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2006年9月14日 (木曜日)

呉智英の軽率

久しぶりの坂東眞砂子問題への言及ではあるが、今回はほんの脇道である。かねてより文藝春秋誌上に呉智英による坂東擁護論が掲載されているという話は耳にしていたのだが、オレ個人が呉智英という論客をまったく評価していないので、ぶっちゃけ全然興味はなかった。

しかし、今日ちょっとまとめサイトを覗いてみたら、問題の文章の全文が掲載されていたので、せっかくの打ち込みの労に酬いる意味で一通り読んでみた。まあ大体予想通りの内容で退屈だったが、どうしてこの手の論者は、わざわざ一稿を起こして議論に加わりながら、ネットの議論まで読み漁れとは言わないものの、他の著名人の意見すら読まないのだろうかと不思議に思った(笑)。

当ブログにおける坂東問題関連のエントリーをすでに読んでいただいた方なら、彼の擁護論がこれまでの論旨で十分カバーされていることはおわかりいただけるだろう。しかも、オレが当ブログで展開した論旨の大部分は別段目新しいものではなく、ネット上の批判意見の趨勢とおおむね一致しているし、マスコミを通じて批判意見を陳べた著名人たちの意見ともそれほど隔たりのある論旨ではない。

このような状況において新たに自身の名を冠して意見を陳べるなら、これまで公表された代表的な意見に対して新たな知見を加えるものでなければ意味がないだろう。すでに予めケリの附いた議論を蒸し返すのでは、いたずらに恥をかくだけのことである。

案の定、呉智英の擁護論は、これらの既存の議論をまったく踏まえておらず、堅苦しい衒学的なタームで修飾しているだけで、意見の骨子は一からループを繰り返しているので甚だ凡庸かつ退屈な印象を与える。そもそも法学部の学生だったという権威附けを施していながら、動物愛護管理法の精神を「獣権」に結び附けて捉えるというのが嗤うべき皮相な法律観である。

呉智英が引いた動物愛護管理法の条文は以下の通り。

第一条 ……国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、
友愛及び平和の情操の涵養に資する……
第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、
傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮……

この条文の何処にも「獣権」などという動物視点の観念に結び附くような部分はないだろう。「生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」とハッキリ明記されているではないか。動物をみだりに殺すことを禁ずる法律の目的は、国民に生命尊重の情操を涵養することだという「人間視点」の観念が明快に語られている。

この短い引用の中で強調されているのは「生命」「命」という要素であって、動物という要素ではない。動物を愛護することは他者への慈しみに繋がるし、命を粗末にしないという美風に繋がるということである。これを逆に言えば、他者への慈しみを忘れ命を粗末に扱うような悪風を抑止するための法律であるということである。

簡単に言えば、動物を無闇に殺す人間が増えることは、社会秩序の危機であるという認識が基本にあるということだ。法律が保護しようとしているのは、動物それ自体ではなくそれを視る人間たちによって構成される社会の一般的な倫理秩序であるということである。だが、この辺の機微についてはすでに何度か語ったことではあるし、今回は端折ることとしよう。

さらに呉智英は、法律の精神を妙な具合に曲解した上で「獣権」という奇妙な概念を捻り出し、以下のように続ける。

池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)という興味深い一冊がある。

この書籍はオレも読んだことがあるし、たしかに面白い内容ではあった。呉智英と同様に、オレも今回の問題に絡めてどこかで触れようかと思ったことはあるが、よく考えるうちにそれには少し無理があると考えるようになった。

この書籍で論じられている「動物裁判」とは、呉智英が要約しているように人間社会の合理が遍く世界全体に適用さるべきであるという人間中心理念に基づいている。人も動物も神の被造物であり神の法に遵う以上、神の法を体現する人間の法は世界全体に適用さるべきであるという、かなりラジカルで極端な思想である。

その思想に基づいて、人間を殺傷した牛や豚が法廷で裁かれて人間同様の扱いで実刑に処されたり、蝗害や鼠害が大規模な被害をもたらした場合には、司教がイナゴやネズミに厳かに破門を宣告するという滑稽な行為が大真面目に実行された時代があった。

呉智英の言及では細かい詳細がまるっと省略されているが、牛や豚やイナゴやネズミに圧し附けられたのは、今日われわれが遵っているような人権を調停し社会秩序を維持するための近代的な人間法ではなく、神から下し置かれた絶対の世界秩序であり、一種の世界律(と人間が考えるもの)である。

たとえば、教会の教えが真実なら、世界のすべてに対して力を持つはずの神の代理人である教会が、イナゴやネズミをしてその命に遵わせることが可能なはずであり、実態的にはすべての権利剥奪である破門が最終手段として実効的な意味を持つはずである。

また、世俗裁判の法が神の合理に基づいたものであれば、人間社会の埒内において秩序を乱した動物は人間によって裁かれねばならないのだし、人間の法律が唯一無二の世界秩序を体現したものである以上、その場合には人間と同じ法律に基づいて裁かるべきであるという信念に結び附くのである。

この場合、たしかに「被告」とされた動物には弁護士が附いたり控訴が認められていたのだが、それは動物に人間と同様の権利があるという考え方からではなく、それが法の執行に求められる手続だからである。動物にも適用される人間の法律が絶対のものである以上は、ある種人間に対するよりも厳密にその手続が遵守されねばならない。権利を守るために法が働いたのではなく、法の権威を保証するために形式上の権利が見立てられたというだけの話なのである。

これは、動物視点や権利がどうのこうのではなく、神から授かった人間の法が絶対であるという理念を極限まで展張した場合、(当たり前の話ではあるが)たとえば動物がその法に遵わない場合は絶対的な意味で「罪」なのであり、厳密に法に則って裁かれねばならないという極論が背景にあるのである。

その証拠に、動物裁判は専ら動物が人間社会の秩序を乱した「罪」を裁くために行われたのであり、動物の「権利」を保護するために行われたのではない。むしろ動物を原告として「権利」を主張する裁判は、この例のように現代に至ってから「方法論的に」発生している。

動物にも人間と同様の権利があるという話ではなく、人間の法が世界を裁く絶対の規範であるという極端な人間中心主義が、動物裁判の根底にあるのである。それと動物愛護管理法とはまったく理念的な共通性はないし、動物の虐待や殺害を動物の権利という視座から批判している意見など視たことがない。

この間の機序を「獣権」という言葉で表現すること自体、理論的な平仄が合っていないわけで、批判対象を勝手に莫迦だとディスクライブした上でその虚構の莫迦さを論うという莫迦莫迦しい空論にすぎない。いっそ気の毒に感じるくらい恥ずかしい錯誤だが、読者の知的水準を侮った思い附きのレトリックなのだとしたら、呉智英の悪い癖がまた出ましたね、というだけの話だろう。

オレがこの論客をまったく評価しないのは、かなり軽率な思い附きで物を言って足元を掬われ、ムキになって論点のズレた泥仕合にのめり込むという、言論者としてかなり恥ずかしいネットバトラー紛いの諍いの場面を何度か目にしているからである。そしてどうやら今回の寄稿も、その軽率さの一環にすぎないというのがオレの意見である。

たとえば、今回池上俊一の「動物裁判」が引かれているのは、動物に大真面目に裁判を受けさせる滑稽さが、「たかが子猫を殺したくらいで大騒ぎする衆愚の愚昧」とイメージ的に近似して見えたために、引用・付会の誘惑に勝てなかったからだろう。

たしかに以前この書籍を読んでいたら、今回の問題に絡めて触れたくなる気持ちはわかるが、きちんと考えれば全然関係ない話であることくらいわかりそうなものだし、テキトーなイメージ連想で援用すれば論者自身が恥をかくという弁えくらいあって然るべきである。

呉智英が「獣権」という言葉で表現しているのは、動物視点における愛護意識を概念矛盾として大衆の愚昧を嗤い、動物にも権利を認めて裁判を受けさせた中世の蒙昧と同じではないかと嘲る趣旨だろうが、実際にネット上で動物視点の批判を展開している論者はごく少数派であるという実情もさりながら、前掲書で語られた動物裁判の真意を曲解しているばかりか、現代の動物愛護管理法がハッキリ人間視点の秩序維持を目的としているという理解もない故に、まったく筋違いの比定になっている。

動物裁判が滑稽だとすれば、それは神の法という観念的な規範が昆虫や獣にも及ぶという主観的人間中心主義に対する「無自覚」がただの錯誤だからである。神も法律も人間社会の社会性の埒内においてしか意味を持たない観念であるというのが一般的な現代人の認識だろうが、これを昆虫や動物においても実効的な意味を持つ・持つべきであると狂信したのが動物裁判の滑稽さの源である。

しかし、動物愛護管理法や現代の動物愛護精神というのは、少なくとも共感可能な苦痛を感じ得る存在に対して苦痛を与えるべきではないというだけの話で、動物も人間と同じだとか法的な権利があるなどという理念はこれっぽっちも含まれていない。対象動物を殺すなというのは「国民の間に〜生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資する」秩序維持のための命令にすぎない。

前掲の条文の何処に動物の「権利」を規定する箇所があるのか教えてほしいくらいであり、徹頭徹尾国民の秩序意識に対する配慮が語られているのである。法律は単に、犬や猫の苦痛はイメージ的に人間が共感可能なものであるから、それを殺すな虐待するなと命じているだけなのである。

他者の苦痛に共感して他者を痍附けないことが社会秩序の基本ルールである以上、動物のみだりな虐待や殺害を禁じることは、社会秩序の維持に対して有効に働くことが期待されるだろう。だから友愛や平和の情操に関連附けられているのである。それが条文内で説明されていないからといって、「奇妙な法律」呼ばわりするのでは法律を学んだ意味がまったくないだろう。「出来の悪い法学部生だった」というのは謙遜でも何でもないということか(笑)。

動物裁判と動物愛護管理法は、ごく遠目に視ればたしかにイメージが似ているかもしれない。しかし、それとこれとを「同じこと」と強弁するのは、味噌と糞が似ているから味噌は糞であると強弁するのと同じで、まともな言論人の意見ではない。普通の真剣な議論では、味噌と糞は見た目が似ているだけでまったく別物だという前提で扱うのが当たり前である。似ているというだけなら、何だってこじつけることが可能なのだ。

結局、呉智英の意見は先行する議論をまったく踏まえておらず、いるんだかいないんだかわからない「獣権論者」を相手に、てにをはの狂った理屈で力み返ってみせた空論にすぎない。何でまたこんな場違いなところに、わざわざ恥をかくためにしゃしゃり出て来たのか理解に苦しむというのが本当のところである。

呉智英に限らず、坂東眞砂子自身および彼女を擁護する識者とやらの意見に共通しているのは、この問題に関する与論のディスクライブがまったく出来ていないということである。それぞれニュアンスの違いはあるものの、自身の批判に都合の良い莫迦をでっち上げて、いるんだかいないんだかわからない架空の莫迦に向かって吠えているというのが共通して視られる特徴である。

これはつまり、坂東眞砂子問題が普通一般の人々の間で活発に議論されているという実情をまったく無視して、まったく実情と乖離した「嘆かわしい無自覚な世情」に対して物申す的な気取りがあるということである。

たしかにネット上のブロガーの書き込みが世間の意見一般を代弁しているわけではないだろうし、「嘆かわしい無自覚な」人々もまたたくさんいるから犬猫の遺棄が已まないのだろう。だが、ここまで一般化したネットの上に上がった意見がまったく民意を反映していないと考えるのも同様に間違っているはずである。

彼ら擁護者たちの錯誤は、少なくとも坂東眞砂子の批判者はその問題を真剣に考えているのだし、真剣に考えているから批判しているにも関わらず、それを「嘆かわしい無自覚な世情」として雑駁に扱っているという部分にある。だからこそ、彼らの擁護意見はまったく与論と前提を共有しない頓珍漢なものでしかないのである。

ぶっちゃけて言えば、「嘆かわしい無自覚な世情」にとって坂東眞砂子の子猫殺しなんかどうでもいいのだし、批判などはせずに「気持ち悪い女だなぁ」と「排除」してオシマイなのである。坂東眞砂子の批判者たちは、彼女を無批判に排除しないからこそ彼女の言動やその問題提起の是非を真剣に論じているのである。

だとすれば、大多数の擁護論者が手前勝手な批判に都合の良い「嘆かわしい無自覚な世情」を対象として擁護論を展開するのは、ただの論点のすり替えである。本来彼らが相手どるべきなのは、真剣に考えて交わされた議論に基づく批判意見に対してどのような擁護意見があり得るのかという問題なのであって、自分が論破し得るような幼稚な空論をでっち上げてそれを批判してみせるのでは、ただの出来レースである。

まあ、今回の呉智英の一文は、そのくだらない出来レースを犯す脳天気な物書きのリストに名前が一つ加わったというだけの話で、格別の意味はないだろう。

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