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2006年7月 5日 (水曜日)

夫々の終わり方 其の壱

夏も近附く何とやらで、一般ドラマは先週から今週にかけてほぼすべて完結する時期を迎えた。そこで、オレが観ていた範疇ではあるが、今回は今期のドラマをざっくり総括してみようと思う。

オレ的には、全般に今期のドラマは不作な印象だったが、恒例のオリコンの放送中間ドラマ満足度ということではCXの「医龍」がトップだったらしい。次がテレ朝の「富豪刑事デラックス」というのがある意味凄いが、以下はまあ順当なところだろう。

ただし、CXの「アテンションプリーズ」だけは八位でも納得が行かないくらい嫌いな作品である。割合好みのキャスティングで固められているにも関わらず、最初の滑り出し以降は録画するだけでほとんど観てはいなかった。劇中のどんな敵役よりも主人公の言動が無神経で不愉快なドラマというのは久しぶりに観せてもらったが、もうこれっきりにしてもらいたいものである。

主人公の美点とされている部分が、主人公自身が挫折しないためのものでしかなく、他人に良い影響を与える性質のものではないという辺り、主人公たるべき最低限の資格すらない。何より、視聴者がこんな人物がCAになってくれればいいのにという気にちっともならないのがダメダメである。

いくら未熟な主人公の成長物語だとは言え、その欠点に可愛げや魅力が欠片もなく、幾ら未熟者でも人としてそういう料簡違いはマズイだろうという要素でドラマの起伏をつくっていて、正直この脚本を書いた人間は何か抜本的に作劇における人間観が間違っているのではないかとすら思った。

それから、当ブログ一押しの「ギャルサー」が一〇位圏内にかすってもいないのは残念だが、一〇%程度の数字では満足度云々という以前の問題である。そうは言っても、何らキャスティングに魅力のない「おいしいプロポーズ」や、逆にキャスティングがやりすぎで息苦しい「7人の女弁護士」にすら負けているというのが剰りに悲惨である。当然この番組の最終回については、後ほどじっくり語るつもりである。また、「弁護士のくず」「功名が辻」「おいしいプロポーズ」の三本については一度も観たことがないのでこれらについての言及は割愛する。

トップの「医龍」については、劇画ノリが多少暑苦しかったと思うが、坂口憲二の男臭い魅力や小池徹平の多少フリーキーな可愛げ、北村一輝の如何にも北村一輝な敵役や水川あさみの如何にも水川あさみな小悪魔ヒロインにキャスティング的な力がある上に、医療ドラマで実績のあるCXだけに天才外科医の手腕の見せ方に迫力があった。

CGを使った劇画的な医療解説(BJの説明コマみたいな感じね)に最初は違和感を感じたのだが、オペを見守る同僚医師に雷電張りの実況役を委せてそのリアクションで主人公の手並みの凄さを描写する辺り、医療ドラマとバトル劇画の方法論を上手くミックスさせていて方向性としては面白かった。

さらに、ドラマの情動の帰結点をTEAM DRAGON というプロフェッショナルチームの結束に設定したのは、情動の組み立てとしてオーセンティックでわかりやすい。オレ自身の好みから言うとそれほど好きなドラマではなかったが、大多数の視聴者から支持を集めたことについては十分納得が行く。

次点が富豪刑事というのはちょっと意外だが、無印に比べてデラックスのほうは割合にミステリ的に手堅い線を狙っているのと、「富豪」描写がわかりやすくパワーアップしたのが功を奏した感がある。

前作ではお金持ちが主人公の割には少々番組のご予算が貧乏臭かった印象があり、富豪らしい描写は「これこれを買い取りました」とセリフで言うだけで済ませていて、買い取ったもの自体は、普通の庶民が買えないものではあるがごく普通にどこにでもあるものだったりするので、見た目の豪華さという意味では物足りなかった。

だが、今回のデラックスでは、ド頭から神戸家の財力の凄みを馬鹿馬鹿しいくらいに誇張したビジュアルで見せていて、苟も「富豪」を名乗るならこのくらいでなくてはと思わせる。前回の無印が特別にヒットしたという話も聞かないが、何らかの理由で制作予算が倍増したのではないかと思う。

今回のフィナーレについては、特段最終回らしい最終回でもなく、「最強の敵出現」と煽っておいてその実ゲストが田口浩正大人計画の誰も識らない人というのはどう考えても視聴者をナメているし、普段のエピソードなら一〇分以内に終わる「美和子の真相開示→ピンチ→焼畑署員による救出→頓珍漢な説教をして勝手に去る」という段取りを三〇分くらいに引き延ばしただけのまったく芸のない終わり方であった。

せっかく好評な番組をここで終わらせる気などはいっさいなく、続編を作る気満々ということだろう。テレ朝お得意のやる気のないダラダラした長寿シリーズに昇格するのはほぼ間違いないところである(笑)。

まあこの番組の人気に関しては、すでに「下妻物語」等で確立された深田恭子の天然なキャラクター性に負うところが大きいのだろうが、それを一言で言うなら「ぶっとばしたくなるような可愛さ」ということである。何かこう、深田恭子が素であんな喋り方をする奴だったら、オレなら絶対ぶっとばす。ぶっとばすけど、多分嫌いじゃない。深田恭子のキャラクター性というのは、まあそういうものなんだろう。

よくわかんないけど。

四位の「トップキャスター」については、途中くらいまでは「あの西遊記」の坂元裕二も自分の得意分野ならそれなりに手堅く書けるんじゃないかと考えていたのだが、最終回のエピソード構成が唖然とするくらいひどかったのでプラマイゼロというところである。概して月九関係のライターは、現代劇のヴィヴィッドなダイアログには強くてもエピソード構築力が弱い嫌いがあるが、これは格別ひどかった。

前回ラストで引っ張った不正と社長親子の骨肉の争いの件は、天海祐希が伊武雅刀を直接説得してあっさり片が附き、唐突に爆弾魔のエピソードが割り込んできたと思ったらそれもあっさり片が附いてただのお景物に終わり、後はダラダラエピローグを引っ張っただけというのは剰りにも話の中身がなさすぎだろう。

以前語ったように、月九における個別のテーマというのは、やはり美男美女の人間模様を生起させるための一種の方便にすぎないのであって、天海祐希と矢田亜希子というポジションの微妙な女優二人の掛け合いと恋の行方を楽しむのがドラマの主眼であり、報道がどうのというのは飽くまでお題目というところだろう。

この種のドラマとしてはすでに「美女か野獣」という佳作が存在するし、エピソード本位で作品を評価するなら、どうしても美女か野獣の劣化コピーにしか見えない。そのまま作ればどうしてもそうなってしまう道具立てで、そのまんまのものを作ってしまったのだからそれも当然だろう。

さすがに下り調子とは言え、腐っても月九の看板ライターだけに会話のテンポが良く即興的な意味で面白かったからまあまあ観ていられたのだが、本当にそれしか中身のないドラマだったと言えるだろう。

基本的にこの作品は中身の薄い筋にダイアログで肉を附けて保たせているような部分があって、天海祐希が矢田亜希子を導く職業観も薄っぺらで到底真に受けられないものでしかない。教条的な意味では個々の認識は間違っていないし、社会的な自己実現のモチベーション喚起と報道における職業倫理の問題には触れられているのだが、それが彼女たちにとって報道でなければならない内的必然性が見えてこない。

いつもこの番組を見ながら、この種の作品なら経歴的に言っても持ち味的に言っても大森美香に書かせていたら説得力のある視点や意見がしっかり描かれていたのではとよく想像したものだが、大森のジェンダー観には変な歪みや臭みがあって、概して「仕事と恋愛」をテーマにすると説得力のない思い込みが顔を出してつまらなくなる。そのようなテーマで現実と虚構の不即不離のリアリティを模索するなら、「曲がり角の彼女」のような方向性が妥当なのではないかと思う。

そういう意味では、ハナからそういう部分を絵空事でスルーした坂元裕二の書き方のほうが正解なのかもしれないが、それは方法論的な選択というより、要するに坂元裕二の脚本にはダイアログの面白さ以外の中身がないということだ。あのような西遊記が書かれるには、書かれるだけの理由があったということである(笑)。

五位の「ブスの瞳に恋してる」は、正直飛び飛びにしか観ていない。仲間内での評判は良いようだが、火曜一〇時の枠としては世間の反響はこんなものだろう。たまに観た印象を言うなら、たしかにマギーの脚本は変化球の笑いと浪花節を同居させるツボは押さえているようだが、人物配置のバランスがちょっと悪いような印象を覚えた。

主役の村上知子以外の女優が全員S系というか、キツい印象でポジションが被ってる女優ばかりなのに、皆揃いも揃って好人物ばかりなのが、何だかのっぺりした人物配置に見えてしまう嫌いがあった。今どき井川遥を癒し系女優だなんて思っている奴はいないだろうし、実際そんな役どころでもなかったが、蛯原友里も黙っていると何だかキツそうに見えるし、その他、室井滋にMEGUMIに滝沢久美に大沢あかね、そんな種類の女しかいない劇中世界って少なくともオレはイヤだ(笑)。

ただまあ、SMAPご用達放送作家の鈴木おさむと森三中の大島の実話をベースにしたコメディを、稲垣吾郎と村上知子に演じさせるというキャスティングの視点は悪くないと思った。まったく無関係なキャスティングでやるとすると鈴木おさむを美男俳優が演じる嘘臭さや、わかりやすいブスでも主役としての重みと可愛げがなくてはならない大島の役を誰にするかというのがかなり難しくなるが、鈴木おさむとSMAPの関係性で稲垣吾郎が演じることを自然に思わせ、大島役に森三中の同僚という繋がりで村上知子を起用するというのは、キャスティングに智慧がある。

村上知子というのは基本的に「ブス」というほど造作的には醜くないが、物凄くチビで物凄く太っているという体型が笑いを誘うわけで、正直本業のコントのほうで「ブスがセクシーを気取っている」という類型のネタをやると、変に生々しくて素直に笑いにくい雰囲気がある。何となく、本人がそのように考えているよりも妙にリアルに「女として現役」っぽい雰囲気が漂っているのが、やっぱりぶっちゃけブスなわけだから気持ち悪いのである(笑)。

これがたとえば大島美幸本人なら肉体的な特徴が何もかも面白いので実話であっても完全に笑い事で済まされるし、黒沢宗子だったらブスというより普通に「こんな色気のない女いるよな」で終わりの話なんだが、村上知子だけはお笑いとしては妙に中途半端にリアルなブスなのである。何というか、痩せてさえいれば普通に小さくてちょっと可愛いくらいだろうに、何故か物凄く太っているというリアルなブス化のプロセスを想起させるのが生々しくてまずいんだろう(笑)。

だが、このドラマのほうでは、その中途半端に醜くない造作が役柄の狙う魅力の性格とマッチしていて、美男の売れっ子作家が女優志望のブスに恋をするというドラマに無理なく入り込める。要するに、さまざまな智慧の綜合として、美男とブスの間に恋愛の間合いが生じるような配役上の「釣り合い」がとれているということである。

普段は意識しないことだが、恋愛ドラマにおいて主役カップルがくっつくという劇的リアリティというのは、実はけっこう重要な要素なのである。ごく普通に考えれば、当代きってのイケメン俳優と人気女優を組み合わせれば、普通はその種のリアリティというのは当たり前に附いてくるものだが、この番組や「スタアの恋」のようにギャップのあるカップルをメインに据えた場合には、この種のリアリティの意外な重要性というのが見えてくる。下世話に謂うなら、それは「釣り合い」の感覚である。

オレがそれを初めて意識したのは「ウソコイ」という、これまで散々莫迦にしてきたドラマにおいてであるが(笑)、主役の中井貴一とヒロインのフェイ・ウォンがくっつくというリアリティが到頭最後まで真に受けられなかった。それはフェイ・ウォンという女優の人となりを多少耳にしていたのと、プロモーションに非協力的な姿勢ややる気なさげな演技のせいもあるが、劇中で描かれているヒロインが中井貴一演じる愚直な日本男性の真情にほだされるようなタマには見えなかったということである。

それはつまり、フェイ・ウォンという外国人女優が醸し出す佇まいが、日本的な恋愛ドラマの一種予定調和的な人情の機微が通じるような印象をいっさい与えなかったということである。日本人というのは、基本的に恋愛ドラマにおいては「ほだされる」というなし崩し的な感情移入と共感の機微を重要視するが、そのような生温い感応の感覚がこの攻撃的なキャラクターの外国人女優には感じられないということである。

とは言え、現実にはフェイ・ウォンはドラマで中井貴一が演じたような人情家肌の素朴人であるリー・ヤーポンの一途な「もーれつアタック」に陥落して結婚しているわけであるから、人は見かけに寄らないものではあるけどね(笑)。

そういうわけで、そんなに熱心に観ていなかった番組について長々寄り道しちゃったわけだが、それに次ぐ六位の「クロサギ」は……いやはやどうにもコメントしにくい番組であるが、ハッキリ言って今期最大の失敗作ではないかと思う。

全体的なドラマのムードとしてはシリアスで悪くないのだが、コン・ゲームとしては智慧がなさすぎである。視聴者がよく識らない法律上の特例事項の故に支払われたはずの金が現金化できないとか、コン・ゲームという物語分野の面白みはそういうナニ金流の法律関係のマメ知識で生じるものではないし、普通のミステリに比べて面白いトリックを創案することがかなり難しい分野である。

それを言い出すと原作自体の否定になるのかもしれないが、人間心理の盲点を巧みに衝いた騙しのトリックを仕掛け、併せて観客をも騙して一杯食わせるどんでん返しを設けるのがコン・ゲームの面白みなのだが、このドラマの場合、騙しのトリックは普通の観客が識らないような商法の抜け穴を活用したものか、ご都合主義的に成功する噴飯物の初歩的な経済トリックだけで、法律や経済のマメ知識が得られるという意味では「カバチタレ」「ナニワ金融道」的な面白みはあるが、要するにそれを識っているか識らないか「だけ」で騙しが成立するということである。

これはある意味、黒崎の能力と設定されている「天才的な演技力」が活きる描写上の仕掛けが成立していなかったからということもあるだろう。こういう場合に謂う演技力というのは、単にお芝居が上手いというだけの意味ではなく、人間心理の隙を巧みに衝いて自分の意志通り誘導するために最適に振る舞う能力があるということだろう。

だとすれば、そこにもやはり作劇的な工夫や人間心理に対する深い洞察が活きていなければならないのだが、現状ではその種の作劇的アイディアは皆無で、視聴者にお芝居であることを強調し面白がらせるためのわざとらしい黒崎の芝居に、用心深いはずの本職の詐欺師がころりと騙されている不自然さとしか見えない。

まあ、詐欺師が主人公だからと言ってコン・ゲーム物でなければならないという理由もないし、剰りリアルな手口を披露するとそれを応用した面白半分の模倣犯が出てくるという難しい問題もあるのだろうけれど、この手のドラマにおいて主人公が誰かを騙すことがメインイベントとなるのであれば、視聴者はその騙される相手の視点に寄り添ってどのような奇想天外な手口で騙してくれるのだろうとワクワクするものである。

ところが、このクロサギの騙しの段取りに関しては、無敵の主人公が相手を打ち負かすバトル的な性格が強く出ていて、騙しの手口そのものはキン肉マンの必殺技的な意味でしかない。相手の詐欺師が一杯喰わされた手口の種明かしは、それが如何に現実の法律知識に則ったものであろうとも、フィクション上の機能としては「一〇〇万パワー+一〇〇万パワー、それに回転を加えることでさらに一〇〇万パワーが加わった三〇〇万パワーだあっ!」的な「ゆで物理学」とそんなに印象が変わらない。

つまり、騙しの種明かしを聞いても「ああそうなの、ふーん、勉強になったわ」的感想しか覚えず、「スティング」や「テキサスの五人の仲間」等のコン・ゲームの傑作を観たときのような「やられた!」という爽快な意外性を堪能することができない。

つまり、劇中の騙しのトリックは視聴者をも騙す語りの詐術ではなく、飽くまで劇中のターゲットをバトル的な文脈で倒すための方便にすぎず、そのトリックの種明かしはテリーマンや雷電による必殺技の解説にすぎないということだ。だとすれば、それは単に劇画的なヒーロー物語の道具立てが詐欺だったというだけの話で、詐欺というジャンルの特性が前面に出る作りではない。

そういうものとして割り切れる視聴者にとっては、これまで単独主演作のなかった山下智久がピンで本格的な劇画ヒーローを演じるドラマとして楽しめるだろうが、このドラマの主人公の黒崎が格好良く見えるとしたら、それは格好良い俳優が演じているからであって、詐欺師としてのテクニックや能力が鮮やかだから主人公が格好良く見えるのではないのである。

それで何が問題かと問われたら、要するに「頭の悪いドラマ」に見えるということが最大の問題点だろう。先程陳べたように、人が人を騙す詐欺を主題とするコン・ゲームというジャンルは、ミステリの中でも最高に知的な分野と見なされているのだが、それを単なる劇画的バトルの口実としか視ていない物語は、そのギャップの故に極度に頭が悪そうに見える

さらに、劇画やテレビというメディアの事情の故であろうとも、詐欺というジャンルの面白みを最大限に引き出すなら、やはりご都合主義的な細部の詰めの省略はマイナスポイントにしかならず、もっと頭が悪そうに見えてしまうのである。

そしてそれをさらに突っ込んで言うならば、この種のドラマにおいて何故「頭の悪いドラマ」であることが問題なのかと言えば、事実として劇中で扱われているような詐欺行為に引っ懸かる人間もたくさんいるのだが、そのような詐術が現実に行われた場合、視聴者の大多数は自分なら引っ懸からないという自信がない。

だとすれば、個々の視聴者は、自分がそのような詐術に引っ懸かるのは相手が悪魔的な狡賢い智慧を持っているからであって、自分が莫迦だからだとは思いたくないというのは当たり前の話である。それなのに、一種最高度に狡賢い人間の騙し合いであるべき詐欺バトルが、視るからに頭が不自由そうな人間の戯れ合いに見えるのは、無意識の裡にプライドが痍附けられてしまうのである。

実際、このドラマにおいては、メインの詐欺トリックの単純化の故に、ターゲットとなるシロサギやアカサギの被害に遭う人物は、過剰にお人好しで頭が悪そうに見えてしまう。そしてクライマックスにおいて黒崎がターゲットを仕留めるトリックが、極々単純化されたご都合主義的な絵空事に見えてしまうことで、こんな単純なトリックで騙される頭の悪い悪人にすら一般的な庶民が騙されてしまうのかという不快感を覚える。

詐欺物のフィクションが高度に知的でなければならないのは、「騙されるほうが悪いんだ、愚かなんだ」という村上ファンド的な理屈が正当化されないための方便という意味もあるのである。詐術におけるご都合主義というのは、フィクションとして最高に面白い高度に複雑化されたトリックを成立させるために駆使されるのでなければ許容されないものなのである。

この意味で、最初の最初から緻密なコン・ゲームの骨法を踏み外したこのドラマはオレの興味の対象外となったのだが、最終回の構成を視るに、やはり頭の悪いドラマは頭の悪いドラマツルギーに貫かれているのかと苦笑させられた。

詐欺を語りの詐術のネタとしてではなくバトル手段として視るというのが番組全体の基調であるなら、それはそれで構わない。だとすれば、この段階におけるラスボスとされる御木本への復讐はいわば最終奥義に相当する最高度の詐欺トリックという形で行われるか、もしくは黒崎が「詐欺師から騙し取り返す(この決めゼリフも字面で見る分にはよくても実際に役者の口から出ると違和感を覚えるが)」という自身に課した闘争スタイルと直接的暴力との間で揺らぐ葛藤を十分に見せるのが筋である。

ところが、御木本への接近の前段階として黒崎は芸もなくその元部下である春日を附け廻して白石に忠告される。これは一種、詐欺という闘争スタイルを超えて直接暴力に走りかけた危うさを表現していたのかもしれないが、春日とのバトルを使って黒崎の激情の揺らぎを表現するなら、その前段階を踏まえた御木本への復讐はやはり詐欺というスタイルを媒介としたものでなければドラマ的に整合しない。

だが、白石に諭された黒崎は春日に対して改めて詐欺を仕掛け、感情の揺らぎに決着を附けたかに見せながら、春日を完全にハメる前にタネを割ってそれを御木本の居場所を吐かせるための脅迫のネタにする。

その場面でさらに春日の胸ぐらを掴んで詐欺と暴力という復讐手段の揺らぎを表現するのが如何にも諄いし、そこで「オレはおまえたちとは違う」と言い放って最終的に暴力による復讐を放棄したのだから、どうしたってそこから御木本に対して復讐を目論むなら最大限に周到に準備した詐欺を仕掛けるのが当然である。

しかし意外なことにこの一連の場面において御木本から春日の携帯に連絡があり、あろうことか黒崎はそれをもぎ取って御木本と直接会話を交わし、剰え今からそちらへ向かうとわざわざ宣言するのである。

詐欺を闘争手段とする男が、何の準備もなく親の仇と直接対面してどうするのか。恨み言の一つも言うつもりなのか。それのどこが復讐なのか。弱みどころか居場所を掴むことすら難しい相手に肉薄する千載一遇のチャンスで、直接会話して面談を強要し警戒させることに何の意味があるのか。これは、御木本をハメられるただ一度だけのチャンスを自分から潰しているということである。これでは、黒崎の到着前に御木本が逃げ出していても当たり前で、何の意外性もない幕切れである。

何も春日を脅迫させなくても、黒崎の仕掛けによって破滅した春日が助力を乞うために御木本の居場所に逃げ帰るのをツケるという形にすれば済む話だし、そこからさらに一呼吸あってラストの大仕掛けが始まるという段取りを組むのが筋だろう。

つまり、現状のシリーズ構成だとクライマックスの話数が一話足りないのである。中盤のエピソードを一話省いて、第一〇話で一話、第一一話前半の段取りで一話、そこから御木本をハメようとする最終段階とエピローグで一話という三話構成が本来あるべき姿だろう。これは「オレならこうする」という二次創作的「アイディアを提供」しているつもりなどでは毛頭ない。

黒崎という人物の劇中における在り方、番組自体のフォーマット、そして現状のクライマックスの描写上の段取りから考え併せるなら、どうしてもそうでなくてはならない劇的必然性があるだろう、そこを外したら当たり前の意味ではドラマが成立しないだろうという話をしているのである。

原作がまだ終了していないため、御木本を仕留めさせるわけにはいかなかったという事情があったのかもしれないが、この最終回の筋立て自体がドラマオリジナルの展開らしいので、そこまで勝手に脚色しておいて、ラスボスの進退だけ原作通りに温存するというのも解せない話で、ありもしない続編への色気としか思えない。

御木本に後一足で手が届かず、ゆかりの密告によって黒崎が志半ばの無念を噛み締めながら官憲の手に落ちるという金八張りの悲愴味を狙った展開も、御木本と直接対面するという前段の間抜けさのせいで台無しだし、これまで黒崎は、いっぱし喧嘩の腕も立つのだろうがその凄みの真価は知能にあると表現されてきたのに、黒崎を逮捕するために神志名が無駄に大人数の警官隊に包囲させるのが剰りに絵面的に間抜けである。

黒崎の無念と絶望感、油断ならない黒崎の逃走手腕を強調したかったのだろうが、多寡が経済犯を逮捕するのに武装した凶悪犯にでも対峙するような物々しい警官隊を配置するのが、ほとんど宮崎アニメの無駄に多い警官隊にしか見えない。金八の加藤が警官隊に捕縛され中島みゆきが流れる悲愴味を想い出すよりも、ルパン一人に数十人の警官隊が山を成して次々と折り重なるコミカルな描写を想い出してしまうのである。

また、黒崎が告訴されたのは御木本への接近を妨げるための桂木の画策だったというのも、最初から桂木がすべてをゲームのコマとして操っているのがシリーズ全体の大前提なのだから何の意外性もないだろう。この最終回でいちばん意外だったのは、折角のクライマックスの段取りを何の定見もなくぶち壊すつくり手の不見識である。

すべてを笑い飛ばす白石の哄笑やラストの桂木の見栄切りも、視聴者の誰一人このエピソードの智恵のない展開に意外性を感じていない、つまりつくり手の語りに誰も騙されてはいないのだから、「何を勝手にしてやったりと悦に入ってんだゴルァ」と呆れるばかりである。騙し騙されるニヒルで知的な駆け引きの面白さがまったく成立していないのに「人間は面白い」と大見得を切られても、人間は面白いかもしらんがこのドラマは面白くないよとツッコミを入れたくなる。

それから、役者で良かったのは白石役の加藤浩二とゆかり役の市川由衣だが、市川由衣は見た目がキツそうなだけにこういうキツい一方の役柄だとちょっと辛い。他の作品で好印象を覚えた役柄は、キツそうな見た目と意外に善良な内面のギャップが活きるような役どころが多かったので、このドラマの場合は演じた役柄自体がそれほど魅力的ではなかったということなのだろう。

吉川氷柱役の堀北真希もあんまり柄が活きるような役でもなし、まあ誰が演じてもそれほど変わらない役だけに、他局の「野ブタ。をプロデュース」の縁という以上の意味はなかった。

役者の面に関しては、個人的には山崎努の大芝居がとにかく耐え難かった。一癖も二癖もある複雑怪奇な人物で、物語全体の黒幕という意味ではそれなりに重みのある達者な役者が必要だというのはわかるのだが、ドラマ全体の劇画調の空気の中で一人だけ今平映画のような生々しくてどぎつい大芝居をしているのが、寒いやりすぎ感を漂わせていて見ていられなかった。

たとえば劇画調のドラマにおける役者の重みというのは、要するにCXの実写版「美味しんぼ」における江守徹のようなノリでなければ、見ていて辛くなる。実写版美味しんぼの初代雄山役は原田芳雄だったが、これは雄山のイメージと乖離しているという以上にドラマ全体のリアリティと整合していないキャスティングでいただけなかった。

おそらくその反省からか、もしくは単に原田芳雄側の意向からか、この配役は一本限りで以降のシリーズではすべて江守徹が雄山を演じているが、いつの頃からか江守徹の芸風として周知されるようになった嘘臭いまでにデフォルメされた演技スタイルがドラマのリアリティにマッチして好適であった。

原田芳雄が何を演じても原田芳雄であるように、山崎努は何を演じても山崎努なのであり、山崎努の大芝居の生々しくどぎつい大仰なリアリティというのは劇画ではなく舞台演劇やオーセンティックな邦画にしか似合わない。その意味では江守徹が何を演じても江守徹に見えるのは同じでも、TVにおける江守徹の大仰さはそれを笑ってもいいことが自他に諒解されており、本人も無意識の裡に観客が笑えることを念頭に置いた大芝居を演じているから劇画調のリアリティに好適なのである。

本質的に劇画調のリアリティとは、冷静に考えれば笑うべき誇張なのであり、大の大人が真に受けるべきリアリティではない。「これは笑うべき誇張なのだ」という前提においてその誇張されたリアリティに乗って楽しむというのが現代的な劇画調の在り方の本質なのである。

つまり、劇画調のドラマのリアリティというのは、表向きが如何にシリアスに見えようとも、それを真に受けることが強要されていない。所詮は作り事という前提の下に作り事の美意識を楽しむものである。劇画調のリアリティにおいては、剰りの格好良さはその嘘臭さの故に笑えてしまうものであり、笑いつつもその嘘臭い格好良さに痺れるような微妙な間合いにおいて成立するリアリティなのである。

しかし、同じ大芝居でもたとえば原田芳雄や山崎努の大仰さ(同列に括るのは乱暴ではあるが)の場合は、それを笑っていいのかどうか視聴者は戸惑ってしまう。山崎努の芝居が大仰で臭いということは誰でも感じているが、それは現時点では笑い事ではないのであり、本人もまた大真面目で演じているのであって、大多数の観客が真に受けることを強要されているリアリティなのである。

山崎努演じる桂木の役柄のコミカルな側面は、誇張された大芝居をメタ的な視点で笑うことでおかしみが生じているのではなく、脚本上観客を笑わせることが意図されている喜劇的な所作事を大俳優が大マジで演じているのである。これは本質的にこのドラマの劇画的なリアリティと整合しておらず、視聴者にそれをどう受け取ったらいいのかという戸惑いを与えるのである。

どうもTBSのシリアスドラマ全般、この種の微妙な劇的リアリティの機微には疎いようで、劇画的な格好良さを狙ったドラマでもそれを笑うことを観客に許容しないような変に大マジな雰囲気があって居心地が悪い。

これはつまり、つくり手が劇画的格好良さを、大の大人のくせに真に受けているのではないかという居心地の悪さなのであって、今平映画的なリアリティの感覚において劇画ヒーローの格好良さを受け取っているという笑うべき錯誤や、格好良い劇画ヒーローが笑われることを許容しない、引いてはそれを純粋に格好良いと感じる自身の美意識が笑われることを許容しないような幼児的な狭量さを感じてしまうのである。

普通の成熟した劇的感覚においては、劇画的なリアリティが笑える作り事であるという認識と、それでも劇画的美意識は痺れるくらい格好良いのだという認識が上手く共存しているものである。これは自身の下世話な美意識に対する自嘲の視点と肯定的に意味附ける視点が諸共にキチンとあるということであり、その種の成熟した視点がないドラマは見ていて辛い。

つくり手が自作の劇画的リアリティを真に受けて痺れているのだとしたら、笑い事ではないシリアスなリアリティの下にしか格好良さが生まれないのだと考えているのだとしたら、それは当たり前の意味ではイタい大人である。

そういう意味では、オレが「クロサギ」を今期最大の失敗作だと感じる理由は、この種の幼児的な作劇認識に対する拒否反応だと言えるかもしれない。劇中で扱われている詐欺トリックの幼稚さや詐欺をバトル手段と視る基調は、飽くまで劇画的リアリティにおいてしか成立しない虚構性の高い劇的リアリティなのであるが、どうもつくり手にはこれを誇張された作り事として様式的な格好良さのリアリティにおいて作ろうという認識が視られない。

普通のシリアスなドラマと同じ話法において格好良く語ろうという姿勢なのが、見ていてどうにも気持ち悪いのである。たとえば先程触れた大勢の警官隊のくだりも、本来的には宮崎アニメの警官隊と同じノリで受け取るのが正しいのであって、物凄く誇張されたギャグスレスレの描写でありながら劇画的に格好良いという線を狙うのが正しいのだろうが、このドラマの語り口にはそれを笑ってはいけないような妙に圧し附けがましいシリアスさが基調としてある。

普通ならオレはこのような局面において「経済犯を捉えるのにあの人数は」的なツッコミに対しては「映像的効果の文脈において解釈するべきだ」と反論するが、このドラマの場合は、基本認識としてそれを劇画的誇張として提示する目配せがない。この語り口においては、これはまったく笑い事ではないのであり、ならばやはり詐欺師である黒崎一人にあの物々しい警官隊を配するのは不自然と受け取られてもしょうがない。

対するに、同じ劇画ドラマである「医龍」の場合、どれだけシリアスなストーリーであろうとも、やはりクライマックスのオペの場面でガヤが「○○○をこんな短時間で摘出しつつ同時に○○○を正確に縫合するとは、何という神業なんだッ!」と朝田の手腕を大仰に称賛すると、誰でも笑ってしまう。

笑ってしまうが、それと同時に格好良さや劇的興奮も感じているわけで、劇画ドラマにおいてはその格好良さはまず第一に笑われることが大前提なのであり、笑うのが正常な反応なのであって、つくり手もまたこの場面で視聴者が笑うことを諒解している。だからこそ視聴者は安心してその格好良さに痺れることができるのである。

しかし、クロサギのリアリティにおいては、本来的には笑われて然るべき誇張された物語を普通のシリアスドラマのリアリティで整合させようという認識が視られ、要するに視聴者に笑われまいと努める衒いを感じるのである。かえってその故に詐欺トリックの単純さや視聴者がまったく騙されていないのに「してやったり」的な自己満足の臭みを強く感じるのである。

簡単に言えば、たとえば桂木役を演じる役者はたしかにある程度風格を具えたベテラン俳優であるべきだが、それと同時に自身の大芝居が誇張された滑稽さと視られていることを諒解し納得しているポジションの俳優を配するべきなのである。原作における桂木のキャラとのマッチングもあるから具体的な例示は避けるが、この役柄を山崎努に演じさせたということが、このドラマの狭量な認識を雄弁に物語っているだろう。

一般的に山崎努の大芝居が笑い事と認知されていないように、クロサギの劇的な格好良さは、視聴者が笑ってはいけない大マジな美意識として提示されているのである。しかし事実においてこの物語は本質において劇画としてしか成立しないものであり、主人公の格好良さは笑うべき滑稽な誇張と裏腹のニュアンスにおいてしか成立しない類のものなのである。

以前語ったように、この種の劇画ドラマは日テレやCXが専ら得手とするもので、多くの実績を積み重ねているが、TBSがそれに互して独自のラインを模索するなら、この基本認識からして改める必要があるだろうと思う。基本認識の部分で錯誤を犯しているということは、方法論的な次元で無策であるということで、無策でアテられるほど簡単なジャンルではないのだ。

さて、クロサギ以下の順位に関しては、オレが観ていなかった番組以外では「7人の女弁護士」が残っているが、以前触れた段階からとくに附け加えるべきことも思い附かないというのが正直なところである(笑)。どんな種類の調査であれ、「一〇位」というのはこのドラマに相応しいポジションであって、それ以上であっても以下であってもいけないということだ。

逆に謂えば「富豪刑事」のような生ヌルいテレ朝ドラマが上位に喰い込むという状況のほうがちょっと異常なのだが(笑)、ある種富豪刑事にはコンセプト的な面白みがあるのが吉と出たということだろう。だが、7人の女弁護士が狙う満足度というのは、悪くはないが飛び抜けて良くもない、飽くまで「普通」のラインである。

以前語ったように、釈由美子を本人の持ち味とは無関係にキャスティングしていることから視てもとくに肩に力を入れてヒットを狙いに行く作品ではなく、賀来千賀子版の看板に載っかって、普通に毎週漫然と観てそれなりに楽しんでくれればOK的な意識のドラマだろう。

各局それなりに力を入れてヒットを狙いに行く状況の中で、このような微温的な性格のドラマが過剰に当たるというのも他局の努力が気の毒だし、さりとてこのレベルの連続ドラマが大コケするというのも理不尽であり、そのような窮めてテレ朝的な性格の綜合として「一〇位」という満足度は頷ける結果である。

ただし、局サイドとしては過去に実績がある「7人の〜」のリニューアル版としてそれなりにもう少し数字を稼げるはずと算盤を弾いていたらしく、けっこう豪華なゲスト陣を配してお金もかかっていただろうに、結果的に全九話で事実上打ち切りという残念な結果に終わっている。

…というところで、かなり長くなったので一旦エントリーを分ける。

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受信: 2006年7月 6日 (木曜日) 午前 12時38分

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