School Days-1
TV特撮をお腹一杯語ったところで、後顧の憂いなく一般ドラマの話題を語り散らすわけだが、最初はやはりみんな大好きラーメンやカレーライスレベルの国民食である学園ドラマから行ってみよう。分けても最初に語るべきは、何と言っても以前のエントリーで過剰なまでの期待を表明してしまった「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」のその後だろう。
正直、オレが悪かった。
今となってはもう、あんなエントリーはサックリ削除してキングクリムゾンを発動させちゃおうかと「あとで後悔(重畳表現の一例)」するくらい、当初の期待を悉く裏切ってくれている。第一話でオレが期待した部分はすべて影を潜め、代わってオレが疑懼を覚えた部分ばかりが前面に出てきてしまっている。
あのとき口にした言葉をもう一度別の意味において繰り返すが、予断というのは裏切られるから面白いのである。そして、面白いということは、必ずしも嬉しいこと楽しいこととイコールではない。
まず、このドラマの最重要要素である「ヒーロー性」の認識が第二話からすでに揺らいでしまっているのがいただけない。第一話にオレが視たのは、観念的な目標(たとえば学園生活の意義)を過剰なまでにちっぽけな具象物(たとえばプリン)に凝縮し、それを過剰なまでに大袈裟な手段(たとえば空を飛ぶこと)によって果たすという極小と極大のギャップによって、「人々が仰ぎ見る」ようなかたちの超越的ヒーロー性を実現するという方法論だった。
ところが、第二話では「リーダーシップ」という観念的な目標が学級委員への立候補を介して「クラスを仕切る」という学園生活相当の日常的レベルの具象的対象に擬せられているのだが、これは「やくざが年齢を偽って高校生活をやり直す」というドラマの形式から視れば、何の変哲もない極々当たり前の比定である。
その「クラスを仕切る」という卑近な具象性からさらに学級委員の座を賭け「バスケのチームを仕切る」というダウンサイジングが行われ、挿話構造が一方的に矮小化されているのであるが、観念的目標を具象化するプロセスで矮小化が起こること自体は「学園生活の意義」から「プリン」へのプロセスを段階化しただけだから構わない。
問題は観念性から具象的対象への連続性が一筋道で、何らギャップが存在しないことである。リーダーシップ→学級委員→バスケチームの相関は、大杉漣の黒井が「組も家族もクラスも同じこと」とわざわざセリフで註釈を入れているくらいで、人間集団というのは規模の大小に関わらず本質は同じとするのは極当たり前のロジックであって、そこにはイメージ上のギャップが存在しない。
第一話で描かれたプリンを巡る挿話が何故面白いのかと言えば、そこにギャップがあるからなのだ。「学園生活は糞だが、プリンは魅力的だ」という何ら関連性のない二項を強引に結び附ける論理の飛躍やイメージ上のギャップが第一話の挿話構造の面白みを生起させていたのであり、さらにはそのちっぽけなプリンを奪取する手段として「命懸けで空を飛ぶ」という極大へ向かうモメンタムのギャップがあったからこそ面白かったのである。
そして、そこで凡人には為し得ない「空を飛ぶ」という常識的な意味では不可能な行為を敢行するからこそ、共同幻想としての「ヒーロー性」が立ち上がってくるのだ。
たとえばあなたが学生だった頃にも伝説のヒーローはいただろう。その種の伝説上の人物には不可能などないのであり、県域最大の暴走族を金属バット一本で単身潰滅に追い込んだとか、白バイ&パトカーを一〇台お尻に附けて繁華街でカーチェイスを繰り広げ全車クラッシュに追い込んだとか、路駐のベンツにケリを入れ出てきたやくざを残らずボコにしたとか、舎弟を救うためにやくざの事務所に乗り込んで組長以下全員土下座させたとか、まあお話の材料が特定の方向性に偏ってることは否めないが、大前提として不可能を可能にすることが伝説上のヒーローの必要条件なのである。
つまり、ヒーローというのは英雄的行為それ自体によって定義附けられる存在でありそれを行うに至る心情的理由やその行為の意味的価値などどうでもいいのである。それ故にあなたの学園の伝説のヒーローと、ジークフリートやク・フリンやベオウルフとの間に質的差異はないのである。
乱暴に括ってしまえば、神話伝説上の英雄たちが演じる物語それ自体は英雄たちの英雄性と直接の関係性はない。英雄が英雄たり得るのは、物語の開始以前の前段階において英雄として定義附けられているからであり、物語自体は英雄性とは無縁な地点における普遍的な人間性によって演じられるのである。
それ故、英雄伝説の中には、その物語世界内で何ら意味的価値のある行いを為していない人物が、ただ単に「他人が出来ないことをやった」「凄い能力を持っている」というだけで英雄視されている場合もある。それをすることによってどのような実益があるとかその凄い能力をどのように使ったかというのは、本質的にどうでもいいのである。
ドラゴン退治の英雄が何故英雄たり得るのかと言えば、凶暴なドラゴンを倒して人々を救ったからではなく、ドラゴンを倒すことそれ自体が凡人には叶わない英雄的行為だからである。英雄とは意味ある何事かを成し遂げて人々に何らかの実益をもたらす存在ではなく、凡人の為し得ない何事かを成し遂げて人々に憧れをもたらす存在なのである。
その意味で、ドラゴンを倒す行為とやくざをボコる行為に質的差異はないのであり、さらにはプリンを奪取するために空を飛ぶ行為もまた、それと同列に論じられるべき英雄的行為なのである。第一話の挿話構造に内在する面白みとは、たとえばあなたの学園の英雄伝説、それは暴走族や白バイややくざという決まり切った卑近な材料だけで成り立つものではなく、本来もっと豊かな物語性を秘めているのだという可能性を提示した部分にある。
そこでオレが期待したのは、真喜男の自己再生の心情的な物語と併行して生起する共同幻想としての英雄伝説である。「彼はボクの、あたしのヒーロー」という心情的な連続性において真喜男が桜なんとかや梅村ひかりの個人的ヒーローとなるような話はありふれているが、そのような心情的連続性に基づくドラマと併行して学園内の一般生徒たちが真喜男英雄伝説を育んでいくプロセスが描かれるなら、「ヒーロー性」の実相と虚像の関係の本質に迫るような物語になり得る可能性がある…いや、あった。
以前「失はれた週末」で論じたことの繰り返しになるが、ヒーローの意味的価値とは個別の物語において人々に実益をもたらすことではなく、不可能を可能にする英雄的行為を敢行することによって、彼を仰ぎ見る凡人たちに不可能へ立ち向かう勇気を与えることなのであり、この英雄的行為への憧れを共有することによって伝説を語り継いだ人々とその伝説を繙く現代のオレたちは等価の存在となるのである。
人の世は一握りの英雄たちによって動かされてきたわけではなく、非力な凡人たちの地道な営為によって今このようにあるのであり、そんな凡人に憧れをもたらし勇気を与えるのが英雄の社会的機能なのである。そして、そんな英雄伝説は所詮は当事者たちの心情的な細部を削ぎ落とした共同幻想でしかないのだが、その英雄的行為に伴う当事者的な心情的連続性と併行して人々の共同幻想的な憧れが描かれるのであれば、実相と虚像の乖離には何ほどの意味もない。
真喜男が学園生活を通じた自身の自己回復に付随するプロセスとして英雄的行為を果断に実行するなら、それはやはり仰ぎ見られるだけの価値のある行いなのであり、その事象を視る視点の当事者性と傍観者性が乖離しているとしても、曰く言い難い秘奥の神秘を介してその意味的価値の本質は嵌合しているのである。
だが、第二話以降を視る限り、この第一話の構造的面白みが意識化され手法化されている形跡はまったくない。継承されているのは、テーマを卑近に矮小化して具象化するという上っ面の相同性だけであり、これは凡百の学園ドラマが当たり前に採用している極普通の手法であって何ら新奇な面白みはない。
たとえば第二話の構造において決定的に間違っていると思うのは、バスケ素人の真喜男の球技大会までの上達のレベルが飽くまで常識的なものに留まっている部分である。
真喜男がバスケを通して成し遂げるべき心情的な連続性における作劇的な目的は、やる気のない早紀や運動音痴の雪乃を一つにまとめ、就中雪乃に苦手な運動に全力で取り組むモチベーションを与えることである。
その課題設定において真喜男が「ヒーロー性」を発揮するなら、真喜男視点での心情的なドラマと不即不離なかたちで真喜男の英雄的行為が描かれ、それに対する憧れが牽引力として雪乃に作用すべきだったろう。つまり、ズブの素人の真喜男が当たり前の意味では大したことのないきっかけによって常人離れした上達を果たす、というプロセスが期待されていたはずである。
ご丁寧なことに、バスケを始めるに当たって真喜男には「どっから敵が来ても瞬時に殴り飛ばすように出来ちまってる」というハンディが与えられているのだから、そのハンディを逆手に取ってバスケに活かし、無敵の活躍ぶりを示すという流れだったら何の問題もなかったはずだ。誰にでもハンディはあるが、それは使いようによっては武器になるのだというロジックであれば、それを誇張したかたちで無敵のヒーローとなることが凡人に対する勇気附けにもなるはずだ。
勿論、「どっから敵が来ても」という真喜男の習性は誇張された絵空事の特異体質ではあるのだし、それがポジティブな合目的性に転用され得るなら、ヒーローには衆に優れた資質が生得的に具わっていて凡人を超越しているのだという話にはなるのだが、彼を仰ぎ見る凡人の視点で視るなら、彼ほどではない凡庸なものにもせよ、自身の裡にもポジティブに転用され得る何某かの資質があるのではないかという気附きの契機にはなるはずである。
そして、インテリ頭脳派の桜小路の役どころの作劇的な必要性とは、今現在は野放図な暴力性として顕れている真喜男の潜在的な超人性を、個別の挿話の課題に即して合目的的に調整し表面化させる参謀役として存在するのではなかったのか。
第一話において自暴自棄になりプリン奪取を諦めかけた真喜男に、二棟の校舎の屋上を直線移動すればハンディを補って餘りあることを示唆したのは桜小路であり、その際に口にしたような「秒速一二・一メートル、角度四五度」という嘘臭い理屈附けを与えるのが彼に与えられた役どころではなかったのか。
つまり、「これこれこういうプランに沿ってやればこんなことが出来るはずだが、自分にはそんな勇気も実行力もない」という妄想癖のあるインテリの机上の空論を、常人離れした身体能力と野生の勘で実現してしまうのが真喜男の役どころ、という二人三脚のコンビネーションが想定されていたのだろうと思う。
だとすれば、真喜男が生え抜きのやくざとしての習性上「どっから敵が来ても」というマンガ的な反射行動を取ってしまうことにヒントを得て、バスケというゲームの本質を理論的にディスクライブしてそれを応用するのが桜小路の役回りだったはずである。バスケというゲームへの応用が難しいという作劇実践上の問題があったとすれば、バスケに拘ることなく、たとえばフットサルのGKという設定でも良かったはずだ。
敵方のシュートを自身への攻撃と見做して無意識にパンチングでセーブしてしまうという程度の単純な応用で全然問題はなかったはずだし、真喜男の鉄壁の防御で失点はないが得点力には欠けるという条件附けを施せば、いくらでも雪乃を巻き込むためのドラマはつくれたはずである。
しかし、実際にはこのエピソードは、自身がリーダーシップに欠けることを悶々と悩む真喜男視点の辛気くさい作劇に終始し、バスケの上達にもこつこつと努力するという以外に何ら飛躍したアイディアもなく、雪乃の発奮も保健室で真喜男が地道に頑張る言葉を耳にしたお陰という心情的な連続性に偏したドラマに徹していたため、試合を見守るクラスの連中の予期せぬ応援も、真喜男のヒーロー性への感動ではなく「意外な番狂わせが起こったから盛り上がった」的な場当たり的なものにしか見えなくなっている。
この辺の筋立てがつまらないのは、たとえばこの場合、雪乃の気附きは真喜男の気持ちの部分を偶然に聞かされたからではなく、真喜男が行動そのもので突き抜けた成果を示し、それを視た雪乃が雪乃自身の問題性の意識において自発的な意志に基づいて何かを掴み取るというかたちにしないと面白くないからである。
現状のかたちだと、雪乃が運動を苦手としていて球技大会に参加したくないと考えていることは、真喜男のクラス統率術上の問題であってまったく雪乃自身の問題であるようには見えないのである。雪乃自身の意識においては何ら問題ではなかったことが、本来は自己中心的な動機に基づく真喜男のお節介に巻き込まれたことで突如問題としての相貌が意識されるというのなら、最低限雪乃の自発意志において問題が解決される必要があるはずだ。
他のメンバーの気持ちに応えたいという真喜男の真情を漏れ聞いてその気持ちに共感するかたちで問題が解決されてしまうのでは、結局雪乃は徹頭徹尾真喜男の個人的な都合や思い込みに振り回されただけというかたちになってしまう。
その場合、真喜男が学級委員として奮闘する動機は、みんなを思い遣る気持からではなく父親に認めてほしいというのが第一義であり、さらにはその動機をみんなには隠しているのだから、それではヒーローどころか単なるお節介な偽善者になってしまう。
本質的には、真喜男は父親にボスとしての資質を認めてほしいだけの自己中心的な人物であるはずで、学園生活も父親の課した理不尽な試練に応える方便として堪えているだけで、現時点では忌み嫌っているはずである。そういう意味では学園生活における他者への態度には常に欺瞞があるはずなので、第二話のような真情と真情が感応し合うような落とし所を設けるのは、本質的には偽善でしかない。
百歩譲ってそのような落とし所で決着させるとしても、それが「クラスの仕切り」というやくざの真喜男としての動機から発する表面的な言動なのか、学園生活によって胚胎した高校生としての真喜男の素直な真情なのか、その二重性の葛藤を描写上の手続として描いておくべきだったろう。視聴者が何の疑問も感じていないかのように、それを真喜男の真情として描くことは無理筋である。
そして、第二話のエピソードにおいては、真喜男の抱える問題性と雪乃のそれは本来無関係なのだから、真喜男の気持ちに共感することで解決するかたちにしてしまうのは如何にも知恵がない。気弱で思い遣りのあるマッキーというのは、トルネードの真喜男がかりそめに演じている人格に過ぎないのに、そのかりそめの人格の延長上で雪乃に対する影響力が描かれていることで、よけいにこの場面の不自然さが際立ってしまう。
そうではなく、自身の問題を解決しようと奮闘する真喜男が成し遂げた何事かの事実それ自体の迫力が雪乃に影響を与えて気附きの機会となる、というかたちであればこそのヒーローではなかったのか。
オレが論じているような意味におけるヒーローの凄みとは、本来何の役にも立たず愚にも附かない行為でも、他人が出来ないようなとんでもないことを実現すれば、それが他者に対する万能の働きかけになるという部分なのである。
たとえば、他に先駆けてプリンを入手するために空を飛ぶなどという行為は、本質的にナンセンスである。「秒速一二・一メートル(一〇〇メートル八秒台前半)」という非常識な速度に近似の速度でダッシュできるくらいなら、普通に走って学食に向かったほうが早いに決まっている。
だが、そのような意味のないナンセンスな行為であろうとも、そしてそんな事情を他者がいっさい識らなくても、「空を飛ぶ」という誰にも出来ないし誰もやらないような行為が目の前で実現されてしまうことで、それを視る他者に「自分にも今まで出来ないと思っていた何かが出来るのかもしれない」と思わせられるのだ。理屈抜きにエモーショナルな何かが掻き立てられてしまうのだ。
これは、他者への働きかけとしては最上級に凄いことなのである。
客観的な成果に顕れない気持ちの問題を語ること、それは誰にでも出来ることではあるのだが、言葉や気持ちが他者の心に響くかどうかというのは、甚だ頼りない相互の関係性と場の空気の相乗でしかない。雑駁な言い方をすれば、その場のノリであるにすぎない。だが、英雄的行為は強い力でもってそれを目にした他者の心を無差別かつダイレクトに揺さぶり何かを気附かせてしまうのである。
だから、真喜男が本当にヒーローであるなら、内心の想いを吐露することで他者を動かすという作劇は相応しくないはずで、他者に気遣いを示すかたちのリーダーシップを模索することも相応しい方向性ではなかったのである。自身が属する集団の誰もが不可能だとして諦めていたようなことを、奇想天外な突き抜け方で実現するだけで、人々は憧れをもって彼に附いてくるはずなのである。
他者の心を思い遣るという部分に真喜男の自己回復のドラマが仮託されているのであれば、暴力の分野では万能の真喜男でもスポーツの分野では思うに任せないという不全感を経験することで十分弱者の心情を理解する契機となるはずである。
そこで「不全の苦痛」に斟酌することなく、何かを可能にすることに専心することで雪乃とは違う真喜男の生き方を見せられるのだし、そこで不必要なまでに誇張されたかたちで不可能を可能にするプロセスが描かれれば、それが雪乃への問答無用の働きかけとなっていたはずである。
如何にバスケ初心者とは言え、舎弟格の桜なんとか風情に「よく頑張ってる」と労われるレベルの活躍を示しただけで、その内心を吐露した言葉によって影響力を及ぼすというのなら、「正体を偽って高校に転入した伝説のやくざのヒーロー物語」である必要などはない。
第一話でセント・アグネス学園に転入した真喜男は、すでにその時点で学園の授業に附いていけない落ちこぼれであり、やくざの正体を隠すために一捻りで潰せる不良坊ちゃんにも逆らえない、最底辺の弱者の境涯に落ち込んでいる。弱者の立場に置かれた主人公が弱者の心情に共感を示すことに終始する作劇ほどつまらないものはない。
この場合、弱者への共感は挿話の開始点にすぎないのであり、そこから何をどうするから主人公がヒーローとなるのか、そこに思いが及んでいなければ意味がない。その意味で第二話の作劇は根本から間違っている。このドラマは、飽くまで「やくざと高校生とヒーローの三題噺」であるはずであり、そのどれ一つ欠けてもありふれた新味のないドラマになってしまうのだ。
さらにこれが第三話になると、もっと話がいい加減になってくる。そもそも期末試験や追試という課題設定は、基本的に真喜男が根本課題である「莫迦」に向き合うというかたちの作劇以外やりようがないし、実際その通りのエピソードになっている。
そしてその場合、「莫迦」というのは真喜男の本質を規定するウィークポイントなのだから、そこに触る以上第二話以上に真喜男のヒーロー性を立たせる筋立てにすることは難しくなってくる。あり得る可能性としては、本来莫迦であるはずの真喜男が何らかの手段で優秀な成績を勝ち取るという成果を描くしかないのである。
先ほどバスケの項で陳べたような「やくざとしての資質が不可能を可能にする」という考え方の延長上で行くなら、どんなバクチでも残らず巻き込んで勝利をかっさらうトルネードの真喜男としての超越的なバク才を活かし、鉛筆コロコロ一本で選択問題を驚異的な正答率でクリアするというパターンが考えられるだろう。
そもそもこの物語で設定されている課題とそのゴールは、真喜男が高偏差値の進学校であるセント・アグネス学園レベルの高等な学力を身に着けることではない。精々学力レベルで謂えば一般人、いや、学園から逃走した現状の真喜男よりちょっとでもマシなレベルの学力が身に着けばそれでいいのであり、さらに形式的な意味で謂えばどんなかたちであれ無事卒業できれば父親との賭けは勝ちなのであり、父親との賭けに勝ちさえすれば、ボスを継ぐ継がないという問題もまたどうでもいい事柄なのである。
つまり、この条件附けから想定されるゴールとは、真喜男が人並みに努力して従来よりもマシな学力を身に着け、その一方でセント・アグネス学園を堂々と卒業出来ればそれでいいのである。ある意味、一生懸命努力して分数の心がわかるようになっただけで構わないはずなのだが、それではセント・アグネス学園の期末試験で赤点を回避することは不可能なはずである。
つまり、真喜男が身の丈なりに努力して勉強することと、期末試験で赤点を回避することに作劇的な意味での関連は「ない」のである。勉強は勉強で一生懸命やればそれでいいのであり、それと赤点回避は作劇上意味的に重ならない課題なのである。
だとすれば、鉛筆コロコロのバクチで他を圧倒するような凄い成績を勝ち取っても、作劇的に何ら問題はなかったはずなのである。そして、鉛筆を転がして答案を書く行為はたしかに褒められたものではないが、カンニングでも何でもないのであり、赤点による切り捨ての事務性から考えればどっちもどっちの対抗策である。そもそも莫迦が進学校に裏口入学するという設定自体無理筋なのだから、そこを真面目に取り扱っても何ら作劇上の意味はないだろう。
赤点という具体的な障碍として立ちはだかる現実的な問題に対する手当ては手当てとして、その一方で真喜男なりに出来る範囲で地道に学力を上げる重要性が強調されていれば、それで作劇上八方丸く収まっていたはずなのだ。
断っておくが、これはオレが「思い附いちゃった」新たなアイディアでも何でもないのだし、二次創作的な「ヒント」の提示でも何でもない。先ほどのバスケの件と同様、その要素はちゃんと伏線らしく劇中に描かれているのであり、何故かそれがまったく活きない方向で筋立てが組まれていることを疑問として指摘しているのである。
冒頭で真喜男が超人的なバクチの才能を持っていることを強調しておきながら、さらに試験の解答を鉛筆コロコロで決めるというそのものズバリ「バクチ」として描いておきながら、その結果を「何とか赤点を回避」「三〇点のボーダーを越えたのは奇跡」という常識的なレベルにトーンダウンした作劇上の意味がわからないのである。
これは先ほどのバスケの件でも同じで、「どっから敵が来ても瞬時に殴り飛ばす」というのは一種超人的な才能でもあるはずで、ちゃんと衆に優れた資質を前フリとして提示しておきながら、それが終始ハンディとして描かれ課題の克服にまったく活かされないのは誰が考えても不自然な作劇である。
その意味では「分数の心がわかる」というのも一種奇想天外な理解法であって、このような考え方が出来ること自体、優れたイメージ力と言えるだろう。分数の心がわかるのだったら同じ思考法で因数分解の心も三角関数の心も、さらに一歩踏み込んで敷島の道の心や関係代名詞の心、元素周期律の心、ファラデーの法則の心も同じようにわかってやれよと誰でも思うだろう。
物事の原理原則を理解する能力とは、それを如何に具象的にイメージできるかに還元されるのだから、このようなやり方で理論的な方面の理解力が上がるという作劇で何ら問題はなかったはずである。それがやはりその場限りのギャグとして使い捨てられているのが、勿体ないのを通り越して不自然窮まりない。
一方、鉛筆コロコロの有効性がトーンダウンしているためか、赤点をとった科目が必要以上に多いのも作劇の夾雑物として気になるところである。ラストにおいて真喜男へ傾いた鉄仮面・百合子の仄かな想いが暗示されている以上、追試を受けるのは彼女の担当科目である数学だけに絞ったほうが断然良かったはずである。何も他の教師を交えて鳩首協議した結果真喜男の落第が回避されるという手続を設けなくても、鉄仮面の一存でそれを決定すればもっとすっきりしたはずだ。
それを、百合子が真喜男に惚れたから手心を加えたのだと邪推するような意地悪な視聴者はそうそういないだろう。無論、現実の進学校の試験では記述問題やヒアリング問題も重視されているのだろうが、この枠のリアリティレベルではそんなアクチュアリティに配慮する必要性は薄い。その生真面目な教育熱心さ故に、鉄仮面の担当教科だけ記述問題が重視されていたという設定で誰も不自然に感じなかったはずである。
さらにそもそも天才的なバク才の応用ということで言うならば、飽くまで真喜男の学力向上一本に絞った作劇も可能となっていたはずである。麻雀やカード賭博には高度な記憶力が必要とされるのだし、競馬は「血で走る」と謂われるほどDB的な血統上の知識が物を言うジャンルである。
総じてバクチ全般には高度な知力が必要なのだから、それを勉強に応用するために先に挙げた特異なイメージ力を媒介にする、桜小路がそのためのヒントを与えるというかたちにすれば、勉強というフィールドでも真喜男の超絶的なヒーロー性が幾らでも描けたはずなのだ。
つまり、ヒーローという観念を中心軸に据えるのなら、出発点における真喜男の置かれた弱者の境遇というのは、最底辺から英雄的行為に飛越するギャップをもたらすためのかりそめの方便にすぎなかったはずなのだが、何故か第二話以降のヒーロー観は、最底辺の弱者同士の共感、自身の弱さの克服など、弱者としての現状のリアリティが中心軸に据えられてしまっている。
真喜男が伝説のやくざとして具えている超越的な資質を全否定して捨て去り、弱者としての立ち位置に徹して日常的なリアリティのドラマを描いているのだ。それこそ以前のエントリーで「つまらない」と切って棄てた「極普通の人物が極普通に頑張ること」をヒーローに準えて称揚する凡庸なドラマ性に偏しているのである。
せめて第二話のタイミングでひた押しの突き抜けたヒーロー性が描かれていれば、第三話において真喜男が自身の学園トラウマに向き合う事態の個別事情としての性格が活きていたはずで、桜小路との仲違いもスムーズに受け容れられていたはずなのだ。
現状のシリーズ構成では、すでに第二話の時点で桜小路がミニバスケの経験者ということで真喜男よりも上位者と位置附けられ、上位者が下位者の頑張りを高みから採点するようなレベルで真喜男の行為を視ているため、第一話で桜小路が真喜男に接近した動機が曖昧なものとなっている。
第一話の描き方を視るに、桜小路は自身にはない突き抜けた資質を真喜男に視た、もしくは幻想を抱いたからこそ、真喜男の人柄に惹かれたはずなのだ。それが第二話の描き方では、自身もスポーツの研鑽を通じて経験したレベルの努力を認めただけだし、第三話に至っては、正面からの対決を回避して卑怯な手段に走る真喜男に失望したというかたちになっていて、これでは全体的に桜小路が上位者として真喜男を見どころのある下位者と評価したという見え方になってしまう。
本来的な桜小路の立ち位置とは、勉強にしろスポーツにしろ真喜男より優越しているはずなのに、真喜男が突き抜けた英雄性を発揮することでその優越性を凌駕し、その英雄性に対して憧れを抱くという挿話構造を前提としたもののはずである。
真喜男の活躍を補弼しながらも、桜小路の予想を軽々と上回る真喜男の活躍に感動して「やっぱりマッキーはスゴイや!」と真喜男の意味的価値のない英雄的行為をポジティブに意味附ける役どころであったはずだ。
そして、本来第二話は桜小路が第一話で惹かれた真喜男のヒーロー性が徐々にシンパの輪を拡げていくという呼吸で描かれるエピソードだったはずなのだが、真喜男が何一つ突き抜けた活躍をしなかったために、単に仲良しグループの交流が深まり結束が固まったという見え方にしかなっていない。ここはどう考えても、最低限ミニバスケ経験者の桜小路を凌駕するほど凄みのある活躍をしないと、桜小路と真喜男の関係性の物語が繋がらないのである。
これらの事実から受ける印象は、大森美香のモチベーションが早くも下がっているのではないか、もしくは現場に深刻な不協和音があるのではないか、ということだ。第一話の作劇がすでに混乱していたことは以前も指摘したが、第二話以降の作劇は、十分モノになりそうな筋道の痕跡がバラバラなかたちで脈絡なく放置され、何ら手当てが為されていないという無気力な印象が強い。
第三話など、試験問題を盗み出すために深夜の校舎に忍び込んだ真喜男が金庫に隠れるくだりは、誰がどう視てももう少し粘っこいシチュエーションコメディ的な流れが想定されていたはずなのだが、「金庫」という要素も「銅像」という要素も何一つ活かされないまま、何事もなかったかのように翌朝の買収のシーンにジャンプしていて甚だ不自然な繋ぎとなっている。
普通、画面にプールが映ったら必ず誰かが飛び込むのと同様に、画面にでっかい金庫が映ったら必ず誰かがそこに鎖じ込められるものである。現状の条件附けの場合、ここから派生する流れとしては、「真喜男が金庫に鎖じ込められてすったもんだ」というお話になるか、「銅像を見せろ見せないで真喜男がハラハラする」というお話になるしか選択肢はあり得ないが、実際にはこのどちらにもならずにアッサリカットして終わりというある意味最も意外な驚愕の展開になる。
これは普通に考えれば脚本がカットされたわけだが、ここまで不自然なカットをする意味がわからない。翌朝何事もなく校内で教師を買収している以上、「試験日まで鎖じ込められてろくに勉強が出来なかった」という選択肢はないわけだが、だとすれば金庫から真喜男が脱出するまでのくだりがバッサリ切られているはずである。
ならば、このシーン自体がさほど重要性の高いものではないのだから、丸ごとカットしても差し支えないはずだし、真喜男が卑怯な手段で赤点を回避しようと目論んだことの一例として残したのなら、金庫ではなくその辺の物陰に隠れて校長たちの会話を聞いて失望しながら立ち去るというふうに芝居を変えれば何の問題もなかったはずだ。
金庫に隠れっぱなしでそのあとをカットするくらいなら、このくらい変更するのも演出の裁量内だし、それで殆ど脚本の流れは変わらない。にも関わらず、何故に誰でも不審を感じるくらいアカラサマに脚本を摘んだのか、そこが理解できないのである。これが原脚本からしてそのあとの流れを省略しているのであれば、そもそもやる気がないとしか言い様がない。
つまり、第二話と第三話は認識不足や技倆不足というより脚本のなり損ないのような凄まじい無為無策によってダメなエピソードに成り下がっているのである。たとえ大森美香がかねてオレが考えていたよりも無能な脚本家だったとしても、この脚本のダメダメぶりは尋常ではない。
現状の脚本に顕れている材料で、極普通の脚本家なら一〇〇倍マシなものが書けるはずで、要するにこの脚本のダメさは、大まかなプロットや個別のアイディアを脚本にするプロセスで当たり前の練り込みを阻害するような何事かが起こったことを匂わせているだろう。
これはつまり、土九枠スタッフサイドと大森サイドの何れかが何れかは不明ながら、誇張の効いた突き抜けた超越的ヒーロー物語を指向する方向性と、凡人同士の日常的な心情交流のリアルなドラマを指向する方向性が、水と油のように乖離しているという言い方もできるだろう。
まあ、普通に考えれば前者のノリを好むのは長らく土九枠に関わってきたスタッフサイドだろうし、後者のノリを好むのはCXの月九枠から出た大森サイドということになるだろうが、それほど単純な事情なのかどうかはわからない。確立されたノリを持つ土九枠から日テレに進出した大森が、枠の性格を無視してまで自身の過去のスタイルを押し通すものかどうか、その辺がどうも割り切れないのである。
大森美香はガイド誌のインタビューで自分の出したギャグのアイディアがほとんど却下されると嘆いているが、それが本当だとすれば、大森脚本のポップなギャグこそが彼女の資質の中で最も土九に向いた要素なのだから、それがスタッフサイドから大半拒絶されるというのは理解できない事態である。だったら、そもそも何故大森美香という名前とスタイルの確立された作家を脚本に据えたのか、まったく理解できないのだ。
馴染みのない脚本家の扱いということで言うなら土九枠は手慣れたものだろうし、それが大森美香だから特別な事情が発生したというのもちょっと考えにくい。或いは大森美香にダメ出しできる勢力ということで考えれば、ジャニーズ事務所の容喙ということも考えられないでもないが、そんな決して表沙汰にはならないことを憶測しても水掛け論でしかない。
とまれ、誰がどの時点で何をしたのが混乱の原因であるにもせよ、いちばん損をするのは、せっかく面白くなりそうなドラマを台無しにされた視聴者である。
通例で言えば、現時点ではすでに三分の二程度のエピソードの制作が進行しているだろうから今更言っても始まらないのだろうが、この調子で残りのエピソードもダラダラと続くのであれば、今期最大の失望を味わうことになるだろう。
但し、ドラマの作劇面においては首を傾げることだらけのこの番組においても、大森脚本のヴィヴィッドなキャラ描写は相変わらず好ましい。取り分けガッキー演じる梅村ひかりの萌え描写は中年男の郷愁を鷲掴みにするツボの押さえ方で、間違いなくこれまで彼女が演じた役柄の中で最高に魅力が引き立っていると言えるだろう。
そもそもオレがガッキーを認識したのは、度々引き合いに出している「Sh15uya 」のエマ役だが、ガッキーの魅力を活かすという意味では剰り好適な役柄ではなかったのではないかと思う。
新垣結衣の身長は公称一六七センチで、それなりに骨格もしっかりしているが、これは女性としては大柄の部類であり、さらにこの上にウレタンの厚みがあるマージスーツを装着するため劇中ではかなり大きく見える。元が痩せぎすの森山祐子が演じた「ゼイラム」のイリヤより、ストレートにごついという印象を与える。
この大柄なガッキーと終始絡むツヨシの役を女性である悠城早矢が演じていて、彼女の身長が公称一五九・五センチ。空手の有段者ということで体格はしっかりしているのだが、それほど骨太な印象はなく、女性らしい服装をすると普通に女の子に見える。
そして、マージしたエマと対峙するピースを演じたのはマーク武蔵だが、実は彼は映像を通して見た印象ほど大きな人間ではなく、公称一七七センチだから「GARO」で組んだ小西大樹よりも五センチほど小さい。普通に芝居として絡む分には申し分のない身長差だが、モンスターとして美少女と格闘を演じる場合にはそれほど対比が効くわけではない。画面上の印象としては、エマとピースは結構いい勝負の体格に見える。
つまり、この番組に出演した俳優陣の中で飛び抜けて大きいのはガッキーだけで、ギャング集団に取り囲まれた場面などで主役らしく目立つのはいいのだが、神秘的な美少女という役柄も相俟って剰り可愛いキャラという印象は覚えなかった。
エマとツヨシのツーショットで進む芝居場などはどう視ても姉と弟というふうにしか見えないわけで、さらに剰りセリフ廻しが達者ではないガッキーが突っ慳貪なギャルを演じているのだから、好印象を覚えるわけがない。「ニコラ」モデルだった彼女が寄ると触るとギャル役を演じるようになる嚆矢となったのがこの番組なのだから、この番組との出逢いが彼女にとって良かったのか悪かったのか微妙である(笑)。
つまり、この時点における新垣結衣のイメージというのはでかくて無愛想なギャルという、どう考えても中年男の萌え心を擽るものではなかったし、おそらく彼女の出演作の中で最もヒットした「ドラゴン桜」の「頭の悪いギャル」という役柄がその印象を確定した。やっぱ、ああいうキャラでああいう髪色でああいうメイクだったら、まずもって普通の男は引くでしょう。
基本的にオッサンという生き物は、理屈っぽい女にも引くのだが、アタマが悪くて下品な若い女にはもっと引く。
だが、皮肉なことにというか、正面切ってギャル役として出演した「ギャルサー」のナギサ役は、ドラゴン桜で演じたようなリアルなギャルというよりむしろニコモ時代のイメージに近い「かっこいい系」のヴィジュアルであり、「二〇〇〇年前はまだ地球とかなくて人類はみんな北京に棲んでた」と素で信じているくらいの知能ではあるのだが、サークル中最も有能で頼れる人材というポジティブなイメージ附けもあった。
こういう役柄で視ると、ガッキー特有の気の抜けた声の棒読みセリフも可愛く感じられるので、ひょっとしてギャル役でないほうが普通に可愛いのではないかと考えていたのだが、今回の梅村ひかり役は端的に謂って「南ちゃん」系統のキャラで、普通に勉強が出来て性格の良い女子高生役ということで、これが従来のギャル役よりもかなり本人の柄が活きている印象である。
勿論、オレはガッキーとは識り合いでも何でもないので本人がどんな人柄かということなど識っているわけではないが、どちらかと謂うと笑顔が人懐こい丸顔で鼻に抜けるような声でおっとり喋る少女なのだから、キツくて品のない役よりも普通に育ちの良い少女を演じたほうが魅力的だろうという意味だ。
そもそも、当たり前に考えれば、中一から高一まで「かっこいい系」の雑誌モデルとして活躍した沖縄出身の少女のどこを探してもギャルの要素などあるわけがない。やはり一般的に俳優をキャスティングする場合は「○○○○で演じた○○○役」という既存のイメージの延長上で考えてしまいがちなもので、単にギャル役で出発したからギャル役が続いたという散文的な事情だったのだろう。
おそらくこの番組でヒロイン役に抜擢されたのは、ギャルサーのフロントメンバーの中からたまたまという割合現実的な縁なのだろうが、相手役がジャニーズ役者にしては例外的に大柄な長瀬智也(マーク武蔵より約七センチ、藤木直人より約四センチ身長が高く肩幅も広い、香取慎吾と双璧を為すジャニの巨人獣である)ということもあって背丈の釣り合いがとれているし、さらには真喜男の相方の桜小路は真喜男との対比において明確に小柄な人物と位置附けられているので、桜小路と絡んでもとくにガッキーが大きいという印象には繋がらない。
おそらく序盤の時点における百合子→真喜男→ひかりという関係性は当初からの規定事項だろうから、第一話から一貫して百合子の真喜男に対する関心の深まりと、真喜男の素人童貞的な純情を擽るひかりの萌えポイントがルーティンで描かれているが、これが実にオーセンティックで、オヤジのツボを北斗百烈拳で直撃する(笑)。
本日の第四話に至るまでに、「答に詰まるとそっと耳打ちしてくれる」「『ほら、遅刻するよ!』と肩を叩いて一緒に走ってくれる」「独りで掃除をしていると手伝ってくれる」「邪魔な前髪を自分のカッチン留めで留めてくれる」「一緒に試験勉強に附き合ってくれる」「縁起の良いピンクのシャーペンを貸してくれる」「雨に濡れて歩いているとハンカチで拭いて傘を差し掛けてくれる」という、ギャルゲーかよとツッコミたくなるくらい正統派萌えポイントの数々が釣瓶撃ちになっていて、これで萌えないオヤジはオヤジではない(…いや、オヤジ認定されても誰も嬉しくないが)。
さらには、肝試しのカップリングにおいて、
「あたし、榊くんがいいな」
…とわれ識らず呟くに至っては、全国一千万のオヤジが萌え死にしたであろうことは想像に難くない。それこそ恋愛シミュレーションゲームの研究や男性スタッフへのリサーチが描写に反映されているのではないかと推測するのだが、憎からず想っている可愛い女の子が「してくれると嬉しい行為」が積み重ねで描かれているのである。
こういうオーセンティックな良い子役で可愛く見えるのは、たとえば年代は違うが伊東美咲などの柄が近いわけで、一面では「大根女優」という見方もあるだろうが、それはそれで本人の柄というのは一つの資質である。如何に演技が達者でも、こういう役柄を沢尻エリカが演じたらどこか胡散臭い。
芝居の面でそれほど目を惹く才気が突出していなくても、それは本人の役者としての将来性の問題なのであって、ある意味、個別の作品を鑑賞する受け手に関係のある問題ではないという言い方も出来る。とまれ、ドラマのキャスティングに影響力を持つスタッフの世代層は、このような萌え描写に敏感な感受性を持っていることだろうから、今後ガッキーのキャスティングの方向性が変わってくるのではないかと予想している。
その種の、本人の柄とキャスティングの関係性に関しては、伊東美咲の名前も出したことではあるし、後ほど「サプリ」の論考に絡めて詳細に語る予定なので、ガッキーの萌えに関する言及はこのくらいにしておこうと思う。
その関連で具体的な第四話の論考に話題を転じるが、この萌え描写を恋愛ドラマの作劇という面から視るなら剰りに「話が美味すぎる」ということには注意が必要だろう。向こうから積極的に「してくれると嬉しい行為」をしてくれれば男なら誰でも好意を抱くし、この段階がプラトニックな恋愛においてはいちばん楽しい時期である。
相手が自分に好意を抱いていることが曖昧な状況において、一種その曖昧な好意に応えるかたちで自身の気持ちを育み、相手の一挙手一投足にドキドキするのは無責任に楽しいものである。
しかし、この楽しさは相手が自分に好意を抱いていることが客観的に明白な状況が出来した瞬間にちょっと重くなってくるのである。誰が視ても相手の気持ちが明白な状況において、自分も相手と同様な気持ちを抱いているのであれば、普通に考えて相手の気持ちに明解なアクションで応える必要が出てくる。
そうなると、それはすでに自分個人の曖昧な気持ちの問題ではなく、二者間の現実的な振る舞いの問題となるのであり、思春期の鈍くさい少年が、これまた思春期の少女の不寛容な期待を裏切らないかたちで適切に振る舞うことは難しい。
そういう意味では、これまでのエピソードで描かれた萌え描写は、ひかりと真喜男の関係性においていちばん楽しい段階を用意するためのものであるが、ひかりが真喜男への関心を意図せず吐露してしまい、それをクラスメイト一同が耳にしてしまうに及んで、それは現実的な「振る舞い」の問題に進展してしまうのである。
第四話のイベントとして設けられた男女カップリングの肝試しは、思春期の少年少女が接近を果たす「チャンス」であると同時に、自他の気持ちやその場のノリに随って主に男の側が適切な振る舞いを「要求される」場なのである。
だとすれば、普通の高校生なら学園生活の上で学んできたであろうことが何一つ出来ないというかたちでその欠落が規定されている真喜男が、このような「チャンス」において不適切に振る舞うであろうことは、予め決定されている確定事項である。
そして、プラトニックな恋愛において最も苦しい段階とは、自らの不適切な振る舞いによって相手の好意を損なってしまってもなお、自身の気持ちが諦めきれないという生殺しの状態なのである。
本来勝ち獲ることが可能であった好意が、自分自身の責任において損なわれてしまったという自責、今や相手の好意を期待出来ない状況でなお募る一方的な想い、そのような自分にとって圧倒的に不利な状況下で、問題の核心は自分独りの気持ちの問題に投げ返されてしまうのであり、そこから最初の状況よりさらに困難な条件下における振る舞いの問題へと再び進展するのである。
思春期における恋愛ドラマのプロセスは概ねこのようなものであるが、その意味で今回の肝試しのイベントの設定はよく出来ている。この種のイベントでまず問題となるのはくじ引きという天意に任されたカップリングを作劇上どう扱うかということで、主人公の少年少女を素直にカップリングするというやり方もあれば、意外性を狙って外すやり方もあるだろう。
当然それによって肝試しのイベントで描かれる内容も変わってくるわけで、たとえば主人公同士の組み合わせであれば、そこでどのように想いの丈を伝え合うかという直接的な内容になるが、ヒロインに横恋慕する伊達男とヒロインの組み合わせになれば、伊達男の求愛を斥けるというかたちで、ヒロインの主人公に対する想いを物語の受け手に向けて(屡々物陰に隠れた主人公へ向けても)開示するという内容になる。
第四話の場合、カップリング抽選以前の段階でひかりがクラス一同の前で「榊くんがいいな」と漏らしているわけだから、この前提でひかり×真喜男の組み合わせになるのなら、それはひかりの気持ちに応える真喜男の振る舞いの課題にストレートに繋がる。
この場合、クラス一同の前でひかりの気持ちが開示されたことを真喜男自身は識らないのだから、ひかりへの気持ちを持て余す真喜男にとっては何が課題として実行を期待されているのかすら明確ではないわけであるが、第三者にとってはクラスのアイドルに対して真喜男が如何に「上手くやるか」の問題であることが明確になっており、ここですでに彼我の認識における落差が設定されている。
そこから実走の段階に入ると、前段階ですでにひかりの真喜男に対する関心が明かされているわけだから、自分の気持ちの高ぶりを扱いかねている真喜男に対してひかりが示す健全な親切心は、一種少女らしい控えめな好意の意志表示という相貌を帯びてくるわけであり、遡ってこれまでの萌え描写の積み重ねが意味附けられることで否が応でもクライマックスへの期待が盛り上がってくる。
少女の側から差し出された手に引かれて暗闇を彷徨うという萌えるシチュエーションの頂点において、二人の名前を並べて記帳するという象徴的な手続が設けられ、不意によろけた少女を支えるというベタなかたちで見つめ合いが演出されるわけだから、ここまで真喜男はひかりからの働きかけや学校側の計らいや天意の助けによって申し分のない相互接近のお膳立てを整えられているわけである。
殊にここで「二人の名前を並べて書く」という段取りが設けられているのが小ネタとして上手いと思う。誰しも思春期に想う相手と自分の名前を相合い傘に並べて書いた経験があるのではないだろうか。想う相手と自分の関係を大人ほど画然とディスクライブできない少年少女にとっては、二人の名前を文字で書き視覚的表象として外在化することによって初めてリアルな結び附きのイメージを持つことができるのである。
だから、想うひかりと二人きりの冒険であることを真喜男が最高度に意識する瞬間がこの記帳の場面に設定されていて、そこからひかりの肩を抱いて見つめ合う段階へ進むのは段取りとして自然である。
そこからパッと身を翻してひかりが場を取り繕う言葉を聞けば、ひかりが不器用な真喜男の緊張を解して、核心へと向かう会話の糸口を用意していることが見てとれる。思春期を冷静に振り返る年代の者にとっては、ひかりの振る舞いがかなり女性の立場なりに積極的に真喜男の告白を期待し、それを引き出すべく努めているものであることは明瞭であり、この場で真喜男が為すべきことはハッキリしているように見える。
だが、真喜男はこれまでの人生の中で「萌え」という抽象的感情を学習して来なかったのであり、男女の関係とは欲望のやりとりであると解しており、自身が抱くひかりへの不可解な感情の正体を理解すら出来ていない。「物欲しそうな顔を見せずに、欲しいと思った女をガバッと抱き寄せる」という方法論は、欲望の対象が合致するか否かという即物的なかたちの男女関係である。
しかし、本来この年代の少年少女の恋愛とは、相手を想う気持ちの疼きや相手が自分を想ってくれることの嬉しさを積み重ね、相互に想い合う感情を育むことなのであり、欲望とはそのプロセスから派生したものにすぎない。
まあ現実の恋愛はラブコメに描かれるような理想的なものにはほど遠く、感情と欲望を弁別できないままに行き違いを重ねたりするわけだが、成熟するに随って異性への欲望を満たす手段が確保されれば、少年時代の恋愛のいちばん楽しい部分が気持ちの通い合いにあったことを遡って識るのである。
そのような経験をいっさい経ることなく即物的な男女関係に終始してきた真喜男は、今この場で何を為すべきかをも識らず、場の緊張に耐えきれずにひかりを放置してその場を逃げ出してしまう。つまり、自身の判断に剰ることからとりあえず逃走するという幼児的な振る舞いをしてしまうのである。
そこで「はつ恋」というただ一言の解答を開示するために、わざわざツルゲーネフと名づけられた牛を伏線として仕込んでおくというのは、剰りにも馬鹿馬鹿しくかつ何らかの天啓としての荘厳さをも並立させていて久々に土九枠らしい描写だが、それを識ったときはすでに遅すぎるのである。
真喜男とひかりの相互接近が、ほぼすべてひかりの側からの一方的な親切心や好意からのお膳立てであるために、男からすれば最高に虫の好いそのお膳立てからも逃げ出すことで、真喜男の振る舞いの幼児性が際立ってしまう。ぶっちゃけて言えば、ひかりの面目が丸つぶれであって、要するに「女に恥を掻かせた」ことになるのである。
公式サイトの次週予告を読むと、この真喜男の逃走が大きな波紋を拡げ、真喜男の学園生活全体が危機に瀕するということなのだが、普通の恋愛ドラマの呼吸で言えばそこから真喜男自身の積極的な働きかけによってひかりの気持ちを動かし、追う側と追われる側の立場が逆転することで大団円のハッピーエンドということになるのだが、どうもこのドラマの場合はそうはならないような予感がする。
おそらく、ひかりの気持ちに対して真喜男が応えられなかったこと自体は、メインの恋愛関係の障碍としての課題設定ではないのではないかという気がするのである。これは真喜男の「学び」の一環の問題なのであって、ひかりの気持ちを踏みにじったことそれ自体は学びの課題ではあるのだが、その課題の克服がストレートに真喜男とひかりが結ばれるハッピーエンドには直結しないのではないかという予感がするのだ。
おそらく、真喜男からの働きかけによる関係修復の課題はどうしたって描かざるを得ないだろうが、その結果として真喜男とひかりの関係の恋愛感情としてのニュアンスは白紙に戻されるのではないかという気がしている。
過去の大森美香の作物を視るに、どうも大森脚本では実際の脚本上で自然な流れを描けなければ、当初の青図を書き換えてその時点で最も相応しいと作家が思える関係性や結末を再構築するような傾向があるとは思うのだが、真喜男とひかりの線については当初から最終的な目標として設定されていないように思えるのだ。
これは第二話時点からすでに桜小路とひかりの因縁について伏線を張っていることからもわかるが、第四話ではもっとアカラサマに桜小路が真喜男のひかりに対する感情を気に懸けるという描写が配されていて、前後関係から考えれば桜小路が幼なじみのひかりに対する恋愛感情を上手く制御出来ずに距離をとるようになったという描写と視るべきだろう。
だとすれば、よほど当初の目論見とは違った筋書きにならない限り、おそらくひかりと最終的に結ばれるのは桜小路のほうであって、真喜男と結ばれるのは鉄仮面のほうではないかと考えられる。
現実的な意味で言えば、二七才と一七才のカップルはちょっとヤヴァいとかベタな理由附けもあるだろうが、これはたとえば前番組のギャルサーで一七才のレミと二十代の一ノ瀬の結婚・出産という実例もあることなので、メインの理由ではないだろう。
ハッキリした根拠があるわけではないのだが、どうも大森美香の生理として、恋愛を描く場合は互いに惹かれ合うに至る説得力のあるロジックに重点を置いているように思うからである。これは得恋を最終的なゴールとする月九ドラマ一般の生理だと言ってしまえばそれまでなのだが、大森作品の場合、とくに何の感情も持っていなかった者同士が惹かれ合うに至るプロセスをじっくり描くことを好む傾向があると思う。
同じ月九ドラマと言っても、男女が惹かれ合うロジックには剰り関心がなく、潜在的に想い合う者同士が不器用さから角突き合ったり行き違いに翻弄されたりするプロセスを描くほうに関心のある書き手もいる。そのような書き手なら、理由はともかく大前提としてひかりが真喜男に好意を持ったという事実から出発して、真喜男とひかりが想いを確認し合うまでのすったもんだを描くだろう。
しかし、大森作品ではむしろどのような経緯とそれに伴うロジックによって二人の人物の間に恋愛感情が成立したのかという側面に重点を置いて恋愛を描くことが多い。それ故に、物語の出発点においては、主人公二人の間には嘘も隠しもなく何ら惹かれ合う感情が存在しないということのほうが多い。
その意味では真喜男とひかりの間の関係性は、思春期を経た男性なら誰でも惹かれるであろう一般則としてのひかりの萌えポイントを描くことに終始していて、真喜男がひかりを一人の可愛い少女として好きになるロジックは描いているが、この二人が本質的に惹かれ合うロジックというのは最初から存在しない。つまり、二人の人物が相互に接近するモチベーションの部分を描いているのではなく、真喜男が好きになるような可愛い少女であることをひたすら積み重ねで描写しているだけなのである。
成熟した大人として必要ないろいろなものを学んで来なかったとは言え、真喜男は二七才の立派な成人男性であり、内面において子どものままとは言え子どものままに二七年を積み重ねてきた歴史がある。その真喜男がひかりに惹かれたのは、若さの純心と自然な魅力を具えているからであって、ひかりにはそのような真喜男の本当の在り方を受け容れるような設定上の動機はなく、この二人の人物の間に相互理解の接点はない。
その意味では、教育一筋に邁進して一人の女性としての潤いや恋愛経験の積み重ねを学んでこなかった百合子のほうが真喜男と内面が近く、最初の最初から相互理解のチャンネルが確保されている。単に、社会的な目標がやくざであるか教師であるかの違いにすぎないと言っても過言ではないだろう。
やくざ一筋に生きてきた真喜男が、一般人の目から視てかなりピントがズレているのと同様に、生真面目な教師として教育一筋に生きてきた百合子は、同年代の女性から視て相当ピントがズレている。ここに意図的な人物設定上の相同性が設けられている以上、よほど予想外の展開でもない限り、当初の青図としては百合子と真喜男の線がメインの関係性として位置附けられていると視るべきだろう。
但し、先ほど少し触れたように、当初の青図は青図として、その青図通りに進行するとは限らないという留保は設けておこう。殊にどうもこの番組においては、脚本家やプロデューサーのどちらかにフリーハンドがあるというかたちでもなさそうなので、どう転ぶかは実作次第の部分が残っているだろう。
そして、第四話を観てつくづく思うのは、前半で語ったような「ヒーロー性」の部分を回復することは、この流れにおいては最早不可能だろうということだ。ある意味、このドラマは良くも悪くも「普通の大森作品」になってきた。クライマックスでひかりをその場に放置して逃げ出す真喜男の姿に被せて「Here comes the hero!」のコーラスが流れるに至っては、どこがヒーローなんだよと突っ込む気力も失せる。
どうしたって書き手の関心は超人的なヒーローの伝説ではなく、すべてを喪った最底辺の人間の自己回復の物語にあるのだから、それ以外を期待しても無駄である。そこから真喜男のヒロイックな活躍が描かれるとしても、精々「さよなら、小津先生」のようなレベルであろうことは想像に難くない。
ならば、割り切ってそのようなものとして楽しむしかあるまい。
とりあえず、第四話は大森美香定番のラブコメ物の呼吸としては勢いがあってまずまず観られる出来だったと思う。おそらく中盤においてはガッキーの役割上の重要性も薄れて鉄仮面中心の流れになってくるとは思うが、鉄仮面は鉄仮面で「お堅い女教師」という類型における萌えをそれなりに追求しているので、いつもの大森節だと割り切ればそれなりに楽しめるだろうと思う。
というわけで、この時点におけるこの番組に関する考察はここまでにしておこう。
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