「週刊現代」私の反論
…だそうな(w
早速買ってきて一読したところ、要するにこれまでの主張の繰り返しに過ぎず、かなり拍子抜けというか退屈を覚えた。ただし、分量的にはこれまで最大で、たっぷり二ページ以上の寄稿である。ハッキリ言って何ら新しいことは言っていないので、熱弁を奮っている割には単に要らん註釈が増えただけという印象である。
それと、女性誌で社会との接点がネットと紹介されるだけあって、論点やタームの用法にネットの議論を垣間見た形跡が少し視られるように思う。また、文芸に力を入れている講談社が版元の雑誌ということで、表面的には完全に坂東眞砂子寄りのスタンスでこの寄稿が紹介されていて、これは他誌にはなかった思い切りではあるだろう。
しかし、その中身に関して言えば、なんかもう、今更逐次的に批判するのも莫迦らしい程度のものだ。要するにこれまで語ってきたような批判の範疇にスッポリ収まってしまうものでしかない。それに冴えないレトリックと頓珍漢な例示がくっついたものと想像していただけば間違いない。
たとえば、ペット飼育に対する言及としては、お定まりのパターンで保健所による殺処分の実態に触れ、「『だからこそ、避妊手術が必要なのではないか』との声が聞こえてきそうだが、ちょっと待ってほしい」として、食用獣と犬猫のペットの命に差別があることに疑問を呈している。
このロジックがおかしいということは「一万年の蜜月」を一読していただければわかることで、食用獣を「殺す」行為とペットを「殺す」行為は、意味性においてはまったくの別問題であり、事実関係の上では同じ原理に基づいているが、坂東眞砂子の主張にはこの両者が飼育されている家畜であるという観点が依然として欠けているのである。
つまり、食用獣が殺されるのはその飼育目的の中に屠殺のプロセスが織り込まれているからであり、犬猫の飼育目的には(おおむね)織り込まれてはいないから、犬猫が殺されることだけがとくに問題視されるのである。犬猫を喰っている社会、喰っていた時代において犬猫の殺害がまったく問題視されないのは、つまりこのような機序に基づいているからである。
また、食用獣は冷凍精子などによる計画繁殖によって繁殖管理されているが、犬猫はそれが徹底されておらず、その繁殖管理の失敗が保健所による合法的な犬猫殺害の最大の理由となっているからこそ、殺害それ自体ではなくその飼育管理の実態が問題視されるのである。
避妊手術という選択肢はその論理から導き出されているのであるが、このような家畜飼育の合目的性という観点は当然坂東眞砂子にはないので、相変わらず「まるで人は神であり、その愛を注いだ獣は祝福され、その命は人と同様かそれ以上」で、それは異常だというまったく実態を無視した空論になる。ここでは相変わらず家畜は「獣」と表現され野生生物と同一視されているのである。
つまり、この箇所の論理もその批判も結局は同じことの繰り返しである。
これまでと違う部分と言えば、批判者に対する攻撃性がより先鋭化しているというところだろうか。先陣を切って紙面報道した毎日新聞社との関係は、近々に著書が刊行されているのに悪化したらしく、名指しで槍玉に挙げて「公平、中立であるべき新聞人もまた、このヒステリーに巻き込まれた」と激しい論調で批判している。一応、同紙はかたちばかりでも別項で問題提起の意義を肯定的に評価して妥協したのに、それもこの怒れる作家に対してはまったくの無駄骨だったということだ。
その調子でマスコミ報道全般の異常性を論っているのだが、これまでにも少し触れたように、この問題が作家ではなくタレントや有象無象の文化人の起こしたものだったら、もっと大々的に報道され遠慮会釈なく叩かれていたことだろう。直木賞作家だからこの程度の拡がりで済んでいるのだし、むしろ女性誌以外は不自然なほど「公平、中立」のポーズをとることに腐心していた印象だが、そのようなマスコミの「特別配慮」はこの作家にはまだ不満だったらしい。
とにかく日本の現状を「病理」と言い切り、週刊朝日の記事で自分の問題として語っていた「対人関係の問題」については自分語りからいきなり他人事に転じ、つまり現代日本の病理として批判しており、その意味ではロジックの真意が露骨化している。前半はその調子で延々と現代日本の歪んだ実態を語り続ける。週刊朝日の記事にはまだ残っていた自身の罪に苦悩するポーズはすっかり影を潜め、悲憤慷慨調の語り口で精力的に自分以外の他者を裁き続ける。
自身の攻撃者をいっさい許さないというのは、普通に言えば幼児の心理である。自分と「それ以外」としてしか世界を概念的に把握出来ない幼児は、自分に不快をもたらす存在すべてを悪と断じて無差別に攻撃する。坂東眞砂子の論旨に感じるのはそのような幼児性であって、自分にとって少しでも不快な存在はすべて全方位で「現代日本の病理」という論調である。
これほど激越な論調で社会批判を繰り広げているのだから、「どちらも正しくない」はずの自身の行為(ペットの飼育自体と子猫の殺害)についても、猛烈な自省や慚愧の言葉があるのかといえばそうではない。
自身の行為については、一くさり不妊手術を批判した後「そこで子猫殺しをするしかなくなる」「拷問である」と表現しているが、「するしかなくなる」行為が「拷問」である以上、自分以外の誰かに強いられた苦痛というニュアンスになって、自省の意味合いはまったく読み取れない。
原コラムにおいては「どちらも正しくない」選択肢を「より納得できる」という基準で選んでいたはずなのに、手記中のこのくだりに自己責任のニュアンスはない。納得というのが個人の感覚でしかない以上、自己責任が附き纏うはずなのだが。
問題の核心が坂東眞砂子個人の行為の違法性にあるという指摘についても、ほぼほっかむりでお茶を濁している。「タヒチではおおっぴらに話されることはなくても、一般的に子猫小犬が棄てられている。しかし刑に問われたと聞いたことはない」と註釈しているが、だからそれがどう違うというのだろうか。勿論、「殺す」と「棄てる」の差異については言及なしである。
察するに、動物を棄てることはすなわち殺処分に結び附くのだから、棄てることも殺すことも同じであるというお馴染みの論理だとは思うのだが、そこにこそ「命の殺害には厳格なルールがある」という社会における個人の行動を律する規範があるのである。思想上の命の扱いと、社会における個人の行動としてのそれの違いがそこにあるという認識は相変わらずない。
「刑に問われたと聞いたことはない」というのも、最早ネット上で散々論じられた問題であり、逮捕され実刑が確定するまでは犯罪者ではないのだから犯罪者呼ばわりは心外だし、そのような前例がない以上自分ばかりを糾弾するのは不当というロジックだろうが、それは個人の人権上の主張としてはご尤もな言い分だとしても、批判意見の論拠としては論点が完全にズレている。
法に規定された犯罪性が一般的に疑われる行為を実行することそれ自体が反社会的なのであり、逮捕・裁判というのはその事実確認の手続であり、実刑というのはその罰則であるにすぎない。砕けて言えば、「犯罪になったとしてもかまわない」という想定の下に行われた行為は、事実上の司法の判断において犯罪と認定されるか否かとは無関係に反社会的な行為なのである。
愛護動物の私的殺害を禁じる法律が存在する以上、それが実態において実効的に取り締まられているか否かとは無関係に、その遵守は求められているのである。これまでに捕まった人がいないから違法性はないというのは小学生の論理で、よくザル法・死に法と侮って法に規定されている禁止行為を常習的に犯して「摘発第一号」になる例があることを考えれば、この理屈は通じない。
これはもう、「ルールに違反しても逮捕されなければいい」という認識だから、堀江貴文容疑者や村上世彰容疑者の「ルールに違反しなければ何をしてもいい」という法意識よりももっと幼稚である。「棄てる」行為ですら「おおっぴらに話されることはない」というのに、その辺の下世話な機微をすべて無視して「殺し」まで「おおっぴらに話」してしまったのだから、それとこれとは完全に別の話になる。現地における取り締まり実態がどうであれ、この主張は現地の司法当局に対する挑発である。
つまり、坂東眞砂子が註釈しているのは現地における法取り締まりの実態論や現状に対する司法の酌量の問題でしかないのにも関わらず、違法性の文脈で語っている辺りに決定的な齟齬がある。よく交通違反の取り締まりで、他人もやっているのに自分だけが摘発されることを不公平と憤る人を見かけるが、理屈としてはそれと同じである。
また、自分を責め立てる世間の異常性を「恐怖と動転」「ヒステリー現象」「『動物を愛する心優しい人たち』の殺意」「言論圧殺」と否定的に表現し、嘆かわしい風潮だと言わぬばかりに批判している。そしてこの一文の結句は「子猫殺しに対する病的な攻撃はやめて、そろそろこんな現象の起きた日本社会の深淵を覗きこみ、話しあう時ではないだろうか」と結ばれている。
つまり、徹頭徹尾「自分を攻撃する世間は異常だ」「その異常さに気附け」という他者批判の論旨で貫かれていて、批判意見への歩み寄りや自省はいっさいない。これは議論が断絶しているということだから、現時点では「おまえが異常だ」「いやおまえらこそ異常だ」という水掛け論の平行線である。
百歩譲って一般的な観点において現代日本の現状に病理が内在していたとしても、その病的な現代日本社会を経済的なインフラとして成立する高度に文明的な作家という職業を営む者が、その文明社会が法によって禁ずる行為を自身が犯したことの病理についてはいっさい批判されていないのである。経済的には益を被るがその社会通念には遵わないよ、というのは、まあ普通は当該社会に容れられる姿勢ではない。違法性の高い企業が海外に籍を移すのと同様の見方をする人も多いだろう。
まあ、今までの論旨を一歩も出ることはないというのは予想の範疇ではあるが、すでに坂東眞砂子問題というのは、批判や議論の対象というよりコラム中で告白している行為の事実確認と司法判断(多分に政治判断の側面もあろう)、それに応じた社会感情に基づく応報が進行する時期になっているということだろう。
要するに、コラムに書いた行為が虚構なら人騒がせな嘘吐きだし、それが事実で何らかの処遇が確定したら犯罪者だし、事実ではあるがお咎めなしで放免されたら非常識なオバサンである。どこにもポジティブな意味附けはないのだし、社会全般の趨勢として坂東眞砂子の行為を容認するのは少数派である。
あのコラムが問題提起の一助になったかどうかという問題と、坂東眞砂子個人の行為の価値評価は無関係だし、それは坂東眞砂子個人のアティテュードが変わるまでは不変の流れである。気が進まない繰り返しの愚を犯すとすれば、坂東眞砂子の言論人としての主張内容と社会人として期待される行動規範というのは完全に別問題なのである。
雑な言い方をすれば、事実において殺してさえいなければ何を言ったところで問題はなかったはずであるし、その意見自体を批判することにさしたる重要性はなかったのである。ただこの通りの内容の主張を言論として展開しただけであれば、これだけ叩かれることもなかっただろう。
それも一つの見識と受け取り真摯な自省の糧とする人間は今とは比べ物にならなかったはずである。事実において殺しているから、それが当人の当事者性や生臭い利害と一体不可分の言説となって「おまえがお説教出来る立場か」と突っ込まれるのである。その個人としての行為の反社会性に真摯な反省が視られない以上、自己を弁護し他者を弾劾するばかりでは、自他の利害を巡る問題を一歩も出ることはなく、いつまで経っても平行線である。
些か以上に退屈で視るべきもののないテクストだったということだ。
とりあえず、個人的判断としてはこれ以上の進展はないだろうと考えるし、坂東眞砂子問題についてこの上言説を附け加える必要もないだろう。何を言っても繰り返しになるだろうし、その種の堂々巡りは、それに利害を持っている当事者以外には、書くのも読むのも気乗りがしないものである。
そういうわけで、そろそろこの問題を離れて通常営業を再開したいと思う。
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