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2006年7月25日 (火曜日)

TV特撮徒然

前回のエントリーで悪ふざけに走ったが為に、仲間内で大顰蹙を買った。「数少ない女性読者を引かせる気なのか」と謂われなき非難を被るのはまだしも、「ねらを『知性も魂もない異形の存在』と批判するつもりなのか」はたまた「『旧支配者』になぞらえることで2ちゃん的論壇を亡国の勢力と当てこすり警鐘を鳴らすのか」と痛くもない腹を探られるに至っては、心柄とは言いつつ日頃の言動を猛省した次第である。

すいません、嘘です。

みんなオレがウケが欲しかっただけなのを理解して生温く励ましてくれました

そういうわけで、くだらない前置きはこのくらいにして本題だが、最近はTV特撮に関する話題がすっかり影を潜めて一般ドラマの話題に偏しているが、全般にTV特撮に対するモチベーションが下がってることは否めない。

おそらく現行作品でいちばん意欲的に健闘しているのは「ウルトラマンメビウス」だろうと思うが、以前語った通り個人的には今ひとつ入れ込めないので、大筋に附いていくのがやっとという状況である。故にメビウスについては、そのうち本気で対決する気になった際に更めて正面から語りたいと思う。

それから、当初は興味深く見守っていた「仮面ライダーカブト」については、すっかりいつもの白倉ライダーというか、白倉P所謂ところの「ライブ感」というか白倉アンチ所謂ところの「グダグダ感」が漂ってきて、毎回逐次的に語るべきことがどうも思い附かない。

第一クールの設定提示編においては米村脚本ならではの語り口が目を惹いたが、基本設定が固まってそこからバラエティで見せていくという段階になってしまえば、あとは視聴者の好きずきというところがある。

スカした言い方をすれば、当ブログは基本的に緩い意味での構造主義批評をツールとして採用している。その意味では、白倉ライダー全般が「グダグダ」と表現されることにも若干の心当たりはあって、要するに個別のエピソードやその配置に明確な意味的構造が「ない」ことがそのような印象を与えるのだと解している。

白倉Pが龍騎以降のライダーで採用しているシリーズ構成術では、当初から明確に物語の構造を決め込まずに大まかな枠組みだけをつくり込み、物語の進捗に伴って先々の展開を考えているらしいのだが、それはそれでそのようなやり方もアリだろう。しかし、少々気になるのは設定提示的なリニアルなストーリーラインが一段落すると、そこからこれまで積み上げられてきた要素を使って浪費的なエピソードを重ねることであり、その部分のバランス感覚がかなり悪い。

浪費的な、という言い方が悪ければ、即興的な娯楽要素に徹したエピソードの連なりという言い方をしてもいいが、戦隊的な一話完結のスタイルならまだしもヒマネタということで割り切りが附くし、ヒマネタからシリアスへのリフレッシュレートも早い。

しかし、平成ライダーのように一話毎のエピソードの完結性が弱いスタイルだと、頭もお尻もない悪ふざけがダラダラと続いているような印象に繋がってしまい、さらにそこから急展開でシリアスな流れに復帰すると、一繋がりの呼吸としては若干唐突な印象を覚えてしまう。

カブトにおいてその性格が際立ってきたのは、やはりサソード・神代剣の登場によるところが大きいだろう。これにはメインの米村が劇場版に懸かり過ぎた不在の故ということもあるのだが、剣絡みのエピソードには明らかに、米村の不在の間に物語を進めるわけにはいかないというお台所事情の故の浪費的期間という性格が附き纏う。また、そのようなお台所事情を反映した話ではあるのだが、剣の人物造形自体に米村的な語り口とは相容れない問題性があるだろう。

井上敏樹が設定を担当したキャラということではドレイク・風間大介の先例があるわけだが、風間大介と神代剣の人物造形上の違いは、剣が徹底的に幼児的な人物であるということであり、米村的な語り口に絡ませることを前提として造形された風間に対して、剣は米村的な物語の外でエピソードを浪費するために造形された人物である。

風間大介も子どもっぽい人物ではあったが、この種の子どもっぽさは井上キャラ全般に共通する要素であって、要するに井上敏樹は大人から共感を得られるような大人らしい大人を描くことがそれほど得手ではないということである。劇中のポジションで大人と位置附けられている人物も、子どもの目から視た大人という印象は否めないし、常々本人が公言しているほどには大人目線の書き手ではないということだろう。

その意味で、風間大介は井上敏樹の抽斗の中では「毀れた大人」系統のキャラで、幼児性から脱却しきれていないが、自身が大人であることに自覚的な人物である。逆の言い方をすれば、自分が大人であることを努めて忘れたがっている人物とも言えるだろうが事実として自分が大人であることから逃れきれない人物である。

だからこそ、この糸の切れた凧のような人物にはゴンというコブが附けられていたのであり、気紛れな風のように生きたいと望みながらも見ず知らずの少女を拾ってしまい自らの手で自由を束縛するような心の隙があるのである。この人物が強烈な井上臭を放ちながらもさほど米村的なカブト世界を掻き回さずにいたのは、一種ゴンという被保護者を抱えることによって目的的に物語に関与していたからである。

本人の人物像がどのように描かれようとも、彼が物語世界に関与するのは渋谷で拾った正体不明の少女との結び附きにおいてであり、その意味で彼の劇中の言動は最低限目的的であり、本質的には不器用な大人として描かれていた。それ故に、一種目的的な作劇を行う米村主導のカブト世界でもさほど破壊的な動きをしていないし、予め定められた通りゴンとの別れによって劇中世界から一旦去っている。

対するに、神代剣は自分が子どもであることさえ自覚していない子どもの中の子どもであって、大人とか子どもとかいう社会的規範を超越した、一種の痴人だ。これを雑駁な言い方で言うなら、どんな非常識な行動をしでかしてもおかしくない変人であり、その行動に整合的な意味附けはない。目的的に動く人間ではないのである。

だとすれば、神代剣がこの時期にカブト世界に登場したドラマ的な必然性はまったくないのである。登場早々に明かされた神代剣=ワームの擬態(おそらく人間の剣とその姉を殺害した張本人)という設定は、剣自身の人物像と必然性によって結び附いているわけではない。当たり前に造形すれば、「牙狼〈GARO〉」におけるレイのような翳りを持つ復讐者という人物像になるはずである。

だが、神代剣の人物像はこの目的的な人物設定と論理的な関連を持たない。シスコンで姉をワームに殺害されたトラウマを抱えるが、実はそれは剣の意識がワームとしての実体を乗っ取っているだけで、彼が憎悪するワームの所行は実際には自分自身の仕業であるという記憶(推測だが)を深層心理に抑圧している不安定な人物という設定にイメージ的に矛盾していないというだけの話で、これらの設定から連続的に演繹して人物像を導き出しているわけではない。

だからここ数話のエピソードにおける剣の言動は、彼の抱える設定要素と論理的な関連がなく、奇矯な人物像の然らしめるところとして論理的な意味附けのないイベントが痙攣的に起こっている。

かなり以前から言っていることだが、これが間違っているということではない。物語というのは須く論理的必然に基づいて目的的に行動する人物によって演じられ「ねばならない」と決まったものではないのだし、殊にTV番組においては白倉Pの謂うライブ感というものも重要な関心要素である。

だが、普通一般にドラマを愛好する人間からすればその種の作劇は本道ではないと感じられるのだし、作劇一般に論理的必然性や合目的性が感じられなければそれを「グダグダ」と表現する。その意味で、白倉ライダーを面白がる視聴者が批判されねばならない謂われはまったくないが、それを面白いと思わない人間が「グダグダ」と表現することにまで反撥するのは「欲張り」だろう。

白倉Pが「ライブ感」という言葉で言っているのは「TV番組というのは、作劇的にグダグダでも第一に面白くなくてはならない」ということである。だから、そのような信念で作られた番組が「面白い」と感じる人間が一定数いるのは理解できるが、大筋のプロットが意味構造を構成しない、つまり、論理的必然性を重視せず登場人物が目的的に行動しない物語を「グダグダ」ではないと表現するのは無理があると思う。

このような信念が通用するのは、一年間という現代の時間感覚では異例の長期に亘ってTV番組の視聴率を維持しなければならないという特殊事情があるからである。それは一般ドラマに比較して、ざっくり計算するなら総時間にして二倍以上、話数にして四倍以上のTVシリーズを継続するための特殊な智恵なのである。

TVドラマ全般、視聴率さえ良ければ二年でも三年でも継続放映していた気の長い時代なら、視聴者一般は多少ダレたエピソードが続いても我慢して見続けてくれたが、今の日本のような一般ドラマが基本的にワンクールで完結するスピーディーな時代においては、エピソード単位で視れば四本以上のドラマに相当する分量のシリーズを、一本の番組コンセプトで保たせるのは難しい。

その意味で、神代剣の人物造形には風間大介以上にTV番組制作上の方便という性格が露骨に出ていると思う。先程指摘したように、普通に考えれば設定から導き出される剣の人物像は心に痍を持つクールな二枚目になるはずだが、それは一面では陰鬱で定型的な人物像という言い方もできる。

初期のカブトのストーリーラインが少々辛気くさく目新しさがないと評されたことを考えれば、新規のライダーに風間以上に弾けたキャラを投入してもっとコミカルに振りたいという狙いもあっただろう。

設定面の目的性においては神代剣の人物設定は「ワームの擬態」というテーマを展張したものであり、以前カブトに触れたときに語ったような「ワームが記憶まで擬態するのであれば、本質において本物とどこが違うのか」という思弁を推し進めた当然の結果として出現する人物である。

しかし、具体的な実体としての神代剣の人物像は、カブト世界をコミカルに振るための方便として幼児的な変人と描かれており、この二つの異なる設定要素は別段互いに矛盾しないというだけのことで論理的な関連はない。要するに、テーマ面からの要請と現実面からの要請を無難にすり合わせているわけで、これを井上ファンなら井上脚本の智恵と表現するのだろうし、井上アンチなら節操のなさと表現するのだろう。

その二つの表現は、事実において同じことを言っているにすぎない。別段矛盾はないけれど論理的必然性もないということに気持ち悪さを感じるか否かの問題だろうし、それはTV番組をどのようなものとして受け止めるかということにも関係してくる。

おそらく米村が人物造形を詰めていたら型通りの陰鬱な二枚目として造形されていたことだろうと思うが、幼児相手の長丁場のTV番組はそれだけでは保たないというのも一面の真実ではあるだろう。

そして、こういうときに痛感するのだが、オレは理屈抜きに笑って楽しむ種類の娯楽については、特別な感情的執着も持たないし、何かを語りたいというモチベーションも感じないのである。その場で笑ってしまえば後腐れなくそれで終わりなのだ。

これは「仮面ライダーカブト」という番組全体に興味を喪ったということではないのだろうが、少なくとも剣主体のバラエティ的なエピソード構成には積極的に語りたいという興味を覚えない。

設定面に内在する「デビルマン」的なドラマ性をどのように引き出していくのかという部分に辛うじて興味を繋いでいるだけで、神代剣の具体的人物像自体にはさしたる魅力を覚えないし、このような飛び道具的なキャラの珍無類な行状記については笑って寛容にやり過ごせばいいのだろうと思う。要するに、語り手がある不自由な制約の中で智恵を絞って紡ぎ出す物語でなければ、分析的に語る意味はないと思う。

剣のような人物像は一種最大限の自由度を具えていて、いわば何でもアリである。その場合に問題となるのは、いかに面白いネタを思い附くかであり、そのネタが面白いかどうかである。そして、面白いネタを思い附くことやそのネタが面白いことには理屈などは「ない」のであり、「面白かった」「つまらなかった」と言えばそれで話は終わってしまうのである。

基本的にオレが井上敏樹の作物について多くを語らないのはこの故であって、面白いか面白くないかで言えばつまらないと感じるが、それは単にオレ個人の感じ方にすぎないのであって、それを逆に言えば、面白いと言う人間の意見も個人的な感じ方にすぎないと考える。

たとえばオレは三木聡のオフビートな面白さや、対象を選ぶが堤演出のポップさも嫌いではないが、それと井上脚本の面白さに意味的な違いはない。この種の面白さは飽くまで送り手と受け手個人の生理的資質に収斂する要素なのである。そして、このように個人の感じ方や生理的資質に収斂する作劇は、意見を異にする人間同士で議論すべき足掛かりが何一つない。面白いと感じる人間が一定数存在すれば、それで存在理由が確保されるというだけのことである。

何か言うべきことがあるとすれば、TVドラマというものはその場が面白くなければならないけれど、その場が面白い「だけ」ではダメなのであり、理詰めの劇的力学もまたそれ以上に重要な要素となる。「その場の面白さ」に偏してそのバランスが破れている以上、このような作劇が「ドラマ本来の面白さ」なのだと勘違いする受け手は間違っているというだけのことである。

オレが神代剣の人物像に何故魅力を感じないのかと言えば、それは「大勢の人が面白いと感じるネタを思い附く」という資質に恵まれた井上敏樹に圧倒的に有利な作劇要素だからで、そういう個人の感じ方とそのマッスに収斂する作劇というのは他人から盗めない種類の資質なのである。本質的に生真面目な芸風の米村正二や小林靖子が井上ノリのマネをしようと思ってもできるものではない。米村脚本の剣ネタの寒さを考えれば、やはり「理屈抜きの面白さを盗む」ことは不可能なのである。

おもろい人は自分がおもろいと思うことをやれば理屈抜きにおもろいが、おもんない人がそれをそのままマネしてもおもんないのである。おもろい人が直観で掴み取るレベルのおもろさをおもんない人が実現しようと思うなら、きちんと計算して理詰めのおもろさを模索する必要があるのであり、それが出来るか否か、どのように出来るのかということも別種の資質の問題なのである。これは一種芸人論にも通じる一般則だ。

話が若干それたが、井上敏樹の芸風はそれを面白いと思う人には面白いし面白くないと思う人には面白くないもので、わざわざそのような「個人芸」を語ろうと思う以上、全肯定か全否定になるのは当たり前の話であり、受け附けるか受け附けないかの二者択一でしかないのである。ドリフが好きかひょうきん族が好きかと同カテゴリーの問題になるのである。

それを語ることは、自身の生理的資質や個人的な鑑賞体験それ自体を語ることに他ならないのだし、それを語る言葉には「井上敏樹を巡る周辺事情」を論ずるという以外の批評的意義はないだろう。好悪いずれであれ、井上敏樹という個人に積極的な関心がある人間が論じるべき事柄であるが、オレ自身はこの限りではない。

そして、オレが当ブログのような長たらしいコンテンツを続けているのは、人の生理的資質ではなく人の智恵によって紡がれた物語は、それを語る行為によって別種の「観る行為」が生起する側面があると信じるからで、個人芸の面白さなら、それを観る行為のみによって鑑賞体験が完結すると考えるからである。

また、個人芸というのは、流行るし廃る。実際、井上俊樹の父親である伊上勝の本格的な全盛期は高々数年でしかないのだが、その時代において意味的根拠を持たない個人芸の感性が何故に面白いと感じられるのか、そのような側面を語ることは時代の雰囲気というこれまた曖昧でダイナミックな対象を語ることになるのであり、普遍的な作劇一般について言及する行為とはなり得ないのである。

さらに、オレ個人の生理的な資質と井上敏樹のそれは決定的に合致しない。自身がつまらないと感じる対象について何故他人が面白いと感じるのかを文芸の観点から批評的に語ること以上に不毛で空疎な行為もないだろう。だとすれば、「自身がつまらないと感じる生理的資質が主流となる流れは個人的に不都合である」という以外に、オレには井上敏樹の作物を語るべきどんな理由も動機もないのである。

とまれ、新たに加賀美が変身したガタックのラインがどのような流れになるか、久々に再登場した風間大介の扱いはどうなるのか、次なる段階へ進んだワーム全体の動向、そしてZECTの秘密はどうなるのか、とにかくこの「いつものノリ」が「終わるまで」は特別に語るべきこともないだろう。

例によって興味のない話題ほどたくさん語りたがる悪癖が出たが、これはカブトだけに限ったことではなく、六人目登場という大イベントが進行中のボウケンジャーについてもかなりモチベーションが下がっている。

やはりさくら姉さん萌えだけで一年の長丁場の個人的なモチベーションを繋ぐのは難しいということだが、それでも高岡絡みの一連のストーリーラインは嫌いではない。以前不満を漏らした明石の過去の仲間との因縁にあのようなかたちでケリを附けたのはなかなか智恵が感じられて好感が持てるし、高岡というキャラも役者を含めて意外と好感を持っている。

ただまあ、スーパー戦隊というのはよほど変わったことがない限り批評的に語る対象でもないだろうし、今のところよほど変わったことが起こっているとも思わない。紆余曲折はあったものの、折り返しの時期に来てそれなりに戦隊らしいノリに落ち着いてきたというところだろう。

そういうわけで東映特撮に関しては「落ち着いてきた」イコール「漫然鑑賞」という側面があるので、ボウケンジャーに関してもさほど語るべき事柄を思い附かない。このブログをSHTに関する意見を拾う目的で覗いてくださっている方もおられるだろうが、もう少し番組が動くまで剰り頻繁に触れることはないだろうと思う。

残るはリュウケンドーだが、この番組の批評的な視点における面白さというのは、やはり東映、円谷、円谷映像というまったく異なる語り口を代表する演出家でローテが組まれているところだろう。この三者の間で互いの演出スタイルに優劣を附けるのも意味のないことだが、やはりこの手のカテゴリーの番組であるだけに、東映の辻野正人監督の担当回は安心して観られる。

それは一面、リュウケンドー「らしさ」という意味ではいちばん「らしくない」という言い方も出来るだろうが、要するに各エピソード個別の挿話構造が本来どのような見え方の映像を指向しているのかが明瞭に見えてくるのである。

最近は第一二話で川崎郷太が抜けた影響か、それ以後適宜助監から昇格した岡秀樹を挟みながら、辻野正人、原田昌樹、清水厚の三人が三話ずつの回り持ちになっているのだが、第一四話から第一六話までの白波鋼一=リュウジンオー登場エピソードは辻野正人が担当していて、これが見事に戦隊における六人目登場編の呼吸で撮られている。

また、次の辻野ローテは第二〇話から第二二話までの三話だが、第二〇話は子どもと不動のすったもんだ、第二一話は宿敵ジャークムーンと剣二の決着、第二二話は三戦士の張り合いを描くコメディ編となっており、これは更めて言うまでもなく戦隊のエピソード類型そのものであり、辻野演出でこれを視る場合、スーパー戦隊で同種のエピソードが展開されたならどのような見え方となるかが手に取るようにわかるのである。

おそらくこの中で最もリュウケンドー「らしい」エピソードはご町内総出のドタバタが演じられる第二二話だろうが、ご町内武道大会の雰囲気はテンポ良く流して浦沢ご町内物のようなノリで描き、町内会の連中が使い魔を蹴散らす場面では惜しげもなくナパームやセメント爆弾を駆使して痛快な活劇に仕立てている。

これが原田昌樹や清水厚であったなら、ドリフのコント紛いのしつこいギャグをもっさりしたテンポで繰り返して有耶無耶のうちに勝ち鬨を挙げるような雑然とした見え方になっていたのではないかと思う。彼らがやりそうなのは、使い魔の肛門に花を挿す佐藤寛子のようなギャグが妙な間で延々と続くようなノリだっただろう。

つまり、リュウケンドー独自の闇鍋的なノリというのは、番組初期における原田昌樹や川崎郷太、清水厚の異様に間を外した居心地の悪いコメディ演出によって確立された側面が大きいということだろう。

たとえば第二七話のリュウガンオーパワーアップ編も、あの通りの脚本でも不動の颯爽たるカムバックを十分印象附けることができたはずだが、清水演出の最大の注力ポイントは、倅を追い回すゾンビ母ちゃんのグロテクスクな所作事であったり、クネクネと不必要にエロく蠢く井村空美のケツであって、肝心要の不動のオッサンは何故か意味もなく網一杯の蛤を背負って笑いを取りながら登場したりするわけである。

物語の上で何の意味もないのであれば、不動のオッサンが蛤を背負って登場することなど、脚本に指定されているはずがない。ましてや投げっぱなしジャーマンの武上脚本にそこまで細かいギャグが指定されているとは誰も思わないだろう。精々武上脚本にありそうなのは、鈴の尻を巡る寒いオヤジギャグぐらいではないか。

一旦表舞台を去った相棒がパワーアップしてカムバックするという普通なら燃える流れを、堕落した浦島太郎のようなふざけたギャグに紛らすセンスは、紛れもなく「仮面天使ロゼッタ」の劇場版「漆黒のフレイア」で、一日千秋の思いで待たれたヒロインのカムバックを「満月を背負ってM字開脚で降ってくる」という寒い映像で表現した清水厚の厨房臭い感性に基づくものである。

ああもう、オレにはまざまざと見えちゃうね、台打ちの場で清水厚が「このホンで視聴者が見たいと思うのは、ズバリ鈴の尻でしょう!」と「ちびまるこちゃん」の丸尾くんのように絶叫する姿が、「そうじゃない、こうやって振るんだ!」と井村空美どん引きの空気を物ともせずに真顔で自ら尻を振って芝居を附ける姿が。

しかし、この番組においてオレがその手の清水演出の悪ノリをさして不快に思わないのは、初期に確立されたこの番組のノリが、登場人物たちに本気で感情移入することを阻んでいるからである。

今ほど挙げたロゼッタの場合なら、たとえばシャンゼリオンのように変化球の捻りを加えたヒーロー物が持てはやされ、誰もが正面からヒーローの王道を描くことを格好悪いと感じていたあの当時、深夜枠でありながら直球ド真ん中の燃えるヒーロー像を描いた希有な番組だっただけに、清水厚の下品な悪ノリが我慢がならなかった。

そのときは、特撮の将来のためにオレがこの手を汚してこいつを殺すとまで思い詰めたものだが、リュウケンドーの場合「まあリュウケンドーだし」ですべてが済まされてしまうようなヌルさがある。

何故なら、川崎郷太はともかく、原田昌樹と清水厚に関しては自作の登場人物に対して愛着のある撮り方をいっさいしない演出家だからである。オレの認識では、この二人の演出家は、自身の映像的感性や映像制作を通じてやりたいことにしか興味がない。

原田演出に関しては、しんみりしたエピソードにおける一種の抒情味というのも特徴ではあるのだが、それは単にそのような「抒情的な映像シーケンス」が撮りたいだけなのであり、物語を本当らしく語る過程で抒情的な演出が活きているわけではない。

おそらく原田昌樹が最も愛着を感じている登場人物とは、第一七話のEDで脈絡もなくフィーチャーされた婦警コンビなのではないかと思うのだが、このエピソードのEDで本編の内容とはいっさい無関係に婦警コンビ総集編が流れたときは、何らかの手違いか編集ミスか、もしくは婦警コンビ降板の可能性すら疑ってしまった。

一応このエピソードの筋立てから、人々に悪夢をみさせる敵が倒されて安心して楽しい夢がみられるね、という流れのエピローグとして描かれてはいるのだろうが、それなら本編中で悪夢に悩まされた人々のモンタージュで〆るのが筋というもので、特段の重要性を持たない婦警コンビのみをフィーチャーする理由はない。この辺の恣意的な重点の外れ具合というのが、原田演出のピントの外れ方を象徴しているように思う。

一方で、辻野担当エピソードがリュウケンドーらしくなくてつまらないという声も一部には聞かれるが、それは一種、この番組のコンセプトの本質が「外した戦隊」という冴えないものでしかないことの顕れだろう。

東映戦隊の演出者は、台打ちで意見は言うし脚本の描写に空隙があれば埋めるが、基本的に脚本そのものはいじらない。対するに、円谷や円谷映像の演出者は台打ちで詰めることはしないが現場で脚本をいじらないと気が済まないらしく、その辺の事情については以前川崎郷太がインタビューで詳細に語っている。

だから、辻野演出のエピソードがつまらないとしたら、それは脚本に内在する挿話構造がつまらないからであり、原田・清水演出が辻野演出と挿話の見え方に異質な部分があるとすれば、それは彼らが現場で改変した要素であると言えるだろう。勿論、打ち合わせの達人・武上純希が原田・清水両監督の要望を盛り込みそれぞれの嗜好で膨らませやすい要素をパパッと雑に入れ込んでいるということもあるだろう。

どちらがどうとは軽々に言えないが、そのまま撮ったらつまらない話を面白くするために加えた味附けが蛤やケツや婦警コンビであることに抵抗を感じないのであれば、三者三様に存在価値はあるだろう。

先ほど触れたように、東映、円谷、円谷映像というまったく異なる語り口を代表する演出者でローテが組まれていることがこの番組の最大の特徴だが、それらは所詮異質なもの同士で相互作用を及ぼす種類の要素ではない。

どこまで行っても、同じコンセプトに基づく番組が、あるときはウルトラっぽく見えたり東映戦隊っぽく見えたりエコエコっぽく見えたりするというバラエティの幅に過ぎないのであり、この三者が有機的に作用して統合的な語り口を生み出すということはないだろうと思う。東映系の辻野監督や助監昇進組の岡監督はまだしも、原田・清水両監督はどんな番組で演出を担当しても、他人の語り口に合わせているのを見たことがないからである。

そもそも最初期の演出者の顔ぶれを視れば、松竹と円谷の間でどのような駆け引きが行われたのかが剰りにもアカラサマで苦笑してしまう部分がある。ウルトラ劇場版で取引のある松竹に請われて円谷が人材を斡旋するに当たり、円谷首脳に反抗的な原田・川崎両監督と、円谷粲の影響力がなくなり円谷映像が名実共に別会社となったことで上得意を喪った清水監督を紹介し、円谷の主流的人材を割くことなく松竹の顔を立てたのだと邪推するのが普通だろう(笑)。

あるいは、特撮系の制作会社と組んだ経験が円谷しかなかった松竹が、円谷人脈を中心に人材を求めた結果なのかもしれないが、円谷首脳ですら制御不可能な人材であった原田・川崎両監督と円谷本体とは縁もゆかりもない清水監督という顔ぶれでは、TV特撮番組制作のノウハウのない松竹にこれらの得手勝手な一匹狼的人材を御すことなど出来るはずがない。

この番組の語り口の異様な混乱は、要するになるようになった結果なのである。

また、この番組は未だ折り返しを過ぎたばかりで、まだ半分しか語り終えていないということそれ自体が驚きだが、これからどのように物語が進むのか皆目見当が附かないところがある。東映戦隊的な枠組みではあるが、東映戦隊には概ねシーズン毎の季節感やシリーズ構造があるために、今までに大体どのくらい消化したのかがわかりやすいが、おそらくこの番組は諸般の事情から意図的に季節感を曖昧にしている。

さらにこの番組では、主人公のパワーアップやモードチェンジ、アイテムゲットのイベントが頻繁に繰り返されているために、それがシリーズ全体の中での進捗を計るハロン数として意識されない。

緩い意味では戦隊における六人目に当たるリュウジンオーと新幹部の登場が第二クールを画し、第三クールは大魔王復活を巡る攻防ということになるのだろうが、そのような縦糸の要素よりもパワーアップやモードチェンジをコアに据えた各話のバラエティ要素のほうが突出しているために、剰りシリーズ全体の進行を意識しない。

結局リュウケンドーという番組の特異性は、個別の語り口においても、語り口の統一性においても、シリーズ構造においても、相互に異質で相容れない要素が脈絡もなく混在していることで成立しているのである。

以前この番組に触れた際に仄めかしたように、このような混乱の元凶としては制作実体を持たない松竹のTV特撮への参戦という要素が挙げられるだろう。非東映系のTV特撮ということで言うなら、まずウルトラシリーズの円谷特撮があり、超星神シリーズの東宝特撮があり、資本レベルは異なるが雨宮慶太のラインがある。

これらは何より制作実体毎の分類なのだが、例のお家騒動以降実製作分野から完全撤退した松竹制作のリュウケンドーだけは資本単位の分類になってしまう。TV特撮制作のインフラを持っている会社が取引のあるスポンサーや放映局と協業するというかたちではないのである。

少なくともTV特撮番組というフィールドでは、松竹はインフラはおろかスポンサーや放映局との取引もなく、他の会社がやっているようなビジネスをウチもやってみたいというビジネス上の動機から、何から何まで他の会社に占有されていないニッチを寄せ集めてつくったのがリュウケンドーというTV特撮番組なのである。

その意味では、リュウケンドーという番組が今このようなものであることは、松竹制作である故の必然である。一面でこれはベンチャービジネス的側面もあるわけだが、それが肯定的に評価されるためには、一種の理念や長期的ビジョンが必要だろう。既存の制作会社とは違う松竹独自のラインを模索し、実体を伴うビジネスとして育てていく意志が感じられれば、リュウケンドーという番組個別の混乱それ自体はそれほど問題視するに当たらないだろう。

だが、この番組の仕切り全体に漂う「やっつけ感」というか、本来成立しないようなプロジェクトをとりあえずかたちにしただけという性格には、そのような理念もビジョンも感じられないというのがオレの印象である。それには以前触れた「SHINOBI 」の先例故の予断があることは否めないが、生臭い商売の都合ばかりが突出して感じられる番組制作に理念やビジョンを感じろというほうが無理である。

この番組には、どこの制作実体にも具わっているような、ある文芸的理念を共有する人間集団の肌触りがいっさい感じられないのである。それが0からのスタート故の無個性に過ぎないのか、それとも松竹という企業自体の文芸制作に対する姿勢を露呈しているのか、それを現時点で判断するのは早計かもしれないが、これまでの松竹のビジネス姿勢からは否定的な感触しか感じられない。

そして、そんな出鱈目な仕切りにも関わらず、この番組が曰く言い難い地点を重心として一定の釣り合いが取れているのは、ひとえにシリーズ構成の武上純希の他に類を視ない独特のスキルによるものではないかとオレは睨んでいるのである(笑)。

当たり前なら、こんな出鱈目で素人臭い番組は成立の余地すらないのである。おそらく企画段階で各方面の思惑が衝突して、実際の映像作品として陽の目をみる機会など永遠になかっただろう。こんな畸型的な番組が映像作品として実現したのは、おそらく武上純希がシリーズ構成を務めていたという、それだけの理由からである。

普通の神経を持った脚本家なら、こんなにてんでばらばらに分裂した相容れない大人の事情や演出者の我儘に晒されたら、精神的に参ってしまう。だが、武上純希大先生だけは、そんな状況下でも顔色一つ変えずに無責任に出された相矛盾する意見を粛々と残らず浚って、それが如何に文芸的な観点からは耐え難い要請の野合の結果であろうとも、関係者各位がそれなりに満足する合意点を捻り出してしまう。

その意味で武上純希は不可能を可能にする男なのである。

勿論それは、不可能なことは不可能なままに放置しておくほうがいいのに、という遺憾の意も込めての逆説であることは更めて強調するまでもない。井上敏樹が人格的な迫力とノリで通らないはずの話を通してしまうのとは別種の才能ではあるが、武上純希にはこの分野の人材としては類稀な事務屋としての才能がある。

だから、武上純希を純粋に脚本家として持ち上げたり貶したりする議論は、彼の本質的な才能を理解していないとオレは思う。ホン書きとしての武上純希は取り立ててどうこう論じるべき価値のない極普通か普通以下の書き手だが、TV番組の文芸面の仕切りという意味ではこれほど物凄い才能と資質を持ったプロは存在しない。

映像作品制作の実態においては、さまざまな現実的利害が介在し、さまざまな文芸的信念が正面からぶつかり合うものである。本来的には、映像作品制作の現場はそのような個別の主張の葛藤の巷であって、あちらを立てればこちらが立たずというアンビバレンツが支配的な場であり、誰かしらの意見が通って誰かしらの意見が却下されるものであり、誰かしらの利害が重視され誰かしらの利害が軽視される不公平が否応なく発生してしまうものである。

ところが武上純希大先生は、関係者各位が個別の立場から得手勝手に発した意見をすべて調整してそれなりの合意点を捻り出してしまうのである。勿論、誰かが独り勝ちするのでない以上、その場の全員が大満足ということはあり得ないが、それでもそれなりに 各人の意見がすべて盛り込まれたかたちで最終的な合意点が成立する。

文芸という観点ではなく、職業実践という現実的な観点から視れば、これは大変「気持ちのいいこと」なのである。だから多くの職業人が彼と仕事をしたがるのであり、それが文芸作品の制作という特殊事情であろうとも、やはりスムーズに気持ちよく仕事がしたいというのは職業人である限り避け得ない誘惑なのである。

何故武上純希にそれが可能なのかと言えば、オレが耳にした範囲では「とにかく拘りがない」「実務的に有能」という声が聞こえてくる。プレゼンテーションも淀みないし、会議で出されたどんな細かい意見も拾う上にその理解は的確であり、対立意見の調整も上手いし、出された意見は聞き流しにせずきちんと実作に反映させている。

これは映像作品制作のように、金を出す素人の生臭い要求や現場の人間の頑固な拘りが飛び交う現場では得難い資質なのである。誰だって仕事の上で他者と衝突して疲弊したり痍附くのはイヤなのだから、どちらが勝つか負けるかという勝負を回避して最大多数の最大幸福を調整してくれるミディエイターは至極重宝なのである。さらには、それが脚本家という本来強烈な文芸的情念と自己顕示欲・権勢欲の固まりのような職種において成立することが、武上純希の希有な職能として評価に値するのである。

このような窮めて現実的な職業スキルに対して、無責任な視聴者が軽々に批判を加えることは難しいのだが、やはり文芸作品の制作という行為は「ただのお仕事」ではないクリエイションの営為なのだという幻想は持ち続けていたい。つくり手の側が無用な消耗を回避してスムーズに仕事をしたいと望む故に能吏的な才能が持てはやされるという状況は、やはり受け手の立場からすれば大きな幻滅である。

話をリュウケンドーに戻すと、この番組の存在が野次馬的な引きの視点で面白い現象であることは否めないが、文芸的な観点ではマイナスとマイナスの相乗でプラスが成立したゲテモノでしかないわけで、本来こんなものが映像作品として成立すること自体が何かの間違いである。

武上純希が象徴するような「お仕事」としての文芸制作の在り方は、このような番組の制作を可能にしてしまうのであり、リュウケンドーという番組をどう評価するかという問題はそのような文芸の在り方に対して、受け手としてどのように対峙するか、行動するかという問題を潜在的に抱えているのだとオレは思う。

さらには、そのような野合的なコンセプトを根に持つ現象でありながら、個別の演出家や個別の俳優の具体的なパフォーマンスによって成立した具象的な実体をどのように扱うのか、という問題もまたそこには内在しているのである。つまり、背後にどのような生臭い事情があろうとも、実際に生身の人間によって演じられてしまうことで物語世界に対して愛着を感じる人々が現れる。このような人々の「気持ち」に対するつくり手の誠意は奈辺に求めるべきなのか、という問題である。

更めて強調するが、これは「魔弾戦記リュウケンドー」という番組を愛好するあなたに向けて語っているのである。この番組を好きなのか嫌いなのか、この番組に好意的か批判的か、そんなつまらない評価基準でものを考えるのは意味がない。

お金を出した人間と、それに場を提供した人間、それをつくる人間、そしてそれを演じる人間。番組に関係するすべての人間がちょっとずつ満足してちょっとずつ不満を抱えるような「民主的に」生み出されたその場限りの文芸作品に対してあなたもまた自分もちょっとだけ満足でちょっとだけ不満だと応えるのか、と問うているのだ。

その前提でオレ個人のアティテュードとして意見を言うなら、このような番組は現実に存在してはいけないのだと考える。文芸的な観点においては、このような番組をこのようなままにつくることは不可能だったはずなのに、それを可能にするような窮めて現代的なスキルがものを言ったのである。

現状のような番組の存在を許さない力学が機能していれば、この番組がいつか実現するとしてももっとブラッシュアップされスッキリしたものになっていたはずであり、それが出来なかったならばやはりこの番組は存在しなかったはずなのである。それが結果的に松竹というTV特撮分野の新参者に対して門戸を閉ざし、既存勢力の既得権益に利するかたちとなっても、それはそれで致し方のない事情なのである。

実現されたドラマとしてのリュウケンドーの映像的実体は、さほど破壊的な影響を及ぼすものではないだろう。しかし、これほど混乱した複雑な背景事情が事務的に調整されとにもかくにも制作に漕ぎ着けることが出来たという事実に、何かオレは空恐ろしい予兆を感じてしまう。そのレベルの混乱が現実問題として収拾不能だったからこそ、これまではここまでお台所事情の混乱が露呈した番組が実現されなかったのである。

それをどう考えるのか、どう評価するのか、会議室的なビジネスのロジックが文芸制作の現場を侵食し、非理が非理でなくなってしまうことに対して、受け手一般はどのようなリアクションを返すべきなのか。一見、肩の凝らないお間抜けなゲテモノに見えながら、リュウケンドー的なるものの抱えている問題の根は深いとオレは考える。

そういうわけで、思わず「ノリで」話を大きくしてしまったが(笑)、まだまだ二〇話以上のエピソード残っている番組ではあり、先行きどうなるかはわからない。制作サイドからすればすでに終わった話であり、視聴者からの反響でどう変わるというものでもないだろうが、リアクションのフィードバックがない状態でどのように現場の力学が機能しどのような地点に着地したのか、今後もそれを見守りたいと思う。

とまあ、このようにお座なりなかたちでTV特撮の現状を概観したのは一種のケジメであって、当然次回のエントリーはTV特撮よりも現時点でモチベーションが上がっている今期の一般ドラマを語るものになる予定である。

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