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2006年9月24日 (日曜日)

不買運動は「意味がない」のか

徹底的にヒット作に恵まれなかった今季のCXドラマシーン(「結婚できない男」は関テレ枠)を流石に哀れと思し召し、ついにTVのネ申所謂GOD)がお台場に降臨したのであろうか。

剰りにタイムリーすぎる内容に不謹慎ながら失笑を禁じ得なかった昨日のアレではあるのだが、その前日には日経資本のテレ東の深夜番組「ブログの女王」に、坂東眞砂子&ジャンクロードと仲良くスナップに収まっていたあのベテラン作家(勿論当人には何の関わりもない事柄ではあるが)がゲストとして登場し、挙げ句の果てに紹介されたブログのテーマが「安らかに眠る動物萌え」と来ては、すでに何らかの見えざる作為すら感じる今日この頃である。

前回のエントリーでは、この国には「物書きの違法行為」を巡る議論をまるでヒトゴトのように無責任に揶揄出来る超然とした物書きばかり存在するという失望が身に染みたわけだが、では今回は、そんな物書きたちほど不思議な人種ではない唯の凡人に何が出来るのかを考えてみよう。

坂東眞砂子の問題を巡る議論で時々遭遇するのが「不買運動に意味などない」「それは本質ではない」「そんな運動には効果などない」という類の意見であるが、常々オレはそれは違うと考えている。今回の問題に関してそのように語る方々の関心の在処がそこにないということは十分理解出来るが、関心がないからと言って適当なことを言っていいということでもないだろう。

以前、水島美也子さんにお答えしたエントリーで、猫飼いとしての彼女と坂東眞砂子を隔てる条件として以下のような責任の履行の如何を挙げた。

・飼育者としての責任→繁殖管理の放棄
・社会人としての責任→違法行為の実行

これ以外に、名を出して公的な表現活動を行う者である坂東眞砂子には、今回の件に関して以下の責任も追求されるだろう。

・言論人としての責任→違法行為の正当化

まず、個人の倫理を巡る問題としては、論者個々人が個人の倫理感情に基づいて、坂東眞砂子の言説と一対一の想定で議論を交わせばいいだろう。それが他人にとって意味ある言説であれば、それを目にした人々の心に響くというだけのことで、これは別段責任論や応報論の具体の範疇の問題ではないし、実効的にどのような客観的効果が得られるかというのは本質的にどうでもいい事柄である。

だが、責任論や応報論の具体という局面もこの問題には当然内在するのであり、不買運動というのはそこに関係してくる、個人の倫理とは別立ての問題なのである。

その観点で言うなら、前二者の責任の応報に関しては、現地の司法と行政の問題であるから、議論と通報に力あって坂東眞砂子の告訴が決定した今、現地当局の適切な判断を俟つしかあるまい。だが、後者の責任の応報については、日本に在住するわれわれマスメディアの受け手一般に直接関係してくる問題である。

坂東眞砂子の「子猫殺し」というコラムは、われわれ日本在住のマスメディアの受け手一般に向けて発信された情報である。それを読んだ個々人が、その内容を間違っているとか許し難い暴挙であると感じた場合、個々人に可能な範囲でその言論責任を問うためのアクションを起こすのは当たり前の社会感覚である。

ならば、個々人に可能な範囲で言論責任を問う具体的な手段はといえば、要するにマスメディアの受け手というのは情報市場における消費者なのだから、対象となる発信者の情報の購読を向後拒否する、対価を払って購入しないというやり方しかない。

以前「莫迦UDにサヨウナラ」のエントリーでも語ったことだが、モノの売り買いというのは、モノと貨幣の交換が引き合うものである限り、売り手と買い手は本質的に対等の取引関係でしかない。商品と貨幣の交換によって対等の取引行為は完結しているのであり、売り手側が買い手側に礼儀を尽くすべきであるというのは、本質的には力関係に基づく具体論の問題でしかない。

これは客だからと言って売り手に「その態度は何だ」「商売人としておかしい」と説教をカマす根拠はないということで、商品そのものの好悪良否は固より、売り手の態度や姿勢というものに対して納得出来ないものを感じるのであれば、「商品を買わない」というアクション以外に筋道の立った抗議手段はない。勿論、PL法に規定された製品製造者責任については、法で規定された責任関係が生じることは言うまでもないだろう。

そして、その手段が実効的な効果を持つか否かというのは、要するに売り手と買い手の力関係の問題でしかないわけで、「売り手市場」「買い手市場」というのはそういう意味である。需要と供給のバランスにおいて、どちらが相対的に力を持っているかで勝敗が決する闘争関係である。

要するに、売り手と買い手が存在する場面において一方が一方を批判する場合、言論を通じた議論というチャネル以外に、市場経済を通じた闘争のチャネルが併行的に存在するということである。

それはたとえば新聞の不買運動もそうであるし、作家個人に対する不買運動もそうである。原理的に言って、これ以外に受け手が合法的かつ実効的にマスメディアの言論責任を問う手段は残されていない。それも、相手が「マッス」を対象にビジネスを行う者である以上、一人二人の実践では実効的な意味がない。その志を同じうする一人二人が繋がって多くの数字に成長しなければ実効を持たないのである。

それを逆に言えば、実効的な影響量のある与論や大きな金に繋がらない限り、孤立した受け手がどれだけ個々に言論で騒いだところで、それだけならマスメディアは痛くも痒くもないということである。

だから、個々の受け手が特定人物の言論責任を問うという観点においては、この件に関して言及することには実効的な影響力に繋がる与論形成に個々人なりに一助を果たすという効用があるだろうし、不買運動の呼びかけには無視出来ない経済効果として顕れる実効的な組織化のアクションという効用があるのであり、どちらか一方だけあればいいというものではないだろう。

その意味で言えば、ことが商業誌紙上の言論に関する問題である限り、不買運動をくだらないという人間は、マスメディアに対して言論責任を問う実効的な手段を否定しているということである。この種の主張を為す者が、それに代わり得る実効的な手段を提示しているのをまず視たことがない。この種の社会的なアクションそれ自体の意義を否定している意見がほとんどである。

よく耳にするのは「そう思ったら自分が買わなければいいだけのことで、それを他人に呼びかけるのはくだらない」という意味の論旨だが、本当にそうだろうか。オレはそれは単なる個人主義的な「運動」アレルギーではないかと思う。

たしかにあらゆる「運動」は、考え方の異なる大勢の人間が、或る呼びかけの下に便宜的に統一的行動をとる同床異夢だから、物事に対する考え方という意味では何ら意味はない。だが、それは意味がないのが当たり前なのである。そもそも「運動」というのは或る実効的な目的を達するための「手段」である。目的にこそ意味があり、そのための実践なのだから、手段に意味がないのは初めから当たり前の話なのである。

意味を巡る社会行動としては活発に議論を交わせばいいのであって、その上で言論責任を問うことにも一定の妥当性が見出せるのなら、具体的行動はそれとは別次元の社会行動であるというだけのことである。その賛同者のマッスは併行して行われている議論の趨勢を反映したものとなるだろうし、それの何処が無意味なのか甚だ理解に苦しむ。

与論形成のための議論と、その議論を踏まえた具体的な社会行動という意味で、不買運動それ自体には別段批判を受ける筋合いなどない。不買運動に対して「他人に呼びかけるのは意味がない」というのは、それこそまったく無意味な意見であって、寧ろ「その呼びかけや運動に意味を見出せなければ、運動に加わらなければいい」というだけの話である。

不買運動を呼びかける人々は、坂東眞砂子に対する合法的な応報という特定の目的を達するために他者の賛同を組織化しているだけなのだから、それに対して無関心な人間がさしたる根拠もなく否定的にコメントするのはそれこそよけいなお世話である。

そこで問われているのは、坂東眞砂子が言論人として断罪を受けるべきであるか否かという非常に実効的な問題なのであるから、そうあるべきではないというなら正面からカウンターを当てて不買運動と戦うべきだし、単に興味が持てないだけなら軽々にそれを批判すべきではない。不買運動がくだらないという言い方は、無名の庶民が団結して実効的な何事かを為すこと一般に対する「烏合の衆が仲良くつるみやがって」的な雑駁な偏見でしかない。

たしかに、この種の市民運動では「考え方」を捨象して「実効的な目的」のみが重視されるが故に、時として「数の暴力」に走りがちな側面もあるだろう。だが、それは行為の実践に伴う実態論である。それが実効的な意味を持つ合法的な「力」である以上、その力の行使を巡っては常に倫理的な問題が附き纏うだろうし、その目的それ自体の妥当性を論ずる観点は当然あって然るべきだろう。

それは公権力が常に厳正な批判の対象として議論されることと、筋道としては同じである。具体的影響力のある実践には、必ず批判的な検証が必須だからである。

しかし、間違う可能性もあるからと言って力の行使それ自体を否定するのは、一種の無責任論である。それは、座して何事も為さなければ何も間違いを犯すことがないのは当たり前のことであるが、ならば、他の力ある何者かにとってそれが変わることが都合好くなければ何事も変わらないのであり、つまり天下りの強権待望論であり、常に批判する側に立ちたいという無責任である。

たとえば地球環境問題にせよ製品製造者責任にせよ企業の社会的責任にせよ、市民運動というものが大きく力あって、漸く今日のレベルに到達したのである。現状に対する批判はあっても、市民活動それ自体をまるごと意味のないこと、世の中は抛っておいてもなるようになるもの、それでいいじゃないかと考えておられる人々は、大分オレとは考え方が違うし、誰であれこの現代社会に生きる者であれば、おそらく本人の識らないところでそのような世の中の動きの恩恵を被っているはずなので、個人的にはただの不見識だと思う。

その意味で、オレは市民が特定の目的の下に団結することを呼びかける行為を「くだらない」と斬って棄てる人間の見識は一切信用出来ない。

さらにまた、それに実効的な効用があるかどうかというのは飽くまで結果論でしかない話であって、単にそれは他人の実績に対する解釈の問題でしかない。ならば、実践に先駆けてその実効の有無を断定するというのは何の根拠もない暴論でしかない。

原則論としては、特定の目的が実現されることに意義を感じて他者に賛同を呼びかける行為は非常にまともな社会行動であるし、実際にそれが実を結んで意味ある何事かが成し遂げられた事例には事欠かない。

たとえば、特定の作家の書籍の売上というものがどのような購買層の割合によって構成されているのかという具体的な検証抜きで、まるっと「買う人は買い続ける。買わない人はこれまでも買っていなかった」と括るのは剰りにも雑駁な認識である。

おおむね世にヒット作とされる文芸作品というのは、その特定の作家の愛好者が作品を購読するだけでヒットが成立するものではない。コアな愛好者の購買が主たるヒットの要因となっているプロダクトなど、例えばジャニーズ事務所の一部ビッグユニットの楽曲くらいのものだろう。例えばSMAPのCDなどは、発売日からかなり短時日で売上の大部分が計上されるが、それはSMAPのファンという単一の購買層が常識外れに大規模だからである。

しかし、一般的な意味で文芸作品の売上というのは、浮動的な購買層に売上のかなりの割合を負っているものである。小説の場合なら、世間で話題になっているとか、大きな影響力を持つ書評子(大概の場合、プロ書評子ではなくカリスマ的なスターであることが多い)の紹介や、魅力的なキャストによる映像作品化等のプロモーションがあって、それまでその作家のことを識らなかった人間が「読んでみようかな」という気になるからこそ、ヒットの名に値する売上を弾き出すのである。

それは、自身がよく識らない作家の作品を手に取る場面を思い起こしてみれば、そして自身の書棚に並んだ一度限りの附き合いに終わった作家の書籍群を一望すれば、簡単にわかることである。偶然の出逢いで購入し、そこそこ満足して読了したが継続的に作品を追ってみたいと思わなかった作家というのは、案外多いはずである。よっぽど作家単位で網羅的な読書をする傾向の読書人でない限り、そのような浮気な読書家のほうが一般的なはずである。

小説文芸の場合、コアな愛好者層のみによって生活が成り立つ作家などほんの一握りのビッグネームだけであり、そもそもそのようなビッグネームはそれに倍する浮動層の購買を掴むことが出来るのだから、単に「喰える」というだけではなく、ビッグビジネスに結び附くヒットを飛ばすことが出来るのである。

そのようなビッグネーム以外の作家はといえば、今の世知辛い出版不況の世の中においては初版売り切りの堅い商売がほとんどで、確実に売れるだけ刷って在庫を残さないというしょっぱい規模の商売でしかない。たとえばライトノベル文庫の場合には、一冊書いて作家の懐に入る金は稿料・印税含めて一〇〇万円を遥かに下回るのが現状らしい。

だとすれば、精力的に月一冊書き下ろしていけば少なくとも月収数十万円にはなる計算であるが、もしそのような量産が可能だとして、如何にライトノベルが速いサイクルで消費されている文芸であるとはいえ、一人の作家が毎月コンスタントに一冊刊行していたら他の作家の分の発表機会が特定作家群に寡占されてしまう。

もっと言えば、或る小説ジャンルにおいて特定の作家の作品のみでその大半が占められるような多様性に欠ける状況を、そのジャンルの愛好家全体というマッスが許容するはずなどないのである。ライトノベルという小さなパイは、そのような寡占的な存在を許容するほど余裕のあるものではないのだ。

そしてこれは、全般に縮小傾向にある小説マーケットの全体において同様のことが言えるのだ。つまり、現在の小説マーケットというのは、個々の作家の採算ベースを基本に成り立っている市場ではないのである。

そして、残念ながら坂東眞砂子は一握りのビッグネーム作家でも、それよりもっと少ない、忠実な愛好者のマッスを一定規模抱える作家でもない。直木賞作家という基準で言えば、宮部みゆきとは売上の次元が違うし、キャリア的には先輩で直木賞受賞者としては後輩に当たる東野圭吾よりもビジネスの規模は小さいだろう。要するに、多くの読書家にとっては、名を個体識別して次作が注目される作家というより、書評や店頭でお奨めされる推奨作家という以上の存在ではない。

さらに、今現在の出版不況を前提に言うなら、抛っておいても確実に売れるのは宮部みゆきクラス、つまり大極宮トリオや内田康夫程度であって、東野圭吾は「白夜行」ドラマ化で一躍寵児となる前は、あれだけキャリアがありながら、直木賞を受賞するまでかなり経済的に苦労したとのことである(個人的な事情もあったそうだが)。

では、直木賞受賞後何故に経済的な逼迫が緩和されたかと言えば、その報酬レベルが格段に違ってくるからである。同じ仕事量が前提なら単価が高くなるからであり、直木賞という看板によって仕事の供給も安定的に増加するからである。仕事の供給が安定し単価が高くなるから相対的に以前より暮らし向きが豊かになるのである。

ただし、本邦における小説マーケットは、欧米のそれや本邦の人気マンガのような巨大な規模ではないために、一発当てて一生分稼ぐということはまず不可能である。日本語というローカリティの故に、英語圏の作家のようにヒットすればグローバルマーケットでのビッグビジネスが見込めるわけではないからである。

普通に売れている作家と雖も、普通に働き続ける限り一般企業の社員より高収入が得られるという程度であり、自営業の作家には定年がないから仕事の供給が続く限り働き続けられるというだけのことなのだ。

つまり、坂東眞砂子が今現在それなりに豊かな暮らしを享受しているのは、このレベルの直木賞作家の作物が売れる規模なりに、この先も仕事が安定的に供給されるという前提においての話なのであって、これまでに洟をかんで棄てたいくらい大金を稼いだからではない。しかも、過去のエッセイに書かれたことが事実なら、彼女はこれまで好意を抱いた男性に切っ放れ良く大金を与えるのが常だったわけだから、それほど堅実に蓄財に励んでいるわけではないだろう。

この先もコンスタントにこのレベルの収入と支出のバランスが継続するという想定においてそのような暮らしぶりが成立しているのである。いわば、オレたち一般庶民と同様に、今現在手許にない将来の収入を信用して日々を暮らしているのである。

常にライターズブロックや人気の低迷等の不安要素に脅かされる零細自営業者である作家にとって、直木賞受賞とは一種の生涯安定雇用に類した効用があるわけである。それこそ、直木賞作家という看板さえあれば、売れる小説が書けなくなってもエッセイや講演という比較的ローコストの労働で余生のたつきを得ることも可能である。

そういう意味では、坂東眞砂子も文筆業以外の部分で大きな収入源でもない限り、決して左団扇で老後が保証されたご身分ではないはずである。おそらく、直木賞作家としてのメリットを活かしてこれこれの年月働き続けてこれこれの収入と支出のレベルを維持しながらこれこれの貯蓄を残して、というふうな想定において自身の人生設計を考えているはずである。

娯楽小説家は決してセレブリティではなく、本質的には一介の自営業者なのである。

そして、坂東眞砂子のそのような人生設計を支えているのは、出版業界においては直木賞という看板が文藝春秋社や新潮社等の大手版元と作家個人にとってウィンウィンの権威となっている、という経験則のみである。

直木賞の権威が保持される限り、直木賞作家の原稿には一定のニーズがあり、発表機会が継続的かつ優先的に提供されるのだし、直木賞作家の活躍によって直木賞自体の権威も保証される仕組みなのである。このように直木賞及び関連出版社と直木賞作家が互いに互いを支えとして書籍の売上を保証し合うことで、文芸ビジネスというシステムは成立しているのである。

これは多かれ少なかれ他の文学賞にも共通することだが、娯楽小説のプロ作家を対象とする最も権威ある文学賞という意味で、最もその性格が露骨に顕れているのが直木賞というものである。極端な話、文學界新人賞受賞作が売れなくても、純文学系統という意味ではそれほど面目は潰れないだろう。勿論文芸ビジネスである以上、売れるに越したことはないだろうが、純文学というのは元々売れなくて当たり前のものであり、それが売れれば逆に話題になるくらいの位置附けである。

ところが、直木賞の場合はすでに一定のキャリアを積み実績を残しているプロの娯楽小説作家が対象となるのだから、筋から言えばすでに売れている中堅プロ作家中の最大実力者を選んでいるわけで、売れねば面目も何もあったものではない。

つまり、直木賞とは、中堅作家が自助努力で発表機会を勝ち取りながら平凡なレベルの原稿料で一定期間継続的に実績を挙げてきたという条件において、この先安定的に売れ続ける実力を具えていると目される者に、発表機会の安定供給と原稿料のランクアップという殿堂入りの優遇措置を与えるものであり、その代償として直木賞の権威を自身の活動を通じて保証するというシステムになっているのである。

だから、直木賞というのは積極的に欲しいと望む作家にしか与えられない。稀に桁外れな人気作家に「獲らせてやるから書いてくれ」と頼む場合もあるようだが、それもこのようなシステムの本質から考えれば自然だろう。「直木賞作家の作品は面白い」という権威が絶対的に必要なのだから、「面白い作家に直木賞を獲ってもらう」という逆のプロセスがあってもおかしくはない。

少々直木賞の解説に偏しすぎたが、一応、坂東眞砂子が直木賞作家である実質的な意味や人生設計の算盤勘定を理解して戴けたことと思う。これを考えれば、「買う人は買い続ける。買わない人はこれまでも買わなかった。だから効果などはない」というナイーブな臆断に何の妥当性もないことは明らかである。

坂東眞砂子がコンスタントに作品を発表し続けてこられたのは、直木賞作家だからなのだし、好き好んで直木賞を獲った以上、賞に羞じない作品を書き続けるだろう、だとすれば爆発的なヒットはなくても一定程度作品が売れるだろう、と期待されているからなのである。

だからこそ雑誌での紹介や書店での陳列において優遇的に扱われ、「読み応えのある小説」の判断材料として他者からの情報や店頭における扱いをアテにする「薄い」読書家たちにアピールし、結果的に一定程度の売上に結び附くのである。

おそらく、これまではおおむねその通りの流れであったはずである。作家としての坂東眞砂子に触れたブログでは、コアなファンより書評や店頭で目に附いたことがきっかけで何となく手にしてそれなりの満足を得たという読者が一般的で、そういう人はもっと面白い小説があれば迷わずそちらを選ぶだろう。そういう人々にとって坂東眞砂子という著者名に唯一無二の価値などないのである。

そこそこ面白い小説を歩留まり良く読みたいから、どこかで識った坂東眞砂子の作品を手に取ったという読者がかなりの割合を占めるのであり、その場合、とくに坂東眞砂子という著者名が意識され愛好されているわけではない。一部の例外を除いて、小説の一般的読者層とはおおむねこういうものであり、その作家の熱心なファンというのは一般的に購読者中のマジョリティではないのである。

オレも坂東眞砂子の著書を一冊だけ読んだことがあるが、それも栗山千明がマッパを披露する映画の原作だったからであって(笑)、キングの骨法を意識しながらキングほどの稠密な描き込みが出来ていないという散漫な印象しか覚えなかった。オレが今までに坂東眞砂子の作品を一冊しか読んでいないのは、純然と彼女の作家的力量がオレの興味を次作へ繋がなかったからである。その意味では、オレにとって坂東眞砂子という個人名は何ほどの意味もない凡庸な作家の一人の名であるにすぎなかった。

この前提において、「面白くない」から「そこそこ面白い」までの満足度の読者が、ネガティブなイメージと共に更めて坂東眞砂子の名前を意識するなら、何もわざわざそんな不愉快な人物の作品を読む必要はないと感じるほうが自然だろう。そこで誰かがこの人物への妥当な批判意見とともに不買を呼びかけたら、それに応じるには何のロスもない。それこそ「買っても買わなくてもいい」という程度の関心において「買わない」選択をすることには何のデメリットもない。

だが、一般的な書籍ビジネスにおいては、「買っても買わなくてもいい」レベルの動機の潜在的購読者が一人でも多く買うからこそ、引き合うマッスのビジネスとして成立するのである。不買運動を無効視する人は、この売る側の立場と買う側の立場の温度差とそれがもたらすパイの違いという、ビジネスの重要要素を計算に入れていない。所詮ビジネスの算盤勘定など出版社の考えること、という読者であれば、不買運動の実質的な意味が理解出来るはずもない。

つまり、実質的に不買運動が効果を持つか否かというのは、何があろうと坂東眞砂子の小説は面白いから読むという忠実なファン層が、坂東眞砂子の書籍一般の購買層の中でどの程度の割合を占めていたのかという具体的な事実関係に左右されることなのであって、一般論として書籍の不買運動自体を効能なしと断ずる根拠など何もない。

「今回のようなことがあっても、これからも坂東眞砂子の小説を読み続ける」と宣言する奇特な方も多少は存在するようだが、その逆に「これまで好きだったけどもう二度と読みません」と宣言する人はもっと多いし、そちらのほうが自然な感情である。

要するにそれは、今回の一件でも揺るがない忠実なファンが坂東眞砂子の書籍の購読者の中でマジョリティであったかマイノリティであったかという事実関係に応じた結果に落ち着くだろう。マジョリティであればこの先少しは売上を落とすとしても坂東眞砂子の小説は刊行され続けるし、マイノリティであれば書店から姿を消す。そして、坂東眞砂子レベルの売れ行きの作家であれば、後者である可能性のほうが断然高い。

それだけのことである。

それを試してみることには、ちゃんと意味があるのである。作家本人の不愉快な人格や言動を超えて力を持つ文芸なのであれば、どんな不買運動にも屈しないだろうし、それほどでもなければ何事もなかったかのように消滅するというだけのことで、それは表現者にとって実力次第、実績次第のフェアな成り行きである。

寧ろその場合に生き残るほどの優れた文芸を物しているのであれば、実際に犯した言動の過ちよりも価値ある貢献を文芸の分野に及ぼしているということなのだから、それが一種の禊ぎになるだろう。

ただし、その場合には著書の潜在的購買層に可能な限り遍く公平な判断材料が与えられなければフェアではない。坂東眞砂子の今回の言動を詳しく識らない者がその判断を行わないように可能な限り周知の努力を払うこと、これが不買運動の本質である。何も今回の一件を詳しく識っている人間に対して「それを識っていながら坂東眞砂子の本を買うのは間違っている、買うな」と強要しているわけではない。

つまり、可能な限り公平に社会の判断が下されること、これが不買運動の本質的な目的であると言えるだろう。

それ故、別段、詳しいことを識らずに「意味ないんじゃね?」的にコメンタリーするのも論者の自由だが、他人がそれなりの意義を感じて実行しようとしているアクションに冷や水を浴びせる場合には、単に論者個人の好悪というだけではなく、やはり可能な限り妥当と信じる根拠や論理を示さねば相手に対して不誠実だろうとは思う。

それなら、生々しい書籍ビジネスの裏事情など一切識らずとも、自身が正しいと信じる小さな行いの積み重ねがいつか着実に実を結ぶことを信じて行う実践のほうが、社会的行動の姿勢として何倍も妥当であるとオレは考える。

まあ、そうこうしている裡にも坂東先生の活発な説法行脚は続いているようで、最早掲載された文章を一々検討することにも意義を見出せなくなってきた(笑)。

どうもオレがツテを辿って識り得た範疇では、坂東眞砂子先生という御仁は「折れなければ少なくとも負けない」というユニークな持論をお持ちのようで、言い出したら引かない人であるということである。

これも大の大人の社会人が何だかなぁ、というところで、確かに世の中ゴネ得ということもあるにはあるし、これまではそれでやってきたのだろうが、世の中というのは言葉の通じる人間だけを責任ある社会人と見做すように出来ている。

折れない人間を説得するよりも、完全無視するか問答無用で処断するほうが簡単で妥当だから、それに値する行為を犯すまで生温く聞き流しにするというだけの話で、殊にそれが言論人である場合は、自身の言説をまともに受け取ってもらえないということなのだから、本来当人にとって著しく不名誉な状況のはずである。そのような不名誉な状況に陥るのは言論人としての死刑宣告であるからこそ、普通一般に言論の徒は多くの第三者に納得可能な議論のルールを守るのである。

まあ、それが恥を識る人間であれば、という留保は附くが(笑)。

客観的な論理性に基づいて自己の主張を語り、同じように他者の言葉にも耳を傾け、受け容れるべきは受け容れる人のみがマトモな社会の成員と見做されるのであって、理屈はどうあれ絶対折れないという人間はいつか誰からも相手にされなくなるし、それ以前に深甚な軽蔑と揶揄の対象となる。

これは当たり前の話であって、世の中は決してゴネ得ではないのである。

少なくとも、違法行為に関してゴネ得が通用するようなら、それを許すコミュニティは法治国家ではあり得ないのだし、言論の世界でも言論の正義を貶めるような行為に対してゴネ得が通用してはならないのである。

この意味で、今回のようにマスコミの論壇に自浄作用が視られない場合、市井人が組織化して坂東の言論人としての社会的責任を問う行為は、司法の追求とワンセットで必要な手続なのである。そして、彼女を言論人として職業作家として社会から抹殺することは、彼女の不愉快な記憶を抹殺し風化させることとイコールではない。

二昔ほど前なら、おそらく記録として後生に残る意見は、マスコミに登場した言論人たちの「印刷された」「権威ある」意見だけだっただろう。しかし、今や市井の人々の生の声を語り継ぐ手段が確保されているのだから、今回の件に関して普通の人々の大半がどのように考えたのかという歴史の記憶は喪われない。

その意味で彼女が言う「今回の騒動は、世の多くの事件と同様にすぐ忘れ去られていくだろう」という言葉は正しくない。ネットが登場して以来、そして掲示板やブログという情報発信手段が確立して以来、市井人たちは、自身の意見を「書く」というテクスト化行為を常習的に行うようになっている。

オレのネット経験に鑑みて言っても、TVや紙媒体のマスメディアを通じて一方的に与えられた情報はいつか忘れ去られてしまうが、自身が一つ一つ推敲しながらテクストとして論理を構築し発話した情報は記憶の深層にキチンと格納されるものである。

だから、たとえ誰一人として坂東眞砂子の作物を買わなくなったとしても、坂東眞砂子が著名な職業作家ではなくなってしまったとしても、その所行の卑劣さが忘れ去られる気遣いなどないのである。誰であれ、坂東眞砂子の名を想起する場合には、必ず子猫殺しの卑劣漢として不快な記憶と関連附けた上で想い出す。

日常的な意識の上に上せることはなくても、人々は坂東眞砂子の名とそれに関連附けられた所行を決して忘れないだろう。それは、忘れてしまえば坂東眞砂子は直木賞に値する実力を持った過去の娯楽作家として記録にその名が残るのみだからである。

そして坂東眞砂子の非道を記憶しておくことが必要なのは、ほとぼりが冷めた頃に語られたこの人の言葉に対して「うっかり」同様の無駄な議論を戦わせることを避けるためであり、「うっかり」この人の生活手段である著書を買ってしまわないためでもある。

言論人として、職業作家として抹殺されたとしても、不特定多数の一般人や就中社会的弱者に対して凶暴かつ意固地な攻撃を加えた恥ずべき罵言の数々と、一人の卑劣な犯罪者としての不浄の名は人々の記憶に永く残り続けるだろう。

坂東眞砂子がもし如何なる形であれ、人々から忘れ去られたくないと望んでいるのであれば、以て瞑すべしである。彼女自身が一〇〇年の文名を欲したかどうかは定かではないが、形は違えど一〇〇年残る名を歴史に残したことは確かだからである。松任谷由実の名曲の一節ではないが、憎まれても覚えていて欲しかったのなら、ちゃんと覚えていてあげるから。

少なくとも、これまでに坂東眞砂子に痍附けられた、不妊手術を行った猫飼いと、タヒチ人と、高知県民と、アルツハイマー病患者と、ゲイピープルと、ユダヤ人と、ハンセン氏病患者、そしてそれらの人々に親しい人々と、もっと言えば「ビョーキ」と決め附けられ貶められたすべての日本人は決して忘れないはずである。

ただし、オレ個人としては、如何に彼女の社会人としての言動や言論人としての姿勢が間違ったものであろうとも、過去に遡って直木賞を剥奪するという形での制裁は筋違いであろうと考える。その裏側にどんな世知辛いお台所事情があろうとも、建前から言えばこの文学賞は、職業作家としての坂東眞砂子のそれまでの執筆活動の実績や受賞作のクオリティを基準に選考されたもののはずである。

「直木賞作家」というタイトルホールドに「人品骨柄卑しからず志操堅固にその身を慎むこと」という履行条件でも課されているのならともかく、受賞するに足る実績・力量であると判断して授賞した文学賞を、その後の言動如何によって取り消すことには懲罰的特例措置という以外に何ら正当な根拠がない。

坂東眞砂子にとってこの先何を保証してくれるわけでもない空証文になろうとも、奪うべき正当な根拠のないものまで奪うことは行きすぎた攻撃だろうと考える。

まあ、それ以前に直木賞剥奪という事態の本質は、文壇の自己保身の動機に基づく蜥蜴の尻尾切りという矮小な意味しかないと思うからではあるが(笑)。

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