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2006年5月26日 (金曜日)

AFTER HEAT

昨日のエントリーでは、技術面におけるプロの言及をダシに「トクサツ四方山話」を展開させていただいたわけだが、勿論オレはプロと議論できるだけの技術的素養があるわけではなく、独学で識り得た限りの話であることは重ねてお断りしておきたい。もしも記述内容に不正確な点があったなら、虚心にご指南を乞う次第である。

莫迦UDの項でも語ったことだが、「オレは素人だから間違ったことも言うかもしれないが、本質的には正しいはず」などと主張するつもりなど毛頭ない。「本質的には」も糞もない、不正確な記述があるなら、その分論旨の妥当性を割り引いて考えるべきなのであり、とくにそれは技術論の実態においてはシビアに減点さるべきである。

あえて「素人の意見だが」と断るのは、この種の論述が話者の立場によって内容の信用性が左右される種類の言説だからである。技術面への言及でプロと素人を比べたら、実践経験のあるプロの言い分のほうが確からしいのは当たり前の話であり、この種の論述は「話者が何者であるか」で言い分の信用性がまったく違うものだ。

そういうわけで前置きが長くなったが、そろそろ上映規模も縮小され公開の旬も終わりを迎えつつあるということで、今回も前回に引き続き「小さき勇者たち」観賞後の後日談としてトクサツ四方山話の類を漫然と展開させていただきたいと思う。

仄聞するところによると、最終的な興行収入は平成三部作の平均的な金額のおよそ半分程度ということで、今後のDVD展開等諸々含めてもペイするかどうか微妙なラインということである。ドラマの出来を考えれば遺憾に思う半面、映画の総体的なデザインの持つ訴求力という意味では世間的に妥当な評価だったのかもしれないとも思う。

公開前には当ブログでこれほどこの作品を語るとは予想もしなかったが、それを言うなら、そもそも公開中に劇場へ観に行くかどうかすらもオレの中では確とは決まっていなかったのだから、世の中何が起こるかわからない。随って、当ブログの一連の「小さき勇者たち」関連のエントリーは、必然ではなく偶然書かれたものである。

オレ個人のネット論争経験はG1に始まるのだが、この場合はレンタルビデオ店で何心なく籍りたメイキングビデオを観た直後から劇場公開を待ち焦がれ、観賞後はこの作品を同好の士と語らう為の場がどこかにないものかと、折しも全盛期を迎えつつあったパソ通を目当てにPCを購入しネットの世界に身を投じたわけだから、オレがこんにちこの場に在るのはG1という一本の映画との出逢いがもたらした必然である。

あの当時ネットの世界に身を置いたことで、たしかに厭なことも山ほどあったが、それを遙かに上回る良いことが沢山あった。現在のオレの職業人としての人的繋がりや私的人間関係の大きな部分を、ネットを介した結び附きが占めている。これは、ネット論の問題であると同時に、人を駆り立てる映画の力の問題でもあるのであり、G1という映画はオレの人生の中で特別な位置を占めている。

そういう意味では、やはり一本の映画には人の人生を左右する力があるのである。

G1およびそれに続く平成三部作の映画体験の総体がオレの中で特別な位置を占めている以上、ガメラという物語資産を新たな視点で語り直すことに、オレにとっての個人的意義が本当にあると真に受けられなかったのも理の当然である。

平成三部作のファン「だから」今度のガメラも観に行く、新しい怪獣映画「だから」観に行くという意識は、オレの中には一切なかった。オレはゴジラファンがそうであるようなキャラクタージャンルのファンと自己規定している者ではなく、平成三部作という個別の映画のファンだからである。ガメラというキャラクタージャンルの作品において最も優れた映画だという物の見方において平成三部作が好きなのではない。

新しいガメラが客観的にどのような意義深い試みが為されている傑作であろうとも、オレの中におけるガメラという物語資産は、平成三部作によって完全に完結している。それは窮めて個人的な人と映画の関係性の問題である。

ネットの情報発信者としてのオレにとって個人的特権性を持つ特撮作品とは、平成三部作であり、ウルトラマンティガであり、仮面ライダークウガであり、仮面天使ロゼッタであり、実写版美少女戦士セーラームーンである。オレという個人が語ることにオレという個人がその意義を真に受けられるのは、高々両手の指折るに足る数の雑多な作品群なのである。

自分語りが長引いて恐縮だが、そういう意味で「小さき勇者たち」という映画については基本的に肯定的な評価を陳べてきたものの、個人的な意味ではオレにとって余所余所しい間柄の映画であることに間違いはない。ある種角川ヘラルド内でも大した利を生む原資と目されておらず継子扱いされている映画であるという風評をネットで漏れ聞いているが、それが本当であるとすれば、随分可哀想な映画である。

逆説的な意味では、いっそ作られないほうが良かった映画とさえ言えるのかもしれないのだが、生まれないほうが良かった子どもなど一人もいないように、作られないほうが良かった映画などというものも存在しない。少なくとも、この映画程度に真面目に作られた良心的な作品である限りは。

如何に興行的に成功しなかったとはいえ、この映画を観たことで少しだけ人生が豊かになった人々も確実に存在するのであり、オレがG1との出逢いで経験したような素晴らしい人生の契機を誰かにもたらしていないなどと何ぴとにも断言できないはずだ。

たとえばウルトラ第一世代の中には、第二期以降のウルトラの大半が不要だと考える人も多いだろう。さらに、第二期以降のウルトラの在り様が自分の中のウルトラにとって見苦しい蛇足であると積極的に批判する人もいるだろう。だが、新たなウルトラが語り継がれることに一企業の存続の都合という以上の意味がないとしても、その作品の存在によって少しだけ幼児期の生活が豊かになった人々もそれ以上に多いはずである。

第二期ウルトラを心の友として育った世代の人間に、第一期ウルトラの物差しで攻撃を加えるのは偏狭な専横であり、原理主義的なトクサツ十字軍的歴史観でしかない。タロウやレオで育った人間の幼年時代を全面的に否定する権利など誰にもないのだし、個別の作品批判というのは排他的歴史観に基づくものであってはならない。それはただのバイアスとして視られるべきであって、専制的ドグマであってはならないのだ。

Aやタロウやレオがそれ自体目指している物語構造を基本に据えるのでなければ、その排他的歴史観に基づく作品批判には何ら客観的意義はない。歴史観というのは本質的に権力を志向するものであり、第一期ウルトラをオリジンとしてその後をウルトラ頽落の歴史と捉える歴史観には、既存世代の自己絶対視という悪弊が附き纏う。第一期との比較において第二期以降を批判したいのであれば、そのバイアスを努めて自覚し、慎重に言説を展開すべきなのである。

個人における歴史観とは、自分自身の同時代性を起点とした過去と未来の整合的解釈という、その限りの個人的尺度でしかないのである。だとすれば、オレの中におけるガメラという物語資産が平成三部作で完結しているという心的事実は、窮めて個人的な歴史観に基づく個人的バイアスでしかない。

オレにはオレのささやかな人生があり、それを尊重する権利がある。オレはオレの人生が意味あるものだと思うからこそ、個人の人生に敬意を払うが如くに平成三部作という個別の映画の存在に個人的特権性を視るのである。

オレが「小さき勇者たち」鑑賞を躊躇ったのは、リアルタイムの特撮映画としてデザイン的な弱さを感じたからだし、さらには平成三部作の持つ個人的特権性というバイアスがそのような心象に影響を与えたからなのである。

だからこそ、以前語ったような粗雑な錯誤に基づく無責任な批判にも腹が立つが、その根底に横たわる「平成三部作に比べて今度のガメラは糞(に決まってる)」という専制的歴史観にはもっと腹が立つ。このような愚劣な輩がオレと同様に平成三部作の熱烈な愛好者であるという事実に、身の毛もよだつような生理的嫌悪感を感じる。

オレという個人が平成三部作に特権的意義を視る限り、ネットで公に物を言う限り、オレはこの種の徒輩を全身全霊もって徹底的に批判し続けるものである。

ゴジラ然り、ガメラ然り、ウルトラ然り、ライダー然り、セーラームーン然り。同一の物語資産に基づく作品群を比較検証するのは、対象作品の在り方をそれ単体で視る場合よりもさらに深く豊かに未読し理解するためであり、物語資産の構造総体を論じるための検証であるべきであって、甲の基準で乙を評価して貶めるためのものであっては断じてならないのである。

文芸批評とは元来権力を志向する弊を持つ闘争的な言説であるからこそ、自分自身の同時代性を排他的に絶対視するためのものであってはならないのだ。そんなものは他者にとって意味のある批評ではなく、専制支配を志向する言論的暴力でしかない。

今の幼児にとって、平成三部作のガメラは歴史的過去にすぎない。たまたま熱狂的な三部作信奉者の親の影響でDVDを観ていたとしても、それは同時代的な体験ではなくたまたま物好きな親が子どもに「トクサツ英才教育」を施したという個別事情にすぎないのである。

だとすれば、今この同時代性において「小さき勇者たち」という映画に魅せられた子どもたちにとっては、既存世代からの「平成三部作の二匹目のドジョウ狙いの失敗作」という無責任な攻撃は、自らの幼年時代の追憶への悪意的暴力としての潜在的な可能性を持っている。それはまさしく唾棄さるべき「イントレランス」そのものである。

大人の特撮ファンがリアルタイムの作品を語る場合には、常にこのような相対的な視点を忘れてはならないだろう。少しだけ先に生まれた世代に許されるちょっとした年寄りのワガママという微笑ましい分際を忘れ本気で自らの同時代性を絶対視するのは、愚昧な大人である。自分自身が愚昧な大人であるかないかはともかく、愚昧な大人であっていいという怠惰を自身に許すことは、どんな大人にも許されていないのだ。

人間は大人になるに連れてどんどん物を識っていくのだから、智慧を獲得していく以上はどんどん愚昧になっていく存在でもある。何も識らない幼児が最も愚昧から遠いのは逆説ではなく論理的事実だろう。少なくとも幼児は無知であるが故に最も愚昧から遠い存在である。自らの愚昧を自覚しその愚昧から身を遠ざけようと努めるのでない限り、大人というのは本質的に智慧が附く度にどんどん愚昧に陥る存在なのである。

愚昧な大人でありたくないと懸命に努めることでしか大人としての愚昧さと距離をとる術はないのであり、愚昧ではないと思い込むことやその愚昧さに安住する姿勢それ自体が怠惰であり愚昧なのである。

リアルタイムの子どもたちに対して愚昧な大人ではありたくないと望むからこそ、オレは自らの同時代性とは無縁の作品に対してせめて能う限り公平でありたいと強く望むのだし、その種の公平さについてまったく無自覚な意見に接した場合は、それをただの言論暴力と見なすことにしている。

さて、その関連で語っていい問題かどうかはさておき、この映画の公開直後から囁かれている醜聞に「虐待疑惑」があることは無視できない問題だろう。これまでオレは努めてこの話題に触れないようにしてきたが、それはこの作品のドラマとしての在り方にはその問題はまったく関係ないと考えているからである。

それはこの映画の作品としての在り方の問題ではなく、その撮影に関わった個人の倫理の問題である。

その疑惑がもしも事実であって不当な動物虐待が行われていたのであれば、それを無視してこの映画の総体を語ることはできないだろう。だが、当該団体(本当に相応の規模を持つ団体なのかは不明だが)のアティテュードについて疑問に思うのは、何故この作品の公開が一段落するまで批判を待てなかったのかということである。

たしかに、撮影に際して不当な動物虐待があったのであれば、それは厳しく批判さるべきである。それに関しては曖昧な事実しか判明していない以上、この段階で疑惑自体を検証するのは避けたいと思う。

だが、当該団体が主張しているのは飽くまで当該団体が事実だと推定している疑惑にすぎないのであって、如何に確からしい傍証が得られたとしても、それが疑惑や疑問や意見でしかない以上、興行を妨げるようなアクションは不当であるとオレは考える。何故なら、それが事実に違いない、その事実は不当窮まりないというのは当該団体の個別の確信であって、客観的に共有された事実や認識ではないからである。

如何に一〇〇%に近い確信があろうと物証があろうと、事実として公に共有された認識となっていない、また大多数の世論が当該団体の主張を無条件で支持するとは限らないという段階で、主要な興行ビジネスに影響する憶測を積極的に公開するというのは、オレの考えでは不当な言論暴力である。

世の中に一〇〇%確実なことなどはない。九九・九九九%確実な推測であっても、残りの〇・〇〇一%の可能性が真であり、事実に反する憶測であったなら、当該団体はどのように責任をとるつもりであったのか。公称一五億の金額をかけたビジネスを軽々に妨害して、それがもしただの勘違いや事実誤認であったなら、誰が、どのような責任をとるつもりであったのか、それをお聞かせ願いたいものだ。

そこで損をするのは、独り巨額の資本を投下した映画会社である。疑惑の実態がどうであれ、この問題がどのように決着することになろうと、損をしたことに伴う経済的な責任は、誰かがとらねばならないのであるが、それは映画会社の人間であって当該団体の人間ではない。

そのような疑惑を追求するのが正義に適った行いだからといって、企業ビジネスだから疑わしきは黒という理屈で一方的にリスクを負わせることが、果たして公正な言論活動といえるだろうか。

もしも動物虐待が事実であったなら、金額の多寡によらずそれによって利益を得ることは許せないという情緒的な動機は理解できる。だが、だからこそ、それが三億ならよくて三〇億ならダメという理屈はないはずである。そのような行為によって一円でも利益を得たならばそれは不当なのだし、一〇〇億利益を得たとしてもまったく同様に不当なのである。これは企業活動と社会正義の調和という原理的な問題なのだから、金額の多寡にはまったく無関係な話なのである。

ならば、疑惑の裡に留まる時点では、三億であれ三〇億であれ公平に利潤を追求する権利は企業側にもあるのである。本当は五億くらい稼げたかもしれないが、懲らしめのために妨害してやれ、などというイヤガラセじみた考え方が通るものではないだろう。

このようなビジネスの実践における不正を追求するのであれば、せめてその部分に対する公平を確保したうえで、あらためて企業利益の不当性に対して糾弾のメスを入れるべきである。

この種の活動では、企業にもそれを糾弾する側にも公正な倫理が求められて然るべきであり、相手が強い立場の企業だから多少荒っぽい手段も許されるというものではないはずだ。動物を虐待して撮影した映画が一円稼ぐことすら不当なのであれば、不当な疑惑の喧伝によって企業利益が一円損なわれることだって同様に不当なはずである。

自身が不当だと感じることを糾弾するために、自身も不当な活動をして良いというのなら、それは無名の暴力闘争である。

正義を追求するために不公正が罷り通って良いという理屈と、企業利益のためには不公正が罷り通っても構わないという理屈の、どちらが公平性の観点においてマシだというのか。正義という観念が相対的なものでしかない以上、最優先さるべきなのは社会感情としての公正さなのではないのか。

現時点での糾弾が興行の成否に関わるという企業側の弱みを衝くような、手段において卑劣な抗議活動に、誰が共感を寄せるだろうか。

さらにここにオレの個人的な見解を差し挟むなら、オレは映画撮影における動物虐待というものを、どこかの団体が勝手に決めた基準に照らして判断することなどは絶対にしない。映画会社の言い分も抗議団体の言い分も、確からしい事実を提起したうえで公正に自己の立場を主張し、第三者の判断を俟つべきなのであって、これこれこういう基準に照らしてこれは虐待と判定される、だからビジネスを妨害しても許されるなどという得手勝手な理屈を圧し附けられるのは真っ平御免である。

企業=悪、市民=正義であり、企業=強者、市民=弱者だから正義であり弱者である市民は企業に対して何をしても良いというのか。企業活動が清濁併せ呑む側面から逃れられないからと言って、不公正な糾弾によって随時ビジネス活動を妨害されても仕方ないと本当に考えるのか。

重ねて言うが、今現在も細々と公開を続けている映画について、積極的に疑惑の糾弾を周知せしめようとする活動に対して、オレはどんな妥当性も認めない。それは正義の名の下に相手の褌で相撲をとろうとする不当な言論暴力である。

たとえば、亀の甲羅に直径一ミリ程度の穴を開けることには、たしかに生体上のリスクはあるだろう。だが、そのリスクの対価は客観的に妥当に見積もられなければならないのであって、その事実の糾弾によって数億の遺失利益があっても構わないとするのは個人の考え方であるにすぎない。動物虐待という個人の考え方の振れ幅が大きい問題に関して、絶対正義の如く企業活動を妨害することが無条件で許されるのか。

たとえば、どこぞの国には球形の金魚鉢で金魚を飼育することが金魚に苦痛を与えるとしてこれを禁ずる法律がある。これを軽々に嗤うことはできないが、少なくともわが国の伝統的な飼育観に照らして行き過ぎた決め事に見えるという側面は否めない。

そしてたとえば、その法律を受け容れている国の人間が、わが国の金魚飼育の実態を糾弾する活動を展開したとしたら、それ自体は大きなお世話様ではあるが理解の範疇に留まる行為だろう。だが、それがために経済封鎖や武力行使もやむなしと判断したとすれば、それは国際的に理解される振る舞いであると言えるだろうか。

それは誇張が過ぎる、程度問題であるというのであれば、動物虐待そのものが程度問題の側面を持っているのであり、どこかの団体が特権的にその程度を決めて良いという理屈にはならないだろう。それは社会的な議論を俟って、ようやく漠然としたコンセンサスが得られる種類の問題であって、問題提起それ自体は構わないが、問題提起を根拠として特定企業の活動を妨害して構わないという錦の御旗ではあり得ない。

たとえば、複数飼育によって数頭死なせたことには、たしかに飼育管理者の不注意や不手際があったの「かもしれない」。だがそれは、どれほどの確信や傍証に基づこうとも現段階においては「過失」に対する「疑惑」である。さらに、そもそも映画撮影に亀を使用しなければ良かったのだ、娯楽に供するために動物を使うのは不正なのだとまで言うなら、動物の飼育全般が不正である。

これは極論でも何でもない。家畜と称される動物は喰われたり使役されたりするために野生生物を馴致したものである。愛玩動物と称される動物は、人間の勝手な情緒的動機で可愛がるために野生生物を馴致したものである。映画に使用されたケヅメリクガメも愛玩のために繁殖された野生生物であり、希少生物であることを強調するなら、そんな希少な生き物を愛玩のために繁殖すること自体が不正であり、楽しみのために個人飼育することなど沙汰の限りの不謹慎である。

喰うために飼うのは構わない、使役するために飼うのも構わない、愛玩するために飼うのだって人間の精神衛生の問題からしてやむを得ないというのなら、映画撮影だけが何故に特別視され批判を受けねばならないのか。映画に動物を映すことは、手元に置いて可愛がることに比べてどうでもいいくだらないことだとでも言うのか。

このような理屈を言うからといって、オレは「金を出して買った動物をどうしようが飼い主の勝手だ」などと嘯くつもりなどはない。映画撮影において無神経に多くの動物の命が奪われたという噂が囁かれる度にやり場のない胸の痛みを感じる。

金を出せば命を好き勝手にできるなどという理屈はあり得ない。それは単に、尊い命を自己責任で預かるための代金に過ぎないのであって、不当な虐待や殺害をも肯定する金額ではない。その動物が生まれてきたことを呪わないで済むように愛情をもって全力を尽くせない人間には、たとえ昆虫一匹たりとも動物の命を預かる資格などはない。

だがそれは、人間の心的現実における倫理の問題であって決め事の問題ではない。何を判断基準にするのかと問うのなら、本当に飼育者が必要な知識と必要な手間を費やして愛情を持って世話したのかどうかを問うべきである。飼育者の不注意を他人が軽々に糾弾して良いという意味ではないだろうし、それを理由にして社会的な活動を不当に妨げて良いという理屈には決してならないだろう。

以前にも言った通り、オレは個人的かつ情緒的な反応として動物の死を見せる映画が苦手である。だから、この映画のために動物虐待があったのであれば、それは必ず妥当な批判を蒙るべきだと考えている。だが、どこまでが虐待でどこまでが殺害なのか、その線引きを一個人が勝手に引いて、それを根拠に何をしてもいいというものではない。

オレが自宅のペットを大声で叱りつけたからと言って、それを他人様から動物虐待と批判されたら全力で反論するし、オレがもし不注意でペットを死なせたとして、それを動物虐待だと批判する人間がいたら、オレは一切反論はしないが、一生その人間を激しく憎み殺意すら抱くだろう。

能う限りの幸福を味わってほしいと切実に望んでも、甘やかすことだけが要求されるわけではないのだし、愛情をもって育て満腔の注意を払って飼育しても、死は平等に突如として生き物を襲うのである。その後悔や哀しみに打ちひしがれている人間を、個人的な正義感から悪し様に罵る人間を、オレは醜いと思う。

亀の甲羅に穴を開ける行為は応分に批判さるべきだろう。だが、その行為が絶対的に他の何にも優先して批判さるべき行いである、興行の失敗すら相応の酬いであると考えるのなら、それは単なる行き過ぎた一個人の信条にすぎない。その一個人の信条が尊重されるのであれば、別の個人の信条もまた尊重される必要はあるのだし、多くの人間の営為としてのビジネス活動だって公正に尊重さるべきなのである。

企業のやることがすべてひとしなみに汚い銭儲けだというのなら、そういう自分は何をして毎日飯を喰っているというのだ。汚い銭儲けだと軽蔑しながら毎日それに荷担しているのであれば、本当に軽蔑さるべきは企業ではなくそのような考え方の人間だ。

繰り返し言うが、撮影に際して亀の甲羅に穴を開けたのが事実であれば応分の検証に基づいた批判は蒙るべきなのだし、不注意で死なせてしまった個体があるのであれば、その飼育環境は検証さるべきだろう。だが、それを万能の旗印にしてどんな不当な言説をどのように展開しても良いということでだけはない。

オレは当該団体の主張自体には何ら反論すべき材料を持っていないし、その種の疑惑の検証はあって然るべきだろうとは考えるが、興行を妨害するようなタイミングで疑惑検証キャンペーンを展開したのは明らかに不当な言論暴力だと考えている。

事前にそのような材料を得ていたのであれば公開中止を求めるのが筋だろうし、公開中止に値するほどの根拠がないと考えるのであれば興行を妨害するほどの根拠でもないということである。あえて公開にぶつけるようなかたちでキャンペーンを展開したことに不当な悪意や打算を感じるし、自身の正義の下には他者の権利を踏みにじっても構わないという傲慢な認識すら感じるものである。そのようなタイミングでしか材料が揃わなかったのであれば、それは単に批判者に時利非ずというだけの話で、公開終了まで批判を控えるべきだったのである。

そうでなければ、本来角川ヘラルド側が強気に出て虐待疑惑を反証し、併せて損害賠償を求めるような事態になっていたら、間違いなく当該団体側が不利である。虐待がもし事実であったとしても、動物虐待が興行の妨害を正当化する名分であるなどという考え方は法的な通念として認められていないからである。疑惑に基づいて権利侵害を行うことそれ自体が不当であると、多くの人々が考えているからである。

オレがここで言っているのは、法的理念=社会正義ということではない。現行の法律にはたしかに多くの不備はあるが、おおむね万人に共有されていると視られる社会感情を反映した原理に基づいているということである。このような仮定が実現して当該団体が敗訴したとしても、多くの一般市民はそれを不当とは考えないだろうということだ。

そのような最悪の事態が実現しないのは、映画会社側に非があったからというより、単に映画会社というのが人気商売であり、基本的にこのような圧力団体に対しては宥和的な対応をとるからであるにすぎない。要するに、相手の弱みに附け込んで法的には褒められたことではない活動を展開しているのである。

動機において正しくても行為において間違っている正義は、やはり単なる暴力にすぎないのである。批判対象の正当な権利に配慮のない抗議活動は、ヒステリックなラッダイトの暴動にすぎないだろう。それは、強い奴なら死ぬまで殴っても構わないと考える弱者の傲慢である。

オレはこのようなやり方の抗議活動には、一切理を認めない。

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