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2006年8月29日 (火曜日)

「週刊ポスト」擁護論の不審

坂東眞砂子に関するエントリーはあれで一区切りのはずだったのだが、ついにこの問題が雑誌媒体でも採り上げられることになり、「週刊ポスト」記事中の識者たちのコメントがまとめサイトに転載された。これに触れて少し思うところがあったので、たった二日のインターバルで新たな区切りを起こすのも甚だ尾籠ではあるが、もう少しだけこの話題を続けさせていただく。

問題の記事は、おそらく公平性を装うためだろうが、前半では批判意見を、後半では擁護意見を掲げているのだが、まあ批判意見の骨子はすでに散々ネットで論じ尽くされた意見のバリュエーションでしかなく、とくに目新しいものはない。

問題は後半で陳べられている擁護意見で、これはネットの論調にも共通していることなのだが、さすがに元のコラムの論旨が論理的に破綻しているためか坂東眞砂子の展開する論旨そのものを踏まえたものというより、「是非はどうあれ、その問題提起の真意を酌むべきだ」的な論調に終始している。後半でこのような擁護論を掲げ、さらにペット飼育の現状に潜む問題点を一頻り挙げた後、

坂東氏が発するこの「生」と「死」への問題提起を正面から受け止めて、深く考えてみる必要がありそうだ。

と締め括られているため、同誌のスタンスとしては坂東眞砂子の「真意を酌んで」問題提起としての意義を強調したかたちに見える。

しかし、これは単に、文壇人のスキャンダルを一方的に糾弾するような姿勢はいろいろな意味で文壇全体の反撥を招きかねないため、同誌の旗幟を敢えて鮮明にせず、批判と擁護の何れにも与しない公平性のポーズをとってみせたまでだろう。批判意見の主も文壇・学識者と表現されているが、作家は立松和平のみで、あとは学習院大学文学部教授と音楽評論家である。

この問題については、文壇人も自身のスタンスを明らかにするのはいろいろと差し障りがあるのだろう。坂東眞砂子の言動それ自体がどうこう言う以前に、それは「作家のスキャンダル」である。文壇スキャンダルがなかなか一般人に洩れてこないのは、マスコミの文壇タブーというものがあるためだが、文壇全体のオピニオンとして坂東眞砂子を批判する(つまり文壇から追放する)という流れにならない限り、そこに属している人間が坂東批判を軽々に表明することはまずあるまい。

かと言って、「子猫殺し」のコラムの剰りの反社会性、幼稚な論理を前にしては、積極的に擁護するのも難しい———というか、火中の栗を拾うのは誰だってイヤなものであり、誰もタヒチの暮らしでアタマが過剰に温かくなったオバサンと心中するような義理はないのである。そのような文壇人のどっち附かずな姿勢は、擁護論者の一人目に挙げられた某女性作家のコメント姿勢に明らかである。

この「坂東氏をよく知る猫好きの女性作家」は「匿名を条件に」坂東の意見に整合させたかたちで坂東擁護論を展開するが、このコメント中に唐突に「長野県でも」という具体的な地名が出てくる。これは坂東眞砂子のコメントの「高知県」に相当するものだろうから、論者の郷里を指す言葉だろう。ならば「長野県出身の女性作家」で検索し猫好きという性格や坂東眞砂子との親和性を加味して篩いを掛ければ、おおよそ候補と目される名前があっさり絞り込まれるだろう。

坂東眞砂子と同ジャンルで年齢も近い女性作家の名前が簡単に出てくるが、まあ何の証拠もないことだし、坂東眞砂子の個人生活についてはホラー作家の間でも驚くほど識られていないらしいので、正体探しの詮索をしてもしょうがない。

問題は、坂東眞砂子と親しい同業者でありながら、「匿名を条件に」しないと擁護意見を明かさなかったということである。普通は公人たる者、立場を同じくする者を擁護する場合は堂々と自分の名前を名乗って行うものである。犯罪者の身辺情報を近所の一般人がTVレポーターに語っているのではないのだから、苟も自身も表現活動を行っている者が、親しい公人を擁護するのに名前を隠すのは如何にも臆病未練である。

だが、少し具体的な取材状況を想像してみると、この奇妙な態度がこの女性作家個人の責任であるかどうかはちょっと疑わしいような気がしてきた。「匿名を条件に」ということは、つまり彼女のほうから週刊ポストに「あたしにも意見を言わせろ」と言ってきたわけではなく、ポスト側が言い渋る相手に「坂東さんの件について何か意見はありませんか?」「お親しいんですよね?」と喰い下がったと視るのが自然だろう。

そこでだんまりを通して痛くもない腹を探られるよりも、匿名を条件に意見を表明したほうが害が少ないと踏んだのだろう。名前を出されて「坂東氏と親しい○○氏は、今回の件に関して明言を避けた」と書かれるよりも、坂東当人にはどうせあっさりバレるとしても、だからこそ表立って名前を出さないことを条件に、少しでも好意的な意見を正確に伝えてもらったほうがよっぽどマシだということだ。

勿論、文壇内部でこの問題について箝口令が布かれているというわけではないのだろうが、普通一般に有名作家は公の場で公敵でもない同業者の私生活を積極的に暴露しないのが不文律だし、このような危急存亡の窮地において公に批判を加えて恨みを買うようなこともしないものである。まあ、簡単に言えば相身互いということなのだろうが、下手に附き合いのある作家の場合、このようにとんだとばっちりを喰うということだ。

おそらくこの某女性作家氏にとって、名前を出して正面から「子猫殺し」を擁護するほどには、その論旨や坂東眞砂子の考え方に共感していないということだ。単に個人的な交際の範疇において、世間から囂々たる非難を浴びて窮地にある知人を積極的に批判する気になれなかっただけと視るのが妥当なところだろう。擁護論自体の「心証証言」的な煮え切らなさからもその辺のモチベーションの低さが伺える。

この女性作家の擁護論をかなり噛み砕いて口語訳すれば、

あの人は悪い人じゃないんです、みんな誤解してるんです

という、その程度のものでしかない。そらまあ、識り合いならそのくらいのことは言うだろうから、過剰に批判する———というか、真に受けるには当たらないだろう。

その意味では、二人目の擁護者として名と顔を出して坂東を擁護している小林照幸の意見のほうが何だか不可解である。小林照幸の擁護意見をまとめると、以下のような論旨になる(正確を期すために予めまとめサイトなり、それを転載したブログなりで原文に当たっていただきたい)。

・日本では保健所等に持ち込まれて殺処分されている犬猫が年間四〇万匹もいる
・保健所職員は「飼い主は責任放棄せず自分で殺したらどうか」という本音を漏らす
・この問題について考え抜いた結果自ら手を下した坂東を安易に批判していいのか

これが判り易く破綻した論理であることは誰にでもわかるだろう。第一に「殺処分されている犬猫が年間四〇万匹もいる」という現状を招来した「飼い主の無責任な行為」とは何かを考えてみるべきだ。

今現在における行政の動物飼育に関する指導方針から考えれば、それは「不妊手術の未処置」と「無責任なペットの投棄」である。前者は無計画な個体の繁殖を招来し、後者はその結果として出来する事態である。そして、それに続くのが「年間四〇万匹」の犬猫の殺処分という結果で、これはもう、誰がどう視ても一直線の筋道である。

そして、保健所職員の述懐は、「四〇万匹も行政が処分するのは大変だから、飼い主が責任を持って自分で殺せ」というコスト面の意味では決してない。無責任にペットを棄てる飼い主は、「親切な人に拾われなくても、どうせ保健所が捕まえて職員が殺してくれるだろう」と安易に考える、だから棄てるのだという意味だ。己の手でペットを殺さねばならないとしたら、それほど簡単に棄てられるのか、そのような告発だ。

この二つを併せて考えれば、小林照幸の論理は完全に破綻している。

坂東眞砂子は不妊手術を情緒的に納得が行かないとして拒み、それ故に無計画な繁殖によって飼い猫が生み出した子猫を常習的に殺していると陳べ、それは不妊手術よりも自分にとって納得出来る選択肢であると主張しているのである。

これはつまり、保健所職員が慨嘆している逆説の真意とまったく逆のことを言っているのである。自分の手で殺せるのであれば不妊手術を施す必要はないし、「死体にしてから」棄てるのであれば問題ないという、歪んだ強弁を申し立てているのである。これはたとえば、他人に暴力を揮った人間を「おまえは自分の親兄弟にもこんな非道いことが出来るのか」と叱った場合に、「出来る」と応えたら他人を殴っても許されるというのと同じ屁理屈である。

人の情けとして保健所職員は「幾ら要らなくなっても、情の移った犬や猫を飼い主が殺せるはずがない」という前提の許に、「見知らぬ他人が殺すのなら、目の前で殺されるのでなければ、あんたらは自分のペットが死んでもかまわないのか、そのつもりで棄てているのか」と憤っているのである。

これに対して「ああ殺せるよ、死体にしてから棄てるんなら文句ないでしょ?」と応えることのどこが真摯な問題提起なのか。この意味で小林照幸の論旨はお笑い種の牽強付会でしかない。こんな頓珍漢な擁護意見を出す見返りに、自著の宣伝をバーターにしたのではないかと勘繰られても仕方がない。

坂東眞砂子の「子猫殺し」に問題提起としての意味があるとしたら、無責任にペットを棄てる飼い主に対して「保健所に殺させるのは無責任だから自分で殺せ」と迫る極論でしかない。それを回避し得る不妊手術自体は否定しているのであるから、犯罪としての殺害ありきの話であって殺処分の現状告発とは真っ向から対立している。

つまり、保健所職員の逆説を実行しただけの莫迦話であって、無責任な飼い主に対する一種の戒め話である。それが「莫迦なことをやった人間の例」を挙げて「ほら、無責任に子どもを産ませたらこの人みたいな犯罪者なるんだよ」という筋道でそれを戒めるという意義しかないのだから、やった人間には何ら擁護の余地などない。

例えばそれは、免停講習で教官が重大事故の実例を挙げて戒め話を語るのと何ら変わりはないのだから、他人に対する戒めとなったからと言って事故を起こした人間を褒める莫迦がいないように、坂東眞砂子の行為自体を擁護する根拠はまったくない。

さらに、小林照幸のコメンタリーには「簡単に非難できるのか」「安易に批判していいのでしょうか」という批判者への見下しがある。保健所での殺処分を取材して著書を物した彼の視点から視れば、十把一絡げに「ペット愛好家」というマッスで考えているのだろうが、今回坂東眞砂子に対する批判を声高に叫んでいる人々の中には、自身も逡巡の末に飼い猫に不妊手術を施した経験を持つ責任感の強い飼育者が大勢いる。

中には猫アレルギーの体質を持っていたり猫好きでも何でもなかったりする人間が、単に行きずりの捨て猫に関わって奔走したばかりに手術費用を負担して自身で飼育する羽目になったという有情の人々も少なからずいるのである。

年間四〇万匹の犬猫が保健所で殺処分に遭っている現実を重く視る人のみが坂東眞砂子の所行に痍附くのである。出来る限りのことをしているつもりでいても、年間四〇万匹もの犬猫が人間の都合で殺されること、そして、遠い異国でおかしな理屈を振り翳す人物が自分勝手に生き物を殺めることを止められない無力感に苦しむのである。

不妊手術の費用や手間を惜しんだり、「何だかイヤだ」という曖昧な理由で忌避しておいて、生まれた子どもの始末に困って段ボールに詰めて見ず知らずの他人に圧し附けるような人間が、こんな悪趣味な作文を読んだくらいで何を考えるものか。

そもそもコラム自体が何を言わんとしているのか、論旨がグダグダの非論理的なものなのだから、むしろ「直木賞作家ですら不妊手術に不快感を持っているのだから、自分がイヤだと思うのも無理はない」「自分の不快感の正体を代弁してくれた」「そんな不自然で残酷なことに金を遣うのは馬鹿馬鹿しい」と考える読者もいるだろう。

「坂東眞砂子のように自分の手で殺すことは(犯罪だから)出来ないけど、私も保健所で子猫が殺されているという事実をしっかり見つめて『痛みと悲しみ』を引き受けよう」と都合好くマイナーチェンジして受け取るのが関の山ではないのか。

殺処分の現実を告発する立場の人間が、自分の手で犯罪に該当する私的な「殺処分」を敢行し言い訳を書いたというただそれだけのことで坂東眞砂子を評価し、それを批判する者を「簡単に非難」「安易に批判」という言葉で貶めるのは妥当な態度なのか。それは剰りに浅い現実認識ではないのか。保健所の職員が「自分の手で云々」と語ったことを付会して、それ自体を目的化するからこのような馬鹿馬鹿しいお笑い種の擁護論が出来上がるのだ。

小林照幸が告発しているような悲惨なペットたちの運命を回避し得るのは、坂東眞砂子の行為を批判しているような人々の、健全な愛他感情とそれ自体は限界のある小さな行いの区々たる積み重ねではないのか。無責任な投棄を憎み、殺処分に処される個体を一頭でも減らすためにさまざまな情緒的抵抗を堪えて不妊手術に踏み切る気持ち、それが坂東眞砂子の所行に憤る感情の源泉である。それのどこが「簡単」で「安易」だと高飛車に断ずるのか。

無辜の命を殺さぬために、無用な苦痛の連鎖を断ち切るために、普通は堪えるべき感情を堪えなかったことが、それほど評価に値するとでも言いたいのか。

オレには「自分の手で殺せるのか」と問われて「ああ殺せるよ、そのほうが偽善よりマシだ」と嘯く逆説を解さない頑迷さや、そのほうが少しは物を考えていると言わぬばかりの文学者気取りのほうが「簡単」で「安易」に見える。

物言えぬ動物たちが日々不条理に殺され続ける現実の前には、行動の伴う偽善のほうが怯懦な不善よりもマシである。

小林照幸が取材したような悲惨な現状を改善し得る選択肢は、残念ながら今現在は不妊手術によるバースコントロールしかあり得ない。良い悪いという個人の価値判断は措くしかないのだ。人間の都合で殺される命を減らすにはそれしかないのであり、その現実的な唯一の手段を否定し、法的に禁じられている私的な殺害を実行してしまうのではどんな提言も意味を持たないのである。

この浅ましい文名欲しさの「子猫殺し」を真摯な問題提起と評価するのであれば、一人ひとりの名もなき市井人たちが、自身に出来るベストを尽くして小さな命に手を差し伸べるちっぽけな行為やその感情よりも、殺してからマスコミを通じて大々的に正当化するようなテロリズムのほうが意義があると言いたいのか。

だとすれば、このノンフィクション作家は無辜の動物が大量に殺される現実をその目で取材しておきながら、それをどのように解決せよと主張しているのか。それをするのは自分以外の人間で、勝手な岡目八目を決め込んだ高見の見物のつもりなのか。

考えることは大事だろうさ。今やっている行為が本当に正しいのかと疑うことも大事だろうよ。愛玩目的の動物飼育の是非を論じることも大事だろう。しかし、まず為すべきは、どんなちっぽけな意味しかなかろうと一人ひとりの個人が具体的に出来る限りの行動を起こすことではないのか。四〇万匹の動物をすべて救い人間の愚行を華々しく根絶することのみに意味があって、一人がたった一匹の命を救うのみのちんけな行動には意味がないとでも言うのか。

坂東眞砂子の自分勝手な主張は、そのような市井人のしみったれたちっぽけな行動の積み重ねを嘲笑う短絡的な愚行だという本質が何故見えないのか。決してこれでいいと自己満足に浸っているわけではない人々が、それでもやらずにおれない行動を不誠実や偽善と決め附けることがプラグマティックな観点でそんなに意味があることなのか。

勿論、雑誌の取材(おそらく簡単な電話取材の類だろう)で論者の意見が厳密に伝わるというものでもないだろうし、取材者が原稿を纏める段階でニュアンスが変わった可能性はあるだろうが、ここで並べられた材料をどう組み合わせたらまともな意見になるのかオレには想像出来ない。

坂東眞砂子の主張と殺処分の実態の関係性は、どう考えてもそれに悪影響を与えこそすれ何ら状況改善に貢献しないものとしか思えない。そもそも殺処分の実態をルポした人間が坂東眞砂子を擁護するということ自体矛盾しているのである。

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