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2006年6月12日 (月曜日)

鼠小僧に天罰下る

最近「怪獣映画」の良作を立て続けに観たものだから特ヲタの血が騒ぎ、ここのところは過剰に暑苦しく読み疲れるエントリーが続いたという反省もあり、かつ はここ一週間不意に起こったHDDレコーダのトラブルとその対応に追われ、ブログのネタにできるようなタイミングで特撮番組が観られなかったという事情も あり、今回は普通の日記ブログのような時事ネタを当ブログ式にダラダラと書き流してみようと思う(笑)。

そういうわけで、今回は言ってみればヒマネタである。まあ、よっぽど退屈していない限り読む必要はないと思う。小一時間くらい手が空いたが、モニター前を離れるわけにはいかない、というようなタイミングでヒマ潰しに読んでもらうというのがいちばん相応しい扱いだろう。

さて、普通の日記ブログのような、ということで言うなら、少し旬は過ぎたがやっぱり村上ファンドの問題を語るのがそれっぽくていいだろう。ホリエモン亡き後、久しぶりに不愉快な人物の大仰な退場パフォーマンスを見せ附けられて身震いするような嫌悪感を覚えた。

いろいろ言われているが、経済には素人のオレに言えるのは「それって暴力じゃん」ということだ。

現代思想の文脈で言えば、「暴力」とはたとえばただ人を殴ることではない。人を殴る行為を理念上禁ずる社会の中で人を殴ることを暴力と謂う。すべてを武力で決することが常態化している社会の中で武力を行使しても、それを暴力とは呼ばない。

山賊や夜盗が割拠する無政府状態の原始的な社会でもし賊に遭遇しても、誰も「暴力はよしたまい」などと血迷った寝言は言わないだろう。「命ばかりはお助けを」と身ぐるみ差し出すか、足に自信があれば逃げ出すか、腕に覚えがあれば果敢に立ち向かうのみである。そのような猛々しい社会においては、オレたちが話し合いによって決するような事柄を手早く武力で解決するというだけのことで、オレたちが議論自体を暴力と考えないように武力行使自体は暴力ではないのである。

そうではない社会から視た場合にはじめてそのような社会が「暴力的な社会」と規定されるのであって、暴力とは信義則に基づいて直接的武力行使を放棄した社会を前提にして成り立つ概念なのである。だとすれば、暴力とはただ他人を殴る蹴る犯す殺すという具体的行為のみを指す概念ではない。社会が共有する信義則に悖る不公正な闘争手段や攻撃手段一般が暴力と呼ばれるのである。

たとえば組織暴力団がなぜ一般市民にとって脅威となり得るのかといえば、喧嘩が強いからとか恫喝が巧みだからとか組織力が強大だからというのが本質的な理由なのではない。戦闘力や組織力を言うなら、警察や自衛隊のほうが遥かに強大な存在だが、これらの国家的暴力装置は、この現代社会においては基本的に市民生活に対する脅威ではあり得ない。ではなぜ組織暴力団の場合は深刻な脅威であり得るのか。

オレたちが生きるこの社会では、普通一般には直接的な武力行使や恫喝によって物事を解決することが禁じられているにも関わらず、問題解決のためにそれを躊躇なく行使しそれに特化した存在だから組織暴力団は市民社会の脅威なのである。

オレたちの社会的行動を規制する最も直接的なルールとして法律があるわけだが、普通は二者間の利害の衝突を武力によって解決すれば、それは刑事上の犯罪に当たるので誰が訴えなくても原則的には両者共に法律によって取り締まられる。

どちらかがどちらかに対して不当な行為をしたからではなく、放棄されている建前の武力によって問題解決を図ったことそれ自体が社会的秩序に対する罪となるのである。それゆえ原則として両者共に逮捕され傷害なり殺人なりで裁かれてしまうし、それは前科となって社会生活上の無視できない障碍となる。

一般市民にとってそれはとても不名誉なことであり不都合なことであるから、マトモな社会人なら、赤の他人を無闇矢鱈と殴ったりはしない。しかし、組織暴力団の構成員にとっては一般市民ほどそれが不名誉だったり不都合だったりはしないのであり、そこにやくざという存在の強みがある。

勿論、あえて身柄を拘束されて臭い飯を喰いたいと望む人間はいないから、やくざと雖も法の取締を受けるのは不都合ではあるのだが、それが武力の行使を押し留める最終的な抑止力にはならないし、必要とあれば一般市民のような逡巡や葛藤抜きで直ちに武力を行使する。そのように見せかけることで、あるいはそれが事実であることを見せ附けることで、シノギとしての日常的な恫喝を成立させるのである。

つまり、組織暴力団はオレたち一般市民が護っている武力行使の放棄という信義則の埒外に在る武力行使を常態とするロジックに基づく存在だから怖いのであり、その存在自体が暴力的なのである。オレたちは何の疑問もなく法律を護り何の疑問もなく「暴力はよせ」と口にするが、やくざはそれらの自明な前提の共有を拒絶する反社会的な存在であり、そのような相手とイーブンの交渉が成立するはずがない。

たとえばこれはやくざの話ではないが、「ゆきゆきて、神軍」で奥崎謙三が「外に刑事がおるから呼んできてもいいが、それでもオレはあんたを殴る」と言い放つとき、法治国家のロジックでは彼が暴力を揮うことを事前に抑止することはできない。

たとえ彼が他人に暴力を揮ったことで警察に捕まったとしても、殴られたことの痛みや屈辱や恐怖が消えるわけではない。武力放棄という信義則の埒外にある存在は、だから怖いのだ。法による処罰が相手の不利益にならないとしたら、対等の立場で立ち向かうことなど弱い一般市民には困難である。

その一方、今時のやくざは昔よりも狡猾で法網の抜け穴を知悉しているので、直接取締を受けるような違法行為を無闇に犯したりはしない。相成るべくは直接的な違法行為に及ばずに事を収めようとするのだが、常に可能性としての違法行為の行使をチラ附かせるし、面子や体面を潰された場合は、違法行為をあえて犯したりそのために命をも張る存在であることをむしろ積極的にアピールする。

いわば組織暴力団とは、法律の埒外にある存在であることを形代にしてその埒内にある一般市民を脅かす存在であり、信義則を遵守する社会に対してそれを本質において拒絶することで自己の要求を通す存在である。その意味では一種のテロリズムなのだ。

違法行為はその本質をプレゼンテーションするための手段にすぎないのであって、違法行為それ自体が利益追求手段の本質なのではない。窃盗や通貨偽造など特定犯罪を目的として徒党を組む目的集団である犯罪組織とは微妙にズレているのである。一々日常的な利益手段として法的な意味における違法行為を犯していては、片っ端から取り締まりを受け、あっという間に潰滅してしまうではないか(笑)。

そこで登場するのが法律というルールの裏を掻く行為、つまり脱法的手法である。法律というものが、その志向する理念の実体として完璧なものではあり得ない以上、法律の志向する理念に進んで随おうとせず信義則を拒絶するなら、いくらでもその抜け道は思い附くものである。だからこそ、組織暴力団そのものを法的に定義し丸ごと違法化する以外に有効な法的取締の根拠がなかったのである。

言いたいことが何となくわかってきたと思うが、ズバリ言ってしまえば脱法的であるということは暴力的であるということである。市民一般が共有する信義則を受け容れずグレイゾーンで巧く立ち回ろうとする姿勢自体が暴力的かつ反社会的なのである。

普通の一般市民は法律の要件に論理的な穴があってもあえてその盲点を衝こうとはしないが、脱法的行為に忌避感を感じない人間は、他者が信義則を遵守する前提でその信義を悪用して裏を掻こうする故に暴力的な存在なのである。「騙されるほうが悪い」というロジックを平気で口にする人間は本質的に暴力的な人間なのである。

たとえば村上世彰容疑者は屡々「ルールは遵守している」と主張しているが、それは一面ではルールを巧く利用して彼ほどルールに通暁していない人間を出し抜いているという意味でもある。つまり、人々のルールに対する信頼を逆用して違法スレスレで狡いことをするということである。

たとえば敵対的買収を掛ける場合に、機関投資家に大量保有報告書提出の特例措置が設けられていることやTOBのルールのグレイゾーンを利用して市場内外の取引を巧みに組み合わせる手法により、相手に気附かれないように大量の株式を取得する手法がそれに当たるだろう。

この場合、たとえば報告書の提出というのは形式上の手続にすぎないのであって、法律が遵守を期待しているのは、ある実態的な状況における公正な報告それ自体である。しかし、法の規定する報告要件を検討して公正な報告を回避し得る手法を駆使すれば、さすがにそこまで胡麻化そうとはしないだろう、必ず報告するだろうという信頼を逆手にとって、安心しきっている対象企業の虚を衝いて奇襲を掛けることができる。

だが、これが本当に「ルールを護っている」ことになるのかということについては、健全な倫理観の持ち主なら抵抗を感じて然るべきだろう。村上容疑者自ら「ビジネスの憲法」と表現する証取法が命じているのは「公正に取引せよ」ということであって、法律の条項はそのための実現手段でしかない。社会的なルールというのは、その遵守を通じて社会感情としての公正さを満足させるためのツールであり、教条的に墨守していればそれでいいというものではない。

その意味においては、実態において大量に株式を保有していながら法網の抜け穴を掻い潜って開示義務を怠るのは明確に不公正な行為であり、法の精神に悖る行いである。個別の法律に曖昧なグレイゾーンや特例があるのであれば、あくまで法の精神に照らしてそれを公正に解釈するのが健全な社会性なのであり、自己に有利なように拡大解釈し抜け道として利用するのは、明らかに法の精神など意に介していないということであり、不健全な反社会性である。

不公正だろうが反社会的だろうが法律に違反していないから構わない、法律に決められている以外のことは全部オレの自由だというのは、組織暴力団と同列のロジックと誹られても仕方あるまい。

ルールというものには原理的に必ず抜け穴や粗漏がある。言葉が有限の意味性しか持ち得ない以上、あらゆる事態を事前に完璧に想定して前もって法の精神に悖る行為を抑止し得る条件附けを施すことなど原理的に不可能である。ましてや、積極的にその矛盾を衝こうと意図する悪意的な人間にかかったら、無数の抜け道が考えられるだろう。

それ故に、ルールというのはたとえば村上容疑者のようにそれを裏の裏まで知悉する人間にとっては、勝負事の上で最大の味方となり得るのだ。そして、たとえばスポーツやゲームなら、ルールの裏を掻いて穢ない手段で勝つことも肯定され得るだろうし、その場合には他人よりもルールを知悉することが強みとなる。

だが、これが社会的に実効性を持つ信義則ということになると話は果然違ってくるだろう。これはスポーツやゲームと同列に語れる問題ではないのである。だから、村上世彰容疑者や堀江貴文容疑者のビジネス思想が間違っているとすれば、スポーツやゲームのルールと社会的なそれを同列に考えていることだろう。

これは実際のプレイヤーの感情としては違和感を伴う意見だろうが、スポーツやゲームというのは、基本的に暴力闘争を定式化したものなのである。サッカーが国の威信を賭けた代理戦争だと謂うのは巷間謂われることであるが、元々スポーツというのはすべて暴力闘争を模したものだし、ゲームとはすべて闘争行為を抽象化したものである。格闘技や軍棋のみがそうなのではない、すべてのスポーツとゲームが暴力闘争を遊戯化したまねびなのである。

たとえば暴力闘争と謂うイメージからはかなり遠いゴルフやカードゲームにしたところで、知略や駆け引きで他人を欺き打ち負かし勝ちを競うと謂う意味ではやはり暴力闘争の性格からは逃れられないのである。

何故なら、暴力放棄の建前で言うなら、複数の個人の利害は客観的な公正さに基づいて妥当に調整されるべきであって、一方のみに偏って有利な「勝ち」「負け」を争う闘争は原理的に成立し得ないからである。勝利と敗北というのは闘争という概念においてのみ成立する概念であり、その意味ですべての勝負事は程度の差こそあれひとしなみに暴力的なのであり、遊戯化を媒介とする秩序による暴力の囲い込みなのである。

この種の勝負事にルールが決まっているのは、一般社会がルールによって律されているのとはまったく意味合いが違う。勝負事におけるルールとは、個別の勝負事の構造を成立させるための条件附けや勝敗を決するための定義附けにすぎないのであって、不公正を排するために決められているのではない。むしろ命の遣り取りや感情的な確執というリスクを犯さずに遊戯として安全に暴力闘争を楽しむために、勝負の構造を定式化したものがスポーツやゲームなのである。

だからスポーツやゲームにおいては、本質的にルールの裏を掻き相手を欺く行為は否定され得ないのである。明確にルールに違反しないのであれば何をしてもいい、その埒内で裏の裏を掻いて勝ちを競ったほうがおもしろい、所詮殺し合いではないのだから、所詮「真似事」なのだから、所詮「遊戯」にすぎないのだから。

それがすべての勝負事の本質である。社会秩序の埒内における暴力闘争は、遊戯の形式を籍りることで辛うじて存在を許容されるのだし、それが所詮は遊戯であることを構造的に保証するのがルールの存在なのである。生きるか死ぬかを回避して暴力闘争の勝敗を決するためのシステムが遊戯であり、それを成立させるのがルールの存在であるということ、これは博く動物全般に視られる社会性の本質である。

相手を欺き、盲点を衝く行為はむしろ勝ちを得るためのスキルとして称揚されさえするのであり、それはこの種の勝負事の本質が信義も糞もない原始的な欲動に基づく暴力闘争だからである。フェアプレーが建前上堅持されるのは、そのほうが遊戯として「おもしろい」からであって、反則行為が絶対的な悪だからではない。

さらに言えば、スポーツやゲームにおけるルールは教条的に墨守すればそれでいいのであり、それ以上でも以下でもない単なる構成要件としての決め事である。ルールの志向する理念も何も存在しない、ただの制約条件である。その限りにおいては、ルール違反は悪でさえない単なる失点要素であり、ルールの定めるところに則って減点を課されるというだけの話で、ルールの埒内で全体的に優勢を占めて勝てばそれでチャラになるだけのことである。

ゲーム全体の帰趨を左右しない範疇なら、小さな反則を巧く活用することすら勝負の駆け引きとして許容されるのである。遊戯は「おもしろい」ことが至上命題であって、遊びの上での不公正な行為はそれほど深い意味を持たないからである。本来命の遣り取りであるべき暴力闘争を定式化し「冗談事」に囲い込むのが遊戯である以上、ルールという最小限の制約条件しか競技者を律するパラダイムは存在しないのである。

スポーツやゲームが本質的に持つこのような暴力的な性格から脱却するには、他者との全知全能を賭けた闘争という性格からパラダイムシフトして、勝敗という目的を一旦捨象し、自他が楽しむこと、自己を高めること、他者との交流を心懸けること、そのような遊戯としての社会的効用を見つめ直すしかないのであり、誤解のないように言い添えるなら、現代的な意味におけるスポーツやゲームにはこのような娯楽や自己研鑽、社交上の意味における美点や長所がたくさんある。

だが、これらの勝負事のルールが社会生活における決め事と意味合いがまったく異なることだけは間違いないだろう。それは、社会生活とは決して「遊戯」ではあり得ないからである。まさしく、人の生きる巷は遊びや冗談事ではないのである。

社会とは闘争を前提とした遊戯の場ではなく、共存共栄を目指す相互信頼的な存続の仕組みであり、法律や個別共同体におけるローカルルールは、社会生活を健全に営む上での公正性を理念的に規定し実現するための規範であり信義則なのである。であるとすれば「法律に違反しなければ何をしてもいい」「脱法行為は即ち適法」という考え方自体が信義則の遵守を拒絶する姿勢であり健全な社会性から踏み外しているのである。

たしかに社会生活の特定局面には勝負事の側面もあり、勝ちも負けもあるだろう。しかし、暴力闘争を遊戯化したまねびであるスポーツやゲームのように、相手を欺き盲点を衝く行為だけは絶対的に肯定され得ないのである。

それは人の生が決して遊びではないからであり、不公正な行為は冗談事の留保抜きで卑劣な行為としての重い意味を持ち、恩讐と遺恨を生むからである。そのような不公正を放置すれば、いずれ人と人との間には「冗談事」「遊戯」ではない憎しみの暴力闘争が蔓延風靡し、社会という枠組みの存在自体を脅かすからである。そして、そのような不公正な行為を抑止するために存在するのが法律というルールなのであり、社会におけるルール違反は単なる失点要素ではなく憎むべき社会「悪」なのである。

社会というのは基本的に成員相互の平等な存続を保証するための枠組みであり、少数者がその他大勢のマジョリティを蹴落とし打ち負かして勝者となることが一方的に称賛されるのではなく、すべての成員が能力や肉体性、社会性のハンディを克服して共に栄えることを目指すと謂う建前に基づいて成立している。

そして、そのような社会を実現するための公正性を担保する仕組みが法律であり、法律が遵守を期待しているのは、個別の条項が規定する具体的禁止行為の回避ではなく、法律が志向する公正性の理念の実行なのである。

脱法的な行為というのは、法律がその理念を実現するに当たって原理的に避け得ない不備に附け込む「悪」であり、社会的に肯定され得ない卑劣な行為である。その意味では法網の抜け穴を掻い潜ったりルールの矛盾点を利用して他者を欺く行為を、個別の法律条項に抵触していないからといって「法律を遵守している」とは言わない。

おそらく村上容疑者や堀江容疑者は、他人がこのような法律の抜け穴を積極的に活用しないのは、自分たち以外の愚民にそうするだけの智慧がないから、要するに莫迦だからだと思っているのだろう。しかしそれは、たしかにルールの裏を掻くだけの知識がないという理由もあるだろうが、より本質的には、法律が志向する理念を漠然と感得してそれを遵守しようとする人間のほうが圧倒的に多いからである。

これを「従順な愚民」「怠惰な弱者」と侮るのは勝手だが、基本的に社会はそのような公正さを基準に機能しているものであり、強者と驕る人間にとって一方的に都合が良い弱肉強食の巷であってはならないと多くの人間が考えているのである。

このようなマジョリティによって構成されているものである以上、傲慢な少数の人間が大多数の人間を支配し利用してもいいと考えるのは間違っているし、いずれしっぺ返しを喰らうのは当たり前である。ましてや堀江容疑者のように、そんな傲慢で自己賛美的な哲学を「愚民」に向けて得意顔で吹聴するのは莫迦のやることである。

社会生活というのは、社会のすべての成員が法律の理念を積極的に受け容れて公正に生きることを大前提としている。ただ単に個別の法律条項の禁止行為に抵触していないというだけで「法律を遵守している」などと嘯くのは、社会の成員として未熟な愚か者でしかない。

社会はその成員に対して本質的に「公正に生きよ」と期待しているのであって、特定の不公正な行為を実効的に禁じる手段が現時点においてないからといって、胸を張ってそれをしてもいいというものではないのである。

村上容疑者は逮捕直前の会見で「ルールを知悉していて然るべきプロがルールを踏み外したこと」を謝罪していたが、これは完全に単なるマネーゲームの敗将の弁である。要するに、証券取引の場では、遊戯と同様にルールに違反しない限りはどんな卑劣な行為も許されると考えているのだし、ルールに違反したことだけがまずかった、不注意だったと言っているのである。

インタビューでは今回の容疑を一方通行の逆走に喩えていたが、これは醜いイメージ操作の詭弁である。道路交通上の安全を確保するための法律と、社会悪としての不公正な市場取引を規制する法律では「不注意」の意味がまるで違う。

不注意で標識を見落として一方通行を逆走した場合に生じるのは道路交通上の危険であり、その危険に対する責任を問われるだけだが、意図的に脱法行為を繰り返す人物の行動が法的な意味においてインサイダー取引を構成するのであれば、不注意であろうがなかろうがそれは立派な社会悪であり、言葉通りの意味での経済犯罪である。

脱法行為に留めるつもりが、不注意からしくじって違法行為になっちゃったと、この人物は弁明しているのである。取締を受けない範囲で狡いことをする予定だったのに、ついうっかり違法な狡いことになっちゃったと弁解しているのである。これのどこが一方通行逆走のアナロジーを構成するというのか。

もっと適切な喩えで謂えば、ホントか嘘かは識らないが駐車禁止の取締を避けるには車内に飲み物を立てておけばいいという一種の都市伝説がある。移動に伴って飲み物を零して車内を汚したら警察側が損害賠償を要求されるから、というのがその理屈だが、たとえばこれが本当だとして、村上容疑者の弁明は「ついうっかり飲み物を立てるのを忘れてレッカー移動されちゃっただけなんです」と言い訳しているようなものだろう。

つまり、弁明の階層が絶対的に混乱しているのである。法律に抵触しなければインサイダー取引と同列の卑劣な行為はいくらでもするが、法的取締を逃れるために巧く立ち回らなかったのが失敗だったと弁解しているのである。これは完全に遊戯の論理であってマトモな社会人の物の考え方ではない。

このような考え方の人物だから、明白なルール違反を指摘されて簡単にシャッポを脱いで謝ったのだろう。つまり、ルールに違反しない限りその行為は許されていると考えているのであって、社会生活やそのルールをゲームの延長上で考えているのである。

今回の逮捕は不注意故のルール違反を理由にした失点にすぎないのであり、法律が禁ずる経済犯罪であるという認識がないか、そのように見せかけているのである。経済犯罪という社会悪を犯したことを申し訳ないと言っているのではなく、うっかり審判に見附かる反則をしてごめんなさいと言っているのである。

たとえば星野仙一SDが「天罰が下る」と謂う言い方をしたのは、このような村上容疑者の物の考え方に社会的な理念としての公正さの感覚が欠けているからだろう。それがこの古風で精神主義的な野球人にはたまらなく不潔に映ったのだろうと想像する。

ルールに違反しなければどんな穢ない行為も是認されるという不公正な考え方がいずれ天に罰されるであろうというのは、要するに社会的な公正性に対する信頼である。天と謂うのは煎じ詰めれば理念的な意味における社会正義であり人の善良性である。つまり星野SDは、不義な人物は社会正義によっていずれ罰されるだろうと予言しているのであり、人の巷にはそのような善良な公正性が活きていると断じているのである。

それを「青少年を教育する立場の者が天罰下れなんて言葉を使っちゃいかん、そりゃおかしい」などと、どの口が言うのだろうと嗤ってしまう。普通の感覚で視た場合、村上容疑者のロジックはまったく理解できないし、星野SDの批判とまったく会話が咬合していないが、これはやはり村上容疑者の道義的リテラシーのほうに問題があると視るべきだろう。

話はまったく逆であって、青少年を教導する立場の人間だからこそ、そのような言い方をするのである。明確に法律に規定されていなくても、天の目がある以上自ら進んで積極的に公正に努めねば罰を受けるというのは、窮めて健全な社会感覚である。その観点においては、人の築いた法の垣根の目が粗いことを侮ってそれを破ろうと目論む人物はいずれ天の法によって搦め捕られるのである。そしてこれは、人の世の真実を寓意する「喩え話」なのであって、断じて嗤うべき「迷信」ではない。

要するに星野SDはある意味「天罰」という言葉を真に受けて遣っているのだし「天網恢々」を信じているのだが、村上容疑者は他人が天罰などという迷信を真に受けているなどとは思いも寄らないということだろう。「あんな憎い奴は死んでしまえ」という程度の意味にとって「教育に当たる者が野蛮なことを言うな」と言っているのだ。

村上容疑者がこの言葉の含意に気附かず、下品な「呪詛」や「悪罵」と受け取ったのは、やはり公正性という観点が決定的に欠如しているからだろうと思う。

このすれ違いは、やはり嗤うべきだろう。図らずも村上容疑者は、つまんない買い言葉で自身に公徳心や社会正義の感覚が一切ないことを暴露しているのである。不義なる者の必罰を信じないというニヒリズムは、社会に不義をのさばらせないために自ら進んで公正に努める姿勢とは絶対的に無縁である。この場合、村上容疑者が反論するなら星野SDの批判に即応した文脈で自身の清廉を主張すべきだったのである。

天罰を一笑に附す考え方とは、つまり誰も視ていないところでどれほど悪いことが行われてもそれが酬いを受けるとは信じないということである。人目のないところで行われる密やかな悪の存在を決して許さないという感覚の欠如である。そのような考え方の人物が、人目のないところでどんなことをしているか知れたものではないと大勢の人が不審を感じるとしても、このような状況においては仕方のないことである。

また村上容疑者は「金もうけのどこが悪いんですか」「ルールの中でお金をもうけて何が悪いんですか」「世間が僕を嫌うのは金をもうけすぎたからです」と逆ギレ気味に吠えているが、金もうけが悪いなどとは誰も思っていないし、金をもうけすぎた人物に対する感情的なやっかみだけが動機で社会的な批判を受けていると考えるのは、このような知的な人物にしてはあまりにも愚昧な浅慮である。

阪神株買収の一件や今回の不正の暴露で一転して社会の論調が批判に転じたのは、これまで自身の金もうけの動機を前面に出さずに理念的な綺麗事をアピールしてきた人間がその実まったくそのような理念に関心がなかった欺瞞性を嗅ぎ取ったからである。

これまでの村上ファンドの闘争的かつ恫喝的なビジネス手法にも毀誉褒貶が半ばするところはあったが、エスタブリッシュメントに一方的に有利な旧態然とした経済システムの改革と揺さぶりを旗印に掲げていたからこそ、荒っぽい攻撃的な手法をも改革の為の過渡的な暴力として肯定的に視る論者もあったというだけのことである。

しかし、結局これまでのビジネスで「もの言う株主」として強硬な主張を突き附けてきたのは、自社が取得した株式を高値で売り抜けるマネーゲームのブラッフであり恫喝のネタにすぎないことが露呈した以上、そのような理念なき金もうけが動機で企業を食い荒らす収奪的な敵対買収を繰り返す存在を社会が許容すべき理由は何もない。

改革の綺麗事は、エスタブリッシュメントに替わって新参者の自分がもうけるための方便にすぎなかったとわかってみれば、そんな強引な金もうけの手法自体を誰も支持するものではない。そこで「金もうけのどこが悪い」と開き直るのは、あまりにも物事の本質が見えていない鈍感だろう。

それはこれまでも、村上容疑者は自分が金もうけに励んでいることを隠さなかったと言えば言えるだろうが、俗っぽく言えば、それは月光仮面が一〇%の成功報酬を取るようなものだと見なされていたわけで、公益性の高い理念を伴ったビジネスだと信じられていたからこそ多くの人に受け容れられる姿勢だったのだ。「もの言う株主」としての理念的な姿勢を多くの人が真に受けていたからこそ、結果的に金をもうけていても誰も文句を言わなかったのだ。

だが、事ここに至って過去の実績を検討する場合、理念の実現という意味では何ら成果がなく最終的には専ら金で片を附けているわけだから、いくら「愚昧な大衆」でもその大層な理念に欺瞞性を感じるのは当たり前である。「ものを言う」のは単に高値で株式を買い戻させるための恫喝であったとすれば、その金もうけは穢なく見える。

それは、金もうけはどこも悪くないさ。だが、他人を騙したり弱みに附け込んで金をもうけるのは明白に穢ない行為である。金もうけ自体が悪い、穢ないなどとは誰も言っていないが、穢ない手段で金をもうけるのが悪いと言っているだけの話である。

それはつまり、穢なかろうが何だろうが法律に違反してさえいなければオレの自由、という考え方に社会がノーと言っているのであり、村上容疑者のこれまでの金もうけのやり方が穢なかったのではないかと多くの人々が道義上の不快感を感じているということである。

一般的な意味での金もうけと彼個人の金もうけの手法を同列で語るのは詭弁だろう。資本主義のモチベーションを構成する利益追求行為が不当に蔑まれているという一般則を隠れ蓑に、批判されているのが彼個人の金もうけ手法の異常性と反倫理性だということを糊塗しているのである。

このような情勢において、自分は株屋なんだから株を売ってもうけて何が悪いんだと開き直るのは話の通じない莫迦のやることだし、たとえば誰にも識られないように大量に株式を取得してから対象企業に強硬な要求を突き附けて脅し、高値で株を買い戻させる手法が、どこも法律に違反していないのだから穢なくないなどと当事者が主張するのも筋違いな話である。それが穢ないか穢なくないかを決めるのは当事者ではなく、それを見守る一般社会の倫理感覚なのである。

法律が意味しているのは、企業買収を仕掛けるなら、対象企業がそれを察知して自由意志に基づく適切な対応をとれるように公明正大にやりなさいということである。条項に違反していなければこっそり大量に株式を取得してもいいということではなく、こっそり大量に株式を取得する行為はアンフェアだから一切やるなということである。

それを禁止する手段が完璧ではないからといって、その不完全さに附け込んで法理念に逆らったことをしてもいい、個人の権利だなどと嘯くのはおよそ社会の容れるところではない自己中心的な法律解釈である。

今まで誰もそのような行為をやらなかったのは、その抜け穴に気附かなかったからではなく、法律というものが本来そのように理念的なレベルで遵守することが期待されるものだからである。

これを「みんな莫迦だなぁ、こうすればこっそり大量に株式を取得できるのに」と考えるのは、そう考えるほうが莫迦なのである。法律の個別条項に違反してはいないかもしれないが、法律が志向する理念には真っ向から対立しているのだし、それを違法ではないから咎め立てされる謂われはないと嘯くのはただの反社会的な不見識である。

さらに、相手にわからないように弱みを握ってそれをネタに到底相手が聞き入れられないと見越した要求を突き附け、それを勘弁する見返りにネタを買い取らせるという行為は、法律的な意味ではないが実態的には恐喝である。法律に抵触しないやり方で行われたというだけで、本質的に恐喝と同原理の金もうけであることには変わりがない。

村上容疑者が自身の経営改善案を受け容れて体質改善が成功した実例のないことを一切悔やむでもなく、対象企業が改善案を撥ね附ける見返りとして高値で株を買い戻すことで得た利益を「金もうけのどこが悪いんだ」と無前提で肯定している以上、表向き掲げている理念を実現することには何らプライオリティがなかったということであり、それが彼のディスクライブするビジネス手法の本来的な常態だということである。

要するに暴力団が法律に抵触しないような狡猾な手段で一般市民を恐喝する行為とどこにも差異がないのだし、それを健全な市場取引とは呼べないだろう。村上ファンドに入る差益には何ら経済的実体がないのであり、村上ファンドの出資によって対象企業は何らメリットを蒙らないどころか無意味に資産を掠め取られただけである。

そこで得られた利益はつまり、対象企業が他人に握られた弱みを内済にするための謝り賃であり、どのような意味でも利益の分配ではあり得ない。村上ファンドに狙われた企業が「株価の割に含み資産が大きい」というのは、企業の発展性の尺度ではなく謝り賃の出所が確保されているというだけのことである。

普通の株式市場の原理は、株主が資本を提供することで企業がそれを元手に事業を展開して利益を生み、その利益を分配することで成立しているのだから、基本的に想定されているのは相互信頼に基づくウィン=ウィンの関係性である。またその投資に基づいて企業が健全に成長して株価が上昇したら、それを売却してキャピタルゲインを得ることもまた、投資に見合う公正な分配益である。

だが村上式のビジネスでは、株式を大量取得することで支配権を握り、それを根拠にして企業に眠っている含み資産をキャピタルゲインという形で吐き出させるというシステムになっていて、要するに対象企業にとっては短期間で無意味に潜在資産が社外に流出したという以上の経済的意味がない。これが株取引の原理に照らしてまったく建設的な意味を持たないことは素人にだってわかる。これを村上容疑者は法律的に違法ではないからという理由でマトモな商売であると主張しているわけである。

たしかにそんな資産を死蔵して誰にも利益を分配しない企業側も不当だが、敵対的買収によって何ら企業が実質的なメリットを受けていないのに、それを名目的な口実にして資産を恫喝的に掠め取る行為には利益分配としての実態的な正当性の根拠がない。このような悪意的ななかりそめの大株主様にはステークホルダーとしての資格がない。

村上ファンドが突き附ける経営改善案が本気で出されたものかどうかなどこの際関係ないだろう。やくざの場合だって「エンコを詰めて落とし前を附けろ」という言い分が本気でないなどとは誰にも言えないはずだし、いざとなれば本当に指を詰めさせられるだろうというのは誰でもわかる。

そうしたからと言って、やくざのほうはそれはそれで面子が立つのでどこも困らないからである。だがそれでは犯罪になる可能性があるしそもそも一銭も取れないから、なるべく金を出させて内済にする方向で交渉を誘導するのである。本気でエンコ詰めを迫ったが相手の都合を酌んで金で内済にしたのだから恐喝ではない、などという莫迦な理屈は聞いたこともない。

法で取り締まれるかどうかは別として、それは紛れもなく実態において恐喝である。だから、それが違法行為であるかないかと恐喝の原理に基づく金もうけであるかないかというのは別の話なのだし、恐喝の原理というのは違法であろうがなかろうが明白に社会的に忌避される穢ない金もうけの手段なのである。

李下に冠を正すなら、あくまで経営改善案を断行すべきなのであって、金で片を附けることと天秤に掛けて貫徹するつもりのない要求を突き附けること自体、その意図を疑われても仕方ない。

「この改善案を呑んでいたらこれくらい株価が上がっていたはずなのだからそれを補償しろ、この価額で買い取れ」と迫るのは、ビジネスリスクを度外視した都合の好い算盤勘定で、まさに捕らぬ狸の何とやらの空論である。それを断行して失敗したら、責任を取るのは言い出しっぺの落下傘部隊ではなく逃げも隠れもできない原経営陣である。

経営参加のリスクを負う腹などさらにない強面の哥ぃさんが尤もらしい反古紙をノーリスクで売り附けているだけで、そういえば建築現場にどこからともなく「近所の人」が現れて見た目ではとてもそうは見えない高級な軍足を使い切れないくらい大量に売りに来ることなんかを想い出しちゃうのである。

結果的に不自然なまでの高い価額で持ち株を引き取らせたら、十人中十人がそれを最初からの目的と考えるだろう。大きな仕掛けの全例においてそのような決着をみているのであれば、十人中十一人がそう考えることだろう。金で片を附けることに関して毎度毎度「株屋だから有利な株取引には応ずる」という理屈を繰り返すならば、多くの人が株屋が本気で経営改善なんか考えるとは信じなくなるだろう。

実際、村上ファンドは短期集中的な株式保有者であり配当ではなく短期的な株の売却益でもうけを得るのだから、利益体質向上や配当の増額というお題目は自社以外の泡沫株主をダシにした口実でしかない。しかし今になってみれば、誰がそんな一度も恒常的に実現したことがない空しいお題目を信じるだろうか。

物凄く簡単に謂えば、村上容疑者は社会の信用を喪ったという、それだけなのだ。喪われた信用を饒舌な詭弁や打算的な身ぶり、人格的迫力で挽回しようとしているから、村上容疑者の弁明は醜悪なまでに狡猾そうに見えるのである。信用回復が適わないとみてとると、社会的なコンセンサスの得られない牽強付会の手前味噌なロジックと居丈高な断定で自己肯定を強行に主張するから不愉快なほど厚顔無恥に見えるのである。

多くの人がそれを穢ないと認識している行為を、その行為によって利益を得る当事者が穢なくないと主張して何の意味があるのか。それは要するに、この個人には社会通念上忌避される信義則の裏切りであってもそれを穢ないと感じる感覚がない、だからこそ法律で禁止されない限りいくらでも卑劣な行為をやらかす人間であるとひけらかしているようなものである。

「ルールの中で金もうけすることの何が悪い」

ああ、何と醜く愚かな開き直りなのだろう。彼は自身が自負する通り証取法のプロ中のプロである。証取法の個別条項がどのような根拠に基づいて規定されているのか、本質的には何を求めているのか、そこで想定されているフェアネスとはどのようなものなのかくらい、掌を指す如くに知悉しているはずなのである。

本質的に法律の精神は「狡いことをして他人を騙すな、フェアにやれ」「公正な投資を通じて社会経済に貢献せよ」と命じているにも関わらず、彼は法律の条項さえ遵守していればそれは狡くないのだし彼個人の独り勝ちの金もうけも当然の権利なのだと、自己言及の持ち合い論理を強弁しているのである。

彼が言っているのは、オレは金もうけに綺麗も穢ないもないと考えているのだし、それでオレだけしか得しなくても構わない、それを法律で取り締まれないなら他人にとやかく言われる筋合いはない、個人の自由の範疇だということだろう。勿論、彼個人がそう考えるのは、法律に抵触しない限り彼の自由である。

しかしその一方で、こんな人物の穢ない商売で利益を得ているということに気が差したり社会的な不利を感じたり将来性を見限った出資者が資本を引き揚げるのだって個人の自由なのだ。社会正義というのはそういう生々しい実態的なダイナミズムにおいて実現される理念なのであり、要するにそれが天罰なのである。天罰というのはナイーブな迷信ではなく、人の利害や社会感情の綜合として生起する生々しい力なのである。

強制されねば狡いことを止めない人間は、いつか強制的に狡いことを止めさせられるのである。それでもあえて狡いことをやり通す、強い者が勝つのが正しいと主張したいのならば、その社会的強制を撥ね除けるだけの悪魔的な力を持つべきだが、村上容疑者も堀江貴文容疑者も凡庸な社会的制裁を撥ね除けられるだけの力を持つ不世出の傑物ではなかった、公正を望む凡人の社会圧力のほうが強かったというそれだけのことだ。

強者の論理を傲慢に嘯く連中が、頃合いを見計らってたった一回検察がガサを入れたら拍子抜けするくらい呆気なく斃れてしまった、ホントはあなたや私とそんなに変わらないポッと出の弱者にすぎなかったという、それだけの格好悪い幻滅譚である。このお話にどんな悲愴な英雄性をも視るべきではない。それは笑い話の失敗談なのである。

そんな惨めな情勢において「しくじったのは認めるがオレは間違っていない」「ホントはおまえらだって、オレみたいにもうけたかったんだろう」などと負け犬の遠吠えを最後っ屁のようにかますのは、如何にも人物としての器量の程度や不見識を露呈する見苦しい引き際であるとオレは思う。

もうね、二時間サスペンスで片平なぎさに「あなたは間違ってる」とキメの説教を喰らう真犯人の演説かとすら思いましたよ(笑)。

健全な投資ファンドの社会的使命とは、企業に対して成長のための資金を提供し、市場に対して実効の伴う活力を与え、経済活動を振興することなのではないのか。右から左に金を動かすだけとはいえ、それを通じて社会的に有益な公共財を作り出すことはいくらでもできるのである。

たとえば近年活発化しているCSRファンドのように、投資を通じて企業に対する理念的な面からの指導的役割を果たすことも可能なのだし、金融分野の企業と雖も社会に領域を占める存在である以上、社会的な存在理由を示さずして私的な利潤追求に走り、それを当然の権利と嘯く企業に存続発展の未来などはない。

村上ファンドが金もうけに励んだこと自体は何ら責められるべきではないが、それは要するに焼き畑農業であり、懐の温かい企業を狙い撃ちして既存の財を独り勝ちで収奪する鼠小僧気取りである。対象企業の怠慢や資産の死蔵を批判する村上流のロジックが自身のビジネスを正当化する根拠なら、阿漕な豪商を懲らすために穢財を掠めて何が悪いかと嘯く世直しの独善そのものだ。

たしかに阿漕で怠慢な商売は是正されるべきだろうし、企業利益は公正に分配を受けるべきだろうが、その資産が実態的な正当性を伴わない相手に掠め取られていいという理屈には決してならない。企業利益が妥当に分配されるべきだというのなら、その優先的な対象は昨日今日金に物を言わせて成り上がった大株主様ではなく、長年に亘り企業を支えてきたマトモな長期株主だろう。

この現代の鼠小僧は、莫大な金を動かしながら、その金によって相手企業から金を掻き集める以外に何ら社会的な意味のある行為をしていない。対象企業に自社株を不当な価額で引き取らせることが、特定株主に対する既存資産の一方的流出にすぎない以上、鼠小僧集団以外の堅実な株主に対して何らかの利益になるかどうかなど考えるまでもないだろう。

それのどこが悪いと言われたら、今時そんなどこかに眠ってるお宝を掘り起こすだけの収奪農業が許されるほど太っ腹な高成長社会ではないというだけの話である。世の中に腐るほど金が剰っていて、ただ金が動くだけで市場が活性化するような時代なら意味のある行為でも、今時のしょっぱい世の中ではただの市場原理の寄生虫である。

堀江貴文容疑者率いるライブドアの手法が実態なき自社株価の無限上昇を前提としたものであり、村上ファンドの手法が株式の力学を悪用した実態なき企業資産の収奪であるなら、両者共に資本の運用を通じて何ら社会的価値を創出していない。金を掻き集める手段として他人の金を遣っただけである。

金をもうけすぎたからではなく、何ら社会的な対価を支払わずに他人の金で莫大なもうけを享受したから、この人たちは嫌われているのである。

星野SDに対する頓珍漢な反論からもわかる通り、この人物は徹底した個人主義者であり、経済分野に多大な影響力を持つ社会の一成員としての義務感もなければ、意味ある何事かを社会に対して積極的に為さねばならないという使命感も一切持ち合わせていないのである。

株式市場は自分が個人的に営利を追求するための猟場であると考えているのだし、単なる楽しいゲームフィールドだと考えているのである。大きな力を持ちながら、それを社会に役立てようなどとはこれっぽっちも考えていないのである。憎むべき不公正な経済犯罪はゲームにおける不注意な失点にすぎないのであり、それを犯すことで自身が幾許かの社会悪を為したという自覚も反省もないのである。

逮捕直前の会見で開き直って「金もうけのどこが悪い」と主張する以上、彼のこれまでの活動がある種の社会的意義に則ったものだというのは完全に空疎なお題目だったと自ら認めたのも同然である。彼の強引で不愉快な経済手法を唯一肯定的に評価し得るパラメータがそれであったにも関わらず、彼は土壇場で本音を暴露しそれを手放した。

村上ファンドの活動が何某かの肯定的な影響を残したとしても、それは非意図的な成果にすぎず、徹頭徹尾結果論にすぎないということである。何ら社会的価値を伴わない個人的な欲望の追求を理論武装するのに恰好のロジックだったからかりそめに掲げてみた小綺麗な看板だったというだけの話である。

本来、企業利益とはそれに見合うだけの社会的価値を創出したことの対価として得られるべきものであり、莫大な金を遣ってそれよりもっと莫大な金を収奪するための名目を買い占める行為はまっとうな企業活動ではあり得ない。マネーゲームとはよく謂ったもので、それは意味ある大人の社会活動ではなく、ただの子どもの遊戯である。

投資活動をゲームと見なして金もうけに勤しむ行為は、投資者のモチベーションをわかりやすく喚起し、結果的に一種のマクロな経済活性効果を演出しているから実態として肯定されているだけの話で、本来的には投資行動とは選れて社会的な責任の伴う活動であるべきだ。

建前だけで飯は喰えないし、誰しもお金は好きだから株屋の活躍が持てはやされているだけで、その建前を道具に使って不公正に立ち回っても社会的に肯定されるということではない。村上容疑者の弁明には自身の企業活動における社会価値に対する言及が一切視られず、自社企業が金をもうけることを権利の文脈で正当化しただけである。

「みなさん、お金好きでしょう?」

莫迦を言っちゃいけない。今問われているのは、金自体の好し悪しではない、それは誰だって金は好きだが、穢ない手段で他人を蹴落として、自分だけがもうける暴力的かつ自己中心的な金もうけが肯定されるのか、という問題が問われているのである。

本音を言えば誰だって金をもうけたいけれど、それをすることで他の人間が不当に扱われるのであれば、普通はそんなことはしたくないという話なのである。そんな愚民の料簡はヌルい、甘い、金に綺麗も穢ないもない、金をもうけた奴が勝ちなんだというのが彼の哲学なら、そんな人間が好き勝手に金もうけという遊戯を楽しむために進んで手を貸したり、わざわざ騙されてやるほどのお人好しばかりではない、「愚民」がマジョリティの社会にはそんな人物の居場所はないという、ただそれだけの話である。

そんな簡単な理屈がわからず開き直って居丈高に獅子吼する人間は、やはり本質においてどこか道義的な欠落を抱えている。今時、ライブドアや村上ファンドとは比べ物にならないチンケな規模で事業を展開している町場の零細工場でも、この連中より格段にマシな社会的価値を創出していると言えるだろう。

というわけで、普通の日記ブログらしい漫談を書き流すつもりだったはずだが、何だか結局今回も過剰に暑苦しくて読み疲れるエントリーになってしまったことを、今は少し反省している。

そういえば、ニッポン放送買収騒動当時、堀江貴文容疑者に熱いエールを送っておられた大勢の皆様方におかれましては、その後如何にお過ごしでしょうか。堀江貴文容疑者にとっては、今こそ皆様のお力を必要とする正念場、今後とも以前に変わらぬご支援を賜ってやっちゃってください。

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