« あえて無題 | トップページ | 坂東眞砂子の怪 »

2006年8月24日 (木曜日)

坂東眞砂子の「子猫殺し」について

追記:どういうシステムだかよくわからないが、今はこういうわかりやすいタイトルでないと検索できないくらいブログ記事が混み合っているらしく散々苛つかせられたので、せめて誰が視ても坂東眞砂子ネタだとわかるように「姑獲鳥の夏」から改題してみた。重ね重ねの混乱で申し訳ない

ようやくメジャーマスコミでもこの件が採り上げられ、各種ポータルサイトトップでもトピックスとして紹介されているようだが、朝日は若干及び腰で静観の構え、毎日が少し踏み込んだ取材記事を書いている。いつまでもこんな話題に拘泥しているのは不快なのだが、まだ暢気に映像作品を語る気分になれないので、もう少し続けたい。

毎日の記事ではこの件に関して日経を通じた坂東眞砂子のコメントが読める。

坂東さんは日経を通じて「タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからだ」とのコメントを寄せた。

原記事上では、坂東本人のコメントは一重カギで囲まれた引用文の形式で紹介されているのだから、『子猫殺し』というふうに二重カギで囲まれている箇所は開いた文章では一重カギに相当するので、このコメントで語られているのは子猫殺しの行為ではなくコラムそれ自体のことである。

日経を通じたコメントというのが、紙上を通じて発表されたのか日経を代理人としてコメントを預けたのか、オレ自身は日経新聞を講読していないのでわからない。日経サイトを視る限りその手の記事はないようだが、本紙にはあったのかもしれない。

その点は不明ながら、この坂東眞砂子のコメントが、あのような内容の文章を日経新聞の記事として書いた意図について釈明しているものであることだけはわかる。ある意味で、該コラムを巡る議論の大きな問題として「著名作家が一流新聞のコラムとしてこのような文章を公表すること」の是非という問題があるから、その部分に対しての釈明ということだろう。

この件についてはネット検索でわかる範囲のことは調べたつもりだが、2ちゃんで話題になっていることもあってかなり精力的にネット上の情報が掘り起こされ、いろいろと参考になる情報もあった。前回のエントリーを書いてからもいろいろ情報を漁ってみたのだが、どうもこの人物はグチャグチャと思い詰める割には論理的に物事を考える人ではないし、思い詰めるととにかくやらかす人であるという心証を抱いた。

そういう意味では、コラムの元となった子猫殺しの事実自体に関しては、単に思い詰めると逆上するタイプのオバチャンが「不妊手術は何だかイヤだけど、生まれた子猫を全部飼うのも何だかイヤだ」「ならばいっそこの手で」という、短絡的な動機の下に行っていたのではないかと想像するようになった。

どうもこの人は、論理性に欠ける人一般がそうであるように過剰に情のこわい人のようだから、一旦そう思い込んだら子猫を殺す行為自体には剰り抵抗感を覚えなかったのではないかと思うが、それが社会通念としては非道な行為であることくらい幾ら何でもわかるので、自らの行為の是非それ自体については幾許かの呵責は覚えていたのだろう。

だからおそらく、その行為についてさらにいろいろとグチャグチャ考えていたというのは事実なのだろうと思うし、該コラムがそのようにグチャグチャと考えた末に書かれたものだというのは信用してよいのではないかと思う。

ただ、それがとても不快な文章に結実したのは、この事実の本質は「感情や情緒で極端な行動に出る人物がやらかした非常識な常習行為」に過ぎないのに、当人が長年抱いてきた葛藤の重さに鑑みて何某かのブンガク的意義があるという思い込みで書かれているからではないかと思う。

前回のエントリーで触れたように、坂東眞砂子という人物は、どちらかと言うと現代的な意味では娯楽小説の書き手というより、娯楽小説で描かれる側に近い人物像なのだと思う。要するに、世間の現実について批評的な観点から何某かのコメンタリーを行う人物ではなく、この人自身が小説に取材されるような「世間の現実」の一つなのである。

前回はこのコラムについて「有名な猫殺しへのインタビュー」に喩えたが、本当にそのような意味しかない文章だということである。事実において、坂東眞砂子は自身の飼い猫に不妊手術を施すことが不快だったのだし、ボコボコ生まれる子猫を全部飼うのも不快だったのである。その不快感が突出していたために、生まれたばかりの子猫を崖から投棄するという残虐な行為にも抵抗がなかったのである。

ネットでは「崖下に投棄するという殺し方には、死体を視なくて済む、直接殺した実感がない、という欺瞞があるのではないか」という意見が頻出しているが、まさにその通りの理由でそのような手段が選択されているのだろう。この意味で「子殺しの痛み悲しみを引き受けた」というのは嘘だろう。

原コラムではこのように書かれている。

タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。

崖から投棄するのなら、生きた子猫が崖下の地面に激突するのを視なければ殺害の実感は薄いだろうし、「生きた子猫」と「子猫の死骸」の間にあるプロセスを想像しなくて済む。「殺す」のではなく、彼女の周囲にゴロゴロしている「野良猫、野良犬、野鼠などの死骸」のような日常的なオブジェに変えているだけのことで、それは「子猫の死骸が増えた」だけなのだし、「自然に還」しているだけなのである。

簡単に言えば、それは思考停止である。

行為の実態において彼女は自分が「殺害」を実行しているという実感から目を背けているのだし、「自然に還るだけだ」と自分に言い聞かせれば、その言葉のイメージに簡単に騙されてくれるような感受性なのだと思う。

だから、この事実自体には何らブンガク的意義などはない。不快感を整合させるためにより不快でない行為を選択したという意味では本人の書いている通りなのだし、それをブンガクのフィルターを通して修辞することで意義あることのように取り繕ったことが読み手には不快に映るというだけのことなのである。

坂東眞砂子は、単に「無責任な飼い主」「動物虐待」という俗悪でありふれたイメージで自身の行為が括られてしまうという事実に耐えられなかっただけなのだろう。だからこそ「社会に対する責任として子殺しを選択した」というように書いて、行為の実態においては目を背けていたはずの「子殺し」という強い表現を敢えてしたのだろう。

また、この箇所では、いつの間にか「子猫殺し」が「子殺し」になっていることには注意が必要だろう。これに注目してもう一度原文を読むと、坂東邸で飼育されている動物の大半が雌であるという事実が気になってくる。

コラム中の記述は「私は猫を三匹飼っている」「みんな雌だ」「雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった」「残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた」ということになっていて、つまり、赤ん坊の頃から引き取って育ててきたのは雌だけで、雄のほうはただその辺の猫に定期的に餌をあげていた半野良に近かったのだろう。

最初のほうで言い訳がましく「血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない」と書いているが、赤ん坊の頃から育ててきたという以上、この三頭の雌猫自体も雑種である可能性が高い。

血統書附きの猫なら、少なくともまともなブリーダーなら「赤ん坊」ではなくなるまで譲渡先に渡さないはずであるし、この三頭が同腹の姉妹なのか、それとも別々の時期に一頭ずつ引き取られたのかはこの文章だけではわからない。

犬については、別のコラムの中で「うちの飼い犬は3頭いる」「二頭はジャーマンシェパード、雌のミツと雄のクマ」「もう一頭はミツの娘のタマだ」「タマは、近所の雑種犬との混血だ」と書かれていて、最初からつがいで飼っていて、ミツが余所の雑種犬との間に儲けた子どもたちの中からタマだけを手元に引き取った(もしくは「始末」しなかった)というふうに読める。

同コラムでは「ミツとクマには犬小屋があるが、タマはいつもそのあたりを宿にして放し飼いである」と書かれているので、タマだけ犬小屋がなく放し飼いにされているのは雑種犬差別ではないかという意見もあるようだが、ジャーマンシェパードの純血種を放し飼いにするのは管理上まずいので、ミツとクマだけ犬小屋を宛い繋ぎ飼いにして管理しているということだろう。

ミツは近所の雑種犬との間に子を儲けているが、雌ならば父親の雑種犬のほうが放し飼いにされていれば子が出来る道理だから、この記述を信用するならミツとクマは一応きちんと繋がれて飼われているのだろう。

ミツとタマが同時期に出産したのでタマの子を「始末した」ことについては、「子猫殺し」のコラムに書いてあるように「血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない」ということがあるから、引き取り手のないタマの子は「始末」するが血統書の附いたミツの子は一応引き取り手を探しているのかもしれない。

ということは、放し飼いのタマの子は父親が近所の雑種かクマで、おそらくミツの子はクマの子なのだろう。両親が血統書附きの純血種なら実質的にその子も純血種なので引き取り手があるということだろうと思う。

まあ、その話の裏を返せば、またしても余所の犬がミツを孕ませたりする場合には同様に「始末」しているということだろうし、タマの子は躊躇なく「始末」されているということだろうから、幾らもマシな話ではないが。

これらの記述から、坂東眞砂子は一応意志的に現在の六頭の犬猫を選んで飼育しているということになるが、その大半が雌なのである。動物を飼育した経験のある人ならわかるだろうが、選択の余地なく引き取ったものでない限り、計画的に犬や猫を飼う場合に雄を選ぶか雌を選ぶかというのは最初の段階でかなり悩む選択肢なのである。

雄でも雌でも構わないという人もいるにはいるが、おおむねどちらにするかには飼い主の好みが出るものだ。それ故、坂東眞砂子のペットが犬猫含めて六頭中五頭まで雌であるというのは、偶然にしては偏りすぎなので、簡単に流して考えていい事柄ではないだろうと思う。

ペットを飼う人間は大概ペットのことを「ウチの子」というふうに表現するが、要するに子どもが生まれるなら「女の子」が欲しいか「男の子」が欲しいかという問題と割合に似ているのである。さらには、その時点で一種の擬人化が前提になっているわけだから、ペットに他者を投影するか自己を投影するか、また、その動物種に男性的なイメージを視るか女性的なイメージを視るかという基準も関わってくるだろう。

だから、坂東眞砂子が犬でも猫でも雌ばかり飼っている(一般的に前者は男性的、後者は女性的と視られているだろうから、動物種のイメージには剰り関係ないということだろう)のは決して偶然ではなく、自分の子どもとしては女の子が欲しいのか、もしくはペットに過剰に自己投影する人物であるか、もしくはその両方、つまり自分の子どもに過剰に自己投影する人物であるということだろう。

だとすれば、先に挙げた箇所で彼女が「子殺し」と表現したのは、単に表記がバラ附いたというだけのことではなく、飽くまで「この文章における」彼女の意識では、子猫を殺すことは自分の子を殺すことに擬せられているのである。

つまり、坂東眞砂子の異常な行為の根底には、ペットへの過剰な自己投影という情緒的機序があるのではないかとオレは推測する。彼女がペットの不妊手術に抵抗を覚えるのは、「自分だったらイヤだな」という過剰な自己投影に基づく割合素朴な不快感なのだろうと思う。一生子どもが産めないように雌の内生殖器を除去してしまうという残酷性を、わがことのように想像して強い不快感を覚えたのだろう。

この場合、動物の雌は妊娠出産によってかなり肉体的に消耗する上に生命のリスクがあるし、妊娠可能な状態の内生殖器は癌化する危険性が高く、人間の女性でいう婦人病のような弊害もあるために、獣医師は「女の子の場合、不妊出術を施すことで子どもを産ませるより健康に長生きできますよ」と説明するのが一般的であり、ペットの不妊手術を解説したサイトでもそのような説明を掲げるのが一般的である。

おそらくこの時点でも彼女は「セックスも出産も経験しないで『健康に長生き』するのはイヤだな」「そんな生き物を日常的に視ているのはイヤだな」と過剰に自己投影して生理的な不快感を覚えたのではないだろうか。つまり、動物の生の実感がどうのとかいうご大層な主張は建前で、そういう生き物を視る自分がイヤなのである。

原文中に「避妊手術を、まず考えた」「しかし、どうも決心がつかない」と記述されているのは、この辺の葛藤を物語るものだろう。その思考に論理性はないとしても、一応坂東眞砂子も高等教育を受けた文化人である。普通一般にペットを飼育する場合、不妊手術を施して出産コントロールすることが義務附けられていることくらいは識っているはずである。

それでもイヤなものはイヤなんだから、イヤなことをしないで済ませるにはどうすればいいのか、という割合下世話なことを悩んだのではないかと想像する。「決心がつかない」と書かれている以上、この時点では多分何ら結論は出していないはずで、単にズルズルと不妊手術を先送りにしているうちに子どもが出来てしまったのだろう。

そこで産まれた子どもを全部飼えばよかったのに、という意見も聞くが、よくよく考えるとそれは不可能なのである。

たしかに日本国内でも、先般、さほど広くもない借家に二〇頭以上の猫を飼っていた中年女性が家主から立ち退きを迫られ、立ち退いたはいいが、飼い猫を締め切った借家に鎖じ込めてすべて餓死させたという憤ろしい事件も聞くくらいだから、広い邸宅で放し飼いの条件なら、飼おうと思えば五〇頭くらいの猫は飼えるだろう。

単純計算すると、一頭の猫の現実的な生涯出産頭数は、何ら調整しない場合でも多くて二、三〇頭というところだろう。これの三倍だから多目に見積もって一〇〇頭前後である。実際にはこの半分くらいだろうから、おおむね五〇頭乃至一〇〇頭という見積もりになる。坂東眞砂子の境遇なら無理して飼って飼えない頭数ではない。

だが、それには「産まれた子にすべて不妊手術を施す」という条件が附く。産まれた子をすべて何ら処置せず放し飼いにするなら、近所の野良猫との交配や近親交配で、猫でもねずみ算式に子どもが増えていくことになり、五〇や一〇〇のオーダーには留まらないだろう。

その中のかなりの割合が邸内には留まらず地域に流出するだろうから、坂東邸を中心として野良猫の一大コロニーが発生し、拡大の一途を辿るはずだ。

とにかく「不妊手術はイヤ」「放し飼い」が前提になる以上、どのみち繁殖の問題は一個の個人の手には剰る地域問題に発展するのである。残る選択肢は、雌しかいないのだから「完全屋内飼育」で雄と隔離するという手段があるが、タヒチの住宅構造では、首輪で繋いでいる犬ならまだしも、行動を制限出来ない猫ではそれも出来なかったのかもしれないし、例によって「ウチの中に鎖じ込められるなんて、何かイヤだ」という自己投影から忌避されたのかもしれない。

それ以前に、不妊手術していないのだから時季になると必ず発情する。鳴き声でプレゼンテーションするのは雌のほうなのだから、屋内で飼っていて決まった時期に大騒ぎされると、「セックスしたいのに禁じられるのは、何かイヤだ」という自己投影が起きるるのかもしれない。

つまり、不妊手術を施すことにも交尾を制限することにも不快感があるのだから、いずれにせよ必ず雌猫は妊娠・出産することになるのである。

そうなると、残る選択肢が「子猫殺し」しかなくなるのは理の当然である。

巷ではこの選択を不思議がる意見が多いが、このように考えていくと、それはそれで坂東眞砂子にとってはそれしかない選択肢だったのである。当然それは、オレという個人がこの選択を支持するということでは決してない。

オレがこの考察を通じて言いたいのは、坂東眞砂子は「より納得できる選択」を選んだとか、生の厳しい現実を直視して「社会に対する責任として子殺しを選択した」わけではなく、イヤなことをしたくないから、いちばんイヤでない選択肢を選んだだけということである。

「避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ」というふうに一般論の基準を掲げ、より厳しい選択を選んだという言い方をしているが、彼女個人の基準においては、産まれたばかりの目も開かないネズミに似たちっぽけで若干グロテスクな生き物を「崖から棄てる」ほうがイヤでなかったというだけの話なのである。

彼女にとっては、自身と同一視している生き物が「内生殖器を除去され、一生出産を経験できないこと」や「セックスを禁じられること」を視るほうがもっとイヤだっただけなのである。動物を論じたコラムであるのに、「セックス」「生の経験」という擬人的表現が奇妙に目立つのは、その故だろう。

普通一般に猫を飼育する場合に義務附けられている手続を踏むのがイヤだったから、坂東邸の猫たちはボコボコ子どもを産むのだし、産まれた子猫が猫らしい愛らしさを具えるようになる前に、酷たらしく死んでいく生き物が目に入らないように「崖から放り投げて」「自然に還」したのである。

イヤとかイヤでないという自己投影の不快感が本質的な動機だろうと考えるのは、たとえば該コラムで陳べられている「生の経験」の論旨に沿って考えるなら、「三頭の猫にそれぞれ一度だけ子どもを産ませて、その子だけはちゃんと引き取り手を探し、後は不妊手術する」という選択肢があり得るからである。これなら精々一〇頭前後の子猫の先行きを手配するだけで済むのだから、幾ら血統書のない雑種でも可能だろう。タヒチの状況が日本と違うとは言え、その程度のコミュニティがないとは思えない。

動物にとっての「経験」が重要であるなら、一度であろうが二度であろうが経験は経験である。実際に、自分の猫の子どもが欲しいから一度だけ産ませるが、後は母体の健康を考えて不妊手術するという飼い主は幾らでもいる。また、他人が飼い猫に不妊手術を施すことにまで否やを唱えるわけではないというのであれば、余所に引き取られた子猫が不妊手術を受けても構わない理屈である。

そのくらいの知恵はちょっと猫について調べれば幾らでも出てくる話だし、そのような選択肢があり得るのだから、思い余って子猫を殺害するという不穏当な手段を避けようと思えば避けられるのである。

それをしなかったのは、やはり坂東眞砂子には理も非もなく自身の飼い猫に対して不妊手術を施すことそれ自体に嫌悪感があったからだとしか考えようがない。

コラムに書かれていることは、そのような自身の不快感からの自堕落な逃避をポジティブに意味附けるための妄想である。イヤなことから逃げ続けて、世間では最も非難される行為が最もイヤでなかったというのは、長らく坂東眞砂子に不快なしこりを与えていたのだろうと思う。

おそらくこのコラムの正当化の筋道がそうである以上、坂東眞砂子にとっての文学者像というのは、一般人が正視出来ずに自己を欺いているような生の現実を雄々しく直視しそれと格闘して穣りある芸術を物するという種類のものなのだろう。

だが、実際に彼女が長年行ってきたのは、普通一般の飼育者が当たり前にしているようなことが「イヤだから」出来ず、ズルズルと状況に流された挙げ句に、社会一般で最も蔑まれている行為だったのである。そして、この一連のプロセスをざっくり括るなら、普通に不見識な飼育者が手術費用を惜しんで無責任で残酷な飼い方をしているようにしか見えない。

おそらく、誰一人識らぬことではあっても、他ならぬ坂東眞砂子当人が自身の行為がそのような「ご近所の非常識な猫婆さん」の行為とどこが違うのか、いろいろなことをご大層に批判するのが大好きな作家先生としては、不愉快な葛藤を抱えていたのだろうと思う。

要するに、このコラムもまたイヤなことから逃げるためのイヤでない選択肢の一つなのである。単にイヤだからやらなかったこと、イヤでないからやったことを、自身の死生観というような大仰なブンガク的修辞で飾り立て、猫を不妊化して「これでいいのだ」と事足りている世間一般のペット飼育者たちの鈍感な自己欺瞞を遠回しに批判することで、自身の怯懦な行為を正当化したかったのだろう。

自身に文学者としての不釣り合いなまでに強固な自負がある以上、それが惰眠を貪る一般大衆への啓発という「ブンガク的試み」のかたちで実現されねば、プライドが救済されなかったのだろう。

ネット上では、コラムの内容や行為自体の是非は措くとしても、ここに書かれているように普通の人が簡単に結論を出すような事柄について真摯に悩み、あえて批判覚悟で一流新聞紙面上で告白した坂東眞砂子の姿勢自体は評価するという意見も視られたが、オレはそんなふうに好意的に考えて差し上げる必要はないと思う。

坂東眞砂子の試みは、前近代的なブンガク一般の裏事情に対して幻滅をもたらしただけのことである。要するに、ご近所の無責任な猫婆さんに文章を書く能があって発表の場があるなら、この手の理屈を捏ねるのだろうし、それが前近代的な意味でのブンガクの正体かもしれんなぁという退屈な連想をもたらすだけの話である。

そして、このような考察がヒントになって、オレはこの文章で坂東眞砂子が下敷きにしていたストーリーが読めたような気がしている。

タイトルから予想されたと思うが、このコラムを書くに当たって…ということは彼女が自身の行為を正当化するに当たって、という意味だが、イメージを籍りているのは今回タイトルに掲げた京極夏彦のデビュー作「姑獲鳥の夏」なのではないかとオレは推測しているのである。

姑獲鳥の夏には鬼子母神や姑獲鳥など「他人の子どもを浚って殺す恐ろしい母性」というモチーフが重層的に用いられているし、「性行為の結果としての妊娠」に拘泥する女性も登場する。さらに、事件の舞台となる久遠寺家は讃岐藩の御殿医の出で憑物筋と忌まれている家系という設定で、坂東眞砂子の作物のメンタリティに親和性がある。

物凄く単純に言えば、坂東眞砂子は昔読んだ小説のヒロインたちに自身を擬して「無責任な飼い主の動物虐待」という「近所の非常識な猫婆さん」レベルの散文的な行為をブンガク的悲劇性に粉飾したのである。

ただ単にイヤなことを先延ばしした結果として、比較的イヤでないことをイヤでないやり方でしているだけの話を、飼い猫の産んだ嬰児を我が子に見立てて殺す恐ろしい狂気の母性、愛のあるセックスによる妊娠を妄想する狂える女に準えてロマンティックにイメージしているのだろう。

動物を飼育するという行為に伴う理不尽さを持て余し、情緒的に出来なかったことの結果として自身が恥ずべき下劣な行為に手を染めるに至ったことを屈辱に思い、それを一般論に敷衍して何の疑問もなく動物の不妊手術というイヤなことが出来る他の人間を責めたくなったのだろう。

こんな理不尽でイヤなことが出来る人よりも、敢えて子猫殺しというイヤなことを選んだ自分のほうが動物を飼育する行為の理不尽さを深く考えているのだという幻想にしがみつきたかったのだろう。そう主張する場合に、不妊手術に耐えられずに子猫を殺す羽目になった自分を、悲劇的な母性に準え、子取り鬼を演じる狂気というイメージは大きな励みになったのではないか。

つくづく思い込みの強い傍迷惑な女性である。

前回のエントリーでも触れたことだが、オレの調べた範囲ではそのような事実は出てきていないものの、もしかしたら坂東眞砂子には内生殖器の疾患や先天的体質による不妊という母性に対するコンプレックスがある可能性もないではない。

それ故に、健康な雌の動物から内生殖器を除去したり結索するなどしてわざわざ不妊化する行為に強い抵抗感を覚えるのかもしれないが、何度も強調する通り、それが出来ないならこの現代において猫を飼う資格はないのである。

昔はたしかに猫は不妊手術などせずに外飼いするのが一般的で、産まれた子どもは川に流されるか橋の下に棄てられたものなのだし、野良猫が増えすぎれば然るべきところが駆除に当たったものである。昔はそれでも仕方がなかったのだ。

ネズミを獲るという役目が殺鼠剤に取って代わられた以上、猫という人工的で脆弱な種族はやはり人間の駆除によって滅びるしかない運命にあったのだが、たまたま愛らしくて人間に馴れているために中途半端に延命されてきたのである。その中途半端さの故に巷に溢れていたのは、猫という生き物それ自体ではなく、滅びもせずに延命したイエネコという種族の苦痛である。

この苦痛の連環を断つには、思い切って滅ぶに任せるしかないのである。中途半端な手助けなどせずに、害獣のスカベンジャーとして駆除してしまうしかないのである。しかし、人間はどうしてもこの可愛いばかりで無能な家畜を愛さずにはいられないからこそイエネコという種は滅びていないのだ。

その事実をどうしようもない以上、せめてイエネコという種族の苦痛を軽減する以外に人間に出来ることはない。中途半端だろうが何だろうが、猫を愛する人間がこれほど多く存在する以上、せめて一頭でも多く苦痛なく幸福に暮らして欲しいと願い、そのために地道に努力する以上に出来ることなどはないのである。

全数制限という中途半端な手段は、現時点でそのような人間が出来るせめてもの選択肢の一つなのだ。イエネコという種族の総数を不妊処置によって制限するという不自然な方法でしか、愛するイエネコの苦痛を軽減することは出来ないのである。

坂東眞砂子の行為は、要するにこのような残酷な現実と愛に惑わされる人間の愚昧な業から目を背けているだけの話なのである。人間が中途半端な手助けをしなければ、生の充実もへったくれもなくイエネコという脆弱な種族は人間の駆除によって滅ぶ。人間という種族がいなくなっても、人間に依存する生存形態を圧し附けられたイエネコという人工的な種族は滅ぶ。

所詮、坂東眞砂子が言うイエネコの「生の充実」とやらは、イエネコという種族の苦痛の無限連鎖を生むだけのことであり、それを避けるために少しだけマシな決め事がつくられたということなのである。彼女の主張は、要するにイエネコの苦痛が世に蔓延っていた以前の社会に戻れということにすぎない。現状の中途半端さに耐えきれず、昔のほうがマシだったとゴネているだけのことなのである。

誰も現在の状況で事足れりなどとは考えていない。未だこの世には苦痛に喘ぐ猫が多数存在することを識っているし、単にイエネコという種族のためだけに人間は生きているわけではないから、それを普段考えないようにしているだけである。だからこそ、坂東眞砂子のように自分勝手な思い込みで猫を虐殺する人間が存在するという事実に心が痍附くのである。

坂東眞砂子の行為は、他人が中途半端さに身悶えしながらも地道に努めている行為を横合いから「中途半端だ」と苛立って暴力的な挙に出るヒステリーでしかない。そのような短慮がブンガクなのだと思われたらブンガクが泣いて怒るだろう。

愛玩目的で動物を飼うという行為は、何をどう言い繕ったところで動物視点では理不尽な行為なのである。

どんなに強い愛も一方的に強制するトレードオフの言い訳にはならないのだし、たとえ自身の飼育する個体がどれだけ幸福に生涯を過ごそうとも、本来あるべき場所から連れ出し、愛玩目的で見た目が可愛く見えるような品種改良を加えて手元に置いて育てている以上、それは人間のエゴ以外の何物でもない。

それでも愛故にその理不尽な行為に荷担するなら、腹を括れということである。

手を合わせて獣肉を口にする心があるのなら、自身の愛という理不尽な動機の故に動物を手元に拘束する身勝手を考え、愛するペットに対する負いきれない負い目を負うべきなのである。

他の命を収奪して身を養うことに悩み、せめて無駄なく戴こうと思うだけの誠意があるならば、悩むだけ悩んで愛する者の精一杯の幸福を願うべきなのである。どうしてあげればこの子は幸福なのだろうと常に考えるべきなのだが、それは負いきれない負い目を前提に考えるべき事柄であって、その熟考の結論として、無意味な苦痛を産むだけの嬰児の殺害は絶対に選び得る選択肢ではないのである。

人間の身勝手で生み出された小さな命が、安んじて幸福な生を享受する方法を思い附けない以上、「生の実感」などというおセンチでイージーな理由で不妊手術という理不尽な行為に手を汚すことを躊躇うべきではないのだし、「自分こそが猫の生の真実を考えているのだ」と偉そうに嘯くなど沙汰の限りの愚昧である。

何故なら、あなたの膝で安らかに微睡むその小さな生き物の命は、決してあなたのものではないからだし、その命が生み出した命も決してあなたのものではないからだ。金を払って買った血統書附きの猫でも、その命を丸ごと買い取ったわけではない。その命を大切に育ててくれた感謝の印であり、費用の負担であり、それを預かるための預かり賃を払うというだけのことなのだ。

敢えて子殺しの罪を負うというのなら、何故敢えて動物本来の暮らしを奪う理不尽の罪を負わないのか。敢えて「鈍感な愛誤」と嗤われる屈辱を耐え忍ばないのか。「生き物を可愛がっていい気になっている偽善者」という誹りを耐えないのか。

愛故に生き物を飼うならば、「動物を拘束して愛玩するのは理不尽だ」という他者の非難に偉そうに反論してはいけないのである。あなたがどれだけ残酷な偽善だと個人的に考えようとも、理不尽に動物を拘束しておいて、その上さらに理不尽な苦痛を与えることは決して許されないのである。どれだけ凡愚な選択に過ぎないとしても、産まれてきた命を殺さないために、不妊手術を施すという理不尽は避け得ないのである。

産まれてきた子を殺したとて何がどうなるわけではないし、あなたが動物を手元で飼育する行為の理不尽さが如何ほども和らぐわけではない。単にあなたのちっぽけな気が済んで、その代わりに痛みを感じることが出来る命あるものの苦痛という更なる不幸を世界に附け足すだけの話である。

あなたの「ブンガク的な懊悩」とやらが子殺しという最低の恥ずべき行為に行き着いたように、今現在の状況では不妊手術という理不尽な処置を施す以外にイエネコという動物種と人類が共生する方法はないのである。

それを決断する瞬間に、多くの猫飼いが猫を飼育する行為の理不尽さを痛感し懊悩するのである。あなたが望むほど多くはないかもしれないが、そのようなことを考えて苦しむ飼い主だってたくさんいるのである。それでは足りないのかも知れないが、あなた以上に愛という理不尽な感情に悩み苦しむ人だってたくさんいるのである。

自分以外の「鈍感なイッパンタイシュー」がそんなデリケートなことを悩んでいないなどと考えてくれるな。子猫殺しという人として最も恥ずかしい行為で、他者を高みから裁いた気になってくれるな。

自分が預かっているに過ぎない小さな命を殺すことで「個人の納得」を贖う行為には卑劣な怯懦という以上のどんな意味もない。「個人の納得」など、人間が他の動物を飼育するという行為の複雑怪奇な機微において、何ほども意味のある基準ではない。

夥しい小さな命を奪う行為が、自身の女性性に根差した「個人の納得」というチンケな規範で選び得ると思うなら、それは最も忌まわしい偽善である。

ところで、前回のエントリーに関しては、タイトルを改題して上げ直したので、巡回してくださっている方には大分迷惑をおかけした。どうもあのエントリーを上げた後にブログ検索をかけてみたところ、あって然るべき序列で当ブログのエントリーがヒットしないという前例のない事態が発生したので、どうも何某かの作為が働いているのではないかと疑ったためである。

何らかのシステム上の都合でそうなっただけで、杞憂であればいいのだが、とりあえずおまじない程度ではあるが、一番目立つ文字列であるエントリーのタイトルには剰り強い表現を用いないようにした。また、有名な猫殺しについての言及も操作対象文字列として疑わしいので念のために今回は明示を避けることにした。

そういうわけで、今回のエントリーのタイトルが「姑獲鳥の夏」になっていて、本文中でもその件に触れているのは、まあ、ちょっとはよく出来た牽強付会だったとは思うのだが、本当は単なるおまじないである。

どっとはらい。

※結局どのような理由でgooのブログ検索に三日間に亘って新規エントリーが反映されなかったのかはわからず終いに終わったのだが、今のところそうそう怪しい動きもしていないので、おまじないはヤメにした。「坂東眞砂子の怪」ばっかり読まれても嬉しくないし(笑)。

|

« あえて無題 | トップページ | 坂東眞砂子の怪 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/11589415

この記事へのトラックバック一覧です: 坂東眞砂子の「子猫殺し」について:

« あえて無題 | トップページ | 坂東眞砂子の怪 »