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2006年5月11日 (木曜日)

画面を視ずして映画が観れるか

そういうわけで、図らずもガメラ強化月間となってしまったが、前回の続きをもう少しだけ続けよう。ガメラ医師さんにご紹介いただき、過分のお褒めに与ったお陰でだいぶんアクセスが増えたのは有り難いが、まあいつも通りのパターンでいこう(笑)。

公開後二週目に入って、さすがに鑑賞者のパイが増えてきたせいか、それとも無根拠な叩きに飽きてきたのか、ネットのリアクションも露骨な勘違いに基づく批判一辺倒でもなくなってきた…というか歴然たる勘違いが淘汰されたのかもしれないが。

それでも未だに不注意としか思えない見落としに基づいて堂々と批判する論者が時々現れるのに、誰もツッコミを入れないのが不思議といえば不思議である。その代表的なものとしては、麻衣が何故名古屋に現れたガメラをトトだとわかったのか、麻衣から赤い石を受け取った少女が何故ガメラをトトだと識っていたのか、という疑問である。

つまり、トトが八メートル大に成長してガメラであることが判明したのは麻衣が名古屋の病院に入院した後なので、それを視ていない麻衣が識っているはずがないという理屈なのだろう。また、麻衣が名古屋の一時避難所で熱に浮かされるように「トトに届けなくちゃ」と口走っているのだけを聞いて、「トト」というのが目の前の大怪獣であると見ず知らずの少女にわかるはずがないという理屈なのだろう。

これは物凄く簡単な理屈なので、あえて指摘するのが恥ずかしいくらいなのだが、トトがガメラである可能性を最初に指摘したのは麻衣なのである。麻衣は一九七三年に出現したガメラのことも聞き識っていたし、トトが宙を浮遊する姿も目撃しており、この二つの事実を結び合わせて、トトがガメラではないかという推論を透に語っている。そして、麻衣はトトが手乗りサイズから一夜にして甲長一メートル大に急成長したのをその目で視ているのである。

さらに、この劇中世界では、ガメラを含めて怪獣は一九七三年のガメラ自爆以来一体も現れていないのであり、巨大生物審議委員会もこれを受けて解散が決定されている。だとすれば、仮に入院以来の伊勢志摩の状況を一切識らなくても、そこから遠からぬ名古屋に突如ガメラが現れれば、それはトトだと判断するのが当たり前である。

麻衣がそのように判断するための材料は上記の通り完全に整っており、たとえ麻衣がどんな莫迦でも、自身がガメラの幼態と疑ったトトがガメラではなく、ちょうどその時に折良くここ三三年間一度も現れていなかった別個体のガメラが出現したと考えるほうがよっぽど不自然である。

ガメラが一夜にして手乗りサイズから一メートル大に成長する生物なのであれば、それは最早従来の生物の常識を超えた成長速度であり、自分の入院中に三五メートル大に急成長したとしても何ら不思議ではないと受け取るだろう。事実その通りのことが起こったのである。

あらためて問うが、麻衣がこのように判断することがさほど難しい筋道だろうか?

それ以前に、観客がこの程度のことを諒解するのがそれほど難しい事柄だろうか?

麻衣の入院とトトのガメラ化という二つの劇中事実の時系列のズレに注目してありもしない矛盾を指摘するほうが、よほどややこしい筋道ではないだろうか? 為にする論難の見本のような笑い話である。

また、赤い石を受け取った女の子が「トト」とは「ガメラ」もしくは眼前の「怪獣」のことだと諒解した筋道だが、これとて普通に映画を視ていたら疑問に思うことなどは一切ない。

この少女が初めて画面に現れたとき、窓に顔をくっつけて遠くガメラとジーダスの戦闘を見守っていたはずである。そのような後ろ姿として現れた少女は、赤い石を持って外へ出ようとする麻衣に気附いてカメラを振り向き、医者に押し留められながらも必死に窓の外の怪獣のほうへ赤い石を差し出す麻衣を凝っと視ている。

ここから複数回のカットバックを挟んで、窓の外の怪獣たちと「トトに…」と呟く麻衣の姿を交互に見比べる少女の姿がインサートされる。ここは、その後の赤い石リレーのくだりを識らなかったら焦れったいくらい思わせぶりなカットなので、誰でもそのカットを「何だこれ?」と訝しみ、その目でちゃんと視ているはずなのである。

無論、公式設定としては、ガメラには子どもに意志を伝えられるテレパシー能力があるということになっているが、それはあくまで劇中に表れない裏設定の類である。だからこそ、麻衣の視線と窓外の怪獣を結び附けるための少女の視線の動きを諄いくらい描いているのであり、これが短すぎてわからなかったなどとは誰にも言えないだろう。

この少女は稚なすぎて、かつてガメラがギャオスを道連れに自爆した人類の味方であることを聞き識っているとは思えないが、街を蹂躙する巨大なトカゲ怪獣を押し留めるために後から現れた亀型の怪獣が劣勢を押して果敢に戦っていることは、一目視れば子どもにでもわかる。

識らないお姉ちゃんが二頭の怪獣に向かって「トトに」この石を届けなければ、と必死に訴えている以上、悪者のトカゲ怪獣のほうにそれを届けるという意味に取る子どもはまずいないだろう。それ以前に、劇中の事実としてこの少女は亀の怪獣が「トト」なのだと諒解したのであり、その幼児なりの思考の筋道にどこも不自然な点はない。

観客はこうした筋道をすべてその目で視ていたはずなのだ。あえて違和感を伴う映像として観客の目に映るようなタイミングで挿入することで、この少女の視線の動きに注意してねと、映画がサインを送っているのである。

普通なら、見ず知らずの少女が、でっかい亀の怪獣の名が「トト」だなどとわかるはずがない。それはその通りだから、この少女の視線を介して彼女がそれを察するまでの経緯を事細かく観客に説明しているのである。それなのに、為にするような論難の種を探す人々は、このような明白なサインすら視なかったことにしてしまうのだ。

通りすがりの少女が怪獣の名前を識っているはずがないという一般則に基づいて、それをクリアするための個別事情として映画がどのように説明したかをまったく忘れ去っている。おそらくこのような不注意な観客にとって、映画における「説明」とは、たとえばあの少女がペラペラと「あの亀の怪獣の名前はトトっていうのね、そのトトにこの赤い石を届ければいいのね、じゃあわたしが届けるから安心して」と七諄く説明セリフで念を押すことを指すのだろう。

そんなシナリオの書き方は、ラジオドラマのやり方である。動きのある絵で描くからこそ映画なのである。普通のリアリティでいえば、この年頃の少女が自分でわかっていると思うことまで一々口にして確認したりはしない。というか、すでに絵が語っていることをセリフで確認するのは映像の経済として無駄である。

セリフというのは喋ったらそれでオシマイだが、映像は動くからおもしろいのである。
たとえ「あの亀の怪獣の名前はトトっていうのね」と少女に一言聞かせるにせよ、何故それを彼女が気附いたかの説明を省くわけにはいかない。だとすれば、どっちみちあの絵は必要なのであり、絵が語っていることまでセリフで言わせる必要はないのだ。

ただし、「トトにこの赤い石を届ければいいのね」ということは確認する必要があるのであり、その確認によって「わたしが届けるから安心して」というセリフを省くことができる。以前別の話題でも強調したが、映画のテンポは映像の経済によって生起するのである。少女のセリフを最小限に絞ることによって、ここから赤い石のリレーに繋がるテンポが生じるのである。

そして、これらの流れは普通に漫然と鑑賞していてもとくに不自然に感じることはないし、逆に注意深く隅々まで画面を見守っていてもこのような描写の段取りに目が行くから不自然さを感じることはない。この流れに不自然さを感じるのは、漫然と鑑賞していたくせに後から考えて「通りすがりの少女が怪獣の名前を識っているはずがない」という、映画の実態に即していない後知恵をこじつけるからである。

きちんと注意深く画面に見入っていながらリアルタイムで不自然さを感じたというのであれば、気の毒だがそれは単なる理解力の欠如である。

そして、この少女の視線の一連が焦れったいくらい丁寧に描かれているのは、一度それを入念に描いておけば、彼女が他の子どもに赤い石を手渡す際に、同じようなトトとガメラの同定の手続を省略することができるからである。別の子どもが駆け寄ってきた絵でカットして、赤い石に添えて「トトに」とさえ言えば、そのカットの断絶の時間の裡にトト=ガメラの同定が何らかのかたちで為されたのかもしれないと類推する手懸かりが与えられる。

というか、すでに最初の子どもの気附きのプロセスが描かれている以上、「以下同様」ということで、同プロセスの反復に際してはいっさい気附きのプロセスを省略しても構わないのが映画の文法なのである。要は、不自然でさえなければどちらでもいいのであり、どちらとも取れるように描くのがこの場合のミソなのである。

このようにして、裏設定的にはガメラのテレパシー乃至は赤い石の力という超越力が想定されているにもせよ、表面的な描写としてはギリギリのデリカシーで、そうとも取れるし現実的に伝達が行われたのかもしれない、偶然子どもたちの勘違いが重なっただけかもしれないと取れるような絶妙の間合いで描写が為されている。

何故なら、言葉でハッキリこれだと説明し得る理由があるなら、それは「奇跡」ではなくなるからである。この場面で描かれているのは一種の奇跡の描写なのであり、奇跡とは偶然とも取れるし必然とも取れるデリケートな間合いで生起する「よく出来た神秘的な出来事」なのである。これが奇跡であることに気附かないなら、この出来事が出来すぎていることに文句の一つも出るだろうけれど、それは少し単純な反応である。

ここで奇跡が描かれる意図とは、人為の必然としてすべての事件が起こってしまったら味も素っ気もないからである。別にここでイシマルたちが一時避難所に駆け附けて麻衣から赤い石を受け取り、透の許へ走ったとて物語は整合するのである。だが、物語の語り手は、そのように人為のみによって物語が成就することに満足せず、トトや透や麻衣の必死な姿勢に感応して人為を超えた何かが起こったのだと語っているのである。

たとえば、この場面で最初に赤い石を受け取る少女が稚なすぎるのではないかという意見も時々聞かれるが、これは微妙な話になる。ここで石を受け取るのが、たとえば透と同年代の子どもだったら、最初に行動を起こすためには論理的な理由附けが必要となるのである。さすがに小学校高学年にもなって、見ず知らずのお姉ちゃんが熱に浮かされているから、その通りにしてあげようと無心に思うというのは不自然である。

それこそこの赤い石がガメラにとってどれほど必要なものなのか、これを届けることによってどのようなメリットがあるのかを、事細かく説明する必要が出てくるのであり、さらにその上に、その子どもがあえて危険を識りつつその役目を引き受ける勇気が必要とされるのである。これを逆にいうなら、現状の描写によって、これらの七面倒くさい手続は一挙に不要となるのである。

ギリギリあの年代の少女だから、その行動には神秘性が伴うのである。あの年頃の少女がどのように物事を捉えているのか、大人の誰にも確かなことはわからない。それはまだあの年代では人間としての思考の型が固まっていないからである。その稚ない脳内に詰まったヘニーデの彼方に、おそらく神意は存在するのである。

だからこそ、石リレーの最初の走者はあの年齢の少女でなければならないのである。そして、彼女が最初に運動性の糸口をつくったからこそ、「子ども」という括りにおける年齢の自由度が生まれるのである。

子どもが大人の流れに逆らって怪獣たちの闘争の場へと走っている。それは摩訶不思議な赤い石を「トト」に届けるためである。これは、誰かが実際に走り出すからこそ生起する運動性なのである。現場から遠くにいる子どもが中心へ向けて走ってくることで、より近い位置にいる子どもがさらに中心へ向けて走る。これは、危険の中心へ向けて実際に走ってくる子どもがいるからこそ、それを視た次の子どもが何らかの意義を感じて我から進んで引き継ぐのである。しかし、その走り出すまでが難しいのだ。

だから、そのキッカケになる子どもが、論理的理由附けから自由な不思議な年代の少女であることによって、現実的でありながら何かしらの神意のようなものすら感じさせる神秘の運動性の契機が出来するのであり、何のためにこのような危険を冒さねばならないのかという普通感じる疑問とは無縁の境地で子どもたちが石を手渡しする運動が開始されるのである。

要するに、あの子どもたちは赤い石が何であって、何のために「トト」の許へ届ける必要があるのかなど、一切識っていないのである。単に弱い子どもが危険を押してこちらへ走ってくる姿を目にして、その運動それ自体の説得力によって、理解を超えてその行動の価値を確信したのだと解釈すればスッキリするのである。

勿論、再々説明している通り、これが裏設定通りガメラ乃至は赤い石のテレパシーに子どもたちが感応したせいだと解釈しても一向に構わない。肝心なことは、子どもたちがその行動の意味を理解している必要性を一旦無効化する描写上の手続が意図的に踏まれているという事実なのである。

これは、映画だから成立するロジックなのであり、これを言葉で説明するのが難しいことは重々承知しているが、これが映画である以上、この流れは映像の言葉によって十分成立している描写なのである。

この場面に多くの人々が感動するのは何故かと言えば、お涙頂戴の感動的な場面だからではない。漫然と鑑賞している観客がこんな機微を言語化して意識するまでもなく、映像の生理として「ここでこんな素晴らしいことが起こるのが自然に見える」手続が踏まれているからである。観客にそれと意識させずに乗せるために、このような智慧が凝らされているのである。

そのようにつくり手に乗せられ泣かされた観客が、後から顧みて「あそこはやっぱり出来過ぎだったよね」と照れ笑いで語るのは一向に差し支えないが、眦を吊り上げて矛盾を指摘する自称シネフィルの意見に接すると情けなくなってくる。

あえてシネフィルがこの場面を語るのであれば、そこに凝らされた映画の智慧をきちんと看破した上で、それに対して言及するのでなければ意味がない。言葉で説明されていない、筋が通らないと指弾するだけであればオマセな中坊にでもできる。シネフィル氏がこれまで数多くの映画を見続けてきた有り難みなど何もないだろう。

この場面において何かしら問題があるとすれば、その年代でなければ成立しないという舞台裏の事情のゆえに、剰りにも稚ない少女が最初の走者を担い、暴徒化して逃げ惑う大人の群れを逆走する絵面がか弱げに見えすぎるという部分だろう。いわば、冒険の薬味が効きすぎているのである。

あまりにもモブ演出が凄すぎて、あんな小さな子どもなど踏み潰されてしまうのではないかとハラハラしてしまうのである。実際、それ以前に転んだ人が足蹴にされる描写も出ていることだし、ここまでハラハラするのは計算外だったのではないだろうか。

それから、最後に残る大きな批判としては、透の父親が危険な場所にあえて息子を行かせるのが理解できないという指摘だが、これは個々人の感じ方次第なのであながち一方的に排するわけにも行かない意見である。

ただし、それをして脚本の瑕瑾であるとかストーリーの難点と表現するのはどうだろうという疑問はある。たしかに、連れ合いを亡くした父親がたった一人の息子をあえて危地に送り届けるという筋道に、抵抗を覚える人間がいるのは理解できるし、現実的に考えるなら、そうでない父親のほうが多いだろう。

だが、映画という虚構中の人物の行動についての作劇的な評価は、それが如何に飛躍した行動であろうとも、そこに至る筋道が説得力を持って描かれているかどうかが判断の基準になるのである。しかし、透の父親の行動を批判する論調は、作劇の観点からの批判というより行動それ自体の是非を巡るものが多かった。

要するに、如何なる人物が如何なる筋道の下に如何なる状況に置かれても、息子を危険な場所に行かせるという行為は絶対的に間違っているという批判なのだが、ここまで言うのはオレは違うと思う。

たとえば、オレは歳を取ってから動物が死ぬ描写は耐えられないようになった。人間が死ぬのは構わないのに、犬が死ぬとか猫が死ぬとか象が死ぬとかパンダが死ぬとか、そういう描写が耐えられないのである。これは人間よりも動物の命のほうが尊いという意味ではないし、人間の死に対して心が動かないという意味でもない(笑)。

単に、無辜の動物が死ぬという事実に対面するのが苦痛なだけである。だから、動物が理不尽に死ぬような内容が含まれることがわかっている映画はまず観ない。だが、だからと言って動物が死ぬ描写が入っている作品は映画として間違っていると主張するほど錯乱してはいないつもりである。

その作品中で動物が死ぬ描写が含まれる当否というのは、その必然性と描写の説得力の有無によって量られるべき事柄であって、劇中事実それ自体が絶対的に描写の是非の判断基準になるというものではない。単にオレ個人にはそれを冷静に判断する適性がないというだけの話である。

ある種、透の父親の言動に対する批判はこれと似ているだろう。絶対的に子どもを危険から保護しない親を忌避するのは、感情的な苦痛が理由なのである。動物が死ぬということに比べれば、人間の現実に関する一般的良識の性格が強いから紛らわしいだけなのであって、「親が子どもの保護を放棄する」という劇中事実の見え方一般に強い忌避感情が働くということである。

これがダメだという人がいるのは理解できるが、それを作品批判に絡めて語るのは妥当ではないとオレは思う。これを忌避する人は、どのような説得力ある筋道を語っても、父親が息子を危地へ送り込む描写である限り決して受け附けないからである。それが可能性として起こり得る成り行きであると真に受けないし、それに妥当な理由附けが可能であるとも信じない。

たとえばスピルバーグが家庭を持ってから「子どもを銃で追い回す描写を視るのは耐えられなくなった」として、自身の過去作の該当する場面をすべてCGで修正したのは有名な話であるが、これは極端にもせよ、誰にでも直視するのが苦痛な劇中現実というのがあるのである。

ファミリーピクチャーである本作においてそのような親子関係に関する描写があることで、少なからぬ数の父親に抵抗感を与えたかもしれない、という意味ではこのような批判にも意味があると思うが、本来それは作劇自体とは無関係な問題である。

耐え難い描写だったかもしれないが、この物語においては、トトに赤い石を届けるのは何がどうあれ透でなければならなかったのだし、それを父親が承知していなければ誰も救われなかったのである。そういう意味では非常に残酷な二者択一が課題となる物語設定であったのだ。

先代ガメラの自己犠牲をその目で視ている透の父親にとって、今ある自分の全人生は他の命の犠牲の上に成り立っているものである。トトが先代ガメラの遺した直接の仔であるかどうかまでは明言されていないが(先代ガメラもトトも雄か牝かすらも明言されていないしな)、普通一般的な見方としてそれは先代ガメラの忘れ形見もしくは転生と位置附けられるだろう。

冒頭のアヴァンガメラのシーンが父親の回想と意味附けられている以上、父親は先代ガメラに対して何もできなかった子どもとしての悔恨を抱いている。その遺児であると思しきトトに対しても、「あれはガメラだから」と透から遠ざけようと努めており、息子の世代がガメラに対して何事かを為そうとしているのを、親としての愛情から妨げようとする。それは人の親としては正しい行動だろう。

だが、トトにとってはどうであるか。トトの父親と位置附けられる先代ガメラは人類の身代わりとなって何の見返りも求めずに自ら滅び、今またその仔であるトトが自分の息子のために命を棄てて戦おうとしている。

そしてこのガメラ世界においては、ガメラの心性は人とそれほど変わるものではないのであり、それだからこそ平成三部作の感動があり、アヴァンガメラのシーンの感動があるのである。

いわばガメラとは人と対等な存在なのであるが、透には父親がいるからこそ「そんな危ないことはやめろ」と留めてくれるのだが、ガメラは二代に亘って何ら見返りを求めることもなく、赤の他人のために命を棄てる存在なのであり、先代ガメラがそうしたようにトトもまた粛然と自爆を敢行しようとしているのである。

最後の最後に父親が「当然の分別」を棄てて息子を危地に送り届けるまでには、このような筋道が説得力を持って描かれているのであり、たしかに盲目的に自分の子を護ろうとするのが親心ではあるのだが、親である以前に彼は一個の人間でもあるのだ。

息子の世代が心を通わせて共に戦う、如何なる危険があろうとも絶対独りでは死なせないと決意を固めている以上、ガメラは怪獣だから死んでもいいんだ、その仔であるトトだって使命に殉じればいい、それでもオレの息子は可愛いんだとは割り切れない。それは親心と天秤に掛けられた人としての心性の問題なのである。

そして、子どもなのに逃げずに戦っているトトに羞じないよう、オレも逃げないと言い放つ息子は、最早自分の庇護の許にある弱い存在ではない。息子のその独立した一個の人間として立つ決意を、人としての尊厳を、父親だから、息子が可愛いから、連れ合いに申し訳ないからといって踏みにじる権利などはない。父親が息子と共に危地に乗り込むのは、ギリギリの譲歩なのである。

かつて先代ガメラの自爆に救われ、今また独り戦うトトにすべてを負わせて息子と共に逃げようとした父親に、この力強い息子の宣言に抗うことなどできるだろうか。卑怯者になってまで誇りを持って人の子の父親であり続けられるものなのだろうか。透の父親は、アヴァンタイトルから連綿とこのようなクライマックスの冒険へと追い詰められていくのである。

たしかに、人間死んだらオシマイであるが、死のリスクを冒しても死なずに勝ち取らねばならない人としての在り様というものがあるのである。敗残の人生を、打ちひしがれた誇りを、生きてさえいればいつか時が癒してくれるかもしれない。だが、生き残ることだけをプライオリティに、何のリスクも冒さず逃げ回るのでは、いつまで経っても新たに生き直すことなどできないのである。

トトに赤い石を届けることができるのは、透だけしかいなかったのである。逃げずに命を賭けて他ならぬ透が届けるからこそ、トトは死なずに戦う途を選ぶのである。自分一個の裁量で自分の命をどうしようが勝手なのではない。トトを大切に想う透に生きていてほしいからこそ、トトもまた死なずに戦うべきなのである。そのために透は、死のリスクを冒しながらも死なずに生きてトトに相見えるのである。

このような道筋において、「父親が息子の保護を放棄する」という劇中事実の見え方は劇的現実のレベルで妥当性を持つ。普通一般には許されない事柄を実現させるために最大限の誠意をもって智慧を凝らすことこそ物語を語る行為の秘奥なのである。

それでも透の父親の行動を受け容れられないのであれば、それはスピルバーグの苦痛と根を同じくする個人的な感情の規範の問題なのである。透の父親の行動を批判する論者の感情に対しては、オレは無碍に反駁する気にはなれないけれど、残念ながらそれは映画が合わなかったということなのである。

それを作劇の問題と混同して語ることは間違いだとは思うが、ある種、こればかりは錯誤に基づいているとはいえ、意味のある批判であると言えるだろう。

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受信: 2006年5月11日 (木曜日) 午後 06時56分

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ふと思い立ってyahoo!ムービーのガメラ掲示板を見にいった。yahoo!ムービー見にいくなんかデビルマン以来だよ……。 この映画中盤以降何度も「逃げない」って言葉が出てくるけど、序盤の透って逃げまくりなんだよな。なにしろ父親の孝介に嘘しかつかないんだから。 「食堂だ... [続きを読む]

受信: 2006年7月11日 (火曜日) 午前 01時44分

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