒否反応が強いようだが、このキャラクターに関してはある程度井上敏樹の自由裁量で膨らませた部分が大きいと視るのが妥当だろう。井上の手になればおもしろみが出てくると期待されるようなキャラクターを予め別人が造形しておいて、しかる後に井上を呼んで書かせたと考えるのは本末転倒であって、特撮番組に限らずTVドラマ全般、そういう段取りでつくられるものではない。

当然、三人目のライダー登場編を井上が書くという前提で、主に井上の発意を尊重して造形されたキャラクターと視るべきだろう。これまで白倉と二人三脚で平成ライダーの世界を築き上げてきた井上の登板に当たって、文芸面で井上の自由裁量の部分が薄かったと視るべき理由はまったくない。

風間というキャラクターは、クウガの蝶野、龍騎の北岡と同様、井上敏樹の持ちキャラ的なポジションと視ていいだろうし、そこから予想されるのは風間のキャラ回しを一つの単位とした井上と米村のローテーションだ。その場合、米村と井上の使い分けを作業分担的な側面からのみ考えるのは能のない人材起用である。前回第10話まで米村が書き続けた意図を、単に響鬼で疲弊した井上を一旦ライダーから遠ざけるためだけと考えるのはナイーブだろう。

米村の芸風が、さまざまな設定要素を漏れなく拾い、統一的な世界観や人物観に則って几帳面に作品世界を纏め上げる性格のものであることは、以前触れた通りである。そのゆえに仮面ライダーカブトという作品は、滑り出しにおいて白倉ライダーとしては稀にみるドラマツルギーの整合した作品世界を構築し得た。すなわち、パイロットの書き手として、メインのライターとして、米村には優れた適性があったということだ。

道具立ては白倉・井上ラインそのままなのに、書き手の資質が違うだけでこれほど整合したドラマとして成立し得るというのは、これまで平成ライダーを見守り続けた視聴者にとって新しい体験だったといっていいだろう。

番組初期に提示された所期条件における天道と加賀美の関係性を中心としたドラマは、前回のエピソードをもって一旦完結したと視ていい。天道と加賀美の出逢い、加賀美の抱える過去の清算、天道を目指す加賀美の変身、そして天道との対決を経てライダーの資格を棄てることで、天才と凡人のコンビという所期条件が肯定的に再確認される。

カブト世界のイントロデュースとして、天道と加賀美という対照的な人物同士のコンビを視聴者の前に提示するに際して、ドラマのダイナミズムで掻き回した後に再び登場時のステータスに戻すことによって、完結したドラマとして視聴者に紹介編を開示しているのである。

もちろん、白倉ライダーのシリーズ構成術の常として、「ここまでで一区切り」というようなわかりやすいピリオドが設けられているわけではない。前回ラストでライダーの資格を棄てた加賀美が掴んだと思った天道との友情、それが今回のエピソードでは批判的に継承されており、この二人のドラマがあるプラトーにおいて停止したという印象を払拭してシリーズ全体の流れを止めることはない。

直情径行型の加賀美は天道との友情を卑近な「友だち」という観念で括ることによってその言葉に内在する「狎れ合い」というヌルい要素をも己に許す。それは04話のラストにおいて叫ばれた「おまえを超えてみせる」という緊張感に満ちた関係性からの頽落である。「友だち」になることがそのような自己超克の苛烈さからの解放を意味するのであれば、加賀美のような凡人があえて凡人としての戦いを戦う局面においては堕落でしかないのであり、物語の神である天道はその弛緩せる姿勢を許さない。

ただし、これを天道の視点から視るなら、物語の神としてではなく一人の登場人物としての天道においては、加賀美は妹やひよりと同程度の重要性を持つ人間としての弱みであり、孤高の天才のただ一つの泣き所である。完璧超人天道のウィークポイントとは、まさに04話で自身の口から語った通り、他者に対する愛情なのである。

登場時点では敗北と無縁の無敵の強さを持ったキャラクターとして印象附けられた天道がここ数話のエピソードで喫した敗北は、すべて加賀美に対する優しさが原因である。05、06話においてZECTに囚われたのも、口ではZECTの内情を探るためと称しているが、その実ノコノコその場に来合わせた加賀美に累が及ぶのを避けるためであることは明らかである。

あの場で天道が抵抗すれば、加賀美は天道に附くかZECTに附くかの二者択一を迫られる。剰え、天道の「友だち」であることを隠そうともせず必死で庇う加賀美のこめかみには、目的の為には加賀美の射殺すら厭わない男の手によって非情な銃口が突き附けられている。だから、ZECTに囚われた後の天道の出たとこ勝負な行動はすべて加賀美を庇った結果にすぎない。

また、09話において余裕綽々でいなしていた矢車ザビーに敗れたのも、加賀美の頭上に落下した瓦礫という予期せぬ事情のゆえであり、矢車が天道を打ち負かすことに拘っているのに対して、天道は矢車に勝つことになど何の価値も認めていない。最初から勝負にならない、自分が絶対的に矢車を超越しているという自信の為せる業であるが、それなりの実力を持つザビーに命取りの隙を見せてでも加賀美を救うことを優先している。

そういう意味では、天道がこれと見込んだ他者に対する態度は無条件で優しい。これは04話で加賀美の内面の苦悩に救済の手を差し伸べて以来、一貫した態度である。ある種天道の加賀美に対する言動が厳しいのは、そのような無条件の優しさを悟らせることが加賀美のような単純な人間にとって「甘え」に直結するからであり、一種教育的な態度であると表現することもできるだろう。

加賀美の十八番のセリフである「何でおまえはいつもそうなんだ」に対して勝手に答えを附けるとすれば、「それはおまえが坊やだからさ」ということになるだろう。

じっさい、前回ラストの情感的プラトーを受けて、加賀美は天道をストレートに「友だち」と表現し、友だち「だから」という理由で好意と助力をアテにしている。天道の予測通り、他者の優しさが直截表明されることは、この未熟で率直な男の成長をスポイルしてしまうのである。権力者である父親の愛情や期待の重圧を厭い、何者でもない一介の市井人として成長を始めた青年には、他者の優しさの表明など禁物なのである。

前回ラストを頂点として描かれてきた天道と加賀美の接近の物語は、加賀美が抱き続けてきたライダーへの変身という願望の成就を受けたクライマックスとして、天道にしては最大限のストレートさで加賀美への優しさを露呈するドラマとなった。

だからこそ、出発点におけるような緊張感のある間合いを再び保たねばならない必然が出来するのである。第一クールのラストエピソードでありゲストライターの初登板エピソードでもある今回ローテの二話において、これまで描かれてきたドラマの帰結としてあらためて出発点におけるこの二人の立ち位置が再確認されると表現したのはそのような意味である。

それが天道自身の甘さでもあることは、口では「二人分」と言いながらも三人分用意されたタケノコという道具立てで表現され、さらにそれをわざわざ戻ってきて取り返すという描写で表されている。情感的に加賀美に踏み込みすぎた天道が、そこからわざわざ引き返すという作劇である。

この余分な一本のタケノコが、天道の中で持て余された加賀美に対する気持ちの表現として活かされていて、天道を象徴する東京タワーと加賀美を象徴するタケノコを並べて見せるという絵面のギャグや、一見剣豪物のパロディのような馬鹿馬鹿しいギャグに見えるトンネル内の戦闘における扱いなどにも「食べ物を大切にする主義」という以上の情感表現が意図されている。

何よりそれが他でもない「タケノコ」である意味というのが、表面的な絵面の滑稽さと裏腹に描写として利いている。これは一種、ベタベタなギャグと内面描写を併立させるという井上脚本の芸であり、それをきちんと読み取った田崎演出の芸である。

すでに揺るぎなく天を摩して屹立する首都東京のシンボルとしての東京タワーと、地を這いずりながら懸命に天を目指そうと伸び上がる無名のタケノコの、スケール観を無視した並置は、そのまま天道と加賀美の立ち位置の表現になる。敵との戦闘の最中にも、一本のタケノコを縦横に操って見せる天道の余裕、加賀美に対する父性的な姿勢を井上脚本作品なりのイメージで描いて見せたのがこのシーンである。

そういう意味では、いつもの通り井上敏樹は米村メインの世界観に参入するに当たって最大限の仁義は通している。露悪的な物謂いとは裏腹に、他者の作品に参入する場合、井上敏樹は従来の世界観を十分に読み込んでから井上なりの芸を見せる。

それが端的に顕れているのは、今回後半の合コンのくだりのプロットである。合コンという題材や例によっての井上ノリに抵抗を覚える向きもあるだろうが、屋形船の合コンという無理のある道具立てを一旦捨象するなら、この一連のシークェンスがこれまでのワーム描写を十分に理解して描かれたものだということがわかるだろう。

まず前後関係から考えていくと、合コン相手の四人の娘の内、三人までは屋形船以前にワームに擬態されていたと視るべきだ。劇中では語られていないが、おそらく屋形船の甲板上に隠された死体の娘は、残りの三人の手引きによってワームに擬態された後殺害されたもので、屋形船の合コンという単位で区切ることによって物語上の仕掛けとしてサプライズが設けられているわけだ。

「誰がワームの擬態か」という課題設定に基づくサスペンスは米村脚本の03話で効果的に用いられていたが、今回後半のミステリーは直接これを継承して井上なりのアレンジを加えた作劇である。少し画面上ではわかりにくいが、シートで隠された死体はゴンが発見した時点では下半身が溶け残っていたが、天道たちが現場に来た時点では完全に溶解して跡形もなく溶け去っていた、だからゴンの「グレーのパンツ」という証言だけが頼りとなる。

画面上では容疑者となる二人の娘が着用する「グレーのパンツ」はアカラサマに色味が違うのだが、ここはこれで正しいのである。この辺は田村監督と田崎監督の緻密さに対する拘りの違いかもしれないが、この衣装の選定には明らかに演出者の意図が反映されている。

……いや、こういうよけいなことまで口にするのは、そこまで説明しないと「こいつは衣装を選ぶのまで監督だと思ってやがる」とかつまんないバカを言う輩がいるからで、もちろん演出内容に関係があれば監督が衣装を選ぶのである。この場合、衣装の選定に際して、わざと色味を似せるか違わせるかという二者択一があり得るわけだが、それを判断するのは当然スタイリストではなく監督なのである。

ではなぜパッと視て誰でも気附く程度にパンツの色味を違わせたのかといえば、03話について以前語ったように、ラストから遡って甲板上の死体のシーンを視る場合、ハタと腑に落ちる効果が得られるからである。

どちらのグレーのパンツが甲板上の死体のそれに似ているかというのは、視聴者とゴンにしかわからないことであり、ゴンの証言は「グレーのパンツ」という言葉による特定にすぎないのだから、ゴン以外の劇中人物には二つの色味の内どれかということはわからないはずだ。本当なら、ではどっちのほうの色味が近いのか、という地味な話になるわけだが、そういうつまらない段取りにはもちろんならない。

「そいつは人間じゃないぞ」という天道の言葉はもちろんお得意のブラッフで、娘たちのリアクションから正体を探ろうという腹づもりだが、大方の視聴者の予測を裏切ってあっさりワームが正体を顕わす。それ以前に、注意深い視聴者なら最初に正体を顕わした娘のパンツの色味が甲板上の死体のそれとは異なっていることを視て取っているはずだが、そこから畳みかけるようにワームが暴れ出すので、「まあいいや」的に一旦そのことは閑却されてしまう。

そこから河原での戦闘に至って、風間たちと一緒に逃げる娘たちが唐突に正体を顕わすわけだが、「全員ワームだったとは…」という天道の呟きで、この事態の全貌を天道が見破っていたわけではない、あれが天道のブラッフだったという事実が再確認される。

このサプライズの仕掛けが、03話の菊地美香A、Bを使ったトリックと似ていることに誰もが気附くだろう。03話でも、誰もが本物という前提で受け取っていたほうがワームであったというサプライズがあって、ワームの特殊性をオミットしたら普通の意味では成立しない話になっていた。その残る違和感を続く04話で解消することがシリーズ構成の芸になっているということは、以前指摘した通りである。

今回の場合は、すでに四人の内三人が劇中に登場する以前に擬態されており船上で残りの一人が擬態されたにすぎないという状況設定のゆえに、表面的に設定された「この中の誰がワームか」という課題が根底から転覆されるが、表面的にスラッと視ただけではとって附けたような狙いすぎの「意外な結末」に見える。

だが、ラストを識った上でもう一度甲板上の一件を再確認するなら、パンツの色味という要素とそれをゴンだけが視ていたという状況設定が、注意深く伏線として用いられていたことに気附くだろう。03話については菊地美香A、Bの入れ替えにズルがあったと指摘したが、今回はそれより少し単純な謎解きなのでいっさいズルはない。それでいて遡って再確認したときに「なるほど」と膝を打つ仕掛けとして活きている。

これが今回後半のプロットが、03話のミステリーを直接継承した作劇であると指摘する所以である。井上はこれまでの作品でも「なんちゃってミステリー」的な作劇を好む癖があったが、今回の仕掛けはカブトという作品の特長であるミステリー的な捻りとして首尾結構が整っている。

今回井上が明確に03話のミステリー的な趣向を本歌取りしたということは、これまでの作品世界を十分に読み込んでいるという証しであり、風間というロコツな井上キャラはその前提の上でカブト世界に登場したキャラなのである。井上が参入した意味が米村の代役ということではない以上、誰もが井上敏樹に期待する芸風を披露するのは当たり前のことなのだ。

そして、風間絡みのドラマの主要なタッチとして「不機嫌なジーン」も真っ青のコミカライズされた語り口が選定されているのは、アカラサマな井上キャラである風間大介はこれまでのしんねりむっつりしたシリアスなカブト世界の語り口では十分に活かし切れない要素であるからだ。その意味では、発狂したような田崎演出のはしゃぎっぷりも、全体的な作品デザインの上で視た場合、間違っているとは決して言えない。

そして、従来の語り口では活かし切れないキャラを投入する意図として考え得るのは、自ら完結しようと志向する作品世界を意識的に綻ばせ、語り口のバラエティーを確保するという、長丁場のTVシリーズを保たせるための智恵である。

米村と井上を使い分ける意義というのはこういう部分にあるのであって、米村も疲れただろうからこの辺で井上にバトンタッチ、というお台所の事情だけで為されるものではないのである。そのような台所事情が主因であることはもちろんだが、米村と井上という相反する個性を同居させるなら、使いようというものがあるのである。

一見これまでの作品観をぶち壊す暴挙と見えながら、今回ローテのエピソードは緻密な計算に基づいて関係者各人がしっかり仕事をしており、米村カブトに好印象を覚えていた視聴者にとっては好き嫌いの別れるところではあるが、一種特撮に限らずTV番組というのは特定の嗜好のファンだけのものではないのである。

過去の白倉ライダーを好んでいたファンは、今回の井上脚本の投入には待ってましたの歓呼の拍手を送るだろうし、これまで平成ライダーという番組を支えてきたのがそういうファンであることは間違いない。そのようなシリーズ全体のファン層を完全に切って棄てられるかといえば、それはそうではないだろう。

おそらく白倉も、昨年の響鬼騒動ではいろいろなことを考えさせられたはずである。

その上で、平成ライダーとはイコール白倉ライダーなのか、井上ライダーなのか、そうでないとすれば、非白倉、非井上なるものを目指すべきなのか、そのような自問もあったのではないだろうか。

平成ライダーとは誰のものであるべきなのか。白倉ライダー、井上ライダーを好んで観るファン層というものもあり、そうでない響鬼のような作品に惹かれる層もある。だとすれば、どちらを選ぶべきかという話になってしまうのか。

だが、平成ライダーという枠組みは、本来誰のものでもないしすべての人々に開かれたものであるべきなのではないのか。一年五〇話前後という幅広いボリュームを持つ番組において、万人に開かれたバラエティーは成立しないのか。

今回の井上脚本の投入は、オレにはこのような問題意識の連続上にあるのではないかという気がする。これまで書き綴ってきた通り、オレは米村脚本の非白倉的、非井上的な語り口に好意的な印象を覚えていた。しかし、その連続上にまさに井上脚本そのもののテイストが出現したらどうなるか。

ある意味、今回のエピソードを何度も観て感じたのは、作品の世界観を十分に継承しながらも井上テイストがバラエティーの振れ幅として成立しているという手応えである。

前回までの10話のエピソード群によってしっかり確立された主役コンビのドラマと作品世界、そのようなプラトーからさらに転げ出すように、このコンビの近附きすぎた間合いを一旦解消し、確立された作品世界のイメージを引っかき回すように描かれたコミカルな世界観。

井上敏樹を参入させ、田崎演出を投入するに当たって、その時期もその在り方も十分に計算されているということだ。それが一種、小さく纏まろう纏まろうと志向する米村脚本に内在する弱点を補って作品世界の振れ幅を豊かにする。米村がキッチリつくり込む世界を井上が毀し井上が毀した世界観の綻びを米村が回収する、こういうローテーションが構想されているのだとすれば、それはまさしくスクラップ&ビルトの運動性が目論まれているということである。

もちろん、今後井上敏樹の扱いがどうなるかはわからないし、ゲストライターが井上だけに留まるかどうかも定かではない。白倉人脈の書き手がもっと参入するのかもしれないし、米村がボヤボヤしていたら井上がメインライターに直ってしまうかもしれない。

そういう意味では緊張感のある人材起用でもあり、米村メインがこのまま堅調に進むのであれば、白倉にとって未知の人材の試用の場として機能する目もあるだろう。

何度も言うが、好きか嫌いかでいえば、オレ個人としてはこういうノリは嫌いである。作劇思想を実践する局面において、井上敏樹のナラティブにはコンセプトが突出した無骨さがあり、文芸のデリカシーとしてそこまで言い切る描写はオレの感覚としては無粋であるからだ。井上敏樹という人材は、プロのシナリオライターとしての経験や技術は確かだが、言語化以前の文芸の肌合いという意味では不器用な書き手だろうと思う。

文芸の肌合いを直観的に解する者なら忌避するような書きぶりでそのまま書いてしまうところがある。無論、「おまえは何か、ゲージツ家様のつもりかよ」的な文脈における文芸を謂うのではない。言葉を用いて文芸に携わる人間が誰しも葛藤する部分の勘所が鈍いということだし、これは当人が一番わかっていることなのではないかと思う。

個人的には、そこが物足りない。

だが、所詮それは個人的な好悪の感情にすぎないのだし、それをこそ好むという他者の嗜好は理解できる。オレがその種の嗜好の持ち主と対立することがあり得るとすれば、その主軸になるのは井上脚本の在り方ではないだろう。少なくとも、井上脚本と肌合いが合わないという理由で他者と不毛な争いを持つつもりはない。

とまれ、今回のエピソードをオレ個人としてどのように受け取るかというのは、あまり意味のある論述ではない。肝心なことは、たとえば響鬼前半と後半で杜絶していた作品としての振れ幅が、カブトという作品においては意図的に調停されているということなのである。響鬼前半のファンと後半のファンがいずれも楽しめる豊かな振れ幅を持つ作品として今後の方向性が目論まれているなら、それを批判するのは我儘というものではないかと思う。

平成ライダーという枠組みは、それが仮面ライダーである以上、オレのものでもないしあなたのものでもない。白倉のものでもないし、井上のものでも米村のものでもないのである。だから。

間違っても「こんなのボクのカブトじゃないやい」などと言ってはいけない(笑)。

仮面ライダーカブトという番組があなたのものであったことなど一度もないのだから。

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