« ウルトラマンマックス 第39話 | トップページ | 仮面ライダーカブト 11 »

2006年4月 8日 (土曜日)

深夜特撮における性と暴力を考察する

いきなりの「妖怪巨大女withTバック」ですか。

素直なボクに戻らせてもらいます。こういうエロ、大好きです。

第十五話みたいな何の変哲もないポロン出し要員のマッパにはびくともするオレではないが、なぜか第十八話の邪美のフトモモには思わず一膝乗り出しちゃったりするわけである。たとえそれを演じるのが「副隊長」であるということを識っていても。

トクサツにおけるエロとは、やっぱり非日常的なコスチュームもしくは造形デザイン、シチュエーションなどに付帯する副次的なエロチシズムでないといかんというのが持論なわけだが、GAROのような深夜枠の特撮番組だとその辺をどの程度に捉えるべきなのかが、オレの中でも未だ微妙である。

深夜特撮番組というのは、枠の性質上「深夜番組」という括りにおける個別のセオリーがあるからで、「深夜番組」であり「トクサツ番組」でもあるTV番組のエロというものがどうあるべきなのか、大多数の特ヲタにとってはどうでもいいオレの極々個人的な規範の中でも揺らぎがあるのである(笑)。

オレ的な美意識としては、「トクサツ番組」におけるエロとは飽くまで「目的的でない即物性」が粋であると思っている。その限りにおいてはあざとくても構わないわけであるが、そのあざとさが際立ちすぎると河崎実的なナンセンスと無粋に直結し、即物性が目的化すると禅ピクチャー系の目的性に特化した映像作品になる。

その場合多分、最も重点がかかるのは「目的的ではない」という部分なのである。力業でもいいから、即物的なエロを添え物の域に封じ込める意志こそが「トクサツ番組」というゲテモノにおいては「粋」なエロなのであると思う。

たとえば、恐竜戦隊ジュウレンジャーについていえば、メイン監督の一人である東條昭平が、千葉麗子の演じるプテラレンジャー・メイのコスチュームにダメを出したというエピソードが特撮番組におけるエロの在り方を端的に語っている。

番組開始当初、メイのコスチュームはボレロ風のジャケットにゆったりしたキュロットスカートだったのだが、「一億五千万年の眠りから覚めた伝説の戦士」の衣裳デザインとして視るなら、それで全体的な服飾イメージが完結しており、トップスとボトムのバランスもとれていた。しかし、千葉麗子自身の証言によれば、そのコスチュームに東條昭平が「ダサい!もっと脚を出せ」と変なダメを出したというのである。

今現在の千葉麗子も細いほうだがデビュー当時はもっと細かったので、比較的ボリューム感のあるキュロットの裾から棒きれのような細長い脚がニョロッと突き出ているのがどうにも貧相に見えて、たしかにダサかった。要は、衣裳単体のデザインと役者の体型がミスマッチでモッサリしていたのである。

おそらく鬼軍曹・東條昭平の意図としては、その辺のモッサリした感じが我慢ならないとか、ワサワサしたキュロットの裾前を気にしてアクションに身が入らない千葉麗子の姿勢のようなものが気に入らなかったのだろうが、千葉麗子本人の口から出た「もっと脚を出せ」の言葉だけが広まってしまったので、なんか助平な拘りを強要するセクハラオヤジのようなイメージが特ヲタの間で一人歩きしてしまった。

そのダメ出しを受けて、メイのコスチュームは途中からピッチリしたショートパンツに変更されたわけだが、エロいかエロくないかでいえば、モサモサキュロットより下半身のラインや鼠径部辺りまでフトモモが露出するショートパンツのほうがエロいに決まっている。加えて、前述の通り当時の千葉麗子はかなり棒脚気味だったので、ピッチリしたショートパンツであるにも関わらず、転んだ拍子に所謂「裾チラ」というのが頻出したものだから、オレ的にはかなりエロい印象を覚え、しばらくチバレイ萌えだった恥ずかしい過去がある。

多くの人々がその存在を忘れ去った頃合いにひょっこりメディアに露出して、その都度肩書が「IT社長」や「ヨガインストラクター」に変わってたりするような胡散臭い女に裾チラが契機で一時期入れ上げていたなんて、今となっては盗んだバイクで走り出してしまいたいくらい恥ずかしい過去なのである。

この挿話を表面的に視るなら、現場の怖い監督がぺーぺーの女優を脅してお色気を強要したようなかたちになるのだが、オレ的にはエロそれ自体が目的の指示ではなかったのではないかと思っている。その辺の子役ですら情け容赦なくクレーンで高々と吊り上げて振り回す鬼の東條のことだから、ましてや主役の一人がモサモサとキュロットの裾をダブつかせ屁っぴり腰でお嬢様アクションを演じるなど我慢できなかったのだろう。

言ってみれば「衣裳のせいで動けないなら次からブルマ履いてこい」の世界である。

また、東條昭平が東映特撮で担当したエピソードでは幼女のパンチラが頻出するので、特殊な嗜好があるかに受け取る向きもあるようだが、オレ的な観測としてはむしろ逆に東條昭平の認識では幼女のパンツなどエロだと思っていないからかえって無造作に撮ってしまったのではないかと考えている。

素人同然の女の子だからといって容赦せずに崖から突き落としたり地べたを転げ回らせたりするから必然的にパンツモロ出しになるのであって、それにエロを感じるのはそういう嗜好を持つ後世のヲタが視るからである(笑)。おそらく現場では、萌芽的な羞恥心からスカートの裾を気にしてモジモジ動いてる幼女に、「ガキのパンツなんか誰が見たいか!死ぬ気で転がれ」くらいの檄を「本気で」飛ばしていたのではないかと思う。

この手のセリフでオレがシビれたのは、三池崇史が監督した「天然少女萬NEXT」のメイキングで、何度やってもアクションが決まらずリテイクを繰り返す女優に対して、三池監督が「パンツじゃなくてあんたの本気が見たいんだ」と言ったセリフであるが、天少でそれを言っては身も蓋もなかろうと思いつつ、ちょっと笑った。まあ三池って、どうせ精神的にはホモだしな。

「脚を出せ」の件については、お色気を求めた部分も少しはあるだろうが、なんというか、この挿話には「お色気」という言葉から連想されるようなニヤけた雰囲気が皆無の体育会系なニュアンスがある。芝居もアクションもできないなら、せめてフトモモ出してサービスしろということなのだろう。

今も若干その雰囲気は残っているが、ギャラを安く抑えられてキツいアクションも演じさせられるという理由でスタント方面から人材を起用することが多かった東映特撮の現場では、役者さんだからチヤホヤご機嫌をとるという風潮はまったくなく、主役格の面組役者の後輩に当たる人材が素面の役柄を演じることが多かったので、敵役のベテラン俳優以外の顔出し役者は、現場のいちばん下っ端に近いポジションだった。勢い、伝統的に体育会的な厳しさがあったのである。

だから、「もっと脚を出せ」というような、本来ニヤけた動機に基づく指示が、真顔の命令として口に出されるのである。このようなシャレの通じないストイックな雰囲気にあって、本来それが主要な目的ではないのに目的的にエロを追求するのは難しい。

それはまあ、中には根っからの助平という監督もいたようだが(笑)、東映特撮における戦闘ヒロインの位置附けというのは、どうも「プレイガール」辺りに根を持つ「お色気フトモモサービス担当」という即物的な性格だったのではないかと思う。どうせメンタにアクションさせるなら、ミニスカートかホットパンツ履かせとけばいいや的な即物性があったと思うのだ。

各話演出者の深層における動機がどうあれ、フトモモがどうとかパンツがどうとかというような見え方について、ニヤけた演出が附けられる空気ではなかった。体育会系の空気とは、即ち名分で動く場の在り方であって、本音丸出しで動くものではない。お色気という要素は、個人的な助平心の対象ではなく視聴者に向けたサービスとしてようやく成立する要素なのである。

その前提において、特撮番組とは飽くまで幼児番組であり、その埒内で工まずして垣間見えるレベルのエロ、大人の視聴層へ向けた暗黙のサービスというレベルのものでなくては名分が立たないのである。監督が好き者で、そういう絵面が個人的に好きだから撮るというような清水厚的な動機が丸見えではダメなのである。

たとえば現在の特ヲタの中でもヒロイン萌えという分野においては、過去の特撮番組のビデオリリースが活発な現状を反映して、エロなカットを発掘する作業が一般化しているが、そのような映像をあらためて検証するなら、目的的なエロと非意図的なエロには撮り方に明確な差異が存在することに気附くだろう。

つまり、たとえば戦隊ヒロインのホットパンツやミニスカのフトモモというような目的的なエロについては、フレームの真芯でとらえ、ある程度の節度の埒内でちゃんとエロく見えるようなアングルで撮られているのだが、タイトスカートの裾から一瞬パンツが見えたとか幼女のスカートがめくれたとかガヤのお姉さんが転んだとかいうような要素に関しては、わざわざ隠すようなアングルで撮っていないというだけの話で、それを目的とした撮り方にはなっていない。スイッシュやズームで激しくブレていたり、フレームの端っこにようやく映っていたりするものだ。

当然それらのカットは、アクションや芝居の連続上の呼吸で撮られているのであって、アクションやストーリーを効果的に見せるような手法で撮られており、その主客が転倒することはまずないのである。さらに当然のことながら、幼児番組において幼児を性的関心の下にとらえる屈折したエロなど存在の余地はあり得ないのである。

そのような意味では、特撮番組における目的的なエロというのは、実は戦闘ヒロインのコスチュームが素肌を露出したものであるという、ただそれだけなのであり、特撮番組が建前上容認するのはフトモモ止まりのエロなのである。「フトモモ」という目的において採用されたミニスカコスチュームから結果的に中身がはみ出したとしても、それは芝居とアクションの流れにおいて処理されるのであって、飽くまで目的的ではないという建前は堅持されるのである。

もちろん例外は多数存在する。現在のように幼児層対象という建前が明確化する以前の七〇年代の各社作品や八〇年代の東映特撮のように、パンチラが目的化したような番組も存在するのだが、七〇年代特撮の場合はまだ特撮番組の想定視聴層として若年成人視聴者が若干視野に入っていたのだし、八〇年代東映特撮の場合は、幼児番組を好んで観るヲタ層というものも視野に入っていたのだと思う。

だが、八〇年代後半からのこの二〇年の流れにおいて、玩具メーカータイアップという特殊な制作手法が一般化するにつれ、特撮番組の視聴層を幼児に特定するセオリーが主流のものとなり、それに伴って特撮番組の舞台が平日のゴールデンから休日早朝の時間帯に移動することで、主婦層に忌避されるパンチラという一種ロコツでフェチズム的な不潔さをもつエロ要素は影を潜め「フトモモ」という「健全な」建前が強調されるような流れになってきている。

いわば、「フトモモ」という建前を境界として、女性器周辺を対象とする直截なエロ的関心の反動的抑圧が起こったのである。結果として確認されたのは、やはり特撮番組におけるエロ要素の絶対的境界線は「フトモモ止まり」であるということだ。

昔は「結果として」露出してしまったスカートの中身が不自然に見えないように、わざわざ下着に「似せた」下履きを着用していたのが、一旦それが意識化された経緯を経ることで、それが下着「ではない」というエクスキューズが要求されるようになり、暗色や共布のスパッツやステージパンツにとって替わられるようになってきた。おそらくこの流れは不可逆的な趨勢である。

このような流れにあって異彩を放つのは、多くの人々が「ヲタの萌えとエロ」の文脈でとらえている「美少女戦士セーラームーン」の実写版の存在だろう。アニメ版ではモロなパンチラは抑え気味で作画していたが、あれを実写で描く以上、時流に逆らってパンチラだらけのエロエロな番組になるのではないか、今時そんなモンつくって大丈夫なのか、PTAからクレーム入って打ち切りになっちゃうんじゃないだろうか、そういう風に誰もが予想したことだろう。

この間の事情に関しては、制作サイドからセーラー戦士のコスチュームについて「あれはレオタードにフリルが附いているだけです」という苦しい言い訳が「公式に」為されたことも印象深い。

これに対しては「セーラーVのコスチュームはお腹が出てるけどこれもレオタードなのかよ」という当然のツッコミがあったわけだが、このコメントは、そもそもレオタードはエロくないのかという本質論を外れて、それがパンツであるかないかという解釈論的な部分に論点が特化している。少女の下半身のラインを見せるだけのエロなら問題ないが、スカートの裾から下着を見せるエロは「不潔なフェチ」だから問題アリということなのだろうか。

いや、そうではない。このコメントが実質的に意味しているのは、いかにもそう見えるから誤解されてもしょうがないが、このコスチュームはパンチラを意図したものではないのだし、男性視聴者の期待に応えるためのものではない、という宣言なのである。

しかし、セラムン実写化の一報に飛び附いた男性視聴者に対して、この宣言はあまりにつれないものではないのか。

たしかにセラムンアニメ版の視聴率やマーチャンダイジングを実質的に支えたのは主要視聴層の幼女たちであるが、それが当時社会的な拡がりを見せたのは、想定視聴層以外に非意図的な影響力が派生したからである。その「非意図的な影響力」とは言うまでもなく「萌えやエロ」の要素なのだし、「想定視聴層以外」とはぶっちゃけヲタやエッチなオヤジなどの二次萌え属性を持つ成人男性視聴者である。

正攻法の少女マンガ的なストーリーの裏面に、そのような普遍的に男性にアピールする要素が内在したからこそ、今に至るもそこら辺のオヤジまでセラムンの名を識っているのである。

そうでなければ、セラムン現象は「成功した幼児番組」の埒内、つまり「ときめきトゥナイト」や「きんぎょ注意報」レベルのムーブメントでしかなかったはずだ。メガヒットや社会現象化という事態は、本来的なコア層から逸脱して幅広い社会層の関心を喚起しなければ成立しないものである。

実写版セラムンの場合、さらにアニメよりも肉感性が強調される実写というメディアでこの文芸ソースを展開する以上、そのソースに内在する成人男性視聴層のエロ的関心という要素を抜きには語れないはずである。

だが、実写版セラムンという番組は、要するにそのような複雑な経緯を一旦ネグレクトして「女児向け番組の成功作」というコア部分にのみ着目し、成人男性視聴者に波及した社会現象的な影響に関してはいっさい切り捨ててつくられているということだ。社会現象的な話題喚起が目的ではなく、女児向けという一段小さな枠組みの中で堅実に成功するビジネスを狙って企画されたのである。

それゆえ、セーラー戦士たちのコスチュームが東映特撮史上ぶっちぎりでエロなのは、作品を建前としたエロ要素の暴走ではなく、この文芸ソースを実写化する以上、それが避けて通れない大前提だったからである。

企画段階では、このコスチュームをどう処理して非本来的な関心を排除するかという点で揺らぎがあり、顔面を覆うマスクや全身スーツ的な造形方法も検討されたようだが、最終的にはセラミュのノウハウを移植して原作のイメージを再現するという方向で落ち着いた。これがアメコミヒーロー映画的なアプローチでもっとマッシブなコスチュームになっていたら、原作との乖離を批判する声はもっと大きかっただろう。

察するに、セラミュの成功やコスプレシーンにおける定番アイテム化、キャラリート販売上の都合というのもあって、多くの人々が共有する「実写化されたセラムン」という既存のパブリックイメージを大きく裏切ることはできなかったのではないだろうか。

それよりもっと説得力があるのは、不可避的に男性のエロ的な関心を呼び込んでしまう要素もまた、それ自体が幼女にアピールしているのではないか、つまり、エロ的関心を排除するためのイメージ改変は、セラムンに内在する幼女へのアピール要素それ自体を排除することにも繋がるのではないか、という観測に落ち着いたという解釈である。

もっと具体的にいえば、幼女がセラムンに自己同一化の憧れを抱きキャラリートでなりきりごっこをしたがるのは、それがセラムンという番組のコスチュームだから深く考えずに着用しているのか、それともセーラー戦士のコスチュームの意匠それ自体に幼女を惹き附ける力があるのか、これが分明ではない以上、妄りにビジュアルイメージを改変するわけにはいかないということである。

そもそも武内直子という女性作家によって構想されたその文芸ソースに、なにゆえこれほど過剰なエロ要素が内在するのか、また、これほどアカラサマにエロなコスチュームのヒロインに、なにゆえ幼女が自己同一化の憧れを抱くのか、その問題に深入りすることは「女性における同性や自己像に対するエロ的関心」というかなり煩雑な問題に踏み入ることになるので詳説は避けたいと思う。

まあそれをざっくり言うなら、たとえば、ヲタの間で萌えの極北と崇められる「カードキャプターさくら」という作品が、本来の想定視聴層である幼女たちにも絶大な人気があるという事実を鑑みれば、ある種の特殊な少女趣味というのは、少女愛好者と少女自身の間で隠微に共有される少女像なのかもしれないということだ。

つまり少女愛好者が好む少女像と少女自身が自己同一化の憧れを抱く少女像には、エロ的な関心も含めてかなり相同性があるということなのだが、専門家でもないオレがこの辺の事情を突き詰めると、かなり反社会的な内容の論述になりかねないので、今は避けておく(笑)。

結論だけを言うなら、実写版セラムンという番組は女児と成人男性しか観ない番組だからあれで通ったのである。男児向け番組としてこのレベルの意図的なエロ要素が企画に内在していたら、おそらく通らなかっただろう。事実として、主要視聴層である女児はセーラー戦士のコスチュームを「いやらしいもの」とは認識していないのだし、成人男性にとってこの程度のエロ要素は「健全」の範疇だから何も不都合はなかったのだ。

ただし、この番組に対しても「少女の性を売り物にするなんて」的な反撥の声があったことはたしかである。「識り合いの識り合い」という所謂FOFの話にはなるのだが、頑強にそう主張して観てもいない番組を批判するオバハンが実際にいたそうだ。「女児層が喜んで観ている」「演じる側も幼少時に憧れた作品」という事実を抜きに語るのなら、たしかに「少女の性を売り物に」という話にもなるだろう。

この番組に関しては、コスチュームがエロいということだけが問題なのではなく、それを演じているのが未成年の現役少女というところにも問題があるからである。そのような教条的批判を蒙る危険を冒してまで成人男性視聴層にアピールすることが、どの程度数字に繋がるかは未知数なのに、あえてヒロインたちの設定年齢を原作通り中学生にしたことからも、この番組がガチで女児層を対象につくられたことがわかるだろう。

セラムンという作品の原イメージを活かすなら、実年齢が中学生乃至高校生程度の現役少女にあのエロいコスチュームを着せるしかないのである。セラムンという文芸ソースが持つ幼女層に対するアピール要素をメインの狙いに据えるなら、ソースにある中学生という年齢設定は外せない要素なのだ。幼女が憧れを持って自己投影できる年齢設定の上限がそれであることを、実績が証明しているからである。

ヲタ的人気を当て込んでつくるのなら、設定年齢をせめて女子高生以上に上げ成人女優を起用して深夜枠で制作すべきなのである。それならたとえば「テロメア」のように、ピンチになったらコスチュームがビリッと破れるような直截なエロを狙うこともできただろうし、変身バンクをもっとロコツなものにすることもできただろう。

じっさいアニメ版でもシリーズの進行に伴ってヒロインたちは高校に進学したのだし、アニメーターの暴走でエロ描写も頻出したのだから、そのようなヲタ向けのアレンジを施しても、大きく原イメージを損ねていないと言い張ることもできただろう。セラムンという文芸ソースには幼女向けの側面とヲタ向けの側面がオーバーラップしながら同居しているのであり、どちらにスポットを当ててもつくれる自由度がある。

しかし、東映特撮というのは歴史的に幼児番組に特化したノウハウしか蓄積していないのだし、東映特撮が採用しているビジネススタイル上、大きなビジネスチャンスが潜在するのは幼児向けの側面のみなのだから、そのような想定は無意味なのである。ヲタ的な狭いマーケットでいくらDVDセットや高価なフィギュアが売れたところで、玩具を中心としたマーチャンダイジングトータルのビジネス規模には遠く及ばない。

そもそも実写版セラムンという番組自体、たまさか空いた土曜早朝の枠を東映がどのように開拓するかというニーズに、たまさかセラムン実写化という企画が出逢ったことで生まれたのであり、バンダイが持つセラムン玩具のノウハウやストックを有効活用できるという目論見が背景にあるのだから、本質において女児向けであることを外した想定に意味はない。成人男性視聴層を念頭に置いた「少女の性を売り物に」という批判が的外れなのは明らかである。

視聴率にも玩具売上にも影響しない成人男性視聴者なんて、制作サイドから見ればいかなる重要性も持たないからである。どうでもいい視聴層に色気を示して大本のビジネスを危うくするほど馬鹿げたことはない。

たとえば、大部分の特ヲタに評判の悪い新体操系のアクションは、男性視聴者の猥褻な視線を牽くためのものではなく、コスチュームのヒラヒラ感を強調して優美な動きに見せ、女児の憧れにアピールするためのものである。それはつまり、誰がどう見てもエロなコスチュームの猥褻感を払拭し、女児やその母親の抵抗をなくすための努力であってエロ的関心に媚びたものではない。その正反対である。

セラムンという文芸ソースが持つビジネス的なインフラは女児に特化したものであり、それを男性的な視線で穢して興味本位のゲテモノに仕立てることなど、少なくとも東映特撮とバンダイの連携において手掛ける限り許されることではないのである。

さらには、そのような論調において実写版セラムンを裁こうとする意志は、幼女が希求する自己像に内在する性的欲動の萌芽のようなデリカシーを、大人の雑駁な良識の俎上に乗せて暴き立て断罪することに直結してしまう。つまり、実写版セラムンを大人の欲望の文脈で批判する以上は、幼女の女性性に対する未成熟な憧れを「いやらしいもの」「恥ずかしいもの」としてスカートの下に囲い込んでしまうことになるのだ。

セラムンという文芸ソースは隠微なエロ的要素をも含む総体として幼女の望む何ものかであったのだし、それをすでに大人になって性的欲動を社会的な規範の下に昇華し得た人間が雑駁な論理で裁いていいのか、それは自身の幼少期における性的欲動を他者の名において裁く行為でしかないのではないか、という問題は必ず附き纏うのである。

実写版セラムンがあれほどエロかったのは、かつて社会現象にまでなった文芸ソースをベースにした女児向け実写特撮ヒーロー番組という前人未踏の分野に東映特撮がチャレンジした結果なのである。その文芸ソースに内在するエロ的要素を排除するには、あまりにも万人が共有しているパブリックイメージが強固なものであったがゆえに、結果的にあのようなものになったのである。

「少女の性を売り物に」云々という文脈で批判さるべきは、そのような動機に基づいてこの番組を観ようとする成人男性視聴者なのであって、番組自体ではない。さらに言うなら、それを今更成人女性が言い立てることは、男性のエロ的関心が主に「女性が見られたくないと思うものを見たがる」という暴力的な性質を持つこと自体を断罪することになるが、そういう在り方を女性だから批判できるということではないだろう。

そのような性的なるものの在り方に内在する暴力性を一概に否定して足れりとしている人は、一度自分の性的生活を突き詰めて考えるがよろしい(笑)。性的欲動自体が一種の攻撃性であるという知見を前提にするなら、一旦男性の性欲の在り方を全否定して新たに人為的な何ものかを構築するという、およそ非現実的な話になるわけだが、それには男性の性欲の在り方と相関するかたちで成立している女性の既存の性欲の在り方も否定されるわけだからねぇ。

まあそのような次第で、実写版セラムンを男児向けが大前提であった特撮番組のエロの文脈で解釈することはかなり難しい。じっさい、あれだけ大勢の可愛い女の子が出演して大っぴらにスカートをヒラヒラさせるという大きいお友だち大喜びの番組であるにも関わらず、男児に見せてもいっさい興味を示さなかったという報告はかなり多い。

男児においては、そのような関心が正面切って芽生えるのは特撮番組と縁が切れてからなのだ。男児の間ではやはり戦隊における女性メンバーの人気は相対的に低いものなのだし、もっといえば素面の俳優の演技など本来的な視聴層はほとんど見ていない。

特撮作品のエロというのは、意識されているとしても無意識的なものにすぎず、男児の主要な関心とは成り得ないのである。ある程度性的に成熟する年齢に達した後に、その映像体験を無意識から引っ張り出して回顧するという、ただそれだけの話なのである。

特撮番組が幼児向けに特化していく流れにあっては、実はフトモモだろうがパンツだろうが、エロなどいっさい不要なのだ。特撮番組において戦闘ヒロインや悪の女性幹部のコスチュームが未だにある程度エロ的なニーズに応えるものであるのは、そのほうが大人の美意識に照らしてデザイン的に相応しいからであり、エロ的訴求力があるのは痕跡的な慣習にすぎない。

だからといってその辺のデザインワークが自己満足的なものにすぎないのかといえば、それも正確ではないだろう。そもそも幼児は素面の芝居など見ていないのだしお話などどうでもいいからといって、人間ドラマも物語も要らないというのなら、それはただのヒーローショーのアトラクである。今日日アトラクのショーにだって凝ったストーリーが附いているわけだが、物語というのは物語であるための要件を不可避的に要求するものなのであり、想定視聴層がそれを欲しているかどうかというのは実は関係ない。

最低限幼児層にアピールするキャラのイメージを提供するには物語というパッケージが不可欠なわけだが、幼児というのはイメージさえあればパッケージの全体像などはどうでもいいのだ。だが、大人はパッケージという全体像を抜きにイメージを提供できないから幼児にとって不必要なパッケージ全体の体裁を整えざるを得ないのであり、それを構築する場合に拠り所になるのは大人のリテラシーや美意識しかないのである。

つまり、幼児向け特撮番組に物語文芸としてのクオリティが存在することとエロ要素が付随することは、幼児から視れば同じ原理から派生した不要物なのである。なくなりはしないだろうが、それを主要な目的として注力することは、ビジネス的な文脈でいえばぜいたくなロスである。

さて、そのようにして日中の特撮番組が幼児向けに特化する流れにおいて、若年成人視聴者を主要な対象としてここ十数年の間に台頭してきたのが深夜特撮・ホラー番組というジャンルである。ステロタイプな表現を用いるなら、エロ要素(もちろん暴力描写もだが)の扱いを巡って二極分化の流れになってきているわけだ。

衒った言い方だが、通常の特撮番組と深夜特撮番組を隔てる要素は「性と暴力」の要素でしかないのである。たとえば、同じPと脚本家によって制作された「Sh15uya 」と「仮面ライダーカブト」を質的に隔てる要素は、暴力描写のリアリティでしかない。

つまり、「Sh15uya 」が深夜でしか成立しなかったのは、残虐表現があるからでもエロがあるからでもなく、いわんやリテラシーレベルが高度だったからでもない。人間同士の生々しい格闘が盛り込まれた物語だったからなのである。少年ギャングたちの抗争という設定をベースに、クライマックスでエマとピースが殺し合いを演じるという要素が描かれるからこそ、幼児の目の届かない時間帯で放映する必要があったのだ。

そのテーマが中学生相互間の暴力を前提にしたものであること、ヒーローとモンスターが素面の人間同士に見えること、敵を倒すことが「殺害」と同義に見えること、これが幼児番組「ではない」要素のすべてだったのである。

ここでようやくGAROの話題に戻るのだが(笑)、GAROという番組を振り返る場合、それが平成ライダーと質的にどう違うのかを考えると、正直なところ、生身の殴り合いがあるかどうかの違いでしかないと思うのだ。

下世話で現代的なヒロイン、ヒロインに冷たく当たるストイックな主人公、その主人公を恋人の仇と付け狙うライバルの存在、主人公の属する組織の裏切り、ライバルと共闘してラストバトル、すべての決着が附いたあとの主人公とヒロインの淡い交流と別れという流れ自体、基本的に平成ライダーでそのままやってもまったく違和感はない。違いがあるとすれば、大部分のアクションが素面の役者によって演じられるという部分だけである。

深夜枠に雨宮慶太が進出してきた意義は、縦横無尽の横山アクションという従来の雨宮作品に欠けていた動きの要素が加わったことだろうが、その真骨頂はやはり素面の役者によって演じられる激しい肉弾戦だろうし、それは休日早朝の幼児番組では忌避される要素なのである。

平成ライダーであれ戦隊であれ、基本的に素面の人間同士がフルコンタクトの格闘を演じることは最小限に抑えられている。変身不能もしくは変身解除の状態でいたぶられるとか、ドラマの筋立て上必要な「喧嘩」など、どうしても必要な場合を除いて、基本的に幼児番組における格闘とは面組芝居なのである。

平成ライダーと戦隊における格闘描写の違いを視れば、その辺の事情はさらに明らかになる。想定視聴層が未就学児童と設定されている戦隊では、当たってもしょっぱい火花が散るだけの○○バスターや○○ブレードを殺陣の基本に据え、必殺技はエネルギー弾系の離れ技であり、やられ役のリアクションは「やられた」というこなしがあって爆発するというものだ。これなら「戦隊ごっこ」をする場合でもオモチャを使った危険性の少ない「真似事」で済む。

対するに、表向きは戦隊とさほど想定視聴層は変わらないが実質的にはもう少し幅広い層を対象にしてつくられている平成ライダーでは、殺陣に素手の殴打や蹴りという近接格闘の要素が加わり、必殺技はライダーキックである。もうライダーの主な視聴層についてはごっこ遊びの危険性を考慮しなくてもいいから、殺陣に少し自由度が出てくるということだろう。それでも、見せ場の格闘を演じるのはスーツキャラに限定されているという条件附けは同じである。

これはつまり、それが戦闘ヒーローの物語であっても想定視聴層ごとに暴力描写に対する配慮が払われているということだ。その上で、格闘をスーツキャラに限定することによって作品に内在する暴力を日常的な暴力から聖別しているわけである。視聴者の日常に存在するA君やB君という人間ではなく、ヒーローと怪物という非日常的存在の埒内に暴力を封じ込め異化する手続である。

本来この枠には「仮面ライダークウガ」のラストバトルのような人間同士の血みどろの殴り合いは似つかわしくない。あれが通ったのは、物語上の必然性があったからであって、生身の人間同士の肉弾戦を見せ場にするような作劇は、やはり幼児番組では忌避される要素なのである。

そういう意味では、GAROが深夜番組である意味とはホラー的な風味附けと素面の人間の激しい肉弾戦を描くためと言い切ってもいいのだが、なんか中途半端にハダカを出したりして深夜ホラー番組的なサービスも考えているのかと思わせなくもない。

試みにエロという観点からこの番組を概観するなら、邪美のコスチュームは文字どおり「フトモモ止まり」の文脈におけるエロであって、ある種見慣れた特撮番組のエロの規範を逸脱していない。また、藤井かほりや及川奈央がゲスト出演した回のミニスカアクションも、普通の特撮のしみったれたアンスコチラリズムの埒内でしかない。

第二十四話で肘井美佳が披露したミニスカアクションでスパッツが純白だったのは評価できるが、すでに畑澤Pの「仮面天使ロゼッタ」や「千年王国三銃士ヴァニーナイツ」でわざわざアンスコをパンツに「似せる」という時代の趨勢に逆行する快挙が成し遂げられている以上、たとえそれが白であっても「スパッツ」である辺りに及び腰なものを感じてしまう。

第十五話でいきなり全裸を出してきた経緯についても、それが彫刻家の話だから必然的にヌードモデルが登場したというだけで、普通の深夜ホラー番組なら彫刻家がどうとかいうのは全裸を出す「口実」でしかないのだが、どうもこの場合は肘井の父親の話に絡めて純粋に彫刻家奇談のようなものがやりたかったようで、コジツケではないらしい。

なんだやっぱり雨宮ってエロに興味ないんじゃんとか思ってたら、なんだか最終話近くになって慌ただしくエロに走ってきたような印象である。前述した肘井のパンモロアクションでジャブをかましておいて、吉野公佳が変身したクリーチャーのスーツにはなんだかスーアクの生乳首らしきものが浮いてるし、どうしちゃったんだ雨宮とか思ってたら、ラスボスの登場に至って開いた口が塞がらなくなった。

だって、妖怪巨大褌女だよ?全裸だよ?Tバックだよ?

普通、笑うだろう。

この番組のようにラスボスがクリーチャーデザインの範疇にあるキャラクターでありながらここまで即物的にエロいという例は今まであったかと考えると、少なくともオレの記憶にはない。おそらくAV的な作品まで含めればいくらでも類例があるのかもしれないが、シリアスなヒーロー番組ではこれが初めてではないかと思う。

たしかに悪の女性幹部のコスチュームデザインにおいては胸のボリュームを強調したりフトモモや素肌を大胆に露出しているものには豊富な実例があって、ギンガマンのシェリンダのコスチュームなどはこの方向性の極北といえるだろうが、それだって要するに「フトモモ止まり」の埒内である。

デザイン的な装飾要素をネグって考えれば、シェリンダのコスチュームとて露出レベルはセパレートの水着程度である。そこからさらに足し算で装飾要素が附いているのであるから、ギリギリ「コスチューム」といえる程度の被覆レベルである。

だが、かつてこれまで、白塗りの全裸にTバック一丁というチャレンジングなデザインのラスボスが存在したであろうか。飽くまでシリアスかつストイックな正統派ヒーローである冴島鋼牙=黄金騎士ガロが、相手もあろうに妖怪巨大白塗り褌女に大真面目な顔で特攻をかけるのである。ラストバトルの絵面がこれというのは、普通なら思い附いても馬鹿馬鹿しくてやらないだろう。

この辺は総監督の雨宮が絵描きであるというのが強みで実現したエロで、ぶっちゃけ、褌一丁の全裸巨大女がラスボスというのは腰砕け以外の何ものでもないはずなのだが、不思議とデザイン的にはクリーチャーとして成立している。コスチュームデザインの規範で考えるから褌一丁というのが引っ懸かるのであって、女性の裸体の原型をほとんど残したままモンスターとしてトータルにアレンジしているからこれがデザインとして成立しているのだ。

またこの褌女の撮り方が正面切ってエロである(笑)。ただの全裸女をストーリーの佳境において舐めるようなカメラアングルで撮られても「そんな気分じゃないんだがなぁ、それより話進めろよ」と辟易するが、クリーチャーであるというエクスキューズが附くと素直に見られるというのは不思議である。所謂「戦艦ナメ」や「矢島アングル」のノリで巨大褌女をとらえているからで、目的的にエロを狙っているのがわかっていても、トクサツの文法的に巨大飛行生物を煽ったりナメたりするのは自然なので、思わず納得してしまうのである。

エロという観点では、たとえば戦う女子高生社長の大股開きとか小学生のパンモロとか原史奈の緊縛監禁シーンがあったミカヅキ以外大した収穫もなかった雨宮作品ではあるが(それだけあれば十分だろうというツッコミはさておき)、深夜特撮番組という新たなフィールドで特撮誌に残るエロの在り方を、それも「本業の」デザインワークにおいて提示したといえるだろう。

断っておくが、オレ的には雨宮慶太という監督の作品があまり好きではないので、正直なところGAROという個別の番組を褒めるのには抵抗はないが、雨宮個人の手柄をあまり褒めたくはない。でもまあ、「特撮におけるエロ」という間抜けな分野で褒める分にはあんまり抵抗がないなぁ(笑)。

つか、ラスボスがエロかったと言いたいだけで、一週間もかけてこれだけ長々と脈絡のない理屈を語ってしまったことを、今はちょっと後悔している。

全部読んでしまったあなた。正直すまんかった。

|

« ウルトラマンマックス 第39話 | トップページ | 仮面ライダーカブト 11 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/9484360

この記事へのトラックバック一覧です: 深夜特撮における性と暴力を考察する:

« ウルトラマンマックス 第39話 | トップページ | 仮面ライダーカブト 11 »