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2006年5月 9日 (火曜日)

考証トリビアリズムを嗤う

さて、前回のエントリーで少し触れた特ヲタ層の反応だが、好意的な意見も多い一方で単なる無理解に基づく幼稚な攻撃も目立ったのは残念である。

如何に「小さき勇者たち」の怪獣映画としての出来が今ひとつとはいえ、これだけ映画としての骨格がしっかりしている作品に対する特ヲタからの批判が、重箱の隅をつつくような細部の揚げ足取り中心というのは正直ガッカリさせられた。

しかもその大部分が、映画を普通に観ていれば見当違いであることがわかるような為にする難癖ばかりで、「つまらない」とクサすだけならともかく、あえてネットを介して同好の士と語らうならもっと気を入れて映画を観ろと腹立ちを覚えた。

透がトトの卵を見附けたときの石の光り方が派手すぎて他の人間にも見附かるのではないかとか、あんな重い一メートルガメラをどうやって二階から降ろしたんだとか、読んでいて赤面するような勘違いの論難ばかりで、正直こういう人間も一人前に映画を観ているのだから、近頃流行りのセリフによる過剰な説明も、こういう観客相手なら防衛的な意味で必要なのかもしれないとすら思ってしまった。

これはもう、脳内補完がどうのというレベルではない。これに説明が必要なら、弁士が舞台袖に登場して全編言葉で説明した挙げ句、上映後に質疑応答でも設ける以外に映画の内容を理解させる方法はなくなるだろう。言ってみれば、電子レンジに猫を入れて乾かした婆さんという都市伝説のレベルのリテラシーである。莫迦の怠慢や勘違いまで想定して映画を語らねばならないとしたら、こんな不幸で愚かな時代はない。

所謂「ネタにマジレス」の類の反応になるかとも思うのだが、正直、こういうことを口にする人間に、嗤うべき冗談であるという自覚が本当にあるのかどうか、かなり不安を覚えたので、この際あえてムキになってみよう。

勿論、赤い石の光は透にしか見えなかったのだ。普通に考えれば、いつから卵がそこにあったにせよ、透以外の人間が赤い石の光に気附かなかった以上、劇中の事実としてそれが見えたのは透だけだったということになる。なぜ透にだけ見えたのかと問うならまだしも、他の人間に見附かったはずだという、劇中で描かれてもいない可能性を前提に難癖を附けるのは沙汰の限りである。

おそらく、このような疑問を抱く人間は、「主観映像」という言葉を識らないのであろう。透が卵を見附ける前に赤い石が光る映像は、透の「見た目」においてしか現れないのだ。つまり、他人にどう見えていようが、赤い石の光を見たのはこの劇中の世界においては透一人だけであり、それが作劇的に意味のある事実のすべてなのである。

それはある意味赤い石が透にだけ選択的にメッセージを送ったということであり、文様の刻まれた赤い石として半ば人工物と表現されている以上、それは摩訶不思議な機能を持つ「機械」の一種だと解して差し支えない。それが摩訶不思議な機能を持つ「機械」であるなら、ある意味「何でもアリ」のマクガフィンである。その「何でもアリ」の万能性の行使が、トトの庇護者として透を選んだこととトトに成体としての力を与えたことの二点に留まるなら、節度ある用法の部類だろう。

そして、そのような自明な筋道を説明することは野暮に亘るから、普通の慎み深い語り手は、観客のリテラシーを信頼して説明を割愛するものなのである。そのつくり手の信頼を裏切って莫迦面を提げて難癖を附けることがどれほど恥ずかしいことなのか、本当にわかっているのだろうか。

また、透たちが一メートルガメラをスケボーで運ぶ場面で、まさか二階から階下まで透がトトを手で運んだなどという莫迦な勘違いをする輩がいるとは思わなかった。あの場面でスケボーによる運搬という絵を作ったのは後のトレーラー移送とヴィジュアル的に関連附けるためであるという「作劇意図」に関してはすでに語ったが、その劇中における実態的理由についてまで説明の要があるとは思わなかった。

言うまでもなく、トトは二階から階下まで自分の足で歩いて降りたのである。しかし、それこそ亀の歩みの速度で遠く離れた秘密基地まで歩いて行ったら夜が明けてしまうから、透たちはトトをスケボーで運んだのである。つか、そんなどうでもいいことを莫迦にでもわかるように説明しろと迫ること自体莫迦である。

また、たとえば緋色真珠がガメラのエネルギー源「らしいとされている」というセリフを麻衣の父親が語り、捉えたトトに無理矢理エネルギー液を注入する場面で雨宮博士自ら「緋色真珠を研究して抽出した液体」だと説明しているにもかかわらず、博士がガメラのエネルギー源を持っていることを不思議がる人間までいたのには心底呆れた。

このような手合いには、最早セリフで直接説明しても無駄だということである。自分たちが余所見や居眠りをすることまで勘案してわかるように説明せよというのは、いったいどのような映画を想定して附けている難癖なのか。これは子どもが観ても意味がわかる簡単な筋を語る映画なのである。

さらに呆れたのは、麻衣の心臓疾患の手術が成功確実で劇的緊迫感に欠けるという指摘である。こういうことを言う人は、「大丈夫だからね」とあんまりしつこく言われたらかえって不安になるという普通の感覚もないのだろうから、死病に取り憑かれても家族は苦労がなくていいだろう。

勿論オレは、父母に元気附けられたせいでかえって麻衣が疑心暗鬼に取り憑かれたなどという莫迦げた妄想を話しているのではない。心臓疾患の手術で一〇〇%成功確実などということはあり得ないし、たとえば七〇%という高い成功率でも三〇%は失敗するのであり、自分がその三〇%にならない保証などどこにもないということである。

それを「成功確実」と取る輩は、多分お医者さんに「いやぁ、そんなのは七〇例に一例の割でしか起こりませんよ、あっはっはっは」とか言われて簡単に安心しちゃうんだろうなぁ。まあ言うまでもないことだが、七〇例に一例というのは、リスクの種類にもよることだが、臨床的には物凄い高率だという意味である。まして成功率数十%ということは、一〇例中数例は失敗するという意味なのであり、その裡の何割かは死に至るわけだから、これは異常な高率で術中に死ぬということだ。

麻衣の持病が手術難度の低い心臓疾患と設定されているデリカシーはそのような点にあるのであって、手術の成功率が何%であろうとも必ず例外はあるのである。そして、心臓疾患の手術の失敗は、死に結び附く可能性が厳然とある。技術の進歩によって成功率は高くなっているが、一歩間違えば死ぬ手術である辺りが設定上のキモなのである。

そして、普通に何の持病もない人間なら、子ども時代に死を具体的に意識することなどはないが、先天性心臓疾患の持ち主である麻衣は、常にリアルな死の恐怖に苛まれて生い育ったのである。稚ない頃から、不具合を抱えた心臓がいつか突然停まってしまうかもしれないという恐怖に晒されながら生きてきたのであり、おそらく運動にも制限が課されていたことだろうから、同年代の普通の子どものような活発な生活はできなかったはずである。

そのような不自由な生き方を変えるチャンスが手術であり、それには当然わずかな可能性とはいえ、死のリスクが伴うのである。だからこれは、非常にオーセンティックな意味での通過儀礼の側面があるのである。

麻衣の手術という劇中イベントは、実際に手術の失敗で麻衣が死んでしまうかもしれないという危険性もさりながら、十代の少女がリアルな死の恐怖を賭けて挑む最初の大きな賭けであるという作劇的意義が大きいのである。麻衣が手術の失敗を懼れ、死を懼れるのは、それはたしかに現実的な可能性に対する危惧ではあるが、それ以前に麻衣が手術というチャンスのネガティブな側面しか視ていないということである。

それは、先天的な心臓の異常を矯正して、普通の少女としての、普通の女としての健康な人生に踏み出すための、最初の過酷な賭けなのである。しかし、手術を懼れる麻衣の心理としては、あえて術中死のリスクを冒してまで「普通の生き方」に一歩を踏み出す勇気が持てないのである。「普通の生き方」を「当たり前」のように享受している同年代の少女たちを羨みながら生きる不自由な境涯に甘んじるとしても、その恐怖を克服する勇気が持てないのである。

それを透の視点に立って視るなら、これまで当たり前のように「優しいお姉さん」として甘えてきた少女が、その実、未来への不安や死の恐怖に苛まれ、同年代の少女たちのように夢中になって遊び回ることもできない、自分と何ら変わりなく悩みを抱えた弱い子どもにすぎないという事実を突如として目の前に突き附けられたことになる。

この「弱い子ども」としての麻衣の姿を真正面に見据え、何かしてやりたいと強く望むことで、透は麻衣に対する心理的依存を脱却して、一人の男として生きる一歩を踏み出すのである。

だから、麻衣を勇気附けるために透がトトの命を育んだ赤い石を預けると決め、麻衣が赤い石に仮託された透の気持ちを受け止めたとき、すでに赤い石の奇跡は成就されているのである。

この筋道において麻衣の手術が失敗していたら、それこそ何のための設定なんだかわからない。麻衣の手術というイベントの持つ作劇的な意味は、赤い石を受け取った瞬間に終わっているのであり、赤い石が麻衣の手に渡る妥当性とトトの許から遠ざけられている妥当性に、イーブンのバランスが取れていなければならないからこそ設定されたイベントなのである。

心臓病の手術という一種手垢の附いた作劇要素を用いながら、それによって透と麻衣の対等の視点における通い合いを描き、麻衣もまた自身の未来を賭けて危難に挑むのだというテーマを確認し、さらにはトトのピンチと透による救出というプロットを用意するという、複数の作劇要素を同時に手当てする筋道は、一種高度な作劇の智恵である。

このような子どもにでも直観的にわかる人情の機微に気附かない鈍感な観客が、自身のリテラシーの欠如を棚に上げて手柄顔に作劇の瑕瑾を論じることなど、嘲笑の対象でしかない。

さらに驚愕に値するのは、クライマックスの対話において透がトトに赤い石をさっさと渡さないのが何故だかわからないと堂々とのたまう輩が実在することである。こういう人は、もう特撮に限らず映画全般を観る必要がないのではないだろうか。

言うまでもないことだが、透がトトガメラに赤い石を渡すのを躊躇ったのは、子どもであるトトが大人であるジーダスに勝つための最も確実な手段が自爆であるからだ。その筋道については、すでにアヴァンガメラのシーンが冒頭で暗示しているのだし、この映画におけるガメラとは「怪獣と戦って死んでしまう存在」として提起されたのだということはくどいくらいに強調されている。

だから、何も言わずに透が「さっさと赤い石を渡して」いたら、トトはアヴァンガメラと同様に透を護るためにジーダスを道連れに自爆していたかもしれないのである。

そして、前半において透がトトをガメラと認めたくないと思う動機は、ペットの亀が怪獣だったら近所迷惑で困るという下世話なものではなく、トトがガメラだったらいずれ地球と人類の脅威を斥けるために自身の一命を犠牲にする存在だからである。

いつまでも自分だけの可愛い弟分でいてくれたらいいのに、トトにはガメラとしての使命があって、最終的には自爆してでも使命を全うする存在であることを認めたくないからである。愛する弟分が、自分にもトトにも無関係な全世界の命運を担って死んでしまう存在であること、これが子どもである透には耐え難いのである。それはすでに劇中のセリフで説明されているコンクリートな劇的事実である。

だとすれば、クライマックスにおいて透がトトに望むことは、ジーダスを倒して人々を救うことでなどあり得ない。人々などどうでもいいからトトにだけは逃げおおせてほしいと自分勝手に望むのが、普通の子どもとして自然な心理である。それこそ、世界の命運など世界に委せておけばいいことなのだ。なにゆえ自分の大事なトト独りがその責任を負って命を賭けねばならないのか。

アヴァンガメラがオレたちの識る平成三部作のガメラであるのなら、彼はギャオスが体現する超古代文明の呪いの当事者である。その当事者性において彼が男泣きの戦いの果てに自爆したことには相応の因縁というものがある。だが、トトはその戦いの後に生まれた新しい世代なのであり、ギャオス的な呪いに直接の因縁はない。トトはそのように生まれたからそう生きなければならない存在なのであり、そのトトが自爆することはアヴァンガメラの自己犠牲を出でて悲劇的な成り行きである。

だから透には積極的にトトの戦いを応援する動機などはない。できることなら戦うことなく逃げてほしいと願ってはいるが、ジーダスが麻衣の入院する町を襲ったことで、そうは行かないという残酷な事実が否応もなく透の前に突き附けられる。

ジーダスの脅威に対抗し得るのはガメラだけなのだし、無関係な世界は入院中の麻衣を媒介として無関係ではなくなってしまうのである。トトが戦わなかったら、いずれジーダスによって、せっかく恐怖を克服して命の賭けを勝ち抜けた麻衣もアッサリ貪り喰われてしまうのだ。

このような世界を救うために、ガメラという存在があるのである。世界というのは、ただの言葉なのではなく、透や麻衣や友だちが住んでいる今この場と地続きの場所なのであり、それを護り得る力を持つ者には命を賭けて戦う宿命が待っているのである。

先代ガメラの爆死はこのような非情な原理に基づいて実現したのであり、稚ない子どもにすぎないトトにも、原理的にそのような冷酷な宿命が課せられているのである。だとすれば、透には自爆へと宿命附けられたトトの戦いを黙って見守るしかないのか。

この映画が語る内実はここに収斂するのであり、そのような非情な宿命に対して「絶対死ぬな」「オレがそうさせない」と叫ぶところがキモなのである。独りの戦いが原理的に自己犠牲に収斂せざるを得ないなら、絶対独りでは戦わせない、独りの戦いの死を死なせないという断固たる決意が平成三部作を踏まえたこの映画の結論なのである。それをこそ、二時間近い尺をかけて延々と語ってきたのである。

ジーダスの脅威というサスペンスとカットバックしながら赤い石を巡る透の焦れったい遅疑逡巡が描かれ、トトに対する語り掛けが描かれる意味がわからないのであれば、ここまで映画を見続けてきた意味がない。これがわからないのであれば、およそ娯楽映画と名の附く子どもにすらわかる簡単な娯楽を愉しむ資質がない。

こういう筋道が、今この場でオレの舌先三寸で生じたのだと考えるのなら、それはもうドラマの意味を読む能力が、引いては人間の現実を理解する能力が決定的に欠けているのだとしか思えない。オレの註釈は曰わく言い難い作劇の機微を何とか具体的な言葉で顕わすための試みの一つにしかすぎないのであって、普通の真摯な映画ファンはこういう機微を直観的に体得するために喰い入るように真剣に映画を視たものなのだ。

普通の大人に見えることが自分にだけ見えないのは恥ずかしいから、懸命に背伸びして画面の隅々にまで目を凝らしたものなのだ。今日はわからないことでも、明日はわかりたいと切実に望みながら銀幕の内側の世界に未熟な目を凝らしたものなのだ。

キミのリテラシーが「理解したい」と望む誠意に基づく努力の伴わないカウチポテトのレベルなのはわかったから、ちゃんと謙虚にわからないことは「わからない」と言いなさいよ。わかりもしないくせに意地悪な揚げ足取りのように手柄顔で論うなよ、恥ずかしい。

このような基準で数え立てる「矛盾」というのは、取りも直さず論者のリテラシーの低さを露骨に暴露するだけなのである。ネタのつもりでも、マジに視られたら心底恥ずかしいから普通はここまで露骨な勘違いはひけらかさないものだと思うのだが、それすらも弁えない人間が増えてきたということだろうか。

上で挙げた以外にもくだらない論難の類はたくさん目にしたが、それについては以前のエントリーの論旨と重複するので割愛する。あえて言うなら、その種のくだらない論難には必ず答えがあるのだが、あまりにもくだらないからオレのような物好き以外は誰も敢えてその労をとらないというだけの話である。

くだらない論難をする奴を親切に教育するのが議論なのではない。無責任な揶揄はそれと裏腹に無言の侮蔑と嘲笑を買うリスクを孕んでいるのだと識るべきだ。

ネットで意見を語る以上、誇りという言葉を識りなさい。

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