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2006年8月31日 (木曜日)

一万年の蜜月

前回のエントリーではイエネコ家畜化の歴史について少し触れたが、坂東擁護意見やイエネコ飼育を否定的に論じる論者の意見一般に欠けているのがこの観点における認識ではないかと思うので、今更事新たに語るまでもないイエネコの歴史を少し繙いてみることにしよう。

尚、今回のエントリーの論旨は別段レアなソースに基づく先端的な知見ではなく、少しその気になって検索すれば幾らでも出てくるオーソライズされた定見を元にしているのであり、それは一般的にそれほど疑う余地があると目されていない基本情報であることは予めお断りしておきたい。


●猫は何処から来たのか

そもそもイエネコの直接の祖先となったのは、古代エジプトやメソポタミアのリビアヤマネコであると推定されている。前回は記憶違いで「約四〇〇〇年の歴史」と書いてしまったが、実際にはエジプトやメソポタミアで農耕が始まった新石器時代、おおよそ一万年以前まで起源を遡れるようだ。

どんな資料や解説に当たっても、この種の小型の猫科野生種が人間に飼育されるようになったのは、穀物貯蔵の場面でネズミを駆除する目的であると説明されている。

つまり、人類の農耕・穀物食と食糧安定供給の歴史において、比較的人間に対する攻撃能力が低く、大型猫科動物より親和性が高く、ほどほどに知能があり、完全肉食の食制を持ち、主にネズミ等の小型哺乳類を捕食する動物であったために、リビアヤマネコは穀物倉庫の番人として家畜化されたのである。

つまり、ネズミは喰うが穀物は喰わないという農耕→食糧貯蔵→食糧安定供給→定住社会の成立という人類文明の発祥段階において甚だ都合の良い習性を持つ生き物であることから、害獣駆除の目的で使役されたのが人類との関係の起源である。

勿論、これには異説もあって、キプロス島の約九五〇〇年前の遺跡で貴人と合葬されたリビアヤマネコの近縁種の化石が発掘されたことから、何らかの宗教的目的で飼育されたのがイエネコ家畜化の起源ではないかという仮説もあるようだ。

ただ、後述の通りこの目的におけるイエネコの飼育習慣は他に類例を視ないし、貴人と合葬されるくらいだから一般的な飼育習慣ではなく、またリビアヤマネコはキプロスの在来種ではないため輸入コストのかかる貴獣として珍重された(つまり今日で言えば成金がトラを飼うようなものだろう)と推測され、それが直接イエネコ家畜化の歴史に繋がる可能性は薄いようだ。

因みに、かなり古い時代においてはヤマネコの類を狩猟して喰う食習俗もあったようだが、基本的に人間が好んで喰うのは草食動物であって、さほど美味くもなく(基本的に肉食動物の肉は固くて臭い)敏捷な肉食動物を狩猟するのはコストパフォーマンスが悪いということで一般的ではなかったようだ。

つまり、今日のタームで言えば、イエネコはその起源において主に害獣を捕食する生体農薬として家畜化されたわけである。今ではネズミによる食害はまったく実感を伴わない昔話でしかないが、その「今」というのは多寡がここ数十年の話であり、「ここ数十年」というスパンもまた、具体的に言えば未だ戦後の影を引きずったオレの子ども時代までは生々しい現実であった。

人類社会における鼠害とは、現代の感覚では想像も出来ないくらい深刻なもので、先ほど少し触れたように、人間社会の成立は農耕と穀物貯蔵に基づく食糧安定供給を基盤に据えているが、爆発的な繁殖力を具えているネズミはその社会的インフラを根底から揺るがす一大脅威であった。食害以外にも、伝染病の媒介という無視出来ない公衆衛生上の脅威もあったわけで、それを効率的に捕食するイエネコは立派な使役目的の家畜動物だったのである。

その一方で、「ネズミの繁殖能力はイエネコの捕食能力を上回る」ということもよく言われる理屈で、イエネコの捕食によっては鼠害を完全に駆逐することは出来なかったと言えるだろう。それでも、ヤマネコから引き継がれたイエネコの習性として、捕食目的でなくても本能行動として小動物を狩猟するため、天敵が遊弋する閉鎖的エリアでネズミが大繁殖することは出来なかっただろうから、ある程度の抑止効果はあったのではないかと思われる。

それ故イエネコ家畜化の歴史は農耕及び大規模文明の歴史と起源を一にしている。最も初期に一般化したイエネコの飼育形態は、野生のリビアヤマネコを穀物倉庫内に囲い込んで、自給的にネズミを狩らせるというものであったようだ。新石器時代の感覚で言えば、野生動物を囲い込めるような大規模な穀物倉庫は、要するに国庫であり国家の存在基盤である。その重要なインフラの防衛を任されたイエネコは、益獣として尊重され古代エジプトでは神にも擬せられたことは周知の通りである。

農耕文明とイエネコ家畜化の習俗の伝播がワンセットでもたらされたということはないだろうが、全世界のイエネコという種は間違いなくリビアヤマネコを単一の祖と仰ぐものであり、基本的に古代エジプト発祥の家畜種が物理的に伝播したものであって、在来種を併行発生的に家畜化した異種は存在しない。

近年の分類においてはイエネコもまたヤマネコの一亜種という扱いになっている。大雑把に言えば、遺伝的な種別ではリビアヤマネコそのものとは別に一種を設けるほどには隔たっていないが、人為的な品種改良の結果大幅に肉体形質が固定的に変化した生物という位置附けだろう。

つまり、ここで第二の基本要件として、イエネコという家畜種は全世界的に外来の帰化動物であるという事実が確認されるのである。イエネコというものの本然をもし辿るのだとしたら、地中海に面した北アフリカ一帯で細々と暮らしている比較的生態的な地位の低い野生の肉食動物ということになるが、肉体形質の面ではすでにそれとは別の生き物になっている。

その意味で「自然から獣を引きはがし」という坂東眞砂子の言はその通りである。帰化動物であり品種改良を加えた家畜なのだから、それは否定できない事実である。しかしその事実だけを論うなら、人間の生活圏内にいる高等生物は例外なく人間によって本来の生活圏から持ち込まれた帰化動物である。地球上の平地という平地に隈無く人間が定住している以上は、野生動物というのは山奥か一部の未開地にしか存在しない。

また、イエネコの品種改良は農耕や牧畜におけるそれのように目的的に行われたものではなく、帰化した土地柄や当地の人間の生活習慣や個体形質の好みが間接的な淘汰圧として働いた結果のバリアントであるようで、積極的に交配に基づく品種改良が行われるようになったのは近代に至って愛玩目的がクローズアップされてからである。

例えば旧来の和猫は主に生体農薬として放し飼いにされていたため、人為的な品種改良は施されていないが、和猫独自のボブテイルはクネクネ動く長い尻尾が気味悪がられ短尾の個体が好まれたために、それが選択的淘汰圧として働いた結果形質が固定されたものであると推定されている。

また、イエネコは常に全世界的に農耕との関連において益獣として尊重されてきた生き物であると同時に、可食部分が少なく喰ってもそれほど美味くないために、食用家畜としてこの生物を視る文化圏は一握りに留まる(勿論あることはある)のである。

農耕や荷駄目的の牛馬ですら、死ねば動物性蛋白質として食用に供され無駄なく利用されるわけで、殊に牛など現在は食用目的で肥育されるのみであるが、イエネコに関しては「食物」という見方は世界的に一般的な通念ではない。食用家畜ではない以上、イエネコという家畜には「屠畜」という概念との歴史的関連性はないのである。

つまり、第三の基本要件としては、イエネコの家畜としての本来的な使役用途においては「殺す」ことが必須要件として織り込まれていないということである。鶏を「絞める」もしくは牛や馬や山羊などの食用家畜を「潰す」という言い回しはあるが、イエネコにはそのような言い回しは存在しない。

イエネコが殺されるのは、単に増えすぎたために駆除される場合のみであり、極端な飢餓状況でもない限りイエネコを喰うのは全世界的には一般的な習俗ではない。

では何故益獣であるはずのイエネコが駆除されるのかと言えば、イエネコはその性質や飼育形態上繁殖管理が難しいからである(イヌの場合は少し状況が異なるので、今回は捨象する)。その意味で、イエネコを家畜と見なすには「計画的繁殖」という要素が欠けているのではないのか、一種の寄生動物と見なすべきではないのか、という議論もあるにはある。

これが例えばティピシャルな食用家畜である牛や馬や豚や羊の場合なら、野良牛野良馬野良豚野良羊が大繁殖したために然るべきところが駆除に当たったなどという滑稽な笑い話はない。そもそもイエネコの場合は飼育管理していると言えるのか、家畜としての飼育の一般要件に当てはまらない以上、家畜と見なして良いのかという議論である。

オレの意見では、繁殖管理が技術上困難であったというだけで、使役目的が確立されていた以上イエネコは家畜であるという意見である。例えば外飼い以外の飼育形態がほぼ存在しなかった日本においても、イエネコは「地域の在来生物」ではなく「飼い物」という共通認識が明確に成立しており、それには「ネズミを獲らせるため」というハッキリした目的があったのだから、それは事実において家畜である。

例えば近代以前は「近頃ネズミが煩瑣いので近所から猫を借りてきた」というような見方が一般的であったのだから、「ペット」という概念が存在しなかった時代や状況において、それは家畜と規定するのが妥当だろう。

さらに日本の家畜飼育にまで視野を拡げて視ると、家畜というのは一般的に「殺す」ものではなかった。宗教上の理由で動物食が忌避されていた以上、家畜を屠殺するための名分が存在しない。そもそも動物食の禁忌自体がイスラムやユダヤ教のような神託による食習慣の規定に基づくものではなく、仏教の殺生戒に基づくものであり、殺すという行為自体が禁忌だから、その結果として動物を喰ってはいけないのである。

動物を喰うには、まずそれを殺さなければならない。プリミティブな自然観における殺生とは、要するに人間と同様に赤い血の流れる生き物を殺すことである。仏教的倫理観が支配的だった近代以前の日本においては、建前上動物を殺せなかったから動物食が一般化しなかったのであり、だから陸上動物の死体由来のプロダクトは、食物であれ工芸材料であれ、被差別階層という人々の視線から隔てられたブラックボックスからしか供給されなかったのである。

その意味では、殺してこっそり喰うわけではないイエネコを殺すというのは非常に外聞の悪い行為であり、イエネコの死体から採られる三味線の皮というのは、最初から三味線の皮として人々の視線から隔てられた場所から供給されたのである。

犬を殺す、猫を殺す行為が卑しむべき蛮行であるという認識がなかったら、犬猫を殺す専業者が被差別階層の代名詞とされることなどはなかったはずである。しかし、事実において駆除目的や皮革採取の目的でそれらの動物を殺す必要が生じる場合があるからこそ、その不快な役割は被差別階層に圧し附けられたのである。

この辺りの都市住民のイエネコ観というのは、例えば岡本綺堂の「半七捕物帖」の一編である「猫騒動」に活写されている。この短編には、今日の地域猫の問題や猫殺しという行為についての意識が描かれていて、これが歴史的な根を持つ問題であったことを示唆しているので、関心がおありの方は是非ともご一読を願いたい。

かいつまんで言うと、ここで描かれている幕末の町民の人心としては、同町内に住む迷惑な猫婆さんのせいで猫害の問題が発生しても、それをすぐに駆除するという挙には出ていないのである。一度ならともかく二度にも亘って同長屋の男衆がわざわざ一日の稼ぎを休んで「品川のはずれや王子の果てまで」足を運び、大量の猫を棄てに行っているのである。

さすがに三度目ともなれば、到頭この哀れな猫たちは重石を附けて品川の海底に沈められるのであるが、その前段として、この猫たちは再度に亘る遺棄にも関わらず二度とも江戸に舞い戻り、剰え二足で立って手踊りするという不気味な所作に出たため、化け猫と気味悪がられたためである。つまり、この段階で有益な家畜から不気味な半妖怪に変質したために、怪異を現実的に恐れるその時代の人々に躊躇いなく海中に投棄されたのである。

この物語が演じられた舞台は江戸外周部の芝神明町と設定されていて、今日の感覚で言えばサバーバンである。そこから品川のはずれや王子の果てまで足を伸ばしたということは、この時代の感覚で言えば江戸所払いということである。江戸の町人がそれ以上遠くに猫を棄てに行くことは出来ないから、最終的に品川の海底に沈めたのである。単に猫の害を取り除くためだけに、これらの江戸町民は二度の遺棄の手続を踏み、妖怪視するに及んでようやくその生命を断ったのである。

だから、昔は生まれた子猫を全部川に流して殺したというのは、半分本当で半分嘘なのである。少なくとも仏教伝来以降の日本で、イエネコ程度の高等動物(本邦への帰化は仏教伝来と同時期であり、教典を鼠害から守るために輸入された)を殺すことに何ら倫理的な躊躇がなかったというのは謬見である。仏教の殺生戒が今よりも現実的な意味を持っていた時代だからこそ、人々は害獣と化した小動物を殺すことにさえ罪悪感を覚えるのが当たり前だったのである。

そして、ここが肝要な部分であるが、どの短編であったかは胴忘れしたものの、幕末の江戸の息遣いを辛うじて自身も呼吸した時代人である岡本綺堂は、半七老人の述懐として「当時は人の命の値打ちも随分安かった」という意味のことを言わせている。

人の命自体が安いから猫の命も安かったのである。一方では執筆時の現代人である大正時代人の語り手が想像するほど無法な社会ではなかったことを強調しながらも、人間様と雖も簡単な理由で呆気なく命を落としたのがこの時代であり、まして家畜はもっとつまらないことで命を落としたということである。

だが、如何にその当時は人の命が今より安かったとはいえ、苟も人間たるものを軽々しく殺していいという考え方が罷り通っていたわけではないし、家畜というのも使役価値に応じた貴重な財産であり殺生戒の対象となる立派な命と目されていた。

単に未成熟な社会一般に共通して、社会的な事柄を解決するためには文字通り身命を賭す必要が今よりも多かったということである。「安かった」と表現された命も、無駄に殺すことは堕地獄の蛮行と白い目で視られ、倫理的呵責をもたらしたのである。

真っ当な死生観というのは、このようなバランスに基づいて成立するものである。命の値打ちが全般に安かったから、何ら抵抗感なく殺しが日常的に行われていたと考えるのは幼稚な空想だ。それで安定的に成立する社会など存在しない。社会を安定させるためのルールが現在よりも頻繁に人命を要求したという意味なのである。

これが例えば地方農村部の話であったとしても、もしもイエネコを日常的に殺すようなコミュニティがあったとすれば、それは要するに同じくらい日常的に人の生き死にが扱われていたということでしかない。貧困という要因があったのかもしれないし、殺伐とした人情の土地柄なのかもしれない。そのようなローカルエリア毎の個別事情が、やはり地域の安定のために人命を要求したということである。

何れにせよ、坂東眞砂子が言うように「死が人々の視線から隠蔽されて」いなかった時代や地域においても動物を無意味に殺害するのは異常な行為だったのであり、人がまともに生きていかれないような状況においては、当然ながらそれよりも動物の命のほうが安かったというだけの話である。

まあ、とりあえず坂東眞砂子の思想は措いておいて、イエネコ家畜化の歴史に戻ることにするが、このような意味において、全世界的な一般則としてイエネコを無意味に殺すという行為は卑しむべき不品行でしかなかった。それは、一般的な意味においてイエネコを殺すことには何ら正当な理由附けが成立しないからである。

食糧貯蔵の守り神としてマスコット化され、概ねイエネコという家畜は農耕定住社会においては好ましいイメージで視られてきた。坂東眞砂子が奇しくも「豊穣性」という言葉を用いたが、農耕が基幹産業である文化圏では、イエネコを豊穣のシンボルとして愛するところもある。当ブログの表題に冠されている黒猫も、美味いワインの太鼓判として多くのワイナリーのラベルに採用されているのである。

その一方で、猫嫌いな人というのも昔から存在したのであり、それは主にイエネコの肉体的イメージや生活様態の故である。オレの母親も実は猫嫌いな人で、ちょっと開いた戸の隙間から凝っとこちらを視ていたり、音も立てずに忍び寄る少し胴長でぬらぬらした感じが苦手なのだそうだ。先ほど少し触れた和猫に特徴的なボブテイルの嗜好も、猫の長い尾の動きが蛇や蚯蚓のような長虫ののたくりを連想させるのが、嫌いな人には気持ち悪かったからであるようだ。

また、社会全体の悪習としての猫殺しには、悪名高い中世の魔女狩りの例がある。

この史実が剰りにも強烈な印象を与えるために、猫には歴史的に邪悪なイメージがあり忌避の対象となっていたように考える方もいるようだが、よく考えてみればこのときに殺害目標とされたのはイエネコそれ自体ではなくその飼い主である。

というか、むしろ殺伐とした宗教ヒステリーの名の許に気に入らない人間を殺すためにこそ魔女狩りの巫告が常態化していたのであり、一般身分が猫を飼うという習慣が日本よりも早く定着していたヨーロッパで、主に弱い立場の女性が宗教を隠れ蓑にした嗜虐心の犠牲になったのだから、主に家庭内の女性のコンパニオンアニマルである猫はその巻き添えで殺されたのである。

魔女と名指しされた女性の巻き添えで殺されたというのは、つまりイヌと違ってイエネコは外飼いされていても室内外を自由に往還する生き物であり、人間の生活に最も密着していた生き物だったということである。他人の家でも平気で出入りして飯時になれば飼い主の家の中へ帰るのだから、それを何某かの悪意や呪術を媒介するために使役しているとこじつけるのは容易である。

つまり、後ろ盾のない人間に何ら根拠のない濡れ衣を着せて簡単に虐殺していた時代には、当然その飼い物にも平気で濡れ衣を着せて殺していたということである。

このように考えていけば、イエネコを安易に殺す風潮の醸成は、容易に人間を殺す風潮と必ず連動していたということである。命全般が安いからこそ家畜の命が安くなるというだけであって、イエネコが殺されることを常態として許容していた安定社会というものは存在しないということである。

何度も強調するが、イエネコの家畜としての本然においては、「殺す」というプロセスはほとんどの文化圏で存在しなかった。その例外は、伝統的な食習慣としてイエネコを喰う数少ないマイノリティのみである。イエネコが日常的に殺される事態は、必ずそのコミュニティの倫理の頽廃や人心の荒廃を体現しているのである。それは、正当化されない殺害を平気で敢行して咎められない状況にあるということだからである。

その「殺害」には当然人間と家畜の別はない。例えば日本で殺生戒の名の許に、人間と同様に温かい赤い血が流れる陸生動物の殺生ばかりが専ら禁じられたように、禁忌視される殺害行為とは人間とのイメージ上の連続性によって規定されているのである。その意味で、殺害の禁忌は主に殺人の抑止を本質的な目的として内包するが故に、逆説的に人間と動物の区別はしない。

正当化され得ない殺害行為を行うものは、それが家畜であろうとも殺害の禁忌を犯しているのであって、近年の犯罪心理学の研究で、犬猫レベルの動物の殺害に禁忌感を持たない者は高確率で同じ人間を痍附けると結論附けているのは、当たり前のことを統計的に追認しただけのことである。


●そして何処へ行くのか

そういうわけで、これまで視てきたように、イエネコ家畜化の歴史を踏まえるなら猫の殺害を許容する根拠は何一つ存在しない。また、イエネコの獣としての本然を云々というのは飽くまで個人的なセンチメンタリズムであり、以前語った通り動物にとっての交尾や出産は人間とは違って苦痛と生存リスクでしかない種としての本能行動である。

さらに言うなら、地域猫の問題が発生するのは、これまでのイエネコ家畜化の歴史の中で決定的に欠けていたのが、計画的な繁殖管理という家畜飼育の要諦となるべき技術であったからである。

また、現在においてイエネコの愛玩飼育の是非が問題となるのは、一万年の歴史の中でつい最近まで生きていた「鼠害の抑止」という家畜としての使役目的が突如喪失されたからである。それがドラスティックな契機となって、人間社会におけるイエネコの飼育目的は愛玩のみに限られてしまった。

その前提において、これまでの農耕主体の文明発展の歴史の中で全世界中に無数のイエネコが生み出されているという既製事実を前にして、この無用な家畜のマッスを将来的にどうするのかという問題が出来したのである。

つまり、食用目的の牛や豚の家畜飼育が妥当性を持つという前提で言えば、イエネコの飼育にも立派な妥当性があったのである。それを否定してしまったら、新石器時代以降の農耕文明全体の存在意義を否定することになる。それを否定して現代社会の恩恵に浴するのは、それこそ何らプラグマティックな益もない正真正銘の偽善にすぎない。

坂東眞砂子は「愛玩目的で自然から獣を引きはがし」たと理解しているようだが、それは人類全体の原罪を問う意味では有効なレトリックであっても、具体的にイエネコの飼育を論じる上での歴史的な認識としては時系列の経緯を無視した喩え話であって、完全に「てにをは」が間違っている。

牛や豚を喰うために飼育し殺して喰っているのと同様に、人間は大規模文明の生命線である穀物を鼠害から守るという切実な用途のためにイエネコを飼育し、イエネコはこれまでせっせとネズミを狩り続けてきたのである。愛玩目的というのは結果的に残った副次的な家畜化目的であって、それと野生動物を自然状態から引きはがして囲い込む家畜化の是非を直結して論じるのは、歴史認識として完全に間違っている。

その歴史の終端において、人間はようやくイエネコよりも効率的にネズミを根絶する手段を開発したために、その目的においてはイエネコという家畜が用済みになったということなのだ。では、この大量に剰った「生体農薬」の在庫をどう処理するのか、イヤな表現をすれば今日の地域猫の問題の根本原理はこれである。

今日のように効率的にネズミを駆除する手段がなかったばかりに、一万年にも亘ってイエネコは人間の家庭でネズミを狩り続けてきたのであり、それはイエネコ視点では単なる本能行動ではあれ、人間視点においては有り難い貢献だったからこそ、人間は最大限の愛着をもってこの家畜動物を視てきたのである。

その歴史の過程において、イエネコは今更野生状態に戻されても生きていけないほどにヤマネコ原種との体制上の趨異が生じてしまった。これは具体的なイエネコ飼育や地域猫の問題というより、文明の恩恵に浴するオレたち現代人が抱える観念的な原罪の問題なのである。

これを「愛玩目的で云々」という頓珍漢な規範で高みから裁くのは容易い。だが、諄いようだがそれを否定してしまうなら、人類文明そのものの存在意義を完全否定することになるだろうし、食用目的の家畜飼育もまた否定することになる。

何故なら、狩猟という手段でも採取可能な動物性蛋白質を家畜化という手段に依拠するのは、その安定供給や高附加価値化を目的とするからであり、飼育そのものは「喰うため」ではないからである。

また、家畜における生の充実を言うなら、冷凍精子で繁殖させられている牛や豚の生の充実はどうなるのだという話にもなるだろう。牛や豚は、人間の都合の良いタイミングで効率良く人工授精によって子どもを産まされているだけで、別段その気になったときに雌雄が自由にセックスして子どもをつくっているわけではない。

坂東眞砂子にとって、牛や豚は増殖能を持つ動物性蛋白質の元でしかないとでも言うのだろうか。それとも単に食用家畜の繁殖技術に対して無知なのか。さらにはそのような繁殖法を否定するなら、全世界の人間が安定的に適価で動物蛋白質を摂取することは不可能であるという現実的な問題に対してどのような回答を持ち合わせているのか。

ベジタリアンにでもなると言うつもりか。だとすれば、ベジタリアンの人間が生存するためには、高度に集積された社会基盤が必要だという事実を識ってからにしてもらいたいものである。

人間は動物性蛋白質をいっさい摂取せずに生きていくことは出来ないのであり、それを植物食で完全に代替するなら、高度に労働力が集積されたハイコストな栽培事業を必須とするのである。これを簡単に言うなら、お金持ち以外は健康なベジタリアンになれないということである。草にも命があるという理屈はさておき、人間は草だけ喰って生きていけないのである。

無論、坂東眞砂子はベジタリアンになるつもりなどはないだろう。

坂東眞砂子は高知新聞のインタビューに答えて、「私は、子猫を殺しているだけではない。鶏も殺して食べてもいる。ムカデも、蟻も蚊も殺している」「生きる、という行為の中に、殺しは含まれています」と語っているが、これはこの人が人間の社会における殺害禁忌の一般則をまったく理解していないということである。

今現在坂東眞砂子の行為が問題視されているのは、全人類的に共有されている殺害禁忌の原則を侵犯しているからであって、イエネコ飼育問題という限局的な問題の故ではないという当たり前の認識がない。これは作家云々という以前に一人の成人として恥ずべき不見識である。

鶏は人間が食用に肥育する家畜であるから、その飼育行為には殺害というプロセスが必然的に内包されている。だから鶏を喰うためにはイヤでも殺さざるを得ないし、喰わないのであれば鶏を飼育する意味がない。殺害というプロセスが介在しなかったら、鶏の家畜飼育そのものが概念矛盾である。故に鶏の殺害を殺害禁忌の文脈で語るのは完全に筋違いである。

また、ムカデや蟻や蚊は人間視点において害虫であり、そもそも日本の伝統的な殺生戒においても、ラディカルな宗教情熱でもない限り、昆虫は人間との生体イメージが剰りにも隔絶しているが故に殺害禁忌の対象とはなっていない。

そもそも昆虫は、進化の最も初期の段階で人間の属する系統と袂を分かった生物であるが故に、人間とのイメージ上の断絶のシンボル的な存在ですらある。殺害の禁忌とは、他者との共感可能性において規定されている故に、害虫の駆除を殺害の禁忌の文脈で語るのも同様に筋違いである。

つまり、鶏を殺すことが許容されるのは、それが鶏の飼育の必然的な結末として規定されているからであり、害虫を殺すことが許容されるのは、昆虫一般が殺害禁忌の規定を逃れているからである。

もっと言えば、鶏やムカデや蟻や蚊を殺しても、「食べ物」「害虫」という人間との共感を遮断する概念規範がある故にこそ、その殺害行為は人間の殺害に因果的意味的関連を持たず、それ故に殺害禁忌に抵触しないのである。

だが、猫はそうではない。

それだけの違いであるが、その違いは絶対的である。

この坂東眞砂子の論理に遵うなら、喰うためという正当な理由で鶏を殺しているのだから、正当な理由があれば人を殺してもいいという極論に辿り着かざるを得ない。鶏を殺すことを許容する論理と人を殺すことを禁じる論理を整合させる接点となる規範の認識がまったく欠けているのだから、極論にしかなりようがないのである。

そして、殺人の禁忌と鶏を殺す営みを整合させる規範こそが、家畜と雖も厳格なルールに遵って殺害が管理されているという規範であり、それが端的に顕れているのが「猫を殺すな」というルールなのである。

犬を殺すな、猫を殺すな、鳩を殺すな、人間の日常生活の埒内に存在する動物のほとんどを一般市民が殺すなと規定する動物愛護法の存在は、ラディカルな自然礼賛の結果として生まれたのではない。

人間が共感可能な生物に対する正当性のない殺害を禁じる倫理的な禁忌が力を持たなくなってきたから、更めて強制力を持つ明文として規定されたのである。一般的な人間が自己投影してその悲しみや苦痛を想像出来るレベルの動物を殺せる人間は、同族である人間の悲しみや苦痛にも配慮せず殺せるという経験則が成立するからこそ、殺害の禁忌は存在するのである。

先ほど陳べたように、原理的には、犬猫を平然と殺せる人間は人間を殺すことにもそうでない人間より抵抗感を覚えないのである。それを戒めるためにこそ、全人類的に殺害禁忌は共有されているのである。

たしかに生きるという行為の中には殺害というプロセスは含まれている。しかし、坂東眞砂子のこの意見には、命を奪うことにはそのコミュニティの文脈毎に厳格なルールが存在するという認識が欠落している。自分がこう考えたからその信念に遵ってルールを破るというのなら、その正当性を理解する者など、少なくともまともな社会人にはいないのである。

どんなに正当な理由があっても、個人が別の個人を殺すなと命じるのが最も基本的な人間社会のルールである。理由の是非を問わず、個人による個人の殺害を禁じるのが社会の大前提なのであり、(刑罰としての)個人の殺害は非人間的な国家というシステムに一任されているが、これは人権を調停する観点の規定ではなく、社会が成立するための最低要件としての無前提の命令である。

その意味で、同様に社会のルールが無前提に殺害を禁じている対象を、個人が信奉する理由附けによって殺すことは、社会の成員としての自覚があるのであれば完全に間違っているのである。いわば、社会が動物の無意味な殺害を禁じていることは、その当人の反社会性の段階的な試金石の役割を果たしていると言えるだろう。

無前提のルールとして具体的に指定された動物を殺すなと命じられているのに、それを敢えて個人の動機で殺害する者は、原理的に言って殺人に対しても個人の動機を優先させ無前提の禁忌感を持たないと解されても仕方がないだろう。

とまれ、坂東眞砂子個別の殺害行為はさて措いてイエネコ飼育の問題に戻るなら、オレがこれまで再々に亘って諄いほど

イエネコ飼育の現状を批判するならビジョンを示せ

と主張しているのは、一万年の人類文明発展史の負の遺産としてイエネコ問題があるからである。人類がその文明発展の過程で夥しい原罪を抱えていることは誰でも識っているのだから、それを批判すれば事足りるというものではない。

イエネコの愛玩目的の飼育、不妊処置、完全室内飼育という、一見残酷な手段が次善でしかないことは誰でもわかっているのである。だが、一万年の歴史が生み出した用済みの「生体農薬」に対して、一万年の文明発展の歴史から恩恵を享けるすべての者は絶対的な責任を負っているのである。

それは今更イエネコの飼育が間違っているなどという寝言を言うことではない。

現在の人間社会が選んだ選択肢とは、一万年の歴史がもたらした繁栄の代償として人間社会における役割を喪った生き物をそのまま飼い続けるという消極的なものでしかないのだ。この選択が絶対的に正しいものでなどあるはずがないのは明白だが、それ以外に多くの人々が納得できる選択肢がないことも事実である。それは違うと言うなら、多くの人々が納得可能な別の選択肢を提示してからにしてもらおう。

夥しい数のイエネコが保健所で殺処分に処されている事実は、飼い主のモラル以前の問題として、家畜としての有用性を喪ったイエネコが緩やかな滅びを辿る過程と視ることも可能なのであり、むしろそのように認識することのほうが数倍耐え難い。

一万年の長きに亘って人と共に暮らしてきた生き物を、「要らなくなったから」という理由で棄てようとしているのは人類全体なのである。その意味で、イエネコの愛玩目的の飼育などすべきではないと論じている者も同じことだし、生の充実がどうのというのは、歴史の罪を自分以外のすべての人間になすりつけた甘い寝言でしかない。

歴史的事実として既に存在する夥しい数の無用の家畜をどう扱うか、そのビジョンを提示しない限り、この問題に解決などはない。誤解を恐れずに言えば、最早個人や社会の倫理の問題ではない。倫理の問題ではないから裁きや批判によっては決して解決しないのである。その意味で、イエネコの飼育に荷担しなければ、イエネコに対する罪を負うことがないというのは嗤うべき幼稚な愚昧である。

イエネコが今現在このような悲惨な状況に置かれていることと引き替えに、すべての文明生活があるのである。すべて人類文明に活かされている者は、イエネコの現状に責任があるのである。それは、タヒチに居住する坂東眞砂子とて例外ではない。

自然豊かなリゾート地で鶏の死骸を拾って喰ったり山を歩いたりして楽しいワイルドライフを過ごし、いっぱし文明社会から離れたつもりでいるようだが、本来自然というのは淘汰圧として人間に敵対的に立ちはだかるものである。その自然と戦うことで人間は生きてきたのだし、文明が未成熟な黎明期には、生きることは楽しいことでは決してなかったのである。人間にとって快い自然に囲まれて日々を過ごすことは、本来途轍もなく不自然で文明的な行為なのである。

ならば、同じ文明によって活かされている人間の一人として、イエネコの現実に意見を加えるのであれば、そのために懸命に努めている他者の行為を得手勝手に批判するのでは意味がないだろう。

間違っているから飼うなというのは物凄くイージーな逃げである。まして、「あんたらも私も間違ってることでは一緒だが、あんたらのほうが正しいつもりで非道いことをしている」などという身の程識らずな断罪には、自己保身という以上の何の意味もない。

たって他人を断罪したいというのであれば、この人類文明の可愛い功労者に、人間がどのように酬いる術があるのかを具体的に提示する絶対的な義務がある。

その一方で、人間には敢えて卑怯者になる権利だってあるのだから、この問題を方法論的に捨象するという生き方は「アリ」だとオレは思う。人間がこれまでの歴史の中で犠牲にしてきたものは剰りにも多いのだから、そればかりを考えては個人が生きていかれないというのも現実である。ぶっちゃけ、イエネコの現状がどうだろうが関心はないという人間まで責めるつもりもその資格もオレにはない。

オレは坂東眞砂子じゃないからね(w

だが、その前提においてイエネコ問題に「愛玩目的で飼育するな」「不妊手術は残酷だからやめろ」と口出ししたいのなら、それに代わるどんなビジョンがあり得るのかを提示することが必ずセットなのである。幼稚で不潔なルサンチマン丸出しの逆ギレ説教など、坂東眞砂子以外の誰にも必要ではない。

それより、どうすればイエネコという種が家畜としての幸福で安楽な「余生」を過ごすことが出来るのか、人間が自分の都合でリビアの草原から遠く連れ出した借りの万分の一でも返せるのか、それをこそ語れ。喜んで聞いてやるから。

人間の歴史が他の動物の犠牲の上に成り立ったものだからこそ、今現在イエネコはオレたちの目の前に存在するのである。それを批判してみても、目の前の小さな生き物は消えてなくならないのだし、その原罪も雪がれないのである。飼わなければ、何もしなければ、不妊手術を施さなければ、生まれた命を殺し続ければ、その生き物の苦痛を今よりも減らせるとでも言うのか。

嗤わせるなよ。

誰も現状に替わるビジョンを提示できない状況において、せめて目の前の飼い猫の不満そうな表情に悩む者を、幸福そうな表情に心喜ぶ者を、子猫を殺し続ける人間が高みから裁くのか。そこから意義ある何事かを成し遂げるのは裁かれた他者の責任であり、子猫殺しの作家は悲劇性に酔いしれて揚げ足取りの警鐘を鳴らしていればいいのか。

それは誰のためにどんな意義ある貢献を成し遂げる茶番のつもりだ。他者を裁きたいのなら、それに替わる具体的なアイディアを思い附いてからにしろ。

坂東眞砂子の問題は、飽くまで彼女個人が勝手な理屈で飼い猫の産んだ子を殺し続けた行為について、殺害禁忌の観点から個人の非道を社会感情が裁く問題でしかなく、これを百万回考えたとてイエネコ飼育の問題解決には益しない。一方、週刊朝日の坂東の寄稿は自身の個人的な反社会行為を棚に上げてイエネコの飼育行為全般を断罪している。

この意味で坂東眞砂子の言説とその行為はまったく問題性のアスペクトが整合しないのであり、自身が断罪された仕返しに、断罪によっては解決しない問題———解決を前提とした具体的なアイディアの創出が期待される問題に、前提条件を確認するのみに留まる陳腐な批判で応酬しているからまったく噛み合わないのである。

ここで本音を言うなら、オレは坂東眞砂子の個人的な倫理観になどこれっぽっちも興味はないのだし、その倫理観を批判することにもいっさい興味はない。オレが望むことは簡単であって、坂東眞砂子が殺した子猫の命に相応する酬いを受けることと、今後いっさい子猫を殺せないようにすることである。

子猫を殺すという身勝手な行為を「ネタ」にして、妙竹林な文明批判と自己陶酔の悲劇性に酔いしれる薄気味の悪い中年女の戯れ言には、吐き気を覚えこそすれ視るべきところなどはない。この不快な子猫の殺害常習者が、今後いっさいイエネコ(及びすべての動物)と関わってくれなければそれでいいのである。

坂東眞砂子が何を考えていようとオレの識ったことではないし彼女の自由だが、遠い異国のこととは言え、猫の子一匹たりとも理不尽に殺されるのは不快であり、それを識った以上は黙過することなど到底出来ないのである。

そして、それらを含めて大局的に望むこととは、一万年にも亘って自分勝手にネズミを狩り続けることで、オレが今こうして飢えることもなくPCに向かって好き勝手なことを打ち込んでいられるような安穏な世の中をもたらしてくれた小さな生き物すべてに、これ以上理不尽な苦痛と死を与えないことである。

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坂東眞砂子氏のエッセイ「子猫殺し」に端を発して、この3週間ほど、私は様々に思いをめぐらし、いくつかのエントリを上げてきた。 私自身の立場はその中でも繰り返し語ってきたが、先日、「文芸春秋」に呉智英氏が意見文を発表され、氏と(当初の)私の立場が同じであり、端..... [続きを読む]

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