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2006年5月25日 (木曜日)

されば夏の光よ

「小さき勇者たち」についてオレの鑑賞体験の範囲で書いておくべきことはもう尽きたと思ったが、先日ここを紹介していただいたガメラ医師さんのブログに興味深い記事が追加されていた。

実際には五月一九日に追加された記事だが、こちらの身辺がバタバタしていたので最近になってようやく気が附いた。ガメラ医師さんの個人的な友人である放送関係者のご意見ということで、プロの技術的な観点からの言及であるところが貴重である。

今回はこのご意見に対して向こう見ずにも感想を陳べさせていただくことにするが、何せ二週間も前に観た映画のボディに関する言及であるから、あまり実態に即した具体的な話はできないということを諒承していただきたいし、こちらに不見識があるなら素直にお詫びしたいと思う。

『ライティングと色について。
 日本の特撮の伝統的な「悪癖」が、このガメラでも出てしまいました。
本来、ライティングは「太陽からの自然光」を再現すべきものなのですが、なぜか日本の特撮では、ミニチュアや怪獣を綺麗に撮るために「モデルを撮るライティング」となっています。
 本来、太陽からの「ひとつの光源」からのライティングでは、必然的に陰が出来ます。
この「陰」が、実はスケール感を出すためのキーポイントなのです。』
 日本の特撮では、「太陽の再現」のライティングではなく「ミニチュアや怪獣が細部まで綺麗に見えるライティング」という伝統がある為にスケール感がスポイルされ、「綺麗に撮れたミニチュアや人の入った怪獣」になってしまっている、と分析しています。
 更に、『それから色の問題。
 タイトルテロップによると、どうもコダックのフィルムを使用しているようです。
コダック社のフィルムは、スチールもそうですが「青味」が強いという癖があります。この「癖」を生かせば、とてもいい質感になります。
 実際今回は実写場面については、この押さえた色味が生きて(好きずきも有ると思いますが)これでよいのですが、特撮シーンになると「アースカラー=赤みの強い色あい」の怪獣を撮ると、どうしても色が沈んでしまいます。
 結果、どうしてもライトが強くなってしまった・・・という事情もあったのかもしれませんね。』

所謂「キーライト」についての指摘であるが、一般的なセット撮影のライティングの問題というより、特撮に固有の問題性に纏わる言及であることには注意が必要だろう。

本来、セット撮影におけるライティングというのはそれ自体が虚構であって、リアルな見た目を再現するのがプライオリティとはならない。たとえば一般的なTV時代劇の夜間室内ライティングはほとんど嘘であると断言しても差し支えない。

何故なら、江戸時代の日本家屋における夜間照明は比較的低い位置にある燭台や行灯の火灯りが一般的で、光量に乏しく色温度の低い光源が裸火か和紙を透過して正座した人物のほぼ真横から光を当てるサイドライト・ライティング、もしくは光源の高さによってはフットライト・ライティングに近いライティングになるが、本当にこのような見た目を再現しているライティングはほんの一握りに留まる。

たしかにこのような見た目を極力再現するライティングもあるにはあるが、役者の顔を綺麗に撮れるように照らすことがライティングの重要な役割だし、見た目のリアルな再現が描写上の意図とは無関係に固有の心理的印象を与えるという問題もある。

江戸時代の日本家屋における夜間照明下で人物を視る場合、菜種油の灯明か蝋燭が光源ということになるから、本来の見た目は薄暗くて色彩感に欠け、暖色系の絵面で人物の顔にはチラチラと動く横向きの影が差すことになる。このような絵面は固有の雰囲気を持っていて、悽愴で生々しい怪奇的な印象を視る物に与えるだろう。比較的低い行灯で下からの光源になる場合、とくに怪談めいた不気味な印象を強く与えてしまう。

明朗調のTV時代劇では、リアルな時代性の再現を犠牲にしてもこのような怪奇的な印象を避け、キーライトとしての光源の方向性は強調しつつも、むしろ現代劇の夜間室内シーンのイメージでベタにライトを当てることが一般的である。

これはたとえば海外の映画でも同じことで、クーブリックの「バリー・リンドン」では夜間の室内シーンを全編蝋燭の灯りで撮ったことが話題になったが、要するに本当の見た目に拘るなら、電灯の登場以前の時代における夜間室内シーンは、すべてひとしなみに枕電灯を灯した寝室か薄暗いレストランのように見えるはずなのである。

だが、現代人の見た目で考えるなら、枕電灯の点った薄暗い室内というのは寝ることを前提としたシチュエーションに見えてしまうため、宵の口の人間の活動時間を表現するためには、普通の現代家庭における夜間照明に似たフラットライティングで映画内の時制を顕わすのである。

だから、セット撮影におけるライティングは、実は「本来の見た目」をリアルに再現することを目的として発達したものではない。シチュエーションに相応しい「らしさ」を擬態しつつ、演出意図に沿った光と影を提供するのが本来である。

一般論としては「セット撮影におけるライティングは嘘」と言ってしまえばいいが、その場合の「嘘」というのは「出鱈目」と同義ではない。映画におけるライティングとはおおむね合目的的な虚構なのである。

キーライト=主光線というのはこのような文脈上で意味を持つ概念で、画面上に写っている虚構の室内は、本来どこからどのような光源によって照らされることで人間の目に見えているべきであるか、という虚構上の考証である。それが虚構である以上、考証上の光源のみによって撮影すべきだという意味ではまったくない。

普通映画のセット撮影では、画面上に写ってほしいと思う被写体すべてが写るよう、現実に室内に存在する照明装置以上の光量の光を人工的に当てるものだが、キーライトとは、その光景が現実に人間の肉眼に映ずるために考証上想定される光源の在り方と矛盾してはならないという概念上のルール附けにすぎない。

その意味では、TV時代劇のセット撮影のライティングがリアルな時代性に基づく見た目を再現していないといっても、それは現代劇だって同じことであり、明朗調の時代劇と同様の明朗なトーンの現代劇では、やっぱり虚構の光源が都合好く役者の顔や部屋のインテリアを隅々まで照らしていたりするものだ。

それでも観客が虚構を意識しないのは、蓮實重彦の所謂「制度」という観点を抜きに言えば、人間が人間を演じるという自明性と、建て込んだセットもまた広義の屋内風景に含まれるという事情によるものだろう。つまり大本の被写体にそれほど極端な虚構が存在しないからである。さらには、普通一般の観客は、室内の光景の見え方がどこからどのような光源によってどのように照らされることでどのように見えているべきものであるのか、などと現実生活において意識したりはしないものだ。

映画のセット撮影においては、「見えてほしいもの」には必ず光が当たっていて「見えなくてもいいもの」には当たらないように作為する。不要な影が潰れ、必要な影が出るように光を当てる。それは映画的作為という普通観客の眼には見えない観念を動機とする虚構であって、普通一般の観客の意識を刺激するほどに不自然なものではない。それは、そもそも室内の光景というのは照明装置という人工の光源によって照らされている不自然なものだからである。

ところが、怪獣映画や特撮映画におけるセット撮影には特殊な事情があって、そこで再現されているのが屋内の光景ではないという固有事情がある。実物大のブロップで屋外撮影する代わりに、撮影に手頃な大きさのブロップを基準として縮小したミニチュアで実景全体を擬態するのが特撮セットなのである。

日本の怪獣映画の場合、基準となる怪獣を着ぐるみで表現する以上、人間と怪獣の比率を基に縮尺が決定され、ミニチュアセットが組まれる。被写体のスケール感が対比物との相対において成立するものでしかない以上、精密に作り込まれたミニチュアセット内の着ぐるみは巨大な生物に見えるはずだ。これが怪獣特撮の基本的原理である。

怪獣映画における特撮シーンは、特撮スタジオのステージで一から創り上げるまったくの虚構の実景であり、ここに怪獣特撮固有のライティングの問題が発生する。基本的に人工照明に照らされていることでは当条件の室内シーンの撮影とは異なり、屋内において完全に人工物の模型によって屋外の光景を擬態する必要があるのである。

基本的に怪獣が存在する白昼の光景においては、その光源は太陽でしかあり得ない。この場合、室内の見立てではないのだから、どこからどのような光源によってどのように照らされて、などと考える必要など一切ない。光源はいつでも太陽であり、キーライトも影の方向も一目瞭然である。どんな観客でも、屋外における光と影の在り方は自明に理解しているので、恣意的な嘘が通用しない。だから難しいのである。

そして、映画撮影において最も大光量の光源は晴天時の太陽であり、ピーカン時の燦々と照り附ける屋外の陽光をスタジオの人工照明で再現するのは未だに困難である。怪獣映画のライティングが難しいのは、この映画撮影において最も難しい照明効果をスタジオで常に再現しなければならないからなのである。

たとえばピーカン主義で識られる円谷英二が「ダイゴロウ対ゴリアス」において未曾有の大光量で特撮シーンの撮影に臨んだことはよく識られるエピソードであるが、実際に作品を視てみると、あのデフォルメされた着ぐるみ造型でありながら、気味が悪いほど細かい陰翳によって生物感が演出されていることに気附く。

これは光学合成技術による実景との合成カットが多用されていることとも無縁ではないだろうが、日本の怪獣映画においても、太陽光と自然な陰翳の再現が特撮シーンのリアリティにおいて重要なファクターであるという認識がまったくなかったわけではないのである。「ミニチュアや怪獣が細部まで綺麗に見えるライティング」にとくに拘っていたわけではなく、ハリウッド映画ほど照明に金が掛けられないとか、使える照明機材の機能的限界があったという事情も大きかったのだろうと思う。

おそらく、円谷英二亡き後の多くの怪獣特撮において「ミニチュアや怪獣が細部まで綺麗に見えるライティング」という観念は意識化されていなかったとオレは思う。怪獣特撮の方法論が自明化するに連れ、目の前の被写体ありきで撮影を考えるから、撮り手の無自覚としてそれは顕れる特質なのであると思う。

そして、日本の怪獣映画においてフラットライティングやアイポジが頻出するのは、そのほうが楽だからであり、それで十分怪獣特撮が成立したからだろう。大光量のキーライト主義で太陽光の陰翳を擬態するよりも、ローポジ・ハイアングルでもバレないような高いホリゾントを組むよりも、フラットライティングのアイポジ撮影が楽なのは当たり前の話であって、「怪獣特撮」の見え方が制度化することで、それで十分「見立て」としての怪獣特撮が成立してしまうのである。

何故日本の怪獣特撮においては、フラットライティングのアイポジという嘘が堂々と罷り通ってきたのか。それは、怪獣特撮が獲得した「見立ての制度」を手放してしまうなら、怪獣特撮の撮影には莫大な金がかかるからであり、膨大な手間暇がかかるからであり、天井の高い広大なスタジオが必要となるからであり、巨大なホリゾントが必要となるからであり、大光量の照明装置が必要となるからである。

要するに従来の日本の怪獣映画固有の肉体性は、撮影の経済として成立した認識の制度なのであって、ミニチュアや着ぐるみそれ自体を見せることが目的化していたわけではないとオレは考える。

おそらくそれが意識化されるのは川北紘一特技監督の世代で、彼は間違いなくミニチュアセットを精巧なミニチュア模型として愛好しているのだし、着ぐるみを人間が着る衣裳として愛好している映像作家だとオレは視ている。つまり、スペクタクルシーンのためのトリック撮影ではなく、「特撮シーン」というメタ的かつ目的的なボディとして特撮を撮る意識を持った特技監督は、川北紘一を嚆矢とするとオレは思う。

よく引用されるのは、「大きなセットを一杯作れば、どこにもバレがなく自由にカメラをセットできて結果的に効率的」という川北特技監督の言い分だが、この発言が実態に即していないことは、歴代ゴジラの特技班の中では川北組がダントツで撮影が遅かったということでも明らかだろう。

むしろ、カットごとに写る範囲でしかセットを作らないミレニアム以降の特技監督のほうがよほど撮影がスピーディーだったという話を関係者から聞いたことがある。広いミニチュアセットそれ自体がカメラ位置の自由度や段取りの効率性を妨げ、結果的に川北組を段取りの悪い特技班に仕立て、ミニチュアを撮るためのミニチュアに見えるような撮り方になってしまった側面は否めないだろう。

その話を聞いた際、オレは飛び人形のMGよりも巨大なガルーダのブロップを実際にこの眼で視る機会に恵まれたが、たしかに実物の模型を眼にすると物凄く威圧感があるのだが、その半分くらいの大きさの「しらさぎ」のミニチュアと、画面上の効果はあまり変わらないと思うがどうだろうか。

要するに川北特技監督は、映像効果上の要請というより、情緒的な嗜好として精巧なミニチュアやよくできた着ぐるみそれ自体が好きなのである。巨大なステージ一杯に新宿の街並みが精巧に再現されていれば、それでモチベーションが上がるのである。飛行メカの巨大で精密なブロップが上がってくれば、それによってイマジネーションが湧くのである。

それはそれでオレは構わないと思っている。個別に平成ゴジラ映画を語るなら、オレはジャンル固有の事情に斟酌することなく一本の映画として語るだろうが、「ゴジラという千両役者を見に行く」というスペクタキュラーな意味では平成ゴジラ全般さほど踏み外した映画ではないだろう。作劇の観点を外して考えるなら、映画としての魅力という意味では「小さき勇者たち」は圧倒的に平成ゴジラに負けている。

この映画には、「基本的にガメラはゴジラより格好悪いデザインである」という認識が欠けている。昭和ガメラが愛好されたのは、泥臭いデザインでありながらそれを補って餘りあるキャラの魅力で幼児の共感を得たからであり、平成三部作のガメラがあれだけ造形物として格好いいのは、デフォルトでゴジラよりも格好悪いガメラを不本意ながら撮らされた三部作スタッフの意地の産物である(笑)。

そして、怪獣映画の絵作りという意味では画期を成した平成三部作でも、G1においては全編青天井でミニチュアセットを組み直接太陽を光源にいただくという試みが為されているが、「他人がやらないのにはやらないだけの理由があった」と樋口真嗣特技監督が後に述懐しているように、カメラ前やセット上を羽虫が風靡したり、ミニチュアセット撮影にも関わらず天候に左右されるというデメリットが明確化した。

だが、その苦労の甲斐あって、G1はあれだけ素朴な着ぐるみやミニチュアセットでありながら、怪獣映画を「着ぐるみ」「ミニチュアセット」という被写体から発想するのではなく、映像的スペクタクルから発想するという新しい、だが怪獣特撮にとって本来的な視点を提供し得た。G1が成し遂げたのは、リアルな特撮映像それそのものというより、従来の怪獣特撮が依拠していた「見立ての制度」をぶち毀して、あえて現代の眼で原点に回帰したという手柄だろう。

怠惰な実写映像作家は、ついつい撮影の実践をオリジンとしてモノを考えてしまいがちだが、優れた映像作家は絵とその繋がりを起点に実践を工夫するのである。だから、平成三部作に怪獣映画の表現として画期的な意義があるとしたら、それは明確な映像的想像力を起点にコンテが考え抜かれているということに尽きるだろう。

樋口特撮が屡々「アニメ的」と言われるのは、従来の怪獣映画が着ぐるみありきセットありきという被写体オリジンで、それをどう撮るかという撮影の実践面から出発していたのに対して、最初の最初から絵のコンテニュイティーで特撮シーンを構想していたからであると思う。この絵を撮るためにしかじかの被写体が必要である、そういう発想をもう一度怪獣映画に取り戻したことにその意義がある。

普通の実写作品は、そういう撮り方はしない。川北特技監督の「大きなセットを一杯作れば」という発言は額面通りの意味ではなく、彼が被写体から映像的モチベーションを得て撮り方を発想する映像作家であることを顕わしているのだとオレは考える。

平成三部作中最も着ぐるみの造型がお粗末なG1でなぜあれだけ興奮できるのかといえば、着ぐるみという被写体が、想定されている絵が要求する一素材でしかないからである。勿論それが優れた造型であったならさらに良かったのだろうが、そうでなくても映像的想像力さえ優れていればスペクタクルとして成立する、即ち映画に映るのは被写体それ自体ではなく撮り手の映像的想像力であることを、G1のチャレンジは想い出させてくれたのである。

実際、特撮に使用するブロップの類は、精密な卓上模型に比べてフィルムに写らない部分はたいがいぞんざいに作ってあるものである。如何にも精密に見える巨大タンカーの手すりが単に釘を打って色を塗り凧糸を張っただけの代物であったり、噴煙を合成処理するロケット噴射口には剥き出しのムギ球がおざなりにねじ込まれていたりするものである。「自分の頭の中にある映像を見せる」という明確な自意識があるのであれば、ブロップの精度はそれほど問題にならないものなのだ。

というわけで、寄り道が過ぎたのでライティングに話を戻すが(笑)、G1で樋口監督が青天井を試みたのは、燦々たる陽光と自然な陰翳をスタジオ照明で再現することが窮めて困難だからであり、何より天上バレのハンディがないためにアングルの自由度が得られるからである。いわばお金と労力を費やさずに従来特撮の問題点を克服しようという技術検証の手続である。

これがあえなく失敗したことで、平成三部作のセット撮影の主戦場はリアルなライティングの自由度が残されている夜間へとシフトしていくのだが、それについてはまた別項に譲るとしよう。

とりあえずピーカン主義の延長上で青天井を採用したG1では、撮影時に記録的な猛暑に見舞われたという偶然も幸いして、かなり陰翳を強調した強いライティングになっているし、巨大感を強調した煽りのアングルを多用して撮影されているが、たしかに巨大感こそ実現されているものの、ガメラが生物的に見えるかといえばそうではあるまい。ガメラという怪獣は、原理的に生物感が出にくいキャラクターなのである。

着ぐるみ演技でよく言われることに「人間ぶり」という言葉があるが、着ぐるみで表現される生物は、中に人間が入って演技しているものである以上、基本的に人間らしい仕種と完全に絶縁することはできない。それは人間という生物の骨格機能が他の生物と隔絶しており、肉体に自明化された自然な身ぶりに人間固有の意味性が附き纏うものであるが故の宿命である。

その意味で、優れた着ぐるみ役者は如何に人間臭い仕種を排するかということに心血を注ぎ、動物園でさまざまな動物の動作を研究したり、画面上の見え方をチェックして歩行や手ぶりという基本的な身ぶりの人間性を一旦解体して考える。さらに、優れた造形家は如何にして人間の骨格というアーマチュアを意識させない全体フォルムと部分の稼働を実現するかに心を砕く。この方向性における造型と演技の追求は、たとえば帰りマンのツインテールやG2のマザーレギオンが出色の出来と言ってよいだろう。

そして、たとえば平成ゴジラにおいて「掴む」という動作が極力排され、手の動きが重厚に抑制されているのは、「手を使って物を掴む」という動作が窮めて人間的なものであり、キングコングのような人間くさい生物ならいざしらず、恐竜の延長上で捉えられているゴジラには似つかわしくない動きだからである。

GFWという作品が一般的なマニアに不評なのは、そのように積み上げてきたゴジラ芝居の歴史を、スキニーな着ぐるみとアクション出のスーツアクターの躍動的な動きで転覆したからということもあるだろう。GFWゴジラは平気でクモンガの糸を掴んでジャイアントスイングに持ち込むし、身軽にジャンプしてハイキックをかましたりする。これはまさに人間の動き以外の何物でもない。「人間ぶり」「怪獣プロレス」という現代的な怪獣映画のタブーをあえて侵犯したところにこの映画の特異性がある。

恐竜のフォルムと動作に仮託された重厚な移動砲台という平成ゴジライメージを根底から転覆したのがGFWの存在意義なのであり、いわば特例中の特例である。オレは基本的に北村龍平の映画が好きなのでGFWについても好感を持っているが、これがゴジラ映画としては色物であることはたしかだろう(笑)。

だが、ガメラという怪獣は昭和ガメラの時代から、人間的なキャラクターを具える怪獣であり、その意味で「人間ぶり」からは逃れられない宿命を持っている。それはリアル寄りに振った平成三部作も例外ではなく、人間である浅黄と勾玉を通じて心を通わせる存在である以上、ガメラが人間的な思考とはまったく異なる剥き出しの獣性を具える存在であるというイメージはまったくない。

一種神秘的な獣人の延長上でパブリックイメージが捉えられているキャラクターであると言えるだろう。それはある種、悪意的な繁殖機械であるギャオスの無機質な獣性と対比される人間性であり、その故に所詮ギャオスはCGで代替されても不自然ではない凶悪な猛禽・猛獣の群なのである。

対するに、ガメラはやはり着ぐるみの人間臭さによって体現されるキャラクターでなければならず、その「演技」とは所謂人間的な意味での「芝居」に通底するものがあるのである。その仕種が人間的な思考の表出であるなら、どれだけ動物的な動作を研究しようが、それはやはり人間と同じ意味での身ぶりの芝居にしかならない。

言ってみれば、ガメラはどれだけリアルな造型でどれだけリアルな撮り方をしても、人外の生物としては、口が利けないだけで巨大な人間のアナロジーとして見えてしまう存在なのであり、その意味では「激走戦隊カーレンジャー」のGGゴキちゃんとあまり変わらない存在なのである(笑)。

たとえばゴジラは屡々自然災害に喩えられるが、これはゴジラが主観を想定しづらい客体としての存在であり、人々に仰ぎ見られる邪神的偶像だからである。一方ガメラを何かに喩えるとしたら、それは侠客であったり剣豪であったりハードボイルドヒーローであるということになるだろう。

ガメラとは飽くまで固有の主観を持った人間的なキャラクターなのであり、ガメラの魅力とは仰ぎ見る偶像としての魅力ではなく、ヴィヴィッドな共感の魅力なのである。そして、ガメラの着ぐるみが如何に進化しようが、ガメラという存在固有の問題性として「人間ぶり」の呪縛からは逃れられない。

さらに言うなら、その呪縛を端的に表現しているのが、ガメラの眼の造型である。俗に「眼は口ほどに物を言い」と謂うが、平成ゴジラの造型ではゴジラの無表情さや野獣性を際立たせるために剰り白目と黒目がハッキリしたマンガ眼には見えないように造型しているが、ガメラの場合、少なくともG2まではどのカットでも眼の表情がわかるような人間的な眼球構造になっていて、しかも一種の人間的な表情芝居まである。

人間的な心性を持つ生物の人間的な造型の着ぐるみに人間が入って人間的な芝居をするのであるから、それを視て「人間が入っている」ことを意識するなというほうが無理である。平成三部作でも、G1のクライマックスでは、血の赤の遮光膜に覆われた無機質な眼のギャオスと、クリクリしたマンガ眼のガメラが戦う場面にキャラクターのリアリティの面で若干ギャップがあったのだが、今回の「小さき勇者たち」の決戦場面では、さらに凄まじい違和感を醸し出している。

たとえば、ジーダス単体で映っている場面ではかなりジーダスの生物感が顕れていると思うのだが、トトガメラ単体で映っている画面では、それとはまるで違う「ダイゴロウ対ゴリアス」的なデフォルメされたリアリティになっていると思う。それこそ背後から戦隊ロボが助っ人に現れても不自然ではないような位相の異なるリアリティになっているのである。

「なんだ結局着ぐるみの悪口か」と言われたらそれまでだが(笑)、このリアリティの着ぐるみが演じる格闘にスケール感や陰翳をもたらしたら本当にリアルになるのか、という疑問がオレとしては拭い去れないのである。

たとえば「ダイゴロウ対ゴリアス」という映画の個別の時代性における試みは評価できるし、あのデフォルメされたキャラクターを大怪獣として演出する上で太陽光の擬態を追求した円谷英二の考えは理解できるが、可愛い造型だからこそ、あのライティングではダイゴロウの質感が若干グロテスクに見えてしまうのもやむを得ないと思う。

それは一面、あの作品がデフォルメされた怪獣を用いてはいながら喰い物や排泄物の処理というリアルな生態を描いたギャップの故もあるだろうが、どうもオレはこの作品でそのライティングを試すなら、もっとリアル寄りな他の作品でやってほしかったと思わないでもない。たとえばピグモンやブースカに生々しい生物感があったら、やっぱり気持ち悪いだろう。この種のキャラクターの可愛さは、生々しい生物感とは別次元で成立するリアリティなのである。

それと、オレの事前の予想としては、デザイン面で非常に戦隊怪人的な「人間ぶり」のフォルムを残すジーダスが実際の画面で「怪獣」に見えるかどうかに不安があったのだが、吉田瑞穂の送り狼のような気味の悪い演技のおかげもあってか、ジーダスの怪獣らしい見え方にはそれほど不満は感じなかった。ただその半面、やはりリアリティの面でトトガメラのデザインと整合していない印象は否めない。それはこの二頭の怪獣が絡む場面では拭い去れない違和感として映ってしまうのである。

まあ、この高ぶるドラマのクライマックスに、何ともしょっぱいCGの「トトインパクト!(笑)」を持ってくる辺り、金子特技監督の仕事にそれほど高い評価を与える必要はないとは思うが、平成三部作も手塚ゴジラも観ているはずの金子功があえてフラットライティングで特撮シーンを撮りきったのは、主役のトトガメラを活かす方向でジーダスとの格闘を撮る場合、トトガメラを「巨大怪獣」として演出するより「キャラ」と割り切って、トトガメラ側のリアリティをメインに据えてベタに当てたほうが正解だと考えたからではないだろうか。

どうもオレには、ジーダスがピンで出現する場面にのみ怪獣映画的な興趣があり、トトガメラが絡む場面は撮り手の側もキャラクタードラマと割り切っているように見えて仕方がない。

たとえば先ほどG1が提起したと陳べた映像ありきの絵づくりで考えてみるなら、トトガメラが成立するリアリティとはどのようなものだろうか。これがかなり仮構度の高いリアリティであろうことは容易に類推される。トトガメラの造型ラインは、着ぐるみ単体で視る限り、とても現実の生物には見えないものである。

この造型を活かすベストのライティングがフラットライティングだとは言えないかもしれないが、少なくとも太陽光を擬態して陰翳を施す手間を費やしても二頭の怪獣の違和感が際立つだけという判断もあったのではないかと思う。

おそらく、無機質で爬虫類的な造型のジーダスについてはリアリティや生物感が増すだろうが、その分トトガメラの仮構度の高い造型のグロテスクな質感やジーダスの造型とのギャップが際立ってしまうだろう。要するに、ダイゴロウとUSAゴジラが同じ土俵で戦うような、両さんとジョジョが格闘を演じるオールジャンプキャラクタートーナメントのような、さらに凄まじい違和感を醸し出したことだろう。

そういう意味では、ポジティブな意味で効果的ではないにせよ、この映画の特撮パートが結果的にこのようなライティングになっているのは、あながち故ないことでもないのではないかと想像する。

フィルムの特性上の都合というのは説得力のあるご意見だとは思うが、前近代的なジオラマ寄りの特撮意識だけはなかったのではないかとオレは思う。そこには、ジーダスとトトガメラが同居してよい絵面とはどのようなものか、という非常に辛い模索の痕跡があるのではないかと、せめて好意的に想像する次第である。

それと、些末な部分に難癖を附けるようで恐縮だが、「好きずきで言うなら」やはりオレは本編の色調には大きな不満を感じてしまうなぁ(笑)。

引用文中のフィルムの特性についてのご意見は専門家の見識を尊重するとして、それとは別に、最初の感想を書いたあとでもう一度メイキングを視てみたら、どうも肝心要の伊勢志摩パートの撮影全般晴天に恵まれなかったという事情もあったようだ。

あの辺に旅した経験のある友人に聞いたところ、やはり伊勢志摩の夏というのは陽光が燦々と溢れ、海の碧、雲の皓、梢の緑、夕陽の茜という夏の色彩に彩られた美しいものであるらしい。おそらく実際にあの近辺で撮影している以上、そのような如何にも夏らしい風光明媚な景勝を期待して選定されたロケーションだったのだろうが、メイキングを視る限り、デジカメの性能を差し引いても、どのカットもどんよりと灰色に塗り潰された曇天続きで、これは単純に運が悪かったということだろう。

人為の為せる業ではなく天機に属する事柄ではあるが、「一夏の冒険」を主題とする映画で画面に夏が映っていないのは致命的な弱点であろうと思う。たとえばオレは「菊次郎の夏」というのはあんまり良い映画だとは思わないが、久石譲の劇伴と相俟って窮めて夏らしい光景が映し出されていることには好感を持っている。

いつといって季節を指定していない作品で季節感がないのはまったく問題にはならないのだし、たとえば名古屋パートの部分に季節感がないとしても、それが大都市圏である以上当たり前の話だが、地方を舞台に季節を夏と指定して少年の物語を語る場合には画面に夏が映っていなければお話にならないだろう。

現状のフィルムのルックが必ずしも悪いとはオレも思わない。ただそれは、夏を撮ろうと思ったら天気が悪くて撮れなかったので、仕方がないから違うトーンで色調を合わせた妥協の産物であることが丸わかりである。フィルムのルックに整合が取れていることと、本来狙うべきルックの在り様というのはやはり別問題であろうと思う。

因みに、地上の四倍見当の暑がりであるオレは、体感的には東京のベタ附く夏が大嫌いである(笑)。だが、一般に少年の郷愁において夏という季節は特権的な意味を持っていると考える。どんな夏にも必ず終わりが来るが、夏の直中にある少年はこの夏が終わることを信じないものなのであり、誰しも少年時代を顧みるとき、その胸の裡には終わらぬ夏の鮮やかな記憶が蘇る。

その意味で、画面にきちんと夏を映して荒唐無稽な少年の冒険を見世物として描きながら、その素晴らしい夏がワンカットのディゾルブで儚く終わり、紅顔の美少年が無骨な地方青年へ変じる幻滅を容赦なく暴いた「妖怪大戦争」には逆説的な魅力を感じる。

以前書いたように、オレは「妖怪大戦争」という映画は優れたドラマ性で泣かせる類の映画ではないと考えているが、それにも関わらずこの映画の具えるボディは少年時代に纏わる本物の追憶と感傷を呼び起こす。それはこの映画の画面に映っているのが本物の夏だからである。

Vシネの諸作品では薄っぺらい撮影が目立つ三池作品にしては意外なくらい「妖怪大戦争」の撮影は良い。季節を主題にした映画において、季節と季節に活きる人が巧みに捉えられた映像は無条件で存在する価値があるとオレは思う。

「小さき勇者たち」のドラマにおいて、その背景に鮮やかな夏の伊勢志摩が捉えられていたらどんなに良かったことだろうか。たしかにこれはオレ個人の「好きずき」ではあるが、この種の映画に望む重要な映像的興趣をそこに求めている以上、やはりそこが惜しまれてならないのである。

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