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2006年8月30日 (水曜日)

「週刊朝日」所有の傲慢

本人キターーーーーーーーーーーー!

というわけで、しつこいようだが坂東眞砂子の話題が続く。何しろ、本人直々のコメンタリーということでは日経、高知新聞以来のことであり、週刊誌ということもあって比較的ヴォリュームもある文章なので、今回は表題通り週刊朝日掲載の「所有の傲慢」と題された坂東眞砂子自身による寄稿について話をさせていただこうと思う。

この記事については事前に掲載情報を得ていなかったので、ネットの報告を聞き附けて慌ててコンビニに買いに走ったわけだが、まあ、週刊ポストのような特集記事ならともかく、ヘッドラインの一本という扱いではそれも仕方あるまい。

TVメディアではまだ二回しかこの件に触れられていないのだから、むしろ週刊朝日の扱い方のほうが世間の認知度からすれば妥当だろう。ただ、動物虐待事件というカテゴリー自体は幅広い視聴層において関心度が高いテーマなので、TVメディアで二回しか触れられていない現状のほうがおかしいという言い方も出来るだろう。

さて、この記事で判明した新たな事実は以下の通りで、これは坂東眞砂子自身の寄稿の前説として、記事の地の文で説明されている。

1 子猫殺しは当初男友達ミシェル氏?説明なしに依頼していた
2 罪悪感
他人任せにすることの?があり自分の手で行うことにした
子どもはいないが、わが子を殺すかのように気が動転する

これはなかなか思い切ったことを言ったもので、「男友達」というのが、まとめサイトで「夫」と紹介されているジャン・クロード・ミシェル氏を指すのであれば、歴としたフランス人が子猫殺しを実行していたということになる。

タヒチネイティブの現地人の宗主国に対する政治感情は識らないから、もしもフランス国内法に規定された動物虐待の禁止に対して、ネイティブの反撥や無頓着があるとしても外国人であるオレたちが簡単に意見を言うわけにも行かないが、少なくともフランス人がフランス国内法に抵触する行為を実行していたというのはまずいだろう。まあ、何れにせよ法律で禁止されている行為を実行していたのは自分だけではないという意味のことを漏らしているわけである。

だが、男友達に依頼していた「子猫殺し」というのが単に「子猫を殺すこと」という意味であって、「崖から投げ捨てること」そのものを指しているとは限らないということも考えられるだろう。つまり、法律に則って資格者に安楽死を処置してもらっていたのかもしれないし、それならつまり前回のエントリーで語った「保健所による殺処分」と法的な位置附けは近いということになる。

この想定に基づけば、まさに坂東眞砂子は資格者による安楽死を潔しとせず、「自分の手で殺せるのか」という逆説的な設問に接して本当にそれを実行してしまったということになる。

これが容認し得る選択肢ではないことは前回のエントリーで語った通りである。最終的な安楽死を避け得るような客観的な選択肢が存在するにも関わらず、心情的な理由に基づいてそれを忌避した結果が安楽死だとすれば、それは飽くまで身勝手な個人的理由で子猫を殺す行為であることに変わりはない。「要らないから棄てる」という身勝手な行為と何ら選ぶところはない。

また、その「身勝手な個人的理由」にも関係してくることではあるが、坂東眞砂子自身の子どもの有無については、これまでネット上でも確たる情報が紹介されていなかったのだが、これで一応本人の口から今現在子どもがいないという事実が明かされたわけである。

坂東眞砂子、現在四八歳。所謂「マル高」を疾うに越えた年齢で、常識的に言って今後妊娠出産という事態にはまず至らないだろう。ただ、本当に情報はこれだけなので以下の何れの条件に当てはまるのかはわからない。

a 出産経験はあるが子どもが夭逝
b 坂東もしくはパートナーの肉体的・体質的・心情的な理由による不妊
c 計画的な避妊

まあ、常識的な話をするなら、他人の個人事情や家族計画に纏わる問題を詮索することは下司な行為であり、本音を言えば個人的な興味はまったくない。ただし、それを本人が殊更に違法行為の心情的理由附けとして持ち出さなければ、の話である。

無用に他者の個人事情を詮索することが下司ならば、公人としての側面や社会との接点においていたずらに自身の個人事情を振り翳すことも同様に下司な行為である。今回採り上げる「所有の傲慢」文中においては、殊更に自身に子どもがいないことを今回の一件の理由の一つとして強調してはいないが、遠回しにそのことを匂わせてはいる。

仄めかしに留まる裡ならまだしも、ハッキリ言葉に出して語られるようなら、如何にデリケートな個人事情であると雖も、それが公人としての言動や社会との接点における問題について語られる事柄である以上、遠慮会釈なしに議論の俎上に載せられることは言うまでもない。ましてや、議論の対象となるのは明白な犯罪行為である。

例えば窃盗を犯した者が「貧しさに耐えかねてやった、世間が悪いんだ」と釈明した場合に、その貧しさが自身の賭博癖や酒癖によるものなら、まあ莫迦な人間の見当違いな逆恨みということになる。勿論、基本的に貧しいからと言って窃盗を犯していいということにはならないのだし、その上で敢えて個人事情を持ち出して釈明するなら、それは自身の個人事情を晒しその妥当性に基づいて酌量を期待するということである。

まあ、オレのジャージのポッケに偶々入っていた二五円を賭けてもいいが、この次の段階の釈明や手記があり得るのであれば、おそらく坂東眞砂子は必ず自身の個人事情を持ち出してくるだろう。子猫殺しという行為が感情的な面で反撥を呼んでいると解釈するなら、その反撥を鎮めるのは同じく感情論レベルの事情だからである。

かなり最初の段階から当ブログで仄めかしている「不妊症の可能性」がもし事実であるとするなら、坂東眞砂子の不妊手術に対する感情的反撥を批判することは随分やりにくくなるはずである。何故なら、世の中にはかなり大勢の不妊に悩むご婦人やご夫婦が存在するからであり、坂東の感情を批判するにはそのような人々の感情についても配慮する必要が付随してくるからである。

※因みに、当ブログでは一貫して「不妊手術」というタームを使用しているが、これは家畜の不妊化処置一般を指す雌雄共通の用語であり、「避妊手術」と称する場合は雌に限られ、「去勢手術」と称する場合は雄に限られる。以上、この三つのタームで検索すればすぐにソースは出てくる。

勿論、筋から言えばそんなことは子猫殺しの行為を幾許かでも酌量する根拠にはならないだろう。何度も強調する通り、猫を飼う以上、不妊手術を施すか産まれた子どもすべてに生を全うさせる以外の選択肢は存在しないからであり、存在しない選択肢である子猫殺しを実行したことにこそ坂東眞砂子の犯罪行為の本質があるからである。

それが単なる意見に留まるのであれば、それは考慮の余地があるだろう。感情的な苦痛を堪えて不妊手術を施したが、どうしてもそれが妥当な選択とは思えない、或いはそれが出来ないから結果的に愛猫を手放す羽目になった、その上で言論という穏当な手段によって問題提起していたのであれば、批判はあっても議論の余地はあっただろう。

だが、坂東眞砂子問題の焦点は、飽くまで違法な殺害を常習的に犯した上での自己正当化という生臭い事件性の部分にある。これは決して見失われてはならない決定的な固有事情なのである。

人間には須く言論の自由があるし、どんなにアモラルな問題であれ、今現在違法とされている選択肢であれ、その是非を巡って議論を行う権利がある。だが、そのような議論を行う必須要件とは、決して今現在禁じられている行為を実行しないという健全な社会人としての弁えである。当人が違法行為を犯してしまうのでは、たとえどんな妥当な言説を表明したからといって、それはすべて個人的な利害の問題に収束してしまう。

今回の坂東眞砂子のコメンタリーも、坂東眞砂子個人の利益を防衛する目的とコラムの論旨の正当性を主張する目的が不潔に混乱していて、整合した論理を読み取るのがかなり難しいものとなっている。だからこそ、言論人は何かを公に論じる場合はその何かから客観的な距離を保ち身を慎む必要があるのである。

現状の法律がおかしい、社会通念が間違っている、そのような問題意識に基づいて問題提起を行い、議論を喚起すること自体は何ら責めらるべきではないし、むしろ公に表現活動を行う者の使命ですらあるだろう。

だが、現行の法律や社会通念が間違っているからと言って、それを犯すというのはまともな言論人の考えることではない。坂東眞砂子は、自らの行為によってその問題を冷静に論じる機会を暴力的に潰しているのであり、これは言論人として最も愚かな選択に他ならない。

とにかく、坂東眞砂子の次の挙動に注目しておられる方々は、上記の予測をちょっと頭の片隅に置いておかれると些か愉快なことになるだろう。

現在四八歳の子どもを持たない女性が、「セックスをして子どもを出産するのは動物の雌にとって生の充実」「生の経験」という多分に強迫観念に基づく意見を表明しているのであり、それは普通の意味では整合しない二項である。その不整合が予想通り自身の個人的な不妊によるものであるのなら、一個人としては気の毒な話ではあるが、文学者としては軽蔑する。

そのような境遇の女性が大勢いるからこそ、「セックスをして子どもを出産するのは動物の雌にとって本来的な生の充実」という泥臭い前近代的な考え方からパラダイムシフトが進んでいるのである。

「嫁して三年子を成さずば」という旧弊な風潮に悩まされて思うように生を謳歌出来なかった女性が大勢いるからこそ、その経験だけに女性の生の充実があるのではないという考え方が浸透してきているのである。妊娠や出産に対する女性の関心が若干薄れてきているのは、坂東眞砂子が言うように皮膚感覚がどうたらとかいう薄っぺらな小理屈の故ではないのであり、そのような社会情勢に対する理解がまったくない。

動物の雌と人間の女性を重ね合わせてセックスや出産の個人的ルサンチマンをぶちまけているだけなら、女性文学者としては三流もいいところである。まして、それを動機として非常識な犯罪を犯し、それを公人としての言説で正当化していたのであれば、ただのお笑い種である。同じような境遇で、そんな卑劣な行為を犯さずに全うに生を充実させている人は幾らでもいるのであり、それを自分だけが真摯に格闘している文学的命題だと考えているのなら随分お目出度い幼稚な人としか言い様がない。

だから、今の裡に宣言しておくが、今後坂東眞砂子が今回の件に関して個人事情を持ち出したら、遠慮会釈なしに嘲笑って差し上げてかまわない。世の中には不妊だというだけで犯罪を犯す人などそうそういないのだし、それを問題提起に事寄せて正当化する人はもっといないのである。

前置きだけで随分長くなったので、この辺で実際に坂東眞砂子の手記自体を視てみることにしよう。

この文章で坂東眞砂子が論じているのは、愛玩動物として生き物を「所有」する人間の傲慢さである。その上で、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。産まれた子を殺す権利もない」という意味のことが言いたかったのだと釈明する。

そしてそれは、人間の勝手な思い込みで動物を自然状態から引き剥がし、生殖機能を奪い取っておいて、それで正しいと考えていていいのか、と続く。生殖機能は肉体的な事柄だけを言うのではなく、「生きる意欲や、活力、発展、成長といった豊穣性に通じる源」という坂東の持論が語られる。

そこでさらに、坂東自身がペットを飼うことに対して「内心忸怩たるものを抱えて」いると続け、それは愛し愛されたいという欲求が人ではなく動物に向かうという対人関係における問題を示しており、それは日本のペットブームにも通じる問題だとする。

その問題を抱えたままペットに避妊手術を施すことは出来ない、愛し愛されたい、生きたいという彼らの希求に対して止めを刺すことに繋がるからだ、それを飼い主だからと言ってそのような生き物の豊穣性を犠牲にすることは間違っていると叫びたくなる、このように結ばれる。

随分わかりにくいことを書いたものだが、これをオレの解釈でザッと纏めると以下のようになるだろう。

・まず、避妊手術も子猫殺しも同様に人間には行う権利がないのだから、避妊手術も子猫殺しもどっちも正しくない。自分の行為が正しいという主張ではない。

・それはつまり、愛玩目的で動物を飼うということは動物の豊穣性を奪うことで、それがそもそも間違っているからである。

・それでも自分が、間違っていると識りつつ遺憾ながら動物を飼っているのは、それは人間ではなく動物に愛が向いてしまうという対人関係上の問題があるからだ。

・今の日本のペットブームも、自分と同じような問題があるのではないのか。

・自分がそのような問題を抱えたまま避妊手術を施すことは、動物が本来持っている本然を断つ行為であり、到底出来ない。

・それを人間の都合でやっていいという考え方は間違っていると思う。

まあ、おそらくその内にどこかに原文が転載されるだろうし、雑誌自体当分購入可能だから入手して原文に当たっていただくとして、こうして纏めてみるとそれほど極端に間違ったことは言っていない。問題は、これを語っているのが坂東眞砂子という事件の渦中の当事者であるということなのである。

愛玩動物として猫を飼うのは、猫を飼うという習慣が社会良識に照らして公序良俗に反しない行為だからである。その前提として、すでに愛玩動物として品種改良されたイエネコという不自然な種が人間社会の内側に存在しているという事実がある。このイエネコという生物種は家畜であって野生というものが本来喪われている。

家畜である以上、本来計画繁殖によって全数がコントロールされ、何らかの有意な用途に使役されなければならない。しかし、イエネコの知能にはイヌほどの学習能力や訓練可能性、ストレスへの適性がないため、飼育形態として従来外飼いが基本であった。そのために、不妊手術が安価に普及するまで人間はイエネコの計画繁殖には成功していなかったわけである。

イエネコの飼育を論じる際にまず確認さるべき大前提は、これが歴史的な事実であるということである。イエネコという家畜種は、昨日今日野生状態から連れてこられた生物種ではない。ほぼ推定四〇〇〇年程度の時間を掛けて徐々に家畜種として定着した生き物である。坂東眞砂子が自宅の愛猫の上に重ねて視ているのは、そのような四〇〇〇年の歴史の「結果」としての一頭の家畜の個体なのである。

※これは八月三一日のエントリー「一万年の蜜月」で触れている通り、オレの記憶違いで実際には一万年の歴史がある。

普通一般の猫飼いが猫を飼うのは、そのような歴史の結果として、今現在人間と共に暮らすことを常態とする生物個体として、人間とイエネコとの附き合い方が定式化しているからである。つまり、人間とイエネコが共に暮らすというのは、人間にとってもイエネコにとっても当たり前の常態である。

人間というもの、イエネコというものを、肉体の個別性の範疇で考えるから、自然・不自然という二項対立を考えるのである。人間というのは、たとえばイエネコなりイヌなりという家畜に幾許かの心理依存をすることで精神的な健全性を保つ生活様態を持つ生き物であり、イエネコやイヌはそのために家畜化された生き物である。本然ということでいえば、それが人間の本然であり、イエネコやイヌという家畜の本然である。

家畜化という歴史を踏まえるのであれば、今現在の個体であるイエネコやイヌの本然的な自然というものは存在しない。イヌなどは有史以前に遡る、イエネコとは比べ物にならないくらい長い家畜化の歴史を持っているので、イヌにおいては愛玩目的というのは数多くの使役用途の一つであるにすぎないが、今現在のイエネコにとっては愛玩という目的以外の使役用途は存在しない。

そのような使役用途に従って繁殖され飼育されているから、都市にはイヌやイエネコが多数存在するのである。人間に飼育され、使役されることによって食糧を得るというのは今現在のそれぞれの個体にとってすでに本然的な生活様態である。

その意味では、イヌもイエネコも馬も牛も豚も鶏も家畜であるという意味ではまったく人間との関係性の意味は変わらない。イエネコの場合、愛玩目的以外に使役用途が存在しないために若干その他の家畜動物と変わって見えるだけの話である。

人間との関係性において均しい家畜という本質が共通の前提であれば、その飼育の是非を論じる場合に基本的な基準となるのは、飽くまで人間視点における使役用途の妥当性である。つまり、その動物を飼うことが人間にとってどれだけ有用なのか、その有用性には動物を家畜化するに足る妥当性があるのか、そういう問題になるのである。

動物側の生の充実や経験が基準となるのであれば、そもそも馬も牛も豚も鶏も人為的に繁殖させたり飼育すべきではないだろう。喰うという目的を尊重するとしても、動物の生の充実が基準となるなら、野生状態で思うがままに生きている生物をその都度狩猟によって調達すべきだという話になって、愛玩目的だけを特別視するに当たらない。

坂東眞砂子がドライブの途中で「しめた」と猫ババして食用に供している鶏は、別段野生生物が偶々事故に遭ったわけではなく、その辺の民家で放し飼いにされていた個体がクルマに轢かれただけである。その辺の民家で食用に供するために放し飼いにされていた鶏の生の充実というのは、やはり考えなければならない問題なのだろうか。

勿論、人間が他の生き物の命を摂取することで生きているというのは、他の何にも増して逃れ得ない生の桎梏だろうから、食用目的の家畜飼育を他の用途の飼育より相対的に上位に置くという基準はあり得るだろう。

だとすれば、豚、羊、鶏、この辺りについては、飼育目的が妥当であるということになるだろう。では、食用目的以外の使役についてはどうか。今はモータリゼーションが進んでいるのだから、馬を飼育する必要は絶対的には存在しない。馬は基本的に喰うために飼育しているのではなく、人を乗せて走らせるために飼育しているのである。そういう意味では馬の飼育は妥当ではないから、馬を飼う余地があるのであれば、その分豚でも羊でも飼育したほうがいいだろう。

また、人間は牛の肉など喰わずとも生きていける。それどころか、剰り識られていない事実ではあるのだが、牛肉というのは一種の発ガン物質である。牛肉を消化するための胃液の過剰な分泌が胃壁の潰瘍化を促し、豚や鶏などに比べて明らかな発ガンリスクがあり、「美味い」という以外に食物として優れた点はそれほどない。今更荷駄の目的で牛を使役する必要もないので、牛を飼育する絶対的な必然性は存在しない。牛の飼育もやめるべきだろう。

では、盲導犬や牧羊犬などのワーキングドッグはどうか。盲導犬の高等な知能と能力は今現在の科学力では代替出来ないし、そんな高等技術が全盲者一般に普及するほどコストダウンするにはさらに時間がかかるから、盲導犬はまあしょうがないだろう。

だが、牧羊犬の使役目的は煎じ詰めれば牧羊業のコスト面の問題に帰結するから、必然というわけには行かない。物凄く広大なエリアを囲い込んで人間が人力で羊の群をコントロールすればいいのである。かなり羊肉やウールの価格は高くなるが、それは牧羊犬の生の充実の尊さに比べれば絶対的な理由附けにはならないだろう。

狩猟犬など沙汰の限りの贅沢で、狩猟などしなくとも人間は生きていけるのだから、狩猟犬を飼育する必然性はまったくない。警察犬は必要かもしれないが、軍事犬の必要性は微妙だし、コンパニオンアニマルとしてのセラピー効果なんて、人間が人間のために頑張ればそれでいいじゃないか。

このように厳しく使役目的の妥当性をチェックしていけば、人間社会からかなり家畜を減らせるだろう。だが、その家畜種は単に人間社会から存在しなくなるだけで、野生に還るわけではない。イヌのような知能の高い捕食動物を野生環境に放出すれば、瞬く間に生態系が破壊されてしまう。牛だって馬だって野生化すれば在来的な生態系の序列が崩れるだろう。

だとすれば、現在存在する個体をすべて繁殖させずに飼い殺しにするのが精一杯人道的な処置ではあるだろうが、坂東眞砂子式に生の充実を重視するなら、野に放ってとりあえず好きなだけ繁殖させ生態系を破壊させるか、人間が片っ端から駆除していくしかあるまい。つまり、人為的に家畜種を絶滅させるのである。

種の保存目的にシフトしつつある動物園も勿論全廃である。種を保存させるためだけに動物を見世物目的で展示して狭い飼育舎に監禁することは動物の生の充実を奪う非道である。動物は所詮野生状態において滅ぶものは滅ぶに任せるのがいちばんである。

とまあ、ここまで長々語ってきたことは、勿論すべて無意味な夢物語である。

家畜から生の充実を奪わず人間の所有の傲慢を廃するというなら、こういうことになるという大雑把な思考実験にすぎない。人間の暮らしは劇的に変わるだろうし、人間社会の内側にはほとんど生身の動物は存在しなくなる。

坂東眞砂子が何をどう考えているか識らないが、人間社会の内側に存在するそれなりに大きな動物は基本的にすべて家畜かスカベンジャーである。猫程度の大きさの生き物でも、野生動物の群生ならば人間社会の脅威になり得る。犬なども野犬化すればたった一頭でも相当の脅威である。

人間のコミュニティーは、基本的に野獣を家畜化して内部に取り込むか駆除して外部に放逐する以外に存在の余地はないのである。そもそも、野生動物を賄うだけの人界から隔絶した野生環境など、いったいこの地球上にどの程度残されているというのか。

ハッキリ言って、動物一般の家畜飼育の是非を問うというのは、きちんとした研究に基づかない限り、かなり無謀な設問である。動物の家畜飼育にはどれほどの有用性があるのかという問題も、先ほどの戯れ言の思考実験のような単純な問題ではない。特定の家畜種が絶滅してからその有用性が更めて見直されても、今更遅いのである。

所詮人間が動物視点の生の充実を基準に家畜飼育の是非を考えても仕方ない。ならば家畜などすべて飼わずに、動物性蛋白質はすべて狩猟で賄えばいいのである。家畜化するということは人為的に計画繁殖させるということなのだから、坂東眞砂子の論理ではすべて生の充実を奪われているのである。

ある意味では、犬猫にも不妊手術を施すことが一般化してきたということは、犬猫にも家畜としてのコントロールが及ぶということにすぎない。牛や馬や豚や羊や、坂東眞砂子の大好きな鶏については、喰うという相対的に重要度の高い飼育目的があるから、最終的には殺して喰ってしまうのだから、生の充実に心を痛めないというのなら、犬や猫のそれだけを過剰に重視するのはやはりおかしい。

そもそも坂東眞砂子の論理では、猫を飼育することは間違っているということになっているのだが、それは本当にそうなのか。それを指摘する坂東眞砂子の論理はやはりどこかおかしい。人ではなく動物に愛し愛されることを望む対人関係上の問題があるからだというのは、どう考えても坂東眞砂子個人の問題にすぎないだろう。その連想上で世の飼育者全般を演繹されても正直言って迷惑である。

犬や猫を愛しても人間と健全な関係を保っている人は大勢いるのだし、むしろそういう人のほうが多いだろう。家族で一頭の犬を飼っている家庭はかなりの多数に上るだろうが、そのような家庭でもやはり対人関係上の問題を抱えているのだろうか。

基本的にこの一文で坂東眞砂子が語っているのは、坂東眞砂子個人が人間よりも動物に囲まれることで孤独を癒すことが出来るという歪んだ対人関係の暴露にすぎないのではないのか。その歪んだ連想で日本のペット事情一般を語ってしまわれてはたまらない。

しかも、最終的には何らの論理的筋道も提示することなく、動物の不妊手術を選択した飼育者を「どこか間違っている」と唐突に絶叫的に断罪しているのである。冒頭で不妊手術を行うことも子猫を殺すことも両方間違っていると言っておきながら、何ら理由を示さずに不妊手術を行うことの非だけを声高に叫んで締め括っているのである。

この問題に関しては、多くの論者が、愛玩目的で動物を飼育する行為が絶対的に正しいという前提で物を言っているのではないし、不妊手術を行う権利も子猫を殺す権利も人間にはないという坂東眞砂子の主張には一定の理解を示している。

だが、どちらか一つを選ぶしかないという場合に、子猫を殺すという選択肢はあり得ないという話をしているのである。不妊手術を行えばそれでOKなんて簡単に考えている飼育者は、おそらく坂東眞砂子のホカホカに温まった脳内にしか存在しない。

同じように絶対的に正しくない行為だとしても、無辜の命を「邪魔だから」という理由で奪う行為は許されないという話をしているのだ。その前提において、「子種を殺すことも子猫を殺すことも同じこと」だとは誰も考えない屁理屈だということである。

たとえば坂東眞砂子のこの理屈は人間の避妊論争とのアナロジーで語られているのだろうが、普通の意味での避妊論争は「人間を殺してはいけないのだから子種も殺してはいけない」という序列のロジックになっていて、「子種を殺すか人間を殺すか」というロジックは最初から想定外の筋道なのである。つまり、「子種を殺してはいけないのだから、まして人間を殺してはいけない」というのが当たり前の筋道だ。

避妊を禁じるような思想においては、当然のことながら産まれた命の間引きなどまして況や禁じられている。命を絶対視するという理論的バックボーンは一貫しているのであり、貧困故のバースコントロールの必要性という別の文脈のロジックを受け附けないというだけの話である。しかし、坂東理論においてはそこが整合しておらず、子種を殺すなという割にはその子種が具体的な命として結実した個体は殺すという、同一の基準内で撞着した論理になっている。

それは他の人間から視れば、イヤなことはイヤだと強情を張り、その頑迷さが招来する結果の始末に困って非道な行為に走った短絡的犯罪にしか見えない。そこにいっさい触れずに大括りな一般論を牽強付会して自分以外の人間を批判するのでは、単に逆ギレして自身の批判者を高見から裁いてみせただけの話である。これは表現を生業とする公人としては最大限に醜いアティテュードである。

世間一般の人々は、坂東眞砂子の語る「不妊手術の残酷さ」ということに対して、誰もそれほどヒステリックな反撥は覚えていない。幾ら不妊手術を施したほうが健康に長生きできると説明されても、その個体が子孫を残せなくなることに事故や病気などの天意ではなく人間である自分が自発的な責任を持つのは生理的にイヤなものである。腹を針金で酷たらしく縫合された飼い猫が病院から帰ってくると、そのまま死んでしまうのではないかと眠られない一夜を過ごすのである。

誰だってそのくらいのことは理解できるし、その意味ではまったく坂東眞砂子の主張に反撥していないのだ。

だが、それと産まれてきた子猫の殺害は、決して同じ天秤には乗らないだろうという話をしているのである。だからこそ、どんなに「人間ではなく、動物に愛し愛されたいと望む」という気持ちが理解可能なものだとしても、坂東眞砂子には動物を飼育する資格がないという話をしているのである。その選択は根本から間違っているという話をしているのである。

一般論として他の人間の行為が間違っているという話ではなく、坂東眞砂子の個別の行為が社会に容れられないほどに大幅に間違っているという話をしているのであって、この場面において他人を説教出来る立場ではないだろう。

自分の手で殺しているからと言ったところで、それこそそんな一方的な飼い主の自罰意識によって個人的な心情でしかない「納得」を贖っているだけ、坂東眞砂子のほうが無責任な飼い主一般よりもタチが悪い。

そこを何も語っていない以上、この一文は単なる仕返しにすぎないのだ。ここで語られているのは、坂東眞砂子を批判する人間の鈍感さであり、他人の飼育動物の扱い方に一方的に難癖を附けて見せただけの話であって、一般的な観点においてはそれより数段残酷で非情な坂東眞砂子の行為についての言及がまったくない。

ぶっちゃけ、「あたしを責めるおまえたちのほうこそどうなんだ」という口汚い逆ギレでしかないのである。正直言って、何故どのような根拠に基づいてこの人がこの期に及んで他者を高見に立って批判しているのかまったく理解できない。

このイメージを何かに喩えるとすれば、泥酔して散々乱暴狼藉に及び遂に警官のお世話になった酔漢が、警官に四肢を掴まれて「痛い、痛い痛い、人権蹂躙!」と恰も警官が非道なことを行っているかのように逆ギレする光景に近い。

前回のエントリーで語った通り、坂東眞砂子と他の無責任な飼い主との差異は一つしかない。自分の手で子猫を殺害しているというただそれだけの違いであるが、それ故に子猫の殺害を保健所任せにしている無責任な飼い主よりも自分がマシだということを言いたいのだろうか。

そればかりか、坂東眞砂子は執拗に不妊手術の残酷さや不当さを強調してみせているのだが、残酷さ不当さという尺度でいえば崖から乳飲み子を投げ落とす行為のほうがよっぽど残酷で不当だという普通の常識がない。それを正当化するために、猫を飼う行為一般を否定してみせたわけだが、ではそのペット飼育の現状を解決するためにどのようなビジョンを提示しているというのだろうか。

作家先生が世の残酷さに痍附いてみせたところで一匹の猫すら救えないのである。しかも坂東眞砂子は自分が猫を飼っているのは身勝手な愛故であることを明言しており、それ故に人間が猫を飼う行為一般を間違っていると断罪している。

では、そうではないやり方で猫の生の充実を実現する手段としてどのようなものを想定しているのか。それが子猫を殺す選択肢ではないことは明らかであって、彼女は自分が猫を飼う行為自体が間違っているから、子猫殺しも間違った行為なのだと規定しているのである。

では、本来この人にとって猫に対していちばん不当ではない行為というのは猫を飼わない行為であるということになるのだが、猫を愛するが故に猫を飼わないというのであれば、それは要するに猫という生物種に対して自分は何もしないということである。

だとすれば現に存在する猫という生物が置かれている悲惨な状況をどうすればいいと考えているのか。イエネコ家畜化の数千年の歴史、現在オレたちの前に可愛い猫ちゃんが存在するようになった来歴に匹敵するだけのイエネコ救済の知恵を示してくれれば、誰だって納得するのである。猫を飼うなと言われても、おそらく心ある飼い主は反対しないで涙を呑んでそれに従うのである。それを自分で思い附けないのであれば、他人のやり方にケチだけ附けるのはやめたほうがいい。

坂東眞砂子の嫌いな日本においては、血統書の附いた猫をブリーダーから譲り受けた猫よりも、地域猫を保護して飼育している雑種猫のほうが圧倒的に多いのである。それは何故かと言えば、そのまま放置すれば確実にその猫は殺処分に遭うからである。

そして、そのような猫を無責任に増やしたのは、坂東眞砂子のように「それが正しくないから」という理由で不妊手術を忌避する飼い主がいるからである。

この無限連鎖に対して、坂東眞砂子はどんな価値ある提言を為したというのか。他人の行いにケチを附けるだけなら、どんな阿呆にでも出来るのである。次善の選択の不完全さを論うだけなら子どもにだって出来るのである。世の中には、それが絶対的に正しくないとしても、無意味に殺される命を救うためなら何だってやってやるという人のほうが多いのだ。

自分勝手な「生の充実」というロマンティックな幻想を後生大事に扱う剰り、本末転倒の子猫殺しに走った作家がお説教して良いような無責任な猫飼いは、そもそも坂東眞砂子に対して怒りなど覚えない。

坂東眞砂子がイエネコという種族の在り方に内在する不条理を、今現在猫を飼っている人間を批判することで糾弾したいと考えるのであれば、それは単に他人事に無責任にケチを附けているだけの話である。

多くの人は、如何に不妊手術が残酷で不当だとしても産まれたばかりの子猫を崖から投げ落として殺すより遥かにマシだと感じるのであり、それを卑怯な子猫殺しが百万言費やして批判したとしても、自身の残虐行為に対して何ら反省がない以上、誰もこの物書きの言葉のほうが正しいなどとは思わない。

つまり、今回のコメンタリーの結論は一言で言うとこうだ。

坂東眞砂子の釈明は、相変わらず笑い事でしかなかった。

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