« 坂東眞砂子の怪 | トップページ | 「週刊ポスト」擁護論の不審 »

2006年8月26日 (土曜日)

坂東眞砂子の「三分の理」

友人からこの件を識らされて以来、猫飼いの端くれとして大いに憤りを感じ、日経新聞に掲載された坂東眞砂子の「子猫殺し」について集中的に論じてきたが、そろそろこの辺りでひとまず区切りを附けたいと思う。今後何か新しい動きがあるまでは、この件については一段落としたい。

コラム「子猫殺し」の内容への批判は「あえて無題」でほぼ語り尽くしているし、坂東眞砂子の行為自体についての批判は「坂東眞砂子『子猫殺し』について」で若干の推測を交えてオレの考えを陳べた。就中、後者のエントリーはこの問題に対するオレの意見の中核を成す考察なので、更めて今一度アピールしておきたい。

これらの一連の坂東眞砂子関連のエントリーに関しては、常日頃当ブログを覗いてくださっている方々はもとより、この件に関心のある方々に一人でも多く読んでいただきたいと願っているので、忙しなくバタバタと騒いでご迷惑をおかけした。

さて、今回のエントリーでは、この件に関する包括的な結論めいたものを陳べさせていただくことにしよう。以下の結論までに至る区々たる筋道については、先行するエントリーを参照していただきたい。

まず第一に、このコラムに書かれた坂東眞砂子の実際の子猫殺しの習慣それ自体と、このコラムで文章として書かれている正当化の論理はまったく関係ない

つまり、ここに書かれているような論理に基づいて子猫殺しの習慣が行われていたわけではないということである。常習的な子猫殺しが事実であれば、それには猥雑な生活感情の綜合としての日常的な動機があるのであり、このコラムの破綻した論理はそれを正当化するために考えられた後附けのブンガク的修辞だということである。

だから、このコラムの論理が誰が視てもわかりやすく破綻しているのは、坂東眞砂子本人の物の考え方が論理的ではないかもしくは後附けの理屈にすぎないからである。実際の動機面においては、日常的にオレたちの周囲にいる同様の非常識な行為を行うようなちょっとアレな人の物の考え方と何ら変わりはないのである。

そのような散文的な迷惑人間と坂東眞砂子の違いというのは、それなりに読ませる文章を書くスキル(儀礼的修辞)と、それなりの文化人としての信用(過去形だが)、そしてその文章を公に発表する場が与えられていた(過去形であることを願う)ということだけである。

さらに言うなら、オレたちと今の坂東眞砂子との接点は、子猫殺しという犯罪事実それ自体ではなく、それを作家としての本業で正当化した公の文章である。

例えば、この騒動と同時期に起こった飼い猫大量遺棄事件も人々に強烈な不快感と憤りを与えるし、実態において坂東眞砂子の子猫殺しの行為はこの事件の犯人と同レベルであるが、その不快感の程度において坂東眞砂子のコラムは数段強烈である。

それは、坂東眞砂子のコラムは独り坂東眞砂子の虐殺行為のみに責任があるばかりではなく、同時期に縁もゆかりもない他人が起こした、しかも坂東眞砂子のコラムそのものとはまったく因果関係のない事件についても原理的な責任があるからである。

「子猫殺し」というコラムの存在は、時系列的な因果関係の有無を超越して、絶対的に飼い猫大量遺棄事件を肯定しているのである。何故なら、この事件の犯人に坂東と同様のスキルと信用と場が与えられていたら、このコラムと同レベルの自己正当化を行うことが原理的には可能だからである。

常習的な子猫の虐殺は、大量の猫を共喰いの果ての餓死に追い込んだ行為と同レベルで罰されるべき卑劣な犯罪行為でしかない。その動機面においても何ら崇高な要素などはないのだし、「飼い猫の始末に困った」という唾棄すべき散文的な動機は共通しているのであるが、それを公の場でブンガク的に修辞して正当化する行為は実際に犯罪行為を行う以上の非道である。

そこで強調しておきたいことは、「あれはでした」は通じないということだ。

当たり前のことではあるが、坂東眞砂子に限らず公に表現活動を行う文化人にも、日常人としての生活領域がある。そこで支配的な論理はオレたち一般人と何ら変わりはないのだが、公の表現活動は、その一般人と変わりのない下世話な日常性にブンガク的な修辞なり、文化的な卓見なり、教育的・啓発的思想なりという附加価値を加えて情報パッケージ化する作業である。

だから例えば、坂東眞砂子が現地で他人が行っている子猫殺しの習慣を目撃してこのような極端な論理を展開したのであれば、批判はあってもそれは一種のブンガク的な情報パッケージとして成立したことだろう。そのような非道な習慣に切歯扼腕する愛好家の苦痛は喚起しただろうし、坂東眞砂子自身の思想も批判されただろうが、むしろ問題の核心は同地の野蛮な習慣をどう改善するか、という社会的な方向に向いただろう。

極端なことを言えば、自分の行いを他人のこととして書いていたとしても、まだこれほどの問題に発展しなかったかもしれない。要するにそれは、表現の実態において世界の残酷さに対するロマンティストの無神経なコメンタリーと見えるからである。

それは、表現者の誠意や事実関係の問題に「すぎない」のであって、子猫を常習的に殺している人間は、残念ながら坂東眞砂子だけではない。無辜の生き物を非道に虐殺する者がまだまだ大勢いるという世界の残酷な現実一般に坂東眞砂子という個人の行いも溶融していくのであり、そのような世界の残酷な現実に坂東眞砂子という個人が荷担しているか否かという事実関係の問題や犯罪摘発の問題に収斂していくのである。

そして、人間には世界中に無数に存在する動物たちの苦痛を抜本的に救済することは出来ないのであり、そのような理想を掲げてそのために少しずつ微力を尽くし社会を漸進的に変えていく以外の選択肢はないのである。

その意味で、遠い異国で無辜の動物が苦しんでいる現実が紹介されても、その事実に無力感や苦痛は感じても、その現実に対して無責任なコメンタリーを加えた人間を憎む行為それ自体には問題の核心はないし、それが坂東眞砂子個人の犯罪であるか否かというのは個人の裁きの問題である。つまるところ、ある犯罪者の非道を憎むという個別的な倫理感情の問題に収斂するのである。

世の中には、自分がやったことをさも他人事のように語る人は大勢いるのだし、その逆も大勢いる。それが今回の件のように由々しき犯罪行為でもない限り、その真偽を質すことが出来ないことのほうが多い。まあ、幾ら何でも「タヒチでは常習的に子猫を殺す習慣がある」「そういうことをやっている人を見た」と書いたらそれなりの問題に発展していずれはバレたとは思うが、「何だよ結局自分でやってたんじゃん」という「事件性」の文脈で騒がれて落着しただろう。

例えば、この件について片っ端からブログを読み進むうちに、作家・佐藤亜紀氏のブログに行き当たったが、この人物についてまったく予備知識はないものの、おおむね当ブログの見解に近い意見でたいへん共感を覚えた。

だが、この文中で挙げられている彼女の友人の子猫殺しのくだりに接して、ご本人には申し訳ないのだが、一瞬「ひょっとしてこの人が…」と疑ったことは事実である。公人である以上、本来はこの方の人となりを理解した上で判断すべきことで、たいへん失礼なことを申しあげていることはわかっているのだが、単に検索の結果行き当たった見知らぬ人物の文章である場合、このような不気味な猜疑心が程度の差こそあれ附き纏うものである。

このように、「オレの、あたしの友だちが」という話は無前提に接するとかなり胡散臭く響くものである。ひょっとして作り事かもしれないという可能性もあるわけで、実際にエッセイや身辺雑記の類にはその種の虚構は幾らでもあるのである。例えば、タモリが「オレの友だちにこういう人がいるんだけど」と前置きして始める話は、自分の話であるか即興の作り話である場合がかなり多いらしい(笑)。

それとは逆に「オレが、あたしが先日これこれのことを」という話もまた、他人から聞いた話をわがことのように語っている可能性もあるわけで、当事者性において語ったほうがおもしろかったり話者の得になるなど、この種の粉飾の例はかなり多い。

勿論、この場合、例に引いた佐藤氏の談話がそうであるという意味では決してないことは幾重にも強調しておく。

そういう意味では「子猫殺し」の話も、他人の話をこのような論旨で正当化した場合はアテクシ女の不見識なお説教にしか見えず、応分に顰蹙を買ってオシマイだが、自身の当事者性において語った場合はインパクト絶大、何しろ自身の手で愛する者の命を奪うという勝手なトレードオフの重みがあるのだから、ということはあるだろう。

夥しいブログの意見を片っ端から視ていっても、このコラムに書かれた子猫殺しの事実を「他人の話ではないか」「作り話ではないか」と疑う人間は極々少数派で、大半の論者が「当人が行っている事実である」との前提で意見を陳べている。ある意味、それを額面通り事実として真に受けていいのか、という観点はあり得るだろう。

だが、こう言ったからといって、オレがこの話を他人の話や作り話と疑っているという意味ではない。そのような想定は事実関係においては可能性のない話ではないが、実質的な観点ではまったく意味がないからである。如何に他人の話や作り話である可能性が無視できないとしても、公人としての発話である以上、当人が行っている事実であるという前提で論じるべきだと考えるからである。

先ほど陳べたように、著名な文化人のエッセイや身辺雑記には、他人から聞いた話や虚構が多いことはどうやらオレの見聞の範囲では事実である。しかし、それは「そういう文章は話半分に聞いておくべきもの」という意味ではない。

それなりに信用のある文化人が、一旦自身の著述や講話において自分の体験記としてそれを語った場合、それが事実関係において自身が関与していない与汰話だとしても飽くまで自身の体験としての責任を負わねばならないということなのである。

坂東眞砂子がこのような没義道な行いを自身の行為として公に表明し、剰えそれを正当化する主張を展開した以上、現時点におけるような大問題に発展した後に「あれは全部作り話でした」とか「ホントは他人がやってるのを視ただけなんです」と釈明したとしても、物書きとして如何ほどもその責任が軽減されるわけではない。

そこで軽減されるのは、子猫殺しの犯罪者としての刑事責任だけであり、犯罪そのものを不特定多数に対して無責任に教唆した責任は免れないだろう。この時点でこの文章はここで描かれている虐殺行為一般に対する責任を負ったことになるのである。

社会規範に対立する個人的ロジックに基づいて行われているこのような犯罪行為を正当化するのであれば、他の犯罪者の個人的ロジックもまた同様の原理において肯定されるのである。それは単に犯罪者側の個人事情を過剰に重視する考え方だ。

そして、自身の手で行った虐殺行為の持つ事実としての重みや衝撃性、当事者性を利して公開の場で持論を展開している以上、それは公人的現実において事実である

おそらく司直の捜査の手が入った段階で坂東サイドがやりそうな言い訳は、作り話や他人事でないとすれば、「一回か二回やったことを誇張して書いただけ」「大半は引き取り手を探していたが、どうしても売れ残った子だけ『始末』していた」という辺りに落ち着くのではないかと予想しているが、たとえそれで情状酌量や実刑の免除が望めたとしても、物書きとしては完全に事実として厳しく断罪さるべきである。

このコラムの存在は、過去に起こった同種の事件や、将来に起こるであろう同種の事件一般、そして拡張的な意味では犯罪一般を原理的に肯定するものである。社会通念や社会感情一般に対する挑戦、他者の苦痛に対する当事者的動機の優越、これを公に表明する以上、「当事者的理由のある犯罪行為一般」を原理的に肯定することになる。

動物虐待に限って言っても、当事者の愛に基づく行為ならどんな非道なことをしてもいいと言明しているということである。それは、坂東眞砂子当人以外にとっては何ら意味的差異のない「やった奴の理屈」「盗人の三分の理」にすぎないからである。

この原理に基づくなら、「残された我が子が不憫だから」という自分勝手で筋の通らない理由に基づく無理心中も肯定されるし、もしも先の大量遺棄事件の犯人が「私がいなくなったら誰も世話してくれないからいっそこの手で」という短絡的な動機を語ったとしても、それも肯定されるということになる。

当事者の心的現実においてそれ以外の選択肢がなかったから、というのは、少なくとも責任能力のある成人に対しては適用できない原理である。これは窮めて骨太で明瞭な社会生活の一大規範であり、「やった奴」の当事者性における勝手な都合を言い出したらキリがない。キリがないから、そもそも「やるな」というのが大原則なのである。

如何に「唯々諾々として決め事に従う」「社会主義国」の日本がイヤだからタヒチに逃げ込んだのだとしても、人間社会一般から逃避することは不可能である。それがイヤなのだとすれば、人間社会の存在を前提にした物書きなどという商売が成り立つはずがないのである。

これが坂東眞砂子の元々のフィールドであるホラー小説や、そこからの派生で語られた恐るべき愛欲の物語であるならば「アリ」である。

元々その種の文芸は、「やった奴の理屈」の当事者性が最大限に語り手に優遇される物語形式なのである。「愛しているからあなたを殺す」とか「愛しているからあなたの性器を切り取る」とか「愛しているからあなたを食べる」とか「愛しているからあなたを解剖する」とか、強烈な愛情が対象となる者を害さずには措かない異常な当事者性が極限まで物語世界内で優遇されるが故の恐怖を描く文芸形態である。

だが、普通一般の日常性のレベルでは、それは名実共に散文的な犯罪行為にすぎないのである。ブンガク的ロマンティシズムにかぶれて日常生活を生きることは、当事者以外のあらゆる人間にとっては下世話な犯罪という以上の意味はない。

日常性とは、どちらか一方の当事者性を過剰に重視しないという公平性の建前で成立するものなのだし、日常的な散文性とはそのような公平性によって極端で非道な行為が許されない平和を言うのである。

そして、文芸の非日常性が称揚されるのは、別段それに日常性に優る真実としての価値があるからではなく、日常性の埒内においてその日常の自明性に対する不安感を極端なかたちで実現し、さらにはそれが虚構であることを保証することで日常の安穏への回帰のモチベーションを発生させ、読み手に満足感を与えるからである。

簡単な言い方をすれば、文学的な当事者性の突出というのは「面白いお話」だから意味があるというだけのことなのである。本当を言えば、「やった奴の理屈」という当事者性には、それ自体面白いところなんてないのである。要するに、文学的な極限状況における人間の真実など、「割と為になるネタ」という以上の意味はない。

「やらない奴」の日常性に対する自明な信頼を揺らがせる装置として「やらない奴」視点における他者である「やった奴」の当事者性が誇張して語られているだけの話で、現代における普通一般の優秀な文学者はこの辺の弁えが直観的に出来ているものだ。

坂東眞砂子のコラムの異常性は、そのような恐怖(ホラー小説に限らず、文芸一般が具える迫真力としての恐怖)を描くべき立場にある作家が、この場面で「やった奴」という「あっち側」の人間の立場を演じ、その身勝手な当事者性を破綻した論理で正当化していることにある。

これはもう、嘘も隠しもなく「イライラしてやった」レベルの犯罪者の身勝手な動機の告白と何ら意味的差異はないのである。たしかに文学というのは「太陽が眩しかったから」人を殺した人間の当事者性を緻密に描くものではあるが、この場合、そこにこの当事者性を見詰める語り手としての客観的な視点がない。語り手自身が当事者なのだからそれは当然である。

この辺に物書きとして決定的にダメダメな錯誤があると思うのだが、まともな文学における異常者の当事者性というのは、メタレベルで視るなら別段正当化されているわけではないのである。愛故に対象を残酷に滅ぼす異常な現実を描いたからといって、その作者が日常的な意味においてそのような愛欲の在り方を肯定しているわけではない。

それは人々の日常において畏怖と戦慄を催させる不条理だからこそ作家の想像力の対象たり得るのである。そこに内包される真実は、飽くまでフィクションであることを第一要件として成り立つものである。

チェスタトンは詩人と狂人のスリリングなアナロジーを得意の逆説を駆使して一編の読み物に仕立てたが、たしかに文学者も異常犯罪者も異常な現実によって日常性を震撼させるという意味では類似しているが、文学者はその想像力によって虚構として異常な現実を紡ぎ出し、異常犯罪者はそれを単に実行するという超えられない断絶がある。

坂東眞砂子は文学者を何らかの意味で特別な人種と妄想しているのだろうが、仮にそれが事実だとして、その特別さは「犯罪を犯すことなくそれと同種の虚構のインパクトで日常性を揺るがす」ことを良識的な職能として為し得るから生じるのである。

実際に犯罪を犯しておいてそれを正当化するだけであれば、それはただの「万引の言い訳」である。自らの手で実際にやってしまった非行の言い訳など子どもにだって出来るのであり、そんな誰にでも出来ることを比較的マシな文章(まあ、実際それほど大したものではないが)でやったからと言って誰も感心しないというだけの話である。

下世話な阿呆の散文的な「万引の言い訳」からも特殊な意味性を引き出し、想像力を駆使して日常を異化するのが作家の本分であって、その作家当人が異常な犯罪を犯して稚拙な言い訳を口にするのでは、如何なる意味でも文学者失格である。

文学者であり続けるか、ただの犯罪者に堕すか。そこには超えてはならない断絶があるのである。

文学作品とは、飽くまで日常に生きる人間生活を中心軸に語られる意味的装置でしかないのであり、文学それ自体に日常の散文性に優る意味的価値などはない。「太陽が眩しかったから」人を殺すというのは、日常の観点から視て窮めて面白い「ネタ」でしかないのである。

そして、言ってみれば「面白いネタ」にも大変有用な意味的価値はあるが、それは子猫一匹の命の価値にも釣り合わない「観念」でしかないのである。本来なら、もしも坂東眞砂子がフィクション作品としてこのように考える人物の物語を語ったとしても、それを真に受けて常習的に子猫を殺す人物が現れたなら本末転倒なのである。まして作家当人がそのような人物であり、それを正当化するためにでっち上げたありふれたブンガク性なのであれば、それにはどんな意味もないだろう。

文学とはたしかに有用なものではあるだろうが、子猫を殺す行為を正当化し得るほどの価値はない。坂東眞砂子の行為は、日常的な生活感情の故にやってはならないことをやらかした当事者の「盗人の三分の理」を語ろうとした失敗作でしかない。

これまで語ってきたような坂東眞砂子のメンタリティを前提にすれば、現在ネットで盛んに紹介されている過去の彼女の公的発言の意味も見えてくる。

例えば「子猫殺し』直木賞作家 背景に『日本嫌い」と題された記事中で語られている「現代都市生活では獣の死骸はまず見ない。(略)都市とは。死を排除された空間だ」という一文は、要するに動物の死骸が日常的にゴロゴロ転がっている(と本人が語る)タヒチに住んでいる坂東眞砂子には、動物の死骸が見えないように隠されている日本の人間よりも生と死の真実が見えているという意味だろう。

例えば「渋滞に甘んじる心理は、社会の流れに唯々諾々と従う心理に繋がる」という一連のくだりは、渋滞を当然のことと受け容れずにタヒチに逃避した自分だけがその真実に気附いているというアピールだろう。その前置きとして、タヒチで渋滞に巻き込まれた経験を語っているのは、後述の通りとんだお笑い種であるが。

例えば「私の男友達は、常々『日本は世界で最高の社会主義国だ』と言っている」という一連のくだりは、そんな日本を逃げ出した自分だけはその真実に気附き、個人の自由な主張を犠牲にしたくないから逃げ出したと暗に誇っているわけである。

この記事は「日本という国に、日本という社会に精神的にいられなくなってタヒチで暮らすようになった」という当人の言葉で締め括られていて、この記事の解釈ではこれらの坂東眞砂子の発言は「日本嫌い」という言葉で括られているわけであるが、よく考えてみれば「日本」という特定の対象を指向する意味すらないのである。

これらの発言はすべて、「日本のような不自然な国を逃げ出してタヒチに在住している自分の物の見方は特別に正しい」という自己正当化の論理に貫かれている。

例えば「現代都市生活では獣の死骸はまず見ない」というのは、単に緑豊かな高知県佐川町で生い育った坂東眞砂子にとって、動物の死骸を視るのはイヤではないというだけの話である。自分がイヤでないものをイヤがる人々を、高みに立ってせせら嗤い批判しているのである。

自分が幼少期に育った田舎町のように動物の死骸がゴロゴロ転がっている(しつこいようだが本人談)タヒチの在り方こそが世界の本来の姿であって、ご清潔に清掃されている東京のような大都会は不自然でおかしいと断罪しているのである。南海の楽園で自然と共に在る生活を営んでいる自分には、都市生活者には見えない生と死の真実が見えていると誇っているのである。

例えば「私の男友達は、常々『日本は世界で最高の社会主義国だ』と言っている」というくだりで言っているのは、他人に合わせて自己中心的なワガママを控え、あくせく働くのは窮屈でイヤだという、誰でも感じるような生活感情なのである。

日本の社会がどうこうという問題ではなく、基本的に社会で働くということの本質はそのような種類のイヤさと裏腹のものである。ミラノ在住時の経験を元にしたエッセイでデビューし、童話作家やホラー作家を経て直木賞作家に成り上がり、現在世界有数のリゾート地でワイルドライフを満喫している坂東眞砂子の経歴を考えると、タヒチに移住するまではかなり営業活動で苦労したことだろう。

例えば文壇における賞取りレースは決してきれい事ではないのだが、坂東眞砂子は一応各ジャンルにおいてそれなりの賞歴を獲得している。ライター時代は出入り業者と見下され、童話作家時代はジャリ向け小説と見下され、ホラー作家時代はゲテモノ小説と見下されながら、それぞれのジャンルで大きな賞を獲っているのだから、それこそ他人に合わせてワガママを抑えながらイヤな附き合い事もあったのだろう。

そんな経験が不愉快でイヤだった、今は成功して海外に在住しているから窮屈な想いをして他人に合わせる必要がない、だから今現在そうでない人々の在り方が不自然でおかしいと批判しているというだけの話なのである。

例えば渋滞のくだりなど、結局言いたいことは「渋滞はイヤだ」という誰でも感じている生活感情なのである。その前置きにタヒチで渋滞に巻き込まれた経験が語られているのはお笑い種で、例えば渋滞に巻き込まれたドライバーが「まったく、なんでみんなそんなにクルマに乗りたがるんだよ」と口走ったとしたら、

それはおまえがクルマに乗ってるのと同じ理由だ

と一千万人が突っ込むだろう。

実際、渋滞に遭って「社会の流れに唯々諾々と従う」のがイヤでタヒチに移住したはずの坂東眞砂子自身がクルマに乗って繁華街に出かけているのだから、それは通勤電車で満員の人混みに圧し潰され「なんでみんな同じ時間に電車に乗るんだ」とボヤいている間抜けと同じことだ。「社会の流れに唯々諾々と従う」のがイヤなら、クルマに乗ってみんなが行くような場所に出かけなければいいのである。

それでは暮らしていけないというのなら、彼女以外の誰にとってもそれは同じことなのであって、それがイヤだというのは社会がどうこうというご大層な問題ではなく、人がいっぱい住んでいるところは移動が不便だというだけの簡単な話なのである。東京だろうがタヒチだろうが、人がいっぱい住んでいてモータリゼーションが進んでいる領域は渋滞するのが当たり前なのだ。

これは要するに「自分以外はクルマに乗ってパペエテに行くな」と言っているのと同じことなのである。この種の自己中心的な無理圧しは所謂「関西のオバチャン」が得意とするところではないか。それが坂東眞砂子の手に掛かると「渋滞は、人が自由に生きたいと思う欲求を無意識に潰す効果を生み出している」という尤もらしいありふれたお説教に早変わりするのである。

つまり、これらの坂東眞砂子の発言の背景にあるのは「日本嫌い」というご大層な主義主張ですらないのである。今現在彼女が、数々のイヤなことから逃げ出してタヒチに住んでいるという事実を前提に、自分のイヤなことは貶め、自分のイヤでないことを称揚し、併せて自身の特権性・優越性を強調するという、幼児的な自己中心性なのである。

簡単に言えば、自分のイヤなことからは理屈を附けて必ず逃げ出す、むしろ逃げ出してからそれに理屈を附けてさもそれが高邁な選択であるかのように強弁しないと気が済まない性質の人間だということである。これはもう、剰りにわかりやすいオバチャンイズムなので、海外逃亡して威張っていただけなら笑い事でしかなかったのである。

だが、以前のエントリーで語ったように、今回問題となった子猫殺しという行為はこのような快不快の感情とイヤなことから逃げ出す幼児的な自己中心性、そしてそれを場当たり的なブンガク的修辞によって正当化しないと気が済まない醜い自尊心を根に持っているというのがオレの考えであり、それはこれまでの彼女の公的発言に一貫した性質であって、決して笑い事では済ませてよい事柄ではない。

坂東眞砂子式にこの異常な事件から教訓を引き出すとしたら、現代社会における異常犯罪は悪から生じるのではなく、怯懦や怠惰から生じるのだということだ。

それなりに苦労して文壇の序列をステップアップした人物の、嘘も隠しもないその辺のオバチャンとしての散文的な幼児性は、イヤなことから逃れ逃れたその果てに、始末に困った子猫の常習的な虐殺にまで発展した。

生きるということには楽しいことと背中合わせにイヤなことも附き纏うのであり、イヤなことをしないで済む生活などはあり得ない。

海外在住の作家先生には他者と協調してあくせく働くことを批判する資格はない。クルマに乗って用足しに出る人間に渋滞を批判する権利などはない。物書きという最高度に文明社会に依存する人間に文明社会を全否定する資格はない。

上に掲げた坂東眞砂子のご大層なご高説をすべて整合させるなら、タヒチの山奥で生きるに十分なだけの家屋を自らの手で拵え、日に一度重い瓶を負い水汲みに出かけ、魚を漁るか地を耕すかして自らが生きるに足るだけの命を奪い、夫との交わりから生まれた命をすべてその方式で養うしかない。

だが、そんなご高説を真に受ける必要などさらさらないのである。

彼女は単にイヤなことをいっさいしたくないだけなのだし、
そのことで他人から蔑まれるのもイヤなだけなのだから。

|

« 坂東眞砂子の怪 | トップページ | 「週刊ポスト」擁護論の不審 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/11617216

この記事へのトラックバック一覧です: 坂東眞砂子の「三分の理」:

« 坂東眞砂子の怪 | トップページ | 「週刊ポスト」擁護論の不審 »