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2006年6月22日 (木曜日)

ケムンパスの遺産

今月初旬、高寺成紀Pの去就に関してネットから不穏な噂が流れたことは読者諸兄姉もご存じのことだろう。この話自体に関しては、事情通とされる人物の非公式なリークと怪しげな取り込み画像を元にした憶測以外未だに公式な発表も出ていないので、詳しく触れるつもりはない。

その憶測の一因となったのは、未だにこんなコンテンツが活きていたのかとそっちのほうに驚かされた東映公式サイト内の「仮面ライダークウガ・高寺メッセージ」が今ごろになって更新されたことと、その文面が今では誰一人実現するなどとは思っていないクウガ劇場版の断念を今更詫びる内容だったということなのだが、ここではその内容にも立ち入るつもりはない。

今回のテーマは、このメッセージの一人称に採用された「小生」である。

このコンテンツのバックナンバーを浚ってみたのだが、今回更新されたメッセージ以前の高寺Pの一人称は「私」である。五年ぶりに更新されたメッセージでは、何故かそれが「小生」になっているわけだが、文末に「高寺 (2006・06・01)」と名前と日付が入っているところを視ると、一種の書簡文として意識されたものらしい。

しかし、今時の若い人にしてみれば、「小生」なんて一人称はスポーツ新聞や男性誌の風俗ルポの「アキナちゃんの超絶テクに、小生あえなく撃沈」的な文脈でしか目にしたことはないだろう(笑)。本来書簡文における謙譲の一人称であるはずの「小生」という人称は今やエロ体験記と切っても切れない関係にあるのだが、それは何故か。

物事にはすべて来歴というものがあるのであって、風俗ライターたちが何故「あえなく撃沈」する下半身が情けない奴の一人称として「小生」が相応しいと考えるのかと言えば、それは彼らが青少年時代に愛好したラジオの深夜放送に起源があるとオレは睨んでいる。

かつて、声優・舞台演出家として有名な野沢那智と初代怪物くんやパタリロ役で識られる声優の白石冬美がコンビを組んで、一五年間という長年月に亘って若い世代に人気を博したTBSラジオの深夜番組に「パックインミュージック」というものがあった。所謂「金パ」もしくは「ナッチャコパック」という番組である。

TBSのパックインミュージック、通称「パック」は、当時ニッポン放送の「オールナイトニッポン」や文化放送の「セイ!ヤング」と華々しく聴取率を争う看板番組で、たまたまオレの郷里のAM局ではTBSをネットしていたものだから、無理して中央からの電波を拾うのが面倒ということもあって、少年時代は専らパックを聴取していた。

深夜放送全般にまで話を拡げると例によって長くなるのでwiki辺りで調べてもらうこととして金パに話題を限るが、この番組のスタイルとして、リスナーからの比較的長い物語スタイルの投稿を野沢那智が声色巧みに読み上げて、それにパーソナリティのご両人がツッコミや逸脱した雑談を加えるというのがメインの人気コーナーだった。

当時から「第一章 破滅の予感」みたいな章立てが為されていて、首尾結構の整った無闇に長い体験記を素人投稿者がスラスラ書けるものだろうか、と激しく疑問には感じていたのだが(笑)、今ここでそれを問うのは逸脱である。パックの主流的なパターンとしては、メインのコーナーで封書メインの比較的長い妙に達者な投稿を肴に各々の持ち味でパーソナリティが雑談を繰り広げるというのが常套だったのだが、その雛形となったのが金パである。

先程「素人投稿者が云々」と疑義を呈した通り、金パの投稿はとにかくレベルが高いのが特徴だった。本物のリスナー投稿だとしてもかなり放送作家が手を入れていたのではないかと思わせるほどで、一流のナレーターである野沢那智が読み上げる放送台本として優れた完成度を誇っており、金パに採用されるというのは一種のステータスだったのである。

当然巧い書き手は常連化し、長いスパンに亘る事件を定期的に報告するなど、常連投稿者自体が人気を博するという深夜放送らしい現象も起こったわけで、今で謂えば侍魂の健さんや人気ブログの書き手のようなものだが、当時はその種の才能を公的な表現として発信する最も身近なツールが深夜放送だったのである。

その内容は多岐に亘り、「御題拝借」というコーナータイトル通り、番組から出されたテーマに基づいて、リスナーの生活実感を綴ったエッセイ風の身辺雑記や滑稽無類な失敗談、個性的で巧みな婉曲表現を駆使したバレ噺や、肉親や友人に纏わる感動的な実録等をバラエティ豊かに語っていた。

小生」という一人称はこの金パの投稿に屡々視られた一人称で、すでにその時代においても時代遅れのタームだったのだが、主に自虐的な体験記を投稿する男性リスナーが好んで使用したのが、この「小生」という謙った人称だったのである。もっと自意識の勝った繊細な心情表現をメインに据えた投稿を手掛けるリスナーは、「僕」という若い人称を好んだようだが、「こんなアフォなことやっちゃいました」と自嘲的に体験談を語る三枚目的な投稿者はおおむね「小生」という人称を使っていた。

さらに主流的だったのは、何故か「小生」という人称の係り受けとして文末を「でやんす」で受ける文体が一般的に通用していたことである。いつ頃からどこからどのような経緯で始まったのかは不明だが、オレが常習的に聴取していた頃はすでに当たり前のように「小生 〜でやんす」という文体が一般的な投稿者の語り口になっていた。

ナッチャン、チャコチャン、お初にお目にかかりやす、小生、現在都内某ワセダ大学を目指して三浪中のしがない浪人生・○○(ラジオネーム)でやんす。さて、ご両人におかれましては先日来云々」というのが大体の投稿者のアノニマスな文体である。

先程いつ頃どこからどのように、と言ったが、この文体の大本の出自自体はハッキリしている。赤塚不二夫のギャグマンガ「もーれつア太郎」のサブキャラである毛虫のケムンパスが「小生 〜でやんす」文体の創始者であることに疑いの余地はない。

初代モノクロ版のアニメでは、「グレートマジンガー」の剣鉄也や「一休さん」の新右衛門さん役で有名な野田圭一の妙に理知的な声質で「小生、そんなのイヤでやんす」とか言っちゃうわけだが、当時爆発的な人気を誇ったニャロメ、べし、ケムンパスの脇役トリオはみんな「やっちまえニャロメ!」とか「あたいは遠慮するべし」とか「小生は逃げるでやんす」とか、日本語の文法上はちょっと変な語尾の癖を持っていて、これが「うち、ラムだっちゃ」とか「そんなのズルいクマ」とか「ご主人様にご奉仕するにゃあ」という「一〇〇の描写より一つの語尾(by畑澤和也)」というキャラクター描写黄金律のルーツにあるわけである。

たしかに日本の漫画の黎明期から、相撲取りは「ごわす」と言い、兵隊さんは「であります」と言い、東北人は「だべ」と言い、関西人は「でんがな」と言い、九州人は「ばい」とか「たい」とか言っていたわけだが、それは個々の人物の職制や身分や出自を判り易く表現するための方便であって、そのような説明的必然性もなく純粋にキャラ立てのための奇抜な語尾や特徴的な一人称・口調を量産したのは赤塚不二夫が初めてではないかと思う。

たとえば先程触れたニャロメ以外にも、ココロのボスは「ポクは 〜のココロ」というような、どう考えても焼け跡闇市を暗躍した特定外国人のような口調で喋るし、他の作品のキャラも、イヤミは「ミーは 〜ザンス」と言い、ダ・ヨーンのおじさんは「○○○だよ〜ん」と言い、ハタ坊は「○○○だじょー」と言い、デカパンは「○○○だス」と言う。トニー谷をモデルにしているイヤミはともかく、ココロのボスは別段焼け跡闇市を暗躍した特定外国人そのものではないし、ダ・ヨーンのおじさんやハタ坊の口調には何ら意味はないし、デカパンが船場の商人だということではない。

今より文化的な密度が低かった時代には、このくらいのキャラ立てで十分読者にウケたものだし、各々のキャラの特徴的な口調は人気を博して流行語になった。ケムンパスの「小生 〜でやんす」文体もその流行語の一つと言ってしまえばいいのだが、何故それが特別に金パの投稿で流行したのかと言えば、元々「小生」という人称が書簡文における若輩者の一人称だったからで、そこからの付会という口実があったからである。

つまり、金パに「小生 〜でやんす」体が定着したのは、長い語り物→封書の投稿→書簡文→拝啓〜草々文体→書簡文一人称・小生→人気キャラケムンパスの「小生 〜でやんす」口調拝借、という大括りな歴史を辿ることができるだろう。

試みにラジオ番組に投稿することを想定して、実際に紙に手書きで文章を書き始めてみれば感覚的にわかることだが、ハガキメインの番組ではもっとヴィヴィッドな話し言葉の文体が相応しいが、長い封書の文体としてはやはりどこか古めかしい書簡文の形式がしっくり来る、書きやすい、ということである。

ハガキ大の紙面に限られた短い文章量で想い出の曲をリクエストする、というのであれば「○○(パーソナリティ名)さん、こんばんわ。さて云々」と本題に入っても抵抗はないが、長い話を縦書きの便箋に何枚も書き綴るという前提では、やはり時候の挨拶や拝啓〜草々の定型句を置かないと何となく気持ち悪いものである。

さらに、縦書き便箋というのは如何にも「手紙を書いている」という雰囲気を醸し出してくれるもので、今時の若い衆でも「小生は」とか「拙宅の」とか「御尊父が」と少しは衒ってみたくなるものである。

まして当時はまだ文学青年が一般に幅を利かせていた七十年代で、さらに人気番組の狭き門を潜って採用された常連投稿者という自負のある連中が書き手なのだから、小学生のおてがみのような文体では格好が附かないという気取りもあったのだろう。「拙は 〜でゲス」というような快楽亭ブラック劇画版紛いの噺家口調もあったくらいで、そのような一種衒った金パの雰囲気において、砕けた自虐的な話題を語るのに「小生 〜でやんす」体は甚だしくマッチしたということである。

ただし、この時代にはすでに「小生」という人称は死語に属していたので、ターム自体をケムンパスの口調から識ったというリスナーのほうが多かっただろうから、いずれにしろ「小生 〜でやんす」体の成立にはケムンパスのキャラ人気が密接に絡んでいるのは間違いない。

このような歴史を鑑みるならば、たとえば男性誌の風俗ライターが「小生、あえなく撃沈」とか言っちゃう場合に、「小生」という一人称に仮託されている語りの雰囲気というものの幾許かが理解できるだろう。要するに彼らの世代にとって、匿名の無名氏が下半身に関する生々しい三枚目的な体験談を長々と語る場においてリアルな文体というのは、金パのような深夜放送の封書の投稿スタイルなのである。

実際の歴史で言えば、金パの下ネタというのは当時から老嬢的なキャラの白石冬美が相方だったという経緯もあってか割合に表現の上では婉曲的で、風俗ルポのぶっちゃけた猥雑さというのは、たとえば山本コータローパックの「恥の上塗り」コーナー辺りの印象のほうが近いと思うが、別段「小生 〜でやんす」体的なるもののすべてが金パ個別の影響の下にあると言っているわけではない(笑)。

さすがに今時「小生」と係り受けで「〜でやんす」と受けるベタにまんまな文体は視たことはないが(笑)、おそらく、今現在「小生」という人称を使用する大多数の話者は言葉の起源通りの意味で書簡文の謙譲の人称としてそれを用いているのではなく、一旦深夜放送の投稿スタイルという印象を経由して使っているのだということである。

前半で疑義を呈したように、パックで読み上げられた出来の良い投稿が本当に素人投稿者の手になるものだったのかどうかまでは識らないが、実際にラジオで投稿文が読み上げられている以上、多くのリスナーが封書で自身の体験談を長々と綴って投稿したことだけは間違いない。

オレと同年代の高寺Pも多分そのような投稿者の一人だったのかもしれないし、もしかしたら実際に採用された経験があるのかもしれないが、たとえば深夜放送に長文の体験記を投稿する心理の裡には、名も顔も知らない匿名の不特定多数ではあっても同じ番組を愛好し、大人社会とは別の価値観を共有する気心の知れた仲間たちに向けて、世間一般の大人たちの目からは見えにくい場所で秘やかなメッセージを発するような若者的な連帯意識があったことだろう。

そのような心理においては、たとえば直接面と向かっては話せないことを手紙に託するような間接性が大きな意味を持つのだし、高寺Pのあのメッセージが「小生」という人称を使い署名・日付を付すという書簡の形式で書かれていることは、高寺Pが自身のシンパを一種深夜放送のファン同士のような秘やかな連帯意識の下に視ていたということを表しているのかもしれない。

東映公式サイトの片隅で、誰一人実現するとは信じていないクウガ劇場版へ向けたリアルタイムの努力を「私」という人称で精力的に語っていた高寺Pは、五年後の今、それが決定的に挫折したという個人的な感触の下に、深夜放送へ投稿して価値観を共有する秘密結社的な紐帯に結ばれた仲間たちにこっそり打ち明け話をするような感覚であの文章を書き綴ったのだろう。

まあ、正直言ってちょっとおセンチに過ぎて笑っちゃうけどね。

とりあえず「小生 〜でやんす」体の効用としては、若輩者が自身の至らなさを重々承知しながらも誠意を込めて訥々と語っているという謙虚な印象を読み手に与えられることである。

たとえば仲間内からは「むっつりしてて何だか怖い」と評される当ブログの文体も、この「小生 〜でやんす」体に変換すれば、あ〜ら不思議、若輩者の三枚目が額に汗して訥々と自身の胸の裡を訴えているような可愛い気のある文章に早変わりするのだ。嘘だと思うなら、それをちょっと過去のエントリーを元にして試してみよう。

こんなところで「小さき勇者たち」に関して語っておくべき事柄はほぼ出揃ったと思うので今回を総論とするでやんすが、このような嗤うべき錯誤はなぜ起こるのでやんしょうか。かなり長くなるでやんすが、今回はそれを考えてみるでやんす

ただし、それは「小さき勇者たち」という個別の映画についての総論ではなく、それに纏わる錯誤の検証についての総論
でやんす。あなたがネットで見かけたあの莫迦この莫迦は何故あのように莫迦な勘違いを語り散らすのでやんしょうか、それについての考察でやんす。そのような問題に興味ある篤実な映画愛好家に読んでほしいエントリーなのでやんす

ネット論壇に関していえば、まず、このような単純な勘違いを積極的に訂正する動きが剰り視られなかったというのも問題であると
小生は考えるでやんす。剰りにもつまらない難癖だから誰もあえて本気でツッコミを入れなかったのでやんしょうか。そのように好意的に解釈したい一方、これが短い興行期間中の現行作品に関する言説であることを考えると、そのような事勿れの姿勢も問題であると思うのでやんす

誰もその勘違いを指摘しなかったからこそ、その場の思い附きに基づく莫迦な難癖が附け放題だったの
でやんす。恥をかかされるリスクさえなければ、遠慮なく恥知らずなことを公に行う輩が必ずいるのでやんす

恥をかかせる以外に恥知らずな行為に対抗する術は
ありやせん。残念ながら、これはネット論壇に附き纏う大きな問題点なのでやんす

…なんかイマイチ効果がないな。じゃあこれはどうだ。

G1およびそれに続く平成三部作の映画体験の総体が小生の中で特別な位置を占めている以上、ガメラという物語資産を新たな視点で語り直すことに、小生にとっての個人的意義が本当にあると真に受けられなかったのも理の当然なのでやんす

平成三部作のファン「だから」今度のガメラも観に行く、新しい怪獣映画「だから」観に行くという意識は、
小生の中には一切なかったのでやんす小生はゴジラファンがそうであるようなキャラクタージャンルのファンと自己規定している者ではなく、平成三部作という個別の映画のファンだからでやんす。ガメラというキャラクタージャンルの作品において最も優れた映画だという物の見方において平成三部作が好きなのではないのでやんす

新しいガメラが客観的にどのような意義深い試みが為されている傑作であろうとも、
小生の中におけるガメラという物語資産は、平成三部作によって完全に完結しているのでやんす。それは窮めて個人的な人と映画の関係性の問題でやんす

ネットの情報発信者としての
小生にとって個人的特権性を持つ特撮作品とは、平成三部作であり、ウルトラマンティガであり、仮面ライダークウガであり、仮面天使ロゼッタであり、実写版美少女戦士セーラームーンでやんす小生という個人が語ることに小生という個人がその意義を真に受けられるのは、高々両手の指折るに足る数の雑多な作品群なのでやんす

…すみません、小生が先程言ったことは慎んで撤回させていただくでやんす

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