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2006年8月23日 (水曜日)

あえて無題

こんなくだらないことで時間を潰すのが腹立たしいのだが、非常識な公人がそれなりの影響力を持っている以上、比べ物にならない規模とはいえ情報発信手段を持つ人間の一人として、他人事のように世論の動向を静観する気にはなれない。よって、すべての予定を中断して、この問題について幾許か語らせていただくことにした。

とにかく、坂東眞砂子の行為は異常であるというのがすべての結論である。

坂東眞砂子は一九五八年生というからオレと幾つも変わらない同世代人であり、高知県生まれであることはよく識られている。オレも同世代の地方出身者だから、出身地の違いはあるとはいえ、それほど懸け離れた時代性の下に育っているわけはないと思う。

若い世代から視れば四八歳の大人は十分「昔の人」と思われるかもしれないが、昭和三十年代に生まれた人間は最も先鋭な戦後民主主義教育の洗礼を受けて育っているのであるから「昔の人だから考え方や価値観が違う」などということはいっさいない。

この世代の人間の物の考え方に前近代的な性格があるとするなら、それはそのような前近代的な価値観を自然に教え込まれたからではなく、むしろ突出した戦後民主主義的教育に対する反動である場合がほとんどだろう。

調べてみたところ、坂東眞砂子は高知県佐川町出身で、土佐高等学校を出た後、奈良女子大学卒業、イタリア・ミラノ工科大学に二年間留学という学歴を持っている。これがすべて事実であれば、県内でもかなり拓けた教育熱心な町で育ち、県下有数の進学校を出て女子大とはいえ四年制の国立大学の家政学部住居学科(現在はもっと学部学科が細分化しているらしい)というカタカナ商売前提の洒落た専攻分野に進み、さらに海外留学まで経験しているというのだから、時代性を考えればバリバリのインテリ女性で、土佐の土着的な習俗がどうのこうのというのは年寄りの昔話でしかない。

念のために、近県出身の同世代の友人に話を聞いてみたのだが、やはり犬神がどうのとかいうのは我々の祖父母の代くらいまで活きていた習俗ではあるが、坂東眞砂子の時代にはすでにそれほど一般生活に根着いた習俗ではなかったようだ。また、四国全般現在でも女性を他府県に出したがらない風潮が一般的らしいのだが、高知県だけは例外で、維新の英傑を輩出したという自負の故か進取の気風に富み、比較的女性の社会進出にも理解があるらしい。

一方、佐川町の公式サイトが盛んにアピールしているように、坂東眞砂子が育った町は古い祭祀や歴史的文物に恵まれた土地柄であるようで、そういう意味ではローカリティを大切にする文化的土壌で育ったということもあるにはあるだろう。

要するに坂東眞砂子の小説に表れるような四国像というのは、歴史という観点におけるロマンティシズムや一種の誇張された文化的エキゾチムズであって、坂東眞砂子自身の属性も凡庸な地方高学歴女性という描像をそれほど出るものではない。

このように細々と履歴調べを行ったのは、坂東眞砂子という個人の出自や時代性、文化背景等と、その異常な行為の間には何ら因果関係がないということを理解していただきたかったからである。あのような作物を物する人物であるから、特殊な習俗や生活感覚がメンタリティの根にあるのではないかという幻想を否定するためである。

地方出身者なら誰でもわかることだろうが、祖父母の代やそのもっと前まで遡ればその土地土地固有のローカリティというのは現実に活きていたが、今の時代の中高年以下の世代層はそのような前近代的なローカリティとは時系列的に断絶して生きている。

それは坂東眞砂子も同じことであって、子猫殺しという異常行為の根に土佐の土着性や文化的背景があるなどということがいっさいないことは断言してもいい。彼女と同世代の高地県人の誰に聞いても、そんな事実は出てこないだろう。

あのような行為の背景には、出身地固有のローカリティや文化性などはなく、飽くまで坂東眞砂子という特定個人のロマンティックなブンガク的妄想が根にあるというのがオレの考えである。

ここで本題のコラムの文面を検証することにするが、本文については熱心にテキスト化しているところがたくさんあるし、図書館や役所に行けばいくらでも原文に当たれるので、各自検索していただくことにしよう。

とにかく、どこから突っ込めば良いのやらと迷い箸してしまうくらい論理性皆無の支離滅裂な論旨ではあるのだが、大枠としての問題点は、

日本の文壇で活躍している海外在住の著名な作家が、日本の国内法に照らして犯罪に相当する行為を正当化している

ということだろう。当人の居住地が海外であるということは何ら問題ではない。一見面倒な問題があるように見えるが、本質は簡単である。

日本国内にも当てはまるグローバルな意味合いにおいて、日本国内の規範に照らせば犯罪と見なされる行為を、日本国内の読者に向けた文章で正当化しているのだから、日本国内で他人が同様の行為を行うことをも無責任に肯定しているのである。

実際問題として海外に居住しているから法的な位置附けがわかりにくいだけで、日本国内にいれば問答無用で逮捕される行為であり、それを日本国内のメディアで公言して正当化している以上、行為の本質は悪名高いディルレヴァンガーと等価であるか、影響力を考えればそれ以上に罪深い。

このように考えればわかりやすいと思うのだが、たとえばこの世の中に少女売春が法律で禁じられていない国があったとして、著名な国内作家がその国に在住して自身が現地で日常的に少女を買春していることを告白し、自身の行為を普遍的に正当化する文章を日本国内のメディアに公開したとすればどうだろう。

この喩えの場合、日本国内の読者に向けて「この国に来て少女の春を買え」と唆しているのではなく、自身は他国で法に罰されずに少女を買いながら、「少女を買うことは普遍的に正しい」と日本国内の読者に向けて主張しているところが味噌である。

この例示が極端に感じられるという方もあるだろうが、男性が十代の稚ない少女に肉欲を抱くというのは、同性愛と共に歴史的に非常に一般的な性指向であって、欲望の存在自体を否定することはできないし、変質者として糾弾すればこのような欲望自体が存在しなくなるわけではない。

今現在は人権保護の観点から厳しく禁じられているわけだが、それはつまり、現代社会においては欲望の存在と欲望の実現可能性が整合するとは限らないというだけのことである。欲望を抱くこと自体は割合自然なことではあるが、それを実行してしまったら他者の人権を不当に踏みにじることになり、社会的制裁を受けるのだ。

つまり、責任能力のない少女に対して肉欲を抱くことが自然かどうかという問題と、その欲望を実現していいかどうかという問題はまったく別物なのである。そして、後者に関して言えば、少なくとも現代のグローバルに容認された社会通念からすれば「していい」という結論は選び得る選択肢ではないし、特定国家の社会的文化的ローカリティがその口実となるというものではない。「してはいけない」というグローバルに合意された結論が大前提となるのである。

これを坂東眞砂子の例に当てはめて言えば、彼女自身が動物を飼育することに関して個人的にどのような奇矯な信念を抱こうが、それは彼女の自由である。誰も彼女の心の中に土足で踏み込んで信念を枉げることは出来ないし、それをする資格など何人にもないだろう。また彼女がその信念を自己責任で公に表明することもまた、表現者としての個人の自由の範疇の事柄ではあるだろう。

その信念が社会通念に照らして反社会的なものであれば、不特定多数の人間から視た坂東眞砂子像というのは「反社会的な信念に駆られた人」という好ましからざる人物像と映るだろうし、その故の不利益を被る弊はあるだろう。それが表現者としての自己責任ということであり、この意味でその表現とそれに伴うリスクは釣り合っている。

だが、その信念の故に飼育動物を実際に殺すとなると話は別である。何故なら、現代社会において愛玩動物を飼育する以上、「飼育できない」「飼育する気がない」という飼育者側の勝手な都合を理由として動物を殺すことは、グローバルな社会通念や法理念上個人の自由として選び得る選択肢ではないからである。

そこを踏み越えてしまうのであれば、それはつまり「個人の信念が社会通念や法律に優先する」という物の考え方をする人間だということであり、個人の信念が殺人を許容するなら殺人をも犯すということである。

これはいっさい極論ではない。

勿論、このように言うと「犬猫と人間をいっしょにするなよ」と仰る方もあるだろうがこの場合問題となるのは、対象それ自体の属性ではないのである。たとえば、多寡が犬猫、法的には所有物扱いじゃないか、という見方もあれば、何にも代え難い大事な家族の一員であるという見方もあるだろう。そんなものは個々の視点によって違うのであるから、相対基準である価値的属性が本質的な問題となるわけではない。

問題は、社会通念や法理念が無前提で「殺すな」と命じている対象を、独断で殺しても構わないと考える自己中心的な物の考え方なのである。だとすれば、たとえばこのような考え方をする人間が、浮浪者やニートを「社会的に無価値」「人間以下」と独断で価値評価して殺さないと誰が保証できるというのか。

犬猫はただの下等動物で人間はただの動物じゃなく万物の霊長だというのは、この場合何の意味もない基準なのである。法的には同じように殺害を禁じられている犬猫と人間という二項を勝手に隔てて、犬猫なら罰則が軽いから殺しても構わないと判断して実行する考え方そのものが許されざる反社会性なのである。そこに恣意的な二項を立て得るのであれば、同じ人間と雖も勝手な二項を幾らでも設定できる。

有能者と無能者、貧乏人と金満家、同性愛者と異性愛者、嫌いな人間と好きな人間。幾らでも人間の種類を隔てる基準は存在するが、法律にせよ社会通念にせよ一般倫理にせよ分け隔てなく一律に個人が他の個人を殺すなと命じているのである。

だとすれば、グローバルに容認された一般理念や法理念において殺害が禁じられている犬猫を独断で殺してもよいと考えるなら、その考え方は、この人間は殺してはいけないけれど、この人間なら殺してもいいと考える考え方とどこが違うというのか。問題となるのは、他の命に関してシビアに設定されている客観的基準を受け容れるか否かという遵法意識の問題なのである。

人を殺さない禁忌感と犬猫を殺さない禁忌感には、本質的な差異などないのである。

法治国家の成員である以上、「個人の信念がどうあれ社会の決め事は遵守する」という最低限の遵法意識がないならば、それは準アウトローである。殺したいほど人を憎んだとしても実際に殺さないからこそ社会の埒内で存在を許されるのである。憎しみが激しければその限りではないという人物は、社会の成員たるの資格はないのだから、社会の保護を受ける資格はない。

さらに言えば、如何に文学者という留保が附くとは言え、他の命の殺害という絶対的な決め事にすら遵う意志のない、社会の成員たるべき最低限の良識もない人間が社会の公器を使って自分勝手な信念を表明することは到底許されるべき行為ではないだろう。

たとえば、物書きが特定の公人を論って「極刑相当」「その罪万死に値する」と公言するのは、ギリギリではあれ釣り合いの取れた表現行為であるが、特定の公人を殺しておいてそれを正当化するのは、ただのテロリズムであってまともな表現行為ではない。

ましてや、何を勘違いしているか識らないが、直木賞作家というのは要するに大衆娯楽小説の書き手なのであって、大昔の純文学者のように生活実験を通して人間の極限の在り方を模索する反社会的な芸術家ではない。

そして、そのような大昔の芸術家たちのアモラルな生活実験は、別段芸術家という肩書の故に社会に許容されたわけではなく、むしろ大文豪でもないアウトロー的な芸術家たちは好ましからざる人種として忌避されていたのであり、経済的にも名声的にもそれほど恵まれていたわけではない。それらの芸術家たちの赤裸々な生活実験が一〇〇年の文名をもたらしたかと言えば、今ではすっかり忘れ去られているというのが実情である。

今日に名声を繋いでいるのは、純文学だろうが娯楽小説だろうが、所詮は面白いお話を書いた物書きだけなのであり、私小説が一時一般的な読書界においても隆盛を迎えたのは、赤裸々で破天荒なぶっちゃけ話が一種の覗き見的な下世話なセンセーショナリズムにアピールしたからである。つまり、大衆が求めていたのは、ロンハーの格付けバトルやDの劇場のような下世話な意味で「面白い他人事」でしかなかったのである。

その意味においては、元々大衆娯楽小説家のほうが物書きとしてナンボかまともな存在であって、日本の自然主義的な近代純文学史は一種の奇形的な脇道に過ぎない。そして大衆娯楽小説家に求められるのは一種健全な良識であって、あなたのご近所に幾らでもいるようなサイコな奇矯性ではない。ある意味、現代社会において最も純文学的な存在とは、オレたちのご近所に幾らでもいる宇宙から妙な電波を拾っている社会不適応者なのだ。

近代における芸術家たちが、旧弊な社会常識の桎梏から脱出しようと懸命に格闘した記録である純文学の死屍累々は、今や旧弊な社会常識自体の自壊によって現実の街に溢れているのである。わざわざ文学を志す者が意志的に自演してみせなくても、素でそのようなタガの外れた人間が巷にはゴロゴロしているのである。

折角他人が自分の人生を棒に振って奇矯な生を演じているのだから、書き手自身がそんなアモラルな不品行を犯すまでもない。今の書き手に求められるのは、そのような歪んだ社会において、枠組みが毀れてしまった人間性の真実を見つめ、バランスのとれた提示を行うことが出来る良識だろう。

そして、それらの社会不適応者の心情に寄り添って健全な良識に基づいて書かれた娯楽小説であるなら、おそらく何某かの文芸的存在意義はあるだろう。だが、そのような社会不適応者自身が社会通念上許されない行為を行って、それを支離滅裂な論旨で正当化する文章を読みたいと望むようなまともな社会人はいない。

この意味で、坂東眞砂子は「純文学的な存在」としての社会不適応者を良識に基づいて活写する娯楽小説家の書き手という立場から、社会不適応者そのものの立場にシフトしてしまったのだとしか言い様がない。

坂東眞砂子自身はどう考えているか識らないが、彼女とそっくり同じような稚拙で感情的な理由附けに基づいてまったく同じ行為を犯すアタマのおかしいオバサンはご近所に幾らでもいるのであり、ブンガク的な自己陶酔どっぷりの彼女のコラムは、基本的に世間の人々からはご近所のアタマのおかしいオバサンの自己正当化に準えて受け取られているのである。

「不妊手術は動物の本然に反するから反対」

「動物の雌の『生の充実』はセックスをして子どもを生む『経験』」

「不妊手術は命を殺すことであり、その事実から目を背ける自己欺瞞」

「私はそんな自己欺瞞がイヤだから敢えて生まれた子猫を殺すことを選ぶ」

「その殺しの痛み悲しみも引き受けている」

いずれも幼稚で非科学的な擬人化と自分勝手なセンチメンタリズム、自己陶酔丸出しの妄言である。思い附くままに採り上げても、どれ一つとして間違っていない論旨というものがない。

まず、イエネコというのは、今日では「愛玩という目的に特化して品種改良された家畜である」という認識がまったくない。免疫的には非常に脆弱な生物であり、捕食能力も自衛能力も低く、人里離れた野生状況で到底存続できる種ではないのである。当然野生状態におけるイエネコの本来的な生態というものは存在しない。人間が飼育するか人間社会の辺縁的スカベンジャーとして生きる以外、種の生存は思束ないのである。

このような不自然な生き物を生み出した人類の業というものは、それは考えられて然るべきだろう。ネズミを採るという実利的な飼育目的が消失した現在、イエネコというのは人間が膝に抱いて可愛がるためだけに存在する生き物なのである。

効率的な殺鼠手段が確保された現在、「人間が膝に抱いて可愛がる」という目的が生じなかったら、おそらくイエネコという生物種は(多分に人間による駆除によって)緩やかに絶滅していたことだろう。だが、人間というのは猫を視て愛らしいと思う生き物なのであり、それ故に途轍もなく不自然な無用の家畜であるイエネコは今日に至るまで生き残ったのである。

人間の業とは、自分たちがそのように生きるように仕向けた自立出来ない生き物を手元に置いて愛したいと望む業なのであり、数千年かけて馴致されたイエネコという生き物は、今更不必要であるということになれば本来なら速やかに滅びて然るべき淘汰圧に弱い種族なのである。

だとすれば、人間の業とはイエネコという脆弱な種を愛故に活かすという不自然さにあるのであって、このような生き物に動物としての本然を求めても仕方ないのだ。人間がイエネコを愛する限り、この不自然で弱い生き物を満腔の愛を注いで幸福に活かし続けるしかないのであり、その不自然さがイヤならばイエネコを飼育する意味などない。ましてや、どんな筋道があろうとも、飼育者の得手勝手な理屈で殺害してよいというものではない。

イエネコを飼いながら、そこに野生動物と同等の本然を求めること自体嗤うべき迷妄でしかない。イエネコという種族が人類の保護によって活かされている人工的な生き物でしかない以上、全数調整という人為によるコントロールは不可欠であり、今のところそれに代わり得る有効なイエネコとの共生手段はない。

猫を愛する幸福を味わいながら、それが動物の本然に背くことだから不妊手術を施したくないというのは、それこそが感傷的な甘えでしかない。イエネコが愛玩目的で人工的に存続させられている家畜でしかないという事実から目を背けているのである。

ひどいことだと思うなら、そのひどさにこそ耐えるべきであって、自分勝手な感傷から生まれ出た命を殺すほうが「より納得できる」というのは、自身の個人的な納得という感情レベルのエゴ故に他者の命を奪うという「不当な行為」である。

それをこの物書きは、「子種を殺すかできた子を殺すかの差」であり「親猫にとっての『生』の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇」のオルタナティブであり「どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない」と主張しているのである。

これが言葉のすり替えによる欺瞞であることは明らかである。子種を「殺す」というのは修辞に過ぎないが、子猫を「殺す」というのは実質的な殺害行為だからである。この文脈で言われる「子種」とは、雄ならば精子、雌ならば卵子、もしくはそれらを育む内生殖器のことであるが、精子も卵子も「生殖細胞」であって個別の生体ではない。

この人物にとっては、中絶論争も避妊論争もまるっと同じなのである。生物はどの時点で個体と認識されるのかという論議はどうでもいいのであり、生物が交尾によって妊娠することを妨げる行為はすべからく子種を「殺す」ということなのであり、それは避妊を経ずに生まれてきた紛れもない個体としての生物を「殺す」ことと同じだと主張しているのである。

「どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない」というのは非常にユニークな意見ではあるが、残念ながら大多数の人間にとってどっちが良くてどっちが悪いかは明白なのである。人間が避妊をするのは、生まれてきた個体としての生物を「殺す」ことが明白に悪いことだから、生殖細胞のうちに「殺す」のである。

この二つの「殺す」というタームを同一視するのは、なるほど「ブンガク的」な物の見方ではあるが、一般社会が受け容れ得る境界を完全に踏み外しているだろう。

これを論理的に整合させようとすれば、子種の「殺し」だから男はマスターベーションするな、月経で排卵するのも子種の「殺し」だから初潮を迎えた女はすぐ男とセックスして早く子どもをつくれ、絶対に避妊はするな、育てられなくても堕胎せず生まれてきた子どもを殺せ、どちらも同じことなのだから、ということになる。

ハッキリ言って、こんなことを真顔で口にする人間はアタマがおかしい

この意見に遵うなら人生設計もへったくれもないし、物凄く禁欲的な生活を送るかボコボコ子どもをつくって片っ端から殺していくしかなくなる。要するにこの人は避妊をするより間引きをするほうがマシな行為だと主張しているのである。それが生の充実だと主張しているのである。

この意見にはまったく生み出される子どもの側の視点が欠けていて、「子を産む女性である私」という自己中心的な視点に貫かれていることは誰にでもわかるだろう。

親の側の勝手な「生の充実」とやらの結果として子どもが生まれるのではない。雌雄が交尾して子どもが生まれることに感傷的な意味附けを求めるからこのようなわけのわからない結論になるのである。

避妊せずに交尾をすれば、普通生き物は妊娠して子どもが生まれる。それだけの話なのであって、そこには人間視点の「生の経験」だの「生の充実」だのという感傷的な意味などはない。そのようなやり方で多くの生き物は次代へ種を維持していくというだけのことである。

猫がもし口が利けたとしたら、「子を産みたい」などとは言わないはずだ。猫が自身を子を産み育てる存在であるなどと認識しているはずがない。それは単なる感傷的な擬人化というだけのことで、多くの生き物はそのような仕組みで交尾をして子どもを残しているからそうなるだけの話で、そこに感傷的な意味を求めるのは人間だけだ。

人間は猫に避妊手術を施すことで、その猫に自身が子を産み育てる可能性があった存在であることを識らせないということなのであって、そこに感傷と罪悪感を視るのは人間自身なのである。だからと言って、猫は不幸になったりはしないのであって、ただ単に飼い主を母親と視て一生を子どものままに暮らすというだけの話である。

それを見守る人間が、愛する存在から生き物としての可能性の幾許かを奪ったことに心の痛みを抱えるだけの話である。辛いのは所詮人間のほうなのであって、猫が辛いからどうにかするというのはそれこそ唾棄すべき欺瞞である。

猫を飼うということは、そういう負い目を飼い主が一方的に抱えることなのであり、猫の幸福そうな姿を視てその欺瞞に耐えることなのであって、人間が勝手に投影している感傷の故に、個体として生まれてきた命を殺す痛みを抱えることではいっさいない。それこそが、人間の感傷の故の罪なのである。

そもそも、イエネコの交尾を「セックス」と表現し、そこから繋がる出産が生の充実であると表現すること自体が非科学的な感傷である。猫の愛情表現を「餌が欲しいだけ」と冷淡に切って棄てている人間が、何故か交尾と出産という動物にとっては本能的な生殖活動でしかない行為に関しては妙な擬人化をしているのである。

イエネコに限らないが、高等霊長類以外の動物一般は、気持ち好いから交尾をするわけではないのである。そうするような本能行動が生得的に具わっているから、幾つかの条件が揃えば発情するというだけなのである。だからこそ、子育てにかかっている動物は発情しないのであって、出産自体が目的化しているなら、子育てで忙しいから交尾しないなどということがあるはずがない。

さらに言えば、当たり前のことではあるが、普通の動物は子どもを生んだからと言って人間の女性のような達成感や充実感を覚えるわけはない。基本的に動物の雌は、個体としての自身の生存が危うくなるから、本質的には交尾や出産を忌避していて、そのように本質的にはイヤな行為だからこそ、簡単に雄に交尾を許さないことが一種の淘汰圧として働いている、という知見もあるくらいである。

「セックス」をして出産を「経験」することが、動物の雌にとって「生の充実」だというのは、人間の女性が自身の女性性のルサンチマンを動物に投射しただけの、何の根拠もないロマンティックな思い込みにすぎない。

逆に、猫が飼い主に甘えるのは、「餌が欲しいから」「生きるための手段」だというのも別の意味での擬人化にすぎない。猫が飼い主に甘えるのは餌が欲しいときばかりではない。むしろ、餌は一般的にデフォで与えられるものなのだから、高飛車に要求する猫のほうが多いだろう。

猫が飼い主に甘えるのは明確な目的があるときではなく、単に甘えたい気分になったときだけだというのは猫を飼っていればわかるはずなのだが、坂東眞砂子にとっては、それは餌を得るために媚びを売っているように見えるのだろうか。猫のような比較的単純な生き物が、人間を籠絡するために打算で演技していると思っているのだろうか。

だとすれば、この人はせっかく猫を何頭も飼っているのに、非科学的な思い込みに基づく無意味な猜疑心で大分損をしていると思う。猫が飼い主に甘えるのは、子どもを育てることのなかった飼い猫というのは、一生飼い主の「子ども」だからである。子どもが母親に甘えるように猫は飼い主に甘えているのであり、関心を惹こうといろいろな行動に出るのである。猫にとって飼い主が自分を愛し関心を払ってくれることは無前提で気持ち好いから甘えるのである。

子どもが母親に甘えることすら「餌が欲しいから」と表現するならば、それは人間の乳幼児だって同じことである。大きな声で泣き叫んで母親を呼ぶのは、自分の身の安全と母乳を確保するために関心を惹くのだし、愛らしい笑顔を見せるのは親の愛情を喚起して自分に引き付けるためである。

そんなことを言い出すのなら、人間の愛情全般なども性欲と強迫観念の複合と表現することだって出来るだろうが、そのように表現することに人間の生の現実において何の意味があるのか甚だ不可解である。それは、ある意味ではまったく正しくないくだらない物の見方である。

この人は、愛という名の下に何を求めているのだろうか。

個体としての猫にとって不承不承させられる賭けである交尾や出産を「生の経験」という口当たりの良い擬人化で肯定的に表現する一方、猫にとって無前提で気持ち好い飼い主の愛情を得る行為を「餌が欲しいだけ」「生きるための手段」と、これまた別の意味での擬人化で冷静な客観視を装う。嗤うべき恣意的で幼稚な欺瞞である。

交尾や出産を人間に準えてロマンティックに考えるから、生まれてきた子どもがすべて飼い主の手で殺される不毛な出産を、発情期が来る度に強いられるのだ。そもそも動物が交尾して出産するのは、子どもを次代に残すためであるという「自然な」認識が欠けている。坂東眞砂子が言うような生の「経験」など動物にとって意味などはない。

動物にとって、ただ無駄に交尾してただ無駄に子を産むことが、どんな生の充実であるものかよ。交尾も妊娠も出産も母体の命を削る行為であるが、その苦痛と引き替えに自身の子どもが次代に残るからこそ本能行動として具わっているのである。子どもの残せない出産になど、動物にとって何の意味があるものか。その不毛な悲劇に「生の充実」とやらを視るのは、坂東眞砂子という個人の愚昧なセンチメンタリズムである。

おそらく、凡庸な地方高学歴女性にすぎない坂東眞砂子という個人は、最早歴史でしかない自身の郷里の泥臭い陰湿なローカリティに憧れ、自身の女性性や母性の狂気に妄想を逞しくして自己陶酔しているのだろう。姥棄てや間引きという忌まわしい因習が生きていた苛烈な時代にこそ、生々しく目眩く強烈な「生の充実」があったのだろうとロマンティックな空想を弄んでいるのだろう。

そんなローカリティも女性性に伴う狂気も老人遺棄や嬰児殺しの悪因習もすっかり忘れ去られ、のっぺりとした文教都市と化した郷里の姿や現在の日本の社会には生の実感などはないのだと軽蔑しているのだろう。中途半端な近代化が、生の現実の戦きに盈ちた実相を、欺瞞のヴェールで覆っていると感じているのだろう。

そして、文学者である自分には、そんな欺瞞の繁栄に満足して惰眠を貪っている現代人たちが直視しようとしない凶暴で狂気に盈ちた生の現実を、恐れずに見詰める強さがあるのだと思い込みたいのだろう。

如何にも頭でっかちの田舎インテリが考えそうな自己陶酔の妄想である。自分で子を産んで殺してみるほどの度胸もない妄想家が、子猫というミニチュアでごっこ遊びの異常なママゴトを愉しんでいるのである。タヒチという南国の楽園で、広大な邸宅に住まい、快適な生活を愉しみながら。

当たり前の話だが、姥棄てや間引きが活きていた苛烈な時代には、ただ物を書くだけで何不自由ない南国の暮らしが手に入ったはずなどはないのである。また一方、この豊かな現代においても、正気を喪って我が子を殺そうとまで思い詰める貧しい暮らしは幾らでもあるのである。

姥棄てや間引きと同じ根を持つ人生の厳しさは、今のこの日本にすらまだ生き残っているのであるが、苛烈で生々しい「生の充実」とやらは、ゴーギャンの愛した世界的な観光地で世知辛い日本の世相から離れて温々と安穏に暮らす直木賞作家の頭の中にしか存在しない箱庭の妄想である。

そんなくだらない妄想のために、何年にも亘って子猫は殺され続けたのである。

オレはネットで漁って得たこと以上の坂東眞砂子の個人生活は識らないから、もしかしたら、彼女のセックスと出産に対する強迫観念の裏には不妊症という事情でもあるのかもしれないけれど、もしそうだとしても事情は何も変わらない。

それ以前に、セックスして子どもを生むことが女性の最大の生の充実と断じるのは、それこそ、世に大勢いる不妊症の女性の存在意義を全否定する考え方だろう。このコラムは、あらゆる論旨が間違っているだけではなく、いろいろな意味で間違っている異常に転倒した不気味な自己顕示であるというのがオレの総括である。

坂東眞砂子は何故常習的に子猫を殺害するに至ったのか。それを本人の文章で読むことは、一種ディルレヴァンガーに取材したインタビューを読むような下世話な興味と憎しみに基づく満足しかもたらさない。まともな物書きが俗世間の人々の蒙を啓くべく投じた一石という建設的な意味などはいっさいないのである。

そして、ここで恒例の卓袱台返しをやらかすなら、フランス領タヒチには、日本国内における動物愛護法に類する法律がないという前提で物を言うことには何の根拠もないのである。つまり、坂東眞砂子の行為は現地法においても違法である可能性があるということである。

この件については、ソースが見附けられないので明言は避けるが、一応フランス在日大使館に当ブログのURLを明記して実名で問い合わせのメールは送信した。だが、その後で某有名ブログの書き手が同大使館のメアドを紹介しているので、おそらく大量の問い合わせが殺到したことだろうと想像される。

したがって、回答が返って来る可能性は限りなく低いが、たしかに欧州の先進国であるフランスに動物愛護に関する法律が存在する可能性は高いだろう。動物実験の禁止等に積極的なのはEU諸国であり、不当な動物の苦痛を野蛮と捉える考え方が確立されている。植民地における法律の適用がどのような形態であるのかが不明だが、おそらく単に南国式のルーズさで適用されているという程度なのではないだろうか。

この想定が事実であれば、坂東眞砂子は居住国でも本籍国でも違法に当たる行為を犯しながらそれを支離滅裂で感傷的な論旨で正当化しているということになるが、これはもう論旨の妥当性がどうこうというレベルではなく、万引の言い訳レベルの公人たるべき資格に欠ける反社会的妄言である。

「社会に対する責任として子殺しを選択した」「その殺しの痛み悲しみも引き受けてのことである」というのなら、「社会に対する責任」としての罪と罰もキッチリ引き受けてほしいものである。

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