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2006年9月16日 (土曜日)

美也子さんに応える

この週末、春霞さんと仰る方水島美也子さんと仰る方から相次いでTBを戴いた。リンクを戴いたエントリーを読ませて戴くと、このお二方はお互いに意見の齟齬を抱えておられるそうだが、その間の経緯についてつまびらかに識る立場にない以上、その問題についてはいっさい触れないのが礼儀だろう。

オレが何かを言うとしたら、それぞれの方が当ブログから引かれた部分は、オレの意見の総体として一体不可分のものだということである。当ブログでは坂東眞砂子の子猫殺しの行為の核心となる要素を以下のようにディスクライブしている。

・不妊手術に対する感情的忌避(行為の動機)
・子猫の崖下への常習的な投棄(実際の行為)

この二つの間で、「行為の動機」を「実際の行為」の反社会性より過剰に重要視しているのが問題だというのが当ブログのスタンスである。それはつまり、

・家畜に対し繁殖管理を施す責任(飼育責任)
・違法に亘る行為を斥ける責任(社会的責任)

という、イエネコ飼育に際して義務附けられた二つの階層の責任放棄だからである。さらにイエネコ飼育に関しては、動物飼育自体に纏わる人類としての倫理的責任という問題もあるにはあるが、それはこの二つの責任の上位階層に位置する問題である。

つまり、「飼育者<社会人<人類」という階層序列になっているのであり、非常に具体的なルールで個人の行動上の責任が規定されている前二者と、後者の階層の間にはかなり深甚な断絶があるのだし、どれか一つの責任がどれか他の責任に優先するという問題には成り得ないはずである。

理想的なのは、この三者の階層における責任関係がきちんとした議論によって整理され調停され多くの人にその認識が受容されすべての責任が果たされることであって、個人が個人の判断で責任を放棄することは許されないはずである。

そして、イエネコの飼育者であり社会人である以上、まずこの二つの責任を一旦引き受けた上で上位階層の問題を論じるのが言論人としての筋であり、「責任」を一切放棄して他者を断罪する「権利」など誰にもないというのが当ブログの基本的見解である。

たとえば坂東眞砂子が責められてリンク先の美也子さんが責められないのは、同じような問題性を抱えていても、美也子さんは自身がそれと規定される「飼育者」「社会人」という階層における責任をそれぞれ果たした上で論議しているが、坂東眞砂子はその基本的な責任すら果たしていないのに大局的見地から他者批判を展開しているために、一方的に責められているのである。

この意味で、「次善ではあれ不妊手術以外の選択肢はない」「子猫の殺害は選択肢に入らない」という既定の結論は、イエネコの飼育者であり社会の成員である以上、誰にも拒否する権利はないのである。その既定の結論を引き受けた上でなければ、この議論に加われないということである。

不妊手術がそれほどイヤなら、ヒートが来て暴れたり大鳴きしたり室内を荒らし回ったとしても、為すがままに任せて完全室内飼いするという選択肢もあり得るが、それだって本能行動を妨げているのだから残酷であることに変わりない。要は繁殖管理というのは本質的に残酷な行為であり、動物を飼育する以上その種の残酷さからは逃れられないということである。

では、同じ残酷な行為であるなら子猫殺しも不妊手術も変わらないのだから、どちらを選んでも同じことだということなのだろうか。それは違う。普通一般には子猫を殺すという選択肢は選び得るものとは見做されていないし、それよりは不妊手術がマシだと見做されている。

それなら、何故子猫殺しも含めた繁殖管理手段の中で不妊手術がいちばんマシだと考えられているかと言えば、動物の不妊化という行為の残酷さが「観念的なもの」であり動物を視る人の精神においてのみ成立する残酷さだからである。

本来、自由に交尾して子を儲けるのが動物種の本然であるはずなのに、それを外科手術によって不能化する。たしかに残酷である。だがこれは、物を想う人間の観念において生起する残酷さであって、「少なくとも」現実的な苦痛には結び附かない。さほど客観的苦痛を伴わない外科手術があるのみである。

対するに、子猫の崖下への投棄は現実に生まれた命が苦しみながら死んでいくということであって、動物という他者が苦痛を感受することが客観的にハッキリしている。また不妊手術を忌避して完全室内飼育を守ることは、発情から交尾に至る本能行動を物理的に阻害することだから、それ相応の期間、動物の苦痛が発生する。発情も交尾も動物個体にとっては苦痛であり、苦痛の連環のプロセスが交尾と妊娠によって一段落するという本能行動の機序になっているからである。

この間の機序に関連して、たとえば進化論の非専門的な議論において陥りがちな陥穽として「種と個体の混同」という問題がある。つまり、種の適応戦略という場合に、あたかもその種としての適応戦略をその動物個体が「考えて」行っていると視てしまうような思考の傾向のことである。普通に考えれば、これが莫迦げた錯誤であることはわかるが、個体としての思考と種としての戦略の間をイメージ的に橋渡しする有力な定説がない以上、どうしてもそのように考えがちなのが人間というものである。

つまり、人間に置き換えて考えるなら、オレたちは普段自身が属する人類という種の進化的戦略などを意識して個人生活を送っているわけではないし、そもそもその戦略がどんなものだか識っている人間など一人もいないのである。直立歩行によって前肢が自由になったことが人類進化の契機だと説明されても、それが進化上有力な戦略だと考えてそんなことをした猿人などは存在しないということである。

だとすれば、個体としての規範と種としての規範の間にはズレがあるのであり、種としての規範は普通の動物個体には格別目的的に意識されていないということである。

話が脇道に逸れたが、つまり、個々の動物個体自身にとってはその個体の生存と快楽を求めることがプライオリティであるが、種というアスペクトで視た場合は個体の生存と快楽は必ずしもプライオリティではないということである。適当なサイクルで個体の代替わりが起こり、柔軟な形質変化の余地が残されていないと環境圧や淘汰圧に脆弱な種として絶滅の危機を迎えてしまう。

たとえば、個体としての動物を考えれば、妊娠して子どもを生み育てるというのは生存リスクと苦痛以外の何物でもない。妊娠期間中は行動に制約があり肉体的に脆弱になっているのだから外敵に対する防御力が低下するし、妊娠・出産・授乳に伴う疾病や内傷のリスクも高い。さらに足手まといな乳幼児を外敵から守り食餌することは、親の個体にとってさらなる生存リスクに繋がるだろう。まさに命懸けの営為である。

人間の場合は種としての子孫繁栄の意義や母性を概念化して理解出来るから、それを人間としての一つの崇高な事業と解して敢えて積極的に向き合うことも出来るが、概念化という手段が人間ほど発達していない動物の場合、本来妊娠・出産・育児というのは個体にとって本質的に自己の生存を脅かす「いやなこと」である。

それは「いやなこと」ではあるが、種としての存続の観点からは必須の営為であるからこそ、快楽によって動機附けされるのではなく、苦痛によって本能行動として否応もなく強いられているのである。

非常に実も蓋もないことを言えば、動物個体にとっての生殖とはそのようなものでしかない。人間を含めた一個の動物個体には、個体としての性格と種としての性格が同居しているものなのであり、その両者の性格が曖昧な部分で両立しているのである。人間と動物が異なるのは、それを知識として意識化できるか否かという部分である。

それ故に、交尾や出産を人間からの類推で生の充実と捉えるのは、少なくとも厳密な意味では間違いである。それは動物個体の体感としての生の充実ではなく、個体の実感とは無縁な種としての本然だからである。そして、ここが重要なポイントだが、動物の不妊化手術には著しい苦痛は伴わない。苦痛という、動物と人間が共有可能な体感的規範以外の部分で、不妊手術の残酷さは成立するのである。

そして、何故それが残酷なのかと言えば、それが動物種の本然を枉げる「罪」だからである。動物種は本来交尾をして子を成すのが本然であると識っている人間が、それを本然から外れたこととして忌避する感情があるからである。そして、「罪」というのは本来人間の概念規範上にしか存在しない観念なのである。

たとえばアリはアリマキを使役して収奪しているし、ヤドリギは他の植物に寄生して収奪している。ウィルスや細菌は宿主の健康に甚大な被害を与えることで種として生存している。原理的に言えば人間が家畜を使役し収奪するのはそのバリュエーションにすぎないのであり、何も人間にオリジナルな行為ではない。前掲の生物がうまく共生関係を築いているというのなら、人間だって家畜の種としての存続を保証している。結局それは「天意であるか人為であるか」という表面的な差異でしかないのである。

極端なことを言えば、自身が生き残れる範囲で人類が周囲の動物を残らず犠牲にしたとしても、一旦人間視点を離れるのであれば、それはこの地球という惑星のドミナントが極端に収奪的な生態を構築しているということにすぎないのであって、それが滅びるか存続するかというのは大した問題ではないとすら言えるだろう。

ただ、人間は人間視点において不当な行為を憎み、罪を意識するが故にそのような行動をとらない・とろうとしないというだけの話である。そしてオレはこれを別段無意味なこととして嘲笑っているのではない。人間である以上人間視点を逃れられない、観念性の呪縛を逃れられないのは当たり前のことであり、まずそこを肯定しなければ人間の生きる意味などはないだろう。

その意味で言えば、不妊手術に「罪」や残酷さを視ることは、無意味なことでは決してないのである。種としての本然を外れた動物に惻隠の情を抱き、それをもたらしたわが身の行為に深甚な罪障感情を持つこと、それは人間としての自然な感情である。

ただ、ここで誤ってはならないのは、「繁殖管理」という前提を一旦受け容れるのであれば、動物に対する不当さ、残酷さには客観的な序列が間違いなく成立するのであり、それは個人の判断で勝手に順位を並べ替えてよいものではないということである。

先ほど少し触れたが、人間と動物との間で客観的に共有可能な体感的規範とは苦痛の感受性である。如何なる動物も自明な苦痛からは回避行動をとる。他の個体が目の前で殺害されたら、その動物の習性なりに殺害者に対して闘争もしくは逃走の行動をとる。この事実を前にして、動物が虐待や殺害を喜んでいると考える人は一〇人中九人まではいないだろうし、残りの一人はどこか精神に問題がある。

これはつまり、すべての動物は苦痛を与えられたり殺害されたりすることが絶対的にいやなのだということだ。

これはまず疑い得ない大前提であり、動物の考えや概念規範が人間には理解出来ない以上、動物の扱いに際しては須くこの当たり前の前提から出発すべきであるということである。動物と人間の間に共有されている絶対的な規範は、実にこれしかないのであり、しかもこれは何も目新しい規範ではなく、おそらく人類が人間としての自意識を獲得した瞬間から連綿として続く自明な感情として共有されているのである。

たとえば、オレ個人としては莫迦げた擬人化だと思うが、一〇〇に一つでも不妊手術を施された猫が「生の充実を奪われて精神的な苦痛を覚えているニャア」ということがあり得るのかもしれない。しかし、絶対的に確かなのは、動物に対して不妊手術を施すことよりも全身打撲や内臓破裂の暴行を加えることのほうが、すべての動物にとって苦痛と感じられるということであり、それは一〇〇に一つも疑い得ない事実である。

たとえば、坂東眞砂子が生の充実を奪うことのほうが子猫を殺すより残酷だと考えたとしても、それは坂東眞砂子個人の思想にすぎないのだし、猫がどう考えているのかなど人間の誰にもわからないことである。これはつまり、飼い猫や子猫という動物個体とは直接的な関係のない人間の倫理性の問題だということである。

しかし、生まれたての子猫が崖下に投棄されたらさぞや痛いだろう、さぞや苦しいだろう、さぞや死ぬのはいやだろうというのは誰にでもわかるし、おそらく猫自身がそう感じていることは一〇〇に一つも間違いがない。これは坂東眞砂子の問題ではなく、直接飼い猫や子猫という動物個体の体感的な問題である。

つまり、一〇〇に一つも妥当性がないだろう自身の個人的思想のために、一〇〇に一つも間違いのない他者の苦痛を選んだからこそ、坂東眞砂子の行為は絶対的に間違っているのである。

だから現代の大多数の人は、生まれた子猫を殺害するよりも不妊手術を選択するのであり、それに伴う動物とは断絶した規範に基づく観念的な罪を引き受けるのである。人間は、その確からしさの相対においてしか動物をフェアに扱うことは出来ないのであり、動物を身近に置く以上イノセントではあり得ない。

たとえばそれは、親が幼児に対して絶対的にイノセントではあり得ないのと同様の機微であり、一方的な飼育者である人間は飼育動物に対して全責任を負う以上、本来自然状態なら動物自身が負っていた責任をも引き受けるのが当然なのである。つまり、オレたちが不妊手術や間引きに対して罪の意識を覚えるのは、普通ならそれを残酷な天意が施していたからである。

「天意」というのは便利な言葉で、要するに人間が責任を負わない・負えない事柄全般が「天意」という概念であり、これを「自然」と言い換えてもいいだろう。その天意においては、動物個体が交尾出来なかったり不妊だったりすることも「罪」ではあり得ないのだし、生まれた子どもに生存能力がなければ容赦なく他の動物(微生物から昆虫、捕食動物まで多岐に亘る動物)に殺され間引きを受けるのでる。

人間が動物を飼育するということは、この残酷な天意を限りある人間が肩代わりするということであり、それが残酷な行為であり歪みや限界があるのは当たり前の話なのである。そして現時点における人間の限界とは、家畜飼育に伴う「繁殖管理」という残酷性なのであり、自然状態なら人為を超えた何らかの原理が増えすぎた個体を殺し、窮めて大雑把でダイナミックなやり方で全数調整を施し、存続の力を持たなくなった種はアッサリ絶滅していたのである。

その、人間が責任を負わない残酷さこそが「自然」であり「天意」なのである。

自然も天意も「人為ではない」から人間の罪ではないだけの話で、それが絶対的に正しいと考えるのは、どんな残酷な事柄であれ、自分の意志的行為に基づく結果でなければ自分に責任が生じないということを言っているだけにすぎない。

人為による繁殖管理が間違っているとするなら、人為以外の要因が殺してくれる分には人間に責任が生じないから構わないという話である。滅ぶも栄えるもその動物種の自己責任であれば人間に責任が生じないというだけの話である。だから、人間が他の動物種に何も手出ししないのであれば、当然それはすべて天意や自然の仕業であり人間には罪がない。

だが、人間が自己とそれを取り巻く世界を意識化し概念化し得る生物である以上、その状態に後戻りすることは、すでに不可能なのだ。人間がこの地球環境の内側に存在する以上、人為による影響は必ず自然の生態系にも反映されるのだし、存在するだけで地球環境に対する責任が発生するのだし、人間とはそれを識り得る動物なのである。

マクロな視点からミクロな視点に舞い戻るとするなら、不妊手術を忌避して子猫の殺害を選択するということは、人間がこの地球上に存在することによって否応なく発生する原罪に対して、少しでもイノセントな位置ににじり寄ろうとする行為と位置附けられるだろう。だが、その方向性で人間の原罪が贖われることなどはないのである。

いまの人間に出来るのは、人間と動物の間で共有されている体感的規範に基づいて動物の苦痛を避けることでしかない。単純な言い方をすれば、「相手のいやがることはしない」という幼稚園レベルの基準しかあり得ないのである。

動物と規範が共有されていることが九分九厘あり得ない人間独自の観念性である「生の充実」という概念が、「苦痛の感受」という客観的に共有可能な規範に優先するということはまず以てあり得ないのである。

以前から繰り返し強調していることではあるが、オレはたとえば坂東眞砂子の不妊手術に対する忌避感それ自体や、それに共感する美也子さんの感情それ自体をくだらないことだとは思わない。むしろ健全な倫理感情だろうと思う。

たとえば、現代において人間の男性が去勢に類する処置を被るのは非常なレアケースであり、たとえば男性飼育者が雄猫に対して去勢手術を施す際の抵抗感は「ちょっと不愉快な連想」という域を出るものではないが、女性がたとえば乳房切除や内性器摘出の処置を被ることは非常に一般的でリアルな脅威である。そのような想定における自身の女性性の確立は非常に苦痛を伴うものだろうし、すべての女性が出来得るなら避けたいと考えているだろうことは、男性のオレにも容易に想像出来る。

たとえば「不妊」という言葉の響き一つとっても、男性は男性機能が確保されている限り年齢に関係なく生殖機能が保持されているが、女性にとってはたかだか一〇年前後の短い期間に強いられる人生の重大な選択の一つであり、「不妊」という言葉の重みは男性とは比べ物にならない。

不妊という事態における男性側の責任が一般的に云々され始めたのはほんのここ十数年のことであり、昔は夫婦の間で子がない場合は「畑」が悪いものと一方的に決め附けられたのである。「石女」という言葉はあるし、男性側の行為不能性を表す言葉はあっても、男性の生殖不能性を指す言葉がないことでも、それは明らかだろう。

そして、丈夫な子を生むことが女性の務めとされていた時代がつい最近まで、いや、今現在も生きているが故に、女性にとって「不妊」という言葉は自身の女性性の根底を揺るがす怖ろしい言葉として立ちふさがるのである。

その意味では、家畜飼育における繁殖管理の場面では、女性の側に男性よりも感情的な抵抗感が大きいことは事実だろう。そこに想いを致すことが男性よりも自然であることは事実だろう。ある意味、男性よりもこの問題の本質に関心が高いと言えるのかもしれない。しかし、それは大前提として飼い主の痛みであって飼育動物の痛みではないという弁えだけは持つべきだろう。

散文的な意見だが、今目の前にある動物個体は、あなたが感じる通りのことで幸福を感じるのだし、不快や苦痛を感じるのである。種としての生殖という問題は、ひとまずその個体の実感的な問題としては無関係である。不妊手術に対して飼育者が如何に悩んだとしても、どんなにその悩みが自然であったとしても、動物自身は冷酷なくらいそんなことでは悩まないのである。

そして、社会や動物それ自体、そして何より自分自身に対して責任を持って動物を飼育する以上、自身の痛みよりも飼育動物の痛みを優先させて考えることが第一条件なのだという弁えはあって然るべきだと思う。だからオレは飼い猫の苦痛は重視するが、坂東眞砂子の苦痛には一顧だにしないのである。

動物の本然を枉げる罪も、不妊に対する生理的忌避感も、煎じ詰めれば飼い主自身の苦痛でしかないという大前提は忘れてはいけないのであり、それは動物を飼育することに課せられた必然的な痛みなのである。その苦痛に基づいてどのようにして飼育動物に酬いるかは飼育者の自由であるが、ただ一つだけ、飼育動物に苦痛や死を与えるという選択肢だけは決して選んではいけないということである。

動物を飼うという行為は、決して公平ではあり得ない立場の他者に対して一方的な責任を負うということであり、必ず飼育者には何らかの苦痛が発生するのである。

だから、ここでもう一度坂東眞砂子が責められて美也子さんが責められない理由を考えるとするなら、突き放した言い方だが、美也子さんが苦しんでいるとしてもそれは美也子さんだけの問題であり、飼育する動物個体には差し当たり無関係だが、坂東眞砂子の場合は自分自身で抱え込むべき苦痛を回避し、飼育する動物個体の苦痛を選択したから責められるのである。この苦痛が絶対的に理不尽であり不必要な苦痛であるからこそ子猫殺しは糾弾されるのである。

それを違法性の問題と言い、倫理の問題と言い、家畜動物の歴史の問題と言っても、大本は一つであり、同じことを言っているにすぎない。観念的な意味における罪深さという意味ならば、たしかに不妊手術も子猫殺しも同様に罪深いが、それよりもっとストロングな規範に基づいて子猫を殺す行為は間違っているからこの差異が顕れるのである。

たとえばその虐待や殺害が法律によって禁じられているということが説得力を持たないのであれば、「もしかしてこのように考えているかもしれない」という私的な空想を元にして、当の動物がいやがっていることが誰の目にも明らかな暴力や殺害を敢行してよいものかどうか、人間である以上必ず過ちを含んでいるはずの空想と、間違いのない苦痛と死が引き合うものかどうか、これを考えるのはどうだろうか。間違っているかもしれない空想がもたらす苦痛は、その空想を弄ぶ者自身が引き受けるべきなのである。

その上で言うならば、飼育動物の虐待や殺害は決して選び得る選択肢ではないし、動物を飼育する行為に伴う飼育者の苦痛は、決して一〇〇%慰謝され得るものでもないし、そのために不妊手術を行うことも、一〇〇%正当化され得るものではないのかもしれない。飼育動物がどう考えようと彼らは何も言ってくれないし、それを決して認めないあなたという人間がいつでもそれを視ているからである。

宗教めいて聞こえるかもしれないが、人類の罪は人類の心の中でのみ実体であり得るのである。人に心がある限り、その罪は無意味なものではないのだし、悩むだけの価値のある問題であることは確かである。しかし、人類の心の中だけの問題に、心の外に厳然と存在する動物の命や苦痛を巻き込むことはやはり間違っているのである。そこが絶対的な境界線なのだ。

坂東眞砂子は、その絶対的な境界線を越えたために、美也子さんとは———というより他のすべての猫飼いとは決定的に違うのである。そこしか違わないというより、そこが違えば絶対的な違いになるのであり、たとえば人類の罪というような、この二つを等価に扱う規範を適用すべき問題ではないということである。

人間に出来るのは、その負い目を負いつつ、可能な限り動物に酬いようと望み続ける誠意であり、それを織り込んだ動物と共にある幸福な日常を確立することである。その意味で、オレは飼育動物と幸福な日常を過ごす人々を無神経に弾劾する坂東眞砂子の傲慢さは、同じ猫飼いとして許せない。自分だけが痛みを抱えていると言わぬばかりの傲慢さが許せない。

人の目から視て猫が幸福そうな表情を浮かべていることを、真実猫の幸福だと信じたいと願う人の心を踏みにじる鈍感さが許せない。何らポジティブな知見もないくせに他人の心の痍の薄皮を無神経に剥がすやり方が許せない。それに対して共感する人々が現れることはもっと辛いことである。

普通の猫飼いが辛く思っていることを殊更に弾劾するために、もっと辛くで出来ないことを自分はやったと嘯く傲慢さが許せない。たとえば美也子さんが、その辛さはわかるからと理解を示すことは自然だが、要するに坂東眞砂子はその辛さを忍ばなかった人間であるにすぎず、美也子さんとは絶対的に違う種類の人間である。

坂東眞砂子と普通の猫飼いを隔てる要件とは、その問題を考えるための手続として自身の痛みを引き替えにしたかどうかということである。その問題と引き替えにされる痛みとは詰まるところ物想う人間である自身が抱えればいいだけのものでしかないが、子猫の苦痛と死は子猫自身のものであり、その殺害者がどう感じるかというのはオマケでしかない。飼育者が自由に質として差し出していいものではないのである。

オレが坂東眞砂子の誠意を信じないのは、子種殺しと子猫殺しの間には、苦痛をわが身一身に引き受ける覚悟の有無という無視出来ない差異があるからである。不妊手術に感じる苦痛というのは、その主体が坂東眞砂子自身であって飼育動物ではない以上信じられるが、子猫殺しに伴う苦痛とは子猫自身のものでしかない故に、それに坂東眞砂子の苦痛が伴ったかどうかなど問題にはならないし、そのようなどうでもいい事柄を必要以上に強調するから信用するに足らないのである。

子猫殺しの場面で強調さるべきなのは、そのとき坂東眞砂子がどれくらい辛かったのかというどうでもいい事柄ではなく、崖下に落とされた子猫が、どれくらい痛かったのか、苦しかったのか、辛かったのか、淋しく死んだのかではないのか。

それを「土に還るだけ」「拷問である」と表現する人間の言など、オレは絶対に信じない。あれだけくどくどと自身の行為を書き連ねた文章の中のどこにもそこに想いを致した説得力のある言葉がない以上、絶対に信じない。理不尽に死んでいった生き物の苦痛ではなく、それを視る自身の苦痛を強調する作家の言葉など信じられるものか。今一度それを語る坂東眞砂子の言葉を読み返してみてほしい。それを他者批判の為に利用出来る心性が信じられない。

その意味では、不妊手術に対する考え方、動物殺害に対する考え方、坂東眞砂子の行為に対する考え方は一体不可分のものである。オレの基本認識は、たとえば物想う人間なら引き受けて然るべき心の痍を坂東眞砂子は回避したということであり、決して自身の苦痛の巻き添えにしてはならない命を無思慮に巻き込んだということであり、さらに同じような苦痛に耐えている他の人間を粗雑に裁いて痍附けたということである。

このどれか一つにでも共感し得るという人間だけが、坂東眞砂子に共感すればいいのではないか、そこから思弁を進めるのであれば坂東眞砂子個人の問題と切り離して考えるべきではないかと考える次第である。彼女の行為が絶対的に間違ったものである以上、彼女の個人名の存在する場所では客観的で妥当な議論は成立しまいと考える。

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