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2006年4月27日 (木曜日)

映画史と全体性

先日白倉Pが興味深い、だがちょっと引っ懸かりのあるエントリーをアップしてくれたおかげで、知的な野心をまだ諦めてはいなかった小僧っ子の頃のモチベーションが、ここのところ俄然沸々と蘇ってきた。

そこで、彼が挙げている「くだらない題名のついた座談会本」と思しき書籍を偶然オレも持っているのを幸い、この際読み返してみることにした。書名は挙げられていないが蓮實重彦と淀川長治の名前が併記されている書籍は調べた限り二冊しかないので、その二冊とも手元にあるから、まず間違いはないだろう。まあ、二冊ともくだらないといえばくだらない題名なので、どちらがそうなのかまではわからないが。

一応断っておくが、以前語った通りオレはニューアカ直撃世代ではありながら熱烈なハスミストだった過去はないので、以下の話では「説話論的磁場」だの「主題論的体系」だの「制度」だの「凡庸さ」だのといったクサいハスミタームはいっさい弄ばないから安心して読んでくれ。まあその分、蓮實重彦についての認識が甘いかもしれないが、基本的に蓮實重彦という個人には好感を持っているので、そこはご愛敬ということで。

さて、該書籍の内容自体についての逐次的言及は無意味なのでこの際避けて概観的な話に限るが、さすがに大部分のフィルムが消失していたり上映機会の少ないサイレント時代の話やトーキー初期の話をされても附いていけないのは当たり前で、今の若い読者がこれを読んで不勉強を恥じ入るには当たらないだろうと思う。

あの「何でも観ている」蓮實重彦ですら鑑賞体験の土俵では淀長さんには敵わないのだから、昨日今日人間になったばかりの若い衆が同じ基準で我が身を量るべき理由はないのではないかな。

対談相手の蓮實重彦や山田宏一を圧して淀長さんが独りで語り倒しているのは、彼が同時代性の最古層に属する時代の生き証人だからであって、これは座談会というより淀長さんに対する聴き取り的な性格が強い。日本一のインタビュアーを自称する蓮實重彦の面目躍如たるところで、蓮實・山田コンビが美味しい誘い水を向けてくれるからこそ淀長さんも自身の引き出しを総ざらえして語り倒す気になったのである。

そしてまず、何故淀長さんがほぼ廿世紀の大半をカバーする長い長い生涯の中で観た映画を残らず記憶しているのかといえば、淀長さんの世代にとって映画を個人所有する手段がそれしかなかったからである。自分の脳内に刻銘に記憶するか紙に記録するか、廿世紀の初頭にはそれしか映画という複雑な構造物の総体を「自分の物」にする手段がなかったのである。

白倉Pのブログには、淀長さんが「ジークフリード」のカット割りをすべて記憶していることに若い頃の彼が驚愕したという逸話が書かれているが、これを聞いて「何を今さら事新しく」と鼻でせせら笑う古狸のシネフィルも多いだろう。

だが、オレは餘りそれを嘲笑う気にはなれない。いっぱしに映画を観ているつもりの子どもがまず映画論壇という場の凄みにあらためて直面するのは、このように先人が映画を総体として隅々まで記憶していることに衝撃を受ける体験なのである。変な見栄を張らずにそのように正直に書いた白倉Pは、ある意味映画ファンとして悪くスレていないと思う……衒ってる割にはちょっとナイーブにすぎるとは思うが(笑)。

これが活字文芸だったら話は違ってくる。小説などを語る場面で、必要な個所を暗記することはそれほど難しくはないし、だいいち暗記するほど読み込まなくても小説を子細に論じることは可能である。手元に一冊対象書籍を置いて必要なときに必要な個所を検索して確認し、それに基づいて論旨を修正すればそれで済むからである。目の前に現物があり、そこには疑いようのないかたちで文字が書かれている。簡単な話である。

しかし、ホームビデオというメディアが登場する以前は、一連の映像の繋がりという情報量の多い表現形式で、しかも一定規模の施設における上映というかたちでしか鑑賞不能な映画という文芸作品を、活字文芸と同様な手軽さで語ることはできなかった。当該個所を確認するためには、映画館に赴いて最初から全編を通して観るしか方法はなかったのである。しかもそれが興業番組である以上、個々人が必要を感じたときに座右に置いて便利に参照するという利便性など望むべくもない話であった。

映画は長らく、たとえば活字文芸における書籍のように、パッケージとパーソナルな所有手段が等号で結ばれてはいなかった。八ミリフィルムというかたちで販売された作品もあるが、映写機器やプリントも高価だったし、何より一般に公開された映画すべてをそのようなかたちでライブラリ的に所有することなど、度外れの金持ちでもない限りほぼ不可能であった。

だとすれば、たとえば一介の貧乏映画青年が、パーソナルな参照手段のなかった時代に映画について深く突っ込んで論じるためにはどうすればいいのかと言えば、馬鹿正直に丸々記憶するしかなかったのだ。昔の映画愛好家は、映画を自分の物にするために、暗い映画館の中でカット割りをはじめとする映画のディテールをすべてメモするか、もしくは全部覚えるまで繰り返し観たのである。

もちろん映像的記憶力には個々人によって偏差があるし、誰もが当たり前のようにすべてを正確に記憶できていたとは言い難い。ときには、映画の細部がどのようであったかを巡ってシネフィル同士が激論を交わすという、今ではちょっと考えられない事態もしばしば起こった。この座談中でも、ときに淀長さんと二人の間で意見が喰い違う場面があったりするが、これは旧い映画を語る場合に附き物の論題だった。

だから、世に映画通と言われるほどの人は、皆必死で映画を記憶した。純粋に鑑賞するために観ると同時に、記憶するためにも観た。気に入った映画は何度も何度も覚え込むまで観た。記憶するということは、それを所有することでもあった。

またそれは、映画の技術的な側面まで深く突っ込んで論じるためには、そうするしかなかったからでもあり、映画という文芸を論じるためには技術的側面への言及が不可欠である以上、どんなに困難であろうともそれが必要十分条件だったのである。映画批評というフィールドが他の文芸に比べて妙に敷居が高く排他的であることには、そのような分野固有の事情もあったのである。

映画的記憶の喰い違いで激論を交わすのは、己の所有する記憶中の映画の正統性に纏わる問題だからであって、「間違うことだってあるんだから譲っとけばいいじゃん」というほど簡単な話ではないのである。しかも、そのような一面単純な事実関係の正誤の問題であるにも関わらず、歴史の古層に属する映画については、その単純な問題の黒白を決することすら簡単ではなかった。

今の人間が考えるように、「参照可能な客観的対象物」として映画がとらえられていたわけではないからである。それはたしかに、どこかに映画のプリント自体は保存されているのかもしれないが、そのアクセシビリティが厳しく制限されている以上、それは事実上共有的に参照できる客観的対象物ではなかったのである。

旧い素朴なスタイルの映画評論が「映画のディテールをそのまま詳しく伝えること」であるのは、映画が興行物である以上、観た人間が語り伝えないとその作品が滅びる可能性があるからである。モノマネを交えながら特定作品をただひたすら再現するマルセ太郎の芸があるが、今のように何でもビデオソフトが出る世の中になる以前は、そのようにして詳細に語り継がない限り、特定の作品はいずれ廃れて人々の記憶から消え去る運命にあった。人々の記憶から消えるということは、いかに現物としてマスタープリントが保存されていようとも、その映画が存在しなかったことになるのである。

映画評論家をはじめとする映画人はそのような語り部でもあったわけだが、その前提で誤った記憶を披露するということは、本人の信用性に関わる愚挙であり、映画の本質を損ねる非行でもあった。洋泉社系映画ムックのように、マイナーなジャンル作品の紹介において記憶ミスを誇張して意図的な戦略的表現として用いるという発想は、そのようなオーセンティックな映画評論の在り方に対するサブカル的カウンターなのである。

だが、オレたちの世代はすでに記憶することで映画を所有するという勤勉な非効率性を我慢しなくなった。「ぴあ」や「シティロード」などの成功により名画座番組情報網が完備され、レンタルビデオやセルビデオが登場したことで、映画は「いつでも好きなときに観られるもの」と考えられるようになった。

それがただの愚かな勘違いであったことは、景気の変動やお上の方針の都合で、版権の移動等の事情によって、いとも容易く闇に葬られる映像ソフトが頻出したことで暴露されたのだが、観てもいない作品についても、名画座で活発に回転しビデオソフトが存在する以上、「潜在的にいつでも観ることができるもの」という安易な認識が為されるようになった。

子どもの狭い了見の範疇では、観るべき意味のある「ほとんどの」映画は名画座の番組やビデオソフトというかたちで自由なアクセスが潜在的に可能なのであり、語り継がねば滅びてしまう、再評価を打ち上げマッスの関心を惹かねばただ観ることすら叶わないという切迫感などは忘れ去られた。

さらにまた皮肉なことに、淀長さんが映画館へ人を呼ぶために血肉を削って出演し続けたTVの映画放映が、お茶の間にいながらにして「映画を観た気にさせる」という負の影響を及ぼして、映画館の真剣勝負ですべてを記憶しなければ所有できないという緊張感を麻痺させた。お茶の間でながら見をするような映画の見方が一般に根附き、普通に映画を愉しんで観る人の大多数が、集中して映画を観なくなったのである。

だからオレたちの世代の映画ファンがすでに、淀長さんが大昔の映画のカット割りを刻銘に記憶していることに事新しく驚愕したりするのである。お茶の間でTVを観るような映画の見方に慣れた人間には、それがかつては普通の映画の見方であったという実感はなく、本職の傑出したスキルとか奇矯なマニア性としか映らなくなったのである。

餘り話題が脱線してもしょうがないから該書籍に話を戻すが、映画界の生き字引である淀長さんから敬意を持って貴重な証言を聞き取る「若い」二人の映画批評家というこの座談会本の構図、さらにはそれを読んだ当時の若者であるオレたちと今現在の若い世代というメタ的構図には、映画史の全体性に対するスタートラインの相違という絶対的な立ち位置の相違が顕れているといえるだろう。

この書籍は八十年代後半に刊行されているが、淀長さんと蓮實・山田コンビ、そしてオレたちの世代、さらには今の若者たちの間には、ざっと四半世紀ずつの世代の開きがある。廿世紀をほぼ四分割したかたちになるのだから、親、子、孫、曾孫的な垂直的世代格差がある。

今の若者たちにとっては、淀長さんは曾祖父の世代に属するのであるが、映画という比較的若い芸術形式は、それでも淀長さんより若干年嵩の芸術ジャンルである。当たり前のことだが、淀長さんが稚ない頃に親しんだ活動写真の監督やスタアたちは彼の親や祖父母の世代に属する人間たちなのだし、当時の映画観客層とは、マセた映画少年だった淀川少年よりさらに上の世代の大人たちである。

これも当然のことではあるが、明治大正期の活字文芸作品にはすでに活動写真に対する言及があり、批評論壇も成立していたわけだから、映画に関する言説という意味では淀長さんはその人的連なりの嚆矢ということにはならない。だが、淀長さんは劇映画史の最初期から生き続けたわれわれの同時代人であり、そこにこそ得難い値打ちがあるのである。

劇映画史の最初の最初からの記憶を個人の体験として蓄積し、蓮實重彦や山田宏一のような有情の聞き手が質問すれば活き活きとした対話において答えてくれること、これが値打ちなのである。ともすれば、人々の記憶の消失、それどころかマスタープリントの消失によって「存在しなかったこと」にされがちな劇映画の原点を、個人の体験として語る人が同時代に生き残っていたということ、これが価値なのである。

それは引いてはこの座談会本の値打ちでもあって、蓮實・山田コンビは証言者としての淀長さんの価値を最も知悉している聞き手であり、痒いところに手が届くように淀長さんの個人体験を引き出していく。ある意味、消え去ろうとしていた本邦劇映画史の最古層を発掘する蓮實重彦と山田宏一の仕事が個人の滅びに先駆けて間に合ったのは、すべての映画人にとって幸運な偶然である。

ここでちょっと黎明期の映画史をお浚いすると、エディソンによる覗き見方式の動画キネトスコープの発明が一八九一年、リュミエール兄弟による上映方式の動画シネマトグラフの発明が一八九四年、同兄弟による有名な「汽車の到着」の上映が一八九五年の出来事であるが、シネマトグラフの本邦到来はその翌年、本邦における映画興行の嚆矢とされる上映がその翌々年、国産劇映画の初上映が一八九九年というかなり短時日の出来事である。

イタリア映画の超大作「カビリア」は一九一四年、米国初の超大作とされるD・W・グリフィスの「国民の創世」が一九一五年であるから、エディソンの発明からグリフィスの時代までが実に四半世紀足らずの出来事である。シネマトグラフが最初に上映されたとき、その演し物が「汽車が駅舎に到着する」「工場から工員が出てくる」というただそれだけの光景を映した見せ物であったことを思えば、驚異的な進歩である。

一九〇九年生の淀長さんの映画語りもおよそこのグリフィスの時代から説き起こされているので、彼は劇映画が本格的な芸術形式として歩みを始めてからのすべての歴史をつぶさに視てきたことになる。

幼年期の多感な時期にこの新形式の芸術に触れその後の生涯を決定するほどに魅せられた淀川少年にとって、劇映画史とは自分史とイコールだったのだろう。辛くも今の若者にとっても同時代人であり得た淀川長治という人にとっては、劇映画史の全体を一個人の体験としてその脳内にすべて記憶することが可能であった。

該書籍で頻出する淀長さんの言葉は「長生きしてよかった」というものであって、蓮實重彦という端倪すべからざる後輩に対して、稚気に紛らわせてはいるが神戸知識人的なイケズなライバル意識のようなものが剥き出しになっているのがおもしろい。

精力的に映画史の淵源に遡って鑑賞体験を補完し、それこそ息をするように膨大な映画を観ながら挑発的な批評活動を展開している蓮實重彦に対して、淀長さんが決定的に優越しているのが、ほぼすべての映画史を自分史としてリアルタイムで体験し、刻銘に記憶しているという事実なのである。

神戸の色町に生を享け、学問らしい学問もせずに一生を映画に捧げた淀長さんには、赫燿たる出自と知力を誇る蓮實の学識と年少ながら侮れない該博な映画知識に対して可愛らしい僻みがあるように感じるが、どっこい映画と共に歩んだ生き方は負けないよという自負がこの「長生きはするもんだ」という言葉に顕れている。

淀長さんが怠惰な映画鑑賞者ではない以上、蓮實重彦よりも四半世紀もの時間を先行して生きているのだから、同じような勤勉さで映画を見続けているならどうしたって蓮實重彦よりも数多くの映画を体験しているのである。この格差は絶対に埋まらない。

おそらく、蓮實重彦の世代が淀川長治の世代に何とか追い着くのがギリギリのラインなのであって、淀長さんに五〇年の後れをとるオレたちの世代は、淀長さんは疎か蓮實重彦の素養の域にまで到達することすら絶対的に不可能である。何せ蓮實重彦は、多いときには日に三本も映画を観ていた時期があるくらいの窮め附けのシネフィルであり、彼の個人的な鑑賞歴は、人が社会生活を営みながら生涯に観ることが可能な映画の量的な限界値を示していると言えるだろうからである。

人生は有限の器でしかないのであるが、映画は日々生産され続けているのである。蓮實重彦と同じくらいのペースで映画を観ると仮定しても、映画史の全体性という観点では年寄りには絶対的に敵わないのである。

劇映画の黎明から五〇年の後れをとる時代人が、日々生産され続けるリアルタイムの映画に関わり続けながら五〇年分のライブラリストックを素養としてすべて消化することなどまずもって不可能なのである。すでに蓮實重彦の時代には、それは至難の業であったことだろう。まして、今現在の若者は淀長さんに後れること七五年であり、これはもう絶対に追い着くことなど不可能である。

しかし、そもそも淀長さんや蓮實重彦が観た映画を全部観なければいけないのかといえば、当然そんなことはないのである。たとえば淀長さんと同じく九〇年生きると仮定しても、どんなに頑張っても九〇年分の映画しか観られないのは当たり前だ。今現在二〇歳の人間にはこの先七〇年分の映画を観るという未来が待っているのであるから、生まれる前の七〇年分の映画など、どう無理しても人の一生という器には詰め込みようがないのである。

単純に考えれば倍になるだけだが、日本有数のシネフィルが人生を捧げて見続けた本数の倍の映画など、怠惰な生活人に観られるわけがない。

これまでたまたま劇映画史の歴史が人の一生に近似した長さであったがゆえに、何となく頑張って無理をすれば映画史の総体を「勉強」として追体験できるような錯覚に陥っていたが、ちょっと考えてみれば、もうオレたちの世代ですでにそんな錯覚は破綻しているのである。映画史は、すでに人間の一生分の長さを超え脈々と歩みを続けているのであり、現在の若者にとってその発祥は歴史的記録の彼方に属する事件なのである。

人間の生きられる長さを超えて延命した知の領域は、一個人の体験という個的な容れ物ではカバーできないヴォリュームを具えるに至り、歴史としての体系を具える。

歴史であり体系であるなら、先達と同じように同じものをすべて体験しなければ一人前ではないという誤解など生じようもない。淀長さんが九〇年近い時間の裡に体験した映画人生は、その後の世代には真似しようもない一回性の強い生き方である。

ある領域の誕生から体系の成立する契機までを見届けられたということ、これは淀長さんの世代が長生きしたからこそできたことである。彼に四半世紀後れた蓮實重彦の世代が必死にそれを追体験しようとしたことに無理はないが、少なくとも半世紀後れたオレたち以降の世代にはそれは許されていない。映画黎明期から半世紀に亘り生み出され続けた諸作品は、映画史という歴史観をインデックスにしなければ触れることができない時間的領域に属している。

以前語ったように、オレが二十代の若造であった時分には、蓮實センセイから「年に一〇〇本小屋で映画を観ろ」と申し附けられたが、その時点で蓮實センセイの個人的体験としての映画史を共有することなど不可能だったのである。

蓮實センセイは、映画史がすでに個人の体験を超えるマッスを具え始めたという当たり前の事実を認識していたはずである。蓮實センセイの個人的体験として映画史の全体を能う限り体験していたとしても、彼が教える学生たちにはすでに不可能であることなど十分承知していたことだろう。

ではなぜ蓮實センセイは学生たちに尤もらしいノルマを課して大量の(まあ年一〇〇本が大量だという基準で)映画を観させたのだろうか。

試みにネットを検索したら、オレが蓮實センセイの講義を聴講したまさにその当時の資料が出てきたのでここに転載する。ここにはおそらく、歴史性と全体性に関する蓮實重彦流の答えがある。

−世界の映画・日本の映画−
 国籍や製作年度、ジャンル等にとらわれずあらゆる種類の映画を現在の
 体験としてとらえながら、「フィルム体験」とは何かを考える。教室で
 指定する作品を必ず見ること、そして1年に最低百本の映画を見る潜在的
 可能性を自覚すること、それがこの授業に出席しえる条件である。
                (1982年度の一般教育課程履修要項より)

「現在の体験としてとらえながら」「フィルム体験とは何かを考える」という一連の言葉に、この講義のスタンスが、引いては蓮實講師が学生たちを教育するスタンスが見えてくるだろう。「この授業に出席しえる条件」については二つともオレは守れなかったが(笑)、「潜在的可能性を自覚する」とはなかなか意味深長な言い回しである。

「一年最低一〇〇本」、すなわち週に二本以上の映画を観ることが「潜在的可能性」であり、それを「自覚」せよということは、「フィルム体験」というタームを前提にするなら、やはり一から映画史を網羅的に追体験し個人的体験として歴史の総体を我が物とせよと言っているわけではない。

週に最低二本のフィルム体験をする潜在的可能性とは、「浴びるように映画を観る」というシネフィルの文脈においてはじめて意味を持つ。古典も最新作も鑑賞者の視点における「現在の体験」であるのなら、フィルム体験においてはすべてが均しく歴史性から解き放たれた現在の体験として鑑賞者の前に現前するのであり、一本の映画がもたらすフィルム体験は、一年間に観られた他の九九本の映画と、同じ現在において有機的な対話を始めるはずである。そのような浴びるように映画を観る行為が素養として意味があるとすれば、一種の間テクスト性についての気附きの問題になるのだろう。

簡単に言えば、現代のすべての映画はすでに語られた古典的作品からの引用のモザイクであり、一本の映画は孤立した点ではなくそのような淵源を持つ錯綜した文脈の重なり合いであるという事実に気附きなさいよということである。

蓮實センセイは、自らが追体験したような映画史の全体性について、学生たちが絶対的に「間に合わない」ことは承知していたのである。ただ浴びるように映画を観る体験においてのみ、映画というフィルム体験の間テクスト性を体感できるのであり、その引用のモザイクに注釈し、複雑な相互関係に「たとえば」と道筋を附けてみせることが映画を通じた文芸教育であると認識していたのである。

これは奇矯な思想でも難解な教えでも何でもない、文芸教育の本道である。蓮實重彦という教育者は、映画という芸術形式がある複雑な体系となる契機を予感し、非常にまっとうな文芸教育の復権を目論んだのである。その意味で、戦略的な挑発を常套とした批評家としての蓮實重彦より教育家としての蓮實講師はわかりやすく良識的である。

たとえばSF映画を好む者、たとえば恋愛映画を好む者、たとえば文芸大作の、たとえばサンダル物の、たとえば時代劇の、たとえば黒澤の、小津の、溝口の映画を好む者、どこが中心でも構わない。

どんな映画を好むにせよ、そこを中心として全体性を眺望する視点がなければどんな映画を語ることもできないということだ。それは、人生の一時期でもいいから「浴びるように映画を観る」体験を喫することでしか得られない視点である。

映画という「若い」芸術の形式においては、一本の映画には必ず数十万本の映画の具体的な総体に回帰しようとする全体性への契機が痕跡的に残存するのであり、活字文芸のように歴史に名を刻む価値のある古典的名作「以外の」雑多な同時代的諸作が時の淘汰によって喪われてはいない。映画という史的体系は、ギリギリ全体性が具体物として包括的に保存されており、特定の作品に顕れている任意の文脈を淵源まで具体的に跡附けることが可能な珍しい文芸ジャンルなのである。

これは非常にまっとうな文芸観である。濫読を通じて読みの手筋を身に着けさせる文芸教育の筋道を、映画という複雑な構造体について適用してみせたまっとうな文芸教育の思想である。映画史というのは、個人の全体的体験であることを超え、読みの手筋の確立を通じた個人の史観に委ねられることになったのである。

個人の体験の限界を超えたところに生起する映画の史学においては、やはり読みの手筋が必須となるのである。現在京橋のフィルムセンターには約四〇〇〇〇本の映画フィルムが所蔵されているそうだが、同センターで保存する価値のある作品だけに限っても、日に三本というマックスの蓮實ペースを常態と換算してすべて観るのに丸々四〇年かかるのである。

個人が映画史を全体において体験しようという試みは、今や不可能なのである。淀長さんが生涯をかけて体験し得た映画史は九〇年分のそれで「しか」なかった。蓮實重彦も同じくらい長生きするとして、あと二〇年分の歴史で「しか」なく、その先も連綿と続くであろう未来の映画史など、彼らにとって識ったことではない。それを生きるのはオレや今の若い世代なのである。

淀長さんや蓮實重彦が恵まれていたのは、何とか頑張って無理をすれば映画史を具体的な全体として個人が体験可能だった時期に生まれたことである。これはもう、個々人の生が運命附けられた時代性の恩恵という他はない。

さらには、今は昔のように米英仏伊西辺りの映画先進国と国内の作品にだけ目を配っていればいいという状況ではない。中華圏、インド、タイ、シンガポールというアジアの映画大国に限っても膨大な作品ストックがあり、さらにはポーランドにワイダ、ギリシアにアンゲロプーロス、イランにキアロスタミしか観るべき映画がないなどという馬鹿なこともない。

世界の諸国にはとっくの昔に個人の生涯を超えた映画史の総体が存在するのである。

淀長さんが劇映画史全体の生き証人であるというのは、淀長さんの生きた時代性の文脈においてのみ成立する概念である。すでに今現在の視野においては、淀長さんや蓮實重彦の個人体験は、淀長的史観、蓮實重彦的史観における個別の映画史と意味附けられているのである。

映画がアメリカと欧州という主要なエリアと「それ以外」という割り切り方が為されていた時代から、世界各地の国々固有のエスニシティの表象として意識される時代に遷移することによって、映画史は活字文芸と同様の読みの手筋が要求される、個人を超越した体系であることを露わにしたのである。

すでに「すべての映画」という言葉の個人体験的な実効性が解体されたのだから、網羅的に「すべての映画」を鑑賞することは不可能なのである。淀川長治という概念も蓮實重彦という概念も、もう新たに現れることはないだろう。これらの映画史の巨人たちと同じような種類の網羅的な鑑賞者は、新しい世代には生まれない。すべての活字文芸を網羅的に体験している文学者などというものが存在し得ないのと同じことである。

それならば、これから自身の映画史を確立しようとする若い世代の人々は何を己の手筋の基礎として拠り所にすべきなのだろうか。間テクスト性への気附きの契機としての濫読的鑑賞から活字文芸の場合のような読みの手筋が本当に生起するのか。すべての映画の基礎として、やはり押さえるべき共有された史的基礎というものが存在するのではないだろうか。

これは蓮實重彦的思想に毒された単純な断定だが、ヌーベルバーグの時代が一つの画期となるのだろうというふうにオレは考える。「語られるべきすべての映画はすでに語られている」とする彼らの主張に拠るなら、「それ以前」の映画は語られるべき価値があるのである。

学の基礎として何かを網羅的に観るのであれば、ヌーベルバーグ以前の古典的名作とされる諸作品は人生の一時期を捧げても可能な限り観ておくべきなのであり、それ以外はつまみ喰い鑑賞でも濫読的鑑賞でもかまわないのである。

そして、個人の体験としての映画史とは全体性への契機を含みつつそこから現在までを結ぶ線でしかあり得ないのであり、「それ以外」の総体についてはあえて捨象せざるを得ないと同時に、その線上においてしか識った風な口を利いてはいけないのである。

かつて蓮實重彦は「グリフィスもドライヤーも識らない連中がやたらと映画に口出しするな」と挑発的に言い放った。今や「すべての映画」を観ることなど叶わないオレたちが映画を語る場面において恥知らずでない態度とは、何かを語る際に何が必要であるかを見極めることであり、その対象が場を占める点に繋がるアメーバ的な線を可能な限り跡附ける誠意だろう。

そう、蓮實センセイは言っているんだよ、何かを語る場面で重要なのは、点的な特定対象自体ではなく、そこへと続く重層的な文脈であり歴史的に共有されている意味性なんだということを。「映画を観ることは画面を視ることだ」と断じた言葉を額面通り馬鹿正直に受け取ってはいけないだろう。説話がどうしたとか主題がどうしたというタームの発明は「テーマ」と「意味性」を混同されないための戦略的レトリックだ。

本書を今の目で読み返してみて、そこで論じられている諸作品のほとんどが馴染みのないものであることそれ自体に対して、オレはかつてほど引け目を感じなかった。それはオレが知的な野心を諦めたくたびれたオッサンだからでもあるが、最早誰も追い着けない膨大な鑑賞体系を背景に「グリフィスやドライヤーを観よ」と挑発する蓮實センセイの苦言に、彼ほど求道的でない怠惰な生活人としてどう対処すべきなのか、何となくコツをつかんだような驕りがあるからだ。

精力的に小屋に足を運び「浴びるように映画を観る」ことは、盲目的な若さの情熱でもない限り普通一般の生活者には難しい。しかし、今の時代の生活者は労せずして浴びるように映像作品に触れているはずである。今オレたちが接しているトクサツであれTVドラマであれアニメであれ、それは必ずすべての映像文芸の母である映画という豊穣な全体性への契機を含んでいるはずなのである。

これはトクサツだから、これはTVドラマだから、これはアニメだから、という留保などつくり手にも受け手にも許されていないはずである。語られるべき映画はすでに語られているのであり、すべてのメディアにおける映像文芸は映画のローカリティにすぎないのだから、浴びるように映画を観るように浴びるようにTV番組やドラマを観ることは何ら愧るべきではない。蓮實センセイには申し訳ないが、オレは小屋で映画を観るのに向いていない体質なのだから、その事実オリジンで物を考えざるを得ない。

いかに怠惰な鑑賞姿勢であると詰られようと、自室で他のいっさいの雑事に煩わされることなく集中して何度でも観られて、気になった個所はいつでも確認可能な映像作品こそがオレにとっての「映画」なのである。そこが小屋であるのか、それが劇場公開作品であるのかというのはさほど問題にならないとオレは考える。それは蓮實重彦の問題ではあってもオレの問題ではない。

かつては「自宅のTVは押し入れに置いてある」と、その論理自体が落語的に転倒しているアカラサマに戦略的な逆説を弄した蓮實重彦も、今は奥さんと仲良くビデオで映画を観ることがあるらしいし、今やTVモニターを前提とした映像作品の鑑賞は、何ら批判に値しないだろう。TVモニター前提という流通の単位で作品を区切ることも、映画史という体系に対面する有効な身の処し方だろう。

問題は対象の在り方やTPOではなく、それらの作品を体験する個別の鑑賞者の態度であり、個別の作品が持つ全体性への契機を切り捨てる鈍感さである。

非常に卑近な例で言えば、あたかもエヴァンゲリオン以前にはSFアニメなど存在しなかったかのような態度、エヴァンゲリオンという作品の意匠が先行するさまざまな文芸的要素のモザイクであることを無視する姿勢こそが問題である。個別の作品が重層的に錯綜する読みの手筋の「とある」結節点であるという当たり前の文芸の読み方を一向に学ぼうとしない態度こそが問題なのである。

たとえば平成ライダーを論ずる場面で、あたかもそれがグリフィスにもドライヤーにもまったく無関係に木の股からいきなり誕生したのだと考える無自覚こそが問題なのだと考える。これは別段、平成ライダーとグリフィス作品の直接的関係性について考察すべきだという意味ではなく、平成ライダーには他の何ものとも無関係な完全に独自の劇的力学が働くとでも言いたげな評言に逢うとウンザリするということである。

エヴァンゲリオンであれ平成ライダーであれ、それが映像作品である以上、トクサツやアニメという形式に纏わる固有事情、TV番組であるというパッケージに纏わる固有事情は、すべて映画という母型に附されたローカリティにすぎないのだ。それが形式が異なるだけで「映画という全体的な何ものか」の「とある」現前のかたちなのであるという認識もなく、その形式固有のローカリティに対する考察すら抜きに為される乱暴な批評にはまったく説得力を感じない。

手筋という文脈上においては、何をどのように区切ろうとも個人の自由だが、点を点としてその孤立した範囲においてのみ語ろうとする態度は、鈍感の謗りを免れまい。

該書籍を読み返して、久しぶりに「映画史」などというご大層な概念を考え、「映画を語るための素養として何が必要なのか」ということを考えた結果、このような割と当たり前の結論に落ち着いたわけである。トクサツだってドラマだってアニメだって、映画の古典を体系的にちゃんと観ないと語れないよな、という(笑)。

直接関係のない話だが、昔オレが蓮實重彦の初期の映画論をちょこっと読んだら、蓮實一流の逆説的論理に満ちた作品評が長々と書いてあって、結句には必ず「このようにこの作品を視ない観客は馬鹿だ、愚鈍だ」と書かれていた。

当時はそのような個別性の高い特定の論旨を構築した後に「それ以外のいっさい」の意見を否定する論調に反撥を感じたものだが、今考えると「ハスミに馬鹿だと言われない見方」をしようとすること自体が馬鹿なのである。それ以前に蓮實重彦は、映画とは馬鹿としてしか言及できない対象であるというようなことを用心深く言っているのだ。

ハスミという偉い先生がいて、その先生に心服する以上、その先生に褒められるような映画の見方をしようとすること自体が大馬鹿なのである。蓮實門下生やシンパの連中のその後の仕事に対して蓮實センセイは割と臆面もなく言及しているが、おおむね、蓮實映画論を意識してそれに忠実につくられた作品より、蓮實映画論にイヤガラセをするような挑発的な作品を高く評価している。

要するに、蓮實センセイは自説「以外」の考え方を否定していたのではなく、「オレの意見に従わない奴は馬鹿だ」と言われて素直に従っちゃう奴こそが馬鹿だと思っていたのであって、そんな馬鹿にどのように物事を考えるべきかを親切に教えるつもりなどハナからなかったのである。東大総長以前の蓮實重彦が駆使していた刺激的なロジックがいかに魅力的でも、それを読んでその通りに映画を観る奴は馬鹿なのである

そういう意味では、やっぱり蓮實重彦が本質的に優れていたのは、教育家としての一面だったのではないかとオレなんかは考えるわけである。浴びるほど映画を観ていたのは本人の勝手だし、特定時代の特定作家を戦略的に評価するのは、あらためて注意喚起が必要な個別の研究領域だからであり、かくあるべし的なシネフィルの姿や見方を後人に示す腹などなかったのである。

現代の映画を観るための「お勉強」として古典を観るなら、映画という文脈上において初めての表現的発意が生まれた諸作品を普通に調べて身体を使って精力的に観ればそれでいいのである。そのためのヒントを蓮實重彦は、古典的作家の再評価・発掘などの仕事を通じて豊富に残してくれている。その「お勉強」を前提にしてどのように映画を観るかなど、個々人がそれぞれ考えればいいのである。

蓮實重彦を語る際の常套句である挑発的かつ戦略的なレトリックを離れた個人の肉体性の次元における映画観など、ハッキリ言って、親しみやすい見識主義映画観の淀長さんの体質とあまり変わらないのである。あれは好き、これはダメ、この役者は好き、この演技はダメ、この監督は巧い、この監督はヘボ、このお話は怖い、このお話は無茶、おおむねそんなもんである。

個人の鑑賞体験としての映画の見方なんて、きちんとした基礎的「お勉強」さえできていれば見識主義映画観でいいのである。構造主義批評もポスト構造主義批評も、エクリチュールとしてしか成立しないテクストだと自分から言ってるんだから、映画を観た時点ではそんな意味性は存在しないのである。だから、映画を鑑賞する行為と映画に纏わる批評コミュニケーションというのは一応別ものなんだよということだ。

というわけで、いい加減長くなりすぎたのでこの辺にしておくが、今回のエントリーにおけるオレの結論というのは、学生時代、映画表現論講座を落ちこぼれたおかげで熱狂的なハスミストにならなくて良かったなぁということにしておこう(笑)。

いや、多分そのままのめり込んでたら、今よりもっと馬鹿になってたから。

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