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2006年9月20日 (水曜日)

不思議な人種

物書きというのは不思議な人種である。

今まで坂東眞砂子の博い意味での同業者の動向を見守ってきたが、その姿勢にはかなり強い疑問をひとしなみに感じた。今また産経新聞紙上における西部邁の論評を目にしたところであるが、この人は基本的に坂東眞砂子自身の弁明や他の文筆家の批判・擁護意見は疎か、大本となったコラムの原文すら一切読んでいないことは明らかであり、前段でそれを公言さえしている。

呉智英に触れたエントリーでも疑義を表したが、何故この種の言論人はきちんと前提を共有することもせずに思い附きのフィーリングで意見を言うのだろうか。それが毒にも薬にもならない誰かの日常に纏わる随想の類ならともかく、かなり大勢の人間が関心を寄せている問題に対して、おそらく担当編集者から掻い摘んだ状況説明を受けただけで名前を出して無責任な意見を言える弛緩せる言論姿勢が理解出来ない。

坂東眞砂子の所行に深刻なショックを受け、己が自身の問題性と受け取って発言した幾人かを除いて、この問題に言及した言論人は真剣味を欠く面白半分のスタンスで臨むばかりで、お猫様の殺害を天下の一大事と右往左往する愛猫家をからかってみせれば自身の見識が保証されるとでも思っているかのようである。

また、物書きという人種にとって、この一件における最重要事項は猫殺しでも動物愛護でもなく、前回陳べたような言論の自由を保証する根拠に纏わる違法性の問題だろうと思うのだが、未だかつてそれに触れた意見を目にしたことがない。

これまですべての物書きは、降って湧いたように落下傘方式で現れて、先行する議論と何ら前提を共有することなく旧態然とした「動物愛護家に対する嘲弄」の域を一歩も出ない雑駁なコメンタリーを寄せるのみで、坂東眞砂子の行為が言論の自由に対する深甚な脅威であることには何ら関心を持っていない。

まあ、坂東眞砂子も東野圭吾も中島梓も小説家だし、小説家というのは基本的に公的な場面における言論表明には向かない人種である。その意味では、小説家が見識を買われ社会的な問題にコメンタリーして恥をかいた事例には事欠かないのだから、ある意味では今回の一件も「小説家がまた無理して言論人ぶってやらかした」と視ることも出来なくはないだろう。

呉智英に至っては出来の悪い詭弁家だから、要するにこれも一種の裸踊りとして微笑ましく見守ればいい部類のファースでしかないという言い方も出来るだろう。しかし、西部邁といえば、その言論の内容については兎角の議論はあれども、正面切って言論が表看板の硬骨の人である。社会が関心を抱いている事柄に対して公に物を言うことで飯を喰っている人間である。

その人にしてこの体たらくなのか。

ひょっとして、この国の言論人はもうダメなのかもしれない。

言論の自由を有史以前から人類が獲得している無前提の権利とでも解して、先人の犠牲をまったく顧みないなら、こんな連中の語る言論には紙屑ほどの価値もない。もしも西部邁が小林多喜二にでも言及したら、思う様嗤ってやるがいい。多分彼はその人物が誰であり、どのように生きどのように死んだかなど一切識らないのである。

つくづく物書きというのは不思議な人種である。

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