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2006年5月30日 (火曜日)

The Eighth Wonder

サブタイトルだけで何の話題であるかピンと来た人は、特ヲタとしても映画ファンとしてもしっかり基礎の出来た優等生だろう。「八番目」とは世界七不思議に八番目として追加するに足るもう一つの驚異という意味であり、「暗黒の木曜日」に打ちのめされた世界大恐慌下のビッグアップルを大いに震撼したでっかいお猿のことである。

今や七〇年代におけるルーカス、スピルバーグを凌駕する保険附きヒットメーカーと表現して差し支えないPJことピーター・ジャクソン監督が、「指輪物語」三部作のメガヒットで築いた地位を利して通した「無茶」とは、あのモンスタームービーの一大クラシックであるメリアン・C・クーパー監督の「キング・コング」を三時間超の尺でリメイクするという無謀な企画だった。

そういうわけで、ここ一カ月は公開中の映画について詳細に語るという、普段やらないリスキーな作業をこなして疲弊してしまったので、今回はいつも通りサクッとコンビニで買ったDVDを観ながら半年前の映画について存分に語ってみたいと思う。

何が無茶かと言って、この手の映画で一八八分の尺は長すぎる。「指輪物語」もその意味でリスキーであったが、事前の予想を遥かに上回る世界中の原作ファンのリピートや映画から原作に行ってさらに映画へ戻ってきた人間のリピートが延べ動員数を下支えしたようである。確固として構築された世界観への惑溺という、ある種選れて現代的な娯楽要素を提供し得たのもヒットの要因だろう。

しかし、キング・コングに関してはその種のリピーターが期待できない。期待するほうが興行師として間違っている。そしておそらく、ユニヴァーサルの首脳陣は誰一人としてそんな期待は抱いていなかっただろう。

三時間を超える映画で、回転数は半分程度、熱狂的なリピーターも期待できないというのでは、おそらくグローバルマーケットでトントンに持っていくのがやっとだろう。事実、興行実績はその通りの結果に終わったようだ。

「長い」ということについては全面的にPJに責任があるようで、彼自身が首脳陣を説得して長尺のファイナルカットを諒承させたらしい。しかし、如何に彼の口舌が巧みであっても、ユニヴァーサル経営首脳がとんでもない夢想家揃いでもない限り、「そのほうが儲かるから」というロジックでは説得できないだろう。要するに、ビッグビジネスを委ねるに足るビッグネームの売り手市場だったのである。

尺が長いというのはそれだけで興業の失敗に直結する大きなリスク要素であり、窮めて確実なマーケティングデータでも提示できない限り、今時三時間の超大作映画が易々と撮れるものではない。

仄聞するところによると、この映画の製作費に関してはPJ自身が「指輪」のヒットで蓄えた相当な私財を投入しているらしいが、周知の通りキング・コングのリメイクは彼の年来の宿願であり、それを一〇〇%自身の思い通りに撮ることに強固な拘りがあったことは想像に難くない。

では何故「指輪」で実績のあるワーナーではなくあえてユニヴァーサルに企画を持ち込んだかについては、「指輪」以前に遡る曰く因縁があるらしい。今を遡ること一〇年の昔、PJが未だ「指輪」の監督ではなく、ハリウッドの本道を歩むビッグネーム監督でもなく、ゲテモノ映画ばかり撮る一介のニュージーランドの田舎映画人であった時代、彼は一度ユニヴァーサルにこの映画の企画を持ち込んで蹴られた過去があるということである。

以前に語った通り、オレは洋画事情には明るくないので詳しい内情は識らないが、キング・コングのリメイクを持ちかけるなら、たしかにユニヴァーサル以上に相応しい映画会社はないだろう。しかし、「乙女の祈り」という小品のオスカー受賞でハリウッドの注目は集めたものの、ジャンル映画ファンの間に辛うじてその名を識られているにすぎないほぼ無名の若手監督に、ビッグバジェットのスペクタクル大作を委ねるに足るだけの信用があるはずもなく、この企画はけんもほろろに一蹴されたようだ。

いわば、二〇〇億円を超える巨額のバジェットと三時間を超える長尺の超大作としてキング・コングをユニヴァーサルで撮ることは、「指輪」の驚異的ヒットによって押しも押されもせぬ大立て者となったPJが、一〇年来の恩讐を酬いたかたちになる。

だが「指輪」以前の作品でPJの力量を見抜けなかったからといって、ユニヴァーサル首脳陣に人を視る眼がなかったとは言えないだろう。「バッドテイスト」や「ブレインデッド」、ハリウッドに招聘されてからも「さまよう魂たち」を撮った程度の非主流監督に、視点の輻輳した総計一〇時間を超えるファンタジー大作をヒットさせる力があるなどと、誰が予想できただろうか。

だが事実今やこのいつでも半ズボンを履いている下腹の出た中年男は、ニュージーランドの国民的英雄である。此国が映画立国を掲げて立つに当たって「指輪物語」の製作は国家的プロジェクトとなった。該作品はただに一本の映画であるのみならず、一国の存亡を賭けた大きなチャレンジだったのである。

そして、おそらく世界中の映画ファンにとって意味あるPJのマスターピースとは映画史上に燦然と輝くモニュメントである「指輪物語」三部作だろうが、彼個人にとってはこのキング・コングのほうが、自身の映画人生の檜舞台であったと言えるだろう。いわば「指輪」のヒットはキング・コングのリメイク頓挫に伴う鬱屈の産物であろうし、再挑戦の実現へ向けた布石としての位置附けになるのだろう。

二〇〇億円の巨費と三時間の長尺を条件に、彼は巨大なプライベートムービーを作ったのかもしれない。たしかに全体収入の二〇%のローヤリティを確保し、実際の製作を全面的にWETAをはじめとする彼の傘下企業に一任させ、ファイナルカット権までその手に握るという一方的な条件を獲得して抜け目ないところも見せているが、それは彼のニュージーランド映画産業における地位が要求する当然の責任である。

劇中のカール・デナムがそうであったように、PJ自身、この映画においてはビジネスを度外視した狂おしい情熱に取り憑かれた人であったのだ。そして、劇中のデナムの描き方にPJ自身の熱い共感が込められていることは、誰の視る眼も変わるまい。

RKO版のキング・コングを観たことのある方なら誰でも識っている通り、窮めて不思議なことにこの映画はカール・デナムという胡散臭い興行師が主人公である。何が不思議と言ってこの種の物語で野生の猛獣を密猟して見世物にしようとする興行師がこれほど肯定的に描かれているのは、現代の眼で視ると奇異に映るからである。

そもそもRKO版のカール・デナムの人物造型には実在の興行師のモデルがいたそうだが、実在の人物をモデルにしたからといって、あの時代の感覚なら劇中でどう扱おうが構わないはずである。劇中の惨事の責任をすべてこの人物独りに帰して、最後にコングに踏み潰させれば、普通の意味における観客の倫理観は満足したはずである。

実際、キング・コングという物語においては、一般に漠然と考えられている以上にかなり大勢の人間が無惨に殺害されているのだが、そもそもこの劇中で喪われた人命は一に懸かってカール・デナムという興行師が狂人じみた情熱に取り憑かれたことにすべての責任がある。

物語のあらゆる局面において、周囲の人間が「危険だ、やめろ」と強硬に留め立てするにも関わらず、行動力と強運に恵まれたデナムはなぜか結果的に自身の意志を強引に押し通し、それが悪いほうへ悪いほうへと物語を転がして行き、かの有名なエンパイア・ステートビルの悲劇へと帰結するのである。

おそらくコングの暴走とその賠償によってデナムの興行師生命は決定的に断たれただろうと思われるが、それでもラストでは無事安泰にコングの死体の傍らに佇み「美女が野獣を殺したのだ」と他人事のようにお気楽な警句を吐いて、あれほど夥しい人命の損失と市街の混乱の責を負って罰されることもなく、唐突に物語は幕を閉じる。

現代においては、この種の情熱に取り憑かれ多くの人命の損失に責任を持った人間は必ず劇中で罰を受けることになっている。たとえばジュラシック・パークの創設者であるハモンド老人は、直接的な悪意で他者を傷附けたわけではないが、パーク内の惨劇のすべては、そしてこのシリーズにおける血腥い事件のすべては、この老人がどこかいびつな情熱に突き動かされてこの現代に恐竜を蘇らせたことに端を発している。

その酬いとしてハモンド老人は、システムダウンして獰猛な肉食恐竜が闊歩するパーク内で愛する孫たち共々サバイバルを賭けた恐怖の一夜を明かし、自身の年来の夢が残酷に崩壊する一部始終をその眼で見届ける羽目となる。

ラストシーンでステッキの握りの虫入り琥珀を虚ろに見詰める老人の眼は、最早稚気に溢れた夢みる少年の眼ではない。それは、同じく恐竜たちに脅かされながらも、それでもその子孫である海鳥が伸びやかに海上を飛翔する姿を陶然と見詰めるグラント博士の憧れに満ちた眼差しと対比されている。

しかし、キング・コングという映画におけるカール・デナムという人物は紛れもなく全編の主人公なのである。たしかに人間としての品性には多少欠ける部分はあるが、それでもタフで不屈で熱い本物の情熱を具えた映画人として、一種のヒーロー性を与えられている。この映画においては、映画を撮るという行為は、少なくとも男一匹命懸けでぶつかるに足るだけの価値を持つ愚行なのである。

だとすれば、この映画は映画を撮ることについての映画でもあるのである。

たとえばそれは、主演女優に逃げられたデナムとプレストンが交わす「フェイ・レイはどうだ?」「RKOの映画に出ています」「クーパーのか」という楽屋オチとも思える会話や、RKO版におけるジャックとアンの船上の会話を劇中劇とする作劇処理からも視てとれるだろう。

この映画においては、RKO版はフィクションであり、PJ版がトゥルーストーリーであるというメタ的位置附けを採用しているのである。それをまともに受け取ると事実関係の混乱を来すが、この映画の劇中世界は、この映画のような事件がもし実際に起きたとしたら、三〇年代の娯楽映画の話法ではあのように描かれるだろうという位置附けでRKO版を規定しているのである。

簡単に言ってしまえば一種の実録物的なオリジナル解釈であるが、RKO版がそもそも秘境に映画を撮りに行く物語であるところが、メタ的な意味でややこしい語りの構造を生起させていると言えるだろう。要するに、楽屋オチは楽屋オチとして受け取っておけばそれほど混乱しないという意味である(笑)。

普通に考えれば、RKO版はけっこう非道い話である。起死回生の一打を狙う興行師が信憑性に欠ける地図を真に受けて何十人もの人間を巻き込んで南方の孤島でクランクを廻したお陰で、ヒロインは死ぬほど怖い思いをしたしそれを救うために十数名の人命が喪われたばかりか、現地の貴重な古代生物も大量に虐殺される。さらには、懲りもせずにNYで興行を打ったお陰で無関係な人間が多数死傷するわけだから、何の得るところもなくどんどん非道いことが立て続けに起こるという何ら救いのない物語である。

しかもそれが大恐慌下のNYで起こる事件であることで、ある意味いっそう救いのない印象は強まる。そもそも開巻劈頭において、ヒロインは屋台の林檎を万引きするチンピラ女優として登場するのである。この事件が起こることによって、不況に打ちのめされた劇中世界のNYは更なる打撃を蒙るのだし、たくさんの人死にと破壊、密林の王者の無惨な墜死の果てに、胡散臭い貨物船の船員とチンピラ女優が結ばれるというどうでもいい成果が得られただけで物語は終わるのである。

この劇中世界におけるトラブルメーカーがカール・デナムであり、この一連の非道い事件はすべてこの男に責任がある。しかし、何故かこの物語においては、カール・デナムは悪者ではないのである。ジュラシック・パークでハモンド老人が蒙ったような意味での罰すらこの男は蒙ることはない。何故なら、この映画はとても「おもしろいお話」だからであり、その「おもしろいお話」はカール・デナムという熱狂的な興行師がいたからこそ成立するからであり、「おもしろいお話」には絶対的な価値があるからだ。

それが劇中において映画人であることで、すべての倫理を超えてカール・デナムという男は悪者ではあり得ないのである。キング・コングという物語に内在するこのようなアモラルな構造を肯定的に根拠附けることに、PJ版は最大限の熱意を注いでいる。それはPJ自身が少年時代に魅せられたキング・コングという「おもしろいお話」に敬意を抱くからであり、映画を撮るという行為を絶対的に肯定しているからである。

この映画においては、カール・デナムの映画に賭ける情熱を徹頭徹尾純粋なものとして描いており、彼がどんな危地に陥っても映画を撮ることに拘り続けることを執拗に肯定している。だがさすがに「人が何十人死んでも映画はそれを贖うだけの価値を持つ」という狂気の妄執は、声高に正当化できる筋道ではあり得ないからこそ、PJは一分の隙もない根拠附けでRKO版を語り直してみせたのである。

そういうわけで、「またか」とガッカリされたことだろうが、ここまでが「前置き」である(笑)。本題はこれから始まるのである。

この映画は、PJが「映画を撮る」という行為に対して全面的なリスペクトを込めたものである。その意味で、技法や話法の観点からこの映画を否定的に評価するのは難しい作業になるだろう。

常々主張していることだが、一本の映画に批評的に言及するのに際して、さしたる考察もなく「いろいろと難点はあるが」とか「脚本に不備はあるが」と無責任な留保を附けてはいけない。それは映画も人間の手に成るものだから不完全には違いないが、それを勿体附けの留保にしたり何か気の利いたことを言ったつもりになるのは却って恥をかくばかりだし、何より言論の態度として臆病未練である。

一般則としてどんな映画も不完全なら、わざわざそんなことに言及するのは無意味なのだし、完璧ならざる人の営為を評価する場合には、自身の責任において一般的な水準に照らして劣っているのか優れているのかを評価するのでなければ公に表明するだけの意味がない。

オレがこの映画に感じた不満と言えば、CG前提の映画に附き物の作り物めいた落ち着かないルックが個人的に好きではないということくらいで、ショットやカッティングの意識的にハリウッドスタイルを志向した清潔な簡潔性は、あえて技法的な瑕瑾を指摘するのが困難であると思う。

おそらくあえてそれをするには、技法に対して映画を語る個人としての確固たる美学上の信念がなければなるまい。一般則の観点では、模範的なボディである。とにかく、無意味なセリフが一つもない。無意味なショットが一つもない。無意味な繋ぎが一つもない。これはもう、完全に三時間の尺を最終的なターゲットとして一歩も譲らない前提で組み上げられた緊密かつタイトな意味構造である。実際、ユニヴァーサル側から短縮を求められたPJサイドが渋々カットしたのは、高々二〇秒程度であるという。

ここが好きなのでちょっと長めに撮りました、繋ぎましたという不潔な部分、おもしろいやりとりだからちょっと膨らませましたというような冗長な部分が一切ないから、どこをどう切れとは無碍に言えないのだろう。だから三時間の長尺にも関わらず、一瞬たりとも退屈させないのである。

その上で特筆すべきなのは、やはり脚本の練り込みだろう。キング・コングというオリジナルテキストの抱える問題点を経済的なやりくりと端的なセリフ廻しで可能な限り整合させる語り口には、考え抜かれたディスカッションの形跡がある。

たとえば、RKO版のファーストシーンはすでに出航直前の芝居場である。そこに至るまでの筋道はすべて簡単な会話と語りで済ませ、そこから女優を探しに出たカール・デナムとアン・ダロウの出逢いのシーンへと繋がる。出航に至るまでの短い時間で替わりの女優を見附ける、という条件附けに基づいてデナムとアンが出逢い、彼女を連れて船に戻るという簡潔な挿話の後にアッサリ船はもやいを解くのである。

これはこれで清潔なハリウッドスタイルの映像経済であって、さすがにジャンルの古典と仰がれるだけのスッキリした明解な構造を具えている。しかし、先ほど指摘したようにPJ版はRKO版よりも叙述のリアリティのレベルをもう一歩踏み込んで、トゥルーストーリー的な叙述レベルになっているため、さらに上位のレベルの世界設定を冒頭で提示する。

この映画のファーストシーンは見事の一言に尽きるだろう。オープニングクレジットがRKO版のタイトルバックを模していることもたしかに気の利いた趣向だが、ファーストカットがリスザルの類、続いて尾長ザルの類、そこからその猿がいる動物園の全景を見せ、動物園からカットして世界不況のあぶれ者たちがたむろする貧民窟や救世軍の給食風景と頻繁にカットバックし、高層ビルの鉄骨組みを見せ、エンパイア・ステートビルを遠く眺望し、チンパンジー、オランウータンに切り替わって、どんどん猿が進化していく。

そして最終的にこのモンタージュはアン・ダロウが出勤するボードビルのシーケンスに繋がるわけだが、バックに流れるアル・ジョルスンの名曲「I'm Sitting On Top Of The World」の皮肉な歌詞を含めて、この映画のすべてをこのオープニングの一連が象徴する仕掛けとなっている。

下等な猿から始まる猿尽くしの終わりがオランウータンであることで、真打ちのゴリラがいない物足りなさを観客に覚えさせつつ、その猿たちが結局動物園に囚われた「見世物」であること、その動物園に喩えられる不況下の人間の最下等の暮らしぶり、「世界のてっぺん」に準えられたエンパイア・ステートビルの勿体ぶった遠望等々、「女の子を好きになって天にも昇るような気分」を謳う脳天気なラブソングの歌詞が墜死の結末を含めて物語全体を皮肉に予告する流れに乗せて、連想によって導きつつ劇中の世界を手短にモンタージュしている。

近頃このような気の利いたモンタージュは流行らない。何故なら、それは窮めて人工的な現実観だからである。巨大なゴリラであるキング・コングの登場を予兆させる猿尽くしの趣向、それが囚われの身の見世物となってNYを訪れることの予告、大不況に喘ぐ人々の暮らしぶり、そしてクライマックスの舞台の予兆的紹介、このような複数の要素を劇中時間のリアルタイムのラブソングをサタイアとして効かせながら経済的に纏めるという語り口は、映画だから為し得る窮めて人工的な現実の見せ方なのである。

つまり、この映画はド頭から映画とはこのような人工的な現実の見せ方なのだということを強烈にアピールしているのだ。そして、それに続く本編では、これ以上ないほどに経済的な映像設計によってキビキビと「おもしろいお話」が語られていく。そして、潔癖なまでに経済的な映像の連なりであるがゆえに、この映画の劇中世界は「本当らしくあること」よりも「映画らしくあること」を強烈に志向するのである。

たとえばベンチャー号の出航に合わせてデナムがドリスコルを騙して時間を稼ぎ下船できなくしてしまうシーンなどは、タイトな芝居場の見本のような見せ方である。一五頁書いただけでさっさと下船しようとするドリスコルを引き留めるために、デナムは適当な小切手を切って時間を稼ぐのだが、その視線の先の窓外には都合好くパイロットが置かれていて、二度のカットバックで出航の合図が描かれる。

このやりとりはもっとしつこくても成立するが、エンジン機関部の回転やウィスキーの箱の揺れ、繋索、スクリュー等の簡潔なモンタージュとカットバックすることで、金額の胡麻化しと日付の胡麻化しというたった二回の天丼で済ませてしまう。しかも、慌てたドリスコルを通路で通せんぼするプロセスでバクスターを紹介するという、ギリギリまでタイトに経済性を追求する徹底ぶりである。

さらには、この場面の〆として「演劇を愛している」と言うドリスコルに対して「本当に愛していたら飛び込んでいたはずだ」と反論するデナムのセリフは、要するにデナムは本当に愛しているもののためならそこまでクレージーな行動を即座にとる人間であることを示していて、警句として気が利いている以上に、これもまた窮めて経済的な描写となっている。

また、たとえば観客がこの映画で最も長く感じるシーンはコングと三頭のTレックスが死闘を繰り広げる場面だろうと思うが、ここはおそらく少年時代のPJが最も胸躍らせたであろうウィリス・オブライエンによるダイナメーションの見せ場の再現だけに、力瘤の入ったコンテになっている。

密林の王者キング・コングと恐竜の王者Tレックスの死闘というのは、聞いただけでも血沸き肉躍る大活劇であり、これを最新のVFXで再現するに当たっては、WETAの技術力のショウケースという意味もあって最大限のご馳走とすべくサービス満点の一連を用意している。その分、それまでのタイトな経済性と比べて若干脂っこい印象を覚える観客も多いだろう。

ここは実際尺も長く割いているし、アクションの息も長い。地上での一対三の格闘から蔦葛を介した断崖絶壁の空中戦に持ち込み、コングが左右の前肢のみならず類人猿的な足指で掴む動作まで加えてアンを護る描写も交え、蔦葛にぶら下がったアンの危機一髪のサスペンスから、崖を下りながらコングが一頭一頭レックスを仕留めていくプロセスを描き、最後に残った一頭と対峙してコングとアンのドラマを完結させる手際は、もうお腹一杯になるくらいの映画的娯楽である。

ここが実際に尺の上でも長いし複雑なプロセスによって構成されているシーンであるにも関わらず意外にスッキリ観られるのは、段取りが濃厚なだけで各々の映像パーツそれ自体はやはり端的に纏められているからである。たとえばアンが蔦葛に掴まって揺られながらTレックスに喰われそうになる場面では、同じ動作を漫然と何度も何度も繰り返してはいない。

昔の特撮ヒーロー番組などがそうだが、たいがい「ヒロイン危機一髪!」的なシーンでは、何度も何度も同じ動作を芸もなくカットバックして繰り返すものだ。ヒロインが宙ぶらりんになって下から怪物が喰おうとしている、というような場面なら、必ず宙ぶらりんのヒロインと怪物をしつこくカットバックする。

だが、この映画では、目の前に人間がぶら下がっていることに気附いたレックスが岩肌を蹴って反動を附け、一度空振りしてみせた後は、コングの見た目としてもう一度空振りが描かれ、さらにアンの見た目に戻って空振り、もう一度喰おうとしたところですでにコングが尻尾に手をかけて引きずり落とし、そこから今度はアンがレックスの牙に掴まって別の個体に喰われそうになるという次のプロセスに移っている。

つまり、アクション自体の息は長いが、各々のプロセスは最短の経済的なカット繋ぎによって構成されているのである。これほど長い映画が、これほど徹底して経済的に語られているという事実は驚嘆に値するだろう。ただだらだらと長いだけの映画ではないのである。

ならばその長さはどこから来ているのか。

ここでもう一度この映画の劈頭に戻って考えよう。最前語ったようなオープニングのモンタージュに続いて描かれるのは、アン・ダロウが出勤するボードビルショウのくだりであり、RKO版のファーストアピアランスで彼女が露天の林檎を万引きするに至るまでの前史を丁寧に描いている。

デナムが乗船するまでのエピソードは単に場面を割って映画会社の重役試写から語り起こしているだけでそれほど膨らませてはいないが、アンの前史というのは完全にこの映画がオリジナルで追加した部分である。では何故この前史が追加されたのか、というのが脚本の練り込みのミソである。

ここで描かれているのは、彼女がボードビルのステージに立って軽妙な芸を見せる芸人であることと、劇作家ジャック・ドリスコルを敬愛していていつか彼の戯曲を演じてみたいと願っていること、ギャラの欠配で極度の貧窮状態にあること、興行主の失踪で突如仕事を喪い、あわやストリップ小屋の舞台に立つ寸前まで追い詰められていることである。

後二者は相互に関連を持っていて、ストリップ小屋の舞台に立つことを拒んだからこそ林檎を万引きするまでの極貧に追い詰められたわけで、林檎の万引きとデナムの誘いに応じるための根拠附けにすぎないが、前二者はスカル島のくだりに繋がる一種の伏線である。彼女がコングと心を通わせるきっかけになったのは、ボードビルの芸を見せたことである。さらに彼女はドリスコルの戯曲の信奉者だったからこそ、スカル島への船中で早々に彼と結ばれるのである。

さらに、彼女とコングが心を通わせるきっかけが必要なのは、コングが一方的に女をさらったのではなく、原住民の迷信によってコングに捧げられた彼女が持ち前の機転から生き残りの智慧としてコングのご機嫌をとり、それをきっかけにコングと彼女の相互的な接近のドラマが描かれているからであり、そのドラマが描かれることで広いNYの中からコングがたった一人の女を探し当てる不自然さが解消できるからである。

そしてさらに、彼女がスカル島到着以前にドリスコルと好い仲になったのは、男と女の仲でもない限り、獰猛で巨大な肉食生物がうじゃうじゃ闊歩する密林を分け入って男が女を助けに行くことに説得力がないからであり、そのためにはスカル島に到着した時点ですでに結ばれていなければ間に合わないからである。さらに、かねて敬愛する劇作家と結ばれることで、RKO版のような得恋の喜びだけではなく、この悲劇の後に彼女の演劇人としての自己実現の可能性が暗示されるからである。

この作品の脚本の練り込みは、すべからくこのようにして、RKO版で描かれた大味なハリウッドスタイルの活劇ドラマの間隙を、逆算に継ぐ逆算を重ね合わせたトゥルーストーリーのリアリティで補填しつつ、それが最短の経済的なプロセスで済むように考え抜かれているのである。

トゥルーストーリーのリアリティということでいえば、たとえばRKO版では「映画を撮る」と言いつつ撮影クルーはほとんどいない。クランクを廻しているのはデナム自身であって、それだけならまだしもプロデューサー兼監督兼カメラマンというふうに映画黎明期のリアリティで解釈できるが、俳優がアン・ダロウ一人だけというのでは、どのような映画を撮るつもりだったのかサッパリ想像できない。

この映画では最小限の撮影クルーと男優を一人加えているが、黎明期のゲテモノ映画ということなら、それだけでリアリティは格段に違う。さらには、RKO版ではイングルホーン船長とドリスコル、チョイ以外は貨物船の乗員がろくに描かれていなかったが、この映画ではドリスコルを劇作家として分離した分、ヘイズやジミー、ランピーなど類型のハッキリした乗員を加えてベンチャー号側の組織の厚みを出している。

このようにして、撮影クルーとベンチャー号側の人員の描写を追加したために、映画の尺がかなり膨れ上がったことは事実である。だとすれば、単にこの分の尺は映画の尤もらしさを演出するために追加されたのか。

当然ながらそうではない。RKO版ではスペクタクルのためにゴミのように殺される貨物船の乗組員をしっかり描き、撮影クルーを追加することで、スカル島におけるスペクタクルにドラマ的意味性を持ち込むためである。

RKO版では、デナムの映画撮影に附き合わされたその他大勢がスペクタクルのお景物として都合好く動かされ、無機質にコングに殺されるわけだが、この映画では船上の撮影を通じてアンが乗員たちと心を通わせる風景が素描されており、さらにはデナムの指名手配に伴って一旦はラングーンに梶を転じようとするが、不可抗力としてスカル島沿岸に引き寄せられて座礁するという流れで、抜き差しならぬ状況にその場の一同が巻き込まれていく流れに説得力を与えている。

一方では、最初の上陸において録音技師のマイクが原住民に殺害されることでデナムの映画撮影への妄執が早くも後戻りできないものとなり、他方では人気者のアンが誘拐されることで乗員たちの即時出航が妨げられてしまう。

RKO版ではデナムの気まぐれな指示に嫌々ながら全員が随うことですべての事態が進行しているような印象を覚えるが、この映画では、何かの大きな力がデナムに味方して全体的な情勢を破局へと推し進めているような劇的力学となっている。

アンを拉し去った物の正体を独り見定めたデナムは密かに新たな映画の構想に意欲を燃やし、デナムに心酔している撮影技師のハーブに六インチの長玉を持っていくかと問われて「広角レンズ(つまり接写)でいいだろう」と答えてやる気満々であるが、アパトサウルス群とのトラブルでそのハーブが犠牲となり、最早決して空手では戻れない境地に追い込まれる。「奥さんと子どもに儲けを寄付するんだ」という決めゼリフは繰り返しのギャグでもあるが、一面ではデナムの映画に賭ける掛け値ない信念の吐露でもあるのである。

さらには、乗員一同から信望が厚いヘイズがコングに殺害され、追跡者たちが巨大肉食昆虫の密集する谷底へ落とされたことで、ベンチャー号側の人間にも退くに退けないコングへの因縁が生まれる。しかも、その墜落によってマイクとハーブの犠牲を乗り越えて撮影した一連のフィルムも感光してしまい、デナムの目論見はコング自身をNYへ連れて戻ることへシフトする。さらに、デナムがイングルホーン船長の後ろ暗い副業に附け込むことで、デナム側とベンチャー号側の思惑が調整され、最終的に命懸けのコング捕獲作戦が根拠附けられる。

追跡する側のドラマがそのような水も漏らさぬ精緻なものなら、追跡される側のコングとアンのドラマもまたRKO版の見せ場を踏襲しながら、一種のラブロマンスのような相互接近のドラマを描いていて間然するところがない。

たとえばRKO版でアンが原住民に拐われたのは、金色の輝く髪と白い肌が黒い人々から視て神人の如くに見えたという白人優位主義的な動機だと思われるが、その神人のように美しい女の魅力に、コングは手もなく籠絡されてしまう。全世界的に共有されている「好色な猿」というイメージ類型に基づいて美女と野獣の片恋の物語が語られる。

だが、この映画のコングは「好色な猿」ではない。むしろ、これまで描かれたコング像の中では最も男性的でストイックなコングである。おそらくこの映画を観て一種のジェンダー論的な観点から作品を語る人間もきっといるのではないかと想像するが、そういうつまんない映画の見方をしてもしょうがない(笑)。

この映画では、原住民がコングに生け贄を捧げたのはあくまで迷信の賜物であり、コング自身が人間の花嫁を望んだからではないというニュアンスで描かれている。これまでの花嫁の死骸が「バラバラに引きちぎられている」というセリフから想像されるのは、コングにとって生け贄の女は精々が気晴らしのオモチャといったところにすぎないということである。子どもが虫の手足を千切って遊ぶように、原住民の花嫁たちは無惨にも殺害されたのである。

そのままであれば、おそらくアンも同様の運命を辿っていたのかもしれない。だが、彼女はコングの気を惹くためにお得意の舞台芸を見せ、幸いにしてそれがウケた(笑)。ウケて調子に乗ったコングは、彼女を楽しいオモチャと認めこづき回しておもしろがったが、彼女はその手を果敢に払いのけてコングを叱りつける。オモチャに叱られたコングはやり場のない怒りをそこら中にぶつけて暴れ回るが、自業自得で頭上から岩が転げ落ちて彼の後頭部を直撃する。

このコミカルな一連の芝居場は、不機嫌になったコングが唐突に彼女を見捨てて何処かへ去るという意外な流れになる。つまり、コングは別段生け贄の花嫁に執着などはないのである。あるいはここは、素直に謝れない男と女の喧嘩別れの呼吸の芝居である。

ここでコングがアッサリ去ってしまうことで、RKO版で当たり前のように「コングが女を捉えて放さない」と描かれていた彼我の関係性が一旦解消される。不逞腐れたコングが女に興味を喪うことで、コングのほうが女に執着しているわけではないという前提が提示され、当然アンはこの隙に恋人の許へ戻ろうと密林へ迷い込む。

このような関係性のプロセスになっているのは、「何故巨大な類人猿が人間の女に執着するのか」という、普通抱いて然るべき疑問への手当てである。何故か「猿=好色」というイメージ類型は全世界的に共有されているようで、わが国にも「しっぺい太郎」の説話をはじめ妖猿伝説には事欠かないし、中国にもそのオリジンとなった白猿伝の説話が残っている。猿の棲まない西欧にはこの種の異類婚伝説の類はないようだが、人間に近い生き物だけに類人猿を好色なイメージで視ることが自然であったようだ。

しかし、普通に考えれば、巨大な類人猿が絶対的にサイズと外見的特徴の異なる人間の美女に惹かれるわけがない。それを「野獣が美女に籠絡された」と視るのは、喩え話のリアリティである。「あんな別嬪なんだから猿だって惚れるだろう」というのは、冗談事のリアリティである。

この映画では、一種動物映画的なリアリティでアンとコングの心情的接近のプロセスを設けていて、好色の故の結び附きという卑俗なニュアンスを排している。たとえばコングにゴリラ程度の知能があるのだとすれば、人形サイズの生き物が軽妙な芸を見せることにウケてみせるのはリアルな反応である。たとえば子猫が可愛らしい芸をしてみせれば人間の幼児だってウケるだろう。アンとコングの初対面の芝居場はこのようなアナロジーによって描かれている。

幼児が小動物をそのように視る如く、コングも人間の女をよく動くオモチャとしか視ていない。オモチャのつもりで弄んでいた生き物が、自分と同等の生き物として怒りの感情を見せる、むしろ上位者として「叱る」というアクションをとることで、コングの中に戸惑いの感情が生まれ、それがやり場のないヒステリーとして発露する。

コングが不意にアンに興味を喪って立ち去ってしまうのは、それが楽しいオモチャではないことを識ったからであり、この段階で目の前にいる小さな生き物が自身と同等の心性を持つ存在であることを悟っているのだ。

そして、コングの許を去り密林に迷い込んだアンが恐竜や巨大百足に脅かされ、最終的にレックスに追い廻されるに至って、ヒーロー然として颯爽とコングが登場しレックスの群を撃退する。この場面におけるコングは明確にアンを救出する目的で戦っており、四肢を縦横に駆使したアンのお手玉の描写や、アンを庇ってレックスに腕を噛まれる描写、悲鳴を聞き附け格闘中の一体を放擲して断崖を登る描写などが強調され、この危機を通じたコングとアンの心の通い合いのドラマは、観ていて赤面するくらいストレートな接近のプロセスとして描かれている。

格闘におけるコングの闘争目的を端的な描写で明確化し、さらには一対三の劣勢を覆して二頭を仕留め、崖下に転がり落ちた残りの一頭に追い詰められるアンの背後に降り立つことで、アンを挟んでレックスとコングが対峙する構図を作る。そこからアンがコングのほうへと歩み出すことで、コングがアンに、アンがコングに接近する相互的なプロセスが完遂される。

これはたとえば、アンがデナムの誘いに応じてベンチャー号へ乗船する際にタラップへと踏み出す一歩をじっくり描いたカットの再現であり、彼女が自発的な意志で確固として何事かを選び取る瞬間の描写である。

先ほど陳べたように、この場面は全編の見せ場であるスペクタクルの目玉であると同時に、アンとコングの相互接近のドラマのクライマックスでもある。喧嘩別れした女を助けるために三頭の凶暴な竜の王を向こうに廻して果敢に戦うコングを描き、そのコングを凶暴な猛獣としてではなく自身の救出者と認めて信頼を寄せるアンを描き、そのプラトーにおいて、手指で掴むのではなく肩に担って自身の巣穴に伴うという幕切れで、巨大な類人猿と人間の美女の心の通い合いを可能な限りリアルに描いているのだ。

そして、その巣穴のシーンで描かれるのは、まず洞穴に累々と横たわる巨大な類人猿の白骨である。余計なセリフを一切描かずとも、この絵面を示すことで種としての最後の個体であるコングの絶望的な孤独が観客の胸を打つ。「好色な類人猿が人間の美女に惚れる」という冗談めいた擬人化のリアリティを離れ、それが美女であろうが醜男であろうが、孤独な密林の王者の孤独を慰めた存在だからこそ、美女と野獣の間に種や性差を超えた相互的な絆が生まれたのであることを観客に納得させる。

このような懇切丁寧なプロセスによって野卑な艶笑の隠喩を排するからこそ、沈む夕陽を見詰めるコングの寂寥が一種の詩情を醸し出すのである。仲間たちが一頭残らず死に絶えた後、来る日も来る日もこの巨獣は小さな小さな自身の王国で沈む夕陽が無情に押し流す孤独な今日を生きてきたのである。それを理解し共感を寄せるアンの真情は一種崇高なものですらある。

その相互接近の完遂と関係性の確立を俟って、現実世界の恋人であるドリスコルが決死の冒険の末にアンの救出者として現れる。ここで当然アンは一も二もなく恋しい男であるドリスコルを選び、コングを「裏切って」その許を去ろうとする。

アンとコングの関係性がこれまで視てきたような相互的なものであるからこそ、人間の恋人を選んで黙ってコングの許を去るアンの行動は、「裏切り」の文脈で視られるのである。ここでは、人間の美女が野獣に寄せる対等の立場における共感の真贋が問われているのである。

たとえばRKO版のように、この場面でドリスコルが彼女を救出することで一旦彼女の危難が救済されたような見え方にはならない。人間の恋人と連れ立って黙ってコングの許を去ることがすでに裏切りであるなら、その逃走の果てに乗員総出の捕獲作戦が待ち受けていることが二重に裏切りの性格を強調する。密林の王者と雖も人間の悪知恵には敵わないのであり、そこでコングと最終的に対峙するのは情熱に憑かれた男であるデナムである。

心ならずもアンの逃走は結果的にコングの破滅を決定附けるのだ。恋人か孤独な獣かという二者択一において何の迷いもなく恋人のほうを選んだことで、やはり彼女は孤高の野獣を裏切っているのであり、デナム率いる捕獲作戦は単にそれを明確化するための最後の仕上げに過ぎない。そして、この悪意なき裏切りは如何にしても挽回不能な最終的な一挙となり、NYにおけるコングの墜死はこの瞬間に決定附けられる。

物語の結末において語られる「美女が野獣を殺したのだ」という警句は、単に美女に惹かれた野獣の愛すべき愚かさや滑稽な獣欲を語るものではない。世界に残された八番目の驚異である絶海の秘境へと、呼ばれもしないのに勝手に押し掛けた文明人たち、その中の飛びきりの美女がかりそめに孤独な野獣の心を癒したことが、野獣の破滅を決定附けるのである。

クロロホルムに斃れたコングの傍らに立ってデナムが意気揚々と「コング!世界八番目の不思議!」と宣言する姿は、美女を竜の群から救いその屍に足を掛けて雄壮にドラミングするコングの姿を想起させる。その勇ましいスカル島の王者を最終的に倒したのは狂った情熱に取り憑かれた下腹の突き出た中年男であった。

そのサタイアを印象附けた上で、全編中でただ一度だけの溶暗を介してすぐさま舞台はNYに転換し、そこから一気呵成の悲劇が演じられる。この溶暗の間のことは何一つとして語られないが、ドリスコルが船中で書き上げた戯曲の上演を独り寂しげに見詰めていることで、おそらくあの後アンとドリスコルが別れたことが暗示される。

ただ一度の邪心なき美女の裏切りは、最早取り返しの附かない悲劇をもたらしたのである。そこに裏切りが意識されているからこそ、アンとドリスコルはあのまま結ばれるわけには行かなかったのである。

劇場で暴れ出したコングとドリスコルが一対一の決闘を敢行するのは、美女を奪い合う男同士として避けられない激突であり、RKO版が美女を伴って逃げ惑う優男からコングが一方的に女を奪うという筋立てになっているのに比べ、この映画では共に美女に去られた優男とコングが自発意志で雌雄を決し、その帰結として美女が自らの自発意志で勝者であるコングの許に身を委ねる運びとなる。

氷結したハドソン河上で演じられる美しい滑走のシーンは万感の情緒を込めて演出されており、最早後戻りできない時点において束の間の通い合いのゆえに美女の裏切りを赦すコングに破滅への道筋を用意する。誰もが諒解する通り、エンパイア・ステートビル上のクライマックスは美女と野獣の道行きの物語である。

美女を拐った野獣の獣欲が、その身の程識らずな愚かさに相応しい酬いを受ける寓話が描かれているのではない。そこには一方的な欲望やグロテスクな獣姦のニュアンスは微塵もない。一種崇高な愛と滅びの物語として完結している。

興行師カール・デナムが象徴する文明というものが喚起するあくなき情熱と、最後に残された小さな小さな聖域に逼塞する孤独な魂、このぶつかり合いにおいて、一人の魅力的な美女が何心なくその孤独な魂と交流することで、人類最後の驚異は自ずから消滅するのである。

これを文明と未開の遭遇の悲劇ととるのはつまらない物の見方である。

撮影技師ハーブの死に接したデナムが述懐する彼の信念「世界にはまだ不思議なものがある。それをみんなが観られる。チケット代だけで」という言葉が、NYに凱旋しコングのお披露目に臨むデナムを見詰めるプレストンの口から再現され、それに答えてドリスコルが「彼は自分が愛するものを何故か破壊せずにいられない」と呟く。

これは一種、映画を撮るという行為についての言及である。世界に残された不思議を愛することと、それをみんなに見せたいと望むことは、絶対的な矛盾を孕んでいるのである。冒頭の前置きでオレは、デナムが当たり前の意味で罰されていないことを奇異に感じると陳べたが、ある種、この結末におけるデナムはコングの墜死それ自体によって誰よりも打ちのめされる存在として描かれている。

デナムは歪んだかたちではあれ、コングが象徴する人智を超えた驚異に熱烈な愛と敬意を抱いているのであり、世界がその愛を共有することを望むのである。だが、その愛は剰りに強烈な情熱であるがゆえに、相手を滅ぼさずにはいられない。美女の愛と裏切りが密林の王者を摩天楼から突き落としたのが真実であるとすれば、それに舞台を提供したのはコングに注がれるデナムの強烈な愛である。

だからこれは、PJの過去の諸作がそうであったように、愛の不可能性についての物語でもあるのである。カール・デナムという愚かな情熱に取り憑かれた熱狂的な人物には映画人としてのPJの限りない共感が寄せられており、天が少しだけ彼の情熱に贔屓をすることで、激しい愛が相手を破壊する哀しくも「おもしろいお話」が優れた映画の表現として成立するのである。

この映画は、「指輪物語」がそうであるよりも遥かに出てPJの映画的本質が湧出した力作である。興行デザインとしては明らかに破綻している三時間の長尺は、この物語自体の要請として一分の隙もなく根拠附けられている。

物理時間としての三時間が長いからといって、この映画を「だらだら長い締まりのない映画」と視る人間は、まあ、無理して映画を観なくても生きていける人間だろう。この長尺を徹底的に簡潔な経済性で取り廻し、圧縮した意味性を成立させる精緻な脚本の智慧を無視して「脚本に粗はあるが」と嘯く輩は、映画を観ることよりも映画を語る自分が好きな人なのだろう。

とにもかくにも、久々に大ご馳走としての大作スペクタクル映画を心ゆくまで堪能させてもらった。これを撮りきったPJは、今後一切映画を撮らなくてもいいんじゃないかとすら思ったね。

もう、ニュージーランド映画産業界の大番頭さんで一生を終えてもいいよ(笑)。

蛇足だが、生涯の洋画オールタイムベスト3として「天国の門」と「遠すぎた橋」に加えて「地獄の黙示録」を挙げているオレとしては、コンラッドの「闇の奥」への言及に続いて現れるスカル島の集落が地獄の黙示録のカーツ王国のセットを本歌取りしている趣向を見て、ちょっと笑った。

PJも地獄の黙示録が好きなのかね? ちょっと好感を持っちゃうなぁ(笑)。

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