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2006年4月23日 (日曜日)

渋谷は学園なのか

そういうわけでヒマネタの雑談其の参である。

オレは戸田恵梨香も割と好きなので、先週から放映が始まった「ギャルサー」を愉しみに観ている。この番組自体についての評言は後回しにするが、オレがまず興味を惹かれたのはOP冒頭にギャル文字の翻訳としてインポーズされるナレーションである。

21世紀初頭。
東京・渋谷に新種の勢力が発生した。
(中略)
それは学校で落ちこぼれ、
家庭でうとまれ、
行き場をなくした少女たちが
流転の果てに行き着いた
聖地であった。

ここで陳べられているギャルサークル評の下品な戯画性はともかく、この種のドラマを描く姿勢として、このナレーションの在り方は正しい。これは渋谷のギャルサークルを題材としたドラマを描く大前提であり、ナレーションという直接的手段によって冒頭で提示するのは妥当な判断なのである。

さらには、日テレによる番組公式サイトの紹介文には「“異色の学園モノ”ともいうべき痛快爆笑アクションコメディー」との表現がある。すなわち、この番組における渋谷観とは、さまざまな共同体からスポイルされた少女たちにとっての学園の代替物という位置附けなのである。

そのような前提は、今回のエピソードで戸田恵梨香が藤木直人を涙ながらに責めるシーンのセリフで直截表現されている。学校でも家庭でも居場所のない少女たちにとって、渋谷という街は崖っぷちで見出した最後の聖地であり、従来学園が果たしていた同世代的共同体としての機能を代替する場として認識されている。

オレがこのようなマクラによって示唆しているのが田崎竜太の「Sh15uya 」であることなど勘のいい読み手にはバレバレだろうが、どうしたって渋谷の街に新垣由衣がいたらそれを想い出さない特ヲタはいないだろう。以前どこかで似たようなことを言ったかもしれないが、概作品においては、渋谷という街のアクチュアリティは学園のアナロジーとして捉えられていた。

これはおそらく「ギャルサー」と共通する風俗認識であるが、「Sh15uya 」においてはもっと勿体ぶったシリアスなテーマとして扱われている。

たとえば、崔洋一の「花のあすか組!」においては、渋谷に対置される新宿という土地概念の階層ですらない「歌舞伎町」という小さな小さな街区に近未来的スプロールを幻視しているが、「Sh15uya 」という作品が渋谷という街に重ね合わせて視たのは、全体的世界の一部ではなく学園というそれ自体で完結している孤立世界であった。

「フィフティーン」と銘打っているだけに、一五歳限定の街・渋谷とは学年制のクラスの謂いであり、要するに特定年齢児童以外のあらゆる事物が排除されることで成立している中学校の直喩である。「Sh15uya 」の物語においては「渋谷という街は−まるで−中学校−のようだ」という直喩的街区観が屹立している。

そしてこの作品の問題点は、物語の骨格を「まるで 〜 のようだ」という直喩そのものに負っている部分にあったというのがオレの意見である。作品内の「シブヤ」という擬似世界は、畢竟するところ直接的な意味での学園であった。それを物語全体の謎として位置附け、犯罪的傾向を持つ少年少女のバーチャル更正施設という古臭いアイディアの開示を目的的に指向する大真面目なSF的ストーリーを展開した。

渋谷という街をタイトルに掲げ、渋谷についての物語を標榜するこの作品に対して、視聴者が事前に抱く興味とは、「つくり手は渋谷という街をどう視るのか」というテーマである。そして詳細な事前情報に接し、実際に第一話を観た時点において、視聴者の大部分は、「なるほど、この作品では渋谷を学園のアナロジーとして視るのね」という感想を抱くだろう。

だが、物語はなぜかそのような自明の前提であり出発点である認識を目的的な結末として指向する。渋谷という現実の街から幻視されたシブヤという擬似世界は、「渋谷を学園として視る」というアナロジー的街区観から出発しているはずだが、それが最終的にはシブヤ=学園という身も蓋もない等号にスライドして物語は終わる。

この時点ですでに、渋谷という概念と学園という概念は、アナロジーやメタファーではなく目的的な直喩として明示的に結び附けられている。暗黙裡の前提であるべき認識がゴールとして目指されており、渋谷という街が現在の少年少女にとって学園の代替物となっているという取材的街区観を表明することが最終的な目的となっている。

本来、その認識は物語を紡ぎ出す際の前提であるべきなのに、その認識を表明すること自体が目的化するという退屈な転倒が起こっている。この物語における渋谷観が「実際に渋谷に出向いていろいろ取材したら、どうやら学園や家庭という共同体からスポイルされた子どもたちにとって渋谷が学園の代替物になっているらしいんです」的な、だからどうしたという結論を纏めた社会レポートにしか見えないのはそのためだ。

簡単に謂えば、取材的街区観をドラマへ活用する手法が愚直に過ぎるのである。取材的街区観からエクストラポレートした思弁がないし、それを素材と割り切る豊穣な物語的飛躍もない。思弁も飛躍もない街区観は退屈なレポート以上のものではないのだ。

オレは「Sh15uya 」の物語性を、白倉+田崎+米村という人材の組み合わせのネガティブフィードバックと視ているが、各自の才能のネガティブな側面の相乗効果によって、この物語は「だからどうした的社会レポート」という、作劇性の規範では積極的な批判に値しないがどうにも退屈窮まりない物語的骨格を具えるに至ったと視ている。

田崎と米村という何とも生真面目な才能の綜合を、白倉という観念性の突出した人材が補佐するという組み合わせの帰結としての、ある意味最もつまらない成果物がこの作品であると言えるだろう。この物語のおもしろみは、それが実際に多くのスタッフと俳優によって製作されたドラマであるという肉体性の部分に多くを負っている。

また、擬似世界物というジャンル自体が手垢にまみれた古臭いものであるという事情を差し引いても、そのジャンル固有の見せ場である擬似世界の外の世界の開示という後半のダイナミズムは、この擬似世界が事実として学園であることで去勢されていることも作劇的な問題点として指摘できるだろう。

なぜなら、学園というドラマ的孤立世界は必ずしも外部の世界を必要としない隔絶した物語空間だからである。もちろん、現代のアクチュアルな学園ドラマにおいて、外部の世界を描かないという選択肢は両刃の剣であり、金八先生シリーズなどは意図的に外部世界の過酷な現実のセンセーショナルな受け皿として学園空間を位置附けている。

外部世界の時代性のダイナミックなうねりが、学園という本来静謐な場に対して濃縮された影響を及ぼし、ショッキングな事態が招来される。金八という木訥な教育者がその外部社会と孤立世界の間に立って子どもたちを護るための苛烈な闘争を戦うというのがこのシリーズの劇的セオリーである。これはある意味では学園物ではなく、現代風俗を微視的な視点で描くための方便として学園という場が用いられているだけである。

対するに、たとえば「一騎当千」などを視れば、三国志演義の世界を現代に移し美少女格闘アニメとして描く際に、過剰な世界設定が作品の狙うヲタ的欲望に特化した物語世界の感興を阻まぬための方便として、学園空間の孤立性が機能している。

三国の英雄覇王が現代に転生し、学園同士が血腥い直接闘争によって覇を競うという荒唐無稽な物語を成立させるためには、本来は稠密な外部世界の設定・描写が必要なはずだが、学園という複数の点的小世界を描くだけで「美少女たちが肌も露わにフルコンタクトの格闘を演じる」という萌えとエロをフィーチャーするための必要最低限のアニメ的リアリティを具えた容れ物としての物語世界が成立する。

該作品がアニメとしてどの程度の完成度を具えているかはさておき、それが学園物である限り、必ずしも外部世界のアクチュアリティを描く必要はなくなるのである。金八先生シリーズのようなセンセーショナルな作品や、「うちの子にかぎって」のようなシニカルな作品に触発されて学園外の大人の現実を絡めて描く学園ドラマも増えたが、普通一般にオーセンティックな意味でイメージする学園ドラマの多くが、学園内の世界で完結していることは容易に納得していただけるだろう。

「Sh15uya 」の物語は、渋谷というアクチュアルな場に進出してバーチャル=リアルの対置構造を提示しながらも、それを直接的な意味で学園として扱うことで、孤立空間として完結させる方向性を選んでしまった。

「Sh15uya 」の物語的骨格は、ネタ元としてではなく動機面において「マトリックス」のヒットを背景に持っていると思うのだが、日本的文脈における特撮番組の亜種であるという個別事情のゆえに、マトリックス世界が具えているバーチャル=リアルの対置構造の全体を描くことができなかった。

東映ヒーロー物語の多くは、われわれ視聴者が生きるアクチュアルな現実とは隔絶した仮構性の高い作品世界の内部で完結する物語だからである。現実の渋谷を擬態する擬似世界であるシブヤのリアリティで、擬似世界外部の全体的世界に言及することは、従来の東映ヒーロー物語が捨象してきたアクチュアルな現実への本来的な意味における言及となるはずだが、結果としてこの作品ではその種のアクチュアリティへの言及は仄めかしのレベルで踏み止まられた。

さらに東映特撮的ヒーロー物語の延長上で学園物を描くという二重のジャンル性のゆえに、バーチャルの外部に拡がる全体的且つアクチュアルな社会性を描出する一歩手前で踏み止まらざるを得なかった。

このようなかたちで「Sh15uya 」がその寸前で踏み止まったアクチュアリティを身も蓋もないかたちで実現したのが「ギャルサー」であるとオレは視る。

「Sh15uya 」が道玄坂、文化村、東急ハンズ界隈というストリート単位でクラス分けを施していたのに対し、「ギャルサー」ではエンゼル・ハートというサークル内の白組と黒組という組分けで集団内部の階層をより直接的に提示する。そして、エンゼル・ハートの外部には渋谷の地元商店街というかたちで大人の世界が隣接しており、これが従来の学園物の文脈では、荒れた無法地帯としての学園と無気力教師という構造を投影したものとなっている。

そこに救世主としてのツヨシが現れるか、「型破りな新人教師」という類型が投影されたカウボーイが現れることで物語が転がり出す構造は共通しているが、擬似世界としてのシブヤには具体的なかたちで大人の世界が存在しない。リアルワールドと繋がる天上の飛行船から子どもたちを監視するケンゴと擬似世界に潜入したオオトモの二人だけが本当の意味での「大人」であり、他の大人たちは擬似世界のプログラムにすぎない。

これはつまり、子どもに対して正負の対照を持つ強い関心を抱く大人しかこの世界には存在しないということであり、従来の学園物の文脈における「子どもに無関心な大人としての無気力教師」という大人の世界が存在しないということである。

シブヤとは子どもの欲しいものが何でもあるおとぎの国であり、大人の世界に迷惑をかけないよう擬似世界で暴力衝動を思う存分発散することを強制される子どもたちの隔離病棟でもある。アサギの両親の記憶が封印されていることに象徴されるように、そこは大人の世界から完全に隔離された子どもだけの孤立世界である。

それゆえに、何度転生を繰り返しても子どもなりの智恵で独り連続的な動機や記憶を保持するツヨシは、好ましからざる異分子としてこの静謐な世界を掻き回す存在となるのだが、外部の世界との接点となる大人が圧政者としてのケンゴと理解者としてのオオトモに限定されるため、ツヨシの果敢な闘争は「大人への反抗」という、これまた古臭い性格を帯びてしまう。

視聴者が強い共感を持って見守ってきたツヨシとエマの世界を相手取る闘争が、最終的には「大人はわかってくれない」的な単純かつ幼稚な反抗に帰結した瞬間、大人の視聴者は大きな落胆を覚えるのである。

抑圧的な大人に反抗して自由を取り戻す、学園を破壊して飛び出して行くという、徹頭徹尾子ども視点のレボリューションが最終的な目標となるため、大人の視点から視れば何とも浅いテーマに見えて仕方がない。

シブヤの住人たちが、外部世界の文脈では「犯罪的傾向を持つ少年少女」という暴力的な存在と目されていることの意味附けが結局放棄されたままである以上、ツヨシの闘争で目指されている自由の意味もハッキリしない。ナイフを持った一七歳を抑え附けようとしても無駄なんだよ、というようなコトが言いたいのなら、んじゃあんたはそのような子どもたちに対して責任を持つ大人の一人として何を思弁したんだ、それは結局他人事なのかよ、という話になるだろう。

結果的に子どもの視点が強調されただけの話にしかならないし、子どもの未熟な感性に甘く響く「自由」という言葉をお題目に、どうでもいい大人と子どものすったもんだを描いただけなのかよ、という不満が残る。

現実に渋谷で根無し草のように彷徨している子どもたちに対して、大人の一人として自己責任で言及する覚悟がないのであれば、正直言って、窮めて軽薄な題材選択であるとしか思えない。それくらいなら、「“異色の学園モノ”ともいうべき痛快爆笑アクションコメディー」として卑俗な物語的感興と保守的な徳目表現に特化したベタなドラマを展開する「ギャルサー」のほうが百倍マシな姿勢である。

少なくとも、「ギャルサー」は渋谷と学園のアナロジーを目的的に表明するというつまらない愚は犯していない。あっさり冒頭の「説明」として流してヒネリのある学園物と割り切り、「クロコダイルダンディー」モドキの文化ギャップコメディーのテイストをコキ混ぜたベタベタの娯楽作として提示するだけのサービス精神がある。

まあ、これまでの論調でお察しの通り、オレは「ギャルサー」が無前提でよくできたドラマだとは思っていないし、ちょっとネイティブ・アメリカンの扱い方がジャングル黒べえスレスレだよなぁという不謹慎さが毎度引っ懸かるのだが、コンセプト的には悪くないし、おそらく「Sh15uya 」的な題材はこのように扱うのが本来だろうと思う。

今回の話なども、進之介の非常識をうまく使って引きの意外性を出しているし、うまくポトラッチをお説教の道具に使っている。サークルの連中の描き方も、先週は佐津川愛美を陰湿に苛めたり、今週は岩佐真悠子に濡れ衣を着せたり、けっこう身も蓋もなく悪く描いてはいるのだが、佐津川愛美が飛び降り自殺を図ったときや岩佐真悠子の復帰を巡るリアクションで、本質的には善良な連中であることを押さえている。この辺の、悪そうに見える少女をも、芯から底から悪い人間として描かない辺りが学園ドラマの呼吸なのである。

お世辞にも日テレが本腰を入れて数字をとりに行っている番組とは言えない穴埋め的な企画だとは思うが、オレ的には「Sh15uya 」よりは愉しく観させてもらっている。

下手に大上段に構えて社会性に言及しているポーズをとっているだけに、「Sh15uya 」の本質的な無内容さは、ネイティブ・アメリカンをスレスレで扱うことより罪が深いという気さえするからである。

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1972年7月19日生まれ。千葉県佐倉市出身の男性俳優、歌手。キューブ所属。血液型A型。身長180cm。雑誌メンズノンノがきっかけで芸能界デビュー、2005年12月27日に6歳年下の一般女性と結婚。現在ではドラマ「ギャルサー」などに出演している。... [続きを読む]

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