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2006年9月20日 (水曜日)

坂東眞砂子告訴へ

さすがにフランス語はまったく読めないので、翻訳エンジンや抄訳したブログが頼りではあるが、どうやらタヒチの現地当局が坂東眞砂子の告訴を決定したようだ。

この時点でコメンタリーすることはまだ時期尚早だとは思うが、批判の段階を超えて現実的な法執行の段階に進んだ意義は大きいと思う。何故なら、当ブログにおいては坂東眞砂子批判の重要な論点として、その行為の違法性、さらには違法行為の言論による正当化を一貫して挙げていたからである。

日本国内へ向けたエッセイで日本国内では違法である行為を正当化していること、さらにはそれが現地においても違法であること、これらを考え併せれば、国内与論としては厳しい批判に晒され、現地においては現地の司法によって適切に裁かれること、これが期待される状態である。

違法行為を公言するということは、そういうことである。今回は、これまで剰り強調していなかったこの側面から、少し語らせてもらうこととする。当ブログも本来の趣旨を外れてすっかり坂東ヲッチャー化しているが、今少しご辛抱を願いたい。

現地において犬猫の殺害が実際に取り締まられているかどうかというのは、単に現地の司法の実態論であるにすぎない。しかし、それが一旦公の場で表明され、剰え正当化までされているのであれば、これまでの実態がどうあれ司法が動かざるを得なくなる。このことは何度か繰り返し強調してきた。

たとえば以前触れた呉智英の擁護論でも、旧動物愛護法における犬猫の虐待を立ち小便に準えていたが、いくら立ち小便程度とはいえ、警察官の目の前で立ち小便をする莫迦など何処にもいない。前後不覚に酩酊していたり反権力の示威行動であればその限りではないが、その場合は間違いなくトラ箱に一泊という仕儀になるだろうし、酔いが醒めれば厳重な説諭が待っているだろう。また、それが目的的な法の侵犯であることが明らかであれば問答無用で訴追されるかもしれない。

その場合、自身の非を認めて謝れば悔悛の情ありとして無罪放免となるだろうが、素面で立ち小便の正当性を力説すれば、警察官の側としても不本意ながら軽犯罪として立件せざるを得なくなるだろう。おそらく呉智英が挙げている「年に数件程度」の例というのは、おおむねこの類の「言い張り系」のトラブルが原因だろう。

たしかに、多寡が立ち小便である。反社会性の度合いからすれば窃盗や殺人とは比べ物にならないから軽犯罪と位置附けられているのである。酔いが醒めれば日常的には常識人であり立派な社会人の一人だろうと思うからこそ、反社会性の薄い軽犯罪で立件してあたら前科のハンディを課すに忍びない、そこを警察官の一存で酌量しているというだけの話である。

しかし、素面で立ち小便のどこが悪いと大真面目で正当化するのなら、それは行為としての立ち小便の問題ではなく、本人の遵法意識の問題となる。自分が悪いと思わなければ平気で法律を破ると明言しているのと同じであるから、司法の立場からすれば訴追せざるを得なくなるのである。

また、違法性と言論の関係性のアスペクトで言うならば、違法行為の正当化は本質的にテロリズムである。

現在只今の建前として言論の自由が保証されているのは、言論者たる者はその行動において社会のルールを遵守することが期待されるからである。「悪法もまた法なり」という陳腐な俚諺があるが、如何に陳腐に響こうとも、これは言論によって何事かを為す者の大原則である。法の瑕瑾を批判する場合でも、行動においてはその法に遵うというのが言論者としての大前提である。

陳腐序でに「ペンは剣よりも強し」という俚諺を挙げるなら、言論者は剣ではなくペンで戦う者と自己を規定する者である。たとえ剣の脅威に晒されても飽くまでペンによって抵抗する者のことを謂うのである。

そして、現在只今言論者の言論の自由を保証しているのは、一にかかって法の力であり法を遵守すると誓った社会の成員相互の合意なのである。その法による保護は無償で得られたものではなく、先人の血によって贖われたものであり、その血はつい最近に至るまで夥しく流され続けてきたのである。

過去においては権力者への諫言は死を賭して行われた言論の営みである。そして、今現在に至るもたしかに権力者への批判は有形無形の圧力を受けるが、小泉純一郎の施策を批判して(言葉通りの意味で)首を切られた人間というのは、寡聞にして聞いたことがない。これを洒落て言うなら、馘を切られる程度なら馘が飛んでも動いて見せる硬骨の言論人は確実に存在するのである。

力ある者に対して言論で戦うことを権利として保証しているのは、実に法の強制力なのであり、法という規範を受け容れる高度に文明的な社会があるからである。建前としてではあれ、この現代社会は非力なペンで強力な剣に立ち向かうことが原理的に可能な世の中なのである。

たしかに、今のこの世の中でも言論の力で強大な力に立ち向かうことには、現実的な脅威に揺るがない腹の括り方を要求されるが、それでも昔を思えば遥かに効果的に戦うことが出来るようになっている。大多数の第三者がその言論の妥当性を受け容れれば、世論が大きな圧力として権力に抗し得る力になり得るのである。

それ故に、言論人たる者は言論を行使するに当たっては厳格に法を尊重する必要があるのであり、違法行為の正当化など言論人としての自己否定でしかない。たしかに法の適用を過度に重視するなら、日常生活のすべての場面に亘って法の侵犯からフリーであることは難しいかもしれない。酔えば立ち小便もするだろうし、駐車禁止で切符を切られる言論人など決して少なくないだろう。しかし、少なくとも自己責任で行う公的な言論表明の場面で法を軽視することは許されない。

それは自身の言論活動の正当性を保証している根拠を、言論活動によって否定する自己矛盾の行為だからである。

たとえば言論によって法の瑕瑾を鳴らすのは、言論者たる者、必ずその法に遵うという建前があるからである。自身が必ず遵う社会規範が間違っていると考える場合、言論者にはそれを批判する根拠がある。遵うも背くも個人の勝手であれば、別段そんなものを批判する意味などはない。ただの酔狂な戯れ言だ。

ただし、その場合は自身の言論の自由を保証する法の侵犯に対しても文句を言う筋合いはないということになる。「言論圧殺」がどうのこうのと主張しながら、法に背く自身の行いを正当化することなど、その道理を解さぬ愚昧でしかないのである。

この論理矛盾を敷衍するならば、昨今マスコミを取り巻いている言論規制の動き全般に対して、坂東眞砂子には何を言う資格もないということになる。動物の殺害を禁じる法律に対して、彼女自身が納得していないからその法を遵守しないというのであれば、言論の自由を保証した法よりも現実的な不都合のほうを重視してこれを規制するという動きもまた、単に坂東眞砂子よりも力のある人間が推進している坂東眞砂子に不都合な決め事というだけの違いでしかないのである。

建前として、公的発話の場面で法の遵守を無条件で支持するからこそ、法が保証する言論の自由を主張する根拠が成立するのである。納得出来ない法は守らないというのであれば、法が保証する権利だけを要求するのはただの子どものワガママである。

仮に言論規制対坂東眞砂子という甚だ滑稽な局面を想定するなら、それは単に都合と都合の力関係の問題にしかなりようがない。言論を圧殺し得る力を持つ者が「言論の自由を保証する法なんか納得出来ない」と蹂躙したとしても、坂東眞砂子にはそれを批判する資格などはないのである。権力者も坂東眞砂子も、このアスペクトにおいては平等だからである。

それとこれとを隔てる基準は、罪の軽重ではない。法治国家の成員として、無条件の法の遵守を受け容れるか否か、それだけの単純なことなのである。

剰え、法が規制する行為を犯しておいて言論でそれを正当化するというのでは、言論の用い方がテロリズムである。それはつまり、実力行使の大義名分を言論によって附加するということなのだから、実力行使が主であり言論は従である。これは即ち、剣に傅くペンの姿であって、ファシズムというならこちらのほうが数等ファシズムとの近縁性を持っている、唾棄すべき言論の在り方ではないだろうか。

大々的なテロ行為を犯しておいて、それをマスコミを通じた声明文で正当化する行為と何処が違うというのか。

百歩譲って坂東眞砂子の言動に何らかの問題提起としての意義があったと仮定して、それを巡る議論が必要だとしても、それは彼女が然るべき法の裁きを受けてからの話であり、違法行為に対する反省の言があってからの話である。

高知新聞に掲載された最新の自己弁護によれば、すでに彼女は自身の行為を「罪深いもの」とするどころか、高知の人なら「今回の『子猫殺し』に対して、穏やかに受け取ってくれていると思う」と「普通の行為」であることを強調している。

違法行為に対する反省どころか、こんなことで騒ぐ人間のほうがおかしいのだという論調に終始している。一万歩くらい譲って高知県民にはこうした行為を理解する土壌があると仮定しても、それは要するに高知県民は特定の法の侵犯に対して極度に寛容であるということになる。

立ち小便、万引、少女買春、詐欺行為、犬殺し猫殺し、まあ、それは何でもいい。とにかく特定の違法行為に対して、特定の地域の八〇万人もの人間がおしなべて極度に理解があるという意味のことを言っているのである。

そのように決め附けたことになる。

そのような侮辱的な論旨の文章をわざわざ購読者である県民に向けて掲載する高知新聞の度量というのも見上げたものだと感服するが、これが一歩間違えば八〇万県民に対する故なき誹謗中傷に当たるという認識があるのかどうか是非とも伺いたいところだ。

もし高知県が向後観光立県を目指しているとすれば、タヒチ当局と同じ挙に及ばないとは誰にも保証できないのだし、著しく名誉を毀損された高知県民が不買運動を起こさないとも限らないのだから、高知新聞の公器としての矜持は敬意に値する。

冒頭で掲げたタヒチプレスを訳したブログの存在は先日TBをいただいた春霞さんのブログで識ったのだが、その抄訳にこんな箇所がある。

憤慨した日本人が多くの抗議文を送り、その一部はポリネシアの省庁にも送られてきた。
我々はこのような侮辱を放っておく事はできない。私たちの国は汚され、我々の生命に対する尊厳と経済効果は侵害された。
日本人は我々が反応し訴訟手続きをとる事を期待している。

オレが翻訳エンジンの助けを借りて読んだ限りでも、現地当局がこの一件を問題視したのは、まず第一に坂東眞砂子の一連の発言がタヒチに対する誹謗中傷であるという部分が重視されたようである。これが観光を重要な産業とするタヒチに対する無視出来ない風評流布と見做されたことが、大きな動因となって訴追が決定されたようである。

さらには、現地当局がこの一件を識ったのは、当局に対して日本から多数のメールが送られ、坂東眞砂子の言動や国内の批判意見が紹介されたからで、たとえばまとめサイトの記事を現地当局へ逐一識らせるなど、地道な努力が実を結んだということである。

また、その報告に接して「言語や国境の壁を楯にして現地の与り知らないところで放言の限りを尽くしたこと」に対して「快く彼女を受け容れたわれわれに対する重大な裏切り行為だ」と憤る現地の声も紹介されている。

それはつまり、日本の読者がこの件を抛っておけば、現地当局や現地社会は坂東眞砂子の行為や発言をまったく識り得なかったということで、識らないところで、識られないのをいいことにこのような勝手な言動が為されていたことに対する強固な不快感が現地にはあるということである。

つまり、ネットの議論や通報メールも、与論形成や当局への通報という意味で相応の力があったということで、オレはこの流れこそが本来あるべき姿だと考えている。

坂東眞砂子の違法行為の個別の特殊性というのは、日本の論壇において公言された行為が他国の法律を侵犯したものであるという部分にある。それが他国において法に抵触していなければ、国内論壇において公言された他国における行為が日本国内において違法であることについての言論者としての倫理を巡る多少複雑な問題となる。

たとえば米国在住の日本人ガンジャーナリストが、拳銃の所持・携帯を州法が認めた地域で拳銃を多数所持し、日本国内へ向けてセルフディフェンスの観点から市民の武装を肯定する論旨を主張したとするなら、その主張の是非自体は議論さるべきであるが、言論者としての姿勢には何処も批判の余地はないだろう。

しかし、それが当事国においても違法であるなら、もう少し話は単純なものとなる。たとえば州法が拳銃の所持・携帯を禁ずる地域で同様の行為を行えば、それはただの危険人物であり、日本国内から現地へ通報が殺到してその人物は逮捕されるだろう。

その場合、問題の人物が日本国籍を有していようとも、日本国民として妥当な振る舞いは現地当局への通報という行為のみであり、それを受けて現地当局がどのように判断するかは他国人の干渉するところではない。それは、彼が犯したのは他国の法律だからであって、他国における法の侵犯は当事国が裁くのが筋だからである。

我々日本人が関心を共有しているのは「法の侵犯」という高次の階層の問題であり、法の執行という具体においては、その法が保護しているコミュニティの成員の権利と責任において執行されるのが筋である。

要するに、他国で犯された違法行為は当事国の司法とその行為に対する当事国民の遵法意識において裁かれるのが筋であるということである。しかし、この問題の多少複雑な部分は、当事国において坂東眞砂子は他国人であるという鵺的側面である。

司法の実態論の範疇でいえば、当事国内で犯された違法行為は、それが外国人によるものであろうが当事国の法で裁かれるのが筋であるが、対象となるのが著名な人物である場合には外交上ちょっと面倒な引っ懸かりが出てくる。外交上の引っ懸かりというのは要するに原則論ではなく国と国との具体的な関係性に基づく都合論である。

その人間を逮捕することで他国の感情を著しく害する場合は、非常にデリケートな問題となるのだから、それと引き替えになるような由々しき脅威でもない限り、面倒なことには首を突っ込みたくないという事情もないとは言えないだろう。

だが、今回の場合、坂東眞砂子が国籍を有する日本において、管掌する省庁の主が彼女の行為に対する批判意見を表明し、与論としても批判意見が大多数で当事国による法の執行を要求しているのであるから、たとえば高額納税者を訴追するのは気が進まないというようなお台所事情があったとしても、司法の威信上訴追せざるを得ない。

今回の場合は、タヒチ当局個別の動機として観光産業保護の目的があるわけだが、そのような具体的な都合論はさておき、実態において当事国における違法行為が当事国法によって裁きを受けるわけだから、これ以外の結末はあり得ない。

訴追が決定された以上、あとは事実確認の問題となるわけだし、子猫の常習的殺害の事実が確認されれば具体的な量刑の問題となる。そこは現地司法の見識如何ということになるのだが、最悪、軽微な罰金のみで放免されたとしても、それはそれで納得せざるを得ないだろう。肝心なことは、違法行為として厳正な裁きを受け、それが犯罪行為であることが自他に明確化することである。

坂東眞砂子の立場として、今更子猫の常習的殺害という事実自体を否認することは出来まいし、否認すればいたずらに物笑いの種を播き言論者としての信用がさらに失墜するのみであるから、それはそれで構わない。それも一種の社会的制裁というものである。

違法行為を犯した外国人としては考えにくい想定だが、坂東眞砂子がこのままタヒチに居住し続けるとすれば、現地の動物愛護団体の厳重な監視下に置かれるだろうし、子猫殺しの動かぬ現場を押さえられれば、確信犯的再犯行為としてさらに厳重な処分が待っているだろう。

また、型通り国外退去を要求されたとして、日本国内へ舞い戻るようなら福岡の例の男同様に随分これから生きにくい人生になるだろう。他国へ移転するとしても動物愛護団体の国際ネットワークによって、移転先でも厳しい監視下に置かれるはずだ。比較的開けたタヒチよりももっと辺鄙な未開地にでも行かない限り、彼女の思い通りには行かないだろう。

とまれ、執拗かつ行動的なことでは動物愛護団体の右に出るものはないのだから、法的根拠が出来た以上、坂東眞砂子が反省しようがすまいが、この先子猫を殺し続けることは随分難しくなるはずである。

どのようなものであれ、この問題に関して応罰が実現するためには、現地当局による訴追という要件が欠かせない以上、それが決定されたことは慶賀に値するだろう。

最後に蛇足。週刊女性のアレについては、今更オレがここでくどくどと何かを語るまでもなく、誰が読んでも一瞬で脳内議論が終了してしまうことと思う。この人の論理性の幼稚さがいつも通り発揮されただけで、眩暈がするほどくだらない。

物事の考え方に論理性を欠く人物が公的発話を行うことは危険なのだなぁ、という感慨を覚えるのみである。ここまで裸踊りが続けば、深遠めかしたところで中身はないのだと誰にでもバレてしまうだろうし、他者を痛烈に批判しているつもりなのだろうが、その実は苦笑混じりに生温くヲチされているだけと早く気附けばよいのに、と哀れすら催してくる。

それよりもっと大きな意味は、多分この形式の文章であれば、取材に対する文書での回答の域を大きく超えているので、間違いなく「作品」として原稿料が発生するだろうということである。これまでの弁明にも取材に対する「謝礼」が生じていたのかもしれないが、今回の記事には正面切って「依頼原稿」としての性格が視られるのだ。

ここまで一応、公平な義理合いとして坂東眞砂子本人の弁明にも附き合ってきたわけだが、ここまでの弁明で坂東眞砂子の心底も見えたように思うし、この先はわざわざ身銭を切ってこんな駄文に附き合うのはやめようと思う。最初に明言した通り、坂東眞砂子の優雅なタヒチライフに益するのは一切御免被りたいからね。

パペエテへのガソリン代や、水汲みの重労働を代行する水道料金、駄文で他人を痍附けるための通信費、大好きな鶏料理のスパイス代やガス料金(材料費はタダらしいので)にオレの金が一円でも使われるかと思うと、吐き気がするほど不愉快だから

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