Oh! Gal-cir
しばらく気疲れするエントリーが続いたので、大分更新をサボらせていただいたが、そろそろ調子を戻して再開させていただくことにする。とはいえ今週の時点ではSHTがお休み、セイザーは大ラス前ということで、週末の特撮番組が軒並み中途半端な時期ということもあって、今回は今期の一般ドラマの中でも個人的に注目していて、こちらでも何度か話題にした「ギャルサー」を語ってエンジンを温めるとしよう。
オレ的にはこの日テレ土曜九時の枠は「女王の教室」から毎週チェックする習慣ができたので、「野ブタ。をプロデュース」「喰いタン」を経てこのギャルサーまでに都合四作のドラマを視聴していることになる。それ以前となると、毎週視聴ということでは深田恭子の「リモート」辺りが最後ではないかと思う。
どういうわけか識らないが、日テレ土九ドラマというのは伝統的に妙にイケズで視聴者の共感を突き放すような癖のある性格が強いように思う。話を拡げると例によって長くなるが、土曜グランド劇場から現在の土九に続くこの枠に限って言えば、現在のテイストを確立する契機となった「家なき子」の野島伸司ノリがそのテイストのベースにあるのではないかと思われる。
野島脚本と言えばわかりやすい扇情的な題材の大量投入がウリだが、おそらくその骨法はシナリオ学校時代に彼が師事した伴一彦辺りの影響ではないかと思う。伴一彦のシニカルなコメディ路線と野島伸司の大時代な見世物性とでは大分見かけ上の体質は異なるが、ストーリー要素としてヴィヴィッドな時事ネタをふんだんに採り入れるという方法論は共通している。
そして、たとえばこれが伴一彦自身も活躍したTBSなら、「高校教師」にはじまる三部作などに視られるように、扇情性とスレスレのところで一種辛気くさい社会性や文芸性の文脈を大きく離れないが、日テレの野島作品の場合はその部分の勿体附けというか大義名分の留保がないように感じる。
そもそもの始まりとなった「家なき子」は、バブル崩壊の失意に打ちのめされた世相において家庭を喪失した少女が愛犬と共に世知辛い浮世を放浪し、生々しい悪意に晒され虐げられながらも、無力な偽善に対しては「同情するなら金をくれ!」と毅然とした啖呵をきる物語であり、「高校教師」がそうである程度には、ある種の文芸性や社会批判的なメッセージが意図されていたと思う。
だが、この家なき子もそうだが、日テレの野島作品に関しては「世紀末の詩」「ゴールデンボウル」を除けば、直接脚本を手掛けているわけではなく企画のみの参加で、日テレのドラマにおける野島ノリは、その方法論的な部分のみを拝借していたという言い方もできるだろう。
野島ノリということで言えば、彼の脚本作品よりも企画参加した作品を評価する論者もあるほどで、野島伸司個人のモチベーションとしては表面的な扇情性とは裏腹に文芸的な意味では真面目なのだと思うのだが、その「真面目な文芸性」をどう評価するかという部分については意見が別れるところだと思う。要するに、野島作品のヒット要素と彼の文芸性には直接の関係性がないということではないかと思う。
日テレのこの枠のドラマに関して言えば、野島がTBSでヒットを飛ばした諸作品のセンセーショナルな方法論が、よりディフォルメされた形で見世物的に発展していったということだけは言えるだろう。先述の家なき子も、TVドラマの段階からすでにアナクロニックで誇張されたディケンズ的「孤児もの」ロマンであったのだが、劇場版ではついに「サーカスに売られるみなし子」という、いつの時代なんだかわからない泥臭い因果物のテイストを纏うようになってしまった。
そして、それまでこれと言って際立った特色のなかった土曜グランド劇場の枠は、九四〜九五年にかけての家なき子のヒットによって、この番組の具えるヒット要素を分析的に展開・拡大する方向へシフトする。それはたとえば、TBS野島三部作からの繋がりの要素であるkinki kidsの起用がジャニーズ偏重のキャスティングとして継承され、誇張されたアナクロニックなまでの波瀾万丈のストーリー展開は劇画やジャンル小説原作の独自展開という特徴的な方向性として継承される。
そしてこのような路線は、家なき子2の後番組である第一期「金田一少年の事件簿」のヒットで確立され、この番組と同一世界観上に設定された諸作品において確信的に展開されていく。「銀狼怪奇ファイル」「透明人間」「サイコメトラーEIJI」と続くこの路線の成功は現在まで続く土九枠の性格を決定附け、起源における野島ノリに、金成陽三郎原作物の猟奇的道具立て+本格パズラー+サスペンス劇場的情念ドラマの融合という性格が持ち込まれ、堤幸彦主導の後味の悪い奇抜なドラマ性がダメを押す。
これらのメインストリームの合間には、たとえば家なき子の主演女優である安達祐実の持つ数字を占う意味で「聖龍伝説」があり、ジャニーズ主演物の女性版的なラインとして男性視聴者の獲得を狙う「FiVE」「三姉妹探偵団」の橋本以蔵の起用などが試みられそれは榎本可奈子の「P.A.プライベート・アクトレス」「バーチャルガール」や深田恭子の「リモート」など細々と一本のラインを形成するが、土九の黄金期の主流を担ったのはやはりジャニーズ主演のミステリ劇画ドラマの諸作だろう。
だがその隆盛のピークは九五〜九九年の世紀末の五年間に集中し、新世紀以降は新たな機軸もないままにジャニーズのキャスティングに依存した一種守旧的作品が続き、視聴率は全般に低迷する。水十枠ですでに実績のあった「ごくせん」が枠移動してきた以外はこれといったヒット作もなく、月十の読売テレビ制作枠が「乱歩R」を最後に消失したことで、レギュラードラマ枠が週二本というお寒い状況となった。
たとえば「ごくせん」単体を視るなら家なき子以来の大ヒットと言えるだろうが、このドラマのコンセプトから安定したヒット要素を抽出することは難しい。コンセプチュアルな面から視れば、ある意味、どこにでもあるような「型破り教師物」+「極道二代目物」のバリエーションにすぎないからである。
この種のストーリー類型は枚挙に暇がなく、思い附くままに書き出しても「セーラー服と機関銃」をはじめ「二代目はクリスチャン」「ストップ!ひばりくん」「静かなるドン」「プリズンホテル」などの有名どころがあり、泡沫的な小説・劇画を含めれば長大なリストが出来上がるだろう。いわばこれは一つの確立された設定ジャンルなのであって、素っ堅気の二代目が昔気質の極道を率いてすったもんだのドタバタ劇を演じるというコンセプトを今時「アイディア」とは呼ばない。
だから「ごくせん」がヒットしたのは何か人目を惹く新規な「コンセプト」を具えていたからではなく、ドラマ単体のボディに個別的な魅力があったことと、このドラマが制作された時代性の文脈に理由が求められるだろう。そのヒットを偶然と視るか必然と視るかは論者次第だろうが、要するに汎用的に応用の効く新規なヒットの方程式が何ら存在しないということだけは確実である。
そして「ごくせん」に続いてヒットの手応えが得られた「女王の教室」では、「ごくせん」のヒット要素を「型破りな教師が正論の啖呵を切ること」と視たわけだが、これに畸型的なヒネリを加えたことが結果的に吉と出た。素直に「ごくせん」の道具立てに乗るなら「ドラゴン桜」になってしまうわけだが、表面的な意匠の面で「ごくせんみたいな作品」を狙わなかったところがこの枠の独自性として評価できるだろう。
当たり前に考えれば、どこか三枚目的なキャリアウーマン役を持ち味とする天海祐希を冷酷な独裁教師としてキャスティングした時点で際物的な博打であり、「ごくせん」のように生徒役としてジャニーズをはじめとする若手イケメン俳優を大量投入する手法もとれない「小学校」を舞台に据えるということで、これがヒットするなどとは誰も予想していなかったのではないかと思う。
いわば日テレお得意の際物的なセンセーショナリズムの文脈でコンセプトが固められているわけだが、当初この番組についてはまったくのノーマークだったオレが継続視聴する気になったのは、OPナレーションで「この物語は/悪魔のような鬼教師に/小学6年の子供達が戦いを挑んだ/一年間の記録」と語られる、その「戦い」という言葉が真に受けられたからである。
…いやまあ、そもそもこの番組を観るようになったきっかけが、「特撮番組でもお馴染みの美少女子役・志田未来主演」「パンティラ」「失禁」「スクール水着」という刺激的なキーワードの数々だったことは殊更に強調するまでもないとは思うが(笑)、これまでジャニーズ主演でF1層を引っ張ってきた土九の枠で、子役萌えのジャンルにシフトして前より数字が稼げると考えるほど日テレも莫迦ではあるまい。主役はあくまで敵役として立ちはだかる天海祐希の鬼教師であり、それと戦うのが小学六年の無力な幼女であるというギャップや扇情性が狙いだったのだと思う。
そういう意味では、これも水十や土九で展開してきた際物的なドラマの連続上にあるわけだが、オレがこの番組を初めて観たのが、滑り出しの好調に気を良くした日テレが異例の集中リピートをかけたタイミングだったため、阿久津真矢の印象的な登場から和美の孤立、そこから徐々に仲間との友情を再度獲得していくプロセスが一望できたということもあり、異形の「戦いのドラマ」として期待するようになったのである。
当初番組コンセプトを紹介された時点では、例によって陰湿ないじめ描写の扇情性をウリにする学園ドラマの皮を被った凡庸な見世物ドラマだろうという先入観があったわけだが、実見してみたところキチンと「戦いのドラマ」としてのオーセンティックな骨格を具えていることに好感を持ったわけである。
最前語ったような猟奇的ミステリや劇画的起伏を追求してきた歴史のゆえに、この枠では善人面をした好人物が悪玉であったり、親友や肉親の間での裏切りや背信が日常茶飯事として演じられる居心地の悪さがあり、視聴者の共感を拒絶するような見世物性が際立っていた嫌いがあったと思うのだが、この作品においては信頼の喪失と再獲得のプロセスが丹念に描かれており、根幹の部分に人間性に対する信頼のようなものが据えられていると感じられたことも好印象に繋がった。
オレが従来の土九のドラマとは「何かが違う」と感じたのは、表面的な意匠やコンセプチュアルな部分ではなく、このように物語の根底に紛い物ではない人間性への信頼を据え、意匠面における見世物性から脱却しているドラマ性の故だったのである。
猟奇的な犯人当てミステリと劇画的波瀾万丈の筋立ての両者に共通しているのは、人間性への信頼を裏切る意外性である。表面的には人好きのする善人でも、その裏では何を考えているかわからない。もしかしたら平凡な顔をしたあなたの隣人は冷酷な殺人鬼なのかもしれない。親友だと思っていた人物は実はあなたへの悪意を胸に秘めているのかもしれない。すべての事件を影で操っていた卑劣漢は敬愛措く能わざるあなたの生涯の恩人なのかもしれない。人の心など所詮余人には窺い知れない闇の中にある。
このような殺伐とした人間観が共通しているのである。
つまり、オレがかつて感じていたような土九ドラマの居心地の悪さとは、このような意味での人間不信の感覚なのである。この基調においては、人は見かけとは裏腹の二面性の闇を抱えるのだし、どれだけ良好な人間関係であっても必ず冷酷な裏切りの可能性に脅かされているのである。
そして、たしかにミステリやホラーなどのジャンル作品においては、犯罪や人外の存在への恐怖などがテーマとなっているだけに、このようなネガティブな基調が求められるのも一種仕方のないことである。そもそもこのようなジャンルの物語は、表面上の人物描写からは窺い知れない悪を推理によって暴き出したり、普通一般の常識人が他者に対して抱いている無前提の信頼感を根底から覆し、恐怖やビザールな感興をもたらすことにこそ物語的な眼目があるからである。
ジャンル愛好者としてのオレは、土九の黄金期の諸作についてはそれなりに入れ込んで観てはいたのだが、やはりこれ一辺倒では幾ら何でも食傷する。ミステリやホラーなどのジャンル作品は強烈な「作り物臭さ」を免罪符として成立する見世物なのだが、対するに大多数の一般ドラマは、どのように誇張された作品であってもその根底には「本当らしさ」が求められるのである。その「本当らしさ」というのは、一種波瀾万丈のロマン性と対極的な位置にある生活実感との整合だとオレは考える。
普通、人は他者を視る自分の眼を信頼しているものなのであり、さらには他者の善良性を基本的には信頼しているものである。人はたいがい見た目通りの人間なのだし、こちらの信頼を無闇に裏切る存在ではない。渡る世間にはたしかに鬼もいるけれど、その一方で仏もいるのであり、このような生活実感を筋立ての都合で簡単に覆す物語は本当らしく思えないものである。
しかし、このような生活実感一辺倒では起伏に富んだロマン性は得られないから、ある程度の飛躍は必要なのであり、この両者のバランスの上に「本当らしいドラマ」は成立するのである。土九のドラマについて言えば、どうも出発点においてえげつない扇情性に基づくジャンル作品の成功が看板となってしまい、その「作り物臭い」ドラマ性が視聴者に飽きられても、それに代わるだけの「本当らしい」ドラマ性のラインを確立することが難しかったのではないかと思う。
そういう意味では、一種わかりやすく人目を惹く扇情的な題材を扱いながら、「女王の教室」の人間ドラマの根底には生活実感とギリギリ整合するリアルな人間観が息づいている故に、ジャンル作品的な忙しない起伏を狙う虚構的な見世物性から脱却した新たなロマンの可能性が胚胎しているのだとオレは視た。
さらにはこのような陰惨なストーリーラインの物語でありながら、基調として明るくコミカルな雰囲気が喪われていないことも凡手ではないと感じられた。語り口に「こんな非道いことが行われているんですよ、どうです、気になるでしょう?次も観たくなるでしょう?」というような圧し附けがましいシリアスさがないというのは、この種のドラマとしては得難いポイントである。
総体として、非力な子どもたちがいじめられる一方ではなく力を合わせて悪魔のような全能の鬼教師に果敢に戦いを挑むという荒唐無稽なドラマを、カラッとしたテイストの巧みな語り口で見せるというバランスの良さがかなり好印象だった。
ただし、そのような期待をもってこの番組を見守り続けてきたオレは、ドラマ性ではなく現実性の故にこの作品に裏切られる羽目になる。当初制作スタッフは「決して阿久津真矢を善人にはしない」と明言していたにも関わらず、どう視ても社会的圧力に屈した形で、悪魔のような鬼教師はあえて反面教師に徹し現実の壁として立ちはだかることで子どもたちを導く理想の教師像に祭り上げられ、阿久津真矢賛美に埋め尽くされ徒に間延びした薄気味悪い最終回を迎えるに至った。
阿久津真矢が反面教師として立ちはだかることで、子どもたちが自身の自助努力で成長を勝ち取るというコンセプト自体は何ら否定さるべきではないだろう。ただ、それが阿久津真矢本人の意図としてそうであるべきドラマ的必然性などはない。そうであったほうが社会的には抵抗感が少ないというだけの話で、「戦いのドラマ」を真剣勝負として完遂させるなら、あくまで阿久津真矢は子どもたちを堕落への誘惑で脅かす正体不明の悪の権化であったほうがよかったはずである。
彼女の悪意によって堕落するならそれまでの話、そこから成長を勝ち取るか否かは当人たちの自助努力次第、そこまで突き詰めてこそ子どもたちの「戦いのドラマ」として教育現場を描く意図は徹底されていたことだろう。稚ない無力な子どもであっても自身の責任において正邪を別し成長を戦い取るべきであるというメッセージは、一種衝撃的ではあっても、床屋政談的な乱暴な際物性とは一線を画する真摯さを具えている。
そういう意味で、阿久津真矢はキリスト教的な意味での「誘惑する者」、ストレートに言えば「悪魔」であっても何ら差し支えない。根底において善人であるなら、それはやはり出来レースなのであり、ちょっと過激なスパルタ教育という域を出るものではないだろう。これをもっとわかりやすく言えば、本来「ドラゴン桜」とは対極的な物語が目指されていたはずなのに、結果的に同じものになってしまったということである。
このような結末を迎えたことで、さらに事後に作られたスペシャルドラマにおいて現在に至るまでの人間・阿久津真矢の悲劇的な教師生活の履歴が描かれることとなり、このような哀しい過去を持つ人物が子どもたちの最終的な堕落を黙過するはずがないという確信をダメ押しで附け加えるまでに至ってしまった。これはやはりドラマ的な意味では妥協の産物の通俗性だろう。
この妥協の故に、このドラマにおける和美たちの成長は、本質的には「大人の良識の庇護の許に得られた成長」と意味附けられ、「子どもたちが自力で勝ち取った成長」という性格が弱められてしまう。つまり、このドラマはこれまでの土九のドラマとは逆のパターンで、「悪人と思われる人物が実は善人だった」という二面性に日和ることによってテーマの徹底を欠いているのである。
阿久津真矢が正体不明の悪魔であれば、舞台となる学園を変えてパート2、パート3も作れたはずであり、おそらくそれが制作スタッフの当初のデザインプランでもあったはずである。このコンセプトで続編が観たいかと言われたら個人的には微妙だが、少なくともそれなりに手応えがあったヒット作品を、番外の前後編二本だけで手放すのは日テレサイドにすれば惜しかったのではないかと思う。
とまれ、後半において幻滅を味わったものの、総体的にこのドラマはオレにこの枠の可能性を再び期待させるようになった。土九として新しいと感じたばかりではなく、このようなリアリティのドラマ性が他局の秀作ドラマと比較しても目新しくポジティブな意義を持つように感じられたからである。
しかし、正直言って後継番組が新人小説家の芳しい評判を聞かない原作に基づく学園ドラマで、主演がジャニーズきっての人気者である亀梨・山下コンビと聞いて、大した期待を覚えなかったのも事実である。
亀梨や山下個人はそれなりの魅力と雰囲気を具えたタレントだとは思うが、番組コンセプトだけを聞いたらジャニーズ+劇画原作という従来の土九の路線と大きく変わるところがない。女王のヒットは奇貨に過ぎず、やっぱり従来通りジャニーズ人気に依存した路線に戻るのかと、ちょっと眉に唾したくなる気分ではあった。
だが蓋を開けてみれば、「野ブタ。をプロデュース」は週末の娯楽番組としてはむしろ「女王の教室」よりもバランスの良い佳作だったと思う。ドラマの求心的な一貫性ということでは女王の教室のほうが優れているが(後半の展開はさておき)、新しい形の学園ドラマとしては野ブタの雑然としたバラエティ感覚は魅力的だった。
長々と野ブタに触れるつもりはないのでざっくり纏めて言うなら、「人生はゲーム」と言い切る冷めた優等生がいじめられっ子の転校生を人気者にプロデュースする、というコンセプトをかつての土九のラインでドラマ化していたら、もっと扇情的で陰惨な引きの視点の話になっていたのではないかということである。
たしかにこのドラマに関しても「いじめ描写が(以下略)」という退屈な苦情は寄せられたようだが、味噌と糞の区別が附かない輩はいつの世にも絶えないものであり、ドラマでいじめが描写されることそれ自体が気に入らない人間は一定程度存在する。以前ガメラに関するエントリーで語ったように、特定の劇中現実それ自体を許容しないという感受性の人間は必ずいるものなのである。
少なくともこのドラマにおけるいじめ描写はそれ自体を目的としたものではないし、いじめ→自殺という短絡的な図式に基づく社会性が問題となるのでもない。教育者や大人の視点でいじめを捉えているのではなく、敵対的な関係性の直中で仲間との交流を通じて自身の問題を解決する物語人物の心象がドラマティックに語られているのである。
このようなスタンスのドラマにおいて「いじめ描写が陰惨すぎる」という批判を発するのはあまりに的外れにすぎるだろう。このドラマにおけるいじめ描写は、それを見守る大人の責任を告発したり、大人としてどのように対処すべきかという問題提起が目論まれたものではなく、当たり前の高校生の日常要素であるにすぎない。
学園という社会性においては、適切に振る舞えない子どもはいじめという直接的な暴力に晒されるのである。こうした認識を大人目線で語るなら「いじめられる側にも問題があると言うのか」というお馴染みの議論にもなるが、その状況の直中にある子どもたちにとっては、それは良し悪しの議論とは無関係に存在する当たり前の社会的力学であるにすぎない。
大人の世界における社会的力学が良し悪しの問題とは無関係に存在するように、子どもの世界においても同じような力学が存在するのである。だとすれば、このドラマにおいてはいじめ「問題」など扱われていないのであり、いじめという社会的力学が当たり前に存在するアクチュアルな現実を舞台にしているというだけなのである。
それが端的に顕れているのは、小谷信子を先頭切っていじめていた板東梢と信子の和解がテーマとなった感動的なエピソードである。いじめを大人目線の「社会問題」として扱うスタンスのドラマには、批判回避のための既存の方程式がある。「結末においていじめる側がいじめられる側に廻る」というルーティンがそれである。
大人目線で「いじめ問題」を捉えるなら、それはいじめる側のいじめられる側への共感の杜絶が問題となるのであり、それを当たり前の感覚として身に着けていない子どもは直接他人の痛みを我が物として体験する以外に共感の術はない。だから凡庸な学園ドラマでいじめが扱われる場合、ほぼ一〇〇%の確率でいじめっ子はいじめられっ子に転落して他者の痛みを己が自身体験する羽目になる。
そして、これは現実のいじめの力学としてリアルであるという名分があると同時に、大人目線における応報の社会感情をも満足させる故に、これまでの学園ドラマで便利かつ無自覚に使われてきたルーティンなのである。
だが、このドラマにおいてはいじめられる側の信子が自身の痛みを伴うアティテュードとして梢に向かい合うことで、感動的な和解の筋立てが語られる。これは大人目線のリアリティではなく、そのような子どもの社会性の直中で生きる子どもたちの望みとしてリアルなのである。おそらく、いじめを「問題」として捉える大人の観点で言えば、このような経緯は「甘い解決」に見えるだろう。
それを「問題」として捉えるなら、常に最悪の事例を視野に入れて語らねばならないからであり、ドラマが提示する解法で解決しない事例が存在する限り、それはご都合主義的な不徹底なアプローチとして批判を受けるからである。
しかし、子どもたちにとっていじめは社会問題などではない。今この場で生きる自分たちが晒されている普通の現実なのであり、普通の現実であるなら必ずしも最悪の事例である必要などはないからである。学園という社会において下手を打った奴はいじめられるというそれだけのことであり、それは良いとか悪いとかいう問題なのではなく、ただ目の前に存在する現実であるにすぎない。
このドラマにおいては、主人公をいじめる不良は共感の杜絶した新人類という名の怪物ではなく、主人公と対等の心性を持つ劇中存在であり、対等の心性があるからこそ主人公の積極的な働きかけによって和解が成立するのである。いじめを社会問題として捉えて最悪の事例を想定し、応報必罰の社会感情に基づく結末を用意することは、たしかに大人の問題意識を満足させるのかもしれないが、それはいじめっ子という存在を怪物視し異物として排除する方法論でもある。
大人目線では許すべからざる卑劣な行為であるいじめを行う子どもであっても、その心性は普通一般の子どもと変わりない、いじめというのは大人目線に映る「社会悪」なのではなく、子どもの社会における普通の社会的力学なのであるという認識は、ある意味では非常にリアルなのである。
このドラマの基調に据えられているのは、「学園という社会」の生きにくさである。主人公・桐谷修二がクールな計算に基づいて日常を演じているのは、そのような生きにくい社会である学園における処世の術なのであって、桐谷修二の新人類としての異様な人間性を語るものではない。普通一般に謂えば「要領の良い奴」を現代的なリアリティの心象描写で語っているだけで、桐谷修二自身はどこにでもいるような普通の高校生なのである。
それは母親不在の家庭における彼の主夫ぶりの「普通さ」を視ればわかることで、どこにも大人目線における若い世代の異常性はない。学園生活で周囲に合わせて人気者を演じることも、その一環としてさして好きでもない女性と附き合うことも、オレたちの世代の感覚で言っても普通にあり得る思春期の社会行動である。
さらにいえば、いじめの悪弊は学園という場の起源に遡って常に存在したのだし、昔のいじめが今のいじめに比べて幾らもマシだったわけではないし、いじめを苦にした自殺だってオレの子ども時代から度々報じられていた。
だからあってもかまわないとは言わないが、それを事新しい新奇な社会問題として捉える視点は間違っているだろう。それは普遍的な子どもの社会性の問題なのであり、いじめを社会問題として捉えるのであれば、このような子ども社会の普遍的な力学に迫るのでなければ抜本的な解決の途はない。ましてそれがドラマの使命かと問われれば、少なくとも今現在においてはそうではないというのがオレの考えだ。
その意味では、徹頭徹尾子ども社会における処世をテーマに掲げ、いじめられっ子を主人公の一人に据えながら、それをごく普通の社会性としてフラットに捉え、普遍的な思春期の少年少女の交流の物語に徹したこのドラマの視点は評価に値するだろう。毒々しい興味本位の見世物性は、ここでも払拭されているのである。
そして「女王の教室」「野ブタ。をプロデュース」が連続して作られている以上、この流れは単なる偶然ではなく確信的な試行錯誤と視るべきだろう。そもそもの出自は土九の枠ではないが、「ごくせん」が水十の枠から移動してきたことによって、過剰な扇情性を排した正論の力強さに依拠しながらも、意匠において異色の学園ドラマという新しいドラマ性のラインが確立されたのである。
この学園ドラマの流れが今後の土九の主流となるかどうかは微妙なものがある。これまで語ってきた通り、このラインには明確な方法論が存在しないからである。女王の教室も野ブタも、一定の方法論に則って作られたドラマではない。各々のドラマが秀作たり得たのは、個々のドラマのコンセプトとスタッフワークが優れていたからであって、特定の一貫した勝利の方程式が奏功したからではない。
つまり、ごくせんのヒット要素が女王の教室のヒットを導き出したわけではないし、女王の教室のヒット要素が野ブタのヒットをもたらしたわけではない。「型破りな教師が正論の啖呵を切る」という同じ類型に基づいていくらでも駄作は作れるのであり、そのわかりやすい例はTBSの「ガチバカ」に視ることができるだろう。
この「ガチバカ」がなぜダメだったのかと言えば、ごくせんやドラゴン桜のヒットを受けて「型破りな教師が(以下略)」を方法論と取り違えてしまったからである。何ら個別のドラマとしての固有性を模索せず、アリガチな設定にアリガチな正論を乗せてアリガチなストーリーをアリガチに語ってしまったからこのドラマは失敗したのである。つまり、「ガチバカ」とは「アリガチなバカドラマ」だったのである。
「型破りな教師が(以下略)」というのは時代のニーズであって方法論ではないのであり、そのニーズに応えるために個別の方法論が必要とされるのである。このニーズが社会感情として活きている限り、その方向性はヒットの可能性をもたらすが、ヒットを約束する方法論は自前で模索する必要があるのである。
女王や野ブタはこの意味において、正しい認識の下に制作されたと言えるだろう。しかし、個別の作品を魅力的な学園ドラマたらしめる智慧が、そうそう無尽蔵にそこらに転がっているはずなどはない。野ブタの後を受けたのが、まったく別のラインである東山紀之の「喰いタン」であったのは、この意味で仕方ない成り行きだろうと思う。
土九で東山紀之と言えば「ザ・シェフ」があるわけだが、「喰いタン」の方法論を子細に視れば、「ザ・シェフ」を直接継承していることがわかるだろう。正直言ってこのドラマには視るべき点は何もない。東山紀之という安定した数字を持つジャニーズの大御所を見せるという以外にほとんど意味のない番組であり、要するに、登り調子のこの枠の数字を下げたくなかったからこの時期に投入された安全パイである。
実際、何ら新奇なアイディアもないテレ朝ドラマのようなヌルい作品でありながら、全話一五%以上という安定した数字を弾き出したわけだが、ちょっと育った小池里奈がセミレギュラーで出演しているという以外にオレの興味を惹くものではなかった。おそらくこの時期にこのドラマが作られた意義からすれば、それでいいのである。日テレが土九の枠でヌルいテレ朝ドラマを作ったからと言って、誰がそれを非難できようか。
そして、その喰いタンの後を受けて始まった「ギャルサー」が満を持して放った期待作であるかどうかというのはかなり微妙な話になる。コンセプトワークは面白いしキャスティングも旬の美少女アイドルの大量投入という附け焼き刃では叶わないものなのだから、かなり事前にアイディアを詰めて計画された番組のはずなのだが、どうも実際の制作において相当バタバタ忙しなく作られている印象がある。
たとえば第一話の放映時点では、OPとEDが劇伴の楽曲や映像素材自体は存在するのにその形式が大幅にイレギュラーだし、クロフォードのオヤジが卵を満載したトラックの荷台に墜落したことと、シオリが唐突にゆで卵を仲間に振る舞うくだりに関連がありそうでいながら、何らその間の叙述がない。
さらに、サキが所持金を問われて「一〇円しかない」と答えるくだりがいやにしつこく何度も設けられているが、サキの貧乏を強調する表現としても、一度言えば十分なことを何度も繰り返すのは作劇的に意味がなさすぎるし、とくに天丼のギャグになっているわけでもない。そういう意味で、第一話に関しては伏線でも何でもない無意味で唐突な描写がイヤに多いのである。
また、エピソードを全体的に視ると、第一話はサキとシズカの些細な行き違いとそれによる言葉の咎をテーマとしたエピソードになっているが、サキとシズカの通常の関係性について十分に描いていない内からいきなり仲違いの話が始まっていて、若干唐突な印象を覚えてしまう。
サキという少女がどんな人物なのか、シズカとどんな関係にあるかがかなり端折って描かれているような印象である。これでは最初の裡はシズカをムキになって庇っていたサキがシズカの何に苛立って仲違いしてしまったのかがイマイチ視聴者に伝わらない。勿論、このような成り行き自体は思春期の少女の心の動きとして類推はできるが、この時点でサキという少女の登場を印象附けるなら、庇い立てからいじめに転じる心理の機微をキチンとした叙述で丁寧に描くべきであったと思う。
最初のうちは、戸田恵梨香のポジション的にサキは単なるエピソード主役であって各回持ち回りで視点人物が替わるのだろう、この舌足らずかつ饒舌な混沌のイメージがこのドラマ全体の語り口なのだろうと想定していたのだが、サキが全体の主要な視点人物としてシンノスケに絡む役回りなのだとわかってみれば、どうも初回の登場編の描き方がやはり不自然だったような印象を覚える。
これはつまり、キー局では初回が一五分拡大枠となっているが、最初は三〇分拡大が予定されていたのではないか、それが直前になって短縮されたのではないかと邪推する次第であるが、OPとEDの決定版が第二話まで間に合わなかったことを考え併せればかなりバタバタしたスケジュールで制作されていたのではないかと思われる(尤も、EDについては振り附けの前田健がゲスト出演した第三話からワンカット前田がインサートされるという一部手直しはあったが)。
まあ、サキとシズカの仲違いのくだりについては、そうそう複雑な筋道でもないのであれ以上突っ込んだ描写は不要だと思うが、そこに至るまでの前フリ的なプロセスが若干端折られてしまったのではないかと想像する次第である。
実際にはおそらく「所持金一〇円」の繰り返しとシズカの奢り癖の間に何らかの衝突が叙述され、「金目当てにつるんでいる間柄」という侮辱とそれに対する反撥が強調されていたのだと思うが、そこがカットされたのではないかと思う。
また、同様にクロフォードのオヤジが墜落して滅茶苦茶に潰した荷台一杯の卵を通りかかったシオリがガメたとかもらい受けたというような、ある意味どうでもいい小ネタがカットされているのだと思うが、その後この不自然なゆで卵のくだりについてはまったく補完されることもなく、シオリ定番の小道具として扱われるに留まっている。
そういう意味では、やりっぱなし感の強い出たとこ勝負な作り方に見えるし、局サイドが本気で数字の取れる番組と期待して注力しているか否かかなり疑わしい番組ではあるのだが、ごくせんからの流れの学園ドラマとして視た場合には、なるほどこれもアリかと思わせる斬新なコンセプトを具えている。
ギャルサーが変化球の学園ドラマであることは、以前触れた通り局の公式サイトの紹介文にも明記されているので、疑いの余地はない。これを学園ドラマとして視た場合の構造的対応がどのようなものであるのかは、その際に詳説した通りである。
しかし、ここには学園ドラマを最低限成立させる学園という場が比喩としてしか存在せず、学園が存在しない以上、教師もまた存在しない。比喩として学園であることと現実に学園であることは厳然として違うのだし、教師的な役割を果たすことと現実に教師であることもまた同様に画然と違う。
ギャルサーなり商店街の連中なりの劇中人物たちは、渋谷という街を学園とすべく努力しているわけではないし、ジェロニモなりシンノスケなりは教師たるべく努力しているわけでもない。劇中人物たちは自身の都合に随ってそれぞれ好き勝手に振る舞っているだけであり、一種そのてんでばらばらな都合のぶつかり合いが、この雑然たるドラマ空間に闇鍋的なカオスを醸成している。
この闇鍋的カオスのドラマが学園ドラマとして成立するのは、劇中人物ではなくつくり手たちがそのようにあらしめようと意図するからである。一般的な学園ドラマを一旦解体してその構成要素を子細に検討し再構築するからである。事実として学園ではなく事実として教師ではない故に、このドラマは学園ドラマへの接近のモメンタムと離反のモメンタムを諸共に具えているのである。
たとえば普通一般の学園ドラマの場合、各々の生徒たちが学園に帰属することにさしたる理由附けなどは不要である。学園とは生徒たちが予め自明に存在する場であり、普通個々の生徒がそこにいるための理由や動機を殊更に問う視聴者はいない。そこがたとえば高校であれば、それなりに志望動機はあるはずなのだが、大半の学園ドラマの舞台がそうであるような三流高校であるなら、個々の生徒がそこにいるための積極的な動機や理由などはほとんど存在しないのが普通である。
大半の高校生がそうであるように、学園ドラマの生徒たちは何となくいろいろな都合の綜合としてそこにいるのであり、学園ドラマにおける学園とは予め自明に存在する場にすぎないのであり積極的に目指される場ではないのである。学園ドラマにおいては、この自明性に寄り掛かる無自覚な姿勢はひとしなみに頽落と意味附けられ、大前提としてすべての生徒が頽落しているからこそ、その頽落からの回復の物語として学園ドラマを語る余地が発生するのである。
また、たとえばある人物が「教師である」ということは、積極的に子どもたちに向かい合うべき動機が予め自明に期待され義務附けられるということである。だが、普通一般の学園ドラマにおいては、主人公の型破り教師が赴任する以前に大半の教師はその期待に背き道義的な義務を放棄しているのであり、これもまた頽落の姿と意味附けられているものである。
大半の教師が職制上期待される姿から頽落しているという前提において、主人公の活躍が生徒と教師の双方を活性化させ、生徒は学園に帰属すべき意義を見出し、教師は生徒に向き合うべき情熱を取り戻す。
このような学園ドラマの構造は、「そこが学園である」「彼らが教師である」という現実的な規定によって自明に生起するものなのであり、語り手はその構成要件に乗って個別の物語を語ればいいのであるが、それらの必要十分条件が比喩に留まる場合には、語り手の意識的な仕掛けによって学園ドラマの構造を保証し、語りの枠組みを構築しなければならないのである。
たとえば渋谷が学園のアナロジーであるとしても、事実において学園ではない以上、エンゼルハートのメンバーは予め自明にそこに存在するわけではないのだし、そこに教師がいなければならない劇中事実としての必然性は何もない。
商店街の大人たちには彼女たちを教導すべき名目上の義務すらないし、ギャルサー対商店街の対立構造においては、何ら義務的な責任関係はない。そこに現れたシンノスケも単にイモコを捜し出せばそれでいいのであり、エンゼルハートの連中を教導すべき権利も義務も必然性もない。
渋谷を風靡する異様な風体の(劇中ではさすがに控えめに描写されているが)少女たちは、学園がそうであるように何となく自明にそこにいるのではない。「家庭でも学校でも居場所がない」彼女たち全員、自らの積極的な意志に基づいてそこにいるのであり、普通一般の学園ドラマの舞台からさえも逃走した子どもたちの最後の崖っぷちとしての吹き溜まりと位置附けられているのであり、彼女たちの傍若無人な行動が周囲の大人たちにとって迷惑だから対立構造が発生しているだけなのである。
家庭からも学園からも逃走した存在の最後の砦である以上、彼女たちは親も教師も必要とはしていないのであり、サークルの同輩が姉妹の替わりでありサークルの先輩が親や教師の替わりである。その意味では一種の疑似家族なのだし擬似的な血縁共同体の性格を帯びている。親や教師が圧し附けたルールではなく、サークルの厳格な規律こそ彼女たちが自発的に信奉するルールであり、総代表レミの命令が絶対の法律である。
それを対外的に視るならば、学園という大人の社会から隔絶した孤立空間における庇護を享受できないということであり、彼女たちの行動は大人のルールに照らして容赦なく処断されるということである。随って、迷惑なギャルサーたちを排除しようと画策する商店主同盟の思惑は単なる自衛策にすぎず、「腐ったミカン」を排除しようと目論むサラリーマン教師たちの保身とは違って何ら非難さるべき謂われはない。
一般的な学園ドラマの場合には「予め自明に帰属すること」「教師の情熱不足」それ自体を大前提となる頽落状況と認識し、そこからの回復を図ればよかったが、このドラマにおいて大前提となる状況は、何が頽落であるのかも自明ではないし、そこから目指される回復の在り方も自明ではない上に、それを積極的に回復すべき名目がない。
にも関わらず、大前提において視聴者に「このままでいいわけがない」という居心地の悪い違和感を与えるのである。だとすれば、このような学園ドラマとの近似構造と学園ドラマとしての構成要件の欠落を、このドラマはどのように克服しているのか。
驚くべきことに、このドラマを学園ドラマとして成立させているのは、ひとえに主人公のシンノスケが非常識なガイジンだという事実なのである。つまり、このドラマが学園ドラマたり得るのは、主人公が何ら名目上の義務関係に縛られない大人としての常識が欠落した自由人だからこそ、その自由気ままな行動によって結果的にこのドラマは学園ドラマとなってしまうのである。
日本人としての常識は七歳児並と規定され、投げ縄が巧みで異常に脚が速く闇雲な行動力に優れるシンノスケは典型的なトリックスターであり、一種、「クロコダイル・ダンディー」的なカルチャーギャップコメディが目論まれているのだが、架空のインディアンが棲む架空のアリゾナという誇張された「辺境」が意図的に捏造されることで「辺境が中心を批判する」というお馴染みの文明批評の構造が成立するのである。
ギャルサーたちが存在する渋谷という空間が、ドラマ的な省略は施されているもののそれほど過剰な誇張は蒙っていないのに比べ、今時「インディアン」が大自然への敬意と祖先から受け継がれたシャーマニックな智慧を奉じて砂漠でテント生活を送るワイルドウェストとしてのアリゾナなどこの世の何処にも存在しない。いわば最初の最初から嘘で固めた作り物だと断っているようなものである。
この辺の事情を他国の民族問題だからといってドラマの方便として便利に使っていいのかというのは議論の余地があるところだが、要するにジェロニモやシンノスケが棲むアリゾナとは、魔女っ子アニメにおける魔法の国と同様、虚構の世界律が支配する異界なのであり、そんな胡散臭い作り物の国からやってきたシンノスケは、渋谷という現実的な街に棲む存在にとっては得体の知れない不気味な自然児である。
たとえば第一話のクライマックスで、サキを宙吊りにしてせせら笑うシンノスケは何処か不気味な印象すら与えるし、それに対してサキは「このオッサンはアタマがおかしいんだから」と泣きを入れるが、そのサキの認識はある意味正しいのであって、シンノスケは普通の意味では一種の狂人である。
だがまだこのエピソードにおけるシンノスケのパフォーマンスは「Just a jork!」の埒内に留まる一風変わったお説教にすぎないように見えるが、第六話の行動などは一歩間違えればエンゼルハートの全員を「無邪気な善意によって」燻り殺すところだったわけで、本質的には第一話でサキを宙吊りにした行為もどこまでジョークだったのか窺い知れない不気味さを秘めている。
個人的には、辺境の自然児が文明に毒された子どもたちを正論の説教で懲らすという筋書きの臭みを抑えているのは、このシンノスケの聖なる狂気とでも謂うべき無邪気な善意の不気味さだと考えている。
シンノスケの善意は、一歩間違えれば相手を殺してしまうかもしれないという無責任な不気味さを漂わせているから、お説教の臭みが鼻に附かないのであって、その意味では第一話に典型的な最初からお説教狙いのように見えるあざといパフォーマンスよりも、第六話のようなスラップスティックで結果的にギャルが何事かを感得するという筋書きのほうが好みである。
そして、この聖なる狂人のシンノスケが、渋谷を舞台とした擬似学園ドラマにおいて教師の役割を務める以上、普通一般の社会的常識を前提とした教導が描かれるのではないし、高度な社会性の意味合いにおいて頽落からの回復が目論まれるのではない。
いわば、「七歳児並」の常識しか持ち合わせない幼稚園児レベルの人物が、幼稚園児レベルのファンダメンタルな倫理を絶対の確信の下に説くのである。その意味では、渋谷という学園は高校や中学ではないし、小学校ですらない、幼稚園なのである。高度な社会性の文脈において有耶無耶の裡に蔑ろにされているファンダメンタルな徳目が、決して蔑ろにされていい事柄ではないという教導の構造を具えているのである。
いっぱしに大人ぶっているギャルたちの現代的な悩み事や問題性は、一皮剥けば幼稚園で習うようなファンダメンタルな徳目に回帰すれば解決可能なのであるという、一種暢気なポジティブシンキングが根底に据えられているのである。
各々のギャルたちが抱える高度な社会性の文脈における諸問題は、要するに「友だちに死ねと言うな」とか「借りたものは返せ」とか「喰い物を粗末にするな」という、非常に単純かつファンダメンタルな徳目に根を持っているのだという原理である。それをどこか大幅にネジの外れた異人のトリックスターが、名目も義務関係も無視して傍若無人に場を掻き回すことで押し通すという乱暴な構造になっているのである。
そして、たとえば第一〇話において描かれたような高田純次の回心などを視るに、このようにして幼稚園のロジックで成立する場において、彼ら商店主がギャルサーに対峙する場合に、利害が対立する厄介な存在としてではなく、一人の大人として子どもに接する態度が問われる可能性を示唆している。
渋谷という街が学園としての性格を帯びながらも学園ドラマを成立させる要件を決定的に欠く故に、そこで扱われる教導の在り方は「人としてのまっとうさ」というファンダメンタルな性格のものとなるのだし、そこに存在する大人が子どもたちに向き合うべき名分は「大人だから」という最大限にファンダメンタルなものとなるのである。
つまり、学園のアナロジーで視られる渋谷という街を学園として成立させるために、大人と子どもが共存する世界全体の構造を学園のアナロジーで語っているのである。
たしかに、教師でも何でもない商店街の大人たちが、生徒でも何でもない迷惑なギャルたちを教導すべき社会的な名分などは何もない。しかし、教師だの商店主だの生徒だのギャルだのと言う前に、彼らは一人の大人なのであり、ギャルたちは未だ何者でもない追い詰められた寄る辺ない子どもたちなのである。
そんな子どもたちを、自分たちには無縁だから、何をするかわからないから、迷惑だから、汚いから、下品だから、胡乱だから、異質だから、理解不能だからといって、自分たちの居心地の良い場所から力尽くで追い払うのが、一人の大人として正しい態度なのか、それが問われているのである。
このドラマが学園ドラマという重心を持ちながら、その重心への接近のモメンタムと離反のモメンタムのバランスの上に成り立っているのは、大人と子どもの対立構造を着地させ得る関係性とは、事実としての「教師と生徒」という名目上の責任関係しかあり得ないのかという、学園ドラマの自明性を破綻させかねない本然的な問いを期せずして内包しているからである。学園とは大人が子どもに真剣に向かい合う場である、という普遍的な次元にまで学園という場の個別性を解体しているのである。
以前語ったように、このドラマにおいては学園ドラマに必要なすべての要素が揃っており、たとえば佐藤隆太の「おまわり」ですら、昨今の学園ドラマに附き物である「情熱が空回りしている熱血教師」の役どころを振られており、異人である型破り教師と情熱を喪った大人としての既存教師たちを媒介する役どころを忠実に演じていながら、やはりそれはアナロジーに留まるが故に学園ドラマとしての構造を下支えする要素とはなり得ない。
渋谷という街はたしかに学園に似ている。だが、事実においてそれは学園ではあり得ないのだし、渋谷に学園を視て学園ドラマを語る以上、その語りの行為によって大人がいて子どもがいるこの世界はなべて学園としての性格を帯びるのであり、学園ドラマをどこか他人事として視るオレたち全員にとって、事実において教師「ではない」ことが免罪符としての効力を喪うのである。
さらには、事実上の最終イベントとして想定されていたであろう第一〇話の大人対子どもの全面戦争において、学園としての渋谷、教室としての集会場すらもが解体され、子どもたちは学園の外の世界に足を踏み出していく。本来学園に近似しながら決して学園ではあり得ない場において無理無体に学園ドラマを語ってきたこのドラマは、最終局面において学園そのものの構造を破壊し、大人と子どもの和解においてその両者を世界に解放してしまうのである。
ギャルサーの学園ドラマとしての異形性はそこにあるのであり、その意味ではこれまでで最も不出来なエピソードは、実際に学園が登場する第八話ではないかと思う。直前の第七話も一ノ瀬主役のエピソードとして視れば悪くないが、サキの側のストーリーがどうにも中途半端で、学園に居場所をなくしてギャルサーに身を投じたはずのサキが、そのサークルの中でも居場所をなくして再び学園に戻るというのは、帰属意識の再確認の手続として視てもくどいと思う。
このエピソードにおいて、かつて仲間内の寸借を繰り返して信用を失墜したリカが学内随一の万能美少女と後附けされ、リカとの対比においてサキの学内におけるトラブルが描かれるのだが、これは如何にも苦しい後附け展開である。そんな万能美少女の欠点が確信犯的な寸借だったというのも不自然だし、それを「要領の良さ」と意味附けるのは意図的なズラしのテクだとは思うが、サキの成長物語における課題の本質がそれと対比される要領の悪さなのかというのは大いに疑問の残る視点である。
結果的には凡百の学園ドラマにアリガチな圧政教師と「腐ったミカン」であるサキの対立や、優等生であるリカが自身の要領の良さそれ自体を見つめ直す流れ、それと「余命一日なら何がしたいか」というシンノスケの説教、さらに大本の問題であるサキの成長がまったく整合せず、それこそ出来の悪いガチバカドラマになってしまっている。
ただし、それに続く第九、一〇話を視る限り、第七、八話のモタ附きはどうやらここで番組全体の山場の調整が行われたためではないのかという気がする。最初に触れたように、どうもこの番組はあまり余裕のない状況で制作されているような節があって、普通の連ドラのように初回放送前に全話のシナリオが出来ていたとはちょっと思えない。
たとえば「女王の教室」のストーリーラインがどうも第九話辺りから路線変更を蒙ったらしいことと考え併せても、一〇話内外のドラマの制作状況でそんなことがあり得るというのはちょっと本当らしく感じられないが、前半OAの感触次第でクライマックスの流れを決めているのではないかという気がする。
そのために制作スケジュールが圧迫されているのだとすれば随分極端なやり方だとは思うが、「野ブタ。をプロデュース」でも事前に全話が書き下ろされていたならちょっと考えられないような不整合があったことだし、どうもオレの感触では陰で信子にイヤガラセをしていた真犯人は、当初は誰もが予想する通りまり子の予定だったのではないかという気がする。
第五話まで何ら目立った役どころでもなかった蒼井かすみが真犯人というのは全体構想として不自然だし、差し当たりまり子の予定で話を進めておいて、視聴者がまり子真犯人説を鉄板だと考えている様子を視て、第五話でたまたま信子の変化を表現するために友だちにされた蒼井を後附けで犯人に仕立て上げたのだとすれば納得が行く。
結果的にはまり子の位置附けがちょっと弱くなるかもしれないが、主人公三人を終始サポートしてきたまり子が裏切り者であるより、物語の都合でできた友だちの蒼井が裏切るほうが「裏切り」の意味合い自体は軽くなる。周囲の誤解から修二が孤立しても、彼の本心を識らされてもまり子の態度が揺らがないことで、人は裏切るものであるかもしれないが、信じられる人間は信じられるのであるという基本認識が確保される。
ストーリー的には若干不自然だし、初期の修二のモノローグからはもっと陰惨なカタストロフが目論まれていたような印象を受けるが、主要人物の裏切りで山場を作る「いつもの土九のパターン」が飽きられていたからこそ視聴率が低迷したのだし、結果的にはこれで良かったのだと思うが、当初のプランが後半で覆った印象は免れない。
観ていなかった時期のことは識らないが、女王の教室以降の作品を続けて視ると、どうも後半の追い込みの時期になると、意外性を狙って不自然にストーリーが揺らぐ傾向があるような印象がある。これはかつての最盛期の作品でも多かれ少なかれあった傾向だから、ミステリ劇画ドラマで当てた土九の枠の伝統的な制作手法なのかもしれないが、基本的にオレは視聴者の反響を過剰に意識して展開を決定することには否定的な見方をしている。
話をギャルサーに戻すと、第七話の時点におけるストーリー展開と第八話におけるその受け方については、どうにも整合していないような印象を覚えるのだが、これもまた例によって山場を調整するための強引な後附けの故ではないかと思うのである。
つまり、第七話の時点で想定されていたのは、エンゼルハート内におけるサキの成長物語であって、たとえばエンゼルハート6箇条にある「18歳を過ぎたら引退」というのは明確に卒業のアナロジーであるが、先輩たちがサークルを卒業して実社会へ歩を踏み出す以上、後輩が成長してさらに後進を引っ張っていくという世代的連環、その寂寥と引き継がれる魂が描かれねばならない。
おそらくサキのリーダー代理抜擢というイベントはこの流れを想定して設けられたものだと思うのだが、パラパラも思うように上達せず、同輩たちの信望も得られずに苛立つサキは、自棄を起こして集会場を滅茶苦茶に荒らし学園に逃げ戻る。あえてここで集会場を荒らすという描写が置かれているのは、もうサークルには戻れないという事実上の障碍を設ける目的であったはずだ。
かつて学園から逃げ出したサキがサークルからも逃げ出すことで、どん底からエンゼルハートへの帰属意識を再確認する手続が描かれ、逃げずに課題に立ち向かう流れが想定されていたはずなのだが、なぜか続く第八話ではパラパラの上達や同輩の信望という課題要素を何一つクリアしないまま、シンノスケに説教されて仲間たちに詫びを入れるという安直な流れになっている。
プロセスにおいて「やっぱりエンゼルハートが自分の居場所」と再確認すること自体は何ら問題ではないのだが、そこから根性を入れて今までできなかった何事かを成し遂げないとこの種のストーリーは完結しないものであり、その意味では再確認自体がクライマックスに置かれて詫びを入れるだけという流れは腰砕け以外の何物でもない。
さらにレミがサキをリーダー代理に指名したのは、何らかの見どころがあったからではなく、たまたまあみだくじで当たったからだという脱力オチが附くことで、サキの成長物語とサークル内の世代交代の予感、というエピソード構造自体が否定される。
サキが荒らした集会場も、要領の良いリカがこっそり元通りにしておいたということになっていて、「もうサークルにも戻れない」という障碍はアッサリ反古にされ、一ノ瀬の主役エピソードに割り込ませてまで第七話で播かれていた筋立ての種が一つ残らず無効化されており、何のために第七話にサキのサブラインがあったのかまったく理解できない結果になっている。
リアルタイムでこの二話を観たときは、あまりに「てにをは」の狂った作劇に失望したのだが、続く第九、一〇話の流れを視るに、本来七〜九話の三話くらいでサキの成長物語と世代交代の話を描いて、残る二話でイモコ=芋子=サキ子のオチと集会場を巡る最終戦争と和解を描いて〆る予定だった、つまり本来は第一〇話までのストーリーラインで完結する予定だったのではないかというのがオレの裏読みである。
縦書きの「芋」子という漢字がカタカナの「サキ」子に見えるというのはギャル文字から発想したネタなのだろうが、これが偶然の思い附きであるとは考えにくいので、サキがイモコであるというのは当初予定されていた大オチなのだと思うが、ジェロニモがイモコを捜す理由自体は第九話で唐突に詳細が明かされているから、当初はまったく理由附けが為されていなかったのかもしれない。いわば典型的なマクガフィンである。
早川晶子がレミの姉でレミの本名が小野妹子というのはいかにも取って附けたような赤い鰊だし、晶子がイモコ捜しの貼り紙を視て不審な挙動を示すという思わせぶりを含めてそれほど事前に真相を詰めていなかったのではないかと思う。
レミのくだりについては晶子の不審な挙動の理由附けという以外にさしたる必然性はないし、そこから一ノ瀬の恋心に繋げるアイディアは上出来だと思うが、なくて一向にかまわないエピソードではあるだろう。
レミの本名が妹子であるとしてしまうと、その後のドラマの流れにおいてギャルたちがレミをどう呼ぶかということで無用な混乱を来して不都合であるし、実際、第一〇話においては誰一人としてレミの名前を口にしないという凄まじく有耶無耶な解決が図られている(笑)。
その意味において、レミ=妹子というネタは不都合でこそあれ必然ではないのだし、あり得るとすればイモコ捜しの筋立てに決着を附けないと、ギャルたちが何の屈託もなくレミを本名で呼ぶという形でエピソードの結論が活かせない。
それ以前に、レミというキャラクターはあくまで懐の深いカリスマリーダーのままで通してもよかったはずだし、レミ自身の抱える問題を描くか描かないかということにはドラマの語り口として良し悪しの両面がある。
たとえば次期総代表にサキが大抜擢される流れが想定されていたのだとすれば、万事においてレミよりも有能なナギサが総代表の選に漏れた過去が布石となって、これまでのサキの物語を通じて十分レミの来し方を視聴者に連想させることはできるのだし、そのくらいで描写を寸止めすることも一種粋な感覚ではあるだろう。
第八話でサキの成長物語というテーマが中途半端に放棄され、第九話にレミ=妹子というレミ自身の主役エピソードが置かれていることは、番組全体の重点がサークル内の群像ドラマからイモコ捜しやシンノスケの進退という大筋のストーリー展開にシフトしたからではないかとオレは想像する。
第九話のレミの物語は、イモコ捜しの筋立てに起伏を与えたり一ノ瀬のキャラを立てたり相川と晶子のコミカルなロマンスを描く意味でしか機能していないのだし、言ってみればそれは、この番組を学園ドラマとして完結させるよりも、賑やかなキャクタードラマとして弾けさせるほうを優先したということになるだろう。
この番組を異色の学園ドラマと期待していたオレとしては、この展開は些か不本意ではあるのだが、そもそもの最初から出たとこ勝負のヴィヴィッドなバラエティノリを身上としていただけに、それもまたこの番組らしくていいのかもしれない。
それよりもっと残念なことは、この番組の視聴率が女王の教室以来好調だったレベルを劇的に落としているということである。当初一五%を超えて「喰いタン」の平均的なレベルを獲得したこの番組は、第四話以降劇的に数字を落とし、一〇%程度のラインで低迷しているらしい。
それはつまり、今後このような弾けたラインの実験作はリスキーと見なされるということであり、野ブタも喰いタンも同じくらいの数字が稼げるけどギャルサーはダメだったというのなら、やっぱり数字を稼ぐのはコンセプトじゃなくてキャスティングだよねという結論になりかねない。
旬の美少女アイドル大集結のこの番組が数字を稼げないのであれば、やっぱりこの枠の主要視聴層としてはジャニーズを愛好するF1層を意識すべきなのであって、男性視聴者層に幾ら配慮したところで結果は出ないということである。実際、ギャルサーの後番組である「マイ★ボス マイ★ヒーロー」は長瀬智也主演の極道学園物という、どう考えても上がりの雰囲気が事前に予想できる安全パイである。
ジャニーズの既存スターを起用する以上、東山紀之主演作や松岡昌宏主演作のテイストが大体決まっているように長瀬智也主演作も大体テイストが決まっているのだし、コンセプト自体もごくせんの高校生版というあまりにもベタで守旧的なラインである。
このどう考えても予想通りのものしか出来ないコンセプトで、個別作品としての魅力がどこまで出せるのかは未知数だから、一応オレも観るだけは観るつもりだが、あまり期待はしていない。
とまれ、ギャルサーの在り様をどのように解析するかは局サイドの考えることではあるのだし、事実において数字が悪かったのだから、安定した数字を持つ既存スターの主演作を交互に配するのは当たり前の自衛策である。
願わくは、局内にこの番組のシンパがいて、今後もこの異形のラインの灯を絶やさないように努めてくれることを祈るのみである。
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