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2006年5月18日 (木曜日)

ウルトラマンメビウス

そういえば新しいウルトラには一言も言及していなかったことに気附いたので、一応この辺で少し触れてみようと思う。とはいえ、他の週末の特撮番組に比べてとくに身を入れて観ているというわけではないので、ちょっと居心地の悪い感触を感じていることはたしかである。

ただしそれは、この番組に対して特別否定的な意見を抱いているというのではなく、単にクルーガイズの面々を生理的に受け附けないだけの話で、番組全体のコンセプトについてはむしろ事前情報から感じていたよりも好印象を覚えている。

クルーガイズの連中に関しては、そもそもキャスティングのセンスがオレの感覚とは合わないのである。主人公のヒビノ・ミライ役五十嵐隼士は思ったよりもオッサン臭いトボケた味があって、甘い一方のイケメンということでもないのが好ましいが、彼と友情を結ぶサブリーダー格の仁科克基がどう視てもアラシ=フルハシ系の、しかも若さゆえの未熟さを臭わせる人材なのがどうにも居心地が悪い。

クルーガイズの組織描写を視ると、意図的に隊長であるサコミズを前面に出さないような組織イメージを狙っているようなので、実質的なリーダー役は仁科克基演じるアイハラ・リュウということになるのだろうが、未熟なアラシが陣頭指揮を執る未熟な防衛隊というのが生理的に不愉快なのである。

これは単なる悪意的な茶々になるが、リュウと仁科の柄のマッチングでいうと、どうしても「こいつ今はこんなにマッチョに振る舞ってるけど、ガキの頃は肥満児でいじめられっ子だったんじゃねーか?」と意地悪な妄想を逞しくしてしまう(笑)。前ガイズのただ一人の生き残りではあるが、前の組織ではミソっかすだったんではないか、その癖でかい態度をとりやがって、と思えてしまうのである。

それはリュウだけに感じることではなく、他のクルーガイズの若者たち全員に多かれ少なかれ感じる気持ちの悪さであって、それが番組の狙いなのだとしても個人の生理として気持ち悪さを拭い去れないのである。

おそらくそれは役者個人の問題ではなく、このチームのデザインにこのキャスティングを持ってきた辺りに生理的な反撥があるのだと思う。この番組ではウルトラマンも未熟なら防衛隊も未熟者揃いで、ウルトラマンであれ防衛隊であれ、地球の未来を担う若者たちが共に自らの弱点を克服して成長していくというコンセプトである。

それ自体は新機軸としてさしたる抵抗は覚えないが、そういうコンセプトならもっと濃い特撮的な柄の役者で演じていただいたほうがオレの好みには合っていたと思う。この場合に謂う「特撮的な柄の役者」というのは説明しにくい概念だが、噛み砕いて言えば曖昧なところのないハッキリした柄の役者という意味である。二枚目は二枚目、クールはクール、力持ちは力持ち、そういうふうにハッキリした柄ということだ。

役者の柄について「曖昧」という表現がわかりにくいなら、それは一般人としてのリアリティが顔や身体に顕れていると言い換えてもいい。普通一般の生活人というのは、どこかしら曖昧な顔をしているものである。それは人間の生きる現実が多義的で捉え所のないものであり、自分を一個の物語人物として捉える自己認識とは無縁であるのが当たり前である以上仕方のないことである。

役者の柄ということでいえば、このような曖昧な現実のリアリティを演じるのに好適な柄の役者は、あまり特撮ヒーロー番組に向かないと思う。以前「GARO」に触れたときに主演の小西大樹を特撮ヒーローらしい役者と表現したが、それはつまり、好悪の嗜好を抜きに言えば彼の柄が「誰がどう視てもいい男」「男性的な表情で身体も逞しい」というふうにハッキリしているからである。

これはつまり、冴島鋼牙を演じる小西大樹には「ヒーローという物語人物」に特化した自己認識によって純化された肉体性があるということである。とくに小西の熱烈なファンということではなくGAROの役柄に好感を持ったという程度の視聴者なら、彼の芝居を通じて「冴島鋼牙」という男の生活者としてのリアリティを連想することは剰りないだろうと思う。

本当なら作品世界に生きる人物にも生活人としての側面はあるはずだが、物語にとって必要なのは生活人としての側面ではなくヒーローとして純化された人物像であり、そのようなリアリティを連想させないことは、脚本や演出に要求されるスキルであると同時に、まず第一に役者固有の佇まいに要求される事柄でもあると思う。

たとえば冴島鋼牙のようなタイプの非常に虚構性の高いヒーローの場合、役者の柄がそのヒーローという虚構のリアリティを保証していないなら、「ホラー退治の任務がないときはどうやって時間を潰しているんだろう」とか「えらく豪勢な屋敷に住んでるけどどうやって生活費を稼いでいるんだろう」とか「やっぱ寝るときはジャージの上下着てたりするのか」という、物語の上ではどうでもいいことが気になってしまう。

勿論、そういうどうでもいい事柄に視聴者の関心を向けないための設定や描写の工夫も必要だし、わざわざそういうどうでもいいことをあえて考えるのは視聴姿勢としても筋違いだとは思うのだが、それ以前に役者の肉体性がヒーローという虚構に対して有無を言わさぬ自明な説得力を与える必要があるのである。

それはたとえばアイドルに関しても言えることで、昔の「清く正しく美しく」とは若干意味合いは違うが、ヲタ的萌えの文脈で語られるアイドルには「飯も喰わなきゃウンコもしない」とイメージさせる虚構度の高い肉体性が求められている。それはつまり、アイドルへの萌えとは一種の物語性であり、アイドルには物語人物としての自己認識と肉体性が求められるからである。

萌えでアイドルを語る文脈においては、アイドル個人の具体的な人間性などはどうでもいいのだし、一人の生活人として具体的に何を感じ何を考えていようがそんなことはどうでもいいのである。固有の人間性はキャラクター性と読み替えられ、それすらもが虚構的な物語の一要素であるにすぎないのである。

話を特撮に戻すと、意図的に「特撮ヒーロー番組」的なリアリティに現実生活のリアリティを滲出させる意図のコンセプトであれば、それはキャスティングのセンスも変わってくるだろう。たとえばオレは「仮面ライダーアギト」の津上翔一を演じた賀集俊樹は特撮的な柄からは遠い曖昧な柄の役者だとは思うが、この曖昧さこそがおそらくアギトという番組の狙いなのだろうから、それはそれで間違った人選だとは思わない。

平成ライダー、就中白倉・井上ライダーに関して謂えば、主人公が一般家庭でおさんどんをしていたり洗濯屋の居候だったり、防衛チームが焼き肉屋でビールを煽っていたり屋台でラーメンを手繰り込んでいたり、その種の一般的なヒーロー物語においては「どうでもいい」リアリティへの連想が実際に劇中に滲出してくる辺りが特徴なのだから、今更主人公の柄がヒーロー向きではないことを論っても見当外れである。

さらに話をメビウスに戻すと、クルーガイズの連中のキャスティングが気に入らないということはつまり、この連中の曖昧な柄が醸し出すヒーロー物語にとって「どうでもいい」現実生活へと転げ出ようとする連想に興味がない、有り体に言えば不愉快に感じるということである。

おそらくそれはこの番組の狙いだろうと思う。今現実に生きている若者たちの一人が虚構の物語において未熟なヒーローの一人として成長しているというリアリティが番組の狙いなのだろう。それに反撥を覚えるということは、どこにでもいるようなリアルな今の若者たちが防衛隊という重責を担うことを信用しないという、非常に年寄り臭い物の見方なのだろうとは思う。

おそらく、オレ的なヒーロー物語観においては、新しい世代の力を信じるにせよ、それは時代性に左右されない普遍的な人間の諸相においての話であって、ヒーロー物語にその時々の時代性を反映するにもせよ、虚構性によって抽象された世界においてのみそのヒーロー性にリアリティを感じるということだろうと思う。

早い話が、こういうキャスティングセンスの配役で、「未熟な若者が防衛隊員として成長していく姿」を描かれても、その物語的な真剣さを真に受けられないということだ。このような非常に個人的な感じ方が作劇への言及として何某かの客観的な意義を持つとすれば、たとえば第一話から第二話にかけての語り口によってクルーガイズ結成編を一旦完結させる場合、どうしてもメンバーたちの参加動機が軽佻浮薄に見えてしまうということがあるだろう。

曖昧な顔立ちの役者が演じるドラマのリアリティで言うなら、ここで参加動機については一旦確立されたという見え方にはならないのである。ヒーロー物語の防衛隊員の使命感というのは、役者の顔が保証する事柄に属する要素なのである。

普通一般の人間が生きる現実においては、その時々の感動によって一生を左右する決断を下したと思っていても、たとえば過重勤務が辛いとか月9が観られないとか食堂の飯が不味いとか、およそくだらない理由で本気で揺らいだりするものである。そういうどうでもいい現実的な心の揺らぎなど、如何に未熟者の成長物語であれヒーロー物語では視たくないのだし、成長物語の文法としては、そのように一度ドラマによって確立された心境がさしたる根拠もなく軽佻に揺らぐというリアリティ自体捨象してかかるのが筋だと思う。

その意味で、クルーガイズの面々の顔立ちの曖昧さは、第二話までのクルーガイズ結成編によって彼らの胸裏に防衛隊への参加モチベーションが確立されたという印象を与えない。だからたとえば第五話のような脱退話でネタをつくると、所詮その程度のいい加減な動機で参加してるんだろうというふうに見えてしまう。

どんな挫折が描かれようと、「あの時おまえが感じた使命感をもう一度思い出せ」と視聴者が入れ込めないのである。どうせいい加減な成り行きで参加した防衛隊なんだからその程度の動機で辞められるんだろうなぁ、と感じるだけである。そこから仲間たちの気遣いによって脱退者が戻ってきたとしても、それはそのメンバー内の仲良しごっこというか、脱退者の成長の問題ではなくメンバー相互の人間関係の問題に帰結するような居心地の悪さを感じるのである。

成長物語というのであれば、一話三〇分でそれぞれの成長のプロセスを明解な物語性によって言い切っていくのがこの種の成長物語の語り口であって、登場人物たちが成長のプロセスをさしたる理由もなく軽薄に逆行すると、番組全体が掲げる「成長」という虚構すらも相対化されてしまう。どんな感動的なエピソードを語っても、後になって「あのときの感動は何だったんだ」という話になる。

それはつまり、白倉・井上ライダーの語り口と同じ人間観になってしまう。ドラマの流れの上でどのような感動的な事件が起ころうと、それは物語が受け手にもたらす興趣という以上のものではなく、それによって個々の人間の根本が変わるということはあり得ない、成長というのは幻想にすぎない、というのが白倉・井上ライダーが採用する基本的な人間観である。これはつまり成長物語自体の否定であって、だからこそ白倉・井上ライダーの主役は曖昧な顔立ちの役者でもいいのである。

だが、ウルトラの語り口は平成ライダーと違うのだし、この番組は明確に成長物語を肯定する観点で成り立っている。だとすれば、それは曖昧な柄の役者によって演じられていい物語ではないのである。ウルトラにおける防衛隊メンバーを未熟者揃いの若者集団と描くことは一向にかまわないのだが、それでもそれが成長物語としての熱さを狙う以上、防衛隊メンバーとしての虚構的なまでの強い使命感は役者の顔が保証すべき事柄なのだと思う。

それが視られないから、いつまで経ってもオレはクルーガイズの活躍を気楽なサークル活動という以上には視られないのである。第二話までの結成編では、おそらく書き手の意識としても「今時の若者が『ちょっといいじゃん』的に大義に興味を持つ」くらいのライトなニュアンスで新生ガイズの誕生が描かれていて、そこから真に揺るぎなく使命感を持つに至るプロセスはこれから徐々に描かれていくと思うのだが、それがどうにもイライラさせられるのである。

一種これは月9辺りの集団描写に近いと思うのだが、月9で語られるドラマの主眼というのは、個人の成長や大義ではなく特定集団内の人間関係の問題である。惚れた腫れたや友情物語の建前として個人の成長や大義が機能しているのである。人間関係のすったもんだの果てに物語的な大義に帰結が得られなくても、それはそれでかまわない。所詮は美男美女の束の間の戯れで夢を見せるのが主眼のドラマだからである。

ただし、月9の場合にはその物語が当代きっての人気俳優によって演じられていることによって、人間関係の物語それ自体が視聴者に満足を与えるのだが、それほどの突出したキャラクター的な魅力を確立していない新人俳優によって演じられる特撮ヒーロー番組においては、おまえらの人間関係上の戯れなんてどうでもいいんだというのが本音のところである(笑)。

そのような見え方になる一因としては、すでに劇中世界ではクルーガイズが有名無実化しており、既存のガイズも実戦経験がまったくなく最初の怪獣襲撃で脆くも潰滅しているため、クルーガイズという防衛隊そのものがアマチュアリズムに根ざした組織に見えるという事情もあるだろう。要するに、プロフェッショナルとして彼らが目指すべき大人の集団が存在しないことが新生ガイズの素人臭さを強調して、「子どもの軍隊」のような幼稚さを醸し出しているのだ。

サコミズ隊長の描き方も、このようなガイズ描写を受けて「一見昼行灯だが生徒思いで頼りになる古参教師」のような、学園ドラマのアナロジーで視たほうが実態に近い役柄になっている。つまり、このドラマにおける「未熟者」は「子ども」の延長上で捉えられているのである。オレとしては、そこに反撥を覚えるのだろう。

この番組の基調としてイメージされているウルトラは、「MATは解散、わかっておろうな」のセリフで有名な藤田進のカジュアル版であるトリヤマ補佐官の設定などを視るにつけても、おそらく七〇年代的な陰鬱な自意識を持つ若者たちの群像劇として描かれた「帰ってきたウルトラマン」初期のラインではないかと思うが、あの当時の「青年」が一種自立した「大人」だったのに比べて、この番組の青年たちは未だ大人の温かい見守りを要する子どもに見えてしまう。

それはたとえば彼らの前身が、挫折したプロサッカー選手であるイカルガ・ジョージを除けば、医大生であったりレーサーの卵であったり幼稚園の先生見習いであったり、何かを目指す途上にある「修行者」であって、さらには「前身」という表現も正確ではなく、単に本来の修行を一旦中断して緊急事態に際して合力しているだけということからもわかるだろう。

彼らは未だ徹頭徹尾何者でもない途上者なのである。本来目指すべき人生設計において途上にあるばかりではなく、そこからさらに身を寄せたクルーガイズにおいても素人である。この二重の未熟性の強調が、防衛隊描写としてはやはり諄い。

思い込みととられても仕方ないが、命を賭けて地球の危機と戦う組織というのは、やはり普通一般の職業や達成感のアナロジーで語るべきではないと思う。さらに、組織の成員を資格制にして、有名無実の国家資格に基づいて召集されたメンバーが一から戦いの最中でプロとして成長していく姿を描くというのは、この種のドラマとしてはかなり危ういコンセプトではないかと思う。

そこから想起されるのは、たとえば韓国や台湾の徴兵制であり、徴兵制や国防への国民参加に纏わる問題は別個の場で議論さるべき問題だとは思うが、少なくともヒーロー物語において、プロ「だから」命を賭けて戦うという防衛隊の自明性を踏み外してしまうと、いろいろ面倒な問題に対して言及せざるを得なくなると思う。

たとえばボウケンジャーにおけるメンバー設定というのは、在り来たりなだけに何の問題もない。その各々の前身は、たとえばトレジャーハンターであったりスパイであったり戦闘のプロであったり、それなりに命を的の荒っぽい職業者としてプロのスキルと経験を積んでいる。記憶喪失の菜月にしたところが、記憶を取り戻すという切実な動機に基づいて真墨に附いて歩いている以上、ずぶの素人とは言えないだろう。

そもそもスーパー戦隊のリアリティにおいては、お気楽な高校生や自動車会社の平凡なサラリーマンですらがヒーローになれるのだから、ボウケンジャーの設定は十分すぎるくらいリアル寄りである。だが、ウルトラマンメビウスのリアリティで防衛隊員が全員アマチュアでつまるところ保護監督を要する子どもであるというのは、どうにも違和感が拭い去れない。

だったらワケのわからない国家資格を基準に頼りない素人の子どもを選ぶより、既存軍隊からの選抜者もしくは軍隊が存在しないなら隣接職業から選べばいいじゃないか、というツッコミをどうしても入れてしまう。第二話でミライとリュウがあの連中を訪ねてメンバー集めをするくだりにリアリティを感じないのである。

前番組の「ウルトラマンマックス」の防衛隊描写も間抜けな側面が否めなかったが、それは「全員プロ」という設定でありながら物語の語り口においてプロらしさが皆目見えないという意味であって、この番組のようにハナから設定上アマチュアであるという防衛隊はウルトラ史上前代未聞である。

防衛隊としてアマチュアであるなら、せめて何らかの隣接職業人としてのスキルや強い使命感を持っていれば違和感はないのだが、サッカー選手や医者やレーサーや幼稚園の先生、しかもその出戻りや見習いがふとした偶然で一堂に会したというのでは、職業的な適性もさりながら、危険性の自覚とそれを前提にした使命感という最低限の条件もクリアしていない印象が否めない。

実際の描写で、第二話のラストではミライの一方的な説得に折れて応じたかたちにしたこともその印象を強調しているし、第三話で確認された彼らの参戦意義もまた一般論でしかなく、彼ら個々人の個別の生き様に根ざすものではない。それが個々のメンバーのモチベーションの描写として致命的に弱い。

それはつまり、若者が大義のために命を賭けるという場合、それは一般論としての大義それ自体に対する共感の問題ではなく、それに応召する個々人の個別的な心の在り様の問題であるべきだからである。そうでなければ、たとえばこの状況で新生ガイズ結成に応じた現状のメンバー以外の、全国に何人いるかわからないが大勢いることだけは間違いないクルーガイズの資格者が残らず卑怯者と意味附けられてしまうからである。

命を賭けて大義を追求することそれ自体は何ら忌避さるべき心性ではないが、大義よりも個人の生を重んじる姿勢もまた、この現代においては同様に肯定されねばならないのである。だからこそ、大義に纏わる召命と応召の問題は、自由な個人としての納得と発意の筋道を如何に説得力を持って描くかが重要なのである。尤もらしい理論的根拠を持つ大義に共感するというだけでは、それに共感しない他の人間を暗に非難することになるだろう。若者に大義のために死ねと強要することになるだろう。

このような問題は、決着するところ、如何にして「個人の生の問題」として厳しい使命感を納得して受け容れるかを描くことが肝要となるのであり、それは生きて人としての生を愉しみ他者を愉しませる日常的な生活を前提とした普通一般の職業とのアナロジーで語れることではない極限的な命題なのである。

何故充実した個人の生を営む数多の若者の中で彼らのみが命を賭けて地球の危機に立ち向かう必要があるのか、それが彼ら自身の中でも明確化されていないし、当然それを見守るオレたち視聴者の中でも明確になっていない。これが歯痒いのだし、オレを苛立たせるのである。

やはり、防衛の最前線でそれに相応しい職業的スキルも死を覚悟した使命感もない未熟な若者が右往左往して成長するという骨格には無理があると思うし、そのようなリアル寄りの違和感を役者の柄が払拭していないというのは問題だと思う。

たとえばこのような骨格の物語でも、「ウルトラマンネクサス」程度に役者が防衛隊に相応しい面構えをしていればそれを意識しないものだと思うのだが、どうも設定に忠実に曖昧な柄の(防衛隊員として)素人臭い役者を選んでしまったのが失敗だったのではないかと思う。

だが、クルーガイズの連中に感じる個人的な違和感を除けば、この番組のコンセプト自体は事前の印象よりも考え抜かれていて好感が持てる。マックスの終了時点では、またウルトラの父が登場する予告編を観た段階では、マックスにおける同窓会ネタや人気怪獣登場編の好評に気をよくして、懐古モード全開のぬるいウルトラファイトを本格展開するのでは、と疑ったのだが、蓋を開けてみれば新しいウルトラとして十分な独自性と存在意義を具えている。

少なくとも十分な準備期間を与えられず急遽製作されたマックスよりは格段にコンセプトデザインが練り込まれており、どのようなウルトラであるのかが明解なシリアスなウルトラに仕上がっている。

特撮ライター上がりの赤星政尚のシリーズ構成というのがどの程度影響しているのかは識らないが、前作マックスがオレウルトラの祭典的ウルトラバラエティーショーだったとすれば、メビウスの全体的基調はウルトラの自己言及的な語り直しという側面が強いだろう。劇中の厳密な設定は確認できないが、最低限第三話で言及されたタロウまでのウルトラシリーズを前史として踏まえ、ウルトラマンが存在する世界とは何かということを整合的に読み解いていく語り口には好感が持てる。

また、初期のシリーズを前史として踏まえる姿勢は、先に語った防衛隊の成長物語、ウルトラマンの成長物語という骨格とも呼応しており、クルーガイズの面々は過去作におけるエリート部隊としての防衛隊(実態はどうあれ(笑))を目指し、メビウスは輝かしい歴史を誇るウルトラの勇士たちを目指す、このような意味において単一の明解なコンセプトに収斂する番組全体のデザインは間違っていないと思う。

前史として過去のシリーズが踏まえられているということは、それを明確な歴史として客体視する視点が存在するということで、このようなウルトラはかつてなかった。たしかに第二期のウルトラではウルトラ戦士の縦のラインというコンセプトが浮上してきたが、直接的に接続する世界観の番組は存在しなかった。防衛隊や一般人たちは漠然と他のウルトラ戦士を識っているようでもあり識らないようでもあるが、人間の世界が経年的に継続しているという描写は努めて排されている。

科特隊とウルトラ警備隊、MATの間に相互の組織的関係性がないのは当然だし、帰りマンの次郎少年がAに登場したのも一回限りの特別イベント的な扱いだが、ウルトラ兄弟やウルトラ戦士というシリーズコンセプトが明確に意識されるようになってからも、TACやZAT、MACという組織に直接的な関係はない。「すごかが」的考証漫談や学年誌展開の詳細裏設定以外は、作品自体を視る分にはそのような描写は一切ない。要するに、厳密な意味での正続編関係にあるウルトラは平成のウルトラマンティガ及びウルトラマンダイナのみなのである。

たとえばマックスにおいて人気怪獣が登場するエピソードでは、すでに一度地球に出現した生物種という前提でデータが開示されるが、その出現に際して個別にどのような事件が起こったのかという詳細の開示はなく、ウルトラシリーズの世界観自体は共有されていない。つまり、メタ的な意味でテレビ番組としての過去は踏襲されているが、ウルトラシリーズという物語世界を総体的な歴史として認識する視点はなかった。

これは正続関係にあるティガ&ダイナでも同様で、直接接続する作品世界だからこそ、それはリアルタイムで連続した時系列上に位置附けられるのであり、リアルタイムで連続する時間軸上にある諸事件を「歴史」とは言わないものである。

既存のウルトラシリーズを明確に歴史として捉えたウルトラは今回のメビウスが初めての試みなのであり、それこそが自己言及的ウルトラと表現する所以である。ウルトラマンが存在する世界を客観的な史実として持つ世界だからこそ、ウルトラマンという存在や防衛隊という存在、怪獣という巨大生物が客体として自己言及的かつ考証的な分析の対象となるのである。

ウルトラというシリーズについて、他ならぬウルトラにおいて統一的史観を提示し考証を試みるウルトラという番組コンセプトは、若干ヲタ臭い側面はあるが、ウルトラ全体に興味のある幅広い層にとっておもしろい観点であるといえるだろう。

何せ、グドンもサドラもバードンもツインテールも、帰りマンやタロウに出現したあの怪獣そのものの別個体と意味附けられているのである。これは前史を曖昧にして人気怪獣を若干リニューアルして登場させるよりも格段に燃える設定である。たとえばツインテールが身体を水平にして海中を素早く泳ぐ描写があるなら、それは帰りマンのツインテールも同様に本来海棲怪獣であり、「エビの味がする」のはそのような生物属性に基づくものであるという意味になるのである。

さらには、本来海棲怪獣であるツインテールを地底怪獣であるグドンが捕食していたのであれば、それはどのような局面における生態系を構成していたのか、帰りマンの当該エピソードにおいて工事現場でツインテールの卵が発見された以上、あの場所は化石時代において海底であったのか、そのようにして既存の作品世界を史実として踏まえることで豊かな博物学的想像が拡がるのであり、それは怪獣を愛好する男の子の本来的な想像的快楽なのである。

そのメビウス的歴史観の開示を担当するのがクゼ・テッペイ隊員で、見た目はガイズクルー中最も冴えないが、番組が提示するウルトラ史観の直接の語り部として重要度の高い人物である。ガイズクルー的な暑苦しいキャラではなく、かつは直接戦闘に参加しない科学分析官ということで最前語ったようなガイズ設定の難点を意識させない分、クゼ隊員に対するオレの個人的な好感度は高い(笑)。

ただし、このような便利な語り部を劇中で設定することで、「何でもこいつに説明させれば済む」という安易な作劇に繋がる危険性はあり、その扱い方に注意が必要ではあるだろう。見かけは若いが、このキャラの番組における存在意義は、昔の特撮番組における「なのじゃよ博士」なのじゃよ(笑)。

それと、これはオレの個人的な感触というやつだが、この番組において提示されるウルトラ史観を「ウルトラシリーズ全体に対する公式設定」と解釈するのは危険ではないかと思う。これはおそらく、ある個別の番組が個別のアプローチでウルトラシリーズという物語体系を読み解いた結果であって、別のウルトラにおいてこの史観が覆される可能性は十分にある。

つまり、メビウスという番組は従来のシリーズを統合的に解釈する設定を提示するためのたたき台ではなく、ウルトラを歴史として読み解くという個別の視点に基づいて展開される個別の物語であるということだ。

これが暫定的な公式設定として認定されるかどうかは円谷のビジネス的な判断に任される事柄であって、筋道からいってメビウスという個別の物語の中で語られるウルトラの歴史が公式設定「でなくてはならない」必然性はまったくない。要するに、ウルトラシリーズという万人が緩く共有している物語体系のバックグラウンドを用いて、個別の物語の前史を遡及的に設定しただけであるという見方もできるのである。

そういう意味では、円谷の従来のキャラクター商売に自己責任で明確な回答を迫る物語世界であるということになり、一種このような番組コンセプトが罷り通ったということはチャレンジングな試みであるという言い方もできるだろう。

何はともあれ、嗜好の面では剰り好きな番組ではないのだが、その試みの真摯さや語り口の誠実さには好感が持てる番組ではあり、好悪の面での問題なら時間が解決してくれるのではないかと期待して見守り続けている次第である。

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遅ればせながらやっと、ちょろっと見たので一話と二話の感想を合わせて。 それにしても、「ガイア」を見たときはこんなガキんちょに地球を託すのかと思ったが、「コスモス」で我夢が懐かしくなり、「マックス」ではまだ「コスモス」のほうがマシに思え、今また「メビウス」で早々「マックス」が懐かしくなるとは思いませんでした。(「ネクサス」は三話目ぐらいで諦めたので除く) メビウス、久々に地球人の身体を借りずに変身するんですね。そして主題歌で「誰も最初からヒーローじゃない」と歌っているように、何だか今回のウルトラマ... [続きを読む]

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