School Days-2
心おきなく「マイボス」を語り倒した後は、次なる学園ドラマ「ダンドリ。」を語ることにしよう。正直なところを言えば、誰でも識ってる若手スター女優を人海戦術で大挙投入した「ギャルサー」にのめり込んだ後で視ると、何というか、深夜ドラマくさい二線級を少数揃えたパッとしないキャスティングにしか思えなかった。
何せあのパッとしない「危険なアネキ」でパッとしない弟が惚れるパッとしないサブヒロインを演じた榮倉奈々が主演ということでは、脇に廻るのはそれ以上にパッとしない面子ということになるわけである。
実際、かなり以前からメディアで顔の売れている加藤ローサが、学生というイメージがもうそぐわなくなった今頃になって表舞台の学園ドラマに出演するというのもピンと来ないし、そろそろ成長して顔が変わってきたこともあって森田彩華の女子高生役にも食傷気味だし、「Sh15uya 」のツヨシのイメージから脱却するために一生懸命女の子らしい役柄を演じてきた悠城早矢が、またしても空手をウリに森昌子ヘアで男女を演じるというのも何だか今更である。
フロントメンバーの中では西原亜希が最近比較的伸びている部類だろうが、この人はもう何年か経ってからのほうが本来の持ち味が出るのではないかという気がする。まあ簡単に言えば、若さの華があんまり感じられない柄なので、もう少し落ち着く年齢になってからのほうが女優として使いでがあるだろうということである。
もっと目先のことを言うなら、この種の柄の人がチアガールのナリをすると、マジで水商売のショータイムにしか見えないということで、イメージ的には「下北サンデーズ」の佐田真由美と印象が近い。
そういうわけで、事前にキャスティング情報を耳にした時点の印象としては、若さ弾けるキャッチーな題材なのに、こんなパッとしない面子にやらせて大丈夫なのかというネガティブなもので、どうせなら「WATER BOYS」や「SWING GIRLS」 、せめて「がんばっていきまっしょい」くらい華のあるキャスティングで観たかったというのが正直なところであった。
第四話まで観た印象で言っても、加藤ローサが事前の予想より可愛いと思ったくらいでやはりWBやSGほど華やいだ気分にはならない面子だと思ったし、案の定視聴率的には二桁台を割り込んでかなり苦戦しているらしいのだが、フロントメンバー五人を視ているうちに、ちょっと別の観点からの興味が湧いてきた。
他でもない、現状の五人の構成が、「莫迦+巫女さん+ガリ勉+男女+水商売」という人物構成になっているわけだが、これは特ヲタのあなたなら奇妙な既視感を覚える人物配置ではないだろうか。
最後の水商売がちょっとピンと来ないかもしれないが、これは紛れもなく「美少女戦士セーラームーン」、それも実写版の人物配置に酷似しているのである。つまり、セラムンにおけるアイドル=芸能人がこのドラマでは水商売になっているわけだが、ある意味芸能人もまた水商売の一つであるから、偶然にしては出来すぎだろう。
セラムン莫迦のオレがこんなことを言うと、「女の子五人組の作品なら何だってセラムンにこじつけるんだろう」と嗤われるかもしれないが、現状の五人の人物描写を視るに実写版セラムンの存在を前提に考えねばあり得ない描き方になっているのである。
たとえば主役の榮倉奈々演じる相川要の家族構成は母親と弟の三人家族であり、人物造形は「ミーハーな莫迦がその行動力でみんなを引っ張る」というもので、これは実写版の月野うさぎそのものである。
実写版の月野うさぎの家庭は母子家庭ではないが、父親の存在が最後まで画面上に顕れず(後に発売されたOV版で遂にその驚愕の正体を現したが(笑))、ドラマ上意味のある家族構成としては三人家族と表現して差し支えない。さらには戸田恵子演じる要の母親の人物造形もうさぎの母親である育子ママの造形を参考にしたような節があり、これらの要素を偶然の近似だと解するのは難しい。
対するに加藤ローサ演じる末吉双葉は、神社の娘で普段は巫女さんをしているという以外に火野レイとまったく接点はなく、火野レイのように家庭に欠落を抱えているわけではないし、一応暴走しがちな要のツッコミ役ではあるのだが、むしろ平和主義者で衝突を回避して付和雷同するようなお人好しとして描かれている。ポジション的にはうさぎの親友である大阪なるに近いのだが、人物造形としてはどちらにも似ていない。
似ていないという意味では、悠城早矢演じる浜田教子の役柄も力持ちの男女というだけで木野まことのような大女ではないし、性格的にもストレートな体育会系で、異性との関係性に不全を抱えていたり料理が得意だったりする木野まことのアンビバレントな性格とはまったく似ていない。僅かに「女の子!って恰好して人前で踊る」ことに憧れがあったと語っている辺りに類似点が視られるくらいだが、この種のボーイッシュな少女一般に共通した感情であって、取り立てて類似を指摘するほどでもないだろう。
だが、森田彩華演じる池田まゆ美通称ケダマの人物造形、家族関係は水野亜美そのものであって(但し、両親は離婚していない)、ご丁寧にメガネまで掛けており、第二話の森田彩華の芝居そのものが浜千咲が演じた水野亜美の延長上の演技に見える。
ケダマの抱える問題性も、水野亜美と母親との間の確執、友情との兼ね合いの問題を身も蓋もなく描いたらこうなるだろうというもので、実写版セラムン挿話群中の白眉である水野亜美物語をわかりやすく手短に再話した印象である。また、第四話で描かれた父親との関係性の問題は、水野亜美物語では触れられなかった父親の存在を劇的想像力で補完し、新たに語り直そうという目論見と解すれば頷けるものである。
そして、西原亜希演じる花上さやかの役柄は、他の四人とは距離を置いた勝ち気なはぐれ者と言ったところで、リーダーの要を押し退けてセンターを取りたがるところなど、実写版独自の役柄解釈である愛野美奈子の人物像と酷似している。第三話で描かれたような、チームにユニフォームを誂えるために人知れず奔走し、他のメンバーの処分を回避するためにあえて誤解を訂正せずに独りで責任を被り学園を去ろうとする性格は、まさしく実写版の愛野美奈子を思わせる。
また、実写版の愛野美奈子に関しては自宅の居室にいる姿は描かれたものの家族の描写は完全にオミットされ、後半ではあの年頃の少女が独り暮らしで居を転々としているというかたちで描かれていたが、そのような意味では、冷たい家族に反撥して「家を出て独りで暮らしたい」という動機で水商売に勤しむさやかの問題性の設定は、愛野美奈子そのものではないがそれを経由して発想されたものと解すればしっくりくる。
こうやって並べてみると、人物類型の組み合わせが合致するとは言え人物造形そのものが似ているのは全体の半分強にしか過ぎないが、オレが言っているのはこのドラマの人物造形が実写版セラムンと「同じ」だなどということではなく、「事実において」実写版セラムンの人物造形を踏まえたものではないかということである。
つまり、脚本家なりプロデューサーなりが実写版セラムンを「まんまパクった」という話をしているわけではないし、劇中の五人の人物造形における実写版セラムンとの類似点そのものを論じているわけでもない。この五人の人物造形は、実写版セラムンの存在を前提にしなければあり得ないものだという事実関係の問題を推測しているのである。
最初に指摘した「莫迦+巫女さん+ガリ勉+男女+水商売(芸能人)」という組み合わせも、個別の類型で言うならありふれたものに過ぎないが、五人の少女の物語でこの通りの組み合わせが単なる偶然で生まれるものではないだろう。
実に過半数の人物造形が実写版セラムンのそれと酷似しており、さらに家族関係などの設定面や個々の人物の大まかな位置附け、個別に抱える問題性まで類似しているのであれば、それは事実において実写版セラムンが前提として踏まえられていると考えるのが最も確からしい解釈だろう。
だとすれば、その推測を補強するような事実関係上の傍証はあるのか。
それが、あったのである。
このドラマのメインライターは、さつき高校のモデルとなった厚木高校のOBとして有名な劇団扉座主宰の横内謙介だが、立場上脚本家が最も疑わしいということで、まずこの人物をネットで検索してみると、劇団扉座の公式サイトに行き当たる。主宰者・座附き作家ということで、そこには横内謙介個人のページが設けられていて、足かけ五年に亘る膨大なバックナンバーを備えた日記がそのメインコンテンツとなっている。
ことがセラムン絡みだけに、オレも大概しつこく虱潰しに検索してみたのだが、五年分の日記のどこを探してみても、僅かでも実写版セラムンに言及するような文字列は見当たらなかった。となると、脚本家の線はハズレかと諦めかけたのだが、ふと思い立って検索の方向性を変えてみた。つまり、作品単位の関連ではなく人脈単位の関連を検索してみたのである。
これが大当たりで、横内謙介はラッキィ池田と定期的に仕事をしているらしく、日記にも何度かその名前が出てくるが、実写版セラムンの評判の悪いコリオグラフィックなアクションの振り付けを担当した彩木映利は、セラムン放映時すでにラッキィ池田と結婚していたのである。どこかの時点でラッキィ池田が夫人が現在関わっているTV番組を横内謙介に奨めた可能性は大いにあるだろう。
勿論、人脈単位の細い線が繋がったというだけでは、それで直ちに番組を観ていたという証拠にはならないだろうが、単発で振り付けたとかちょっと呼ばれて踊ったとかいうレベルの作品ならともかく、彩木英利のようなポジションの人が一年間に亘ってTV番組で重要なスタッフを務めたわけだから、相身互いの舞台人としてそんな大きな仕事を一度も目にしないまま附き合いを続けるというのも義理合いが悪いはずである。
実際、ラッキィ池田の公式ブログには未だに実写版セラムンOVへのリンクがお奨め作品のトップとして麗々しく貼られており、この番組の振り付けが夫人の彩木映利の仕事としては格別に大きなものであったことが視てとれる。
だとすれば、頻度はどうあれ、事実として横内謙介が実写版セラムンを観ていることはほぼ確実と視て良いだろう。そして、実際に番組を観ていた人間の書いたものが、その事実を識らない人間が前後関係を忖度するほどに客観的類縁性を持っているなら、それは要するに彼我の間に実際の影響関係があると判断して差し支えないだろう。
たしかにこれはオレの心証に過ぎないわけだから、間違っている可能性もある。そしてこれが重要なところだが、それが事実だとしてもその行為のどこも批判さるべき筋合いはないのだし、批判目的でこのような論考を重ねたわけではない。オレ以外にこのような類似に着目した人間がいたとして、それを「パクリ」呼ばわりして騒ぐのは創作の何たるかをわかっていないと思う。
文芸の創作において、一〇〇%の独自発想というのはあり得ない。ジャンル上の画期を成すとされる作品にも、それに影響を与えた先行作品というものがあるのであり、その類似点を比較検討すればおおむねこのようなレベルの要素は出て来るものである。
このドラマにおける実写版セラムンを思わせる要素が事実としてセラムンの影響下に成立したものだとしても、その咀嚼の仕方は十分節度のあるものだとオレは思うし、独自の捻りも十分に加えてあるのだから、飽くまでこれまで論じたような事柄は「影響関係を類推する」という意味合いの話である。
ダンドリにおけるセラムンとの影響関係については、まず大筋の問題としてセラムンとはまったく全体構造の異なる物語であるという点において、「パクリ」的な文脈で扱うことは出来なくなる。
このドラマは極普通の少女が変身して悪と戦うスーパーヒーロー物語ではなく、女子高生の実話サクセスストーリーをベースにした現代的なスポ根物語であり、セラムンと近縁関係にあるのは単に「五人の少女の友情物語」という部分だけで、この窮めて大括りな枠組みを個別作品のオリジナル要素と認めることは出来ない。
さらには、設定面において類似が視られるものの、その筋書き上の運用や設定自体の解釈に独自性が視られることから、健全な本歌取りの範疇と考えられるだろうし、これは普通一般の創作の実践においては当たり前のプロセスである。
実践的な意味において、文芸作品の創作に際しては先行作品から素材を採取し応用するという作業が必須なのであり、問題となるのはそのやり方と節度という曖昧な規範なのである。その意味で、文芸創作の実践は常に「パクリ」を云々されるリスクと隣り合わせであり、それを回避し得るのは作家の見識のみである。
横内謙介の人柄も作品も識らないオレがこういうことを言うのも何だが、それを行う側から視れば事実関係が簡単な検索一発でバレることはわかりきっているのに、あえて実写版セラムンの素材を応用して表舞台の脚本執筆に臨んだ辺り、実写版セラムンの熱狂的支持者であるオレにとってはある種の感慨があるのである。
横内謙介個人にシンパシーを感じるとかそういう意味ではなく、著名な舞台人でありドラマツルギーの何たるかを知悉していて然るべき立場の書き手が、あえてその影響関係の下にゴールデン・プライムタイムの新作ドラマを創作しようと考えるほどに、実写版セラムンは力のある作品だったのだという手応えを感じるのである。
オレ個人の心証としては、この脚本を書いた人間は、ただ通り一遍に「たまたま観た作品から使えそうな材料を拝借した」という扱い方をしていないと感じるのである。かつて一人の受け手として実写版セラムンのドラマ性に打ちのめされたり感銘を受けた経験がなければ、このような扱い方はしないという気がするのだ。
その作風も識らない見ず知らずの赤の他人の書き手ではあるが、彼が一人の受け手として感銘を受けると同時に、一人の送り手としてこの作品に伍して何事かを語りたいという欲求を抱いたのだとオレは視たい。同じような道具立てで自分なら何をどのように語るのか、それを試してみたいという意欲を持ったのだと解したい。
そのような意欲が実作においてどのように反映されているかというのは個別に視ていくべき事柄ではあるが、ある意味でこの脚本の書き手個人の内面における仮想敵が実写版セラムンであることは間違いないと思う。
とまれ、実写版セラムンを語り出すとどうしても歯止めが効かないし、おろし立ての新作ドラマについて過去作品との影響関係を語るというのは決して趣味の良い話題でもないだろうし、先ほど注意を喚起したように「パクリ」云々の誤解を流布する虞れもあるので、セラムンの話題はこのくらいにして作品自体を論じることにしよう。
この番組を紹介しているサイトを幾つか見ると「女性版ウォーターボーイズ」という表現をしているところもあって、CX関連ということでは先に挙げたようにWBの他にもSGや関テレ完全自社制作の「がんばっていきまっしょい」などの類似作品があるわけだが、これはある種「スポ根ドラマ」という括りで考えるより「レア競技ドラマ」という括りで考えるほうが実態に近いだろう。
オーセンティックなスポ根物というのは、野球やバレーなどある程度その時代性においてポピュラーな競技を題材にしてその競技人気との相乗効果で競技者の努力と勝利のドラマを描いていくものである。しかし、矢口史靖と関口大輔のコンビが手懸けたWBとSGに関しては、スポ根物という文脈の着眼点ではなく、取材で得られた「男のシンクロ」「田舎の女子高生のジャズ」という題材自体の面白みが興味の中心となっていて、ジャズ演奏は勿論のこと、シンクロもオーセンティックな意味でのスポーツという観点では捉えていない。
シンクロをスポーツとして扱うなら、素直に競技体系の確立した女子シンクロを扱えばいいのであって、チーム内の確執や友情、努力、挫折と勝利を「スワンの涙」のように描けばそれいいはずだが、男のシンクロという素材の新奇さに面白みを視てその面白みを立てる方向で作劇が練られている以上、すでにここで扱われているシンクロは他者と勝利を競いそのための努力を重ねるスポーツとしての側面は棄てられている。
このラインのドラマの構造においては、何かのきっかけで主人公が自校に部活が存在しない普及度の低いレアな競技に憧れを抱き、苦労の末に同好会やクラブを新設し先輩達の智慧や顧問の指導も当てに出来ない前人未踏の分野で、一から競技を学び一定の手応えを掴むまでのすったもんだの騒動が中心的なエピソードとなっている。
それは「田舎の女子高生のジャズ演奏」をテーマに扱ったSGでも同様で、まず第一にジャズ演奏はスポーツではないという事実は措いても(笑)、一応ジャズコンテストが山場に設定されてはいるものの、勝負という側面がいっさい棄てられ、コンテストで優勝するしないという問題はまったく主題に据えられていない。
その流れの一環として、歴史と伝統のあるボート競技をテーマに据えた「がんばっていきまっしょい」を位置附けるのはちょっと違うかもしれないが、映画化からでも七年、原作の文学賞受賞からは一〇年も経ってからドラマ化されたについては、同時期にヒットしたWBドラマ版やSGのヒットに追随する意向があったからだろう。
関テレ完全自社制作のドラマ版と劇場版に直接の系列関係はないようだが、劇場版をプロデュースしたアルタミラピクチャーズを軸に考えれば、WBもSGも「しょい」も時系列は前後するが一繋がりの作品群であり、CXとアルタミラピクチャーズの関係性の中で派生したTVドラマである。
そもそも「しょい」が映画化されたのも「シコふんじゃった」「Shall we ダンス?」などの「レア競技」を題材に採った映画でヒットを飛ばしたアルタミラピクチャーズの方向性において、女子ボートという題材の面白みがアピールしたからだろう。
その意味では、やはりこれらの先行作品とはまったく無関係な制作チームによってつくられているダンドリも、チアダンスというレア競技の面白みを共通項としてWBやSGのような青春ドラマのラインを確保したいという局側の意向もあるのだろうが、この作品にはWBと同じ方法論でつくることが不可能な決定的相違点がある。
このドラマは厚木高校ダンスドリル部の実話を脚色して描く完全なフィクションなのだが、WBやSGのように実在の事例のモチーフだけを籍りて自由度の高いオリジナルストーリーを語るのではなく、実話固有のストーリーを踏まえる必要があるという個別事情があるのである。
チアダンスというのはたしかにドラマの題材としては新奇だが割合にポピュラーな競技であり、クラブ活動の充実した学校やスポーツの強豪校ではそれほど珍しいクラブ活動ではなく、それ自体が珍しい題材だから注目されたわけではないのである。
その意味で、ドラマの題材としてはそれなりにレアであるが、割合伝統的な競技を題材に採った「しょい」の場合と似ているのだが、「しょい」はフィクションを原作に籍りているために勝敗それ自体は単なる作劇要素でしかなく、女子ボート部を創設して頑張る少女たちの青春群像や心情ドラマを描けばそれでよかった。
物語全体の競技的な到達点を実在の大会のどのレベルに設定するかということには自由度があったわけだし、クライマックスで勝っても負けてもそれ自体がドラマの全体的な劇的構造と密接な関係を持つわけではなかった。
だが、厚木高校ダンスドリル部の実話に関しては、すでにそれなりの成績を残すダンスドリル部が存在したという部分がドラマの設定と違うが、歴代のチームで最も実力的に劣ると目された年度の弱小チームが、僅か半年間で飛躍的に伸びて全米制覇まで成し遂げたという驚異的なサクセスストーリーだからこそ注目されたのである。
原案にクレジットされているのは「ダンス・ラブ★グランプリ〜県立厚木高校ダンスドリル部全米制覇の記録」というルポルタージュであり、ドラマはこの実在の高校の現実の足跡をなぞるかたちで脚色が施されている。
「どこかの学校に男のシンクロ部があるそうだ」「田舎の少女がジャズを演奏しているのをたまたま観たら面白かった」というレベルの材の取り方ではなく、到達点が明確に設定されているサクセスストーリーが原案なのであり、「勝てるはずのないチームが驚異的に勝ち進んだ」という要素を外してしまったらまったく原案の意味がない。
実際、第一話の冒頭ですでに要たちのチームが全国大会のステージへ勝ち進んだことが明示されており、その段階までに半年という明確な期限が切られているのだから、必ずサクセスストーリーの部分を描く必要がある。これまでの同傾向の番組ではまったく重要性を持たなかった「勝利」が必須の要件となるのであり、もっと言えば「短期間に勝てるはずのないレベルで勝ち進む」ことが筋立てに要求されるのである。
たとえばこれをWBのシリーズ構成で描くことが不可能なのは一目瞭然で、WBの物語の面白みというのは、主人公の勘九郎たちが周囲の反対に抗して同好会を立ち上げ、文化祭で発表会を開催するまでのすったもんだのプロセスにあり、競技が上達すること自体はテーマ上どうでもよかった。それ故に物語の最後半に至ってようやくフルメンバーが集結するのだし、途中参加の連中が上達するプロセスは大胆に端折ってしまっても差し支えなかった。
SGの全体構成も同様で、コンテストの優勝を最終ゴールとはせずにジャズ演奏の楽しさを前面に出した演出を採用し、フロントメンバーの辛い練習の部分はテンポの良い楽しげな映像のコラージュで流して描き、途中参加組の練習や上達などはいっさい描かれてはいなかった。
競技の勝ち負けを競うのではなく、ジャズ演奏の楽しさ自体を描くのが目的なのであるから、ハードなトレーニングはその役柄を演じるための女優陣のドキュメンタリーや演奏活動のバックステージとして見せればいいのだし、それはそれで興行物のパッケージとしては甚だデザインが良かったのである。
しかし、このダンドリにおいてはドラマ的な楽しさを追求すると同時に、勝てるはずのない弱小チームが半年後に全米レベルで優勝するまでの勝利の方法論を提示する必要があるのであり、WBやSGのようにフルメンバー集結までのすったもんだを面白おかしく描いている余裕などはない。そもそも原案では、最初からダンスドリル部が存在し必要な人数は揃っているのだから、同好会設立とメンバー集結というプロセスがすでにドラマオリジナルの脇筋の要素なのである。
もしもWB的なチーム確立までのドタバタに大部分の尺を割いて、最終回直前くらいまでのタイミングでメンバーが集結して、その後驚異の快進撃を続け全国大会(実話では全米大会)まで進出するという核心部分を、
「こうしてやっと全員揃った私たちのチームは、いろいろありましたが、半年後、猛練習の末に何故か全国大会まで勝ち進み…」
…みたいにあっさりナレーションで済ませたら大部分の視聴者は莫迦にするなと怒り出すだろう。何故なら、この物語においては勝利という「結果」それ自体が重要なのではなく、「何故勝てたのか」というロジックを説得力を持って提示する部分にキモがあるからである。
この物語が厚木高校ダンスドリル部の実話を元にしているという個別性は、そのようなロジックによって素人同然だった少女たちが悩み苦しみながら成長し、驚異的なレベルの勝利を獲得したという部分にあるのであって、そこを織り込むのがこの種のドラマでは難しいからといって回避してしまうのであれば、厚木高校の実話は旬を外した美少女アイドルたちがフトモモも露わにチアダンスを演じる口実でしかなくなる。
常々厚木高校への母校愛を前面に出しているらしい横内謙介が、これをどう捌くのかというのはかなり興味のあるところである。原案となった事実の個別性を無視してどこにでもある一般論の青春群像劇として描くのか、事実の個別性に正面から挑んでロジックとプロセスを提示するのか。オレの希望としては、断然後者を望むものである。
オレはまだ原案の書籍は未読だが、この実話を最初に耳にした時点では、ずぶの素人が短期間で全米大会まで進出し、優勝したというのはどうにも信じがたかった。そこで当該書籍を読了した人間に細かいことを聞いてみたのだが、このチームは大半が高校入学からチアを始めた初心者揃いで、全米制覇を成し遂げた二年次まではまったく芽が出ない弱小チームであった。
それが唐突に強くなったきっかけについては聞き忘れたが、体技に劣る弱小チームが何故勝ち進むことができたのかということについては、チアダンスという競技の特異性にその理由があるらしい。
劇中で金子さやか演じる他校のチアリーダーが掲げる「チアスピリット」は、まあ普通のスポーツのロジックであれば絵空事の理念であって、実際的に試合の勝敗を決するのは、生得的な資質や能力であったり訓練法であったり技術であったり戦術であったりするわけだが、チアダンスという競技の特異性として、ただのダンスではなく「応援のためのダンス」という性格が競技では重視されるらしい。
故に、チアスピリットという一種観念的な規範も空論の理想ではなく、チアダンスという競技の勝敗を決する判断基準として生きているのである。たとえ超絶的な体技を体得して難度の高い演技を披露したとしても、チアスピリットの体現としてどちらが優れているのか、このようなチアダンス固有の判断基準があるのである。
それはたとえばチームとしての全体的な一体感であったり、自然な笑顔の素晴らしさであったり、振り付けの独自性やその表現力であったりするわけで、「応援」という要素が重視されることで体技としてのダンスの巧拙が絶対的な基準にならず、審査員の主観的な判断が重きを為すようだ。
この場合の主観とは恣意と同義ではなく、より多くの人の感動を誘い人を奮い立たせる演技であるかないかを人間が主観で判断せざるを得ないということである。そうでなければ、チアダンスも普通のダンス競技の一種であって、振り付けの趣向が若干異なるというだけで舞踏の技術が絶対的な判断基準になってしまうのだが、チアダンス固有の判断基準が存在することで、ノーマークの弱小チームが半年で大躍進するというサクセスストーリーが成立するのである。
つまり、厚木高校のチームが勝てたのは、特別な才能を持つ選手がたまたま集結したからではないし、余所のチームよりも猛烈なトレーニングをしたからでもない。一種の戦略という言い方もできるのだろうが、チアダンスが人間の感受性に訴える表現の一種である部分で、自分たちなりの創意を凝らしたことが勝利をもたらしたのである。
おそらく、ダンドリというドラマがこの実話の個別性を表現できるかどうかは、チアダンスという競技のこうした固有性を、どのように説得力を持ってプレゼンテーションできるかに懸かっているのではないかと思う。
「大事なのは演技の巧拙よりもチアスピリット」というのは、下手をすればただの精神論にしか聞こえない。精神論を主観で重視する競技ってイヤだなぁ、とか、どうせこんなのはドラマの嘘のきれい事なんだろう、という話になりかねないわけである。
だが、チアダンスというのが何を競う競技であるのか、ダンスという体技はその中でどの程度の重要性を持つのか、振り付けの創意の部分はどの程度演技の本質的な表現と成り得るのか、その辺りの理念的な部分をドラマチックにプレゼンテーションできれば、勝利へのハウツーのような部分を詳細に描く必要はなくなるのだし、実話固有の挿話性をワンクールのドラマで表現することが必ずしも不可能ではなくなるのである。
そのような意味で、このドラマに対してオレが期待するのは、個々のエピソードの面白さもさりながら、このような挿話構造を限られたワンクールのドラマの中でどのように処理するかという部分である。
このドラマをWBやSGの流れで売りたいCX側から視れば、どちらかと言うと厚木高校の実話から材を採った部分は薬味レベルで構わないのだろうし、WBに似たようなイメージで各話の青春ドラマとしての弾け具合を強調してほしいという意向があるだろうから、メインライターとして招聘された厚木高校関係者の横内謙介がそれをどのように考えるかという部分にすべてが懸かっていると思う。
とまれ、この問題が今後どうなるかについては先行きを視てみないとわからないことなので、第四話の時点でこれ以上あれこれ言っても仕方ない。この話はここまでに収めるとしよう。
ここらで具体的にドラマの詳細を視ていくこととするが、第四話までのエピソードを視る限りでは、劇団系の書き手一般の傾向というのか、主役たちだけが立つような話にはなっていない辺りが、WB的なスッキリした青春ドラマを期待する向きからすれば甚だ雑然とした印象を覚えるかもしれないと思う。
そこがTVドラマ出の脚本家とは異なる独特の傾向なのだが、要するに劇団芝居というのは一握りの主役たちだけで演じるものではないのである。勿論花形役者の人気が動員の牽引力となるから主役がフィーチャーされてはいるのだが、演じる側も観る側も劇団という集団単位でその劇的世界を認知していて、主役を演じる花形役者を立てるための作劇というより、板の上に乗る役者全員になるべく満遍なく見せ場が行くように筋立てを組むのがこの種の劇団芝居の傾向である。
その辺の機微については「下北サンデーズ」の話にでも絡めて後ほど論じる機会もあるだろうが、その故に劇団出身の書き手一般の傾向として、スター俳優の起用で視聴率を狙うTVドラマにしては妙に脇の立った全体的な世界観を重視するところがある。
限られた特定の役者集団で演じる芝居ということもあり、作劇にスターシステムを採用している劇団も多く、特定の役者の柄を前提にまずキャラありきの作劇を想定しその組み合わせで各々のキャラが立つような筋立てを考える。観客もまた、あの役者この役者がどの舞台でもタイプキャスティングされていることを前提に、お馴染みの持ちネタやお馴染みの芸風を期待しお馴染みの世界観に浸るために劇場へ足を運ぶのだ。
このような環境で育った書き手が、まったく状況の異なるTVドラマの脚本を担当すると、それがほんの端役でも配役の隅々まで持ち味に合った見せ場をつくろうと配慮してしまい、シビアな作劇の観点からすれば不必要な場面でもレギュラーキャラをなるべく全員出そうとしてしまう傾向がある。
それが良い面で出れば端役の一人ひとりまで活き活きと立った賑やかな世界観ということになるだろうし、悪い面で出ればタイトな作劇を妨げる雑然とした世界観ということになるだろう。これは各々の書き手個人の裁量・見識が出る部分である。
その意味では、本来女子高校生の青春群像劇であるべきこのドラマでも、最初の第一話からすでにうらなりを中心とした教師たちの個別事情や要の母親を中心とした商店会の人間模様、校内の他の生徒たちや他校のチアリーダーたちの描写にそれぞれ応分の尺を割き、さつき高校を中心とする人間関係の拡がりを枝葉の隅々まで描いている。
これがたとえばWBやSGなら、周辺世界のディテールは飽くまで主人公たちとの接点においてしか描かれず、物語の視点は主人公たちフロントメンバーにおおむね固定されている。それはつまり、飽くまで主人公たちによって演じられる物語の都合によって周辺世界が派生的に生起するということであり、主人公たちの物語に直接関係ない周辺世界の人物たちの要素が詳細に描かれることはほとんどない。
たとえばWBの布施明演じる堅物教頭の過去の想い出は、シンクロ部への理解と接近の糸口として設けられたものであり、教頭個人の人物像を描くためのものではない。その意味で教頭は生きた人間というより、主人公たちの前に立ちはだかる障碍という作劇要素としての側面が強い。
しかし、ダンドリの周辺描写の肌合いがこれと違うのは、たとえば国分太一演じるうらなりの個人事情や教育姿勢、親友の大倉孝二との関係は、生徒たちの物語とは直接関係がないというところである。勿論、大筋で考えれば「日本舞踊の跡取り息子」という設定は後に主人公チームの演技の振り付け指導に活かされるのだろうが、実家との確執や教師としての情熱の問題は生徒たちの物語の要請から派生した要素ではなく、うらなり個人視点の物語である。
ぶっちゃけて言えば、生徒たちよりも芸能人として格上の国分太一をレギュラーで採用する以上、主役と同格で立てねばならないという生臭い事情もあるのだろうが、うらなりの場合と同様に、母親やその友人の濱田マリの在り方も生徒たちの物語の要請から設定されているわけではなく、それぞれ個別の物語を抱えているように見える。
無論、この物語は本質的に要を中心とする五人の少女たちの物語であり、彼女たちが存在する劇中世界を描くことそれ自体が目的ではないし、突き詰めて言えばやはり主人公たち以外の人々は主人公たちの物語を描くための作劇要素として劇中に存在するのではあるのだが、その軸足が若干世界寄りに位置附けられていて、主人公視点だけではない多層的な劇的世界の構築を目指しているように見える。
別の観点からこれを言うなら、主人公視点の筋立てを中心に据えて、そこへ絡む劇的要素を遡って個別の人物視点の物語として構築しているわけで、そのやり方はむしろ横内謙介が監修に廻って半澤律子が実際の執筆を手掛けた第四話のエピソード構造を視ることではっきりするだろう。
主人公たち五人が集結するまでの筋立てが一段落して、本格的に物語が転がり出すこのエピソードのクライマックスは、商店会のイベントである桜本商店街フェアと廃部寸前の演劇部の最後の公演を一つに纏めて、要たちのチアスピリットでそれを盛り上げるという仲々考えられたプロットだが、その二つの筋道を前もって個々の視点で丁寧に描いていて、要たちの物語の都合で設けられたイベントであることを意識させない。
さらに、チアダンス同好会の面々と演劇部を絡ませる口実として、前回伏線が張られた幼なじみに対する双葉の恋心を利用し、舞い上がった双葉が演劇部の書き割りを焼却してしまうという段取りを仕込んでいる。それは一面、双葉の個人状況に対する言及でもあるが、今回はただそれだけの描写に留まり、次回以降にも持ち越される連続の要素となっている。
それはたとえば、冒頭で触れられたさやかの心境の変化や、チラリと少しだけ描かれたハマキョーの空手部とチアダンス同好会の間の葛藤、フェア会場で父親と遭遇したケダマの中断された会話、父親危篤の報に触れて実家に里帰りしたうらなりの家庭問題、カルロスが所属する野球部の試合日程の提示などと同様に、連続的に少しずつ個別のメンバーの物語を進めていく全体的な語り口の一環でもあるのだ。
一方で市当局からさつきフェアの中止が通達されることをきっかけに、スーパーの進出による商店街の危機と当事者たちの無気力という大人視点の背景が提示され、これもまた今回限りで棄て去られる要素とは思えない連続的な大状況の暗示である。
このように、同時進行的に劇中世界の人々個別の視点の物語がちょっとずつ進行するという複雑な語り口を採用しながら、今回のエピソード個別の挿話として演劇部最後の公演を要たちが後押しし、彼女たちのために奮闘することで廻り廻って要たち自身が酬われるという意味的な輪郭がクッキリした筋立てを語る手腕は凡手ではない。
さらに、演劇部と商店会の問題を一本に纏めることで演劇部の公演場所の問題を解決させるだけではなく、演劇部の公演を後押しする要たちの姿に触れた大人たちが公演会場の提供を申し出、上演を手伝うことで、要たちの活躍が大人たちの心にも何某かの感銘を与えたことが暗示される。
また、そこで要たちの努力に感謝を示す演劇部員たちのスピーチに、無表情なケダマの父親が真っ先にアプローズを送ることで、未だ未解決のケダマの家庭問題がこの父親を糸口に解きほぐされることが視聴者に暗示される。
たまたまのフロックかまたは半澤律子個人の持ち味なのかもしれないが、第四話の作劇は複雑で多元的な視点の雑多な集合でしかない劇中世界の要素群を巧みにクライマックスの感動へ方向附けて筋立てを工夫していて、曰く言い難い劇的世界の拡がりと物語の奥行きを感じさせる。これまでのエピソードで目されていたのはこういう語り口だったのかと、別の書き手のエピソードを観て更めて気附かされた次第である。
たしかに、視点人物一人ひとりの抱える筋立てを検討すれば、それほど目を惹く新奇なものは存在しない。双葉を舞い上がらせた幼なじみの言葉は、双葉ではなく誰か他の意中の女性を想定して口にされたものだろうし、ハマキョーは何れチアダンス一本に部活を絞るのだろうし、ケダマの家庭問題は父親の自己回復と併せてケダマ一家の再生というかたちで収束するのだろう。それらの挿話群が、誰もが見飽きたありふれた物語に過ぎないことは否めない。
しかし、このドラマで目を惹くのは、そのような凡庸な個々の挿話性が悠揚迫らぬ緩やかなテンポで同時進行して全体を形づくる物語世界のダイナミズムであって、ゴールデン・プライムのドラマでもこのような連続ドラマとしての語り口があり得るのだという新鮮な驚きを視る者に与えるのである。
さらに、第一話ではちょっとウザく感じた要の強引な行動力も、演劇部の公演実施へ向けて当事者たちよりも心を砕き身を粉にして奔走する様子が身勝手な思い込みには見えない部分や、第三話までに確立された他のメンバーたちの信頼感と結束、雨中の呼びかけの等身大の説得力で、イヤミなく主人公の特異な魅力として描写が立っている。その流れでちょっとしたハプニングとして設けられた小道具の紛失という小ネタも、五人のメンバーの主人公としての問題解決能力の提示として効いている。
物語世界の全体的な拡がりを感じさせると同時に、主人公たちの物語としても申し分なくバランスがとれているのである。実を言えば、先ほど少し触れたように、第三話までの印象では少し描写の力点が散漫に感じられてそれほど今後を期待していなかったのだが、ようやくこのドラマの語り口が確立され、これから物語が動き出すという手応えを感じられたのである。
第三話までの進行では、フロントメンバー五人の結束のプロセスに集中した筋立てを描いているということもあって、WB的な語り口との差別化が明確ではなく、五人を取り巻く周囲の状況を多元的な視点で語る作法が余分な逸脱やバランスの崩れとして感じられた嫌いはある。
それはある意味当然の話で、第一話は発端編だから要と双葉が中心になるのは仕方ないし周囲の人物が分散的に描写されているのは劇中世界の紹介として納得出来るが、第二話はケダマ、第三話はさやかの本格参加がメインの筋立てなのだから、要するにフロントメンバー主体の一本筋のプロットである。先ほど陳べたように、個々の視点人物の抱える物語そのものはさして目新しさのない凡庸なものなのだから、それが話の芯になるとエピソード全体の凡庸さとして見えてしまう。
さらに、五人の内の一人にスポットの当たる話というのなら、それ以外の人間に纏わる脇筋がゴチャゴチャ動いてしまうと、五人の間の「キャラ廻し」のエピソードにおける描写の力点の分散という見え方になってしまうという問題もある。
つまり、この手の連続ドラマの呼吸で言えば、五人の少女が中心となる物語なら普通五人それぞれの主役エピソードを廻り持ちで語る、所謂キャラ廻しというシリーズ構成になるのだが、その場合、たとえばケダマやさやかのストーリーがメインで進んでいる脇でちょこっとだけ要や双葉の話が進んでいると、中途半端に見えるのは当たり前の話だろう。今回はさやかの話のはずなのに、なんでこんなに中途半端に他の人間の話を進めてるんだよ、うらなりの話なんか要らないじゃん、という見え方になるのである。
第四話がそのような見え方にならなかったのは、このドラマのシリーズ構成が本来的に五人の間のキャラ廻しでは「ない」ということが構造的に明確だからである。たしかに五人はそれぞれの問題を抱えていて、それは現時点でまだ未解決なのだが、キャラ廻しのシリーズ構成で一人ひとりにスポットを当てて回収するのではなく、毎回少しずつ同時進行的に描いて全体の流れの中で回収していくのである。
それはフロントメンバー個別の問題性中心のプロットを離れないと見えてこない性質の全体構造で、五人のユニットが劇中世界の他の人々に関わり働きかけていくことが主体となるプロットでなければ活きてこない種類の性格である。
聞けば横内謙介はこれまでTVドラマの脚本を手掛けた経験が一度もなく、舞台とは異なるTVドラマの作法を一から学びながらの不自由な脚本執筆であったらしい。その意味では、当初のエピソードの語り口が若干もたついて見え、他の書き手が書いた脚本で狙いが明確化するというのも仕方ない事情かもしれないと思う。
TVドラマ未経験という弱みが直接表面化しているのは、細々した作法の問題もさりながら、この各話配分の部分だろうと思う。御神酒徳利の迷コンビである要と双葉は毎回前面に出ているが、ケダマとさやかをそれぞれフィーチャーしたエピソードを個別に設定したために、一見キャラ廻しの構成に見えると同時に、ハマキョーだけが味噌っかす扱いに見えてしまうという難点もあった。
このような語り口を最初から提示するなら、ケダマやさやかの問題性を直接筋立ての核に据えるのではなく、同好会結成に至るプロセス主体の筋立ての中でちょっとずつ進めて見せればよかったのだが、最初にドカンとやってしまったのはその辺の連続物の配分が掴めなかったからだろうし、まず五人の結束に至るまでの筋道を完結させておかないとその後のストーリーを描く余裕がないという都合もあったのだろう。
ひょっとして、今後物凄く中途半端な時期にハマキョー主役のエピソードがポッカリ描かれるかもしれないが(笑)、今後第四話に視たようなエピソード構築が意識的に手法化されていくのであれば、意外に善戦するかもしれないという期待を持った。
また、冒頭のくだりを論じた一人のセラムン莫迦に戻ってこの流れを視るならば、このような複雑な全体的物語性のダイナミズムと主人公の魅力の立て方はまさしくセラムンの最良のエピソードに視られた美点であって、オレが憶測したように横内謙介の内面の仮想敵が実写版セラムンという作品群であるのならば、このエピソードの方向性を貫くことで十分に勝負できるという期待が持てる。
ややもすれば全体的物語性が好ましからざる逸脱へと向かったセラムン後半の蹉跌を乗り越え、ワンクールの一般ドラマとしての短期集中の利点を活かしてシンフォニックなシリーズ構成を完遂することが出来れば、それが翻って白倉的なシリーズ構成観に対して一矢を酬いる実例となるだろう(一応断っておくが、セラムンにおける白倉Pの采配は表舞台のライダーとは若干方向性が違うのだが、その詳細は一口で語りきれるものではなく「失はれた週末」をご一読いただくしかない)。
その上でさらに視聴率まで稼げれば、詭弁家で鳴らした白倉Pもグゥの音も出まいと思うのだが、まあ、如何に強力な裏番組が控えるCX火九枠とは言え、一〇%を割り込むという当否ラインを完全に踏み外した悲惨な現状から考えて、そこまで欲張ることは出来ないだろう。下手をすれば他の番組から一週遅れて始まったこの番組が、他の番組と同時に幕を閉じる最悪の事態も危惧されないではない。
精一杯頑張ってフロントを演じている五人には悪いが、細木数子という人の人気で数字を取っている裏番組に対して、数字を持っていない知名度の低いキャスティングで演じられる話題性のないドラマがドラマ性そのもので対抗することは難しい。
先週までの印象では、このまま芳しからざる結果になってもしょうがないかな、という程度の愛着しか持っていなかったのだが、今週感じたこの好感触が書き手が代わった故かフロックか本質的な狙いどころなのか、きちんと最後まで見届けてみたくなった。
こんなところで現時点におけるこのドラマの話を終えたいと思うが、ちょっとそれに絡めて無駄口を叩くとすれば、
夜中にやってる「ダンドリ娘」って、結局何がしたいのか?
…という疑問がある。この番組はCX系深夜の「青春★ENERGY」という一種の番宣ドラマ枠の一本で、CX系列の映画やドラマとのコラボ企画をメインとした若手の試用機会的な枠のようなのだが、ダンドリ本編とは設定を共有しているというだけで内容的にはまったく無関係なショートドラマである。
内容的に無関係なことそれ自体は何ら問題ではないスピンオフの一手法なのだが、チアダンスというテーマとも関係ないし、一部ダンドリ本編の暇そうな脇役陣も絡むがそれほど密接な関係があるわけでもない。
ダンドリが放映開始してからは多少本編の脇筋に言及するようになってきて、「警部補古畑任三郎」における「巡査今泉慎太郎」のようなポジションの番組なのだが、本編の放映日と曜日がズレていることもあって、本編との連続性における話題を筋立てとして取り扱っているわけではない。ダンドリ本編の劇中世界のムードとまったくそぐわない妙にポップな一軒家(家主である主人公の兄がゲージツ家という設定)を舞台とした一種のシットコムである。
おそらくこのエントリーの趣旨からして最も興味深い部分というのは、実写版セラムンで愛野美奈子を演じた小松彩夏が主演しているというところだが、それを除けばどこもいっさい取り柄のないドラマで、ダンドリの番宣にすらなっていないと思う。
肌合い的には荒川稔久の「鋼鉄天使くるみpure」系統の番組なのだが、コンセプトとしては、さつき高校近くの一軒家に屯する男女生徒数人が、未体験なあれやこれやのイベントの「段取り」を妄想するということで、いわばダジャレの一発ギャグである。これだけ聞けば他愛ない妄想映像を中心にしたバラエティショー的なユルい深夜番組を想像するのだが、まあ大枠の決め事はその通りである。
モテたいヤリたい盛りの高校生たちが、合コンだのデートだの花火大会だのの段取りを計画し、デカブレイク・テツ役でお馴染みの吉田友一演じるマニュアル男が知ったかぶりの知識を披露して仕切りまくるのだが、その後で女子組がバリバリの本音トークでそのマニュアル知識が悉く外した勘違いであることをコキ降ろし、最後に現実編と題してそのイベントがどのような結末を迎えたかを描いてオチにしている。
要するにダラダラしたトーク主体の半バラエティドラマなのだが、一軒家という限定された舞台におけるコメディということを意識したのか、妙なスラップスティックの要素が筋立てのメインとなっていて、これが全然面白くないのである。
毎回登場人物が、何かしら互いに隠し事(大抵何かを誤って毀す)を抱えていて、それが他の仲間たちにバレないようにドタバタを演じるという退屈窮まるルーティンが芯になっているのであるが、このドラマのつくり手たちは、何か根本的にシットコムやスラップスティックを誤解しているのではないかと思う。
オレもたいがい学園ドラマには寛容なタチだから、若い女の子が制服姿で右往左往していればどんな糞でも何となく許してしまうのだが、この番組はさすがにつまらなすぎて、たった二〇分観ているのも苦痛である。
先ほど挙げた小松彩夏、吉田友一以外にも、ウルトラマンマックスでエリーを演じた満島ひかりも出演しており、深夜に観る分には出演者に不満はない。普通なら話がつまらなくてもこのレベルの連中がウロウロしているのを漫然と観ているだけで何となく満足してしまうはずなのだが、つまらなさが苦痛に感じられるというのはかなり稀有な体験である。
それは多分、隠し事がバレないようにドタバタを演じるのが面白いという寒い感覚に対して凄まじい拒否感情を覚えるためではないかと思う。最低限、固定された舞台への人物の出し入れと人物相互の思惑の相違でおかしみを生起させねばならないということは意識されているようだが、幾ら深夜枠でも、
シナセンのワークショップの習作みたいなものを公共の電波に載せて流すのは如何なものか
と思う。
ダンドリ放映に先行して番宣的な位置附けで放映を開始した番組だが、ダンドリの初回視聴率が桁外れに低かったのは、もしかしたら、このスピンオフ番組と同じくらい面白くない番組だと解されたからかもしれないなぁ。
そうだとすればこの番組のスタッフの責任は重大だが、多分誰もこんな番組を観ていなかっただろうし、もし観ていたとしても第一話で視聴を中止してダンドリ放映までにはすっかり存在を忘れていることだろうから、それはオレの思い過ごしというやつだろう。
まあ、つまらない番宣ならやらないほうがナンボかマシという貴重な実例とは言えるだろう。
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