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2006年6月28日 (水曜日)

The Legend of LZ

リリースは少し前だが、最近になってようやく「緯度0大作戦」コレクターズBOXを三枚とも観た。今頃になって話題にするのも出し遅れの証文だろうが、まあ世間の人が忘れた頃にこっそり採り上げるというのも当ブログらしくていいだろう(笑)。

東宝特撮好きでも輸入盤ビデオを取り寄せるほどではないという程度のファンなら、この作品の国内リリースを心待ちにしていたことだろうが、その一方で「買うだけは買うがちょっと観るのが億劫だなぁ」という裏腹な感情を覚えていた方も多いだろう…というか、他人事のように語っているが当のオレがそうだった(笑)。

それはやはり、公開から三十数年間という長い時間のブランクがあるからで、他の東宝特撮作品のように気軽にビデオメディアを介して接することもできなかったという事情の故に、「幻の作品と言っても、多分今観たらつまんねーんじゃねーの?」という予断があったからだと思う。

昔の特撮を数観ているファンなら、子どもの頃に観て楽しかった覚えのある作品を大人になってから再見してガッカリした経験も豊富にあるだろう。その場合、東映特撮なら剰りの安っぽさや幼稚な展開に愕然としたり、第一期ウルトラなら曲のないお話の割に剰りにのんびりしたテンポに苛立ちを覚えたり、東宝特撮映画なら現代の目で視て無用な部分が剰りに丁寧に描かれていて眠気を催したりと、子どもの目には映らなかった粗が目に附いたり、時代性の変遷に伴って自身の感性が変わってしまっていたりして、昔そうだったほどには楽しく感じられないものである。

その一方では、子どもの頃にはよくわからなかったドラマ性や映像表現の妙、役者の魅力に大人になってから気附かされて、あらためて惚れ込むという経験も少ないながら誰しもあったはずである。この間の機微については、以前「失はれた週末」で少し触れたが、このような経験はかなり個別的な話になるだろうから大括りな例示は避ける。

子どもの頃から一度も「卒業」することなく大人になるまでトクサツを見続けてきた筋金入りの特ヲタでもない限り、トクサツから離れていた空白期間の裡に不可逆的に子どもの目を喪ってしまったことを誰しも一度は痛感しているはずである。そんな失望を経験して尚もトクサツを見捨てずにファンであり続ける大人にとって、昔のトクサツ体験を追体験する行為は、一種の宝探しのようなものである。

昔のトクサツがすべて子ども騙しのガラクタだと言うつもりなど毛頭ない。だが、トクサツに限らず、昔楽しかった体験の記憶はなべてそのときだからこそ楽しかったという一回性の限定を不可避的に蒙っているものである。それが文芸作品だからと言って不朽の娯楽を約束してくれるという考えは幻想だ。おそらく、子どもの頃に感じた楽しさそのものというのは二度と取り戻せない種類のものである。

しかし、子どもが観て楽しめるものの中には、子どもの視聴という個別性を離れた普遍的な面白さを具えた作品もあるはずだし、逆に大人の視聴という個別性において新たな面白さが生起する作品もあるはずである(敢えて「大人の視聴にも耐える」という雑駁な慣用的表現は避ける)。子どもの頃の体験の記憶と直接的な関係はないのかもしれないが、その記憶をインデックスとして、改めて今の自分が楽しめる作品との出逢いを模索するというのが、幻滅を通過した大人の特ヲタの心意気なのではないかと思う。

緯度0の話に戻ると、今回のリリース以前にこの作品を語った特ヲタの言葉は概ね歯切れの悪いものである。うろ覚えだが、手放しで絶賛していた評言は例によって「脳内補完の錬金術師」池田憲章のものくらいではなかったか(記憶違いかもしれんが)。それはやはり、残されたスチルや資料などから想像される映画の姿が面白いとは到底思えないものだからだろうが、輸入盤もしくは海賊版のビデオを取り寄せて実際に観た人間の言葉も好意的なものは少ない。

要するに「権利関係の都合で国内では観られないというだけの話で、映画自体は大したことのない作品」というのが一般的な評価ではなかっただろうか。

オレはこの作品を幼少の頃に白黒TVで観たことがあるきりで、記憶の中ではけっこう面白い作品だったという気がするのだが、改めて細部を想い出そうとすると、着ぐるみのグリホンや蝙蝠人間や巨大ネズミが「可愛かった」という、剰りにトホホな記憶しか蘇ってこないのも事実である。日米合作のスペクタクル大作に登場するモンスターが子ども目線で可愛く感じられてどうするんだ。

最大の目玉であるα号や黒鮫号のブロップも、たしかに「格好良かった」という印象はあるのだが、雑誌のスチルや食玩のミニチュアなどを視ると、この古臭いデザインのどこが格好良かったのかイマイチ疑問に感じてしまう。そういう意味では、ハナからこの作品に対する好意的な記憶は子どもバイアスに基づくもので、今の目で視たらつまんないに決まってるという予断があったことは間違いない。

当時の邦画界においては名優ジョゼフ・コットンやオリジナルバットマンでお馴染みのシーザー・ロメロの出演は豪華に感じられたのだろうが、ジョゼフ・コットンが言葉通りの意味でスターだったのは「第三の男」や精々「ジェニィの肖像」の頃までで、その後は良く言えば「渋い脇役」、要するに主役格のスターとしては盛りを過ぎ老境に差し掛かっていた頃の出演である。

そんなご老体が、遙々極東の敗戦国くんだりまで夫婦で出稼ぎに来て、挙げ句に金色のド派手なモジモジ君みたいなボディスーツを着てもっさりアクションを演じるわけだから、ちょっと痛々しい感すら覚えてしまうだろう。シーザー・ロメロのほうは元からこんなポジションだから正しい配役だと言えるだろうが(笑)、ジョゼフ・コットンに関しては、かつての二枚目時代を識っている当時のシネフィルもちょっとアレな印象を覚えたのではないだろうか。

プロデューサーのドン・シャープというのも緯度0の文脈でしか聞かない名前だが、そのフィルモグラフィを一渡り検索すれば、どういう性質の映画人であるのか大体の察しは附くだろう。

つまり、この程度のB級映画人が呼べるポジションの俳優が当時のジョゼフ・コットンやシーザー・ロメロだったのだし、おそらく、東宝・円谷サイドもハリウッド俳優陣もこの胡散臭いオッサンの脆い泥舟に乗ったのが身の不運だったのである。映画秘宝の記事によれば、緯度0の撮影中に彼が不渡りを出して失踪した煽りで映画の撮影が危殆に瀕し、その後権利関係が混乱する一因となったということであるから、徹底的に迷惑千万な胡乱なオッサンである。

そんな次第で、大人のキタナイ目を身に着けたオレにとって、緯度0大作戦という映画が面白いだろうとはちっとも思えなかったのだが、まあ折角入手したDVDを死蔵しておくのも常田富士夫声の「もったいないおばけ」に怒られちゃうので、さして期待せずにDVDを廻してみた。

…何だよ、普通に面白いじゃん。

まず第一に、盛りを過ぎた名優のジョゼフ・コットンが云々と今さっき口にしたばかりではあるが、納谷悟朗が吹き替えをしていれば、それは個別のハリウッド俳優などではなく、「納谷悟朗キャラ」なのである。

たとえば特ヲタは「フランケンシュタイン対地底怪獣」がどうしたとか「サンダ対ガイラ」がどうしたとか語る際に、当然のように「ニック・アダムズが」とか「ラス・タンブリンが」と口にするが、その際に「理由なき反抗」のニック・アダムズや「ウェストサイド物語」のラス・タンブリンとの連続上で俳優をイメージしている者などほぼ皆無なのではないだろうか。

リアルタイムの制作時においてはかつての名画の出演者という知名度がウリだったのだろうし、当時の観客の脳裏にはどうしても最盛期の彼らの若々しい姿がオーバーラップしたのだろうが、今の目で特ヲタが彼らを視る場合には、納谷悟朗や睦五郎の声で喋る当該作品オリエンテッドな虚構上のガイジンとして視ているはずだ。

特ヲタの感覚では、たしかにニック・アダムズという俳優が「理由なき反抗」という剰り思い入れのない大昔の名画に出演していたことが歴史的事実であることは諒解しているのだが、そのときの姿が脳裏に蘇ることなどはまずないだろう。

特ヲタが識っているニック・アダムズとは、フラバラや「怪獣大戦争」という怪獣映画において、納谷悟朗の声で「オーノーノーノ、最初あなたは煮干しを掴みます」と小粋なアメリカンジョークをかましている脳天気なガイジン科学者でしかない。

東宝映画全般でスターシステムが採用されており、志村喬や三船敏郎、千秋実、藤原釜足、田崎潤、平田昭彦、土屋嘉男、宝田明、佐原健二、かなり飛んで大村千吉などの役者をタイプキャスティングで起用していたという歴史に鑑みるならば、怪獣映画における外人俳優というのは、納谷悟朗なり睦五郎なりの吹き替えとセットでイメージされる映画個別の「キャラ」なのである。

特ヲタが現代の目で怪獣映画を視る場合、既存の外人俳優のセリフを納谷悟朗が吹き替えたというより、たとえば沖田十三や銭形警部が納谷悟朗の声と分かち難くイメージされる作品固有の「キャラ」であるように、ニック・アダムズ+納谷悟朗の綜合として成立する東宝怪獣映画固有の「キャラ」として認識されていると思う。つまり、「納谷悟朗なり睦五郎なりが吹き替えるガイジン」という大括りなキャラとしてスターシステムにおけるタイプキャスティングの一翼を担っているのである。

さらに言えば、あの当時の納谷悟朗の若くて線の細い二枚目のラインの声質でアテている役柄というのは今はほとんど目にする機会がないうえに、本編内で吹き替えが常態となっている二本の映画のニック・アダムズに関しては、洋画の吹き替えともまた意味合いが異なり、「ニック・アダムズ本人の声」という虚構的な想定において納谷悟朗が声をアテているということになる。

そして、たとえばフラバラにおけるニック・アダムズの人物像を決定附けているのは顔出しの役者本人の演技というより、セリフを担当する納谷悟朗の声の芝居のイメージだと断言しても差し支えはないだろう。

もしかしてあの映画におけるニック・アダムズの実際の英語のエロキューションは、フランクなアメリカ人科学者というイメージにまったくそぐわないものだったのかもしれないし、逆に納谷悟朗の吹き替えよりもそれらしい雰囲気を漂わせるものだったのかもしれないが、それはオレたちの記憶に活きる「ニック・アダムズというキャラ」の在り様とは剰り関係がない。

事実においてオレたち特ヲタは、若い時分の納谷悟朗の声質でイメージされる理知的かつ男性的でベタベタなアメリカ式ユーモアを具えている戯画化されたアメリカ人としてニック・アダムズというキャラを視ている。それは最早ニック・アダムズという俳優単体が演じたキャラではあり得ないのであり、ニック・アダムズ固有の履歴は後生の特ヲタの脳裏からオミットされてしまうのである。

その意味では、紛れもなく年老いた名優ジョゼフ・コットンがやる気なさげに演じた人物であるにも関わらず、納谷悟朗が吹き替えている時点で、オレたち特ヲタは「納谷悟朗が吹き替えるガイジン」の連続上で彼を視てしまうのであり、彼が出演した東宝特撮映画がこれ一本きりでしかないにも関わらず、「第三の男」の名優という履歴は脳裏からオミットされ、「東宝特撮お馴染みのガイジン」というイメージの連続上でこの人物を視てしまう。

それ故に、先程は「ジョゼフ・コットンの中の人も大変だな」的な予断を話したわけだが、その種のしょっぱい現実をさほど意識せずに物語に入り込むことができた。というか、「ニック・アダムズの中の人(以下略)」「ラス・タンブリン(以下略)」などと感じていたとしたら、そもそも特ヲタはやっていないだろう(笑)。

おそらく緯度0を観た当時のシネフィルたちは「ジョゼフ・コットンも老けたなぁ、この歳になってまで金で横面を叩かれて晩節を穢さなくてもいいのに」と嘆息したことだろうが、オレたちの世代ですでに、ニック・アダムズもラス・タンブリンもジョゼフ・コットンも歴史上の人物でしかない。

オレたち以降の世代の観客はニック・アダムズやジョゼフ・コットンの最盛期を自身のリアルタイムの記憶として識らない以上、本人の風貌や所作や身ぶりを出て納谷悟朗のセリフ芝居で彼らのキャラクター性を視ているのだし、たとえばこの映画においてジョゼフ・コットン本人の演技をそれほど視ているかと言えばそうではないと思う。

そのような考察の下に努めて「中の人」の身ぶりの演技に注目して本編を視る場合、経験や風格でやる気なく演じているジョゼフ・コットンよりも、元からそんなポジションの俳優であるシーザー・ロメロのほうが活き活きと熱心に芝居をしていて、衣裳デザインも含めて敵役のマリクのほうが断然格好良く見えるのだが、ある意味、納谷悟朗演じるヒーローVS富田耕生演じるマッドサイエンティストという図式で視る場合、その落差があまり気にならない。

このような感覚は、おそらく作画枚数の限られたリミテッドアニメを視るような感覚に近いと思うのだが、躍動的な敵役の動きに動画枚数を割いて沈着冷静な主役側の中割をサボってもそれほど気にならないようなものだろう。そういう意味ではジョゼフ・コットンのやる気のない芝居も、やる気が出ないのはしょうがないし、本人の経済の観点では正しい選択だったということである(笑)。

制作経緯から視てこのBOXに収録されている三つのバージョンの裡で映画の全体像を忠実に伝える作品はインターナショナル版ということになるのだろうが、日本人役者の英語の上手下手を抜きに言っても、東宝特撮の絵面と伊福部劇伴の映画において全編英語のセリフというのは違和感があるし、やはり東宝特撮映画としてこの作品を楽しむには、多少描写に舌足らずな面があっても国内版がお奨めだと言えるだろう。

さて、役者についてはこのくらいにして中身のほうであるが、決して物凄く面白いわけではないとしても普通に面白い映画ではあるだろう。就中、α号VS黒鮫号の二度の対決場面は、四十年近く前の映画とは思えないくらい良く出来ている。潜水艦戦というのは昔からそれほど大きく変わっていないというべきなのかもしれないが、「レッドオクトーバーを追え」とか「ローレライ」とさほど見た目が変わらないのである。

東宝黄金期の大スケールミニチュアと大プールの海面の質感も素晴らしいし、海中の場面は例によって着色した水槽をカメラ前に置くという原始的な撮影法を用いているわけだが、今時の潜水艦映画の海中描写と違うのは、スノーダストやキャビテーションの細かい演出が附けられないのと、撮影技法上寄り目のナメや煽りなど自由な構図が採れないというくらいのものである。

たしかローレライでは大スケールミニチュアを撮影してテクスチャーマッピングしたようなことを聞いたが、でっかい模型を作ってそれをベースに撮影するということは、スタッフのモチベーションの面から言っても質感の面から言っても、この種のメカ特撮においては重要なことなのだと思う。

先程役者の話において「敵役のマリクのほうが格好良く見える」と陳べたが、それは主役メカである二杯の潜水艦についても言えることで、今の目で視るとα号ののっぺりしたラインはそれほど魅力的には映らないが、黒鮫号のほうはまさに黒い鮫を模した生体的なデザインでありながらSF的潜水艦としての虚構的な機能性(本来的な機能性を追求するなら味も素っ気もない紡錘形になるはずなので)も醸し出しており、何より艦内の雰囲気がα号よりリアルなのがポイントが高い。

この場合のリアルとは下世話な活劇における風味附けとしてのリアリティを謂うのであることは勿論で、平和主義的陣営の象徴であるα号のデザインよりも、より好戦的で現実の軍事兵器をイメージさせる黒鮫号のデザインのほうが、やはり潜水艦という存在そのものの性格から考えれば格好良く見えるのは仕方ない。

このようなデザイン・設定上の対照は、考証的な厳密性という意味に基づいて設けられたものではなく、あくまで荒唐無稽な冒険活劇におけるイメージ上の意匠であることは諒解されるべきであり、このような性格の映画において、過剰に考証面の粗漏を指摘するのは野暮というものだろう。

実際の潜水艦の艦内の細部がどのようなものなのかは、実物潜水艦で撮影された「復活の日」や、実物を詳細に取材してセットが組まれた「ローレライ」の艦内描写を見ればわかるが、それに比較すると、航空機のコックピットのイメージでデザインされたα号の操縦席はまったく現実離れしているし、それよりリアルな黒鮫号の発令所もイメージ的には実物に近いがやや優雅で簡素である。

また、艦長自ら潜望鏡(設定上の名称は海上・海中鏡)で対象を目視捕捉して魚雷やミサイルのスイッチを押すという辺りが若干漫画的ではあるし、真っ暗で不透明な海底で敵味方双方視覚を主要な状況把握手段にしているというのは映画の嘘である。

さらに、あの大きさの潜水艦で撃ちっ放し魚雷と熱誘導ミサイルを二基ずつしか積んでない辺りもリアリティという意味ではちょっと首を傾げるだろう。劇中で原子力潜水艦に言及されているのに戦略核はどうしたという話は時代性が微妙なので措いておくとしても、大戦中の通常規模の潜水艦でさえもっと兵装が充実していたのに、超科学の産物という設定の攻撃潜水艦が艦橋前方にレーザー砲一門、後方に艦砲一門という貧弱な兵装でどうやって世界征服を企むつもりだったのか激しく疑問である(笑)。

また、透明度の低い海中でレーザー砲が有効だったり、音響定位技術は勿論熱放射追尾技術も持っていながら光学的なトリックで騙されるところとか、それを田所が訝って質問すると「鏡のトリックだけとは言ってない(原語では字幕と正反対のことを言っているっぽい)」と微妙に胡麻化したり(笑)、リアルな考証という意味ではけっこう間抜けな部分も多いが、当時の観客の科学的開明度を考えるとこんなところが現実的なラインだろうという気がする。

フィクションにおける科学的なリアリティというのは、送り手と受け手の一般的な科学的開明度の相対において量るしかない事柄であるということは以前どこかで触れたかと思うが、軍事マニアやSFマニアでもない限り、現代の観客でもこのくらいの描写の粗漏は許容範囲ではないかと思う。

リアルな潜水艦描写という意味では、すでに五〇年代末には「眼下の敵」という秀作があり、その翌年には本邦でも「潜水艦イ−57降伏せず」というリアルな潜水艦映画が作られていて、前述のローレライがこの映画からかなりイメージを籍りているように、リアリティの面でお手本とすべき作品はすでに存在したのである。しかし、緯度0大作戦という映画は、リアルな潜水艦映画などではなくSF風味で味附けされた冒険映画であり、むしろ「海底軍艦」の延長上にある下世話な娯楽活劇である。

平和主義者の非武装潜水艦と好戦主義者の攻撃潜水艦という対比を顕わすために、片や巨大な潜水艦を一人で己が手足の如く操縦可能なスポーツカー的なイメージを籍り、片や現実の潜水艦のイメージに寄り添って軍事的な性格を強調したというだけで、兵装と速力に優れる超兵器としての潜水艦を、高速クルーザー的な非武装の潜水艦がどのようにして打ち負かすかという知恵比べをわかりやすく見せるために、魚雷攻撃→誘導ミサイルの追尾→衝角戦という畳みかけのテンポありきで段取りを設定している。

そもそもSFおよび軍事両面の考証的な意味で厳密性を追求する意図などはハナからなかったということだろう。魚雷を何基搭載しているとか、水中でレーザー兵器が有効かどうかとか、音響定位がどうしたとか、そんなことは画面に映る映像的効果の範囲でしか考えていないし、それを観客が気にするとも思っていないということである。

これは以前講釈した「小さき勇者たち」の場合のように、現代の映画が敢えて設定の詳細を仄めかしだけで省略しているのとは違って、嘘も隠しもない設定矛盾だということである。このような今で謂う設定面の「ツッコミどころ」を視る度に思うのは「昔のカツドウ屋のメンタリティってこうだったんだな」ということである。

昔のカツドウ屋気質を受け継ぐ世代の映画人は、ごく一般的な観客が絵面を視て不自然に感じなければそれでいいのだと考えていたのだし、「映画の嘘」というのは考証上の厳密性より「ごく一般的な観客の自然な感じ方」を優先するという想定において成立する基準なのだが、今ではそのような「ごく一般的な観客の自然な感じ方」という想定自体が難しくなってきている。

緯度0大作戦という作品を歴史的な観点で語るなら、その起源にはジュール・ヴェルヌの原作とディズニー映画の「海底二万哩」があり、発展的継承として「ふしぎの海のナディア」が位置附けられるだろうが、海底二万哩や緯度0大作戦の素朴な科学考証に物足りない観客がいる一方、ナディアのヲタ臭い勿体附けに辟易する観客も相当数いるだろう。

おそらく海底二万哩の考証的リアリティも緯度0大作戦のそれも、未だに活きてはいるのだと思うし、ナディアのそれも緯度0大作戦の時代からあり得たリアリティだったのではないかと思う。大多数の観客にとって、どちらのリアリティのほうが好ましく感じるのか、鑑賞上の妨げにならないのかというのは、今では煩雑に細分化してしまって非常に難しい問題になってきているということだ。

先程オレは「レッドオクトーバーやローレライとさほど見た目が変わらない」と言ったが、撮影手法の違いによるアングルや構図上の制約を除けば見た目自体はたしかに剰り変わらないし、おそらくそのような映像表現で得られるメカ戦の醍醐味というのはそれほど変わらないと思う。だが、その活劇を観客が本当らしいと受け取るための説明上の手続が全然違うということである。

今の観客がもっと不満を覚えるのではないかと思うのは、むしろクライマックスの人間側のアクション描写である。マリクの要塞ブラッドロック島に乗り込む緯度0側陣営の面々は、予め何だかよくわからない液体に満たされた浴槽に漬かることで一時的に弾丸をも跳ね返す不死身の超人になるわけだが、先程陳べた科学考証の話の連続上で言えばその液体が何だかよくわからないこと自体はそんなに問題ではない。

むしろ、弾丸もナイフも受け附けない身体になった連中が途中で大ネズミの群に襲われようが沸騰する酸の沼を渉ろうがまったくハラハラしないということが問題で、さらにマリクや蝙蝠人間との対決では不死身の超人が一方的に暴れているだけで、戦闘自体が成立していないということが問題である。これは公開当時の「素朴な」観客も、緯度0側はちょっと狡い、不公平でつまらないと感じたのではないだろうか。

また、マリク側の怖さを表現しているのはひとえにシーザー・ロメロの怪演だけで、実際にはブラッドロック陣営の唯一効果的な武器は黒鮫号だけである。大ネズミも蝙蝠人間もどちらかといえばマリクという変人科学者の趣味の生体実験の派生物で、手下として使ったり人間を襲わせたりする目的で改造生物を作るのであれば、何も齧歯類を元にしなくてもいいだろう(本多監督の弁によれば、あれは元々人間を齧歯類に改造したものだそうだが)。

齧歯類だけでは弱いと感じたのか、ライオンとコンドルという見るからに強そうな生き物のキメラを作ろうとしたのは遅蒔きながら上出来だが(笑)、マリクに怨みを持つ黒い蛾の脳を移植しておいてそれを操ろうというのはどう考えても無理がある。結果的にマリク側の自滅の一因になるわけだが、それはもう黒い蛾の脳を移植した段階で観客にはバレバレのオチである。

この作品は元々「放射能X」で有名なテッド・シャードマンの脚本で、「黒い蛾」という名が英語版でもそのまま「クロイガー」と発音されているのは、元々の脚本から東洋人の悪女として設定されているからではないかと推察するのだが、そのオリジナル脚本に関沢新一がかなり手を入れているらしく、その辺で撮影時にアメリカ側との間にせめぎ合いがあったかに聞く。まあ、シャードマンの元の脚本がどうだったかは最早識る術はないが、後半の活劇が「いつもの東宝特撮」のつまんないパターンになっていることは否めないだろう。

ただそれは、別段東宝特撮のアクション描写が伝統的に弱いからとか関沢新一の脚色が悪かったからというより、大本のお話の性格自体が原因ではないかと思う。この映画は理想郷としての緯度0という海底都市自体を主役として、その平和主義的理念に貫かれた超科学を礼賛することに主眼が置かれており、それが元々の脚本の全体的性格だろうと思われるが、人間の側の活劇がつまらないのはその辺のイデオロギー的な性格に問題があるのではないかと思う。正義の味方側に剰りにも身贔屓の激しい作品の活劇が面白くなるはずがない。

そしてそれは活劇部分だけの問題には留まらず、たとえば前半の火山噴火から黒鮫号との一騎打ちに至るまでの流れはテンポも良く楽しめるが、緯度0に到着してからの一連は、理想主義的な科学に裏打ちされた無有郷の紹介という古めかしいSF的アイディアに依存したスペクタクルに偏していて若干ダレる。

ある意味、緯度0紹介の一連は、無有郷妄想の垂れ流しという意味で丹波哲郎の大霊界物とそんなに印象は変わらないし、実際インターナショナル版を視ると田所とロートンが緯度0を死後の世界に準えた会話を交わしたりしている。邪悪や不浄を一切排した理想郷というのは本質において排他的なのだし、その故かどうか、どこか悪趣味な意匠になってしまうもので、海水から金が無尽蔵に採取可能だという理由で緯度0住人が皆金ピカ衣裳を着用しているのがやっぱりどう視ても下品である。

クライマックスの金ピカモジモジ君全タイもその設定に基づいているわけだが、マリク側のスマートな意匠に比べて緯度0側のそれがどこか薄気味悪いのは、やはり俗悪な理想郷妄想を背景に持っているからだろう。公開当時の観客も、緯度0の理想に共鳴してあんな薄気味悪い桃源郷に留まった田所やマッソンたちよりも、ダイヤモンドのお裾分けを貰って現実社会に戻ったロートン記者のほうに共感したことだろうと思う。

これはやはりアメリカ側のタネ出しだったという事情が大きいのではないかと思う。従来の東宝特撮においては、こんな良いこと尽くめの美味しい話を持ってくるのはたいがい地球を侵略しようと企む狡い宇宙人で、「美味しい話には裏がある」という下世話な感覚こそが東宝特撮の基本理念である(笑)。

マッケンジーの語る緯度0の理想に逐一疑義を挟むロートン記者は、その意味で東宝特撮の伝統的な主人公の系列に連なる世俗人で、普通の東宝特撮ではたいがいロートン的な感覚の持ち主のほうが結果として正しく、宇宙人の説く理想に騙された頭でっかちな科学者は後々命を賭けてその愚かさを償う羽目になる。

本多猪四郎監督や関沢新一にしてみれば、この映画のストーリーはこれまで自分たちが撮ってきた映画とはまったく逆のスタンスで貫かれている。この映画のような素朴な科学礼賛は、ゴジラシリーズに通底する科学の進歩に対する素朴な忌避感とは相容れないものだし、下世話な庶民生活を肯定する東宝映画全般の体質ともそぐわない。

八紘一宇の大東亜共栄圏構想に騙され、戦勝国が圧し附ける民主主義の理想の欺瞞性をも体感していた時代人が唯一信じられるのは、いつの時代も変わらない庶民の生活実感だっただろうし、俗人の欲望や社会の必要悪の存在を完全否定して「金やダイヤモンドなんて腐るほど採れる」「医学の進歩で誰も死なずに研究生活を送ることができる」と語られる理想郷がさほど面白い世界に見えるはずがない。

おそらく当時の目で視ても悪趣味に見えたであろう金ピカ衣裳や、悪人とはいえその情婦を楯にとって殺させるマッケンジーのえげつなさ、不死身の肉体を利して一方的に敵アジトを蹂躙する緯度0側の卑怯さは、東宝特撮サイドのせめてものイヤミだと深読みすれば面白いだろうが、まあ実際にはそんなこともないだろう。

何故なら、関沢新一が素で書いてもどうせそんな話になっちゃうからである。

ただまあ、東宝側が施した脚色の裏に「アメちゃんは理想の名の許に何でもやる」という無意識の悪意がなかったかどうかまでは定かではない。

それから、これまでこの作品を紹介した文章の中には、ラストを「夢オチ」というふうに表現しているものもあったが、観ればわかるとおりこの作品のラストは正確には夢オチではない。おそらくそのように誤解する人がいたのは字幕の附いていない海外版でも観たせいではないかと思うが、夢オチではないにせよこの作品のラストは整合的に解釈することが不可能であり、敢えて言うなら一種の奇談的な味を狙っている。

ゴムボートで漂流するロートンを救助した軍艦の主要な乗員がマッケンジーや田所やマリクとそっくりな顔をしていて、マッケンジーに瓜二つの艦長に至っては名前まで同じマッケンジーである。この故に、これまで語られてきた冒険物語がすべてロートンの妄想乃至は夢ではないかとの印象が生じるわけだが、普通に考えるならそれが妄想だったとしても、救助されるまで一面識もなかった軍艦の乗員を登場人物とする夢や妄想を初対面以前にみていたのであれば、それだって一種の予知夢ということになって、何を説明したことにもならない。

それを常識的に整合させるなら、軍艦に救出されたロートンなる人物が徹頭徹尾アタマのネジが弛んでいて、口から出任せの妄想譚を語った挙げ句、初対面の人物の顔が自分の妄想の登場人物の顔と同じだったと、誤った記憶が遡って捏造されたのだということになる。それは要するに言葉通りの意味で本物のキチガイだということである。

そうでないとすれば、ロートンが緯度0の内情を吹聴するのを恐れたマッケンジーたちが手の込んだ茶番を仕組んで、一連の事件が妄想だったと思い込ませようとしているととれないこともないが、その場にすでに滅んだはずの敵方のマリクそっくりの乗員までいる以上、この想定もまた矛盾を抱えている。

マッケンジーとマリクが雁首揃えて仲良くお芝居を演じている以上、これまでの緯度0における冒険物語さえもが一種のお芝居だったということになるからである。それではわざわざお芝居を見せておいて、さらにそのお芝居をさらなるお芝居で妄想だと思い込ませようとしているということになり、本当の意味で夢や妄想だったというのとほとんど意味的には変わりがない。

だが、ロートンの頭がおかしいわけでもないし、緯度0の冒険が妄想でもなく、緯度0の面々が彼を担いでいるわけでもないということは、ラストシーンがロートンの主観を離れた視点で描かれていることでもわかるだろう。

このシーンにおいて、太平洋上の宇宙カプセルを回収する重要任務に就いている軍艦に対して、偶然救助された漂流者への言づてが無電で送られるが、それはロートンが介在しない艦長たちの主観において素直に不思議な出来事として語られている。

またその無電の内容から察することができるのは、ロートンが持ち帰った宝石が刻み煙草にすり替わっていたのは緯度0の秘密を守るための工作で、宝石自体はニューヨーク銀行に無事に保管されているということであって、ロートンのいないところでもこの無電の内容が不思議な出来事として取り沙汰されているということは、艦長以下緯度0の面々に酷似した人々はまったく緯度0の人々とは無関係であるということである。

この間の事情をナラティブの観点から整理すれば、緯度0を去ったロートンが軍艦に救出されたくだりでは観客にすべては彼の夢物語だったと思わせ、彼が狂人扱いされ船室に軟禁された後はそれを本当のことだったと思わせているということだ。

さらにそのどんでん返しに続く最後の〆で、これまで語られた物語にまったく無関係なはずの軍艦がまったく無関係なはずの任務のために向かう目的地が緯度0であることを高らかに宣言することで、どのような整合的な解釈も不能な奇妙な余韻を残している。

狂人の妄想と思われたことが実は本当のことだったと明かされた後で、さらには何ら論理的な必然性がないにも関わらず、緯度0から現実世界に戻ったはずのロートンは期せずして再び緯度0へと引き寄せられているのである。

ロートンの語る緯度0の物語がマッケンジーや田所に瓜二つの乗員の登場によって夢物語と疑われることで、すべてはこの連中の狂言かと思わせておいて、さらにこの連中もまたニューヨーク銀行の宝石のことを識らなかったことで緯度0側の周到な隠蔽工作と思わせ、その上さらに緯度0側の思惑をも超えた偶然としてこの軍艦の目的地が緯度0であることを明かすことで、観客の整合的な解釈を最終的に拒否しているのである。

つまり、この映画のラストの味わいというのは、物語全体の解釈の図と地を反転させるような展開が短時間の裡に釣瓶撃ちで繰り返されることで成立しているのであり、劇中の特定の実体が何らかの結論を偽装しようとしているのではなく、メタ的な語り物の詐術としてオチを作っているということである。

この種の多層的な逆転の話法に基づく奇談的味わいは、勿論オレたちが識っている関沢新一の発想から出てくるような種類のものではなく、元々のシナリオからあった要素だと考えるのが妥当だろう。どんでん返しが三段構えになっているしつこさは当時の日本のカツドウ屋の発想というより「鮮やかなオチ」を狙うハイブラウなSADDEN STORYのノリである。

そして、このエピローグの部分の奇談的な味わいがすべて語りの要素で成立しているということを考えるなら、元々この作品の原案がラジオドラマであったという事実が想起されることだろう。「LATITUDE」「LATITUDE」「ZERO」「ZERO」という復唱のダメ押しで余韻が生起するつくりは、ラジオドラマという起源を直接連想させる要素である。

だとすれば、ラジオドラマならではの語りとセリフで生起する多層的で複雑などんでん返しの味わいが、字幕のない海外版や海賊版のやっつけ仕事の字幕を見て十分に理解できるはずもなく、中華圏経由の日本語字幕版がなかった時代に「夢オチ」という大雑把な誤解がある程度罷り通ったのも無理からぬところである。

個人的には無有郷伝説+語りの詐術というハイブラウを衒った語り口が若干鼻に附かないでもないが、ある種、この「衒った」語り口が醸し出すのは黄金期の素朴な空想科学小説の雰囲気である。

一説によれば原案となったラジオドラマのオンエアが第二次大戦中という話もあるくらいで、映画の制作時の六十年代末にはすでに活字文芸のSFから視てかなり古臭い話になっていたたわけだが、結果的にはちょうどオレが子どもの頃に読んでいた子ども向けにリライトされた黄金期の古典SFに近い雰囲気が成立している。

東宝サイドがこの作品を一般向けの娯楽大作として企画したのだとすれば…事実お色気サービスが他の東宝特撮作品に比べて相当過剰なことを考えても大人の観客を想定していたのだと思うが、若干ジュヴナイル寄りの稚ない内容であることは間違いない。しかし制作年度の時代性を考えるなら、肩の凝らない娯楽映画一般が概ねこの程度の下世話でわかりやすい内容のものだったのだから、さしたる瑕瑾でもないだろう。

そういうわけで、一貫した論旨もないままにダラダラと感想めいたことを書き連ねてきたが、東宝特撮のあの世界が好きな人にとっては、普通に楽しめる作品であることは間違いないだろう。権利関係のごたつきで長らくお預けになってさえいなければ、東宝メカ特撮のごく一般的レベルの良作として愛されてきたことと思うが、まあ、新世紀に持ち越された旧世紀からの贈り物だと解釈すればそれも悪くないだろう。

その一方で、海外からVHSを取り寄せて字幕の附かないインターナショナル版を観るしかなかった時代に、この作品に対する評言が剰り好意的なものではなかったのもある意味無理はないと思う。先程語ったように、この映画は元々語りの文芸として成立した起源の故か、視覚で語る生理に基づいた物語というより、かなり講釈調の法螺話的な性格を帯びている。

英語を上手く聞き取れないと、大部分がノッペリしたスペクタクルの連続になって退屈を感じるし、その印象は字幕が附いてもさして変わらない。セリフを日本語に吹き替えた国内版を観てようやく東宝特撮らしい芝居の雰囲気を感得できるのだが、SF的な意匠で語られる理想郷妄想自体がすでにチャンピオン祭の頃ですら時代遅れの古色蒼然とした観念であっただけに、その大時代な空想科学小説的雰囲気を楽しむくらいの姿勢でないとつまらなく感じてもしょうがない。

その種の雰囲気はある意味で東宝特撮全般に感じる要素でもあって、東宝特撮定番のあののんびりしたレトロモダンな雰囲気を好むファンなら、この映画のSF性の古臭さもかえって味に感じられるだろうとは思うのだが、まあ余所行きの姿勢で他人に紹介する場面では「面白い映画」「大傑作」とはちょっと言いにくい微妙な位置附けの作品であるのは間違いないだろう(笑)。

勢い、一種紹介者としての使命感から、大多数の評言が「単に権利関係の問題で観られないだけで、ヤヴァい部分があるわけでもないし、そんなに面白い映画でもないよ」という中庸な表現に留まったのも仕方ないだろう。

今や観ようと思えばいつでも観られるようになったのだから、一個人の感想として言うのだが、従来の東宝特撮映画のファンなら誰でもけっこう楽しく観られる標準作ではないかと思う。

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