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2006年9月13日 (水曜日)

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そういうわけで、結局番組が終了を迎えた今頃になって「下北サンデーズ」を語ることになったわけだが、まあこの番組の悲惨な成り行きの一部始終を見届けてから語るというのも天の配剤というやつだな。

ドラマがスタートした時点では割合面白いと感じていたし、作劇の方向性も間違ったものとは思えなかった。最初の最初から視聴率が悪かったのも、おそらく題材の選択が幅広い層にアピールするものではなかったからだろうと考えていた。しかし、打ち切り終了という結果を踏まえて現時点で全話を振り返れば、良かったエピソードのほうが少ないという数字に見合った内容でしかなかったと思う。

主演の上戸彩も「アテンションプリーズ」に続いて下北サンデーズにおいても不愉快主人公の汚名を着せられたわけで、当たり役に恵まれない不遇期という印象を強調したに留まった。どうしても役柄と中の人を結び附けてイメージするのが世の常なので、沢尻エリカとは別の意味で根性悪的なパブリックイメージが一人歩きしないか、他人事ながら心配になってくる(笑)。

ぶっちゃけ、個人的な主義には反するものの、言及するタイミングが遅れたことで結果から遡って言えば無駄になる手間が省けて楽が出来たと言えるだろう。この番組に限らず今季のドラマ全般に言えることだが、視聴率不振や打ち切り決定(通常、視聴者がそれを識るよりかなり早い段階で決定される)に腐ってテンションが下がるのは人情として仕方ないから、後半もっと盛り上げろと贅沢は言わないが、消化試合と雖も努めて初期話数のレベルをキープして終わるのがつくり手としての誠意というものだろう。

もっとぶっちゃけて言えば、今季のドラマレビュー全般、結果から遡って言えば無駄な労力だったと言えるだろうから、その意味では、二週間程度坂東問題にかかずらっていて何本か放映中のレビューを落としたことは、結果的にはよっぽど有意義な時間の使い方になったということになるだろう———まあ、ちょっとくらいは無駄に潰れた時間もあったけどな(笑)。

数年に一度の大不振期という個別事情もあろうが、今季のドラマ全般の後半における失速振りと投げやりな納め方は、数字というマッスに顕れなければ視聴者満足などどうでもいいという本音が剰りにも露骨に窺えてかなり萎えた。

今回は詳述しないものの、今季のドラマ視聴率の低迷には、作品それ自体の責任も応分にはあるだろうが、おそらくかなりマクロな社会的背景が大きな要因としてあるのではないかとオレは考えているのだが、そのような状況において数字のとれない番組には歴然とやる気をなくすというのは、剰り今後に益する態度ではないだろう。

以前何処かで触れたと思うが、オレは基本的に番組開始時点では、努めて物事を好意的に解釈するようにしている。つまり、好悪の何れにでも判断できるのであれば、敢えてポジティブに解釈するということである。それが「解釈」でしかない以上は、物事がすべて終わってからでなくては十分な意味的根拠を持ち得ないはずである。根拠もなく途半ばで批判して切り棄てるよりも、わずかでも期待が持てるなら、最後まで好意的な姿勢で見守り続けるほうが穣りが多いと考える。

わざわざ先行きの読めない連続ドラマを毎週観ているのだから、物事を悪意的に捉えたところで何ら益はない。オレの個人的な規範では、つまらない作品を視聴し続ける損と面白い作品を見逃す損では、後者のほうが大きな損である。その意味で、すでに終わってしまった語りのプロセスである劇場映画やVシネマと、連続ドラマ(この場合は特撮番組も含まれる)の各話に臨むスタンスは少し違う。

勿論これは、時間をやりくりして連続ドラマを継続視聴するより、他にもっと楽しいことがたくさんあるというごく普通の視聴者の方々にとっては無関係な規範である。オレという個人にとっては、連続ドラマや劇場映画などの映像作品を観ること、そしてそれを語ることが趣味生活上のプライオリティを獲得しているという個人事情故の窮めて個人的な規範である。

それ故、終わってしまった今だからこそ言うのだが、このドラマは大枠のコンセプトからして間違っていたのだと思う。かなり初期の段階においてオレがこのドラマにどのような期待をかけていたかというのは、こちらの方のブログでのコメントのやりとりに詳しい(対話が長引いて複数のコメント欄に分割されているので、興味がおありの方は順に辿ってみていただきたい)が、結果から言えばこの方の予想のほうが当たってしまったということだ。

このやりとりにこのquon913 と仰る方とオレのブログのコメンタリーのスタンスの違いが端的に顕れていると思うのだが、最初の最初からオレはこの方とは議論になりようがないと考えている。あなたと私の間で共有可能な規範に照らして考えれば、オレとこの方の間で殆ど認識のズレはないのだから、あとはそれを個人的規範に照らしてどのように価値判断するかという問題になる。

そして、オレは当ブログに限らず映像作品に関する言及全般の基本的姿勢として、あなたと私の間で対話が成立し得る事柄を中心に語ることを主眼に据えている。オレという個人の中でしか成立しない事柄は、煩瑣に亘ってもその都度註釈を入れるようにしているのだし、それはその言説がオレという特定個人の発話であるという自同律の限定を免れない以上、書く行為と読む行為によるあなたと私の対話における特記事項としての重みしかない。

しかし、この方のほうはそのようなスタンスで感想を書かれているわけではないのだから、そもそも議論になりようがないのである。オレがこの方のブログを巡回しているのは、客観的な部分における認識がほぼ共有されているという前提で、まったく感じ方の違う他者の意見が事新しく面白く感じられるからである。

オレが面白くないと思うものをこの方が面白いと思ったからといって、それに文句を附けることなど誰にも出来ないだろう。その面白いと感じる個人性を発話する仕方に隙がないのが面白いのである。

作劇面における重要なポイントを見落としたために意見が違うというのなら、議論以前にお話にならないが、この方のどのレビューを読んでもそこはきちんと押さえた上での意見になっていて、尚かつ大概の場合オレとは最終的評価が逆であることが多い。感じ方や嗜好を評価軸とした場合の一種の対照意見として面白いということで、オレの立場から視た場合にこの方の他者性が有為に働くということである。

この下北サンデーズに関しても、オレ個人としては中盤までの段階では好感を持っていたし、就中第四話の「ベタをベタのまま最大限に活かす作劇手法」には感銘を受けたこともあり、第五話のレベルダウンも連続ドラマであるが故の歩留まりの埒内と考えていたのだが、この方はその時点でかなり強硬な反撥を覚えたようだ。

コメントのやりとりを読んでいただければわかるように、両者の間に基本的な認識の差異はないし、第四話が「身内の上京物」のパターンを最大限に活用した良作であるという見解も一致しているのだが、この方は第五話のキャンディの去就を巡る挿話の組み方にかなり強い反撥を感じておられる。

この方のいつもの鑑賞のスタイルなら、そこは作劇のアラとしてきついツッコミを入れながらも、トータルでは役者の肉体性が演じる一連の芝居の呼吸、映像娯楽の呼吸として面白かったとか面白くなかったとかいう論旨になるのが常なのだが、何故かこの作品に関しては、映像作品の肉体性の部分よりも、作劇や状況設定、筋立ての意味性という観念性の部分を巡って強い反撥を表明しておられるところに興味を持った。オレとの具体的なやりとりに入ってからも、その性格は変わらなかったように見受けられた。

オレの感じ方としては、未熟者の小娘が大の大人に説教するのは、変身ヒーローがとりあえず変身するのが大前提であるように、主人公の新入者が既存の集団に変革をもたらす物語という虚構の枠組みを成立させるための大前提であり、その既定の結論に持っていくまでの語り口の巧拙にこそ論ずべき問題点があると考えている。

だからこの方ではなくオレがそこに拘って批判するというのなら自然な流れだが、オレは前記の通り連続ドラマのスタート時点においてはその辺の評価基準を緩めに設定しているので、この部分に関しての絶対評価は、すべてが語り終えられてから更めて考えることとしてこの時点では捨象していた。所詮その部分が拙くても、それは単に「ダメなエピソード」だったという個別の作劇実践の問題に収斂すると考えていたのである。

逆に、この方は他の作品に関してはその種の事柄はブログ記事上の芸として指摘するのみに止め、鑑賞上の大きな拘りを持っていないようなので、何故この作品だけその基準の重要度が反転しているのか、この時点においてこの作品全体の在り方の問題として観念的な視座から捉えるのか、そこに興味を持ったわけである。

結論から言えば一種の当事者性の違いということになるのだろうが、雑駁に括ってしまえば、ある特定の個人には笑って見過ごせることとそうでないことが厳然とあるということだろうと思う。受け手の個人性の部分において、笑って見過ごせない問題に無神経に言及しているドラマなど、わざわざ時間をやりくりしてまで観る絶対的な動機はないという態度であって、これは発話する個人として潔い姿勢だろう。

おそらく他の石田衣良原作ドラマ同様に、キャラと設定だけ戴いて自由度の高い無内容な成り上がりストーリーに徹していれば、この方のような当事者性を抱える方がどのような受け取り方をしようとも、オレ個人の規範としてはアリだったと思う。

このドラマが扱っているような対象については、所詮オレは如何なる意味でも当事者性とは無縁なのだし、例えば一般的な刑事ドラマが警察関係者に向けてつくられているのではないように、「サプリ」や「恋ノチカラ」が広告関係者に向けてつくられているのではないように、物語とは本来非当事者に向けた嘘まみれで興味本位の「他人事」としてつくられているものなのである。だからこそ、物語の鑑賞においては扱われるテーマに関して当事者性を持つ受け手のほうが特殊例と位置附けられるのである。

だが、実際のシリーズ構成としては、原作の鬱展開の筋立てをかなり忠実になぞることが既定事項だったらしく、劇中で「下北の神」と位置附けられた虚構人物としてのケラリーノ・サンドロビッチが、早い段階で「売れるな」というワケのわからない無責任なご託宣を打ち出していて、これがこの物語の本筋であると同時に躓きの石でもあったわけである。

ケラにはケラの考えがあって実名で出演したのだと思うが、このドラマ後半の流れの意味性でいえば、彼はこの短い一言によって彼自身が率いる「売れた劇団」であるナイロン100℃の存在を否定的に意味附けてしまったのだし、どんなに売れても下北にベースを置いて活動し続ける小劇団出身の著名俳優全般を不純な姿勢として断罪してしまったことになる。

泣かず飛ばずの小劇団が飛躍を迎える際には、通過儀礼として立ちはだかる壁を越えねばその先の発展がないという意味ならわかるが、神格的存在からの「売れるな」という託宣の形をとる以上、売れること自体が間違っているという意味になるのだし、売れることで招来される困難は回避不能の頽落であると意味附けられてしまう。

独りナイロン100℃ばかりか、劇団新感線だのWAHAHA本舗だのキャラメルボックスだのというメジャー劇団すべてを、サンデーズ的な在り方に比べて「売れている」という絶対基準に基づいて本来的な姿からの頽落と断罪したことになるのである。

だが、勿論そんな莫迦なことがあろうはずもない。

それでは、下北演劇全般の存続形態をまるっと全否定である。

それが小劇団演劇であろうとも、芸能の世界に身を置く者にとって「売れるな」というのは莫迦げたセンチメンタリズムでしかない。どんな矮小な規模であれ、演劇とは決して演者の自己満足や作家の個人性が突出した純粋芸術ではなく、その演劇空間に共に在る観客と演者との間に持たれる共時的な祝祭体験であり、猥雑で気取りのない大衆芸能である。

小規模なハコ故の場の特殊性や個別性というものがあるとしても、それはその規模を無限延長した不特定多数との共時体験と断絶したものではない。つまりそれが大衆芸能である以上、売れることを原理的に否定するどんな理屈も成立しないはずである。

一握りの「わかってくれる」ご贔屓さんだけを対象にした大衆芸能など、唯の身内の学芸会でしかない。得体の知れない不特定多数のマッスを対象とするからこそ大衆芸能として健全なのであり、不特定多数が対象である以上、原理的にその規模の大小は本質とは無関係である。

また、ケラにしろ祖父ちゃんにしろ、すでに芸能界の泥水を散々呑んできた先駆者たちが、サンデーズのメジャー化を批判する根拠として組織分裂の問題や芸能プロによる専横的なマネジメントを否定的に語るのであれば、それは個々の劇団の個別事情ではなくメジャー劇団の抱える本質的な問題であると規定することになる。

何故なら、それが個々の劇団の個別事情と認識されているのであれば、「オレたちは失敗したけど、おまえらはオレたちの教訓を活かして頑張れよ」と励ませばそれで済む話であって、メジャー化それ自体を原理的に否定する根拠とはなり得ないからである。

だからオレは、ケラの「売れるな」発言があった後も、秘かにゆいかを見守っている祖父ちゃんが、事態の急転を受けて動揺し分裂するゆいかやサンデーズを励まして、舞台演劇の在るべき姿と演技の真髄を語り、今後の道を示す方向性へ向かうのだろうと期待していた。

ベタではあるが、物語要素としての「伝説中の人物」の存在価値はそれ以外にないからである。ところが、散々勿体ぶって登場した祖父ちゃんは、自身の劇団運営の失敗談を一くさり語った後、愛する孫に演劇なんて辞めてしまえと訳のわからない暴論を口走るのである。

この場面で祖父ちゃんがゆいかを諭すロジックは、世間の荒波から自分の身内を庇いたいという凡庸な情緒的動機以上のものではない。要するに、同じようなことをして自分は失敗したから、自分の孫にはその轍を踏ませたくはないというだけの話であって、それは血縁者故の守旧的な痴愚心という以上のものではない。

それどころか、この場面で祖父ちゃんがこのような意味の説教をするなら、同じ演劇経験者である必要もないし「伝説中の人物」である必要もないのである。単に、先行きの保証のないことは失敗する可能性が高いからやめとけ、という誰でも語れるような身も蓋もない一般論にしかなりようがない。

本来、ここで祖父ちゃんがかつて下北で鳴らした演劇人の元締めであるという過去をバラすのであれば、ゆいかに舞台演劇の本道を示唆して、演劇への個人的な動機附けを施す役回り以外ではあり得ない。

そして、それがゆいかの身内の祖父の物語である以上、その祖父の血がゆいかにも流れている、つまりゆいかにとってそれが一種の宿命であるということを視聴者に確認させる役回りでなければならないはずである。それ以外に主人公の祖父が、彼自身同じ道を歩んだ伝説的な先駆者であるべき意味は成立しない。

しかし、彼が劇団組織自体の存在意義を否定的に捉えているのであれば、自身の過去をも否定的に捉えているということになるが、だとすれば、自身の過去を肯定的に意味附けることすら出来ない老境の敗残者に、何を学ぶべきことがあるというのか。

剰え、どさくさに紛れてこの新人女優の係累にすぎない劇団運営に失敗した老人が、赤の他人であるサンデーズ自体の存続の是非まで裁断し、それに対してサンデーズの面々が縁もゆかりもない老人に土下座してまで存続の許しを乞うという、何をどうしたいのかサッパリわからない理不尽な展開に突入する。これが一応のエピソード中の山場と設定されている以上、ギャグのつもりではないことは明らかである。

このドラマのストーリーラインの迷走はここで決定附けられたと言えるだろう。

さらには、このメジャー化による頽落と関連附けてTVドラマへの出演が批判的に語られているが、TVドラマや映画の現場が如何に演劇と性質を異にするとはいえ、それはその場その場のジャンルの個別性の問題であるにすぎない。持ち出しの趣味ならともかく大人の職業実践として視るなら、他人様から金をとる以上はTVドラマも映画も舞台も同次元の職業演技である。それらの間には何ら本質的価値の優劣はなく、恵まれた現場であるかそうでないかという実態論的な差異しかない。

演劇活動を生業のベースに据えたいという個人的な動機を持つ職能者が、その生活上の基盤を得るために演技という職能に基づいて芸能活動のフィールドを拡げただけにすぎないのだから、TVドラマや映画の仕事が出来ない・やりたくない舞台人に職業演技者として何の特権的優位性があるというのか。

例えば最終回の筋立てでは、誰がどう視てもTVドラマに対する舞台演劇の優位を謳う運びとなっているが、それをレインボーブリッジという道具立てで他局の制作姿勢に付会したとしても、TVドラマにおいてTVドラマの劣等を語るという噴飯物の自家撞着は免れない。

この場合、イメージ誘導で他局にこじ附けるかどうかという表面的な事柄が問題となるのではない。他局・自局という局の弁別が意味を持つのであれば、制作姿勢のキチンとした局のドラマに出れば問題ない、今回はそうじゃなくて運が悪かったね、というだけのことになるからである。

これを本質的な問題として扱う以上、TVドラマに携わる者がTVドラマ一般をどのように視ているのかという自己言及の問題となるのであり、劇中で否定的に意味附けられたようなかたちでTVドラマを視ている人間がつくっているTVドラマこそがこの下北サンデーズであるという意味にしかなりようがない。それが自己言及のウロボロスである以上、そんなニヒルな認識を抱いている連中のつくったドラマをこれまで見せられてきたのかという不快感に直結するのは当たり前である。

そもそも、満足にリハも行わずDが淡々とテキトーな判断でOKを出す現場なら、演技者のほうでそれに対応して自他に羞じない仕事の仕方を模索するのが筋である。その意味では、TVドラマのちゃらんぽらんな現場を偉そうに批判するゆいかの甘ったれた姿勢こそが批判されるべきであって、リハもダメ出しもないのであれば、自身の自助努力において一発本番で現時点におけるベストの演技を演じるべきである。少なくとも、何であれプロの技能者とはそういうものだろう。

ベストの環境が与えられない、監督者の怠慢ぶりが我慢出来ない、他人がやるべきことをやってくれない。それが不満だなど、そんなのは唯の甘えでありアマチュアリズムでしかない。決着するところ、このドラマのテーマはそのようなアマチュアリズム礼賛という意味にしかなりようがない。

みんなが結束して真剣にやっている、純粋に芝居が好きだからやっている、「そこが私のいるべき場所だ」と言うのなら、結局は、楽しいことだけしていて金をとってもいいのか、また、金がとれなくても楽しいことだけしていればいいのか、という根本的な職業観の問題や社会における個人の在り方の問題にも発展するだろうし、プロの表現活動の意義をどのように考えているのかという疑問にも発展する。

そこをスルーしてしまうのなら、誰からも強制されずに好きなことを思い通りにやれる趣味の活動は楽しくてストレスがないね、というつまらない話にしかならない。

このドラマにおいては、劇団がメジャー化して陽の当たる場所に進出し、個々の役者が芸能活動のフィールドを拡げて自身のたつきの道を確保することは、演劇集団として本質的な間違いであると意味附けられたのである。喰うや喰わずで低賃金のアルバイトに精を出し、老後の個人生活の希望もない状況で、殆ど誰にも見向きされない演目を貫徹することが純粋な小劇団演劇の在り方だと意味附けたことになるのである。

ここにこのドラマにおける本質的な小劇団観の歪みがある。「小」劇団とは、目的ではなく出発点にすぎないのであって、ある独立資本の演劇理念なり演劇活動なりが、その出発点においては小規模でしか成立し得ないという当たり前の現実的事情を規定するものでしかない。それはつまり、「小」劇団というのは恒常的な組織概念ではなく、ある演劇理念や演劇活動の過渡的な出発点を規定する概念にすぎないということである。

普通なら、劇団が売れることで個々のメンバーが忙しくなったり、内部分裂の危機や大手芸能ビジネスとの軋轢の課題を抱えるのは、解決を前提とした当たり前の通過儀礼なのだし、その結果劇団の組織としての在り方や演目の性質が変化していくのも当たり前の変遷である。

そもそも、小劇団であれ大劇団であれ劇団というもの一般がそのような性質のものなのだし、博く言えば職能組織一般がそのような性質のものである。そこに普遍性があるからこそ、その部分への無神経な言及が当事者性を超えた不快感として視聴者を刺激するのである。

そこに専従者がいる以上、職業演技によってたつきの道を得たいと望むのは当たり前であり、普通は劇団へ加入する個人の原初的な動機はそれであって、ゆいかのように特定の集団に魅せられたからその仲間に入りたいという動機はむしろ邪道である。

リンク先の方が仰っている通り、小劇団とはクラブ活動の仲良しごっこではない。何ら大規模芸能ビジネスのバックボーンを持たない個人が、演劇人として依って立つための互助的な基盤となるものであり、アイドルや人気俳優などの衆に優れた特権的カリスマによって演じられるビッグビジネスとしての芸能活動以外の、ごくカジュアルな職業演劇の在り方を成立させるための便宜的な組織システムにすぎない。特定の人間集団の和や親睦や情緒生活それ自体を目指す目的的な組織集団ではないのである。

だから、ドラマのスタート時点におけるゆいかのサンデーズ愛については、その集団内部における個人のモチベーションの過渡的な在り方の一つとして間違ったものではないだろうが、あくたがわ翼がゆいかの女優としての天稟を見出したことを契機に、その演劇人としての成長を描くのが目的であれば、それはサンデーズの面々という他者との関係性を抜きにしたゆいか個人の演劇に対するモチベーションの問題にスライドしていかねば嘘である。

芸能界とはさしたるモチベーションや努力がなくとも、運や才能だけで成り上がれるものであるというシニカルなテーマが語りたかったのであれば、それこそキャンディのエピソードに内包されていた問題性と重なるのであり、どんなに望んでも得られない者の不遇とさして強い望みを抱かぬ者の成功の対比を残酷に提示するという描き方もあっただろう。それだって、おそらくこのジャンルの一面の真実ではあるはずだ。だが、このドラマは結果的にそのどちらにも踏み込むことはなかった。

石垣佑磨演じる八神の自殺未遂も、サンデーズメジャー化がもたらした最たる悲劇として描かれているが、メンバー随一のサンデーズ愛を誇る彼が劇団の現状に痍附いたという動機が本筋に据えられ、劇団仲間が至極ご尤もな現実問題を語ったことで、自身がこれまで抱いていた幼稚な幻想の意義が否定された故の絶望と描かれているのが剰りにもイタい。

一〇年もの長きに亘って不遇な境涯に甘んじてきたとは言え、それこそ大の大人の職能集団なのだから、他人の事情はどうあれ個々人の演劇への想いや信念が行動上の最大のプライオリティを具えていて然るべきである。その意味では、サンデーズの面々は他のメンバーの動向に振り回されすぎである。

一種の人情劇として視れば、自身の抱える現実問題はそれとして、これまで共にこの世界で泥水を啜り支え合って生きてきたともがらに対する抗えぬ情の動きとして、どうしようもなく他者に関わり合ってしまうという、つかこうへい的な情念の物語もアリはアリだろう。

だが、今のサンデーズが自分の想っていたものとは違うからといって自殺未遂を起こす八神の行動は、どうしようもなくイタい子どもそのものである。たしかに、金持ちのボンボンなのだから、多少はプロレタリアート貴族のような精神的に脆弱な部分があるのもリアルではあるだろう。

しかし、これまで影からゆいかを支えてきた優しいお兄さん格の八神にやっとこの時期になってスポットが当たったと思ったら、劇団分裂の危機に際して脳天気にバースデイケーキを担ぎ出し、それがまったく無為に終わったために泣いて逃げ去るというのではギャグにすらならない。

八神個人がサンデーズをどう視ていようとも、それは八神の身勝手な思い込みにすぎないのだし、独立採算の貧乏人から親掛かりの金持ちのセンチメンタリズムと批判されたらそれまでの話である。

そして、どうやらこのドラマにおいて、八神のサンデーズへの想いはそれ以上の意味を持たないと意味附けられてしまったのである。サンデーズに対する八神の愛は、劇団分裂の危機に益する「力」ではなく、所詮は八神個人の抱える問題性に過ぎなかったのである。

サンデーズのバースデイを祝って初心を想い出させようというプレゼンテーション演出が踏みにじられた後でも、八神の口から八神なりの自身の想いへの揺るぎない信念が毅然として語られたら、それがセンチメンタリズムだとしてもそれはそれで他人がとやかく口を出すことではないだろうし、その想いの強さに引きずられるという描き方も人情劇としてはアリである。

だが、感情的になったメンバーのキツい言葉に痍附いて泣いて謝ってしまい、そこから八神個人の脆弱な精神性という問題が浮き彫りになってくるというのでは、その程度の軽い想いでしかなかったとしか思えない。そこから自殺未遂に発展するのでは、他人の赤裸々な言葉や現実の厳しさにヘコんで抛ってしまう程度の、温室育ちのボンボンのお軽い人生観にしか見えない。この男がサンデーズを愛しているのは、金の苦労のない人間にとって、現実的利害関係を持たない仲間たちに囲まれて過ごすことが単純に心地よかったからとしか思えない。

その仲間たちの経済的な窮乏や人生の焦りなど、所詮他人事でしかなかったというふうに見えてしまい、八神のサンデーズへの想いそのものが、他者の人生に胡座をかいた無神経で身勝手なものとして否定的に意味附けられてしまう。それ故に、八神の自殺未遂がメジャー化によってもたらされた内紛を収集して再びサンデーズの結束をもたらすという筋書きも、甚だ微妙な印象を与えてしまう。

八神の自殺未遂は、八神自身のサンデーズへの想いの身勝手さが浮き彫りにされた後で起こるのだから、自殺という弱い選択に逃げたことだけがよくないわけではない。身勝手な思い込みが破れた幻滅を身勝手な手段で清算しようとしたのだから、八神の行動のどこにも視るべきところはないのである。いわば、他のメンバーが八神のために奮起するのは、単に自殺しようとした仲間が可哀想だからというだけの理由である。

つまり、ケラの「売れるな」という託宣が一種の予言となって八神の自殺に至るまでに実現された数々の悲劇には、メジャー化を否定的に意味附けるための筋道が全然成立していないのだし、八神の自殺未遂も単なる幼稚な妄動にすぎないのだから、物語構造のうえで「サンデーズが間違った方向に向かったことで、繊細なメンバーが追い詰められて死を選び、それに打たれて皆が初心に返る」というベタな筋書きが、どれ一つとして満足に成立していないのである。

自殺未遂という命のかかったイベントが設けられているにも関わらず、その重みがドラマに跳ね返ってくるどころか、ドラマの軽さの故にかけられた命の重みが軽く見えてしまうのである。小劇団に夢をかける者のなかには、八神のように幻滅から自身の命を断とうとする者もあるという取材的事実を織り込みたかったのであれば、それ相応の配慮をすべきであるし、そうでないならドライなギャグとして突き放すべきだった。

いや、いっそ確信犯的にギャグとして描いてくれたほうが「根性悪いなぁ」と思いつつドラマとしては成立したのではないかと思う。小劇団の下北双六も人情劇もギャグの方便にすぎないのだというのなら、ちょっと人が悪すぎるとは思うがそれもドラマとしてはアリだろう。貧乏生活も挫折故の自殺も、引きの視点で視ればみんなただの笑い事にすぎないのだし、そのようなビザールな語りの視点だってアリはアリだろう。

だが、演出者の本心がどうあれ、客観的に視てこの場面はシリアスな情動の山場として演出されているのであり、受け手としては笑っていいのか泣けと迫られているのか非常に微妙な気分になる。そして、この種のシリアスさは、たとえば稽古場を追い出されるとかあくたがわの求愛を斥けるとか、自身を卑下する千恵美を鼓舞するなどという場合のシリアスさとは次元の違うものなのだが、このドラマの語り口と構造は精々その程度の日常性のシリアスさに見合ったものでしかない。

つまり、ケラの「売れるな」発言以降の筋立ての方向性は、このドラマの演出タッチやルーティンワーク的な構造では受けきれないものであり、初期に提示されたドラマのテイストから言えば、妙にリアルだが妙に現実離れしたギャグドラマを虚実の微妙な兼ね合いの下に描いていく方向性しかなかったのではないかと思う。

初期エピソードで、極度の貧乏や劇団内の乱脈した恋愛模様、実家との確執というリアルな下北演劇事情をドライなギャグで笑い飛ばし、ベタな人情劇に絡めてちょっとだけホロリとさせたように、下北演劇という題材を視聴者の覗き見根性的好奇心を満たすためのネタ以上のものと視ないという割り切り、逆に言えば純然たるネタとして扱う際の節度が必要だったということだろう。

不幸にして堤幸彦は、その種の節度だけは間違いなく持ち合わせていないのである。

如何に凡庸であろうとも、本多劇場を上がりとする下北演劇双六をなぞる単純で脳天気で無内容な貧乏人集団の成功物語に徹していれば、これほど訳のわからない迷走をすることもなかったはずなのである。

視聴者の誰も、堤幸彦の名前が屹立するドラマに真剣な人生の秘奥や芸事の真髄語りなんか求めない。というか、「こいつにだけはオレの大事なものを語られたくない」というのが視聴者の偽らざる本音だろう。興味本位の他人事だからイケズでドライなギャグとして楽しめるのである。

道具立てだけは確実に面白い堤演出主導のドラマであれば、その道具立ての面白さと痙攣的なギャグで、単調な予定調和の出世物語を面白い娯楽活劇として押し通すことも出来たはずである。

だがそれは、原作のストーリーラインをなぞるという当初の規定事項から考えれば、そもそも成立の芽はなかったということである。オレが初期においてこのドラマを好意的に評価していたのは、それが徹底的に無内容な話だったからであり、この在り来たりな出世物語の筋立てを語ることで痍附いたり不快になる人は(覗き見の対象として晒された当事者以外に)いないだろうと思っていたからである。

そのような無内容性の範囲内において、堤幸彦の無神経で暴力的なギャグ演出も効果的に活きると考えたからである。泣かず飛ばずの弱小劇団がちょっと変人の新人女優の加入を契機に出世の階段を驀進するという、徹底的にどうでもいい絵空事の物語なら、真顔で人生を語れない面白いだけの演出スタイルに好適だと考えたからである。

その意味では、今回リンクさせていただいたブログの主の不快も、当初は覗き見される対象への思い入れの違いと解していたいたのだが、よもやそちらへは行くまいと考えていたシリアスな方向へ物語が進むことで、まさしくこの方が不快に感じられたいたことが物語の本筋として実現してしまったということだろう。

オレは原作を読んでいないから、原作ではこのストーリーラインに内在する噴飯物の小劇団観の歪みがどのように扱われているのかはわからない。普通に考えれば、たとえばアイドルヲタが青田買いで入れ込んでいた三流アイドルがふとしたきっかけでブレイクしたときに、自分勝手な感傷で「売れないままでいてほしい」「売れちゃった○○ちゃんなんて、もうボクの好きな○○ちゃんじゃない」と考える幼稚なヲタの思い入れと本質的には変わらない。

それが感傷にすぎないという認識において、その愚昧な感傷を自嘲的に語ることも小説文芸の方向性としてアリだろうとは思うが、語り手自身がそのような感傷故に歪んだ認識を持っている場合に、それが面白い物語になり得るのかどうかまではわからない。

というか、どうでもいい。多分オレは石田衣良的な物語観は好きではないだろうし、ドラマにおける石田原作とは、取材で得られた街のディテールと対象となる街に相応しいキャラクターを提供することにこそ重要性があるのだろうと思う。

そういう意味では、オレは割合石田原作ドラマを何本か観ているが、本質的には石田衣良的物語観とは無縁な境地で愉しんでいたのだと思う。だから、オレが初期においてこのドラマに好感を抱いたのは、石田原作とは無関係な部分で、題材とキャラクターと語り口と道具立てのマッチングが良いと感じられたことに起因しているのだろう。

このドラマには現実の小劇団俳優が多数出演しているし、河原雅彦を中心とする脚本も一種小劇団演劇の話法の雰囲気を濃厚に漂わせているが、小劇団を主題とする物語においては、眉間に皺を寄せるような深刻な語り口で不遇の人生を活写するより、己の貧乏生活をも笑い飛ばすような一種虚構度の高い狂騒的な語りのなかから、ほんのちょっぴり人生の悲喜劇が垣間見えるというくらいが相応しいバランスではないかと考える。

本来、そのようなエネルギッシュでサービス満点の猥雑なドラマ性こそが小劇団演劇というものの本質なのではないかと思うのだが、それ故に、初期の提示編におけるこのドラマの人工的で過剰な世界観が、小劇団演劇的なテイストを窮めて忠実に再現していると感じられたのである。

この世界観においては、それを演じる者たちの人生の哀感を感傷たっぷりに語る優しい物語性など、お呼びではないように思われてならない。たとえば八神の自殺未遂というイベントなど、むしろもっと無責任なドタバタで「莫迦な奴でしょ?」と悪趣味に笑い飛ばしてもよかったのではないかと思う。

不遇な貧乏人たちの夢に賭ける人生を扱うこの種の物語としては、まずは後腐れなく楽しいこと、他者をイージーに批判しないこと、このような節度が重要だったのではないかと思う。評判の悪いゆいかの演説も、無内容な人情喜劇のドタバタを解決させるための物語装置と割り切って使えば、それほど悪いものではないと思う。

普通の良質のドラマにおいては、劇中のトラブルを劇中人物の演説で解決するというのは剰り褒められた作劇ではないが、それを物語装置として意識化しているのであればその限りではない。

そもそもオレは、第一話からしてゆいかの演説を詭弁だと考えているので、要するに中身のない口車のプレゼンテーションで問題を解決する主人公としての特殊能力と捉えていたし、それが一種女優としての才能に近縁の能力であるという付会も面白いと考えていた。あくたがわがゆいかの才能を見出すのはこの演説がきっかけだから、少なくともこの近縁性は意図的に設定されたものだろう。

所詮、愚かな人間同士の感情面での争い事は、理路整然とした説得で解決が附くものではない。多くの場合、それを解決するのはその場のノリと勢いであり、論理的な納得ではなく感情面での納得である。そしてそのような場合にものを言うのは、プレゼンテーション能力であり、もっと言えば他者を感動させ得る演技力・演出力である。

その意味で、ゆいかが人生の機微を識らぬ未熟者であるかどうか、他人に説教出来る立場であるかどうかというのは、本来的にはどうでもいいことなのである。大して人生を識らない小娘のくせに大の大人を説き伏せる能力があるから主人公なのであり、演技の才能があるのである。

主人公であるゆいかに女優としての天稟があるという前提において、その発露として口車で他人を乗せる才能があるという落とし所となるのなら、極端な話、ゆいかの演説がまったく実のないアカラサマな屁理屈でもドラマとしては成立する。もっと極端に言えば、その屁理屈→説得の道筋の描き方がまったくリアリティのない嘘臭いものであったとしても、このドラマの虚構度から言えばギリギリ成立するのではないかと思う。

所詮演劇を題材に採ったドラマのリアリティとは、安達祐実の子役芝居を「一〇年に一度の天才の演技」に見立てるものでしかないのだし、まして「ガラスの仮面」よりも別の次元で虚構性が突出したこのドラマの語り口においては、上戸彩が豊かな天稟に恵まれた一種の天才女優を演じるという滑稽な虚構性は、もっと意識的にデフォルメされてもよいくらいである。

しかし、これを逆に言えば、このドラマの物語構造においては、実がなくても成立する屁理屈の口車で解決してよい物語しか語るべきではないということでもある。初期のエピソードが面白かったのは、基本的に筋立ての内容が徹頭徹尾どうでもいいドタバタであったからであり、どうでもいいドタバタだから主人公が屁理屈の才能で解決しても後腐れなく楽しかったのである。

ところが、番組後半の流れが不釣り合いにシリアスでウェットなものになったため、口先三寸で解決出来るものでもしてよいものでもなくなってしまった。だからゆいかの演説の不快さが際立ってしまったのであり、TVドラマの制作現場を悪者に仕立ててゆいかに説教させるという不愉快な落とし所に繋がるのである。

このような筋立てにおいては、要するに語り手自身もゆいかの演説を真に受けているということで、所詮は小芝居上手な小娘の屁理屈に過ぎないという節度がない。だからこそ、そのようなものとして成り立っているTVドラマの制作現場を浅い人生観で安直に批判させることが出来るのである。

屁理屈で解決していいのは、結果だけが重視され、どっちに転んでも意味的に良し悪しを問うことが出来ないような悶着だけなのである。第一話のサンデーズに立ち退きを迫る下馬を説得することなど、まさに意味的にはどうでもいい問題だし、第二話のあくたがわの求愛を斥けることも、要するにあくたがわが納得して引き下がればそれでオシマイの話である。

第三話の千恵美を鼓舞する演説だって、千恵美が自信を取り戻せばそれでいいのだから内容などまったくどうでもいいのだし、第四話はゆいかの演説よりもサンボの母の長台詞が場を浚った観があるが、それでも身を以てサンボの必要性を強調するゆいかの演説は好感が持てた。つまり、如何なる手段であれそのような結果が得られればそれでOKという状況において、解決の決め手として虚構的なゆいかのプレゼンテーション能力が便利に使われていただけなのである。

だが問題の第五話の演説は、キャンディの去就という人一人の人生の重大な選択に対して無責任な立場から指図がましいことを言うことになるのだから、quon913 さんが仰る通り、小娘の屁理屈で解決してはいけない事柄なのである。人一人の人生の重みに釣り合うだけの「正しさ」は勿論、それを裏附けるだけの発話者の生き様の積み重ねが必要とされるのである。

他者の人生の選択に対して決定力を持つ言葉は、意味として正しければそれでいいというものではなく、「誰がそれを言うか」が大きな意味を持つ。その言葉の正しさに見合うだけの生き様を発話者自身が実践しているかどうか、即ち実のある言葉であるかどうかが問われるのであり、その意味で「未熟者」のゆいかには決定的に発言権がない。

この状況の場合は、ギリギリキャンディ自身の本心としてサンデーズに留まりたい、引き留めてほしいという「誘い受け」の未練な感情があるからこそ、ゆいかが初心を想い出させてその後押しをするというかたちで一応納得することは出来るが、それでも筋立てが本質的にゆいかの問題解決能力に相応しくないテーマを扱っていることには変わりがないし、それ故にそれまでのエピソードよりも屁理屈演説の歯切れが悪い。

その後の流れを視る限りでは、語り手の認識として、ゆいかの演説の物語装置としての在り方が意識化・手法化されていなかったと解釈するほうが妥当なのだろう。わかっていて意識的にやっているんだろうと考えていたことが、結局わかっていなかったというトホホな結末だったわけである。

所詮、どんな文芸スタッフがついたからといって、堤幸彦主導の企画において、所期条件の範囲内で何が出来るのか・出来ないのか、それが諒解されていると期待することなど無意味だったということである。そういう意味では、今後堤幸彦の企画にはもう無駄な期待をかけるのはやめようと思う。

とまれ、期待をかけていた時期にはまだいろいろと語ろうかと思っていたこともあったのだが、ここまで後半の出来がひどいとそのような気力も失せる。我ながら纏まりに欠けるレビューになったと思うが、何をどう言ったところで批判意見にしかならないことをくだくだしく語ることほど退屈なものはない。

ある種、初期エピソードの「普通に面白い」感覚は近来では貴重なもので、あってもなくても差し支えないドラマであることはたしかだが、普通に面白いドラマが一本でも多いに越したことはない。その意味で期待をかけて見守っていたわけだが、それが後半の迷走によって「普通につまらない」ドラマになるならまだしも、何となく不愉快なドラマになってしまったのは残念である。

とって附けたような終わり方だが、今回はこれにて。

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