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2006年5月21日 (日曜日)

轟々戦隊ボウケンジャー task.14

「仮面ライダークウガ」で高寺イズムの洗礼を受けたせいか、ここ数年特撮では低迷していたような印象の荒川稔久だが、今回のエピソードは久々に荒川脚本の良い面が出ていたように感じた。

子どものファンも大人のマニアも、本来戦隊に求めているのはこのような良い意味でも悪い意味でも後味のスッキリした燃えであって、初期エピソードにおける會川脚本の過剰に重い過去話に辟易していた身としては、今回のエピソードの結論には素直に好感が持てると思う。

今回のキャラ廻しの主役は記憶を喪った間宮菜月だが、アニメ的な文脈でいえば記憶喪失の超能力少女というのはたいがいカタストロフの鍵を握るキーパーソンであって、以前のエントリーで語ったように、記憶を喪った後の人格とそれ以前の人格が世界の命運を担って葛藤を演じるという鬱陶しい流れが附き物である。

無論、そのようなシリアスなストーリーラインそれ自体を全否定するのも窮めて偏った文芸観であって、ヲタ向けアニメであろうが子ども向け特撮であろうが、陰鬱なシリアスと狂燥的なスラップスティックのどちらもあってこそ物語の多様性が確保されるのである。問題があるとすれば、容れ物としてのスーパー戦隊という枠組みにおいて、枠組み固有の個別事情によって個別の物語の首尾結構に責任が持てないような過剰にシリアスな物語性を展開することである。

その辺の問題性については以前のエントリーで詳細に語ったが、たとえばそれを極端に言うなら、「羊たちの沈黙」のような知的な悦楽殺人者がヒーローとなるようなピカレスクロマンが、子ども向けの特撮番組で成立しますか、という話である。それは、やれるもんならやってくれれば、少なくとも作劇の整合性という面では問題ない(笑)。

実際、今回の荒川稔久がメインライターを務めた「爆竜戦隊アバレンジャー」後半のマホロとアスカを巡る流れや「ときめき」という快楽を動機にしてアモラルに暴れ回るアバレキラーの設定は、スレスレで「明朗な物語の縦糸のサスペンス要素」という限度を逸脱していたと思うが、アスカとマホロが無事結ばれた後味の良さや、アバレキラーが六人目と位置附けられるキャラであり「ときめきに死す」という落とし所を用意されたために、さほど踏み外した印象は持たなかった。

そもそもスーパー戦隊における六人目の嚆矢とされる「恐竜戦隊ジュウレンジャー」のドラゴンレンジャー・ブライからして当初はジュウレンジャーに敵対する者として登場した上に、ゲキとの和解を果たした後に過酷な運命によって死を余儀なくされているのであるから、その文脈上で視た場合、アバレキラーの在り様はそれほどスーパー戦隊の文法を逸脱した存在とも言えないだろう。

しかし、ボウケンジャーのリアル寄りの設定で、剰り突き詰めた過去話やトラウマをモチベーションとした話を提示されると、それぞれのトラウマに殉じるボウケンジャー全滅の結末でも用意しない限り作劇のケツは持てないのではないかと危ぶまれる。

そういう意味では、ゲストライター担当エピソードではあるが、今回の結末で「記憶を取り戻しても菜月は菜月」という落とし所や、真墨と菜月が結ばれるベタベタな結末への伏線を用意したのは好感が持てるだろう。

今回のエピソードの、妹に化けた付喪神によって偽りの過去を吹き込まれた菜月が仲間から離反する、本来の能力に目覚めた菜月が仲間を圧倒する力を発揮し、さらには腕輪の魔力によって暗示をかけられ仲間を攻撃するという筋書きは、この種の記憶喪失の超能力少女物の大詰めの類型を忠実になぞっている。

基本的にこの種の類型では、現在の良好な人間関係を破綻させるような過酷な過去が提示されて少女が一旦敵に廻り、従来の力を上回る超越力を発揮して仲間を翻弄し、仲間と敵の間の葛藤によって人格変異が起こるが、仲間の必死の説得によって本来の人格を取り戻す(いやまあ、そのまま世界が滅びてしまうという話もあるが(笑))、というのがお定まりのパターンである。

オレが間宮菜月の最終的な過去話の決算として想定していたのもこのラインの物語類型であって、揃いも揃って深刻窮まるダークなトラウマを抱えるメンバー中にあって、唯一明るい脳天気なキャラの菜月までこの種の陰鬱なストーリーラインをなぞるのはかなわんなぁというのが当初の予想であった。それが、今回のエピソードによって若干見通しが変わってきたのは喜ばしいことである。

勿論、今回のエピソードは単に一人のゲストライターが個別の一挿話として書き上げた話であって、設定話でも何でもないのかもしれない。独り荒川がこのように書いたからといって、シリーズ構成的には何ら意味はないのかもしれない。

だが、普通誰でも予想するような記憶喪失の超能力少女物のルーティンをこのタイミングでゲストライターが一個の挿話性の下に使用したからには、最終的な結末として事新しくストレートにこの種のルーティンを繰り返すわけには行かなくなる。普通のプロとしての矜持があるライターなら、今回のエピソードの結論を踏まえて、その対称の下にエピソードを構築するか、まったく回避するかのどちらかだろう。

少なくとも、「過去がどうあれ現在が大事」という今回の結論をまったく無視してお話をつくることはできなくなる。この前提について一切無自覚に凝りもせずにまったく同じようなパターンで大詰めを用意したら、ただの無能で鈍感なライターということになるだろう。

普通の視聴者なら、今回のエピソードでこのような物語が描かれることで、如何に過酷な記憶が蘇ろうとも、菜月が揺るぎなく現在の仲間たちとの信頼関係を保ち、最終的には伊能真墨と結ばれる爽やかな結末を予感するだろう。実際に男女の仲として成立しないまでも、真墨と菜月が特別な絆によって結ばれた男女であることを確認して物語が終わることを予期するのが普通である。

その意味では、今回のエピソード程度の重要性で早くも類型的な挿話構造が提示されることには、一種の予防接種のような意味合いがあるだろう。物語の大詰めで、悲劇性を背負ってこの種の類型がいきなり立ちはだかったならば、過剰に重いシリアスな物語となるが、今回特別な重要性も持たない一体の付喪神の特殊能力による、数ある挿話群の中の一要素であるにすぎない危機においてこの類型が提示されることで、間宮菜月を巡る固有の物語性においてこの主題は重要な悲劇的要素ではなくなるのである。

ある種、この先も必ず菜月の喪われた記憶を巡るエピソードがあるわけだが、その場合に今回と同じような危機が出来するとしても、視聴者はそれを過剰に真に受けて陰鬱な気分に浸ることはない。すでに「過去がどうあれ現在が大事」という結論は明確に提示されているのであり、その結論を支持する劇中人物として伊能真墨という人物が関係附けられているのである。

おそらく、多くの視聴者は今回のエピソードで確認された菜月と真墨の結論を最後まで忘れないことだろう。たしかにこれは単なるゲストライターが書いたごくごく普通のエピソードの一本ではあるが、これを書かれてしまったことで、単純にこの類型を持ち出して大筋の物語を締め括ることはできなくなる。

その辺のコンセンサスが、メインライター會川昇とゲストライター荒川稔久の間でどのように取られているのかまではわからないが、今回のエピソードが一個の劇中事実として成立することで、今後菜月の物語をどのように締め括るのか、メインライターのお手並み拝見という新しい前提が確立されたわけである。

これが全体のシリーズ構成の要素として織り込み済みのイベントで、過剰に重くなりすぎた過去設定の軌道修正を図る意図があったのなら、そのバランス感覚は妥当であろうと思う。

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