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2006年5月16日 (火曜日)

仮面ライダーカブト 16

一応、これだけ大量に田崎竜太を語ったのだから、井上敏樹を語り落とすのも不公平だろうということで、取って附けたように久々のカブトの話題だが、正直言って今回のエピソードに言及することに気乗りがしないのはたしかである。

前回カブトに初参入した井上脚本を論じた際は、たとえばクウガに参入した際の井上敏樹の延長上の文脈で語ったのだが、今回の脚本はそれこそ響鬼後半を担当した際の井上敏樹を思わせる。つまり、これだけは玄人の仁義として井上敏樹にあると信じた他人の作物に対する敬意が、今回はまったく視られなかったのである。

勿論、響鬼後半に関してはすでにそれは「他人の作物」ではあり得ない。高寺更迭後の響鬼の世界を語っていくのは前半とはまったく別の語り手なのであり、作品全体の細かいニュアンスを持続的に保持する立場である統括者自身が交替させられたのだから、実質的に響鬼後半は、白倉・井上ライン個別の作物なのである。

これに似たケースとしては、坂口安吾の未完の長編推理小説「復員殺人事件」の後半を高木彬光が引き継いだ「樹のごときもの歩く(現在「復員殺人事件」で統一)」が挙げられるだろう。

この作品を語るには、ある作家の作物を別人が補完して完結させたという見方をするよりも、同一の素材と骨格を用いた小説を途中で別の作家が語り直した場合のケーススタディと視たほうが興味深いし、作品という現テクストの実態に迫るためにも適切な視点だろうと思う。いわば、一種特別な事情に基づく連作小説と視たほうが批評的に穣りが多いのである。

実際、無頼派坂口安吾のパキパキした文体と大時代な粘っこさを持つ高木彬光の文体に共通点はなく、さらに作品が別人によって書き継がれた理由は当人の急逝という特殊な事情によるもので、作家同士の間には構想上の連絡がほぼなかった。高木彬光は安吾の死後、既存のテクストを彼なりに読み解いて解決編を構想したのであって、書き継いだというより、死者からの挑戦を受けて別の作家が死者に擬して推理を披露したというかたちに近い。

まあこれが何故響鬼後半のアナロジーになるのかは重ねて説明しないが(笑)、響鬼後半の個別事情としては、新たな書き手に既存のテクストの文体を擬する意志がなかったということが挙げられるだろう。実質的に語り手が全面交替したのだから、先行テクストの文体を意図的に擬態するという体裁を繕うことは一切せず、新たな書き手の文体を印象的に強調するかたちで、向後まったく別の文体によってこの作品が語られていくことを明示していた。

今回のカブトの話題に戻ると、前回の井上脚本について語ったような他人の作物や文体に対する配慮というものがまったく視られず、井上敏樹という書き手本来の芸風で一貫されているのが非常に気になる。前回の脚本と今回の脚本を比較すると、さながら一種のパロディのようにすら感じられる。

第一一話の脚本に視られたような井上敏樹固有の芸風と既存のカブト世界の語り口とのすり合わせが今回はまったく視られず、たとえば今回も採用されているワームの擬態を巡るミステリー的課題設定の扱いには、第一一話で評価したような細かい気遣いが一切ない。

具体的なツッコミはすでに散々ネットで言及されているが、第一五話の時点では加賀美と岬の個人行動ということだからまだしも、今回に至ってシャドウの組織的な監視下に置かれた容疑者に何故サーモグラフ識別法を用いなかったのか、何故医療技術すら擬態できるワームが手術前の儀式という第三者が関与する習慣の記憶を擬態できなかったのかという、ミステリー的な語り口がかなり杜撰である。

オレとしては、初期の段階で体温による識別法が登場したのは設定面の失敗だったと思うのだが、サーモグラフ識別法の登場によってワームの擬態の象徴的な意義が安っぽくなった側面は否めないと思うし、そもそもハイテク機器によって客観的に識別できるのであれば、ワームの擬態を巡るミステリーを主要な課題としてエピソードを構築することが難しくなってしまう。

その点、第一一話は加賀美の私生活上の一事件にワームの擬態が絡み、しかもそれが屋形船という特殊な孤立状況と設定されていることによって、一種「雪の山荘物」のようにハイテクが捜査上の決め手にならないミステリー的舞台設定が成立していた。さらには、その真相開示の手順として「ワームの擬態を見破る形質的な決め手はない」という基本概念がきっちり踏襲されていた。

ところが、今回の脚本では第一一話で払われたこの二点の配慮が綺麗サッパリ忘れ去られており、シャドウが組織ぐるみで監視を続ける対象ならばハイテク機器による識別が可能となるし、クライマックスで天道がワームの擬態を見破るという、これまでのカブト世界からの連続上のワーム観で視るなら、あってはならない展開によって決着が附けられている。

要するに、天道総司のワーム観というのは「擬態を見破ることは不可能」であるというものであって、これまでの天道のやり方は単純明解に「ワームの擬態と疑われる二人の人物を直接対面させる」というもので、ワームが本物に襲い掛かったところを間一髪で阻止することができるという絶対の自信の上に成り立った図太い戦略である。

ところが、今回の擬態に関しては「ワームの擬態と疑われる人物同士が対面しても何事も起こらない」「同じ人物が二人存在しているのに、同時に別の場所にもワームが出現する」という状況設定が新しいわけだが、その真相が「ワームとの契約」であるというのは、状況提示の段階でおおむね察しが附く。これだけならオレは別段おかしいとは思わない。

これまでのエピソードでは、ワームは本物とかち合った瞬間に芸もなく殺しにかかって天道に阻止されてきたわけだが、今回はそのルーティンを逆手にとって、一定の契約に基づいてワームと人間が仲良く屋台でおでんをつつき安酒を煽るという絵面のおもしろみを提示すること自体は、井上脚本の芸として十分許容範囲だろう。

問題は、その状況を成立させるために最低限の設定面における整合を図る手間を省いたことにあるのである。すでにそれ以前の段階でカブト世界の主要なエピソード主題ではなくなっていた「擬態」を再度採り上げ、細かい配慮に基づいて犯人当て的な課題設定を構築してみせた第一一話の井上脚本の芸は評価できたが、今回凝りもせずに同じようなミステリー的課題で視聴者の興味を引っ張るやり方は杜撰の一言である。

モロ師岡の医師を巡るコミカルなシチュエーション自体は犯人当て的な課題設定の形式を採る必要がまったくなく、最初の最初からネタを割って「何故かワームと人間が仲良くしている」という異常な状況の提示というかたちで扱えば、ミステリー的な課題としても何の問題もなかったはずである。

すでに設定上サーモグラフ識別法が確立されているのだから、組織的な監視下に置かれた瞬間に「どちらが擬態であるのか」という謎の設定など無効化される。実際、今回のエピソードは、どちらが擬態であるかが分明な状況でも十分成立したはずである。擬態と人間が対面しても何事も起こらない、どんどんワームの擬態が増える、という状況自体が十分異常であって、組織的な継続監視に値する関心事となり得るからである。

無論、視聴者に対してどちらが擬態であるかが伏せられていることではじめて生じるおかしみというものもあるのだし、設定を無視してそちらの興趣を優先するという作劇法もあり得るだろうが、これをゲストライターが独断で判断するというのは筋が違うのではないかと感じるのである。

このエピソードでは、サーモグラフ識別法という初期に確立された設定がなかったことにされている。さらには、ワームの擬態が形質的な面からは絶対識別できないという非常に重要な意味附けも無視されている。つまり、ワームの擬態を劇中で扱う際に重要となる決め事が便利に無視されているのである。

たしかにサーモグラフ識別法を早々に設定したのは失敗だと思うが、それをゲストライターの担当エピソードでなかったことにするのは、メインライターの過去の仕事に対する考課的言及となるわけで、仁義の面で如何なものかと思う。そのような設定返しがあり得るとしたら、メインライターのエピソードで行うべきだろう。

これはただの憶測になるが、おそらく几帳面な米村正二の芸風なら、ワームの種族的な進化によって表面的な体温の調節が可能となり、サーモグラフ識別法が無効になるというようなSF的なネタを設けて設定返しを処理していただろう。その機会をメインライターに与えることなく、ゲストライターが勝手に無視するというのは、どう贔屓目に視ても許容範囲を超えている。

さらに擬態そのものの定義附けの厳密性を個別のエピソードの都合で恣意的に敷居を下げるというのは、一人の書き手として褒められた仕事ぶりではない。

これによって、ワームの擬態の厳密性に基づいて生じた第四話の物語的な感興が遡って貶められてしまうわけだし、井上と米村の個人的な関係がどのようなものであるかは識らないが、ゲストライターの粗雑な作劇がメインライターの過去の仕事を貶めるということに配慮がない書き手ではないという、井上敏樹という職業人の倫理観に対する信頼が薄れてしまったことは否めない。

それは、響鬼後半のように完全に井上敏樹にバトンが手渡された作品をどのように語るのも新たな書き手の自由である。そもそも井上敏樹はきだつよしや大石真司のゴーストではないのだし、井上敏樹が全面的に書き継がざるを得ない現実的な事情が出来した以上、井上敏樹が井上ノリを後半の基調に据えることには十分な正当性があった。

前半響鬼が、実態において高寺Pの執拗な容喙に基づいて文体の統一が為されていたと判断することには印象証拠があるのだし、その高寺Pが現場に存在しない以上、後任者の白倉Pが書き手として信頼する井上敏樹にフリーハンドを与えたなら、それを職業上の筋論的な側面から批判することはできない。高寺Pが存在しないのに高寺Pの語りの上での肉体性である文体を継承することは原理的に不可能だからである。

しかし、今回のエピソードはそれとはまったく事情が異なる。白倉Pは健在で相変わらず同一の視点でシリーズを統括しているのだし、米村がメインライターを外れたという話もとくには聞かれない。あり得るとすればそれは将来のエピソードにおいての話になるだろうが、オレがこの時点でそれを判断するのは風説の流布に当たるだろう。

そのようにデリケートな問題を推測するに足るだけの材料はどこを見渡しても存在しないのだから、現時点においてはメインライター米村正二という体制における個別のエピソードの問題として今回の作劇を判断するのが妥当だろう。だとすれば、この時点で井上敏樹ともあろうが、メインライターである米村正二の仕事を蔑ろにするような態度をとるのは非常に解せない。

本質的な問題が文体の継承であった響鬼の場合とは違って、今回の問題は特定の番組においてエピソードを構築する場合の決め事の遵守という形式論的な問題なのである。それはたしかに機械的なルールの問題というつまらない事柄ではあるが、だからと言って「オレが書く以上このほうがおもしろいから無視する」と嘯いて無視してよい事柄ではなかったはずだ。

それが単なる決め事の問題にすぎない以上、逆にその決め事さえ遵守していれば、書き手が異なるのだから文体が大幅に変わったとしてもそれも振れ幅の裡と判断することが可能だからである。

非常に単純な決め事の無視、ワームの擬態に関する認識の恣意的読み替え、これは現時点の条件で判断するなら、商売人の仁義として間違っていると思うし、オレ個人の井上敏樹観からすると非常に不可解な非礼である。こういう部分の大本の職業倫理が清潔だからこそ、いくら偽悪的に暴れてもその語り口に受け手を選ぶ癖があっても信頼される人材だったはずなのである。

第一一話の手際を視れば、井上敏樹にはこれらの決め事を遵守しながら独自の世界を語るだけのスキルが十分あるわけで、能不能の問題でいえば可能なのに、今回のエピソードではやらなかったということになる。それを正当化し得る理由がどこにあるのか、オレにはわからない。

さらに、三島がザビーゼクターを空中で捉えて無理矢理変身するという筋立ても、資格者という概念を勝手に拡大解釈しているわけで、掴まえてセットしてしまいさえすれば変身できるというのであれば、「ゼクターが資格者を選ぶ」という設定は、単に資格者以外がゼクターを呼んでも言うことを聞かないというだけの話になってしまう。

これまでのカブトでは「ゼクターは自身が選んだ資格者にのみその力を貸す」というイメージで統一されていたと思うのだが、今回の描写によって、ゼクターは単にワガママで扱いづらい変身アイテムだというだけのことになってしまい、変身アイテムに意志があるという特殊性の意義が単なる道具としての不便さに堕してしまった。

これを従来のカブト世界の語り口で織り込むとしたら、三島も実は資格者の一人だったと後附けする以外になくなるわけだし、ジャンクションのコントでは「またまたザビーの資格者が代わった!」と明言しているが、劇中の表現ではゼクターが三島を選んだととれるような描写がない。

オレの個人的な希望としては、あの場面の描写が原脚本の指定ではなく、今回初参加の鈴村の絵面優先主義の勇み足であってほしいと思う半面、問題がそれだけではない以上は原脚本の指定と受け取るほうが妥当なのではないかと思われてならない。前回は前フリのネタとして田崎演出に向けた言葉だったが、今回は本気で「どうしちゃったんだ、井上」と問い掛けたい遺憾な気持ちが拭えない。

オレは今回のエピソードが、井上脚本「だから」悪いとは思わないが、普通に井上敏樹の作物として不出来であることには間違いがないと思う。それに加えて、これまでの井上敏樹なら決してやらないような、物書きとしての仁義を欠いた杜撰さ、投げやりさが目立ち、視るに耐えない印象を覚える。言ってみれば、誰か他の書き手が「井上ノリ」を履き違えて意図的にパスティーシュしたような安っぽさを感じてしまう。

それが端的に顕れているのは、加賀美の成長を見守る天道というルーティンの処理として、加賀美が自身の銃弾でワームを倒したと錯覚するようカブトの超越力によって力を貸すという描写で、これまでのカブトにおける天道なら決してやらないおためごかしの友情ごっこに堕していると思う。

しかし、言ってみればこれとて個別の書き手ごとの人物観の振れ幅ととることも可能だが、問題なのはこのような偽善的な友情ごっこそれ自体が井上敏樹という個人が忌避して已まないものではなかったのか、ということだ。それを戯画化して茶化す意図があったのだとすれば、それもまた物書きの仁義として没義道なのではないか。

これまでカブト世界で描かれた天道の加賀美に対する父性的な友情の描き方は、井上敏樹個人が抱いている友情の欺瞞性に対する不信に、他の作家が別の考え方に基づいて誠実にアプローチした結果であると思う。馴れ合いの友情ごっこに意味などはない。人間は所詮一人でしかないというのなら、その前提において善意に基づいて人が人にしてやれることというのはこのようなかたちでしかないのではないか、そのような誠意があるからこそ、これまでのカブトの友情描写は清潔だった。

対するに、今回描かれた天道の加賀美に対する友情は、従来的な文脈で視るなら不潔なお節介でしかない。自身の無力さや未熟さに直面させ、自身の判断において行動を選ばせるという天道的な厳しさが微塵もなく、おめでたい未熟者に自信を附けさせるために他人が倒したワームを自身の手柄と錯覚させるというのは、カブト世界の語り口という意味でも井上脚本の人物描写の背骨の在り方という意味でも安っぽい。

オレの個人的な心象としては、このような天道と加賀美の友情の描き方そのものが、後の井上敏樹の参入を前提としたメインライターの厚意だったのではないかという気さえするので、それを井上敏樹その人が軽々に扱ったり茶化したりするのは如何にも不人情ではないかと思う。

今回のエピソードについては、オレはカブトに井上脚本が存在する意義という面では最低の作物だと思う。仮面ライダーカブトという作品全体の作劇レベルを低下させていると思われてならない。現状の条件で判断するならそうならざるを得ないのだが、何ら根拠のない希望としては、その背景に無理もない事情があったのではないかと、せめて想像したくなるのである。

まあ、それとても少しぞっとしない推測ではあるのだが。

せっかくこれまで楽しく見守ってきた番組であるが、この辺で行く手にイヤな暗雲が垂れ込めてきたというのが正直な印象である。

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