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2006年5月 8日 (月曜日)

GW戦線終了後に想う

仄聞するところによると、どうやら今度のガメラは当たらなかったらしい。

窮めて遺憾に思う半面、宜なる哉という気がしないでもない。特ヲタであるオレ自身に限って言っても、前回語ったように小屋へ足を運ぶまでに逡巡があったのだから、特撮というジャンルに思い入れも何もない層の動員は望み薄だろう。

前回強調した通り、映画というパッケージのトータルデザインを考えた場合、中身の品質については問題ないが、「観ていない人間を小屋に動員する力」という 興業物として必須の資質に欠けている。映画というのは、「観た後の満足感の保証」だけで成り立つものではない、「観られないことによる飢餓感」を煽る資質 も必要なのだ。

それをハッタリと表現してもいいし、外連味と表現してもいいが、やはり生真面目な演出者である田崎を起用するのであれば、プロデュースサイドでそれをフォローする意識が必要だったということなのだろう。たとえば田崎監督は「この映画で初めて玩具の呪縛から離れることができた」と語っているが、実は本来興業の呪縛というのはそれ以上に重要かつ現場を拘束する不自由な要素であるべきなのである。

この辺のブラッフのテクニックは白倉Pが得意とするところだが、作品としての緻密な精度をある程度犠牲にしても、未見の想定観客層に「観たい」と思わせる即物的見世物性というものが、映画興業には必要なのである。

そういう意味では、今回のガメラは「作品の質的側面」を巡る部分では十分な検討が為されているように感じるが、「作品の興行的側面」を巡る部分では十分なせめぎ合いがなかったのではないかと感じられる。作品としての質は落ちるかもしれないが、売るためにここだけは泣いてくれ、というようなせめぎ合いの形跡が視られないのである。一本のドラマとしてはかなり理想的な線を実現しているが、それが逆に興業物としての弱さに繋がったのではないかと感じるのである。

無論オレは「売らんがための香具師根性」が映画製作の現場においてプライオリティとなるべきだと主張しているのではない。映画という興業物をトータルに捉えた場合、観客の観賞後の満足感を保証することも大切だが、未見の観客に観たいと思わせる期待感を煽ることもそれに劣らず大切であり、映画というのはその両様の要素の緊張関係の下に成立すべきパッケージであるということなのだ。

簡単に言えば、愚直に「良い作品」を作るだけでは映画としてはダメなのだ。未だ作品を観ていない段階では、誰にもその映画が「良い作品」であるかどうかなどわからないし、そうである保証など誰にも出せるものではない。「良い作品」であることは観賞後の観客に対する質的側面における誠意なのであって、鑑賞以前の想定観客層に対するアピール要素にはならないのである。

たとえば、度々引き合いに出している「妖怪大戦争」だが、「少年の一夏の冒険」という括りからいえば「小さき勇者たち」と通底する作品世界であり、戦う相手が妖怪であるか怪獣であるかという違いしかないという言い方もできる。

だが、この二本の作品の映画としての在り方の違いの本質は、主役の少年が神木隆之介であるか富岡涼であるかの違いであると言い切っても差し支えないだろう。物凄く雑駁に言うなら、神木隆之介は名前だけで客が呼べるスターであり、「今の日本でいちばん可愛い男の子」である。

その「今の日本でいちばん可愛い男の子」が演じる荒唐無稽な冒険には、「小さき勇者たち」が具えているような映画的リアリティなど存在しない。それは「妖怪大戦争」を観る観客のほぼ全員が神木隆之介というスターの演技に惚れ惚れと見入り、その可愛さを愛でてしまうからである。観客の誰にも、外連味たっぷりの麒麟送子のコスチュームに身を包んだ彼をわが身に引き寄せて共感することなど求められていない。

スネコスリとの友情に笑い、泣き、怒る神木隆之介というスターを客体として愛でるのがこの映画の配役上の狙いである。物語のクライマックスで、オレたちは残酷な仕打ちを受けたスネコスリの変わり果てた姿に神木隆之介と共に泣くわけだが、それは神木隆之介に感情移入しているから泣くのではない。

小動物のスネコスリが可愛くて健気だから泣くのであり、スネコスリとの友情を演じる神木隆之介の泣きの芝居が綺麗だから惚れ惚れと入れ込んで泣くのである。それはある種、下世話ではあるが映画の本来的な見方でもある。良く出来たドラマの語り口で共感させるだけが映画の叙述ではないのである。

こんな非凡な子どもはイッパンタイシューの幼年時代に身近にはいなかった。こんな可愛い男の子ってホントにいるんだねぇ、というのが映画を観た人間が共通して思うことだろう。あるいは、自身の幼年時代を顧みて、自分の友だち「ではなかった」クラスの人気者の美少年を彼に重ね合わせて想起する人間もいるだろう。

要するに、神木隆之介はどのような子どもを演じても、観客の目には、今も昔も変わることなく距離のある非凡な存在としか映らない。そんな非凡な存在である「俳優」の美しさを見世物として観に行くのが、本来的な映画の見方でもあるのである。

そして、「妖怪大戦争」という映画においてはそれで一向にかまわないのである。ラストにおいて、この可愛い少年の演じた「一夏の冒険」は「単なる通過点」として相対化され、「日本でいちばん可愛い男の子」のなれの果ての凡庸な大人を津田完治という無骨な顔立ちの俳優が演じることで、ストーリー全体の意義がシニカルに転覆される。

要するに、「妖怪大戦争」は「一夏の冒険」を通じて少年が「良い大人」になる可能性を語る映画ではないのである。そのようなストーリー上の建前をつくり手が真に受けているわけではなく、そのような建前に基づいて組み立てられた「一夏の冒険」それ自体を見世物として愉しんでください、というスタンスの映画なのである。

この映画のつくり手は、子どもであることに何か特権的な意味があるとは信じていないのであり、子どもは子ども、大人は大人、ただそれだけであると考えている。子ども時代の特別な体験が大人としての在り様に何か意味を持つなどとは信じていないし、それはただの「おもしろい昔話」にしかすぎないのである。それはそれで一面の真実ではあるのであり、そのようなジュヴナイルの作り方もあるのである。

そしてそのようなスタンスは、引いては映画というそれそのものが何らかの建設的な意味を語るものではなく、その場がおもしろければいいのであるというシニカルな映画観をも露呈している。それはそれで一面の真実ではあるのであり、そのような映画の作り方もあるのである。

三池崇という映画監督は、自身が語る通り現場を愉しむために映画に携わる映画人なのであり、その代償として「おもしろい見世物」に徹した作品づくりを心懸ける映像作家なのである。そのような彼の姿勢は、Vシネを作る場面でも、「妖怪大戦争」を作る場面でも、ウルトラマンマックスを作る場面でも一貫している。三池作品は、極論してしまえばすべて映画的意味性とは無縁のサービス満点の映画的見世物なのである。

そのようなジュヴナイル観、そのような映画観が、神木隆之介というキャスティングとその使い方に色濃く顕れている。綺麗な子役の惚れ惚れとするような綺麗な芝居を見世物として見せながら、最後の最後で美少年のなれの果てとして無骨な大人の貌を見せ、併せて「少年の一夏の冒険」という枠組みの特権的な意義も否定してみせる。

要するに、「妖怪大戦争」という映画は、即物的なアピール要素で演じてみせる豪華でおもしろい見世物にすぎないのであり、意識的にそのように目論まれた清潔なイベント映画なのである。この映画における唯一の映画的意味性とは、何ら建設的な目的もなく自分が愉しむためだけに東京に集まった妖怪たちのお祭り騒ぎというイベントが、独り三池崇が映画に臨む本質的な心情のみならず、この映画そのものの本質をも剔抉しているという事実である。

対するに、「小さき勇者たち」の富岡涼を一目見て「可愛い」と思う観客など一人もいないだろうが、この映画における叙述のリアリティからいえば最適のキャスティングである。一旦映画を観てしまえば、「こんな奴がクラスメイトにいたらよかったのに」と誰もがしみじみ彼に共感するだろう。

この二作には共通して津田完治が出演しているが、たとえば神木隆之介が大人になって津田完治になるという筋立てが一種のギャップとしてシニカルな余韻をもたらすのとは違い、富岡涼が大人になって父親である津田完治になったとしても何らギャップは存在しない。まあ、それを簡単に言ってしまえば、富岡涼は津田完治と同種の無骨な顔立ちの子どもだからだが(笑)。

作品の筋立てを通じて父親自身が息子と諸共に「一夏の冒険」を通じてある種の成長を果たしている以上、富岡涼が成長して津田完治になることには、「妖怪大戦争」のシニシズムとは別種のポジティブな余韻が生起する。それは、冒頭で提示されたような悲劇とは別の人生を生き直した津田完治の再生というテーマである。

そのような意味合いにおいて、この二本の映画で主役の子どもがまったく別種の配役センスに基づいていることには、それぞれの作品固有の必然性が働いているのであり、作品の質的には何ら問題はない。

一方、興業の観点から視るなら、スター子役の神木隆之介があの変な麒麟送子のナリをして妙な形の剣を構えている絵面は、未だ作品を観ていない想定観客層に対して十分以上のアピール要素を持っていると言えるだろう。ショタな腐女子ならずとも、美少年が妙なコスプレをしている絵面を視ればこの映画がどんな映画なのかが一発で諒解され、興味を惹かれることは間違いない。一種キャッチーな魅力があるのだ。

しかし、たとえば富岡涼が一メートルガメラと共に岬の突端に佇むスチルには、作品の内実を十分に表現するほのぼのとした味のある絵面でありながら、富岡涼には気の毒だが「旧共産圏の教育映画かよ」とツッコミを入れたくなるほどの地味さがあることは否めない。この絵面の与える感興は「映画を観た後」でないと生起しないのである。

無論、バラエティ豊かな演者の貌を特殊メイクで塗り潰すという贅沢なキャスティングや関係した著名人のカメオ出演までが許されたのは、「妖怪大戦争」という映画個別のお台所事情で、京極夏彦や荒俣宏関連の書籍までの潜在的波及効果を考えた場合、本来書肆である角川資本ということもあって、パブの力の入れ具合からして「小さき勇者たち」とは温度差があったことは否めない。

現場本意のイベント映画であった「妖怪大戦争」と作品本意の「小さき勇者たち」を同列に語ることそのものに無理があるのだが、映画が興業物である以上、その観点は否応もなくひとしなみに適用されてしまうのである。

たとえば「妖怪大戦争」の各種宣材スチルを視る場合、そこには主役の美少年が写っており、善悪両ヒロインの大胆な脇チチやフトモモが写っており、特殊メイクの妖怪という色物が写っており、格好いい悪役が写っている。この映画の想定観客層すべてに対するアピール要素が満遍なく写っているのである。

事前に流通したスチルを視るだけで、この映画がどのような作品であるのか、何を見どころとして期待すればいいのかが一目瞭然であり、実際に映画を観ても、主役の美少年はちゃんと可愛いし、善悪両ヒロインはちゃんとエロいし、色物の妖怪はちゃんとおもしろいし、悪役はちゃんと格好いい。いわば、宣材スチルから視てとれるアピール要素がすべてきっちり「保険」として機能しているのである。

対するに、「小さき勇者たち」の場合、このようなわかりやすいアピール要素の保険がいっさいない。「良い作品」であるかないかという、非常に心許ない博打に基づいて自己責任で小屋に来いという、一種無愛想な映画になっているのである。

この映画の宣材スチルに視ることができるのは、緊密に仕立て上げられた一本のドラマの個別のパーツでしかない。それ単体では何を語るでもなく、「このような場面を含んでいるドラマ」ということしか語っていない。キャスティングの集客力という面で視ても、まあ神木隆之介とは違って無名の子役のファンというのは考えにくいから、津田完治や寺島進や夏帆のファン層を想定するなら、彼らが出演しているという事実以上のアピール要素が感じ取れないのである。

無論、「仮面ライダーの田崎監督」というブランドが、特撮番組の主要視聴層である幼児層やその父母の層に対しても何らアピール力を持たないのは当然の話で、田崎監督には気の毒な言い方になるが、やはり監督や脚本家や況やプロデューサーの名前で特撮を観るのは一部の大人のマニア層しかいないのであり、その範囲における集客力しか持たないのである。

つまり、この映画には観客が安心して小屋に行くための保険的要素がいっさいないし、それを積極的に提示するようなパブの打ち方もしていない。興業としては確実に失敗の部類だろう。これは宣伝の熱の入れ具合や予算の都合という個別事情とは関係なく、映画という興業物パッケージのトータルデザインの問題だとオレは思うのである。

今後田崎監督がプロデュース的な面も含めてフリーとして企画を売っていく希望があるのなら、それは田崎監督自身の課題ということになるだろうし、今回の映画に限って言うなら、やはりプロデュースサイドに問題があったということだろう。

この映画のトータルプロデュースには、昨夏の「妖怪大戦争」がなぜヒットしたのかという分析が反映されているとは思えない。田崎監督の演出力を十全に発揮させたという部分においては誠実さは感じるが、積極的に売ろうという意気込みが感じられない。

そういう意味では、「おまえ結局それが言いたいだけちゃうんか」と突っ込まれても仕方ないが(笑)、再々強調しているトトガメラの造形のひどさも、ある意味プロデュースの失敗、興業の失敗という言い方ができるだろう。

田崎監督自身もどのインタビューでも造形に一言も言及していないし、金子功特技監督もトトガメラの過渡性を妙に強調しているので、二人ともこの造形にはおそらく満足していないのではないかと思うが、この両監督のキャリアで、初顔合わせのベテラン造形家にダメ出しするのは気兼ねがあったのではないかと邪推してしまう。ちょっとダメだというのなら遠慮なく意見が言えるものだが、ここまで何から何まで抜本的にダメな造形だと、全否定になってしまうから何も言えなかったのではないか(笑)。

その憶測が当たっているなら、キャリアの差がどうあれそこで踏ん張れなかった田崎・金子両監督の責任であるのは当然だが、主役怪獣の造形というのはTV特撮番組でいえば「玩具の呪縛」に相当する重要な部分であり、角川ヘラルドサイドがこの造形に難色を示さなかったとすれば、それは怠慢だろうと思うし、積極的にこのような造形を支持もしくは指示したのであれば、それはもう何をか言わんやである。

オレ自身の子ども時代を考えても、こんな造形の怪獣を見せられたら「バカにするな」と怒っていただろう。子どもというのは怪獣という存在に「幻獣的格好よさ」を期待するのであって、怪獣という括りで「可愛いキャラ」が見たいのではない。

ガメラという「怪獣」を、どう言い繕っても「可愛いキャラ」と読み替えることはできないのである。「怪獣の幼態の可愛いキャラクター化」という試みがやりたいなら、たとえば「REX」のように完全オリジナルキャラクターでやるべきだ。幼児向けに振った平成モスラシリーズですら、既存怪獣をデフォルメして可愛くするという愚は犯さなかった。最初から媚びた造形であったミニラの平成ゴジラ的アレンジであるベビゴジやリトルや平成ミニラとは事情が違うのである。

たとえば、ブログ検索で本作の感想を総覧してみると、小屋にさえ来させてしまえばおおむね好評といったところで、子どもにせがまれて観に行った親御さんや、その逆に親御さんの思い入れのダシにされて連れられて行った子どもの両者にとって、十分な満足感をもたらすGWの娯楽となっているようだが、その一方、所謂特ヲタ層には剰り受けが好くない印象である。

これはこれで理解できる事情で、「今度のガメラはジュヴナイルなんです」と正統な版権を持った制作側が断定するのは勝手だが、元々ガメラは「怪獣映画」である。怪獣映画のブランドを使ってジュヴナイルを作るのであれば、元々のガメラの愛好層から反撥が来るのも仕方ないだろう。

ただ、子細にそれらの意見を視てみると、つまるところ怪獣映画がどうとかジュヴナイルがどうとか言うのは建前であって、彼らの不満は偏に「ガメラが格好悪い」に尽きるのであり、その余の意見はほぼ「坊主憎けりゃ」方式の鬱憤晴らしである。「ジュヴナイル」が格好悪い怪獣造形の言い訳として捉えられているから、本質的には間違っていないジュヴナイル路線にまで反撥があるのである。

オレ個人の意見は前回のエントリーで存分に語ったが、本作のジュヴナイルとしてのドラマ的結構と、格好悪い怪獣造形というのは何ら必然的関連がない。単に何も考えていない造形屋さんが「ああ、子ども向けの映画で怪獣も子どもなのね」という窮めて粗雑な勘違いに基づいて格好悪い着ぐるみを作ってしまったという笑い話に過ぎない。

田崎監督自ら「平成ガメラのアンチテーゼ」と語る通り、平成三部作の批判的継承という意味では「子どもの味方」という性格をポジティブに捉え直したジュヴナイル路線も決して間違った選択肢ではないとオレは思うが、平成三部作との差別化を打ち出すために、ガメラ的なデザインラインが実現し得る最高の格好良さを確立した平成三部作の着ぐるみ造形まで棄ててしまう必要など寸毫もない。

この映画の叙述に合わせたリアリティできっちり「格好いい怪獣の幼態」を造形していたなら、特ヲタ層やそれと境界を接している大人の観客層から不当な反撥を買うこともなかっただろうし、引いては、もっともっと多くの子どもたちがGWの窮め附けの目玉としてこの映画に連れて行ってとせがんでいたのでは、と残念に思う。

トトガメラを視る度に、G1の着ぐるみ造形に満足しなかった金子・樋口両監督が積極的に意見を出し、ガメラ造形に固定観念を持つ大映サイドを説得しながら徐々に平成ガメラのフォルムを築き上げていった手柄が想われてならない。

原口智生という人物は、G1の作品世界を識っていてもG1時点のガメラ造形で何ら問題がないと思っていたような鈍感な映画造形家だと思うのだが、そういう意味では、平成三部作の造形家だから新しいガメラでも良い仕事をしてくれるだろうと期待するのは危険である。少なくとも、G3ガメラの燻し銀の格好良さは、原口智生独りで生み出したものでは決してない。

聞くところによると、孵化したばかりのトトを本物のケヅメリクガメで撮影するというアイディアは原口智生の種出しらしいのだが、「それに合わせて」デザイン・造形したのがあの着ぐるみだというのであれば、原口造形には映画におけるキャラクター造形というものが如何なるものかという観点がまったく欠けていることになる。つか、造形家として最も大切な「眼の確かさ」というものが感じられない。

幸いにしてトトガメラは未だ卵から孵ったばかりの幼態であり、これがシリーズ化されるのであれば大胆な造形ラインの変更も許容範囲である。何せベビゴジやリトルが成長すればあの格好いい造形のビオゴジになるのだから(笑)、格好悪いトトガメラがちょっと見ない間に格好いい成体ガメラになっていても誰も文句は言わないだろう。

まあ、どうやら現時点で続編制作の予定はないようだし、興行的に思わしい成績が得られなければ、新たにそのような決定が為される可能性も低いとは思うのだが。

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