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2006年5月14日 (日曜日)

莫迦UDにサヨウナラ

こんなところで「小さき勇者たち」に関して語っておくべき事柄はほぼ出揃ったと思うので今回を総論とするが、このような嗤うべき錯誤はなぜ起こるのだろうか。かなり長くなるが、今回はそれを考えてみよう。

ただし、それは「小さき勇者たち」という個別の映画についての総論ではなく、それに纏わる錯誤の検証についての総論である。あなたがネットで見かけたあの莫迦この莫迦は何故あのように莫迦な勘違いを語り散らすのか、それについての考察である。そのような問題に興味ある篤実な映画愛好家に読んでほしいエントリーである。

ネット論壇に関していえば、まず、このような単純な勘違いを積極的に訂正する動きが剰り視られなかったというのも問題であるとオレは考える。剰りにもつまらない難癖だから誰もあえて本気でツッコミを入れなかったのか。そのように好意的に解釈したい一方、これが短い興行期間中の現行作品に関する言説であることを考えると、そのような事勿れの姿勢も問題であると思う。

誰もその勘違いを指摘しなかったからこそ、その場の思い附きに基づく莫迦な難癖が附け放題だったのである。恥をかかされるリスクさえなければ、遠慮なく恥知らずなことを公に行う輩が必ずいるのである。

恥をかかせる以外に恥知らずな行為に対抗する術はない。残念ながら、これはネット論壇に附き纏う大きな問題点である。


●デマゴーグには折れるな

おそらく、これらの錯誤は出発点においては単純な勘違いだったのだろう。だが、それが公開中の映画に関する言説である限り、そのような間違った指摘が堂々と罷り通ることは、実態において興業に影響する悪質なデマとなり得る。

興業というのは、基本的にパブを打って情報提供し「観に来てくださいね」とお願いする以外に観客を動員する手段がない。パブリシティというものが映画興行において重要なのは言うまでもないことで、各社膨大な予算をかけるものだが、デマというのは元手入らずで興業を妨害する有力な手段である。だからこそおもしろ半分にデマを流す輩は後を絶たないのだし、それは本質において卑劣な行為なのである。

たとえそれが意図的なデマであろうがなかろうが、批判者の心理に少しでも「こんなつまんねぇ映画、コケりゃいいのに」という悪意があったのだとすれば、その批判において錯誤を犯すことは立派な流言飛語である。心の底に映画に対する敬意というものがあるのであれば、公開中の映画に対する批判は慎重に行う必要があるのである。

たとえ「こんなモン銭の無駄だから観に行くな」と主張したいのだとしても、その主張は作品に対しても他者に対してもフェアなものでなくてはならない。きちんと実態に即した妥当な批判でなければならない。そうでなければ、それを目にして幾許かの判断材料とし鑑賞を取り止めた者があるなら、それは結果的には嘘を吐いて他人がまたとない映画体験を喫するかもしれない機会を奪ったことになるのである。

それは当然、ネットの映画評など読み手の自己責任で判断すべきことだ。だが、その批判が出鱈目であることを、映画を観た他の人間が誰も指摘しなかったとしたら、未見の人間がどのようにその出鱈目を見破ればいいというのか。

無責任な難癖を山ほど附ける輩がいて、それを一々自己責任で検証し誤りを指摘するのが面倒だからといって、好意的な鑑賞者が批判者に話を合わせ「いろいろ難点はあるかもしれないが、泣ける映画であることは間違いないから」的に擁護しても無駄なのである。泣けるだけなら、どんなダメな映画でもとりあえず泣けるからである。

映画の数をこなした鑑賞者なら、人間というのが作劇の巧拙やつくり手の誠意の有無にかかわりなく、鑑賞者の個人的感傷に附け込まれたら泣いてしまう生き物だということを識っているだろう。あの涙とこの涙に質的差異はない、要は気持ちよく泣ければそれでいいという言い方もできるのだが、後から顧みて安い作劇に泣かされた涙は後味の悪いものである。それは感傷の条件反射で流れる分泌物だからであり、映画館で安い排泄行為を愉しんだことが自らの価値を貶め疚しさを覚えさせるからである。

たしかに映画を観て気持ちよく泣いてみたいというのは誰でも思うことだが、その涙には心理的な意義があるという保証が欲しいものなのである。溜め込んだオシッコを空にするような精神生理的な意味で泣かせてほしいと思う鑑賞者などいないのだ。

この映画で流される涙が何故爽やかなのかといえば、そこに何某かの人間的現実の深奥が誠実に活写されているからであり、それに対する人間的なる反応として心が動いた結果、泣かされてしまうからである。良質な映画は、人に自分が豊かな心を持つ価値ある人間の一人であることを想い出させてくれる。だからこそ映画館で流される涙は最大限の誠意によってその意義を保証されねばならないのだ。

だとすれば、「いろいろと難点はあるが」という留保を附けて感動を語っても、それは未見の人間に対して説得力を持つ言説ではない。「安いお涙頂戴に騙されやがって、おめでたい奴だ」「オレは御免だね」と取られるのが関の山である。

莫迦なデマを流す奴はいつでもいるのだから、それを憤ってみても蟷螂の斧だが、少なくとも事実とは異なる決め附けや流言の類に対しては積極的に訂正する姿勢だけは必要だろうと思う。それが好意的な意見であっても、デマゴーグに妥協して「いろいろと難点はあるが」「映画として視たら落第だろうが」「演出も脚本もダメだが」と留保を附けることは間違っていると思う。

この時点でそこに妥協してしまったら、公開時点におけるこの映画の評価は「演出も脚本もダメで映画として落第」、好意的に語る鑑賞者は「お涙頂戴に泣かされた愚昧な大衆」という辺りに落ち着いてしまうからである。そうでないと思うなら、形式的にであれそれを認めてはいけない。

これまでつぶさに視てきた通り、この映画には殊更論うべき難点も少ないし、映画として視れば及第点以上のものだし、演出も脚本も水準以上の仕事をしている。龍居由佳里に特撮映画に対する勘がないという批判もあるが、それが田崎監督の特撮キャリアと演出的な視点によってフォローされていることは、作品を視れば明らかである。この映画に問題があるとすれば、それは作劇の瑕瑾という観点におけるものではない。

一本の物語を高度なレベルで成立させる作劇の手腕に問題があるのではなく、それが多くの人々の興味をそそり、まだ視たことのない何かが視られるのではないかと期待させたり、一度観た観客にもう一度観てみたいと何度も小屋に足を運ばせるような高次のレベルのコンセプトデザインに問題があるのである。

たしかにこの映画には未見の観客をも惹き附けるような華やかな魅力が欠けているとは思うが、観た人間の大半を感動させる手腕、その流された涙を安いものにしないための智慧と誠意は端倪すべからざる映画的スキルである。これをフェアに評価したいと望む鑑賞者がいなかったとしたら、まこと映画づくりとは酬われない仕事である。

重ねていうが、この映画は未だ公開中であり、いい加減な批判は興業に影響する悪質なデマなのである。「そんなことは一観客であるオレの識ったことか」と突っぱねるのであれば、そんな輩が映画について語る言葉に耳を傾ける価値などはない。同時代の映画の在り様には、つくり手ばかりではなく観客にも応分の責任があるという認識のない者が一人前に映画愛好家を名乗るなど傍ら痛い。

一人の映画鑑賞者が、誠意を持って作品の瑕瑾を糾弾したい、このような粗悪な映画がヒットするのは絶対許せないと思うのなら、せめてそれが卑劣な悪意に堕すことのないよう、力を尽くして公正を期すべきなのである。確信を持って言えない指摘など、せめて興業が終わるまで口にすべきではないのである。映画そのものにも、自分以外の観客にも責任を持たない不公正な意見には、耳を傾ける価値はまったくない。

とりあえず作品を攻撃できればいい、たとえ確信が持てなくても言うだけならタダ、こんな料簡の論者の意見にどんな意味があるというのか。


●第一印象などアテになるか

オレの友人がよく「小屋で一度観ただけの映画をしたり顔で批判する人って信じられない」と口にするのだが、手元で自由に参照確認する手段のない公開中の映画を批評するには、たしかにそれなりの気構えや覚悟が必要になるだろう。

オレも今回は最初からブログのネタにするつもりで気合いを入れて観たから割合細かく覚えているだけのことで、ここで偉そうに吹いた大言壮語が不正確だったことがDVDの入手で判明したら、慎んでこの場で訂正し、頭を下げるつもりだ。

しかし、普段はそんなに気張って観て一々細かいところまで覚えるのは面倒だし、非力な記憶力に頼ってモノを言うのが不安だから、公開中の映画については努めて好意的に語る「印象批評」で済ませることにしている。腰を据えて分析的批評を試み、厳しい批判意見を論じるのはDVDが出てからにしようと考えている。責任を持って断言できないという条件なら、不当な批判をあえてするより、能う限り好意的に語って他者の鑑賞の後押しをし、論者のパイを増やしたほうがフェアだと思うからである。

この場合に謂う印象批評というのは、つまり分析的に細部に立ち入るのではなく、一個の全体としてそれを扱うということであり、それから受ける全体的な印象を語るということである。それが印象に基づくものである以上、無論その意見は暫定的なものにすぎない。分析的に細部に立ち入ることで、最初の意見が修正されることも当然あり得るのである。

世の中には第一印象というものに非常に重きを置く人も多いが、オレはそれは批評的観点においてはそれほど重要な要素だとは思わない。それどころかむしろ、自分個人の第一印象の捉え方には細心の注意が必要だとすら考えている。第一印象というのは非常に一回性の強いものであって、その時点の鑑賞条件や体調、心理状態、生活状況などが如実に反映されるものだからである。

だからこそその一回的な体験が尊い、その当時の自分史と密接に結び附いた鑑賞体験を大事にするというのは、個人の鑑賞体験の在り方としては正しいだろうが、他者との批評的コミュニケーションにおいては別段どうでもいい要素…というかまず捨象してかかるべき要素だろう。映画の批評的コミュニケーションというのは、あなたやわたしの個別の鑑賞体験を語るものではなく、論者同士が共有するテクストである映画それ自体に対する客観的な言及であるべきだからである。

しかし、困っちゃうのは、第一印象こそが対象の本質を見定める際の絶対的基準となるという信念に凝り固まっている人がいることである。その信念を掘り下げると、予断が一切ない虚心な状態である初回の鑑賞の印象にこそ映画を評価する基本を置くべきであるということになるのだろう。しかも、とくに気を入れて注意深く視るのではなく、漫然鑑賞でなければ偏向した見方になるとまで考えている極端な人もいる。

何故なら、「普通一般の観客」はそれほど気合いを入れて隅々まで画面を注視するものではないのだから、大衆娯楽である映画については普通一般の見え方を共有するのでなければ意味のある言及にならないという理屈である。要するに、アベレージの「一般大衆」の見方をシミュレートしているつもりなのである。

こういう人は、大した注意力を払うこともなく漫然と作品を視て、えてして最初の第一印象を絶対的な根拠として結論ありきの論旨を展開する。こういう人に分析的な論述をぶつけて、客観的な反証を試みても絶対に説得できない。自分の一回目の鑑賞体験から得られた印象は絶対の根拠なのだから、それと結論を異にする見解は、その論述プロセスや結論の客観的妥当性はどうあれ絶対に認めないからである。「普通一般の観客」はオレのように考えるはずだと堅く信じ込んでいるのである。

どこまで論証して追い詰めても「その意見は論理的には正しいのかもしれないが、どうしても違和感を覚える」「オレの心が違うと言っている」と言い放ち、一切の議論を拒絶するのである。

私事に亘るが、「オレの心が違うと言っている」というフレーズは、オレのネット論争経験の中でいちばんウケた反駁である。勿論こういう人は、相手から視れば自分の意見が論理的に正しくない上に感覚的に「違和感を覚える」ものであり、相手の心だって同様に「あんたの意見は違う」と言ってるのであり、第三者から視ればどちらか一方の心象になど特権性はないという客観的な見え方はどうでもいいのである(笑)。

そしてさらに驚くべきことは、このような人は、後にDVDなどを観て当初とは違う印象を受けたり、事実誤認や作劇意図の読み違えを犯していたことに気附いても、あくまで第一印象を基準にすべてを判断するのである。印象が変わったのはすでに一度観ていたり他人の意見を聞いたせいで不純な思い込みが生まれたからだとか、そのような読み違えを犯したのには何か妥当な理由があったはずだとか、とにかく第一印象を根拠附けることがすべての判断の基準になるのである。

何故なら、彼の一回目の鑑賞体験は特権的な普遍性を具えているからである。まっさらの状態における鑑賞体験はただ一度しか出来ないのであり、「普通一般」の初めての観客の受け取り方を共有できるのは、そのただ一度の体験においてしか機会はないからである。そして「大衆娯楽」である映画は、普通一般の観客が一度だけ観るという前提においてしか普遍的な言及はできないと思い込んでいるのである。

普通に考えれば、このような思い込みが実態に即していないことは当然だろう。それが本当に普遍的な特権性を具えているのであれば、論者ごとに大きく意見が違うなどということはあり得ない。それは単に、個別の論者が「普通一般」の見方において抱いた印象という、それだけの個別体験的な意味しかない。「普通一般の観客」などというダイナミックかつ曖昧な実体の平均的なものの見方を、特定個人が予断のない時点における漫然鑑賞によって共有できるというのは非科学的な思い込みにすぎないのである。

一回目の鑑賞も、二回目の鑑賞も、一〇一回目の鑑賞も、それぞれ何ら特権的な意義はないのである。同一の対象から受ける印象がその時々に不確かに揺れ動くという事実が不安だからこそ「予断がない」「初めての体験」というわかりやすい特殊事情に便宜的な特権性を与えているだけなのだ。

こういう人が沈黙の鑑賞者であるうちは問題ない。作品鑑賞をあくまで個人的な娯楽体験として大切にするというのであれば、どう観ようがそれは個人の自由である。個人が娯楽作品を愉しむ態度として、それもアリだろう。その見解がどんな錯誤に基づいていようとも、それを他人が訂正し説得しようと試みること自体大きなお世話様である。

困るのは、そのような姿勢に基づいて批評的コミュニケーションに参入する人の存在である。こういう人は、そのような個人の印象の特権的意義が他者にとってはまったく無意味であるという理屈が呑み込めないので、大概粘着質な強硬派に転じ、見解を異にする人間を一方的に攻撃し、説得も議論も受け附けず頑迷に自説を主張して譲らない。

特定個人の無根拠で非科学的な思い込みを絶対視し、正当化するこの種の意見が、他者にとって何ら客観的妥当性を持たないことは言うまでもない。


●「大衆」は莫迦の隠れ蓑か

そして、第一印象主義的印象批評がもたらす次の重大な問題点とは、「莫迦ユニヴァーサル・デザイン」とでも表現すべき低リテラシーオリエンテッドの問題である。

このような手合いは、たとえばそこは事実関係が違うと指摘されると「わかるように描写していないのが悪い」という言い方をするし、そこはそうじゃなくてこういう意図の描写だろうと指摘すると「オレはそういうふうに感じなかった」と言い返す。ちゃんと隅々まで映画を観てからモノを言えと非難すると「普通のイッパンタイシューがそこまで集中して映画を観るか」と反駁する。

要するに、観客が勘違いするのはすべて作品の描写に不備があるからなのである。理解しようとする積極的な姿勢もないくせに、そのような怠惰な姿勢の観客にすらわかるように描写していない作品は大衆娯楽として落第というロジックである。第一印象という不確かで一回性の強いものを絶対の根拠に据える以上、それを正当化するために次々と転倒したロジックが生まれるのである。

このような受け手に一方的に甘いロジックが剰り声高に叫ばれると、文芸も大衆ビジネスである以上、全体の想定リテラシーレベルが下落するのは理の当然である。受け手の側に作品の内実を理解しようという積極的な姿勢がないのなら、文芸が語り得る内実が底なしに衰退していくのは当たり前の理屈である。

原理的にはどんな莫迦で怠慢な受け手も想定し得るからであり、ボトムランナー方式で行くなら文芸は際限なく貧しく不自由になっていくからである。こと文芸に関していえば、自国の文化を衰退に導くだけの莫迦UDの主張にはどんな妥当性もない。

このような人は、「オレにわからないのは作品が間違っているからだ」という転倒したロジックの持ち主なのである。「このオレが勘違いしたくらいだから、莫迦な大衆は絶対勘違いする」「大衆娯楽である以上、それは誤解を招くダメな描写である」という理屈である。

自身の鑑賞姿勢や理解力や見識に問題があるというふうに自省し、作品に凝らされた他者の智恵を理解しようと誠実に努力することなどはまずない。大衆娯楽とは不特定多数を対象とするものであるという事実を錦の御旗に掲げ、このオレこそ「不特定多数」氏の代表であり、「不特定多数」氏とは理解の努力を強いられる存在ではないという妙な信念に基づいて、底抜けに怠惰な態度で文芸作品に臨むのである。

これはつまりこの「不特定多数」氏の代表は、自分自身も含まれる「不特定多数」としての一般大衆のリテラシーを物凄く低く見積もっているのであり、自身も大衆の一人を自負していながら大衆を莫迦にしているのである。自分のイメージするような「莫迦な大衆」にもわかるようにつくっていないのが悪いという、妙な論理を信奉しているのである。

だが、如何にこういう「莫迦な大衆の代表」を自ら標榜する人物でも、剰りにも底抜けに莫迦な他者の意見には「それは違うだろう」と反駁する。だが、そんな底抜けの莫迦ですらも、同じように「オレにわからないのは(後略)」「このオレが(後略)」と主張することはできるのである。

その底抜けの莫迦の意見が間違っていて、自らの意見が正しいと主張するならば、第三者の視点から視た場合に何を妥当性の拠り所とせよというのか。事実関係を見誤っていたり描写の意図を読み違えていることでは、この「オレ」氏も「底抜けの莫迦」氏も同列なのである。甲の錯誤は妥当で、乙の錯誤は妥当でないとは、何を基準に判断すればいいというのか。

この場合、この「オレ」氏は「オレ的主観において錯誤を誘う描写に見える」という印象のみを根拠にそれを申し立てているのだが、その印象が根拠となり得ると考えているのであれば、要するに彼は縁もゆかりもない赤の他人に「オレの見識を信じろ」と主張しているのである。

客観的根拠もない特定個人の第一印象が客観的妥当性を持つと考えているのだから、作品を視る自分の「眼」は超越的に正しいと主張しているのであり、その手の超越的な正しさは普通「見識」と呼ばれるからである。

客観的論証プロセスを提示せずとも、対象を視る「眼」が無前提で多くの人々から信頼を受けることを「見識がある」と表現する。たとえば淀長さんの映画批評は基本的に見識主義的映画批評であって、ここはダメだとか、ここは良いとか、分析的な根拠を示すことなくズバリと評価を下す。それで多くの人が淀長さんの意見を尊重するのは、彼の映画を視る「眼」を信頼するからである。

彼が良いと言ったものは、公平に視てたしかに良いからであり、ダメと言ったものはたしかにダメだからである。つまり、見識とは実態に即応した妥当性が保証されていなければ意味のないものであり、個人のバイアスを適宜補正した場合に実態を妥当に言い当てている蓋然性が経験的に保証されているものの見方なのである。それが何故良いのかダメなのかについての分析的論述は、淀長的映画評論に求めるべき事柄ではない。

印象批評というのは、具体的論証プロセスから導き出された結論ではない以上、それが客観的な妥当性を持つとすれば、要するに見識批評にしかなり得ないのである。それを理論武装する言葉はすべて結論ありきの後附け解釈にすぎないし、その結論に実態に即応した妥当性がなければ、すべて後智慧の屁理屈と断言して差し支えない。

だが一方、「底抜けの莫迦」氏にもまた「オレ」氏同様「オレの見識を(後略)」と聴衆に主張する権利は勿論あるのである。かくて議論の場は、「オレ」氏と「底抜けの莫迦」氏の「見識」を巡る泥沼の罵り合いという、赤の他人にとっては窮めてどうでもいい事態に陥るのである。

これは原理的にいって妥当な決着の附けられない諍いである。両氏共に自身の個人的印象を特権的な根拠として自説を主張しているからであり、その印象の妥当性の根拠を自身の見識に置いているからであり、基本的にどちらも「オレの見(後略)」と迫っているからである。

たとえば、この両氏のどちらかの意見が剰りにも非常識に莫迦なら単にその場の趨勢がどちらに附くかという比較的簡単な話になるが、似たような種類の莫迦だったらどうだろう。第三者はおそらく、莫迦同士の罵り合いと視て議論を黙殺することだろう。結局このような姿勢の第一印象主義的な批評的コミュニケーションというのは、莫迦の罵り合いに決着するのである。何故なら、それは本質的に大衆をダシにして自分の莫迦の度合いを正当化するための論争に堕する原理的な必然性を孕んでいるからである。

話は物凄く簡単なのである。「莫迦の代表」を自認している人間同士が、どちらの莫迦さ加減を「自分ではない一般大衆の莫迦さ」の物差しにすべきかを争っているというくだらない話なのである。文芸の批評的コミュニケーションにおいては、低リテラシーオリエンテッドな意見には何ら建設的意味などないのだ。

そもそも、「莫迦な大衆の代表」を自負する者の論述が「見識」を根拠に妥当性を主張すること自体概念矛盾である。怠惰な姿勢の鑑賞者の作品の見方に、実態に即応した妥当性などあるわけがない。そのような姿勢で一〇〇万本映画を観たからとて、映画の何がわかる眼を養ったことになるというのだろうか。

徹夜明けだとか具合が悪いとか腹が減ったとかウンコがしたいとか暖房が効きすぎて眠いとか次のデートで彼女とエッチしたいとか、必ず何らかの一回的バイアスを蒙っているはずの漫然鑑賞で万人に漏れなく意味が読み取れなければダメな作品だ、などという生温い料簡の鑑賞者が、実態を妥当に見抜く見識など培えるはずがない。

このような論者は、つまるところ自分自身の怠惰な姿勢やリテラシーの低さを、自分以外の一般大衆の平均的な基準にすり替えて、それが物語を語る際の標準となるべきだとダダをこねているのである。もっと簡単に言えば、「このオレにも楽してわかるように語れ」と主張しているのである。

どのような興味深い意見であるにしろ、「オレにわからないのは(後略)」「オレが勘違いしたのは(後略)」という不潔な姿勢を僅かでも臭わせる論者の意見には、耳を籍す必要がいっさいないということなのである。こういう手合いとは議論しても無駄なのだし、このような意見が一般大衆の集合的見解の最大公約数的な何かを反映しているなどと考えるのも無意味なのである。

何故なら、彼らは自分を基準にした莫迦UDを大衆娯楽にも適用せよと主張しているからである。彼らにとって、大衆娯楽において莫迦にでもわかるようになっていない描写はすべてダメなのだが、その「莫迦」とはその実論者その人なのであって、それより莫迦な描写だとやっぱり莫迦はダメなのである。

注意深く見ればちゃんとわかることも理解できず、それを指摘すると作品の描写のせいにするというのは、つまるところ非常に個別的な自分の怠惰さや理解度に合わせて作品が語られていないことがダメだと言っているのである。

「普通の一般大衆の一人」を標榜して莫迦UDを主張する論者は、一見自身の批評眼を特別高度なものと主張していないから謙虚に見えるが、その実は理解の努力も払わずにふんぞり返って「現状の自分個人のレベルを基準にして作品を作れ」と主張しているのであり、これ以上ないくらい傲慢な観客なのである。

オレの考えをここでハッキリ表明しておくが、如何なる層を前提とするどのような形態の娯楽作品が対象であろうが、文芸作品の批評的コミュニケーションとは、理解しようと積極的に努力する者以外には絶対的に無縁のものである。

作品を深く掘り下げて真摯に語ろうとする場において、ダラけた莫迦の泣き言や言い訳を聞かされる他人の身にもなってみろ。他人様が真剣に作った作品を誠実に論じる論壇とは、送り手と受け手の、受け手と受け手の、作品を巡る真剣勝負の談論風発を前提とする場なのである。冗談混じりのサロン的な場で映画漫談を愉しむならともかく、厳しい批判を展開するならそれなりに居住まいを正してからにすべきである。

作品内で語られている事実関係を誤認するような批判者には、どのような言い訳も許されてはいない。作劇的意図を妥当に読み取っていない批判意見には、どのような妥当性も存在しない。だから、そういう輩とは積極的に議論をせずに冷たく誤りを指摘すればそれでいいのである。

そのような輩の「オレは一般大衆の一人だから不正確なことも言うかもしれないが、言い分自体は間違っていないはずだ」というような不潔な甘えを相手にしてはいけないのである。不正確でありながら本質において正しい意見などというものは幻想だ。正しいことを言いたいなら、可能な限り正確を期す努力をすべきなのである。それこそが自身が正しいと信じることを公言する際の最低条件なのである。

それを一切弁えずに、「一般大衆」の隠れ蓑の下、無責任に放言することまで野放図に許されているわけではない。


●金さえ払えば神様かよ

そして、このような論者の最も重大な問題は、自身の意見について「それが他者に対して不当であるかないか」を気遣う視点がまったく欠けていることである。

作家自身が読んでも納得可能な客観的に説得力のある根拠を示さねば、どんな批判も不当に当たるという発想がない以上、印象批評で粘着質な攻撃を敢行する人物の言説は本質的に他者に対して不当な性格を帯びているのである。

何故なら、論者個人の第一印象など他人には絶対共有不能だからで、それが何某かの普遍的本質を剔抉しているなどというのは神懸かりの妄想だからである。

そもそも、このような手合いは、金さえ払えばサービスを供する側にどんな不当なことをしてもいいと考えているのである。金を払う側はもらう側にどんな無礼を働いても咎め立てされないと考えているのである。金さえ払えば相手を奴隷のように扱っても当然だと考えているのである。

高々六〇〇円の文庫本を買っただけで、高々一八〇〇円の木戸銭を払っただけで、作家を自分の下僕のように見下したがる。自分が理解できなかったりつまらなかったりすると、相手を泥棒のように罵りたがる。そうして一向に構わないと考えている。

多寡が六〇〇円、多寡が一八〇〇円でしかないにもかかわらず。

無論、多寡が一八〇〇円とはいえ、少額の客だから徒や疎かに扱っていいというものでもないが、それっぽっちの金で相手のプライドまで買える、相手より絶対的に優位な立場に立てると考えるのは下劣な拝金主義である。これはすべての経済活動に共通して言えることであるが、商取引は本来対等な立場における財の交換であって、主客の立場を客観的に視るなら、お客様は決して王侯貴族ではないし、金をもらう側は断じて乞食ではないのである。

「お客様は神様です」というのは、金をもらう側の心得において意味のある考え方なのであって、客の側が自分を神様と思ってよいという意味ではない。金を媒介にして不当な攻撃や理不尽な侮辱が許容されるという考え方とは、つまるところ賤しい拝金主義である。まして「小銭だろうが銭は銭」と客の側が主張するのは下劣な増長である。

たとえば職人気質を履き違えた有名ラーメン店の頑固親爺の態度というのは醜いが、それを不快に感じて面と向かって説教する客がいるとしたら、そいつだって何様だという話になる。威張った店主がイヤだったら次から行かなければいいのである。威張った親爺が不快でも美味いラーメンが喰いたいのなら、我慢して喰えばいいのである。

それは客が選ぶべきことであって、親爺に説教するという話ではないのである。もし親爺の態度が批判され得るとしたら、その親爺自身の商売人としての求道の観点においてであって、金を払ってるんだからもっと謙れという筋論の問題ではないのである。その金は美味いラーメンの対価であって、それ以上でも以下でもない。ホスピタリティまでを保証した金額だとは一言も言っていない。

本来商売というのはそういうものなのであって、客だから威張って構わないとか売る側だから謙るべきだとかいう問題ではないのである。あくまで原理的には対等なのであって、それぞれの側にそれぞれの立場に見合った礼節が求められるのである。

単に客の自由として態度の悪い相手からモノを買いたくない、払う金に見合わないモノは買いたくないという選ぶ側の強みがあるから、売る側は客を大事に扱い品質向上に心を砕くのであって、本質的に商取引というのは、対等の人間同士の等価交換の営みなのである。売る側であれ客であれ、立場の強みに乗じて増長し不当な侮辱を行って羞じないのが人間的に醜い行為であるというのは、幼稚園児でもわかることである。

威張った商売人も醜いが、威張った客もそれに劣らず醜い。本来対等な人間同士の営みである以上、どちらの側にも醜い心性を忌避する清潔さが求められるのだ。

極論に感じるかもしれないが、怠惰な鑑賞姿勢を棚に上げて「オレが楽してわかるように作れ」と主張するのは、つまるところそういう考え方なのである。不当な批判であるかないかという視点のない意見はひとしなみに「オレ様はお客様だ」「こちとら貴重な一八〇〇円を恵んでやってるんだ」という下劣な拝金主義の臭気を漂わせている。

木戸銭を払って小屋に入って、その映画が金に見合わない駄作だと思ったら、次からその作家の作品を観に行かなければそれでいいのである。その上でさらに作品の瑕瑾を論じたいのであれば、それはすでに一八〇〇円の木戸銭が保証する当然の権利の裡には入らない。何の根拠もなく悪し様に罵る権利まで一八〇〇円で売っているわけではないのである。

真剣に対価物をつくった人間をあえて批判するのであれば、それと同様の真剣さが要求されるというのは、批評という行為が金を媒介にする立場関係の問題ではなく人間性の倫理が基本となる問題だからなのである。送り手も受け手も同様に抱く映画に対する敬意というものを前提にした対等の対決なのだ。そのような敬意を持たない人間の映画に関する言説に何の価値があるというのか。

高々一八〇〇円払ったからといって、他人様を不当に侮辱していいなどと考える人間の賤しい言説には、耳を傾けるだけの価値など寸毫もない。その金は自己責任で作品を選び小屋の木戸をくぐるための料金にすぎないのであって、作品のおもしろさまで保証したり、つくり手の魂まで買える金ではないのである。


●せめて画面を視てから語れ

取って附けたように話を戻すが(笑)、「小さき勇者たち」という作品にはたしかに問題点があると思うが、一本の映画として視た場合、そこに凝らされた作劇の智慧は敬意に値するものである。この作品の何が気に入らないとしても、そのような真摯な姿勢、映画的な美点、物語としての完成度を無根拠に貶めることだけは不当である。

勿論、これを批判することがおかしいという意味では当然ない。オレが問題だと思うのは、多くの批判意見に説得力のあるものが皆無であり、真剣に作品を観た形跡すらないものばかりだったということなのである。真剣に観ていない理由を「こんなくだらない映画を真剣に観られるか」と嘯く者がほとんどである。だったら、真剣に観ることすらできないそんなくだらない映画について何も語るべきではない。

本作を批判する論調は、ほとんどの論者がふんぞり返って「オレにわからせろ」という態度のものばかりであり、きちんと劇中に描かれている描写ですら「そんなもん見えなかった」と無視し、「そんなふうには思えなかった」と恣意的に断じている。

他人が真剣につくった作物に対峙するに際して、自身もまた真剣に構える必要をまったく自覚していない傲慢な意見ばかりである。このように真剣につくられた作物に上手く乗って愉しんだ人々を愚昧な大衆と侮り、自分だけがこの映画の瑕瑾を見抜いているのだとでも言わぬばかりの傲慢な態度でいながら、その実何も見えていない。見ようともしていない。素直に映画の誠意を見極め、それに乗るより愚昧な態度である。

その怠慢の言い訳が「大衆娯楽」であるのならば、お涙頂戴に泣く愚昧な大衆を嘲笑う論者の謂う「大衆」とはどんな人々を指すのだろうか。つくり手の真摯な姿勢を感じ取り、安んじて泣いた観客が「一般大衆」でないとしたら、彼らの謂う「大衆」とは自らの莫迦の度合いを正当化するための便利な隠れ蓑にすぎないだろう。

そして、ここで恒例のちゃぶ台返しだが、そもそも話はもっと簡単なのである。

散漫な注意力で勘違いだらけの批判を展開する輩は、ここまで長々とディスクライブしてきたような傲慢さが問題であるというよりも、映画に乗って愉しむ見方をしていながら、それ以上の注意力を必要とされる問題を論じたがる向こう見ずな輩なのである。

映画に乗って気持ちよく泣くのであれば、後で思い返してあそこはどうしてあのような流れになったのだろうと思い出せなくても一向に構わないのだ。娯楽映画というのは、注意深く隅々まで画面を視て正確に記憶しようとするシネフィルでなくても十分楽しめるものなのだ。「もう細かいところは忘れちゃったけど、あの映画は気持ちよく泣けたなぁ」それで十分貴重な鑑賞体験なのである。気持ちよく映画を愉しんだら、後は綺麗サッパリ忘れ去っても構わない性質のものなのである。

多くの観客がリラックスして楽しめるよう、観客を物語に乗せるためにこそ作劇の智慧というものは凝らされるのである。その智慧をよく視てくれ、オレたちの手柄を顕彰してくれと望む映画人など一人もいない。そんなことなど一切意識することなく、ポップコーンを頬張りながら、コーラやビールを飲みながら、どうぞ二時間娑婆の苦労を忘れて愉しんでくださいと願うことが、まっとうな映画人の望みなのである。

この映画の誠実さや作劇の智慧は、精緻な批評分析の対象として評価を受けるためのものではなく、大の大人が安心して泣けるだけの「まっとうさ」を保証するためのものなのである。剰りにくだらないお涙頂戴に大人が泣くのはみっともないが、この映画の具える「まっとうさ」が大人の鑑賞者をも安心して泣かせてくれるのである。

それこそが、たとえば田崎監督がインタビューで語っている宮崎アニメの「背骨」ということである。大の大人が泣きの物語を真に受けるだけの誠実さと気配りがあるかどうかということだ。

この種の映画は、つくり手の手の内に乗った者が勝ちなのであり、乗れるか否かはその作品にかけるつくり手の誠意によって量られるものなのである。何も難しいことはないのであって、普通に観ていれば普通に感動するようにつくられている。それこそが普通一般の「大衆」の感じ方なのであって、「大衆」とは不当な批判者たちの怠慢や錯誤の言い訳に使われる便利な山田の案山子なのではない。

つくり手の手の内に乗ることを潔しとしなかった人間が、あえて意地悪な目でその瑕瑾を暴き立てようとするからこそ、多くの観客を安心して乗せるためのプロの手管を詳細に検討する羽目になり、あれを見誤ったりこれを誤解したりするのである。

あくまで一般大衆の一人として映画を愉しむ気構えがないのであれば、そんな映画など黙殺すればそれでいいのだ。「つまらなかった」「乗れなかった」と一言言えばそれでいいのである。それ以上のことが言いたいのであれば、つくり手と視点を共有し、技法や構造という舞台裏を語る為に注意深く映画を視る真剣な眼が必要なのである。一般大衆を口実にした漫然鑑賞などお呼びではない。

本当にそんなことが語りたいのであれば、その為だけにもう一度真剣に映画を視るべきなのである。つくり手との一対一の真剣勝負である批評・批判の言辞を弄したいのであれば、「多寡が」一八〇〇円の元手を吝しむべきではない。誠意を尽くした批判意見がたとえ力不足であったとしても、誰がその姿勢を悪意的に責めるだろうか。何の誠意もない不当な放言であるからこそ、それは唾棄さるべきデマに堕すのである。

つくり手の手の内に乗って気持ちよく泣く気になれなかったのなら、それを大勢の前で語りたいのなら、せめて喰い入るように画面を視るべきなのである。描写が不親切だから見誤ったのだなどというのはみっともない言い訳にすぎない。そんなことを問題視している「一般大衆」など、所詮はそいつ独りだけなのだ。

それは描写が不親切だから起こった錯誤なのではない、単にその瞬間にそいつが余所見をしていただけなのだし、無理して見附けようと血眼になるから顕れる白昼夢にすぎないのだ。そんなことを手柄顔に語るのは、論者の価値をいたずらに貶め恥をもたらすだけである。

自らの怠慢や無理解を正当化するためだけの莫迦UDには、謹んでサヨウナラを言っておこう。この手の莫迦の無責任な攻撃は、あらゆる意味で不当な行為なのであり、賤しい拝金主義なのである。

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