« 或るブンガク的修辞 | トップページ | 「週刊現代」私の反論 »

2006年9月 1日 (金曜日)

批判意見キターーー!

昨日の「一万年の蜜月」にBrilleさんという方からこのようなリンクを戴いた。

ある意味ごもっともなご意見であると思うし、一種感情論に類することをチラとでも覗かせると、何百行も書いた本題よりもその一句しか受け止めてもらえないということがよくわかり参考になった。本題であるイエネコの歴史に言及した部分についてはまったくご意見をいただいていないので、これはつまり、結句で坂東眞砂子を批判した部分のみに対してのご意見である。

こちらとしては、この方が前回のエントリーの本題を「冗長」と断じて、「識った以上は到底黙過出来ない」と結んだ部分にしか触れておられず、そこに対する批判しか論じておられないのが少し物足りない。

また、当ブログを名指しした上で、オレ個人の意見とは異なる意見も交え「坂東眞砂子批判意見」一般の傾向にスライドして批判されるのでは、こちらとしても反論がしにくいというのが正直なところだが、誤解を招いたことも事実だろう。

それでも一応、説明責任ということでお答えさせていただきたいと思う。

例によって梅干し一個でご飯三杯イケちゃう体質なので、今回もまた冗長の謗りは免れまいと思うが、まあそういう奴に関わったのが身の不運ということで(w

坂東眞砂子女史を刑事告訴するとか、彼女の飼い猫の子猫を引き取るなどの具体的な行動に出るということではなく、ブログで愚痴をこぼすこと、自らの不快を正当化する手続きを踏むということであるらしい。或いは、せいぜい不買運動という、肝心の子猫の生死にはほとんど関与しない「具体的な活動」。何だそりゃ。

オレの意見に対して何故そう考えるに至ったのか、この方のブログを初日から全部読み返しても今ひとつよくわからないところがあるのだが、まず、不買運動の何処がお気に召さないのかがよくわからない。

第一に、不買運動は坂東眞砂子の子猫を救うために起こされた活動ではないし、坂東眞砂子に刑事罰をもたらすための活動でもない。坂東眞砂子の行為に対応した社会感情としてその酬いを受けさせたいという動機と目的に基づくものであって、動機と目的が異なるのだから「子猫を救うこと」や「坂東眞砂子の訴追」に結び附かないのは当たり前である。

社会感情に反する行いに対して応報をもたらしたいという機序の何処が間違っているのか、よくわからないのである。そのような社会的力学が働かなかったら「社会的制裁」というものが成立しないのだが、この方は「社会的制裁」そのものを否定しておられるのだろうか。

たしかにこの種の「社会的制裁」には細やかな理非曲直の検証を超えた盲目的ダイナミズムがある、つまり「必ず行き過ぎる」か「必ず不十分」なことは事実だが、反社会的行為を抑止する社会圧とは本来そのようなものだろう。理知的な検証とは方向性が逆の暴力性だからこそ、一種の抑止力として力を持つと考えているので、オレ個人は社会的制裁の意義を否定するつもりはない。

また、たとえば、「多寡が猫の子の命と人間の命が比べものになるか」という言い方ならわからないでもない。「子猫を殺した坂東を殺せ」という意見は明らかに行き過ぎの感情論であり、猫を殺したからといって人間を殺していいということにはならない。

あの有名な猫殺しも一応生きて生活しているのだが、「死ねばいい」という憎しみを覚えることと「死ぬべきだ」と論じることはまったくの別物である。オレがブログで主張しているのは、法が禁じているのだから猫も人間も殺すなということであって、猫は殺してはいけないが人間を殺してもいいということではない。

だが、「子猫を殺してコラムを書いた作家の本は買うな」という筋道は整合しているのではないかと考える。要するに、そのように社会的に忌避される行為を犯してコラムを書くような人間の書いた本は読みたくないということだから、「多寡が猫の子」を殺した「多寡が物書き」の商売の差引勘定としては算盤が合っている。

物書きの商売は所詮「面白いか面白くないか」という受け手の受け取り方に依拠するのだから、不快な行為を犯した人間の書くものが不快に感じられるのはごく当たり前の感覚である。「買うな」と呼びかけて賛同するなら買わないだろうし、それでも坂東眞砂子の書いた小説は好きだというなら買うだろう。ただ、それだけの話である。

一人当たり一〇〇〇円内外の商品を買わないというだけで、賛同者がかなり多ければ坂東眞砂子が生活に窮するだろうし、そうでもなければ困らない。ただ、それだけの話である。それは物書きにとって割合フェアな社会圧だと考えるが、どうだろうか。

エントリーのタイトルが「おいてけぼりの子猫」であることでもあるし、要するにこの方にとって、この問題においていちばん「肝心なこと」が「子猫を救う」ということなのだろうか。「まず考えるべきことは子猫を救うことだろう」と主張しておられるのだろうか。だとすれば、ブログの記事の突き放したような文面から受ける印象より随分優しい人である。

そもそも自分と直接には無関係な者について憶測で考えてものを言ったところで、自分語りにしかならないのは自明のことである。そうでないことを語らんとする者なのならば、すなわち本当に愛情あって反発しているならば、記事を読むかニュースで知った途端に有給休暇を取って(無理なら無断欠勤、ないし仕事を辞めてでも)タヒチに飛び、彼女にアポを取り、今後子猫が生まれたらすべて自分が引き取って飼うから子猫を殺すのは止めるようにと説得に行くはずだろう。

この問いかけに対してはハッキリ確答するが、オレは自分の個人生活を犠牲にしてまで坂東眞砂子が殺している子猫を救うつもりなどはないし、誰か他の人間がそうすべきだとも考えていない。さらに、誰かにそうしろと語ったこともない。

オレが「具体的行為」という言葉で表現したことがあるのは、日常の場面で引き取り手のない動物を自身の手で引き取るなり、引き取り手を探すなりという行為のみで、しかもその行為の意義は評価したが、それを個人生活を犠牲にしてまでしろと言ったことは一度もない。

都市の集合住宅の大部分がペット禁止という現状において、大部分の生活者が気軽に動物を引き取れる状況ではないし、バレたら立ち退きを喰らうかもしれないのに、そんなことを誰に強要できるものか。そして、自分に出来ても他人に強要出来ない行為を正義として主張することが偽善であることくらいは弁えているつもりである。

当該のエントリーでも、人間は自分の個人生活を確保した上でしか正義を実行できないという趣旨のことを書いたつもりだが、冗長で伝わらなかったのかもしれない。

坂東眞砂子の犯罪については、彼女自身が現地法では犯罪に相当することをしたと明言している、つまり「殺し」と表現したのは坂東自身で、殺意があったと公に表明しているのであるから、少なくとも現地の司法が真偽を確認する必要はあるだろう。それを虚構ではないかと疑う意見があることは識っているが、それに何ら意味がないことは以前語った通りである。

オレ個人のアクションとして、それが事実であれば応分の酬いを受けるべきであるという動機からフランス在日大使館へこの行為を禁ずる法律の有無を問い合わせ、暗に坂東眞砂子の行為を通報したことは事実だが、別にこれが絶対的な正義だとか最善の選択肢だと主張した覚えもない。

問題のコラムは日本の新聞向けに日本語で書かれているため、現地政府及び宗主国の当局がその事実を識らない可能性を考えたから問い合わせたまでで、識った以上は形ばかりでも動かざるを得ないだろうと予想したからである。まあ、オレに出来る「具体的行動」はこの程度のものである。

オレは基本的に人が何かの行動を行う場合には自身の最善を尽くすのみであって、絶対的な意味における最適の行動以外はまったく無意味だとは考えない。まあ、この方がそれをどう評価するかはこの方の自由なのでそれ自体には論評を加えないが、当人の可能性の埒内ではどうにも解決しきれない、それでも解決しなければならないという二律背反の極限状況でもない限り、人の生においてはそのような一般則を心懸ける程度が妥当なところだろうと考えている。

この方の挙げるようなラディカルな行動をとるような奇特な方が現れれば、それはそれで「衆に優れた行為」として賞賛するが、(自分以外の)誰か高潔な個人がそうすべきだ、それが正義だという言い方は何人にも出来ないだろう。伝わっていないのかもしれないが、一応そのようなスタンスでこれまで語ってきたつもりである。

坂東眞砂子が自身の飼い猫に不妊手術を施さずに飼い続けるのであれば、今後も子猫を殺し続けるかもしれない。「黙過するつもりはない」という言い回しを絶対的な抑止の実力行使の意で受け取られたのかもしれないが、それはつまりこの方が「ブログで愚痴をこぼすこと、自らの不快を正当化する手続きを踏む」と表現された行為を継続的に行うということにすぎない。

それ自体を批判されるのはかまわないが、オレはこの方の主張しておられるロジックには与しない。このご意見に随えば、状況が要求する客観的に最善の行動を誰かが行う必要があるし、それを行い得るものにしかその状況に対してコメンタリー出来ないということになるが、では、誰一人それが出来ないのであれば誰一人コメンタリーすべきではないという考え方なのだろうか。

それは、たとえばブログという開かれた場でのコメンタリー自体を一つのアクションと捉えない考え方ということになるだろうから、オレの考え方とは随分違う。

また、

おそらく彼らもまたはるか遠方の地で殺される子猫のことなど本当はどうでもよいのだろう。自分が如何に愛猫家であるかということを世間に向けてここぞとばかりにアピールしたいだけなのだろう。本当に愛しているのなら、他人になど任せていられない、いてもたってもいられないということになるはずで、愛していないからこそ説明や愚痴ばかりが長くなる。

今度の一件に言及して坂東眞砂子という「自分と直接には無関係な者」を「憶測を交えて」批判するオレという「自分と直接には無関係な者」を「憶測を交えて」批判するこの方は「そうでないことを語らんとする者」ではないのだろうか。それともこれも所詮はこの方の「自分語り」なのさ、という自嘲ととるべきなのだろうか。

ハッキリ言えることは、この方が批判しておられるようなコメンタリーを、この方自身が行っているようにオレには見えるということであり、語る行為に対して語る行為をこのように考えるなら、他者に対する大抵のコメンタリーは自己言及の陥穽に囚われるということである。

「子猫を救うことにこそプライオリティがあるはずではないのか」「本当に愛があればこうするはずだ」というのは、オレのコメンタリーに対してのこの方の立場からの提言ということになるのであって、オレ個人の考え方や主張とは無関係な意見である。

「あんたの意見のロジックに随えばこれこれこういうことになるが、それは矛盾してるんでないの?」という話ではない。「子猫を救うこと」を大同目的に掲げているのはオレではなくこの方だし、「それならこうすべきだ」というのはこの方のロジックでありそういう意味ではこの方のご批判はオレの意見の個別の内容とはまったく関係ない。

オレの意見はそこにはプライオリティを置いていないし、本気で愛しているなら自身がその目的のためにすべてを犠牲にして絶対的に最善の具体的行動を実践するはずだというのは、この方の個人的な「べき論」的理想である。

ブログで意見を書くことで世論に対してわずかながらも知見を加える行為が、速攻で現地に渡り、坂東眞砂子を訴追もしくは説得して具体的に犯罪行為をやめさせる行為に比較して絶対的に最善ではないと侮っただけではないかと考える。

「本当に愛しているのなら 〜 はずだろう」という掛かり受けにそれが顕れていると思うのだが、そう考える人間ばかりではないという可能性が捨象されている以上、この方もやはりこれこれの前提に対してはこのようにすべきである———この場合、最も効果的な行為を現実的な都合を犠牲にしてでも実行すべきである、というごくごく個人的で極端な理想を他者に対して主張しておられるということである。

だが、まあ一笑に付されるかもしれないが、オレは言論というものが伝播の規模に比例して力を持つということを信じているので、ズバリ言うならたしかに「言うべきと考えることを言うだけ」であり、おおむね自分以外の誰かが自発的にこれこれこういう最適のアクションを起こすべきであると他人を強要することは慎んでいるし、そのような結論以外あり得ない事柄は論じないようにしているつもりである。

それはつまり、子猫殺しという反社会的な行為をネタにしてペットブームに警鐘を鳴らすことよりも、一頭の子猫を引き取るほうが遙かにマシな行為であるというオレの考え方にも通じている。

坂東眞砂子の行為は国内で行えば間違いなく犯罪を構成する以上、普通の生活人はそれに倣うことが出来ない。坂東眞砂子の論理を肯定し彼女と同程度に真摯に飼い物を愛し同じように考えるなら、日本国内においても子猫の私的殺害があり得べきだという結論になってしまう。

その意味で、如何に坂東眞砂子の意見に共感しても、犯罪を実行することを躊躇って実行出来ない人間は、坂東眞砂子の言説が内包する価値基準に照らして怯懦だということになる。それ故、坂東眞砂子が自身の論旨の正当性を主張することは、犯罪という非常識な行為を行わない市民一般を断罪する行為になる。これを逆に言えば、間接的に犯罪を教唆乃至奨励しているということになる。

だが、オレは一般論に類する問題に関して、犯罪に直結する行為を結論とする論考は絶対的に間違っていると考えている。猫の飼育という一般状況に対する言及として、犯罪を結論とする論考を是とするのなら、普通一般の常識と法に随う市民はすべからく否ということになってしまう。まして、その背景として論者個人が犯罪行為を常習的に実行しているという事実があるのであれば、それは「間違っている」という前提から出発すべきだと考える。

その面において、この方のご意見は、失礼ながら坂東眞砂子と同じようなロジックに聞こえるのだ。その目的を本当に実現したいなら、現実的な個人生活を犠牲にして無理に旅費をつくって坂東眞砂子を説得もしくは訴追すべきではないのか、というのは、普通一般の生活人に為し得ることではないのは明白であり、出来ないという想定において相手を批判している。

それをしなければ「子猫の殺害をやめろ」という意見を表明するには不徹底だし、そうでなければ本当に愛していると言えないだろうというのは、明らかにこの方の個人的な規範を拡張した極論であり、批判のためのレトリックだと思うが、どうだろうか。

日常的な場面における人間の正義というのは、基本的に出来る範囲でしか出来ないものである。それがヌルいという批判があり得るとしても、それはそういうものなのだから仕方がないとオレは考える。オレはそのようなかたちの正義のみを受け容れている。

要するに、オレの考え方とこの方の考え方は決定的に違っているということで、この方はどういうわけなのかオレが坂東眞砂子が殺そうとしている子猫を救うことにプライオリティを置いて発言を展開していると考えておられるようだが、そのように解釈されたのであればこちらの書きようが拙かったということだろう。

オレが坂東眞砂子関係のエントリーで語り続けているのは、「坂東眞砂子のコラムに正当性はない」「坂東眞砂子の行為に正当性はない」という、まあありふれた論旨の具体的根拠附けである。大多数の人々は直観的に「間違っている」と感じるだろうが、その前提において、何故間違っているのかを多面的に論じ、それを公開することに意味があると考えるからである。

坂東眞砂子の飼い猫に対する具体的救済という観点は薄いし、最初からそれを目的とした言説は展開していない。それはオレ自身がハッキリ意識している。それはただの自分勝手な「望み」でしかないのだから、あの結句を指して「感情論」と批判されるのならその通りだろう。

オレにはオレの個人生活と自分の猫のほうが大事であるという「都合」があり、それを犠牲にしてまで他人の飼い猫を救うというモチベーションは薄い。そこを批判されるのであれば、それもこの方のご意見というしかあるまい。

だが、オレは社会規範に則る限り個人の生活上の「都合」や「身勝手」それ自体を批判した記憶はない。坂東眞砂子の「都合」や「身勝手」を批判するのは、ひとえにそれが社会規範や法律を完全に逸脱する行為に結実しているからであり、社会規範を逸脱しない限り怯懦であると結論附けられるような主張を強引に展開しているからである。

また、これが民事上の事件ではない以上、坂東眞砂子の犯罪を訴追すべきなのは筋から言えば「国家」の代理人である現地司法当局である。後で識ったところによると、フランス国内法においては刑事犯罪と雖も個人が訴追してもかまわないらしいのだが、事情をいっさい識らないというならともかく、識っているのだから現地当局が訴追すべき事柄である。個人が訴追に踏み切る前に当局に訴追を促す行為は、筋論から言えば当然だと思うのだが、どうだろうか。

オレが基本的にプライオリティを置いているのは、そのような社会規範と社会正義が確実かつ網羅的に行われることである。殺された子猫はたしかに可哀相であるが、それはオレの個人的感情の問題であって、オレが坂東眞砂子を批判する根拠としているのは、それが社会規範と法律に反する行いだからである。

世界的な規模で動物愛護法に類する法律が制定されている以上、坂東眞砂子のように個人の動機を優先させる犯罪行為に対して実効的な抑止力を持つのは、非人格的なシステムである国家の取り締まりのみであるとオレは考える。

前回のエントリーで語ったように、オレは坂東眞砂子の倫理観になどこれっぽっちも興味がないのだから、自身の批判や説得によって坂東眞砂子の犯罪を止めようなどとは考えていない。坂東眞砂子自身がこれを読んでいる可能性はほとんどないのだから、それは当たり前の話であるし、取るものも取りあえず現地に飛んで行って直接説教するほどオレは「衆に優れた人間」ではない。

それを止め得るのは法律の強制力のみだろうし、オレに出来るのはこの法律の意義についてこのブログを目にした限られた人々に適切な理解と可能な範囲における協力を求めることのみである。今すぐ直ちに坂東眞砂子の飼い猫を残らず救うことではなく、将来においてそのような運命を辿る飼い猫を一頭でも救うことである。

当該エントリーで語ったつもりだったが、オレは地上世界を一変させ、非道を一掃するような偉大な革命のみが社会変革であるとは考えていないし、そんなものがオレの生きているうちに実現するとは期待していない。一人の人間には一人の限られた力しかないのであり、その力を個人生活の範囲内で堅実かつ継続的に行使することが肝要であると考えている。

ちっぽけな善行を行う個人の倫理感情よりも、ちっぽけな行動なりのちっぽけで実効的な効果の漸進的な積み重ねをこそオレは信じているのであり、その意味でオレは一人のプラグマティストである。一応この大前提に関しては何度も何度も繰り返して語ってきたつもりだが、伝わっていなかったとしたら残念である。

また、この方が論じておられるような飼い主の「身勝手」ということについては何ら異論はないし、むしろペット愛好者がそうでない者から批判を受けるのは自然だと考えているくらいである。

前回のエントリーで語ったのは、そこから一歩踏み込んで、飼育行為それ自体から身を遠ざけていればその問題に対して責任が発生しないと考えていいのか、という問いかけであるが、こちらにこそご意見をいただきたいと思っている。

このBrilleさんという方のブログのリンクからときどき閲覧者が来ているので、この方のブログの存在も予め識っていたのだが、まあ理解可能な部分もあれば出来ない部分もあるものの、総じて坂東眞砂子の行為それ自体の是非を当事者性において論じることからは意図的に身を引いているという感触を得ていた。

それもまた身の処し方というものだろうし、それだからこそ擁護・批判の両サイドの意見に対する当事者性を廃した客観的言及に徹しておられるのかと思ったのだが、どうも今回は、先ほど陳べたように「それは違う、こうするべきだ」的な個人の意見表明的な論調を感じた。当ブログのエントリーを引いて展開しておられる論旨を読むと、何というか少し「感情的な反撥」を感じたのだが、その理由がちょっと思い当たらない。

ぶっちゃけ、「ブログであーだこーだ言ったって何の意味もねーぜ」という意味のことを語っておられるのだとしたら、どうしてあなたはそんな意味のないものをこの事件を契機に開設してそればかり論じていたのですか、という疑問を感じてしまう。

糞長い能書きを書き散らすブロガーをからかって楽しむつもりだったのなら、こちらとしては、具体的な反論に言及することで別の面から自身の意見を展開する機会を提供していただいて有り難かったということで一つ納めましょうか。

まあ、結論を言うなら、今回も冗長だったな(w

|

« 或るブンガク的修辞 | トップページ | 「週刊現代」私の反論 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/11714600

この記事へのトラックバック一覧です: 批判意見キターーー!:

« 或るブンガク的修辞 | トップページ | 「週刊現代」私の反論 »