莫迦と英雄
前回のエントリーで不安を漏らした「マイ★ボス マイ★ヒーロー」だが、滑り出しを視る限り期待を持っても良さそうな気がしてきた。まあ、期待値込みでかなり閾値を低くとっての評価ではあるが、鑑賞後理屈抜きに気分が好くなる辺りにここ数作の土九枠との連続性を感じ好感を持った。
主役を演じる長瀬智也本人の柄を一口で謂うなら「莫迦」である。
これはもう、TOKIOのメンバーも彼のファンも彼自身でさえもが認める満場一致のキャラクターイメージだろう。メンバーの口から語られた長瀬莫迦伝説の類は夥しい数に上り、劇中で語られた榊真喜男の莫迦さ加減が誇張に思えないほどである。長瀬智也本人がマンガ的なまでの莫迦というキャラクターなので、劇中で描かれるドラマの嘘としての誇張された愚行は、単に素の長瀬智也伝説のアレンジでしかない(笑)。
つか、劇中の真喜男の莫迦さのほうが何かまだ理解できる。素で足し算を間違えたとか小学生レベルの漢字が読めなかったという伝説(まあウケをとるためにそれ自体誇張されているんだと思いたいが)が豊富なだけに、高校の数学なんてリアルタイムの高校生でもないと理解できないだろうし、「暫時は瀧に籠るや夏の初」なんて予め句の存在を識っていないと大人でもまず読めないないだろうと同情してしまう。
これを「ざんじはたきにこもるや なつのはじめ」と読んでも漢字の訓読という意味ではそれほど間違っていない。これは漢字が読めないという類の莫迦ではなくて、芭蕉の比較的マイナーな句を識らなかったという類の莫迦なのであるが、これを莫迦と謂ってしまうと普通の大人もいろいろと困るんじゃないだろうか(笑)。
まして彼が転入したセント・アグネス学園は劇中の描写を視る限り偏差値のかなり高い進学校らしいので、普通に大学を卒業して幾星霜のオッサンでもいきなり放り込まれたら授業に附いていくことは難しいだろう。つまり、「足し算が出来ない」「自分の名前が漢字で書けない」という真喜男本人の莫迦度を表現する部分を除けば、そんな莫迦が到底附いていけない学業レベルのギャップとして学園内の失敗談が描かれている。
この辺は脚本の計算が届いている部分で、普通一般の視聴者は真喜男ほど莫迦でもないが、セント・アグネス学園の授業に附いていける現役進学校生ほど優秀でもない。だとすれば、自分より莫迦な主人公が自分より勉強の出来る現役高校生に莫迦扱いされ苛められているのだから、自然と莫迦のほうに同情的なスタンスに立ってしまう。
長瀬智也のファン層がどの年代層に集中しているかは識らないが、普通に勉強が嫌いな女子中高生だと想定しても、そこからスライドしたF1層だとしても、オレのような土九枠の流れで観ている視聴層でも、その間の事情は大きく変わらない。ある意味、長瀬智也自身にアテ書きしたような計算が活きていると思うのだが、事前に「ここを外さなければいいな」と希望していたような、学園における真喜男の異人性が押さえられているのが方向性としてはいいと思う。
それはつまり、莫迦な青年が進学校に転入してきて四苦八苦するという主人公視点の苦労話のドラマ要素だけでなく、莫迦な青年の英雄性という周囲の視点の要素のほうを重視して描いていくという姿勢である。非常識なまでの莫迦という欠落を抱えている以上は、主人公たる者はそれを補って剰りある英雄性を発揮しなくてはつまらない。
その劇的要請に応えるコンセプトである、素の長瀬のキャラクター性を正面から利用した「莫迦な武闘派やくざ」という設定が、そのまんまではあるけれど、それを活かしたドラマ性を追求している辺りに期待が持てる。
たとえば「タイガー&ドラゴン」の虎児役も決して頭の良い役ではなかったが「やくざに学がないのは不思議ですか?」的に普通にキャラ描写としては流していた。ここまで正面切って長瀬個人の莫迦をテーマに据えてそれをいじるというコンセプトは、最近固定してきた長瀬のキャラを批評的に視る視点からの発想で興味深い。正直、長瀬智也の演じた役柄で初めて好感を持った。
その一方で、今回の筋立て自体の莫迦さ加減も尋常なものではなく、これが意図的に設けられた隙であってほしいと願う一方、それが意図的な演出であったとしても芸風として確立されていないような歯痒さを感じたことも事実である。
まあ誰でも感じることだとは思うが、今回のストーリーのクライマックスを徹底してアグネス・プリンを巡るものとしたナンセンスは決して悪くないとしても、そのメインの筋立てに持っていくための筋道は隙だらけである。
3−Bのロケーションがアグネス・プリン奪取に最も不利だという条件附けは桜小路の口から語られるだけで、描写上ではまったくそれらしく描かれていない。まず最初に真喜男がプリン争奪戦に巻き込まれた場面の描写では、一二時ジャストに教室を出た真喜男がアグネスプリンを目指す生徒の群に先んじて玄関先に到着しているが、3−Bのロケーションが桜小路の語るようなものであれば、真喜男はどこかでこの暴徒の群を追い越していなければならない。
映像表現の呼吸として、何心なくプリン目当てに学食を目指して走る真喜男の背後から殺気立った群衆が殺到したほうが面白いことは面白いが、それほど命懸けでダッシュしたわけではない真喜男が、彼と同じように一二時ジャストに教室を飛び出した他の生徒たちに先んじて玄関先に到着しているのはどう考えてもおかしい。
これを重箱的難癖と視るかどうかというのはかなり微妙な話になる。それほど注意深くない視聴者でも、その大部分がこの場面と桜小路の説明に矛盾を感じるだろうと考えられるからである。
クライマックスの大ジャンプを敢行しても、この最初の場面で真喜男が他の生徒に先んじたほどのアドバンテージは得られなかったし、それ故にクライマックスの感動をもたらす芝居場でも「屋上でちんたら準備しながらダベってる間があったらダッシュしたほうが早くね?」的な無粋なツッコミが遡って発生してしまう。ここで視聴者にそんな無駄なことを考えさせるのは、やはり「ノリが悪い」からである。
だとすれば、「ここで魅力あるのはプリンだけだ」というモノローグきっかけで、真喜男が一二時ジャストより若干フライング気味に教室を出たとしておけば、筋道上何の矛盾もなかったはずである。つまり、ここの流れを同じ映像効果が成立してなおかつ無矛盾なかたちで描こうと思ったら、いくらでもやりようはあったはずなのである。
これを一見して矛盾のまま怠惰に放置して描いているのが、確信犯なのかマジの見落としなのかが判然としない。つまり、語り口の莫迦さ加減に対する「冗談ですよ」という目配せがない。この種の語りのボケというのは、通常そのような目配せがあってこそ視聴者が笑ってよい描写として完結するものなのである。
俗な表現で謂うなら、ネタなのか素なのかが明確ではないので、非常に居心地の悪い気分を感じてしまうのである。そしてこれは、どう考えても大森脚本の段階から存在した矛盾であると考えないと辻褄が合わない。特撮やアニメと違って、一般ドラマにおける脚本家の地位は絶大であって、橋田寿賀子が一字一句セリフを変えさせないというのは有名だが、多かれ少なかれ一般ドラマのジャンルでは著名脚本家の立場が強い。
名前を出すといろいろ差し障りがあるので伏せるが、某ゴールデン・プライムタイムのドラマの場合、メインライターによる脚本の第一稿が剰りにひどいので現場のPが別のベテラン脚本家を呼んで直させたのだが、その直しをメインライターがさらに直して結局ひどいまま映像化されてしまうという事態が再々に及び、ベテラン脚本家がクレジットを拒んで降りてしまったという笑えない話もあるくらいである。
剰り詳しいことは言えないが、この「メインライター」氏は著名な登竜門の優秀賞を受賞しただけで連続ドラマの経験もほとんどない、ほんの新人さんなのである。そんな新人さんにして「著名な登竜門の優秀賞受賞者」という看板の威信を確保するために現場のPよりも発言力が大きくなるのであるから、それほど、各局の看板枠の一般ドラマを手掛けるメインライターの影響力は強い(正確に謂うなら、どうでもいい扱いを受けるライターと大物脚本家の間には天地ほどの開きがあるのだが)。
そしてこのドラマにおける大森美香のプレゼンスを考える場合、土九枠とも日テレとも縁のない黄川田将也と村川絵梨が比較的大きな役をもらっているのは、大森にとってはアウェイ的グラウンドである日テレで書くにあたって、過去に大森が手掛けた「風のハルカ」の主役カップルを「連れて来た」のだろうと想像するのだが、役者を「連れて来られる」、つまり穏当な言い方をすれば「キャスティングに影響力がある」ということを考えても、決して大森美香の発言力は小さなものではない。
そして、これはオレ個人のフィーリングというやつだが、どうもスター脚本家の影響力というのは、ヒットを飛ばす力があるという能力それ自体よりも、一般に通用する名前自体の強さで決まるような部分があるように感じる。つまり、脚本家のキャリア・アップというのはヒットを飛ばすことそれ自体よりも、自分の名前の重みを演出することにあると言えるかもしれない。
その意味では、CXの月九という一般ドラマのメインターゲットであるF1層に幅の効くフィールドでヒットの実績もあり、NHKでの活躍で全国区の知名度もあり、加えて史上最年少での向田賞受賞という華麗な箔附けもある大森美香の現時点でのポジションは、この番組の製作陣中では最強レベルである。
だとすれば、誰が視ても莫迦にしか見えないこの描写上の齟齬を、演出家の一存で脚本を改変したせいだと考えるのはちょっと無理がある。そもそも第一話の演出を手掛けた佐藤東弥は土九枠生え抜きの演出家で、これまで他の脚本家と組んで土九枠の語り口を確立してきた張本人なのだから、彼の無理解な演出でこのようなぎこちない結果になったとは考えにくいだろう。
その一方で、これまでの大森脚本作品に何か問題があったとしても、それはたとえば職業観やジェンダー観が妙に歪んでいるという部分にあって、このような描写上の論理的整合性に纏わる齟齬がそれほど問題になった事例は寡聞にして識らない。
そこで考えられるのは、日テレとは仕事をしていない大森美香にしてみれば、たとえば前回「ギャルサー」に絡めて詳述したような「嘘事のリアリティ」という土九の流れのノリはこれまでの芸風と少し勝手が違うのかもしれない。大森脚本のリアリティというのは、たとえ誇張があったとしてももう少し地に足の附いたポップさであって、土九の正面から嘘事を強調する語り口とは若干位相が異なる。
そこで新たな語り口の模索としてあえてユルユルの隙のツッコミ所を作ったのかもしれないと思うのであるが、まあそうであるとしても、冗談を言い慣れてない人の唐突なネタが周囲を気遣わせるような、微妙に生温い感触であることはたしかである。
このような、ある種隙だらけの作劇が今後の本作の基調になっていくのかどうかは定かではないが、第一話だけを観る限りではやはりちょっと違和感として感じられる。これが回を重ねてこなれていって確信犯だとわかれば話は違ってくるのだろうが、新しいノリを掴めるかどうかというのは成り行き次第の不安要素ではあるだろう。
ただ、そのような抜本的な問題を除けば、やはり大森美香のキャラの立たせ方は面白いし、相変わらず小ネタの使い方が上手い。元々短い描写で脇を立たせるのが上手い人ではあるが、ジャニーズ離れした強面のルックスの田中聖演じる舎弟の真鍋が見かけに寄らぬ手芸好きとか、長瀬を苛めるクラスの連中も苛め方によってキャラが書き分けられていて細かい芸を見せる。
これまでの土九ドラマでは、たとえば公式サイトにアップされているクラス名簿の類は演者個々人に宛てた役作りメモという以上の意味はなく、そのような詳細な設定が画面上に映るとは限らなかったのだが、このドラマの場合はそれが脚本を書く上でも活きていると感じさせる描写になっている。
どこかで大森美香は役者を視てアテ書きするのが常套的な書き方だと聞いた覚えがあるのだが、その意味では昨今流行りのクラス名簿方式の脇役紹介コンテンツが大森美香の芸風を俟って奏功していると言えるだろう。
また、このアテ書きという意味では、黄川田や村川を連れて来たのも半年間朝ドラで附き合って気心の知れている役者のタイプキャスティング、キャラクターとしての安全パイという意味もあるのではないかと思う。
現時点では黄川田も村川もほとんどセリフのない役で、今回は極々の主要メンバーの紹介だけに整理して描写を絞っているが、今後は真喜男のライバルとして立って来るだろう黄川田、ヒロイン新垣由衣の親友もしくはライバルとして絡んで来るはずの村川の役どころが重要になってくるだろうし、この二人の魅力を立たせるにはどのように描けばいいのか、大森美香にはすでにプランがあるはずである。
おそらく視聴者の大部分は今後黄川田や村川が親しげな仮面の陰で真喜男やガッキーを陥れる陰謀を画策するんじゃないかと予想しているのではないかと思うが、これまでの通例で言えば、ネットでそのような予想が主流となれば、第八話辺りで路線変更してくるかもしれないと思う(笑)。いずれにせよ、大森美香の黄川田観、村川観は風のハルカの役どころがベースだろうから、そこからの発展型で役柄を作ってくるだろう。
第一話からすでに真喜男との恋の予感を振られている梅村ゆかり役の新垣由衣については、このドラマの役柄について「初めてギャルじゃない役を演じた」とコメントしているが、ガッキーの役柄が珍しく優等生的な普通の女子高生なのは、おそらく大森美香の印象として本人にギャルのイメージが感じられなかったからだろうと思う。
オレもどちらかと言うとこれまでは新垣由衣を「Sh15uya 」のエマの連続上のイメージで視ていたのだが、ギャルサーの役柄を視るに、ギャルというスタイルの陰から「もしかして割と素朴な普通の子なんじゃないか」という印象を受けていた。
この辺の役柄の感覚については、以前ガメラの話題に関して当ブログにリンクをいただいたquon913 という方のご意見にほぼ賛成で、おそらく大森美香の体質的に役者本人から得たイメージのほうが役柄を創り上げる上では重要で、「事務所サイドが売りたいイメージ」で書くことが出来ないのではないかと思う。
それから、ガッキーと並んでヒロイン格の役どころの香椎由宇の女教師が「鉄仮面」という綽名なのは人物観が的確で笑った。以前彼女が某バラエティ番組に出演して自身を語った言葉によると、「年齢の割に落ち着いて見られるのは無表情なせい」だと自己分析しているらしい。内面的には年齢相応だが、大人びた無表情な作りの顔と無口な性格のせいでそれが表面に出ないだけだというのである。
そういう意味では、まだ一九歳の香椎由宇に鉄仮面と恐れられる天然ボケの数学教師役を振っているのは本人の柄からのアテ書きだということで、無表情な美人教師が素でボケた言動を繰り広げるおかしみという王道的に萌えるキャラになっている。
第一話のラストで、校則の罰則規定とは言え鉄仮面の美人教師が武闘派やくざの真喜男に「交換日記」を申し込むという剰りに嬉し恥ずかしい流れになるのもキャッチーで、今後のガッキーを交えた恋模様への期待を煽る。劇中終始無表情な鉄仮面女教師が、この会話のラストで悪戯っぽく微笑むのが芝居の計算としても効いている。「つまり、あたしとニッコリ」ってのが、何か犯罪的に甘酸っぱいノリだなぁ。
また、作劇コンセプトの面で視るならば、先程少し触れたようにプリン争奪戦というくだらないネタに絞って筋立てを組み立てる方向性も間違ってはいないだろう。この筋立てにおいて作劇上目論まれているのは、ヒーローとしての真喜男の誕生編である。
勿論真喜男視点ではプリンを奪取する達成感という目標が設定されているわけだが、最前触れたように3−Bのロケーション的不利や争奪戦の具体的困難性がいい加減に描写されていることもあり、劇中事実としてではなく作劇の方向性として「空を飛ぶ」という手段が目的化する転倒が起こっている。
つまり、クライマックスの筋立ては作劇上本来は「真喜男がプリンを奪取する」という劇中の目的を実現するプロセスを語るはずだったのが、いつの間にか「真喜男が空を飛ぶ」という手段を実行するプロセスを目的的に語っているのである。
勿論劇中の真喜男や桜小路は、飽くまでプリンを奪取するために空を飛ぶという馬鹿げた手段を実行しようと骨を折っているわけだが、それを描く語り口の上では、空を飛ぶという手段を描くこと自体が目的化しているということである。だから、空を飛ぶための動機附けであるプリン争奪戦や、空を飛んだ後のプリン奪取という成果自体は窮めて適当に描かれているのである。
これは先程指摘したような語り口のノリが確立されていたならばもっと明確になった事情だと思うが、校旗を翼に仕立てて空を飛ぶという手段のリアリティが云々という以前に、それは目的を実現する手段として窮めて迂遠な方法であり、この意味で最初からリアリティは皆無であり劇中事実としてナンセンスなのである。
では何故に真喜男が空を飛ぶことが作劇上それほど重要なのかと言えば、それは「マイ★ボス マイ★ヒーロー」とタイトルに謳われた「ヒーロー」の意味が「マントを着て空を飛ぶ」ようなヒーローだからである。決して「パパはボクのヒーロー」「彼はあたしのヒーロー」とかそういう比喩的かつ現実的な意味のヒーローではなく、人々の共同幻想上に活きる超人としてのスーパーヒーローなのである。
誰もが「マイ★ボス マイ★ヒーロー」というタイトルを耳にして、現実生活における卑近な英雄性、正義感、行動力、友情、そのようなイメージを連想し、ハートウォームな優しいコメディを期待したことだろうが、実態はもっとラディカルに誇張された過激なスラップスティック、シチュエーションコメディよりも数倍タガの外れたリアリティにおける寓話が目論まれているということである。
劇中事実の筋道としてどうであれ、今回のクライマックスで目論まれた作劇的視点におけるストーリーとは、「莫迦なやくざが高校に転入し、マントを翻らせて空を飛ぶようなスーパーヒーローになる」という荒唐無稽なストーリーなのである。
その意味で今回のエピソードは特撮番組におけるヒーロー誕生編的なポジションの物語なのであり、手段が目的化するような転倒、何がどうであれ超人的なヒーローが結末において登場すべき劇的必然性に貫かれた物語構造を目指している。つまり、イメージ的にはスーパー戦隊物の、論理的説得力皆無だがノリだけで強引に成立しているパイロットのような語り口が必要とされているのである。
このようなイメージを狙うなら、プリン争奪という目的自体のナンセンス化、手段が目的化する転倒した筋道、そこに至るまでの経緯の決定的な矛盾、劇中のロジックと作劇のロジックの混淆、このような畸型的な語り口が追求されるのである。その混沌の語り口が現時点においては確立されていないと感じるというのは再々強調した通りだが、新たな土九枠へのアプローチとしては興味深い試みであることは間違いない。
いずれにせよ、蓋を開けてみたら予想以上に意欲的な作品であったということはたしかであり、予断というのは裏切られるから面白いのだと痛感する次第である。まあ個人的なモチベーションとしてはギャルサーほど入れ込んでいるわけではないが、全般的に微温的な作りの今期のドラマの中では、長瀬智也という安全パイの視聴率男を起用している割には、土九の挑発的な先鋭性を些かも喪っていないのは好感が持てた。
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