« 映画史と全体性 | トップページ | GW戦線終了後に想う »

2006年5月 4日 (木曜日)

小さき勇者たち GAMERA

どうも今ひとつ気乗りはしなかったものの、暇なGW中のことでもあり、かつはいろいろな意味で日本の特撮シーンの将来を占う一手となる作品だけに、この際観ておくべきだろうと思って小屋に足を運んだ。

勿論この映画の出来をヘボいと予想したから気乗りがしなかったのではない。いやしくもあの田崎竜太が東映を出て初めて劇場映画の演出を手掛ける作品なのであるから、映画としての出来が悪いわけはない。だが、それ以上の何かを感じなかったことも事実であり、これが出不精なオレを躊躇わせていたのである。

結論としては、事前の予想に違うことなく文句ない良作で、他人にお奨めするのに躊躇わないが、いろいろと違和感を覚えるアンバランスさも目立った。観に行こうかどうしようか迷っておられるくらいなら、観に行かれたほうがよかろうと思う。いろいろ留保は附くものの、子どもを連れて木戸銭を払っても決して損のない映画である。結論だけを求められるなら、「良作」という一言に尽きるだろう。

ただし、良作は良作だが…という「だが」の部分にいろいろと言いたいことはあるのであって、以下ネタバレ全開でその結論に至るまでのプロセスをガンガン語り倒したいと思うので、未見の方はうっかりこの続きを読まないほうがいいだろう。

まず、とにかく主役であるガメラのデザイン・造形は、致命的に失敗しているといえるだろう。事前情報を聞いた段階では、あの媚びた造形でもコンセプト的にやむを得ないかと思ったのだが、本編を見た後では尚更違和感を感じたのである。

ここは肝心要のヴィジュアル設計が狂った部分だろう。原口造形の悪い面がストレートに出た印象である。

旧平成ガメラは登場時から「怪獣」であり、超古代文明の残した超越的な生物兵器という設定だったので、G1時点の若干可愛い表情豊かなキャクターデザインでも違和感を感じなかったが、今回は実物のカメから始まっているのだから、怪獣化したトトの造形をカメ寄りに振るにせよ、怪獣寄りに振るにせよ、やはりもう少し生物感がないと、実物を使ったパートと着ぐるみパートのキャラクターの連続性に違和感がある。

クライマックスの透との対話の場面でも、もっと爬虫類的に無表情な造形ならさらにドラマティックだったのではないだろうか。怪獣と人間の対話というドラマは、相互に意志疎通が成立しているかいないかが、皮肉一枚の曖昧な間合いにあるところにキモがあるのである。あのアニメ的に雄弁な造形では、透との間に意志疎通が成立していることが見た目にわかりやすすぎて、一種の人形劇のリアリティになってしまう。それが前半の「カメと少年」的なリアリティとチグハグなものになっている。

稚なく可愛く見せたいという意図があったとしても、前半の実物のカメを使った部分でも十分可愛さを演出できた、むしろ実物のカメのほうが不細工な着ぐるみよりも何倍も可愛いかったという事実にあらためて着目すべきだっただろう。

あの実物のカメが具える可愛さが、ニンジャタートルもどきのデフォルメされた着ぐるみキャラになった途端にきれいさっぱり失せてしまうのだ。ラストで透が惜別の情を込めて「ガメラ」と呼ぶのであれば、ニンジャタートルではなく、あくまで爬虫類の延長上の「怪獣」としてのリアリティある造形がほしかったところである。

誰もが事前に「実物のカメを使った撮影」と聞いて不安を感じることだろうが、ここが予想以上にうまく行っていてカメトトに感情移入させるだけに、本来のキャラである着ぐるみの造形が、実物のカメとの連続性も感じさせなければ造形物としての魅力もないのは大きな問題である。トトが怪獣化した途端に映画の情感の流れがふっつりと分断されてしまうのだ。

前半でカメトトに入れ込んで見ていると、後半でカメトトの面影がまったくない「別のキャラ」である着ぐるみトトが新たに現れ、それにもう一度感情移入する気乗りしない手続が必要になるからである。これは、劇中でカメトトがガメラになったことに透たちが驚く感情とは微妙に違う。実物のカメの持つリアリティからデフォルメのキツいツクリモノにいきなり変わるという、リアリティのギャップに観客が戸惑うのである。

何故なら、実物のカメが具える可愛さは視る者に媚びた可愛さではなく、一種奇怪な外観の生々しい生物の幼態が健気に活きる姿が醸し出す可愛さだからである。この可愛さのリアリティと、媚びた造形の着ぐるみトトの可愛さのリアリティはまったくの別物である。全編パペットと着ぐるみで通すというのならともかく、実物のカメを使うという選択を下した以上、この造形ではダメなのである。

この映画の骨子をざっくり括るなら、「親に隠れて空き地で飼ってた犬が予想を超えて大きく育って保健所に連れて行かれ、それを子どもたちが取り返す話」という類型のバリエーションを視ることができるだろうが、その場合、稚ない頃の犬が可愛い本物の小犬で、でっかく育った犬がデパートの屋上ショーにでてくるようなワンちゃんの着ぐるみだったら、あなたは感情移入できますか?という簡単な話なのである。

要するに、可愛さの位相が絶対的に齟齬をみせているのである。

この映画の最も魅力的な部分が実物のカメを使った部分であることには誰しも異論はないだろうし、これをパペットで演じていたら現状よりもっとつまらない映画になっていたことだろう。だからそれは結果的に正しい判断だったのである。だとすれば、そこを基点に判断する以上、やはりトトガメラの造形があれだというのは、あらゆる意味で失敗だったと思う。

ここが失敗している以上、怪獣映画として視るなら絶対的にダメだろう。まあ、この映画は怪獣映画だとは一言も言っていないので、ジュヴナイル映画として視るべきなのだろうが、怪獣映画としてダメな部分が、感情移入の機序を介してジュヴナイルの感興にも微妙に影響を及ぼしている。

また、ジュヴナイルということでいえば、本編撮影もちょっとダメなんじゃないかと感じた。妙に発色が悪く、夏の陽射しを感じないのが「一夏の冒険」的な文脈のジュヴナイルとして決定的にダメで、夏の陽光を前提にした特撮パートのライティングとも合っていない。ここは同じ角川ヘラルド映画の三池崇監督作「妖怪大戦争」に決定的に負けている部分だろう。

カメラワーク自体はとても映画的で良かったのに、どうも色彩表現の部分で損をしていると思う。ガメラもジーダスもともに地味なアースカラーなので、全体的に色彩感に欠ける映画という印象になってしまうのである。

ただ、雨の撮影は、画面のどこにも晴れている部分のバレがないのが良かった。雨の場面でいちばん白けるのは、奥手の部分に陽光の陰影がバレている場合だが、この映画では画面一面が曇っていて無理なく芝居に入り込めた。

それと、劇伴は全体に良くないと思う。バトルシーンの雄壮な高揚感は平成三部作の大谷幸を思わせて良いものの、叙情的な場面でベタに語りすぎる難がある。ここも少し本編のデリケートな映画的叙述と比べて変にアニメ寄りの俗っぽさがアンバランスな印象を覚える。子どもたちの驚く程自然な芝居で情感が盛り上がりかかっても、この劇伴が大袈裟に語りすぎていてちょっと白けるのである。

貶してばかりなのも気が退けるので好感を持った部分を挙げると、倒壊したビル群を散乱した書類で象徴する趣向は、いわれてみればなるほどと感じて興味深い表現だ。この映画においては、怪獣に蹂躙された都市の惨状は路面いっぱいに散らばるA4版の紙の山で表現されているのである。

考えてみれば、オフィスビル内にある最も大量な物質は何かといえば、それはA4版のOA用紙なのである。炎上を伴わないビル破壊で、その大量の紙が路面に飛び散るという描写は、単なるリアリティ附加の域を超えて都市の具える内実の何程かを剔抉しているように感じられる。いわば、A4版のOA用紙とは、都市の臓物なのである。

ハリウッド映画に似たような表現の前例があったような気もするが、あるいは9.11テロや中越大震災の映像的記憶ということも考えられるし、伊勢志摩や名古屋の一時避難所の生々しい描写と併せて、近年の大規模災害の記憶といえるのかもしれない。

それと、モブシーンの演出・撮影は平成怪獣映画随一だろう。平成ゴジラのようにニヤけてモタクサ走ってる素人臭い輩が一人もおらず、大の大人がなりふり構わずみな獣性剥き出しで全力疾走している様子が、「パニック・イン・スタジアム」のクライマックスを思わせて迫力満点である。

伊勢志摩襲来時における狭く入り組んだ坂道を利用した立体的なモブ撮影も組み立てが考え抜かれているし、名古屋襲来時における一〇〇メートル道路や地下街の幅を利用した人波の厚みの表現も素晴らしい。怪獣映画のキモとは、やはりモブ描写なのであるとあらためて気附かされる。

また、この力強いモブ演出が、クライマックスの子どもたちの赤い石リレーの絵作りにおいて、逃げる大人の凶暴な流れを遡って怪獣同士の闘争の場に駆け附ける非力な子どもたちという映画的な対比と運動性を表現する要素として効いており、引いてはそれがこの映画全体のテーマを映像の言葉として語っている。透とトト、引いては子どもたちとトトとの交流を、赤い石の運動性をモチーフとして描出する趣向は、龍居脚本のアイディアと映像設計が有機的に一体化した映画的な表現としておもしろかった。

一つだけ難を挙げれば、病院へ向かう透たちと避難所へ連れられていった麻衣がすれ違いになる辺りのシーケンスのテンポが若干もっさりしすぎていて、妙にダレている嫌いは否めない。透たちと麻衣のすれ違いから石リレーの間に少しイベントを入れすぎた印象で、ここはもっと描写を整理してテンポを出したほうが良かったかもしれない。焦らしの場面だとしても、全体の尺との兼ね合いが巧くないと思った。

それと、海面を漂う遭難者がジーダスに喰われる場面のカメラワークも窮めて映画的でおもしろかった。最初に何心なく波に揺られる人物に合わせて斜めの構図を繰り返しておいて、他の船員の衣服や救命胴衣がポッカリと浮かび上がる絵でジーダスの存在を暗示し、それに気附いた遭難者が逃げようとすると、斜めの構図が上り坂を泳いで上るような画面上の効果を醸し出しているのが、逃げ切れないという絶望的な心理の映像描写として効いている。

ただ、この映画のトーンに大量の流血は合わなかったかもしれないとは思う。食いちぎられた衣服や救命胴衣で十分同じような効果は得られたのではないだろうか。この辺はG2の地下鉄の殺戮シーンでも感じたことなのだが、今回は平成三部作よりも幼児向けの性格を前面に打ち出しているのだから、尚更気になった。

あとは、カメトトが突如甲長一メートル大に成長した際、透たちがトトをスケボーに乗せて秘密基地に運ぶが、これは後に八メートルガメラがトレーラーで運ばれる場面を先取りした映画的反復であることはいうまでもない。

八メートルガメラの実物大ブロップによる撮影の一報を記憶していれば、ここでその描写の含意にニヤリとして、同時に後のトトの悲運の仄めかしに、この幸福な子どもたちだけの世界が残酷な現実に脅かされる予兆を感じてひやりとするだろう。こういう細かい目配りが効いている辺りが、この作品の窮めて映画的で端正な部分である。

まあ、これまでの話で莫迦の一つ覚えのように「映画的」という形容詞が頻出したように、本作の田崎演出や村川聡の撮影は映画的なアイディアと表現に満ちている。その意味では、「怪獣映画」という視座で視た場合には幾つか大きな不満を覚えるものの、一本の「映画」として視た場合には、端正で誠実でオーセンティックな作品として評価はできるだろうと思う。

ただ、「怪獣映画」としては、いや、少なくとも怪獣を扱う映画としては、映画として正しいという以上のヴィジュアル的な「何か」が必要なことも事実なのである。フックが弱いという言い方もできるだろうし、メインヴィジュアルの構築に失敗しているという言い方もできるだろうが、怪獣が主役となる映画としては何かが欠けているという印象が否めない。これはあえて「ジュヴナイル」と註釈しても変わらない事実だとオレは思うのである。

怪獣が主役となる映画として、核となるような力強い一枚の絵に欠けるのである。たしかにシネスコの縦横の特性を巧く使った怪獣バトルは、単純な組み立てにもかかわらずかなり見せるが、それだけではやはりダメなのである。力強い一枚の絵。言葉にすれば簡単であるが、これがある意味スペクタクル映画のキモなのである。

たとえば「未知との遭遇」におけるデビルズタワーの佇まい、「エイリアン」におけるギーガーのデザイン画、「スターウォーズ」におけるスター・デストロイヤーの戦艦ナメ。そのような、タイトルを耳にしたらパッと脊髄が信号を送出するような力強い一枚の絵。その映画全体を象徴するようなインパクトある一枚の絵があれば、この映画は良作ではなく傑作と表現するに値しただろう。

映画を見終わって、あらためてガメラがファイティングポーズをとるスチルを見ても、大人たちの理不尽や怯懦に対して果敢に立ち向かう子どもたちの熱い想いを背負ったトトのドラマが胸に迫って来ないというのは、やはりヴィジュアル面で決定的に何かが足りないのである。

大人の観客をも泣かせる熱いドラマ性を具えた作品であるだけに、そこが惜しい。

では、大枠の話はこれくらいにして、その大人も泣かせるドラマ性の部分をもっと掘り下げてみてみよう。

まず、この種のジュヴナイルで父親が大衆食堂のオヤジという下世話な商売人の設定になっているのが、ある意味で懐かしかった。ケンちゃんシリーズやあばれはっちゃくなど、昔の少年ドラマはなぜか職人や商売人の家庭を舞台にしたものが多かった。

戦後というニュアンスをまだ引きずっていた時代には、会社法人に雇用されてサラリーをもらうという生業のかたちが現在ほど支配的ではなかったということなのかもしれないが、都市圏においては職人や商売人の家庭というのは別段少数派ではなかった。おそらく高度経済成長期を転換期として、会社法人とその被雇用者という生業が一般に普及したのだろう。

サラリーマン家庭というのは、たとえばサザエさんの磯野一家がそうだが、例の謎本によれば、磯野家の稼ぎ手の波平もマスオもあの時代に大学を卒業して会社法人に就職した中流以上の階層なのである。

今はサラリーマン家庭が都市住人として一般的で、大なり小なり会社法人から俸給をもらうという収入形態が一般化して、職人や地着きの商売人の家庭のほうが特殊例になってしまったが、少なくともオレが子どもの頃までは、東京のごく普通のティピシャルな子どもを描く場合に商売人の子と設定することは自然だったのである。元々江戸は職人と店者の町だったが、戦後の復興期においては、やはりその都市的体質から再出発したのだろう。

そういう意味では、地方を舞台にした話ではあるが、本編の主人公の透と麻衣が親の代から隣り合わせの大衆食堂と真珠店で育った、ある種下世話な商売人の子どもであるのは昔の少年ドラマの雰囲気を漂わせている。あいざわ食堂のメインの客層は地元の労働者階級であり、要するに諏訪太郎のような連中が飯を喰って軽く一杯引っかける所なのである。

そこは、地元の顔見知りの肉体労働者たちが仕事帰りに立ち寄って、TV番組を見ながらビールの杯を重ね、世間話を交わす場所であり、二階の子ども部屋にいても階下の喧噪が筒抜けの商売人の家で育ったからこそ、透は歳には増せた大人びた少年として育ったのである。この辺の人物設定はさすがに的確である。

つい先頃母親を喪ったばかりでいながら、母親が「星になって見守っている」という類のお伽噺を信じられない透は、現代的なヒネた子どもというよりも、大人の世界と日常的に接しているからこそ、親にまで気を遣う大人びた子どもに育ったのである。そして大人の世界と子どもの世界の接点がこの映画全体のモチーフでもある以上、このような舞台設定もまた無意味なものではない。

あいざわ食堂の外観は、暖簾と古びた看板、黒ずんだ外壁、そして二階という上下の移動の視線で紹介され、これが数度繰り返されて、そのように地元に根附いて生きてきた透の一家の歴史と、大人たちの世界と境界を接して生きる透の生活圏をヴィジュアル的に印象附ける。おそらく透の父親も透と同じような環境で、この歴史を刻む古びた汚い大衆食堂で大人になったのである。

その意味で、冒頭で所謂アヴァンガメラのシーンが配されている意義というのは、設定の提示という以上にドラマの組み立てとして効果的である。一九七三年の時点で先代のガメラがギャオスと共に滅び去ったという前史は、オフィシャルには平成三部作に直結するものではなく、むしろ昭和ガメラに直結するかに見えながら、平成三部作を識る者にはそれが暗にG3の後日譚を語っていることが明白である。

G3のラストで、地球と人類社会という重なるようでいて歴然と偏心した二つの対象を護るために、護るための戦いに伴う矛盾も罪も諸共に一身に負い、痍附いた肉体を引きずるように紅蓮の京師を後にし「空三ギャオス七」の大軍を迎え撃ったガメラの姿に男泣きしない奴は男たるの名に値しないだろう。

G3という映画の何を批判するのも観客の自由だとはいえ、基本的にオレは、ガメラの行動の浪花節的ロジックを理解しない奴の映画の見方はいっさい信用しない。それは、残念ながらこの種の戦いの物語を読むのに向いていない体質だとしか言い様がないからであり、わかりもしない映画をわかっていない見方に基づいて語る不作法さに我慢ならないからである。

そして、そのG3ラストを直接受けたのが本作のアヴァンであるというのは、注意深い観客なら誰にでもわかる。本作の舞台が伊勢志摩と設定されているのは、京都から進出して太平洋上のハイパーギャオスの大軍を迎え撃った場合の想定される会敵ポイントだからなのであり、そうでないと思わせる要素とは、「2006」というクレジットと巨大生物審議委員会の解散を報じるTV報道中の細かい時系列説明だけなのである。

要するに、本作は前提において平成三部作を直接継承する世界観なのだと解して一向に差し支えないのであるが、直接続編としてしまったら、まったく無関係な製作陣によって一から創り上げる新たな作品世界としての自由度を喪うからそう明言していないだけのことなのである。

そして、本作のファーストシーンは炎に包まれる伊勢志摩の小さな町のナイトシーンのスローモーションであり、G3ラストから直結して始まる物語であるとの印象が強調されている。このアヴァンにおいて、空を埋め尽くすギャオスの大軍は数頭の規模に縮小されており、G3ラストでカットバックされた絶望的な大軍という印象は払拭されているが、結局先代ガメラは自爆という最終手段でしかギャオスの無限増殖の連環と、それとの戦いの因縁を断ち切ることが叶わなかったという結末が提示されている。

このバトル描写自体、真っ暗闇の中でプラズマ火球の目映い光芒で一瞬ほの見える影の戯れとして彼我の壮烈な闘争を演出する手法は、たとえばG2のギリギリまで光量を落とした札幌戦のスピリットを継承したものであり、平成三部作の怪獣バトルの演出法を意識的に継承したものである。

このバトルシーン自体が一種幻想的な美しさを持っているが、より感動的なのは、この戦いの結末で人々が口にする「ガメラはオレたちを護ったんだ」というベタにすぎるくらいのセリフである。ここで泣かない平成三部作の観客は、平成三部作などなかったことにして忘れてしまいなさい。誰もそれで困らないから(笑)。

G3において、より高次の危機を斥けるために「小さな犠牲」にあえて目を瞑ったガメラの引き裂かれた心、背負うと決めた罪は、結局わが身一身を犠牲にした行動でしか清算され得なかったのだという悲痛な認識と、それでもそれが人類との和解に繋がったのだという慰藉、これが平成三部作を見守った観客を泣かせるのである。

そして、その戦いを見守る少年が爆散したガメラを見詰める構図とオーバーラップして現代の伊勢志摩に舞台を転ずるわけだが、それは映画の文法上透の父親の過去の体験として意味附けられ、伊勢志摩の美しい海は先代ガメラの血塗られた戦いの歴史そのものの影を負ったロケーションなのだという前提で話は始まるのである。後で出てくる緋色真珠も、要するにそれは先代ガメラの流された血の象徴なのであり、それが伊勢志摩の小さな町を復興させるという筋書きは、美しい伝説としての性格を持っている。

現在の大人である透の父親、その世代がかつて少年の目で目撃した平成ガメラの世界。思えば平成ガメラの世界は、大人の世界であった。昭和ガメラで「子どもの味方」と位置附けられたガメラを平成に再現するに当たって、製作陣はその「子ども」を「少女」と読み替えて、それを巡る大人たちの社会的なドラマに仕立て上げた。

そして、矛盾を矛盾のままに自己責任で背負うと決めたG3のガメラは紛う方なく大人としての在り方そのものである。このようにして少年時代に大人の世界で演じられた平成三部作の世界を回顧する現在の大人である透の父親というイメージが冒頭に据えられていることで、この映画の子どもたちのドラマは単なる「少年たちの一夏の冒険」という挿話性を超えて、大人の世界と子どもの世界のぶつかり合いのダイナミズムを獲得するのだ。

平成三部作の悲劇を否定して「オレたちがそうさせない」と言い放つ新しい世代のドラマとしてこの映画は意味附けられるのである。

そして、透の母親の墓碑がこのガメラの爆散によってえぐり取られた海を望む崖の上にあるという描写は、この後直接母親の墓碑が画面に現れることはなくても、母親の墓碑が見下ろす小さな小島でトトの卵が見出されることで、透とトトという「二人のトト」の物語を見守る亡き母の視線という前提が提示される。

それは、この墓参のシーンで透が父親の「優しい嘘」として否定した視線である。このようにして、このシーンはすべての物語に先立って、同じシーンで透が否定したお伽噺が本当なのだということを保証する。

人々の憎しみと怨嗟を負って散華したガメラが、その死を以て人々と和解を果たしたという美しい神話、流された血が残された人々に幸福をもたらしたという美しい神話、それと亡き母親が今も愛する息子を見守っているという美しい神話が関係附けられ、それでも残された少年は「死で終わる美しい神話はイヤだ」と叫ぶのである。

徹頭徹尾大人の世界で演じられた平成三部作の世界において、透の父親は無力な子どもでしかなかった。目の前で大人の世界の矛盾を抱え込んで殉死する先代ガメラの姿を目撃した透の父親は、「怪獣と戦って死んでしまう存在」であるガメラに人が何かをしてやれるとは信じていない。子どもが無力なら大人もまた無力なのであって、ギャオスの脅威に抗し得る力を持った唯一者である先代ガメラが、その一身に世界の責任を負って自爆する様を、かつての少年であった父親はその目で視ているのである。

本作の世界は、平成三部作が辿った悲劇に纏わる諦念、先代ガメラが孤高のヒーローとして男泣きの戦いを戦った歴史の悲劇性への諦めに対して、無力な子どもでさえもが懸命に戦う者に対して何かができるのだという可能性のドラマを提示している。

その意味で、この作品が「GAMERA」よりも大きく「小さき勇者たち」と題されていることには、大きな意味がある。明確にガメラを孤高のバトルヒーローと位置附けた平成三部作の世界に対して、本作におけるガメラは単独の主役なのではなく、それを含めた新しい世代の子どもたち全員が主役なのであるという強いアピールである。

そのつくり手の想いは、たとえば孵ったばかりの子ガメのトトが、一旦浜辺に棄てられた後、透の後を慕って路面を懸命に這い進み、クルマに轢かれかけたところを透が身を挺して救うことに始まって、救い救われるという応酬の運動性で「二人のトト」の物語が構成されていることでも明瞭である。

トトはまず卵から孵ったばかりの赤ん坊として透の前に現れ、一種の弟分として透がかつて生前の母から呼ばれていた「トト」という愛称を譲り受ける。つまりトトは母親に愛されていた透自身の過去の姿を他者に投影した存在であり、第三者から視れば一種の分身である。透は母親の慈愛の下に満たされていた過去の自分を、分身として創出して愛おしみ自身の孤独を癒すのである。

この子ガメ時代のトトは透や少年たちの庇護養育を受ける者として表現され、先ほど挙げた透がトトを救う場面も、その文脈上で意味附けられる。透自身の意図はどうあれ、そのようにして満たされた稚ない弱者としての自分の分身を創出したことで、透自身が庇護される者ではなく庇護する者として振る舞う契機が出来する。

しかし、母親を亡くした透にとって、隣家の麻衣は一種の母親の代替的な役どころであり、その意味ではやはり透は女性的なる優しさへの甘えから脱却できてはいない。トトを庇護する少年たちの行動は、田崎曰わく「大人の世界と子どもの世界を媒介する」麻衣という存在によって見守られている。

そして、ジーダスの上陸に伴って姿を消したトトは、八メートル大に成長した怪獣として透たちの危難を救う。元々ガメラという存在に課されていた使命であるとはいえ、透たちの危機を救い得る唯一の存在として、「子ども」でしかないトトは「大人」であるジーダスに果敢に戦いを挑むのである。

このトトの壮挙によって、まず最初の透との救い合いという意味性が立ち上がる。辛くもジーダスを斥けたトトは力尽きて倒れ、巨大生物審議委員会の手によって研究所に囚われる。「大人たちにはナイショ」の冒険である一メートルトトの搬送のモチーフが、この場面でトレーラーによる移動というモチーフとして繰り返されることは前述の通りであるが、子どもたちがトトを匿う行動と大人たちがトトを連れ去る行動に視覚的な連想を誘うことで、物語上の意味性としても効果が顕れている。

かつて透に救われたトトが透を救うという応酬のモチーフが立ち現れた後、すかさずトトの窮地が描かれ、再び透がトトを救い出す応酬の運動の契機が出来するのである。

さらにまた、透とトトの応酬が成立する直前には、これまで透を母親の代わりに見守っていた優しい女性である麻衣自身の問題が提示され、心臓疾患の手術という麻衣自身が立ち向かうべき危難において、透がトトの赤い石をお守りとして差し出すことで、ここでも応酬のモチーフが成立する。

「自身を見守る優しい女性」の、客体としてではなく主体としての問題性を認識することで、透は一歩成長への道筋を踏み出すのである。それは一種、「お母さん代わりの幼なじみ」という視点から「等身大の一人の少女」としての麻衣を見詰める視点へ移行したということであり、言うまでもなくこれは初恋の文脈で語られる心理である。

無論、この物語においては透の麻衣に対する恋愛的な感情は捨象されているが、ニュアンスとしてそのようなあえかなエロチシズムが仄めかされていることは、麻衣が「もう護ってあげられないんだよ」と語るシーンにおいて、窮めてエロチックに風にはためくワンピースというかたちで表現されている。全編を通じて、麻衣がスカート姿で現れるのは、透が彼女を一人の少女として視るという意味性に関わる場面のみであることには映画的な注意力が必要なのである。

そして、母親に対する感情の何某かが投影された麻衣との応酬の運動性と、その母親に愛される自分の分身としてのトトとの応酬の運動性、この二種類の応酬の運動性の綜合として、クライマックスをかたちづくる赤い石の運動性がもたらされるのである。

本作のクライマックスは、麻衣の手元にある赤い石をトトに届けるという単純なラインによって構成されている。それは一面、母親から透へと何某かの大切なものが移動するという隠喩でもある。事実としてどうであれ、麻衣の手術が成功したのは透がトトの大切なものをお守りとして麻衣に預けたからなのである。そして、その役割を終えた赤い石を、今度は麻衣の手からトトの元へと運ぶ必要があるのである。

気取った言い方をするなら、赤い石を媒介として、透は母親の不慮の死に対して何事かを為すのであるし、子どもであった自分の精神史に対しても自身の力で何事かを為すのである。ここには、二重の応酬の運動性がヴィジュアルに仮託されている。

その応酬の最後の契機を担い麻衣の手から透の手へと赤い石を媒介するのが、これまでのいっさいの物語とは無関係な無名の子どもたちであり、無力に逃げ惑う大人たちの流れに逆らって果敢に危険に立ち向かう新しい世代の可能性の「象徴」としてその一連が機能するという作劇は、考えに考え抜かれたものである。

この子どもたちの赤い石のリレーは、伏線も何もなく若干唐突な印象を与えるし、ドラマ的な必然性として無関係な子どもたちが重要な役割を果たすというのはお涙頂戴のご都合主義的に見えるかもしれないが、これは、大切な何かを受け渡していく子どもたちの映画的な意味における「象徴」なのである。

それまで描かれてきた子どもたちの果敢な戦いの決算として出来した、映像的意味性の象徴なのである。この一連の流れは、「テーマ性」の表出という言語的意味性を超えて美しい映画的な言葉として成立している。このような奇跡が何の伏線もなく突如として顕現する契機を、それまでの物語が着々と準備しているのである。

その赤い石を仲立ちにして透とトトが交わす対話は、本来感動的なものである。ここには大人の世代の悲劇性を乗り越えて前に進もうとする子どもたちの力強い可能性が主張されている。わが身一身を滅ぼしてでも他者を救おうとする男泣きのヒーロー性など、もう必要ない、オレたちは共に生きて戦うのだというメッセージが「絶対死ぬな」という直截なメッセージとして主張されているのだ。

大人である透の父親が当然の分別として息子から遠ざけようとする危険をあえて冒すことで、本当の意味での「少年の冒険」が成立するのである。そのような危険を冒してでもトトを独りで戦わせないという揺るぎない決意の下に、赤い石を届けるというかたちで最後の応酬の運動が完結し、本来の力を得たトトはジーダスを倒して人々を救う。

それを理解した父親が、「大人の分別」を忘れて透をトトの元へと送り届ける決意を固めることで、さらなる感動が生起する。かつて先代ガメラのために何事も為し得なかった無力な子どもであった父親が、子どもたちを媒介にして今のガメラのために意味ある何事かを為し得るという筋立ては、新しい世代の可能性が旧世代の悔恨を救済する力をも持っているという力強い主張である。

再び力尽きて倒れたトトを捉えようと殺到する大人たちの前に、何ら脈絡なく最前赤い石をリレーした子どもたち全員が立ちはだかり、救い救われるという応酬は新しい世代のガメラと新しい世代の子どもたち全体の中で分かち難く共有されるのである。どちらがどちらを救うのかという視点は最早意味を為さない。新しい世代の子どもたちは、怪獣であろうが人間であろうが、諸共に前に進み一体となって危難を斥けるのである。

そこには先代ガメラが戦った孤独な戦いのニュアンスはない。本来の意味で「子どもの味方」である新生ガメラが誕生した瞬間であり、かつて「トト」であった「怪獣」との別れに際して、透は哀惜を込めて「また会えるよな」「ガメラ」と呼びかける。

ある意味で、透もトトも危機を共有することによって「大人」になったのである。子どもの物語であった本作が、ラストにおいて「大人になる」という帰結を示すこと、これはつまり、子どもというのは大人とは別の存在ではなく、「良い大人」になり得る可能性を秘めた存在であるということであり、決して大人の世界と子どもの世界がまったくの別物ではなく、相互に対立の構造を抱えているのではないという認識を示している。

これを一種平成三部作の批判的継承という括り方をすることもできるだろうが、大人たちの悲劇的な物語としての平成三部作を前提とするからこそ、過去の悲劇を乗り越える子どもたちの物語である新生ガメラの物語世界が成立するのである。

前半において、一本の映画としてのいろいろな問題点を指摘したものの、ドラマ性の面においてはこの作品の語る力強いジュヴナイルは評価に値する。決して子どもだけで完結した甘い世界を語っているのではなく、大人の世界との対比におけるダイナミズムを基調に据えた部分で、ジュヴナイルとして強いのである。

願わくば、これがシリーズとして継続されることで、かつての平成三部作に迫るほどの特撮史上のメルクマールとして成熟することを期待する。最初に指摘したような問題点もシリーズを重ねれば改善の目もあるだろう。事実、平成三部作はそのような映画としての進化の歴史としても読み解くことができるのである。

例によって長くなりすぎたので今回はこの辺にしておくが、田崎竜太という才能がガメラという畑違いの特撮ジャンルに進出した意義は、ひとまずは果たされていると言えるだろう。再び触れる機会もあるかと思うが、今回はこれを以て結句としたい。

|

« 映画史と全体性 | トップページ | GW戦線終了後に想う »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/9898824

この記事へのトラックバック一覧です: 小さき勇者たち GAMERA:

» ガメラの軽重を問う [ガメラ医師のBlog]
 公開2週目の『小さき勇者たち〜GAMERRA〜』。 様々な関連記事がアップされています。重いもの軽いものなど、ガメラ医師が発見し得た中で、それぞれ特徴的なBlogエントリーをご紹介。今回はガメラの体重論ではありません。題を見て期待された方には申し訳ありませんが、悪しからず。  まずは重い方から。 長文で、容赦なく、愛情にあふれた映画批評のエントリーです。 『黒猫亭日乗』 http://kuronekotei.way-... [続きを読む]

受信: 2006年5月 9日 (火曜日) 午後 06時16分

« 映画史と全体性 | トップページ | GW戦線終了後に想う »