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2006年7月 5日 (水曜日)

夫々の終わり方 其の弐

だが、それよりもっと悲惨なのは、そんな微温的なドラマよりも満足度が低かったわれらが「ギャルサー」である。この調査は「放送中間」のものであり、放送開始から二カ月の時点で発表されていることから折り返し段階で集計されているのだろうが、それは一五%台でスタートした滑り出しから一〇%台にまで下落した時期と符号する。

これは打ち切りを喰らった「7人の女弁護士」と同程度ということであるが、リンクのサイトには一一位以下の番組が発表されていないから、もしかしたら7人の直後くらいにランクされているのかもしれないが、辛くも一〇位圏内に留まった7人よりも満足度が低いランク外という結果には変わりがない。

以前触れたテコ入れ的な路線変更は、この前半の低迷の反省を踏まえた結果なのかもしれないが、最終回近辺で若干盛り返したとは言え一三%前後に留まり、視聴率的には惨敗という結果だろう。要するに、これまで土九の枠を支えてきた視聴層にはアピールしない内容だったということである。

それはつまり、非ジャニーズ主演で若手女性アイドル中心のキャスティングが従来の想定視聴層にマッチしていなかったとか、内容面でもこれと言ってセンセーショナルな話題性がなかったなどいろいろな事情が考えられるが、まあぶっちゃけて言えば、女子中高生以外は誰もギャルサークルになど興味はないし、その頼みの綱の女子中高生はギャルサークルよりもジャニーズに興味があったということなのだろう。

大人世代とギャル世代の対立と葛藤をテーマとしたドラマが、結局のところ大人世代からもギャル世代からも見向きもされなかったというのは、ある意味当然ではあるが皮肉な結果である。

一方、世代別の調査結果を視ると、放映開始前はそれなりに女子中高生の間にこの番組に対する期待値があったのに、回を重ねる毎に全世代層に亘って関心が薄れて行ったことが視て取れるが、それにはやはり、このドラマの劇的リアリティが剰りにも先鋭に突出したものだったのが、ごく普通の視聴者に敬遠されたという側面があるのではないかと思う。

たとえばジェロニモとシンノスケの会話の場面のカメラワークやアドリブ臭に象徴されるように、このドラマのシンノスケサイドのリアリティというのは、劇画的を通り越してバラエティショー的でさえある。この種の異様な劇的リアリティの感覚と類縁を持つのは、たとえば久世光彦の「ムー一族」に代表される実験的ドラマ群や虚構度の高い小劇団系演劇のそれだろう。

以前語ったように、ギャルサーにおけるシンノスケやジェロニモの棲む「アリゾナ」は現実のアリゾナではなく、即興的な思い附きレベルのギャグが満載された架空の異界としてのアリゾナである。さらにそれも現実のアリゾナを異化したある意味「固い」リアリティの世界ではなく、ある種の「語りのノリ」の中にしか存在しない稚拙な書き割りの世界であって、思いきりふざけた「柔らかい」リアリティの世界である。

たとえば「妖獣都市」における新宿のようなSF的文脈における異化された現実の領域のように、緻密な設定と描写の積み重ねに基づいて現実感を主張する舞台ではなく、普通一般に俗悪なイメージで捉えられている「ワイルドウェスト」の道具立てがあるだけで、何ら確固とした決め事がない。そこで幅を利かせているのは「インディアン嘘吐かない」レベルの漠然とした共有イメージ、それも今時通用しないような古色蒼然たるものである。

その世界における何物であろうとも、お話の都合で必要なら思い附きでポッと生まれるのであり、それらの要素相互を整合させねばならないリアリティ上の縛りもない、思い切って自由でいい加減な虚構性の屹立した世界である。

そんないい加減な世界からやってきたいい加減なキャラクターが、普通一般の意味でリアリティを持つものではなく、シンノスケというキャラクターは自分が絵空事の存在であることをいっさい繕わない、話法上最大限に開き直ったキャラクターである。

こんな嘘臭い人物が演じるドタバタを、ごく普通のドラマの視聴者が如何なる意味においても真に受けられないのは無理もない。普通なら「アリゾナから渋谷に来た日本人カウボーイ」という突飛な設定を本当らしく見せるために、アリゾナのリアリティやカウボーイの人物像をもう少しリアル寄りに振るのがセオリーである。ところがこのドラマでは、筋立て上の突飛な設定をさらに茶化すように、アリゾナは書き割りだしカウボーイは胡乱なガイジンで、どこをどうとっても本当らしい部分がない。

この開き直った出鱈目なガイジン描写は、最前ちょっと名前を出した久世光彦の「谷口六三商店」のインド人よりもひどい。とにかく道具立てや描写の積み重ねで「シンノスケが日本生まれアリゾナ育ちのカウボーイであるという劇中事実」を信じさせる気などまったくないということである。このドラマがイメージ上のヒントを得ていると思われる「クロコダイル・ダンディー」ですら、そのレベルの劇中事実を茶化すことまではしていない。

オレが他国の人間だからそう感じるのかもしれないが、主人公ミックがアボリジニに育てられた鰐取り名人の自然児だという設定そのものが嘘だとまでは感じないし、劇中のアボリジニの習俗もそんなに出鱈目だとは感じない。だが、ギャルサーのアリゾナが徹頭徹尾嘘っ八の作り事であることは外国人のオレが視てもアカラサマなことで、このドラマの場合、描かれている劇中事実に誇張があるのではなく、頭から終いまでまるっきりの嘘なのである。

つまり、このドラマにおけるシンノスケというキャラクターは、描写や設定による後ろ盾を何も持たず、随って描かれている劇中事実の本当らしさの故にドラマ内に存在を許されたキャラクターではなく、「無前提で日本生まれアリゾナ育ちのカウボーイという戯画化されたキャラクターとして存在する」のである。

別の言い方をするなら、この番組の視聴者は、筋の通った本当らしい劇中事実の連なりの結果目の前に現れた人物としてではなく、「こういう人物が主人公です」といきなり紹介された人物としてその存在を真に受ける必要があるのである。そして「その人は日本生まれアリゾナ育ちのカウボーイなんです」という窮めて嘘臭い乱暴な説明があるだけなのだから、誰でも「え〜〜〜っ?」と呆れるのは当たり前だ。

このような人を喰ったやり方で登場した人物が主人公を演じる物語を、普通の視聴者が真に受けられないのは当たり前である。しかも話が進むに随って、この嘘臭い人物の本当らしさが描写によって補強されるどころか、それが嘘であることを益々強調するような適当な嘘が積み重ねられるのだから、普通は莫迦にするなと思うだろう。

先程語ったように、このような虚構的な物語内人物は語りのノリの中でしか存在を許されないのであり、たとえば「頭山」や「そこつ長屋」「首提灯」のような落語の不条理オチが語りの芸の中でしか本当らしさを獲得できないように、客観的なリアリティに支持されたコンクリートな劇中事実をどう語るかが問題となるのではなく、特定の語りのノリの中にしか成立しない本当らしさをどのように語って成立させるのかが問題となるのである。

このような語りによって生起するリアリティというのは観る人を選ぶ。「首提灯」の噺を聞いて「んなわけねーだろ」と真顔で突っ込む人には、語りによって生起する本当らしさの感覚やその面白みはわからない。大多数の視聴者は、TVドラマというものを本当らしい出来事の組み合わせで筋立てが出来ていて、それを出来るだけ本当らしく語るお芝居だと考えているのだから、どのように語るかで本当らしさが生まれるなどということを信じない。

ギャルサーというドラマは仮構度の高い一種の童話なのだが、それは渋谷とギャルというそれなりに「固い」現実にシンノスケという「柔らかい」キャラクターが侵入することで、現実の世界律に対して即興的な語りの世界律が作用を及ぼすという構造になっている。嘘臭い人物の演じるドタバタの世界律が徹頭徹尾嘘であることで、嘘臭い嘘の積み重ねによって嘘としてのリアリティが生起する語りの構造なのである。

何も考えずに観ている分にはそのような理屈を意識するまでもなく、シンノスケの周りでどんな非常識なことが起こっても、「んなアホな」とツッコミつつもそのようなものとして納得してしまう。所詮このドラマは嘘で固めた作り事なのだが、無責任な嘘で貫かれているからこそ、嘘それ自体のリアリティが突出するのである。

普通のドラマが、同じ嘘でも本当らしさと嘘相互の一貫した整合性を積み重ねることでリアリティを獲得するのに比べ、このドラマのリアリティは本当らしくない嘘を嘘事のまま真に受けるという奇妙にねじくれたリアリティを獲得しているのである。

このようなリアリティのドラマもあり得るのだと思えれば楽しめるが、やはり一般的な受け取り方からすればふざけすぎに感じられるのではないかと思う。たとえばこのドラマの在り方に対して抵抗がなければ、最終回の一連の流れで昏睡に陥ったシンノスケの魂を呼び戻すためにギャルたちが艱難辛苦を冒したり、商店街の面々がシンノスケを囲んで莫迦げた踊りを真剣に踊るくだりで、それが嘘らしい嘘にしかすぎないことを諒解しながらも奇妙な感動を覚えるのだが、こんなふざけた嘘事を本当らしく感じられない視聴者には到底受け容れられない感覚だろう。

観る人を選ぶ番組が数字を穫れないのは当たり前で、それを愛好する層がマッスとしてかなり広範に亘るか、どのような層の人が観てもそれなりに楽しめる番組でないと高い視聴率は穫れない。残念ながらこの番組はそのどちらでもなかったのだろう。

さて、一視聴者がこれ以上視聴率低迷を悔やんでも仕方ないので、以前の話からの連続でこのドラマの最終回を語りたいと思うが、なるほどこのような落とし所を想定して第八話の展開を変更したのかと納得した。

前回触れたときに少し暗示したように、第一〇話の展開で仄めかされている結末は学園としての渋谷、教室としてのエンゼル・ハートの解体である。エンゼル・ハートという教室を口実として集まった少女たちは、最終的に学園と教室を放棄し、大人と子どもの共存する剥き出しの社会の中へ解放される。それは子どもを子どもとして囲い込まない場へ解放されるということであり、平たく謂えば大人になるということだ。

第七話にサキのリーダー代理就任のエピソードが置かれている以上、当初目されていたゴールは、学園装置としての渋谷、教室としてのエンゼル・ハートの機能を前提とした教育機能の連続性だったはずである。おそらく、レミやナギサたちの世代があがりの時期を迎えて去った後、サキやシズカたちの世代が成長しリーダーとして新たな世代の迷い子のような少女たちを導いていくラストが構想されていたのではないか。

普通の学園ドラマとのアナロジーで謂っても、型破りな新人教師がドラマのラストで学園を去ることは常道であっても、彼以外の人間は必ず学園という場に残るのであり、残された人々は彼の教えから得たもので成長を果たし、今度は自分以外の誰かに手を貸すために尽力するという幕切れになるのがパターンである。

前回の話では、それがつまりギャルサークルという教育機能を持つ場を主眼に据えたシリーズ構成であり、第八話の不自然な展開以降は物語の重点がサークルではなくシンノスケサイドにシフトして行ったのではないかという推測を語ったが、このドラマの実際の終わり方はまさしくそのような主軸に沿った展開となっている。

物語のもう一人の主人公であるサキは、第七話の時点ではレミやナギサのような責任ある有能なリーダーの立場を目指す、つまり一般的な意味での社会的な成長を目指すはずだったのが、第一一話ではあろうことか社会的にはまったく無価値な異人であるシンノスケの立場を代替している。これはつまり、サークルという場の教育機能よりもシンノスケというトリックスターの物語機能が重視されているということである。

サークルという場を重視するなら、それはゴーイング・コンサーンであって、継続的に存続する場の持つ教育機能が重視されるが、シンノスケというトリックスターが重視されるなら、サークルという場に特別な物語上の意味はない。

サークルに集うギャルたちという継続的に流動する集合名詞としてサキたちが意味附けられるのではなく、シンノスケという個別の主人公と関わった個別の集団として意味附けられるのである。その意味で、レミを含めてサークルの少女たちがシンノスケの影響の下に成長を果たしたなら、シンノスケとの別れに際して、サークルは一回的な物語の場として解体されてしまうのである。

渋谷という街もエンゼル・ハートという集団も、シンノスケがギャルサーという個別の物語で活躍するための口実にすぎないからである。シンノスケが去ることで物語が終わるなら、彼の物語を語るための道具立ても撤去される必要があるのである。

その間の事情を物語るように、公式ガイドとして出版された「ギャルサー・ビジュアルブック」に掲載された藤木直人やプロデューサーのコメントは、この番組を学園ドラマの鋳型に填めて捉えることに対して留保を設けている。

藤木直人の発言で面白かったのは、このドラマの構造が学園ドラマとは異なることの根拠として、シンノスケが「教師と違ってギャルへの義務も責任も負っていない。ただ自分の信念に沿って行動しているだけ」という点を挙げているところで、まさに学園ドラマにおける教師の要諦はそれなのであり、藤木の認識はクレバーである。

サークルという教育機能を持つ場にギャルへの義務や責任を負った人物が現れ、その教育を目的として行動するドラマではないのであり、そこが違うからこそ、物語が進むに連れてサークルという場の教育機能が重要性を持たなくなってくるのである。

ギャルサーの物語が、シンノスケという個別の人間が自身の信念に基づいて行動することでエンゼル・ハートのメンバーという個別の人間が影響を受けるという構造を持っているのであれば、サークルという場は継続的に存続する必要がなくなる。

このドラマの人々は、渋谷やサークルという場に教育機能があるから成長するのではなく、シンノスケの行動が物語のダイナミズムを生み出すから成長するのであり、物語の世界にシンノスケが存在すべき理由がなくなったから、彼の存在に場を与えていたサークルは解体されるのである。

この流れを表面的に視るなら、これまでギャルサーとの比較において度々例に出してきた「Sh15uya 」と共通性があることに気附くだろう。ツヨシというトリックスターの出現によってバランスを喪ったシブヤという学園は最終的に解体され、そこに幽閉されていた子どもたちは大人の圧政を脱して教室を飛び出していく。

だが、Sh15uya とギャルサーの本質的な違いは、前者が学園を大人による子どもの圧政装置として否定的に視ているということである。学園が解体されるのは、それを打倒することが物語内におけるゴールとしての革命だからであって、学園にも教師にも肯定的な教育機能というものは認められていない。それが物語の「テーマ」であるか否かはさておき、このような「教師を打倒しろ、教室を飛び出せ!」とストレートにアジるスタイルが幼稚なものであることは以前語った通りである。

子どもたちには、学園を飛び出したところで自由などないのであり、もっと不自由な社会の頸城が待っているだけである。多寡が学園程度の不自由さを忍べない人間が、社会に出てから何か有意義な行為を為し得るものではない。学園とは、子どもたちに社会の不自由さに立ち向かう力を附けるための時間を与える場なのである。

それ故に、たしかに学園には圧政装置としての側面はあるし、教師には獄吏的な性格があるが、直接それを打倒することに何ら意味はない。学園には子どもを大人社会の暴力性から保護するという本質があるのであり、それを隠して圧政的な面を強調し、体制打倒の果てに自由があるかの如く語るのは、テーマ云々を別にしても子どもの関心に対する媚びであると思う。

勿論、つくり手たちがSh15uya の物語において何をテーマとしてどのような主題を語りたかったのか実際のところは識らないが、ごく普通に観ていると大人の視聴者も古臭い体制打倒の臭気を感じ取ってしまうだろうし、つくり手がそれを意図していなかったのだとしたら、自分の作っているものが他人にどのように受け取られるかということについて剰りにもナイーブだということだろう。

だが、ギャルサーにおいては最終的に放棄されてしまうにもせよ、学園も教室も否定的な意味では捉えられてない。そうではなく、物語を成立させるための口実として学園や教室が必要とされながらも、物語の進展に伴って最終的には不必要となるから解体されてしまうのである。藤木が語るような本質は、やはり無前提でいきなり成立するものではなく、学園ドラマとのアナロジーがあるからこそ成立するのである。

サークルという場が教室とのアナロジーで視られるものだからこそ、そこに現れる異人の教育機能が成立するのである。一旦は教師と生徒のアナロジーで関係性が視られるからこそ、最終的に教師と生徒という関係性であるべき必要性が消失するのである。これは最初から無前提の人と人との関係性として提起されていたら見えてこない性質の認識なのであり、サークルが解体される意味はなくなるだろう。

シンノスケが教師のアナロジーで視られていたからこそ、シンノスケに対して何かを返したいと奮闘する人々の努力が意味を持ってくるのである。つまり、ギャルサーという物語は学園ドラマ「ではない」のでなく物語の運動の結果として学園ドラマ「ではなくなる」という奇妙な全体構造を持っているのである。

前回のエントリーで「学園ドラマそのものの解体」という言い回しを用いたのはそういうことであって、普通の学園ドラマが自明の前提として持っている要件を欠いているこの物語において、学園ドラマで語られるテーマは学園ドラマの構成要件を劇的必然として要求するのかどうかがラジカルに問われているのであり、最終的にその必然を否定して学園ドラマの既存構造そのものを解体するのである。

たとえばそれは、第一〇話のラストにおいて唐突にプロパン爆破に巻き込まれ、重態に陥ったシンノスケを回復させるために、ギャルをはじめ渋谷の人々が奮闘するという筋立てにも顕れている。ここでシンノスケの昏睡というイベントが設けられたのは、シンノスケという特定個人に対する応報という物語上の落とし所が想定されているからであるが、それは一般的な学園ドラマにおいては不必要な手続なのである。

何故なら、先程触れたように学園という場はゴーイング・コンサーンであって、人々の世代的流動の中で継続的に存続する通過点なのだから、特定個人から受けた恩義をその当人に返す必要はないからである。教師から受けた恩は、その教師当人に返すものではなく、自分が目下の世代に同じような役割を果たすことで返すものだ。

たとえばよくある学園ドラマの落とし所として、教え子の一人が教師となってかつての学舎に赴任し、開口一番かつて主人公の教師が着任時に口にしたセリフを吐くというような連環のパターンがあるが、これはそのような学園の継続的な場としての機能から導き出される落とし所である。つまり、この落とし所によって、特定の誰かから受けた恩義は世代的な流動の中で順送りに受け継がれるのであり、それが教師に対する恩返しの本質的な一般則なのである。

それ故に、たとえばギャルサークルという場の教育機能が重視され学園ドラマが解体されなかったのだとしたら、先程陳べたようにサキが成長し後輩に対して指導的役割を果たすという形での応報の結末が用意されたことだろうが、サークル=教室という継続的に存続する場の必然が否定された以上は、特定の誰かに受けた恩義はその当人に返す必要が生じてくるのである。

人が人を教え導くという構造の物語において、教師に準えられる年長者が生徒に準えられる幼弱者を教導する目的に特化した学園に準えられる継続的な場が必ずしも必要とされるのではなく、人は人との一回的な関わりにおいて有意義な影響を与えることが可能なのだ、成長することが可能なのだというテーマが立ち上がってくることで、直接的な応報によって物語を〆る必要が生じてくるのである。

そういうわけで、前回訝しんだ第八話の不可解な展開を受けた必然としてある学園の解体と応報のドラマという観点の下に第一一話をもう少し具体的に振り返ってみよう。このフィナーレは前回のラストで唐突にアリゾナを襲ったハリケーン、唐突に起こった集会場の爆発というジェロニモとシンノスケ双方の危機を受けて開始される。

冒頭の集中治療室の一連は、おそらくこのドラマで唯一と言っていいだろう糞リアリズムで描かれた場面である。嘘で嘘を塗り固めた嘘事のこのドラマにおいて最大限にリアルな事件とは、この嘘臭い主人公が嘘臭いシチュエーションにおいて巻き込まれた嘘臭い事故によって、嘘偽りなく生命の危機に晒されているという劇的事実のリアリティを強調する一連なのである。

このリアリティの匙加減は絶妙で、本来シンノスケは高いビルから落ちてもバンソウコウと包帯だけで終わっちゃうような嘘事のリアリティの住人である。それがサークルの集会場=教室の爆破に巻き込まれて危篤状態に陥るという危機的状況の突発は、お話の都合で取って附けたイベントにすぎないくせに、最大限にリアルに受け取ってくださいと目配せされているのである。

さらに、緊急医療の描写が妙に現実寄りに振ってある一方で、看護士が帽子を取ろうとすると無意識の裡にそれを庇うというコミカルな描写は、後半で意味を持つ後附けの設定提示にすぎないが、シリアスとコミカルのバランスという意味でも効いている。

普通なら、生命の危機に陥った人間に他の人間がしてやれることなど何もない。しかし嘘事の適当な世界律が支配するギャルサーの世界においては勿論そうではなく、アヤシゲな儀式を行うことで魂を呼び戻すことができるのであり、後半の展開はこの儀式を中心としたものとなる。

一般的なドラマの世界律で謂えば、この場合の儀式とは劇中の現実性において抽象的な意味しか持たないはずなのであるが、このドラマにおいては劇中の誰もその儀式の実際的な有効性を疑う者はいないし、事実この儀式によってシンノスケは死の淵から生還する。そして、冒頭の高度救命医療描写の糞リアリズムは、このいい加減なジェロニモの儀式との対比においてそのように描かれていたのである。

このドラマにおいては、インディアンがこうだと謂えばそれは理屈抜きにそうなるのであって、理屈の通った緻密な現代医学など何の力も持たないのであり、逆に謂えばそうでないならシンノスケがガス爆発に巻き込まれて重態に陥るという唐突なイベントは起こらなかったのである。

その儀式に必要とされるアイテムのリストは以下の通りで、これもまた実効を持つとは到底信じ難い至極アバウトで頼りないものでしかない。

いちばん高い空を飛ぶ鳥の羽根
いちばん深い海で眠る貝殻
いちばん急な崖に咲く花
いちばん青い羽根を持つ蝶
いちばん美しく飛ぶブーメラン

この場合に謂う「いちばん」とは何であろうか。一口に「いちばん」と謂っても「世界でいちばん」でなくてはならないなら、渋谷のギャルがその辺の崖や海に行って取って来られるものではないはずだ。

いちばん高い空を飛ぶ鳥とは何だろう。一説によれば、それはチョモランマ上空、標高にして九〇〇〇メートルもの高みを越えて渡るアネハヅルやヒマラヤオオワシであると謂う。だとすれば、とりあえず「いちばん高い空」を摩すチョモランマ山頂へ登ってツルやワシの死骸から羽根を毟って来いというのか。

いちばん深い海で眠る貝殻とは何か。貝類の生息域は浜から深海まで多岐に亘るのでその死骸である外殻部はどんな海底にも漏れなく存在する。ならばこの場合は「いちばん深い海」に重点がかかるので、最も深い海底にとりあえず潜って落ちている貝殻を拾って来るということになる。マリアナ海溝にでも行けというのだろうか。

これがインディアンの呪術として位置附けられていることを考えれば、そういう意味ではないだろう。おそらくそれは、それを探し求める人々が「いちばん」だと認識していればそれでいいのである。インディアンの素朴な世界認識において「いちばん」であるということは、探し求めることが最高度に困難な物を探せということである。

そうでなければ「いちばん青い」などという感覚的な定義附けに基づいて蝶の羽根を探すことなどできないはずで、容易く「これだ」と決められないくらい「いちばん」の青さを求めるから、それは困難な試練となるのである。

この場合、死に往く者の魂を呼び戻すことが非理であり不可能であるという暗喩としてそれが規定されているのではなく、それを望む者が自身に許されている限りの困難に挑むことが求められているのである。

だとすれば、救いの儀式に供えられる「いちばん」な供物とは、死に往かんとする魂を呼び戻すために生者が可能な限りの困難な試練に挑んだことの証しであり、それ自体には何ら意味はない。いわば嘘偽りない「気持ち」の証しである。「気持ち」だけではダメなのであって、その気持ちは現実の試練によって証されねばならないのである。

冒頭で糞リアリズムにおいて描写された高度先端救命医療は信じなくても、これまでの物語で胡散臭く適当に描かれてきたインディアンの呪術は何の疑問もなく信じる劇中人物たちは、そこで何ら逡巡することなく各々の認識の中で「いちばん」の供物を探し求めるために真心から困難に挑むのであり、それが厳密な意味で「いちばん」なのかどうかは最初から問題ではない。嘘偽りない真心の証しさえあるのなら、糞リアリズムの対極にあるギャルサーの世界では死者の魂を呼び戻すことさえ可能となるのだ。

そして、最終的に死に往く者の魂を呼び戻す役割を担うブーメランは、これまで尤もらしいジェロニモの喩え話に頻出したアイテムであり、一般に「ブーメラン」と謂えばその名称の由来となったアボリジニのものが有名だが、実際にはブーメラン状の武器は汎世界的に視られるもので発祥を特定し難いそうだ。北米インディアンにもブーメランを使う種族があり、ジェロニモがブーメランに度々言及しても実は不自然ではない。

一度手元を離れたものが弧を描いて戻ってくるという普通はあり得ない呪術的な運動性を持つブーメランが喩え話や儀式に用いられるというのは、共感呪術の文脈ではリアルな設定だが、もちろんそんなリアリズムはどうでもいいのである。問題は「いちばん美しく飛ぶ」という曖昧な定義には、どのような困難を冒すことが求められているのかが明確ではないということである。

ジェロニモが用意するブーメランには、ギャルたちに委ねられた供物がそうであるような困難な試練の定義が明確ではない。儀式のMCであるジェロニモ自身の呪力が効を持つというのなら問題はないが、勿論このドラマにおける呪術とは人々の心の在り様を外在化するための「喩え話」でしかないのであり、呪術それ自体にも、それを司るジェロニモ自身にも何ら特別な力はない。

つまり、ギャルたちの試練としては成立しない「いちばん美しく飛ぶブーメラン」という欠落が設けられていることで、クリフォードの柳下が旧世代の不寛容さの代表者としてその試練に参加する余地が生まれるのである。そこで附け加えられる心の力の象徴としての呪具とは、大人である彼のレゾンデートルとなっていたアナログレコードそれ自体ではなくその「損壊」である。

それは、今この場に大人として存在する彼が己の拠り所としている大切な物であり、若者たちが我が物顔で闊歩する異形の街と化した渋谷で、今時流行らない名曲喫茶店を続けている柳下の最後の意地のつっかえ棒であり、彼の来し方そのものを意味附けてくれる物である。このような己の連続性が外界に投射された物としての何かは、人としての歴史の積み重ねを未だ持たないギャルたちにはないものである。

だが、ここ数話の流れにおける柳下は、秘かに渋谷という場に占める自身の存在価値に疑問を感じており、この儀式に至るまでの柳下の内的動機は、ドラッグストア店主の相川に商店会長の座を譲る一連から長々と伏線を張られていた。この柳下を巡る一連の決算としてアナログレコードの損壊があるのであり、これまでの自分の来し方にしがみついていた姿勢を見直したいという動機においてそのイベントが生起するのである。

一種これは商店会の大人世代の中では破格の優遇で、大人世代とギャル世代の対立と葛藤をテーマとする物語において、大人世代の側の主人公として柳下が位置附けられているということである。

これはやはり、土九枠中興のキッカケとなった「ごくせん」における生瀬勝久の役どころに目配せした部分だろうと思うが、最後まで素直にシンノスケに対する好意を顕わすことのなかったこの男が、これまでの人生の象徴とも謂うべきアナログレコードを自身の手で損壊することで、「いちばん美しく飛ぶブーメラン」という曖昧な条件附けが完遂される。

当然のことだが、アナログレコードを切り刻んでブーメランを作っても実際にはマトモに飛ぶはずがないので、よゐこのみんなはマネしてはいけない。真っ平らなレコードをどんな平面形状に加工しても揚力が発生するはずがないからである。

だが、このドラマの中でブーメランが美しく飛ぶのは、翼断面形状やそれによって生じる揚力とジャイロ効果、歳差の綜合としての物理運動の故ではない。もう二度と音を奏でることのないレコードに美しい音楽が封じ込められているからであり、それを愛した男の人生が封じ込められているからなのである。不朽の名曲を刻み込み長い時を掛けて愛された物の亡骸は、それが元の形と機能を喪っても美しく宙を舞うのである。

さらに、柳下がそれを思い立ったのは、父親の大切なコレクションを、その価値も識らずに切り刻んでブーメランを作った稚ない頃を想い出したからであり、大人の垢が染み附いた中年男が稚な児の心に戻るという回帰の運動性がそこに仮託されているからこそブーメランの呪術的運動性が確保されるのである。そして、これによってシンノスケの魂を呼び戻すことに成功したことで、一度手放そうと決意した店を続けていこうとする回帰の運動が連環するのである。

この儀式に纏わる一連によって応報が完遂されたことで、当然それに続くイベントしてシンノスケとの別れが用意される。何故なら、ふらりと街を訪れたカウボーイは物語の終わりにおいて必ずその街を去るものだからであり、異人と共同体の関係を円満裡に終わらせるには、役割を終えた異人がそこを去る必要があるからである。

シンノスケとの別れの場面では、最後の大嘘として投げ縄で雷を捕らえるという法螺話が語られ、渋谷大停電という嘘事のイベントの中で最後の「お説教」が語られる。それは単なる絵空事のお説教だと言えばその通りで、大自然への畏敬を抱く自然児が現代文明を批判し、街の便利さで忘れたものを想い出せと語るお題目でしかない。

だが、そのお説教を受けたギャルたちのリアクションとして、前回のエピソードで集会場が放棄されたことに続いてエンゼル・ハートそれ自体の解散が決定される。これはつまり、迷い子のような子どもたちに疑似家族としての場を提供するエンゼル・ハートという最後の拠り所もまた、星を隠す街の光にすぎないという結論である。

シンノスケのメッセージは、渋谷という人工的な街の安穏、エンゼル・ハートという疑似家族集団の温かさに安住することを否定し、寄る辺ない少女たちに「家に帰って自分の道を探せ」「一人の人間として個別の問題に向き合え」と語っているのである。彼女たちが生きるべき道は渋谷にもサークルにもないと語っているのである。

それはつまり、食べ物が豊富にあり、夜も明るく光が灯され、子どもたちが家に帰らずとも暮らせる場所に本当の生活などないということであり、それは子どもたちを世界の厳しさから守る場と集団の解体へと繋がるのである。これはこのドラマの性格が学園ドラマと不即不離の関係にあるから成立する落とし所で、学園ドラマとしての構成要件を十全に具えたドラマには適用できないメッセージである。

学園と教室のアナロジーとして提示された渋谷とギャルサークルは、最終的には学園ドラマとしてのアナロジーを解体することで、文字通りの渋谷という街、ギャルサークルという集団として解消されてしまう。しかもそれは、渋谷一般、ギャルサークル一般に対する言及ではなく、この物語内で語られた個別のそれについての結論であり、一回的な物語の決算としての結論であることには注意が必要だ。

視聴者はどうしてもこの種のヴィヴィッドな題材を扱った物語に相対するとき、その物語の背後にそれが扱っている題材についての批評的言及のようなものを想定する。渋谷という街、ギャルサークルという集団、そのような題材一般に対するこのドラマの意見はこうなのだという印象を抱きがちだが、本来的には取材とは物語の口実にすぎないものである。

以前Sh15uya について語った際に、取材的認識を一歩も出ていない物語感覚を批判したことがあるが、ギャルサーの場合は、たとえば劇中のインディアンやアリゾナが物語に必要な口実としてのまったくの嘘事であったように、最終的には渋谷もギャルサークルもこの個別の物語の中の個別の劇中存在として一般化を拒否している。つまり、この物語は現実の渋谷に屯するギャルサークル一般に対して、サークルを解散し家に帰れという意見を陳べているものではない。

何故なら、この物語はその中で扱われている題材一般に固有な問題性の核心にはいっさい触れていないからである。リアルな渋谷の問題性、リアルなギャルサークルの問題性に即して物語を展開し、それに一般的な解法を提案するような物語の作り方をしていないからである。

おそらく現実の渋谷における現実のギャルサークルには、同世代集団としての自律機能と教育機能の幾許かがあるのだろうと思う。同世代集団とは、いわば子どもの学校なのである。価値観の隔絶した大人世代からの高圧的な教導を疎んじる同世代の子ども集団が、自身の世代内でリアルに感じられる徳目に基づいて集団を律し、後輩を教導するのがこの種の同世代集団の持つ教育機能である。

喩えは悪いがそれは暴走族などにも共通する性質で、この種の同世代集団は自分たちが独自の道徳律に基づいて行動する倫理的な集団であることを誇示するものだ。集合目的自体が反社会的な暴走族については嗤うべき独善というしかないのだが、基本的にこの種の同世代集団は、単一世代の視点しか持ち得ない故にその徳目は多かれ少なかれ独善の弊風を免れない。未だ途上でしかない未熟な世代が、自分たちの未熟な心性にとって受け容れやすい徳目を掲げるのだから、それは当たり前である。

このドラマの出発点は、勿論現実のギャルサークルへの取材から得られた「子どもの学校」という認識であり、大人世代と子ども世代の断絶という問題性なのだが、そのような出発点を取材源のリアリティに直接寄り添うかたちで展開してはいない。渋谷という街もギャルサークルという集団も、大人と子どもの対立が持たれる場として普遍化されており、孤立した子ども集団を成立させる現代文明として渋谷という街の人工性が捉えられている。

このような状況が出来するにはそれなりの事情があるのであり、大人と子どもが対立することにも、子どもが子ども集団として自閉することにも、子どもが社会からも家庭からも孤立することにも、そして個々の子どもたちがそのような状況に今在ることにも、それぞれ無理からぬ個別の事情があるのである。その個別の問題性に寄り添うのであれば、この種の問題性には軽々な一般則の解法はあり得ない。

ギャルサーの物語は、この種の問題性を普遍化し、個別の「無理もない事情」に対してそれをいっさい意に介さない異人を導入することで、「ごちゃごちゃ細かいことを言わないで基本に返れ」というラジカルなメッセージを発している。

今時の都市生活者が、このドラマで語られているような大自然への畏敬を取り戻すことは難しいし、都市の夜空に星空を取り戻すことは不可能だ。だからシンノスケは個別の問題性に対して何らかの解法をサジェッションする存在ではないのであり、掻き回すだけ掻き回しておいて、その解決は「自分たちで考えろ」と無責任に言い放つのである。

渋谷という街の個別性やギャルサークルという集団の個別性を超越して、夜空の星よりも街の灯りが明るいのはおかしいだろう、喰いもしない喰い物が得られるのはおかしいだろう、子どもが家に帰らずに暮らせるのはもっとおかしいだろうというラジカルな疑問を突き附けているのである。

つまり、扱っている題材の問題性を普遍化し、普遍的な問題性に対して物語の個別性の埒内でアプローチしているのであり、取材対象のアクチュアルな個別性への言及を回避しているのである。物語というのは、本来取材対象のアクチュアルな問題性に対して批評的に言及することが求められるのではない。扱われている題材の個別性を越えて、受け手一般が共感可能な普遍的次元へと主題を展張し、語りの一回性の埒内においてそれに言及するのが筋なのである。

簡単に言えば、たとえ視聴者がギャルサークルという個別の対象に対して幾許かの興味を抱いていたとしても、渋谷のギャルサークルそれ自体のアクチュアルな個別性の埒内で「サークルなど解散すべきだ」とか「ギャルは家に帰れ」というメッセージが描かれても面白くも何ともないということである。

渋谷のギャルサークルに仮託されている普遍的な何物かに対する物語個別の言及として寄る辺なき子どもたちに「家に帰って自分の問題に向き合え」と語るからこそ共感が得られるのである。これが「渋谷のギャルはさっさと家庭に戻って真人間になれ」というメッセージなのだったら、渋谷のギャルサークルに何ら興味のない視聴者にはまったく無縁な話だということになるし、現実のギャルサークルの連中にしてみれば大きなお世話様である。

この物語では、エンゼル・ハートの解散を受けて、たとえば名前のコンプレックスで愛を得られなかったレミ=妹子は一ノ瀬の妻に、たとえば命の尊さを教わったナギサはどうやらシンノスケが担ぎ込まれた病院の看護士に、たとえば優等生の殻を破ったリカは教頭に切った啖呵を実行して大学生に、たとえばユリカはデザインの才を活かしてデザイナーにと、それぞれのギャルたちは自身が主役を勤めたエピソードの連続上に己の歩むべき道を見附けるが、これはアメグラ式に個々の物語を大団円で〆括るエピローグであり、何ら教訓的な意味はない。

当初それぞれの少女が抱える問題性は、他者を痍附ける心ない言葉であったり、仲間からの寸借詐欺であったり、大金を盗んでその罪を他人になすり附けたり、DVや傷害で居を転々としていたりと、シャレにならない可愛げのないものばかりでありながら、最終的に視聴者はこの現代的な悪弊を持つ少女たちを愛おしく思い、彼女たちがそれぞれの道を見出したことに素直に共感して嬉しく思う。

最早渋谷を闊歩する現実のギャルたちがどうすべきであるかなどという個別の問題性などどうでもいいのであり、ギャルサーという物語において語られた愛すべき少女たちの行く末が幸福なものであることに素直な嬉しさを感じるのである。

この嘘事のドラマにおいては、「渋谷のギャルサークル」を個別の問題性の中に隔離することで異物として排除するのではなく、大人の視点では異様な踊りに熱狂し異様な言葉を話し異様な習俗を持つインディアンのような存在である彼女たちの、その個別の異様性から出発して普遍的な少女性を掘り起こす視点がリアルなのである。

そのようにして普遍的な少女性が掘り起こされるからこそ、大人とギャルが仲良く共存する虚構の渋谷の今が嬉しく感じられるのである。これが大人の視点では理解できない心性を持つ少女たちに「フラフラしてないでさっさと真人間になれ」「小汚いギャルがマトモになれば渋谷もスッキリした街になる」という意味なのだとしたら、このようなハッピーエンドは大人にとって都合の好い欺瞞でしかないが、彼女たちはドラマを通じて自身の幼年期を存分に生き、その手応えに基づいて大人になろうと決意した、その故にこそある清々しいハッピーエンドなのである。

再々強調してきた通り、この個別の物語としてのギャルサーというドラマは、現実の渋谷やギャルサークルの現状に対して何某かの実際的提案を含んでいるわけではない。本物のギャルサークルやその構成員がどのようなものなのか、おそらくそのレベルのアクチュアルな情報すらも含んではいないことだろう。

しかし、たとえばこのドラマを楽しむことでオレたちは、半路上生活者であるギャルたちが小汚かったり悪趣味だったり風俗が異様だからと謂って、理解の杜絶した異物として囲い込むことに感情的な抵抗を感じるようになる。現実のギャルたちにもその異様な外面の裏には普遍的な少女性が存在するというのは不朽の真実なのである。

オレのような出不精の中年男には、これまでもこれからも渋谷のギャルとはいっさい縁などあるはずがないだろう。もし渋谷に出向くことがあっても、彼女たちは渋谷という街のお景物であって、道端に置かれた書き割りの一つにすぎない。普段何だとも意識することのない少女たちを語る場面がもしあったとしたら、やはり渋谷に付随する書き割りの一つとして無神経に語ってしまうことだろう。

だがそこでこのドラマの存在をちょっと想い出すならば、「雑草という草はない by某止ん事無き辺り」ということを考えてしまうと思う。ドラマが果たす抹香臭い効果としては、その程度でいいのではないのか。ドラマには取材対象に対して責任を持つ能力などはないのだから、ドラマがその対象について批評的に何かを語るのは僭越ではないかと考える次第である。

とまれ、これだけ長々と語ってもまだ語り落としたことがあるような気がするのは未練だが、とにかくこのドラマに関しては事前に抱いていた期待値を遥かに超えて楽しませてもらった。

前のエントリーで語ったように、他のドラマが全体的に不調に感じられたという事情もあったが、語り口の人を喰ったような不敵さとは裏腹に、ドラマづくりの本質的な姿勢のまっとうさに好感を持ったことが大きいと思う。

その相対として後番組の「マイ★ボス マイ★ヒーロー」にはどうもモチベーションが上がらないのだが(笑)、近年の長瀬智也主演ドラマが何となく鋳型にハマってきた流れの中でどの程度の独自性を出してくれるのか、それとも例によって数字を維持するための安全パイとなるのかくらいは見定めてみようと思う。

甚だ纏まりに欠けるが、今回はこれにて。

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