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2006年8月 6日 (日曜日)

Appendix

先日のエントリーでヒーロー性と真喜男の逃走を論じながら、何か全体に奇妙な既視感をモヤモヤと覚えていたのだが、そのときは想い出せないままに終わった。

その後その既視感は喉に刺さった小骨のような違和感となり、その正体が気になって仕方なかったのだが、第五話の放映を観て、ようやく何がそれほど気になっていたのかに気が附いた。

大森美香の「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」直前の仕事としては、NHKの連続テレビ小説「風のハルカ」があるわけで、村川絵梨や黄川田将也はその主演カップルだからおそらく大森美香が「連れてきた」役者だろうという推測は以前語った通りである。

オレが先日のエントリーを書きながら感じた既視感は、どうもこの黄川田将也の顔を視る度に強くなったのだが、それもそのはずで、すでにこの風のハルカにおいて前回の真喜男の逃走と同モチーフのイベントが描かれていたのである。肝試しからの真喜男の逃走は、風のハルカで描かれた村川演じるハルカと黄川田演じる正巳の間の婚約不履行事件と、その構造において酷似しているのである。

ヒロインの水野ハルカは、幼少の頃から地元湯布院の老舗旅館の一人息子である倉田正巳に好意を抱いているのだが、その正巳は優しいばかりが取り柄のダメ男で、「いつかビッグになっちゃる」という漠然とした夢を語ってばかりいて、腰を据えて夢を具体化しそれを実現するだけの力もない口ばかりのヘタレ男として描かれている。

何でそんなダメダメ男にヒロインが…と問うのは尤もな疑問だが、劇中でもハルカが正巳に惹かれるモチベーションの在処などはそれほど細かく語られていない。唯一それらしいのは「正巳は優しいから」という一言だけで、ハルカはさしたる理由もきっかけもなくデフォで高級旅館のボンボンで優しいダメ男の二枚目に長年想いを寄せている。

勘繰って言えば、優しいだけが取り柄のダメ男というのはハルカの父親にもある程度当てはまる性格なので、ファザコンのハルカは正巳に父親と同じ匂いを感じていたのかもしれないが、まあ要するに女がダメ男に惹かれるのに理屈は要らないという呼吸で描かれている。MEGUMI演じるハルカの親友の都会派OLが、ハルカをそういうタイプの女だと断定するくだりもある。

勿論ハルカの恋愛関係の筋立ては正巳との一本筋ではなく、ここに松岡充演ずる放浪の一流カメラマン・猿丸啓太郎が絡んできてハルカとの仄かな想いの通い合いを演じるわけなのだが、要するに猿丸と正巳のハルカを巡る恋模様の相関図は「風と共に去りぬ」のレット・バトラーとアシュレーのようなポジショニングである。

ハルカは辛いときには何故か必ず目の前に現れる風来坊の猿丸の大らかな器量に何度も傷心を慰められ好意を覚えるが、やはり本筋の恋愛感情としては正巳に対する想いを諦めきれず、すったもんだのドタバタの末に、物語の後半においてようやく正巳はハルカの想いを受け容れてプロポーズする。実はこのプロポーズも、男としての器量が上手の猿丸に対する張り合いのような感情が手伝っているのだが、それがハルカと正巳の行く末に微かな不安の影を落とす。

正巳は家業の老舗旅館を継ぐべく地道に旅館経営の実務を学び、ハルカは湯布院観光組合で働きながら正巳との挙式の日を待ちわびている。その一連を語るエピソードでは、何故か正巳の自室の机上にある変身ヒーローのフィギュアが象徴的なアイテムとして唐突に登場し、これまで気儘で無責任な暮らしを楽しんできた正巳が旅館経営の実務を学ぶ過程でちょっとした挫折や劣等感を味わう度に、自室でそのフィギュアを見詰めるという場面が不安げな劇伴と共にインサートされるようになる。

オレのような特ヲタにとってこの描写は如何にも不可解で、おそらくこの流れから考えてハルカと正巳の婚約は何らかのかたちで破綻を来すのだろうという予想くらいは附いたのだが、何故それに絡めて変身ヒーローが突如象徴として登場するのかがまったく理解できなかった。

そして、ハルカと正巳の婚約は、土壇場になって正巳が結納の儀から逃走して身を隠すという最悪のかたちで破局を迎え、独り郷里に取り残されたハルカは「婚約者に逃げられた哀れな女」という立場に置かれ、狭い田舎町で周囲の好奇と同情の視線に晒され辛い立場に追いやられる。

このまま正巳が姿を眩まし続けて暫く物語の表舞台に出てこなければ、まだしも正巳なりの内的葛藤の末の選択として理解の範疇にあった。だが、散々ハルカの傷心と苦境が描かれた翌週放映話の最後のエピソード(現在のテレビ小説は原則一週一話六回構成の放映形態)において正巳はノコノコ帰宅し、その逃走はハルカとの結婚をチャラにするだけのための作劇イベントであったことが判明する。これはつまりマリッジブルーそのものであって、正巳はハルカと結婚して旅館を継ぐという自分自身の人生の選択から理も非もなく逃げたわけである。

それはそれとして筋立てというものだから構わないのだが、その破局を暗示する道具立てとして何故変身ヒーローのフィギュアが使われているのか、これが一見して非常に不可解だったのだが、どうやら大森美香にとって「変身ヒーローに対する憧れ」は大人になりきれない男のモラトリアムの象徴に過ぎないのだし、そのように扱うことに何の抵抗もないのだと気が附いた。

たとえば宮藤官九郎脚本の「ゼブラーマン」は如何にも変身ヒーローに対する憧れのなかった人間がお行儀良く書いたという印象を覚えてしまうが、それでもヒーローに対する憧れ自体を幼稚なものと茶化すような姿勢は感じなかった。「オレにはわからないけど、きっとこんなもんだよね?」的な「申し訳なさ」みたいな感情すら感じたのだが、大森美香のこの書き方は、正面切ってそんな憧れを共感不能の男のおセンチと斬って棄てているように思う。

普通は変身ヒーローが象徴として用いられる場合は、大人の垢が染みついた男が子どもの頃の気持ちを想い出して莫迦になってみる、なけなしの勇気を振り絞って精一杯の愚行に踏み切ってみる、というような場合に使うものだと思うが、この場合は夢みたいな戯言ばかり言って大人になりきれなかった男が、変わろうとして変わりきれない葛藤を表現する小道具として使われているわけである。

それがわかったときオレは、ああこの人はヒーローなんて馬鹿馬鹿しいガキの戯言だと思っているんだなぁと思ってしまった。しかもその直前に黄川田が「仮面ライダーThe First 」でヒーロー中のヒーローである本郷猛を演じているというのに、全国ネットのドラマでそんな描写を入れるのが何だか悪趣味だと思った。

こうしてみると、「ヒーローの幼児性」「女の気持ちから逃げる男」「残された女の辛さ」という要素が、マイボス第四、五話の真喜男の逃走とそっくり相通じていることがわかるだろう。何故か大森脚本のラブコメでは、男というのは肝心要のときに必ず逃げ出すものらしいのだが、こういうのは通常オブセッションという。

本音の部分では、大森美香は男なんてどんなに強がっても所詮ヒーローなんかになれないと考えているのだろうし、粋がっている男のそんな身勝手な幼児性の故に痍附く女性の心理のほうにより関心を感じるようである。大森脚本作品には、何故かその陽気な語り口の端々に書き手の実生活を彷彿させるような生臭い翳りが漂う。

しかし、そうは言っても正巳と破局したハルカが最終的に結ばれるのは猿丸啓太郎であり、彼の人物造形は一種のさすらいのヒーローであって、ハルカが辛い目に遭い泪を堪えて悄然と佇んでいると、必ずどこからともなく颯爽と現れてハルカの心の傷を癒して去っていく。要するに猿丸啓太郎はハルカにとっての白鳥の騎士なのである。

だとすれば、このドラマにおいて本当のヒーローの呼吸で描かれているのは、女が辛いときだけ側にいてくれて適切な助言を与えてくれる尊敬できる職業人なのであり、恋の相手としては、女の側が抱えているネガティブな情念のこじれに一段落が附くまで辛抱強く待ってくれて、その上でアプローチしてくれる男なのであり、これはやはり実質的な意味ではヒーローとは言えないだろう。それは女性の現実的な意味で都合の好い男性像であって、人々の観念的な意味での憧れの人物像ではない。

しかし、風のハルカは別段ヒーローを描く物語ではなく、特定の設定に基づく離散家族の再生を最終的な目標に、幼時から現在に至るまでの緩やかな時間の流れを、折々の悲喜こもごもを交えて描く一種現実的な題材のコメディである。

猿丸も含めて、劇中に超越的なヒーローは登場しないし、物語上の困難に対して特権的な解決能力を持った劇中人物は存在せず、普通に現実に起こり得るような人生のイベントの波が打ち寄せるだけであって、解決出来る事件は解決され、解決出来ない事件は劇中人物たちなりの努力で落ち着くところに落ち着くだけである。

おそらく、大森脚本が最も向いているのはこのような語り口のドラマなのである。

大森美香には自他に説得力を持つ特殊な解決能力を持ったヒーロー像のアイディアもそれを求めるモチベーションもないのだろう。さらには、挿話構造が指向する意味性にも剰り興味はなく、日常的なシチュエーションにおいて生起するイベント個別の生理的リアリティに関心が特化しているのではないか。明確な設計に基づく挿話の構造よりも、小ネタとダイアログを素材とした日常の流れとその中で得られた実感的結論を重視する作劇法が向いているのだろうと思う。

代表的な大森脚本連続ドラマにおいては、お話とは流れ流れて行ってなるようになるものであり、意識的に構築されるものではないし、劇中の問題は意志的な解決を前提とした課題ではない。ハルカの家庭は表面的には離散したまま物語を終え、父親も母親も別のパートナーとの生活に一歩を踏み出すところで幕を閉じるが、それでも水野家の家族の絆はきっちりと回復される。

おそらく、向田賞をもたらした「不機嫌なジーン」は思ったよりも全体の挿話群が上手く流れてくれなかったと思うのだが、風のハルカは九〇分×二十数話という十分な尺に恵まれたということもあって、このような作劇がかなり上手く行った例だろう。

マイボスの場合、第四話はまだしも第五話の「お話としての明確なプロットの欠如」は語り口においても風のハルカを思わせるところがあって、第一話に感じたような人工性やぶっとんだプロットの面白みはすっかり影を潜め、日常スケッチ的な小ネタの流れをダイアログの説得力で舵取りするストーリーテリングが前面に出てきているが、これはこれでいつもの大森節である。

これはぶっちゃけ、しようとしたのかさせられようとしたのかはともかく、当初は従来の大森脚本にはなかった方向性が目論まれていたのが、現段階では結局抽斗の範疇の語り口に揺り戻したということだろう。そこに制作現場の混乱を視ないでもないのだが、

どうせ大森美香が書くならこっちのほうが面白い

学園ドラマとラブコメは、焼き肉に白飯とんかつにキャベツ親子丼に三つ葉くらい当たり前の取り合わせであって、普通に手堅くやってくれる分には下手に奇を衒うよりも満足度が高い。本来的に大森脚本の面白みが出るのは、このような話らしい話のない筋立てにおいて何となく流れる物語時間を面白おかしく語る方向性である。

今後真喜男の具体的な意味におけるヒロイックな活躍が描かれるとしても、それが中心的なテーマだからというより、流れの上で自然なイベントだからだろう。それはお茶の間で雑用の中断を挟みながら観るTVドラマに好適な作劇スタイルなのだし、それで別段の問題もない。

当初期待したようなものとは違うが、これはこれで土九枠における大森脚本の在り方として落ち着くところに落ち着いたんではないかと思わないでもないが、その先の問題についてはもう少しお話が進んでからに預けておこう。

そんなことよりも、おそらくこのエントリーを読んでくださった方々がいちばん疑問に感じるであろうことは、大森美香の作劇セオリーがどうとか、マイボス第五話がどうとか、今後のシリーズ構成がどうなるのかという問題よりも、

なんでおまえは風のハルカを観ていたのか?

…という部分だとは思うが、中年男にも一つくらい謎があったほうがミステリアスで面白いんじゃないかとテキトーなコトを言ってお茶を濁しておこう。

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